「Wikipedia:井戸端/history20091024」の版間の差分

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}}
{{ 井戸端サブページ | title = 翻訳と「独自研究」について }}
{{ 井戸端サブページ | title = 翻訳と「独自研究」について }}
{{ 井戸端サブページ | title = 表記ゆれを使った「曖昧さ回避」の回避はどこまで許されるか? }}
{{ 井戸端サブページ | title = 「コメント依頼を出しても意味が無いのでは」と感じたときにはどうするべき? }}
{{ 井戸端サブページ | title = 「コメント依頼を出しても意味が無いのでは」と感じたときにはどうするべき? }}
{{ 井戸端サブページ | title = 記事の節にリダイレクトするのは適切? }}
{{ 井戸端サブページ | title = 記事の節にリダイレクトするのは適切? }}
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| subpage = Wikipedia:井戸端/subj/Botとはどんなものなのですか
| subpage = Wikipedia:井戸端/subj/Botとはどんなものなのですか
}}
}}

{{ 井戸端サブページ | title = 標準名前空間にある履歴を保存したページの扱いについて }}
{{ 井戸端サブページ | title = 標準名前空間にある履歴を保存したページの扱いについて }}
{{ 井戸端サブページ | title = 情報開示も場合によっては止めた方が良いのでは。 }}

{{ 井戸端サブページ | title = 小説は出典に使えますか }}
== 情報開示も場合によっては止めた方が良いのでは。 ==

国会議員のページで、本人の部屋が
何号館、何号室と明記されて居ますが、

テロリストに利用される可能性が、十分に
有ります。

特に朝鮮人に不利益な発言をした議員等
簡単に暗殺されますよ。

削除すべきと思います。
<span style="font-size: smaller">&mdash;''以上の[[Wikipedia:署名|署名]]の無いコメントは、219.104.107.19([[利用者‐会話:219.104.107.19|会話]]・[[Special:Contributions/219.104.107.19|履歴]])さんによるものです。''</span>
:と、匿名性の陰に隠れた(つもりの)君は言うのではありますが…公人が、公務に付くに当たって公開している情報でしかなく、それは秘匿されるべき情報(いわゆる[[個人情報]]の一種?)にはあたりません。っていうかー、Wikipedia(言うまでもなく「Wikipedia:井戸端」も)は変な空想で民族差別発言を書き散らす場所じゃありませんよ。ちっともクールじゃありません(漏電中)。--[[利用者:Yatobi|夜飛]]<small>([[利用者‐会話:Yatobi|話]]/[[特別:Contributions/Yatobi|歴]])</small> 2009年3月18日 (水) 12:25 (UTC)

