試製一号戦車

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試製一号戦車
性能諸元
全長 6.03 m[1]
車体長 m
全幅 2.4 m[1]
全高 2.78 m[1]
重量 18.0 t[1]
懸架方式 弓形板ばね方式[2]
速度 20.0 km/h[1]
行動距離 不明、(設計時目標は航続約10時間[3])
主砲 57 mm戦車砲×1[4]
副武装機関銃×2[4]
装甲 6〜17 mm[1][5]
エンジン 液冷V型8気筒ガソリンエンジン[4]
140馬力[4]
乗員 5名[4]
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試製一号戦車(しせいいちごうせんしゃ)は、大日本帝国陸軍によって1927年(昭和2年)に開発された戦車。日本が独自に開発したの戦車である。

前史[編集]

千葉県・陸軍歩兵学校におけるMk.IV 雌型 戦車。車体側面のスポンソンが小さいのが雌型の特徴。武装はルイス軽機関銃だが、画像では外されている。

第一次世界大戦において投入された戦車につき、日本陸軍は観戦武官を通じて情報を入手していた。同大戦は機械化と新兵器により大きな戦略的・戦術的転換を見せており、この変化は日露戦争から軍備や編成教義にさしたる変化のなかった日本陸軍にとって強い危惧を抱かせるものであった[6]

戦車の購入は1917年(大正6年)には検討され、日本陸軍軍用自動車調査委員会は委員で輜重兵大尉の水谷吉蔵を欧州に派遣し、イギリスからMK.IV 雌型 戦車が1輌輸入された。この戦車は戦争終結の直前(1918年10月24日)には横浜港に入っている[6]。その2か月前の1918年(大正7年)8月には、フランス大使館付武官とイギリス大使館付武官によってルノー FT-17 軽戦車マーク A ホイペット中戦車が購入された。

1919年(大正8年)、先のフランス製ルノー FT-17 軽戦車やイギリス製マーク A ホイペット中戦車が輸入された。先のMK.IVと合わせて軽・中・重の三種の戦車が日本に揃い、1920年(大正9年)頃から戦車の研究が開始された。また日本陸軍の将校団においても戦車の運用と編成、教義について議論が展開され、一定の関心が向けられるに至った[7]

1925年(大正14年)には、軍事費を維持したまま師団数を削減して軍の近代化を図る、宇垣軍縮が行われ、4個師団を削減する代わりに、同年5月1日に、福岡久留米に「第1戦車隊」(重戦車(機関銃装備)×1、軽戦車(軽砲装備)×1、軽戦車(機関銃装備)×3)が、千葉陸軍歩兵学校に「歩兵学校戦車隊」(教導隊戦車隊。重戦車(機関銃装備)×3、軽戦車(軽砲装備)×1、軽戦車(機関銃装備)×1)が、同時編成された。

重戦車はマーク A ホイペット中戦車、軽戦車はルノー FT-17 軽戦車。軽砲は改造37 mm狙撃砲、機関銃は改造三年式6.5 mm重機関銃[8]

  • 重戦車は英国製中型戦車を、軽戦車はルノーを充てる。
  • 第一戦車隊の重戦車1は特別支給とする。(命数限)
  • 両隊にルノー及び英国製中型戦車、各1を銃砲を解除して支給し、残りは逐次修理して且つ銃砲を装備した上で支給する。
  • 戦車用軽砲には同数の狙撃砲及び同弾薬箱を充当する。
  • 戦車用機関銃には同数の三年式機関銃、同弾薬箱及び器具箱を充当する他、三八式機関銃空砲用、各3を支給する。
  • (イ)重戦車には三年式機関銃を戦車用に改造したものを4装備する。
  • (ロ)軽戦車には狙撃砲を戦車用に改造したもの1又は三年式機関銃を同様に改造したもの1を装備する。

