ビッカースC型中戦車

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ビッカースC型中戦車
Vickers Medium Tank.jpg
性能諸元
全長 5.5 m
全幅 2.5 m
全高 2.4 m
重量 11.5 t
速度 32 km/h(路上)
行動距離 200 km(路上)
主砲 6ポンド(57 mm)戦車砲×1
副武装 ヴィッカース .303(7.7 mm) 機関銃×4
装甲 5-6 mm
エンジン サンビーム水冷直列6気筒ガソリン
130 hp
乗員 5 名
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ビッカースC型中戦車(ビッカースCがたちゅうせんしゃ、Vickers Medium Tank Mk.C、ヴィッカースC型中戦車)は戦間期1926年イギリスヴィカーズ(Vickers)社が開発した戦車である。

概要[編集]

当時のイギリス陸軍の主力であったヴィッカース Mk.II軽戦車(後に中戦車に再分類。1928年に、より小型軽量な、カーデン・ロイド豆戦車系列の発展型である「ヴィッカース・アームストロングMk.I軽戦車」(カーデン・ロイド Mk.I豆戦車 のことではない)が採用されたので、中戦車に格上げされた)の改良発展型で、最新鋭の優れた戦車だったが、当のイギリス陸軍には採用されず(イギリス陸軍は同時期の1926年9月にヴィッカース社にMk.III 中戦車(A6)の開発を要求している)、試作車2輌が生産されたのみで終わった。試作車は日本アイルランドへそれぞれ1輌ずつ売却され、輸出された。

Vickersの綴りの英語読みの発音はカタカナ表記では「ヴィカーズ」に近いが、日本では「ヴィッカース」、「ヴィッカーズ」、「ビッカース」、「ビッカーズ」の表記がよく用いられている。また本車は日本との馴染みが深く、日本陸軍ではビ式、毘式(ビッカース式)という表記が慣例的に使われていたため、ここでは項目の表題を「ビッカース」とする(そうしなければならない決まりはない)。

以下の記述では本車をMk.C(マークC)と略して表記する。

設計[編集]

Mk.Cは車体の向きがそれまでのヴィッカース中戦車 Mk.I/Mk.IIとは、足回りを除いて前後逆になっていた。 つまりエンジンと戦闘室の配置が前後逆になっている。

Mk.I/Mk.IIはエンジンが車体前方左側配置だがMk.Cは車体後方右側配置。起動輪(スプロケットホイール)はどれも後方にある。 Mk.I/Mk.IIは戦闘室が後方配置だが、Mk.Cは前方配置。 Mk.I/Mk.IIは搭乗用扉が車体後面にあるが、Mk.Cは車体前面右側にあった。

消音器マフラー)は機関室右側面のフェンダー上に細長い物が1つ配置されていた。

主砲はMk.I/Mk.IIは3ポンド(47 mm)砲、Mk.Cはより大口径の6ポンド(57 mm)砲を装備していた。日本ではMk.Cの57 mm砲は毘式戦車砲と呼ばれる。なお毘式戦車砲と八九式軽戦車の「九〇式五糎七戦車砲」は、直接的には関係は無い。九〇式戦車砲は試製一号戦車の「試製五糎七戦車砲」を改良した物であり、試製五糎七戦車砲は日本の独自開発である。

ただ毘式戦車砲、試製五糎七戦車砲、どちらも、57mmという口径は、オチキス社の海軍用6ポンド速射砲を起源とし、第一次世界大戦時のマーク I 戦車以来の世界(イギリス・フランス・ドイツ・ロシア)の戦車におけるデファクトスタンダードであるが故に採用された物である。

Mk.Cは水冷式のヴィッカース .303(7.7 mm)重機関銃を車体前面左側、車体両側面、砲塔後部の計4丁装備していた。砲塔後部に機関銃(この主砲とは反対側に配置した機関銃を日本陸軍では「砲塔銃」と呼称する)を配置する「かんざし式砲塔」は、以後の日本戦車の特徴として一式中戦車まで受け継がれる。この「砲塔銃」の目的は、予備の火器としての意味の他、後方など不意な方向から襲ってきた敵歩兵に対処するため(これには四方八方に撃ちまくる多砲塔戦車の簡易的な代わりの意味合いがある)や、主砲を後方に向けて「砲塔銃」を車体機関銃と合わせて、前方に機関銃火力を集中するためとも、されている。実際に戦場では状況に合わせてどちらの運用もされていたようである。