== 小説は出典に使えますか ==

[[ノート:ジャングル大帝]]で、ある小説が出典に使えるか否かで意見が分かれています。その小説は半自伝的小説で、著者の後書きによれば、プライベートはフィクションだが、仕事関係はほとんど事実というものです。「ほとんど事実」ということで、プロのライターも資料として重要視しており、研究書で引用しているものなのですが。--[[特別:投稿記録/203.91.164.37|203.91.164.37]] 2009年3月18日 (水) 11:22 (UTC)
:この場合の出典は、検証可能性を挙げるために示すものであるため、「ほとんど事実」は言い換えれば「何処にフィクションがあるのかは読者には判らない」と言う意味で、「ワイン一杯の樽にナンか嫌げな汁をちょっぴりたらしたもの」と「樽一杯のナンか嫌げな汁にワインをちょっぴりたらしたもの」が等しく「樽一杯のナンか嫌げな汁」であるように、どちらも意味を成さないかと。ただ、客観的事実として、件の小説がそういった性質にあることを述べた上で、同小説中に斯く斯く云々という描写があることを述べることは、作中の描写は事実なのかフィクションなのか読者が判断すべきことに出来るとおもいますけどね。ただ、それをもってその作中の描写が事実だったと断ずることは、「小説の描写がセミフィクションである」と言う事実と、「その小説中に斯く斯く云々という描写がある」という事実を合成した[[Wikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成|独自研究の一種]]に成ると思いますが。--[[利用者:Yatobi|夜飛]]<small>([[利用者‐会話:Yatobi|話]]/[[特別:Contributions/Yatobi|歴]])</small> 2009年3月18日 (水) 12:16 (UTC)
::たとえば、アニメ研究者の[http://d.hatena.ne.jp/tsugata/20080417 津堅信之]氏は、「ほとんど事実」という部分にひっかかりを感じつつ、「それでも、虫プロの仕事と混乱の状況について、最も多くの事実を伝えている資料であることは間違いなく、虫プロと、アニメ作家としての手塚治虫研究には必須の文献である」と文献としての価値を非常に高く認めています。その他のライターにも、(仕事関係については)その分野では史実であるとして扱われているのが現状です。参考リンク→[http://www.style.fm/log/07_data/bella.html][http://www.style.fm/as/05_column/gomi06.shtml][http://anime.typepad.jp/blog/2009/03/80-0aab-10.html]。逆にノンフィクションとして出版されている手塚治虫の自伝は、逆に嘘や誇張、作りが入ってることが研究者から指摘されているんです(自伝に限らず、手塚治虫の発言は鵜呑みに出来ないことが常識となってる)。作者が「ほとんど事実(何処にフィクションがあるのかは読者には判らない)」と言っている小説は、仕事分野に関しては第3者から情報源として定評があるのに対して、作者が「自伝」と銘打ったノンフィクションは逆に無条件に信頼することの出来ない資料と見られている、という逆転現象が生じているのです。--[[特別:投稿記録/203.91.164.37|203.91.164.37]] 2009年3月18日 (水) 12:47 (UTC)
:::それは、それら研究者らが各々示している意見であって、客観的には「定評と言う水準で妥当性が論じられている」ため、その定評と位置づけを合成して無条件で事実だとすることには飛躍(「論理的ではない短絡」と言い換えてもいい)があるように思います。それはあくまでも件の小説がそういう性質(仕事関係ほとんど事実だと評されている)の域を超えるものではないでしょう。そういった性質を小説の属性として説明することは問題はありませんが、そういう性質から斯く斯く云々という描写を事実だと断ずることはやめたほうがいいと思います…余りにも危ういので。--[[利用者:Yatobi|夜飛]]<small>([[利用者‐会話:Yatobi|話]]/[[特別:Contributions/Yatobi|歴]])</small> 2009年3月18日 (水) 12:55 (UTC)
::::[[Wikipedia:検証可能性]]によれば、著作者の「これは小説です」「これは自伝です」という自己申告はさして重要ではないように思われます。ソースについては「事実確認と正確さについて定評のある、信用できる第三者情報源」に基づいて書くように指導されており、その点で津堅さ氏「最も多くの事実を伝えている資料であることは間違いなく」と評価しております。また、真実かどうかよりも検証可能かが重視されるとあるのですが、その点はいかがでしょうか。--[[特別:投稿記録/203.91.164.37|203.91.164.37]] 2009年3月18日 (水) 13:25 (UTC)
::: 単純に「小説にはこれこれこういう記述がある」と示すことはできると思いますが、それを以って事実の証明に使えるかといえば、難しいと思います。あくまでフィクション混じりの小説にはこう記載されていた、と書ける(事実を提示するのみである)のがウィキペディアの限界だろうと思います。適切な但し書きを添えた上で、です。--[[利用者:草薙|草薙]] 2009年3月18日 (水) 13:40 (UTC)
:::::(203.91.164.37さんへ)検証可能性の観点に立てば、その情報の出自の性質が問われるのは前提レベルの話だと思います。津堅信之氏はそのリンク先でもセミフィクションで何処までが事実なのか判らないとしている以上、その津堅信之氏の文章一つもっても事実として断ずることは出来ないでしょう。出典の提示は、「これは事実だ」と所定の資料を示すことではなく、その資料が存在することおよび資料の中に斯く斯く云々の記述が存在するところまでを検証可能な事実として証明するに過ぎません。--[[利用者:Yatobi|夜飛]]<small>([[利用者‐会話:Yatobi|話]]/[[特別:Contributions/Yatobi|歴]])</small> 2009年3月18日 (水) 13:59 (UTC)
::::::えーと、ですから、事実として提示するのでなく、山本暎一「虫プロ興亡記」にはこう書いている、と示せばいいのですね、ネタかどうか判断に迷うような東京スポーツやお笑いタレントの発言を出典元とするときと同様に。で、事実かどうかを編者は読者に押し付けるのでなく、読者が参照先として挙げられた「虫プロ興亡記」を読んで判断すればいい、と。--[[特別:投稿記録/203.91.164.37|203.91.164.37]] 2009年3月18日 (水) 14:13 (UTC)
:::::::そうですね、客観的に確認可能な事実として扱えるのは、その範疇だと思います。--[[利用者:Yatobi|夜飛]]<small>([[利用者‐会話:Yatobi|話]]/[[特別:Contributions/Yatobi|歴]])</small> 2009年3月18日 (水) 15:12 (UTC)