しかし、その後の発達は遅れ、満州事変が起こる1931年(昭和6年)まで、2個戦車隊のままであった。なお、1933年(昭和8年)8月に、「歩兵学校戦車隊」と「戦車第1大隊」は、それぞれ「戦車第2連隊」(第1師団に所属)と「戦車第1連隊」(第12師団に所属)に改編され、最初の戦車連隊となった。

また、陸軍は「戦時編成」を改正し、有事の際には軽戦車3ヶ大隊(190両)、重戦車1ヶ大隊(30両)を必要とした。ただ、当時の日本には先の2個戦車隊しかないという状況で、このギャップを如何に埋めるかが課題となった。少数の旧式なルノー FT-17 軽戦車やマーク A ホイペット中戦車では訓練や戦車戦術の研究さえ、ままならない状況であった。

開発[編集]

大正末期の不況のなか、日本陸軍は長い年月と莫大な資金を必要とする戦車の自主開発を望まず、手っ取り早く海外から輸入する方針を立てた。日本の工業的な技術水準および戦車を揃えるために長期間を要したことも、海外からの導入を決断させた要因となっている[9]

導入が検討されたルノーFT軽戦車

陸軍省は大正14年(1925年)2月から、陸軍科学研究所長である緒方勝一少将(5月から中将)を団長とする代表団を軍事視察と戦車購入のために欧米に派遣していた。緒方購買団はアメリカでジョン・W・クリスティーと接触し、彼の設計した戦車を検討した。またイギリスのヴィッカース社、フランスとも交渉したがいずれも最新型の戦車の購入交渉は失敗した。クリスティーの戦車は実績に乏しく不安があったこと[注釈 1]、イギリスでは自軍の配備を優先し、生産に余裕がなかったこと、フランスでは新型戦車そのものが未だ開発途上であった[10][11]。したがって新型戦車の導入は困難であったが、中古のルノーFT軽戦車については在庫が充分なことから購入が可能だった。

しかし購入交渉の判断に関して意見を求められた陸軍技術本部は、こうした技術的に陳腐化した戦車の導入に強い反対の意を表し、鈴木孝雄技術本部長は強く国産戦車の開発を要望した[9]。背景として技術本部ではこの段階で国産戦車の研究を進めており、設計案を練っていたこと、また車輌開発の実績として1924年(大正13年)に三屯牽引車を作り上げていたことが挙げられる。

この意見は上層部に受け入れられ、陸軍大臣から次期戦車の国産化が許可されたが、一つ条件があった。それは開発費用を翌年の大正15年度の予算で計上したため、年度末の大正16年3月31日(実際には年号が変わって昭和2年)までに開発できなければ予算を返上しなければならなかった。与えられた期限はわずか22か月であった[12]

設計[編集]

技術本部は戦車の国産化についてある程度の見通しと自信を持っていたが、技術本部がこれまでに作った車輌は三屯牽引車と時速24 km/hの四屯自動貨車のみであった。また、当時の国内自動車産業は極めて小規模かつ脆弱で技術力も低く、国内に自動車の大型部品を切削加工する工作機械を保有する工場も少なかったことも問題であった[13]

技術本部車輌班には原乙未生(はら とみお)大尉、以下16名の人員が在籍し、戦車の設計にあたった。車輌班は1925年(大正14年)2月より仕様をまとめ、6月に設計を開始、翌年5月には早くも実物模型を作るに至った。発注先には当時の脆弱な国内自動車産業でなく、官営の陸軍造兵廠大阪工廠が選ばれた[14]。既存の技術的蓄積が乏しいかまたは存在しないために、ボルト・ナットといった基礎的な部品からも正確な設計が行われ、設計図は総数が一万枚を超えた[14]。さらに戦車製造には従来の自動車製造用の旋盤、フライス盤は使用できず、新規に工作機械を製造・調達しつつ作業が進められた。この部品調達と組立、指導にも非常な労力が払われた[15]

