カーデン・ロイド豆戦車

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カーデン・ロイド Mk.VI
3.7inchHowitzerTowedByCarden-LoydMortarCarrier1929-2.jpg
3.7インチ榴弾砲を牽引するカーデン・ロイド Mk.VI
基礎データ
全長 2.46m
全幅 1.75m
全高 1.22m
重量 1.5t
乗員数 2名
装甲・武装
装甲 6-9mm
主武装 ビッカース7.7mm重機関銃
機動力
速度 40km/h
エンジン フォード社製T型4気筒
ガソリン
40hp
行動距離 144km
データの出典 Wikipedia英語版
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カーデン・ロイド豆戦車(カーデン・ロイドまめせんしゃ、Carden-Loyd tankette)は、イギリス第二次世界大戦前の豆戦車で、戦間期に開発された。機関銃を装備したトラクターや牽引車と言うもので、軽戦車に満たないものであった。いくつかの国でライセンス生産され、それを元に様々な型のものが派生した。

開発[編集]

より大きな戦車の「斥候」などとして活動できるような、ごく小型で速度重視の装軌車両の構想は、第一次世界大戦終結直後からあった。

また、イギリス陸軍は、A1E1 インディペンデント重戦車のような多砲塔戦車の研究を進めており、当然ながら大型で高価な戦車となる。そうした中、ハイ・ローミックスのローを担う、あるいは多砲塔戦車を戦艦に喩えて(そもそもイギリスにおける戦車開発は、陸上軍艦:Landshipを出発点としている)、これに随伴する巡洋艦駆逐艦的な存在としての小型戦車のニーズが生まれた。

そうしたなか、イギリス陸軍少佐(後の中将)サー・ギフォード・Q・マーテルは、個人的に、自宅ガレージで自動車部品などの様々な廃品から1人乗りの小さな戦車を作り上げた。このモーリス・マーテル豆戦車(Morris-Martel Tankette)は中古のマクスウェル社エンジンやフォード・トラックの車軸などを流用したもので、特別に作られたのはロードレス・トラクション社による履帯だけだった。自動車のステアリングと幅広の履帯をそなえたハーフトラック形式だが、一般のハーフトラックと違い、履帯が前側、車輪が後ろ側だった。操縦士の肩と頭部はむき出しで上部構造も木製のままだった。

1925年にお披露目されたこの1人乗りの車両は「歩兵を機械化する」手段としてリデル・ハートを含む人々の注目を浴び、兵器局もその改良型の生産を認めた。改良型はモーリス社の手により1926年3月に最初の車輌が完成した。2tあまりの車体に16馬力のモーリス製エンジンを積んだ車輌で4輌が製作された。この内、3輌が1人乗りで、1輌が2人乗りであった[1]。1人乗りのタイプは、操縦と射撃を同時に行うことができない点が問題となって後に放棄されることとなる。

こうした流れの一方で、同じく歩兵機械化の課題に取り組んでいたのが、ロンドンでパートナーのヴィヴィアン・ロイドとともに車両設計のガレージメーカーを開いていたサー・ジョン・カーデンであった。カーデン設計の豆戦車は、当時、多数生産されており安価に入手・整備が可能であったフォード・モデルTのエンジンを用いたものだった。カーデンは兵器局に自らのデザインを売り込み、その結果、1926年末にはカーデン・ロイドとモーリス・マーテルの両者8輌ずつが「タンケッティ(豆戦車)」の名の下に新たに作られて、ともに実験機械化部隊で試された。

試験運用ではモーリス・マーテルの車両の優秀性が指摘されたものの、この時点でモーリス社は商用車などの生産に注力するため手を引くことになった。マーテルはその後クロスレイ・モーターズと組み、シトロエン・ケグレス方式のサスペンションとゴム製履帯を持つ(しかしやはり後方車輪式の)ハーフトラック形式のクロスレイ・マーテル豆戦車を製作したが、後方配置のエンジンが砂塵を吸い込むこと、サスペンションの過負荷などから、それ以上の開発は行われなかった。

その結果この種の車両としては、カーデン・ロイドが残ることになった。ただし、その後の機械化部隊での試験に基づき、インディペンデント重戦車の装備化は実行されず、随伴する小型戦車は不要となった。また、もともと構想されていた斥候・偵察任務は、より車格の大きな軽戦車に割り振られることになり、カーデン・ロイドの車両は「マシンガン・キャリア(機銃運搬車)」と位置付けられることになる。しかし、その後も輸出向けには、豆戦車の名は使われた。

こうした試験的運用の中で、カーデン・ロイドの車両自体も試行錯誤を重ね、1928年、集大成とも言えるカーデン・ロイドMk.VIが誕生した。それまでのカーデン・ロイドの車両は、装軌式と、装輪・装軌切り替え式が並行して試されていたが、Mk.VIでは結局、装軌式のみに落ちついた。Mk.VIは偵察車両と機関銃運搬車として、カーデン・ロイド豆戦車シリーズにおける最終発展形態となり、様々な派生型が誕生した。

しかし偵察任務にも、機関銃運搬や砲・物資の牽引用としても、この車格は小さすぎ、この後、ヴィッカース・カーデン・ロイドの開発は、砲塔(銃塔)を持つ軽戦車系列と、積載量や牽引量を増したキャリア系列の2種に分岐することになる。