2009年3月19日 (木) 14:36時点における版

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[要出典]について

最近「要出典」タグの乱用が目立ちます。 明らかに何らかの文献から引用あるいはそれに準ずるような記述で出典が明記されていない場合は確かに必要かもしれませんが、 常識的な知識や対象物の「特徴」として認識されているもの(例えばphotoshopはプロも使用している高級なソフトである、など)に対しても 要出典タグを付けている例が多々あります。 これらは出典がそもそも不必要なのに加え、出典にあたるもの(明記されているもの)を探す方が困難であり、 このような知識をいちいち出典出典と口やかましく言っていたら、万人が編集できるはずのWikipediaの記事編集活動を大きく阻害することになります。 いかがなものでしょうか。 以上の署名の無いコメントは、121.2.137.58(会話履歴)さんによるものです。

うーん、Photoshopがプロユースだというのは10年前ならいざ知らず、Adobe Photoshop Elementsもリリースされている現状では当てはまらないんじゃないですかね。まあ、それはさて置き、要出典の汎用(乱用)が存在していることに異論はありません。特にひどいケースでは、対象事物に無理解なことや自らそれを知ろうともしないで、自身が知らないことを持って、あるいは自身が受け入れたくない事柄であるために、貼り付けて回る([1])というケースもあるし。誰にでも簡単にその妥当性の調べが付く事柄(ググッたとか関係する書籍一般に目を通したくらいでも同様の言説が見出せるとか?)までは出典は必ずしも必要とされないと思う(Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料)んですけどね。もっとも、そういった問題は個別に当事者と意見交換して解決したほうが良いわけで、きちんとした理由に基づいて要出典を付与されているなら問題ではないかと。問題は自身の行動の説明責任も果たさず、ただ要出典を付与して問い質しても理由にならない理由を述べたり(例:ノート:野菜嫌い)、何等問いかけに答えないことだと思います。逆にどー見てもマズい言説に要出典を付与して出典が必要な理由を(明らかに検証可能な事実に基づかない記述だという証拠をつけて)幾ら説明しても、その付与自体に反発して納得しない困った人もいたりするし、どっちに転んでも程度を過ぎれば荒らしだと思います(→ノート:記録媒体/Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/神奈川の動的ソネットIPユーザー群みたいなケースとか)。--夜飛/ 2009年2月23日 (月) 13:26 (UTC)[返信]
「万人が参加できる」ってのは、参加に対して資格を求めないという意味で、内容をすべて受け入れるわけではないですよ。「そもそも不必要」はどうやって確認しますか? 逆に「出典を書いておけば、文句言われない」というひとつの肯定的なルールではあるとおもうのでが(万全じゃないけど)。--ゆきち 2009年2月24日 (火) 01:43 (UTC)[返信]
要出典が乱用されているのには同感です。中には「要出典バカ」と言いたくなるくらい貼りまくって、役に立った気になっている人もいるようです。「不必要な要出典を取り除く」という方向での草取りも行う必要があるかもしれません。--Adan 2009年2月24日 (火) 02:19 (UTC)[返信]
◆個人的には、「要出典タグなんて消えてなくなってしまえばいい(大意の上デフォルメ済)」と思うくらい、要出典タグは嫌いです。「要出典をつけるべき事柄なのかどうか」という判定は、その分野・記事に対してある程度の理解がなければできないことであり、であるならば、要出典をつけることよりも直接出典をつけたほうが記事の質の向上にも寄与できるからです(ある程度の理解がないならば、要出典はおろか、軽微な草取りでさえも遠慮願いたいと思っています)。
さておき、「要出典をつけるべきとき」というのは、「自らがおこなった記述に対して裏づけを用意できないものの、しかし確固たる事実を記載した場合」、ありていにいえば「これ、常識だと思うんだけど、文献、見つけられなかったや…。誰か、出典持ってたらつけてくれないかなあ?」というような場合のみだと思います(これ、執筆者としては「敗北宣言」に近いことだと、全ての執筆者は肝に銘ずるべきじゃねーの、とか思ってます。自分自身も、記事を新規に起こすような場合には、心がけていることのひとつです)。夜飛さんが提示されているような([]付けのリンクのほう)ものは、論外というべきでしょう。