戦車設計に際し、車輌班の戦車に対する意識が観察できる。1925年(大正14年)3月時点での仕様には、陣地攻撃用の16 t戦車であること[16]、運動戦に対応できることが挙げられた。そこで速度は良道上で20 km/h、路外では400 m毎分、10時間航続可能で、超壕幅は標準2.5 mとされている。また近距離で掩蓋機関銃座を破壊するため、57 mm砲および銃塔に装備した重機関銃を選択している。弾薬は砲弾50発、銃弾2,500発の搭載を目標とした。装甲は37 mm砲弾と小銃弾に抗堪するため主要部が16 mm、側面が10 mmから8 mmと想定された[9]

1926年(大正15年)4月付けで製作された上申書の仕様を要約すれば以下の通りである[17]

  • 57 mm砲と重機関銃2挺を装備し相当な攻撃力を持つこと、運動性が軽快であること
  • 全重約12 t、全長約6 m、内地鉄道輸送に支障のない寸度。搭乗員5名。
  • 装甲は、主要部が500 mから600 mからの37 mm平射歩兵砲、狙撃砲の斜射に耐えること
  • 機関出力120馬力、最大速度25 km/h。熱帯地での使用を考慮すること

さらに詳細な仕様が決定された[18]

  • 回転砲塔を中央、回転銃塔を前後に配置し、全砲火が前後方を除いて集中できること[19]
  • 車体内部は運転室、戦闘室、機関室、後室に分割され、各部は隔板で分離されていること。交通用に前後を通じる通路が設けられていること。砲塔上部に回転展望窓を装備すること
  • 機関はV型8気筒120馬力とすること
  • 変速装置は2段変速式、前進6段、後退2段が選択できること。速度は2 km/hから最大25 km/h
  • 操向装置は遊星式歯車装置を装備した定比変速機を用い、信地旋回ができること。旋回半径は7 m 50 cm
  • 懸架装置は平行四辺形型のリーフスプリングサスペンションを使用し、不整地の大速度に対応できること。履帯の上部を車体袖部で防護すること。無限軌道は特殊鋼を使用し大速度に耐えること
  • 装甲板は本車に限り普通鋼板を用い、装甲板の材質は別途研究すること

以前から大砲など大型の機材を扱ってきた大阪造兵廠にとっても戦車製造は初めてであった。鋼板供給は神戸製鋼所、車体組立は汽車製造株式会社が担当したほか、阪神地区の民間工場が動員された。これら関連企業との協力の下で製作が進められた[18][14]

試製一号戦車

戦車の開発に際する問題の一つはエンジンの設計であったが、本車には1923年(大正12年)に開発されたV型8気筒ガソリンエンジンを車体中央に搭載した。文献によりこのエンジンは空冷とも水冷ともされる[4]。一説には、このエンジンは3年前に技術本部火砲班が大阪造兵廠で自走砲を試作した際に作られて、工場の隅に放置されていた物を、そのまま試製一号戦車に流用したとされる[20]。別の説では、試製一号戦車用に新たにエンジンを設計したともされるが、時間的制約の厳しい中で、車体とエンジンを同時並行で開発するのは、無理が大きいと考えられる。

技術本部車輌班および試作車製造の諸関連企業は残業を重ね、非常な苦心と努力の末、試作車は1927年(昭和2年)2月に完成した。これは3月に迫った期限のほぼ一杯であった[14]

構造[編集]

本車は全装軌式の多砲塔戦車である。車体前部、車体後方から見て左側に銃塔が設けられ、この内部に重機関銃が1挺装備された。この右側は操縦手が搭乗する運転室となっている。この後方は1段高められ、上面に全周旋回可能な砲塔が装備された。戦車砲は掩蓋機銃座を破壊するために57 mm砲が1門装備されている。この砲は1926年(大正15年)3月に開発開始され、同年10月に完成した。こののち改修を行い、1927年(昭和2年)7月に車輌へ搭載し射撃試験を実施した。こののち本砲は九〇式五糎七戦車砲として制式採用された。砲塔の後方は緩く斜めに低められており、機関室となっている。機関室後方には銃塔が設けられ、重機関銃が1挺装備された[21]