生産[編集]

生産は1927年から1935年まで行われた。1928年にカーデン・ロイド社はヴィッカース・アームストロング社に吸収され、Mk.VIの生産はヴィッカース社で行われた。1933年から1935年までの生産はロイヤルオードナンス社(Royal Ordnance)が行った。

イギリス軍は325輌のMk.VIを使用していた(別のデータでは348輌)。機関銃運搬車をベースに、砲牽引車、煙幕車、補給車、小型牽引車など様々な用途に用いられた。

バリエーション[編集]

  • Mk.I
  • Mk.I*
  • Mk.II
  • Mk.III
  • Mk.IV
  • Mk.V
  • Mk.VI

各国での運用・生産[編集]

第一次世界大戦によって登場した"新兵器"である戦車は、当然ながら各国陸軍の垂涎の的であった。しかしながら高価な戦車を多数装備できる国は少なかった。カーデン・ロイド豆戦車は低コストであったことから、戦車を欲する各国のニーズに合致し、多数が輸出され、400輌以上が輸出されたベストセラーとなった。

イタリア
CV-33
何輌かのMk.VIを購入し、後にC.V.29(C.V.=カルロ・ヴェローチェ〔快速戦車、イタリア語: Carro Veloce〕)の名称で21輌のライセンス生産を行った。これはその後、フィアットおよびアンサルドにより、より大型で完全密閉式の戦闘室を持つ発展型、豆戦車L3シリーズの開発へと繋がった。初期のC.V.33(L3/33)、溶接をリベット接合に変更し堅牢さを犠牲にして生産性を向上させたC.V.35(L3/35)、足回りを改良したC.V.38(L3/38)を合わせ2,000輌以上が生産され、イタリア陸軍で使用されたほか、オーストリアブルガリア中華民国ハンガリー王国ブラジルクロアチア独立国アルバニアアフガニスタンにも輸出された。
フランス
ルノーが、ルノー製4気筒エンジンをそなえた発展型を、タイプUEとして生産した。豆戦車やマシンガン・キャリアーではなく、武装は持たない装甲牽引車で、外観上は、乗員の頭を保護する二つの半球状のハッチが特徴である。車体の後部に660kgを積む小さなダンプ荷台をそなえ、乗員が車外に出ることなく物資を投下することができた。このほかに積載量500kgの装軌式トレーラーを牽引する。主に歩兵部隊のオチキス 25mm対戦車砲の牽引用に用いられた。UEおよび小改良型のUE2は1931年から1940年までに5,200輌が製造され、カーデンロイド発展型の中では最大の生産台数となった。また、ルーマニアではライセンス生産も行われ、東部戦線で使用された。ドイツ軍に接収された車両は、第二次世界大戦を通して使われた。
オランダ
5輌のMk.VIを保有、これは1940年のドイツの侵攻当時、オランダ本国陸軍が装備するほぼ唯一の装軌式AFVだった。
ポーランド
1929年に、10輌もしくは11輌のMk.VIをライセンスと共に購入し、それを元に独自に改良を行い、TK豆戦車シリーズを開発。TKシリーズは約600輌が生産され、1939年のポーランド戦で使用された。
チェコスロバキア
1930年に3輌のMk.VIをライセンスと共に購入し、その設計を向上させ、プラハのČKD製造所で74輌のvz.33豆戦車を製造した。
ソビエト連邦
20輌のMk.VI(ロシアではK-25と呼ばれた)をライセンスと共に購入した。しかし、最終的な開発計画は徐々に近代化され、ライセンスは失われた。その代わりにレニングラードにある「ヴォルシェヴィキ」製造所がイギリスの設計を小改良したT-27豆戦車の製造を開始した。合計で3,228輌のT-27が1931年から1933年の間製造された。
中華民国
18輌のMk.VIが輸入され、1929年、これを装備する陸軍教導第一師戦車隊が南京で編成された。
日本
陸軍が1930年(昭和5年)にMk.VIを輸入し、翌年3月から様々なテストを行い、カーデン・ロイドとは異なる九四式軽装甲車を独自に開発した。海軍陸戦隊は6輌のMk.VIbを購入して「カ式機銃車」と名付けて運用した。
タイ
1930年にMk.VIを30輌、1935年にMk.VI*を30輌輸入。
ボリビア
2輌のMk.VIbを受け取りチャコ戦争で使用した。

さらに、この豆戦車は、カナダインドチリポルトガルにも供給された。

脚注[編集]

  1. ^ 1人乗り2輌、2人乗り2輌とする資料もある。

参考文献[編集]

  • Peter Chamberlain, Chris Ellis, PICTORIAL HISTORY OF TANKS OF THE WORLD 1915-45, Arms and armour press, London 1972
  • David Fletcher, MECHANISED FORCE, HMSO, London 1991
  • Christopher Foss, Peter McKenzie, THE VICKERS TANKS, Patrick Stephens Ltd., 1988
  • 滕昕雲、「抗戰時期國軍 機械化/装甲部隊畫史 1929-1945 中國戰區之部」、老戰友工作室/軍事文粹部、台北縣板橋市

関連項目[編集]