車体構造は、フレームに5~6mm厚の装甲板を鋲接して製造された。

Mk.Cの操縦手席は車体前方中央にあり、車体前面中央に操縦手フードが突出していた。車体前面中央上部には操縦手用の上開き式の視察扉があった。

車体下部側面には装甲板があり、リーフ式サスペンションを守る役目の他、誘導輪(アイドラーホイール)と起動輪を挟み込むように支えていた。上部支持輪(リターン・ローラー)とフェンダーは装甲板から伸びる支持架で支えられていた。

転輪(片側)は小型の物が13個(4個で1組が3組、最前部の1個は衝撃緩衝用に独立した制衝転輪)、上部支持輪(片側)は5個あった。八九式軽戦車にも受け継がれる、小転輪を多数並べる方式は、第一次世界大戦時のマーク I 戦車、さらに遡れば、戦車の祖であるホルト社(現キャタピラー社)製トラクターに行き当たる。

車体前部左右に大型の前照灯が2個あった。

運用[編集]

日本陸軍は、1926年(大正15年)7月に戦車開発の研究参考用にMk.Cを正式発注し、日本側からの改修要望を受諾の上、1927年(昭和2年)3月(試製1号戦車の完成の1ヶ月後)に輸入し、基本形はほぼそのままで八九式軽戦車の原型とした。しかし八九式軽戦車はMk.Cの丸々のコピーなどではけっしてなく、八九式軽戦車は言わば、「多砲塔戦車である試製一号戦車の車体前後の銃塔部分を切り落として操縦席と機銃手席を設けたような車体に、Mk.Cの転輪4個1組を減らしたような足回りを取り付けたような外観」をしている。

1925年(大正14年)に欧米に派遣された緒方勝一中将の戦車購買団は当初、ヴィッカース Mk.I軽戦車(後に中戦車に再分類)を望んでいたが、イギリス陸軍の制式戦車であったためにイギリス政府の輸出許可が下りなかったので(生産能力が輸出に回す余裕が無かったともされる)、フランスから提案された中古のルノー FT-17 軽戦車の本格採用を検討したことや、旧式のFTを導入するよりも戦車の国産開発を決定したことなど、紆余曲折の末に、代わりにイギリス陸軍が採用しなかったMk.Cを輸入することになったという経緯があった。

日本での輸入後の予備試験中に、Mk.Cはエンジンから漏れた気化ガソリンに引火し、火災事故を起こしている。この事故でヴィッカース社から派遣されていた技師2名が火傷を負った。当時は工作精度やパッキンの問題から、パイプの継ぎ目などエンジンから気化燃料が漏れるのは当たり前のことであった。このことが「戦闘車輌にガソリンエンジンは危険である」という認識を生み、後に開発される日本戦車にディーゼルエンジンが採用された原因の1つとなっている(他には、燃費の良さや、国策としてガソリンの輸入を節約するため、被弾時に燃焼しないので(燃焼すると装甲が変質して駄目になる)、後から車輌を回収して再生して戦力として復帰させるのが容易だから、などの理由がある)。

焼損したMk.Cは三菱内燃機名古屋製作所芝浦分工場(1920年(大正9年)に、三菱重工業の前身である三菱造船の自動車販売部門である「大手商会」の芝浦工場として発足し、1922年(大正11年)に 三菱内燃機が芝浦工場を買収し、三菱内燃機名古屋製作所芝浦分工場となる)に持ち込まれ、三ヶ月掛けて修理された。こうした実績を陸軍に買われ、三菱は八九式軽戦車を始めとする日本の戦車の生産に携わるようになった。

Mk.Cの故障中に日本初の国産戦車である試製一号戦車が、1927年6月の走行試験において高い評価を受けることになった。

本車は1918年から1919年にかけて作られたマーク C ホーネット中戦車Medium Mark C Hornet)と間違われることがあるが全くの別物である。マーク C ホーネット中戦車はマーク I 戦車系列のような菱形戦車である。

アイルランドのMk.D[編集]

アイルランドがイギリスから輸入した戦車はMk.Cではなく、Mk.D(ヴィッカースD型中戦車、Vickers Medium Tank Mk.D)とする説がある。Mk.DはMk.Cの砲塔に車長用キューポラを取り付けただけで、両車にほとんど違いは無い。

アイルランド陸軍は大規模な機甲部隊を創設する計画は無かったが、戦車を研究する必要は認め、アイルランド陸軍幹部の教育訓練用に1輌輸入したとされる。

製造はシェフィールドにあるヴィッカース・アームストロング社ドン川工場にて行われた。

1940年まで軍に残されていたが、対戦車射撃試験で車体は標的として破壊され、スクラップとなり、砲塔ははずされ、トーチカに転用された。

今でもこの砲塔はアイルランド最初の戦車の遺物として遺されている。

外部リンク[編集]