機関からの動力は遊星歯車装置を内蔵した操向変速機によって配分・制御される。この機構は原乙未生中将が考案し、定半径の旋回、信地旋回、非常減速、主ブレーキの機能を持っていた。クラッチ・ブレーキ式に比較して動力のロスが少なく、以後、日本の戦闘車輌の標準装備となった[2]。本車の旋回半径は4.6 m、また片側の履帯のみを動かして信地旋回が可能だった[2]

装軌部分は総計64個(複列式での数。一つの複列を一個と数えるなら、両側32個、片側18個)の小転輪(前後の制衝転輪の数は含まず)を多数並べる方式である[22]。車体前方にスプロケットつきの誘導輪を設け、後方に起動輪が装備された[4]。装軌部分の外形は、大型の緩衝装置を組み込んで大きく車体側面を覆うものである。緩衝装置は弓形板ばねを平行四辺形に組み、両端には独自に上下へ可動する支持架(連桿)をつけ、これに小転輪を接続した。この機構は二重に作動して衝撃を緩和した[2]

戦車用防弾鋼板の技術不足から装甲は軟鋼製だった。この当時は日本でも列強でも溶接技術が発達しておらず、装甲の接合には全面的にリベットが用いられた。

試験[編集]

展覧される試製一号戦車

完成から3か月後の6月21日、富士でデモンストレーションが行われた。陸軍技術本部内での予備テストを行わない状況での供覧試験であった。本車は大阪から列車で輸送された後、御殿場駅〜板妻兵舎までの約8 kmを軍関係者、一般市民が見つめる中、無事走り抜けた。故障を起こさず、道路を通常に走り続ける、ということも当時の戦車の機動性と信頼性では難しいものであり、見学者のあいだでは初めての国産戦車が動くかどうかも危ぶまれる状況であった[23]

続いて富士演習場で運航試験が行われ、3分の2の急傾斜を容易に踏破、堤防と塹壕の超越を予定通りこなした。英仏の戦車よりも格段の踏破性を示し、射撃するための安定性は良好であった。また操作が軽快であった[23]。原乙未生は回想において「……中型戦車の14 kmを見慣れた目には、18トンの巨体が20 kmをもって地響きをたてて驀進する有様は壮観そのものであって、国防に大威力を加えた信頼感が持たれた」と記述した[23]

この成功を受け、陸軍も戦車の国産開発のための研究続行を決定した。

陸軍にとって全く前例が無く、また時間との戦いの中作られた本車は非常に優秀だった。ただひとつ問題があったのは陸軍の要求で12 t、また設計段階で16 tを予定していた車体重量が各部の補強などのため18 tになってしまい、最高速度が20 km/h(陸軍の要求は25 km/h)になってしまったことであった[23]。当時、ソ連を仮想敵国とし、広大な中国での戦車の運用を考えていた陸軍にとって、これは問題と考えられた。故に本車は貴重な国産戦車開発経験の蓄積に繋がったものの制式化には至らず、国産初の制式戦車は、2年後の1929年(昭和4年)に仮制式化された八九式軽戦車の登場を待たねばならなかった[24]

派生型[編集]

改修(改造)された試製一号戦車

試製一号戦車を基に、大阪工廠において改修(改造)型が作られ、1930年(昭和5年)4月に完成した。この車輌は、砲塔銃(かんざし式機関銃)を追加し、足周りを一新して操縦性を改善し、エンジンを150馬力に強化、車体を16トンに軽量化[注釈 2]するなど、各種改善を加えられているものの、採用はされなかった。さらに本車の改良型に試製九一式重戦車(試製二号戦車)がある[5]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 各国が採用を躊躇した理由の一つに、クリスティーが生産設備を持っていなかったという理由もある。採用する場合は、ソ連のように、各国独自に生産設備建設に莫大な初期投資をしなくてはならない。また日本の場合は、この時にはまだ、クリスティー式サスペンションを採用したM1928の登場前であったことも考慮しなくてはならないであろう。その後、日本にクリスティー式戦車の売り込みがあり、原 乙未生大尉が1932年(昭和7年)1月にアバディーン性能試験場で実車を視察したが、貧弱と評価した上、機械的トラブルもあり、購入には至らなかった。
  2. ^ 輸送船の補助クレーンでも積み卸しが出来るよう、砲塔及び銃塔など分解しえる部位を除いた重量16 tを超えないように設計する事が要求されていた[25]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f 佐山『機甲入門』571頁
  2. ^ a b c d 佐山『機甲入門』127頁
  3. ^ 佐山『機甲入門』125頁
  4. ^ a b c d e f g 佐山『機甲入門』570頁
  5. ^ a b 『日本陸軍の戦車』26頁
  6. ^ a b 『日本陸軍の戦車』16頁
  7. ^ 『日本陸軍の戦車』17頁
  8. ^ 第1戦車隊及歩兵学校戦車隊に兵器支給の件 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03012099200、大日記乙輯大正14年(防衛省防衛研究所)
  9. ^ a b c 佐山『機甲入門』124頁
  10. ^ 『日本陸軍の戦車』20頁
  11. ^ 佐山『機甲入門』123頁
  12. ^ 『日本陸軍の戦車』21頁
  13. ^ 『陸軍機甲部隊』36頁
  14. ^ a b c d 『陸軍機甲部隊』37頁
  15. ^ 『日本陸軍の戦車』23頁
  16. ^ 偶然にも、翌1926年には、イギリスでも「16トン戦車」の開発が始まっている。
  17. ^ 『日本陸軍の戦車』21、22頁
  18. ^ a b 『日本陸軍の戦車』22頁
  19. ^ 原乙未生氏の回想によると、初めての戦車試作において、「その性能条件は戦闘能力を第一義として立案した。すなわち、豊富な火力装備を持ち、しかもいずれの方向に向かっても砲と銃の集中効果を発揮できるために、中央回転砲塔内に57ミリ戦車砲を、前部と後部にさらに回転銃塔をもうけて機関銃を持つ。すなわち、前面、後面には砲、銃各一、その他の方向には砲一、銃二の火力を集中することができる。この性能は陣内戦における戦車の孤立戦闘において独立性を有するものである」ことを念頭に設計を行ったとされる。
  20. ^ 佐山『機甲入門』126、127頁
  21. ^ 『第二次大戦の日本軍用車両』92頁
  22. ^ 『陸軍機甲部隊』81頁
  23. ^ a b c d 『日本陸軍の戦車』24頁
  24. ^ 『陸軍機甲部隊』38頁
  25. ^ 原乙未生『機械化兵器開発史』、72頁。

参考文献[編集]

  • 『日本陸軍の戦車』株式会社カマド、2010年。
  • 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ25 陸軍機甲部隊』学研、2000年。ISBN 4-05-602065-5
  • 佐山二郎『機甲入門』光人社(光人社NF文庫)、2002年。ISBN 4-7698-2362-2
  • 『グランドパワー 特集:第二次大戦の日本軍用車両』11月号、デルタ出版、1996年。
  • 田中義夫 編『日本陸戦兵器名鑑 1937〜45』光栄、2006年。

外部リンク[編集]

  • [1] - 九〇式列車砲や八九式軽戦車や試製一号戦車改(動画内では九一式重戦車と紹介されているが、迷彩パターンから試製一号戦車改だとわかる)やビッカース水陸両用戦車や試製ハ号や九一式広軌牽引車や長山号が写っている、1933年制作の貴重な動画。