しかしながら、「本来出典が必要であるべきにもかかわらず、出典が掲示されていない場合」を容認すべきではなく(消すとかそういうことではなくてね)、「要出典が濫用されているんじゃねぇの?」という話とは対になる話題として、「書き手のレベルが低いよ!出典意識してもらうにはどうすればいいんだ!」という方面も、常に意識していた方がいいのではないかな、と思います(ここが結論)。個人レベルでは、「適切に出典をつける(書き手)」のもそうですし、「(要出典をつけるならば)最後まで面倒を見る」ということもそうです。初心者の方に、出典の重要さをどのように伝える(文面だけではなく、システム面からも)のか?を考えるとかね。--ish-ka a.k.a.lisky@s.i.b! (talk/wikimail/contributions)2009年2月24日 (火) 03:36 (UTC)[返信]
>>>
基本的に要出典タグの乱用というのはありえないと思います。あえて乱用というならば、
  1. ある程度まとまった範囲で要出典を付ければいいのに、単語や文節単位にべたべた貼る
  2. 出典が示されているにもかかわらず、その内容を確かめもせず貼る
の2ケースしかありえないかと。個人的には、要出典がべたべた貼られるくらいの記事の方が全体として内容が適切かなと感じています。
当たり前と思われる内容について要出典が貼られる問題については、一般的な出典を探せば済む話だし。Fuji 3 2009年2月24日 (火) 03:50 (UTC)[返信]
◆俺が「もっとも嫌いとするところ」を見事に打ち抜いていたりするので、せっかくなのでレスポンス。
Fuji 3さんがあげた例はどちらも「濫用」でしょう。どう考えても不適切です。「要出典がべたべた貼られている記事」のどのあたりが健全なのでしょうか。「要出典の代わりに、きちんとした出典がつけられた記事」のすばらしさと比べて、足元すらにも及ばないと思うのですが。要出典をつけるくらいなら、出典を探してつけたほうが何倍も健全だと思いますが。それが出来ずに、「要出典を貼り付けるだけ」、これは恥ずべき手抜き以外のなにものでもありません。「そもそも出典をつけられない」「思い当たる節すらない」というレベルの理解度ならば、その編集を遠慮すべきではないかと思います(ノートで提起するくらいがせいぜいでしょう)。--ish-ka a.k.a.lisky@s.i.b! (talk/wikimail/contributions)2009年2月24日 (火) 04:07 (UTC)[返信]
いやいや、「きちんとした出典がつけられた記事」の方が素晴らしいのは当たり前なので書いてないだけですよ。
出典を付ける責任はまずは記事の記述者にあると思うので、第3者が眉唾と思われる部分に出典ではなく要出典を貼ることには問題はないでしょう。出典探して貼るより要出典貼る方が当然労力・時間ともに少ないわけで、その記事が怪しいかどうかも判断できない読者のことを考えると、出典貼るまで記事を触るなというのは、賛成しかねます。自身、知識があいまいな記事を読む時に、一部に要出典がついていると「この部分は何かしら争いがあるんだ。その他は信じて問題なしか」という判断ができてありがたい。
無論、出典をすぐに付けることができるなら要出典なんか貼らない方がいいし、せっかくならちょっと労力使って出典出すくらいはした方がいいでしょう。また、示されている出典が出典になっていると理解できないくらいの理解度で要出典を貼るのは問題という認識は上記(2)の通り。Fuji 3 2009年2月24日 (火) 04:28 (UTC)[返信]
ish-kaさん、当たり前のことを持ち出して難癖をつけるようなことを言わないでください。私が言いたいことは Fuji 3さんがほとんど既に仰られているので指摘しませんが、「その編集を遠慮すべきでは」あたりは、どうでしょうね。実名を出している研究者・専門家以外、ウィキペディアの投稿者のほぼ全員は、言ってしまえば「素人」なわけで、要出典を付けられたら、淡々と(あるいは有り難がって)出典を出すなり、あまりに「貼り方」がひどければ要出典を整理する(減らす)なりすれば良いだけです。出鱈目を(ちゃんと出典を出して整備されている記事に)加筆されて憤慨するならともかく、要出典をつけられたら、不備を恥じこそすれ、怒る心情は理解できません。要出典の濫用だー濫用だー、と過剰に騒ぎ立てる方々には、「門外漢だとか、自分より詳しくない人の視点を考えられないようなら、匿名の自称専門家だけで専門のwikiでも立てたら如何ですか?」と、問いたいところです。
要出典の濫用は個々で対応する程度のことであり、「(全体的な)問題となり得ない」と主張します。そろそろウィキペディア日本語版も、どこのものとも知れない情報をただ加える、そして情報量の増加だけを重視・尊重するのではなく、内容を批判・検証・削除することも重視・尊重されてよい時期だと思うのですが、なかなか難しいようですね。--氷鷺 2009年2月24日 (火) 05:11 (UTC)[返信]
◆まずはFuji 3さんに。
出だしの一段と最後の一段が、ほぼ完璧に俺の思考とリンクしていたので、安心しました。イチャモン付けみたいになってしまって申し訳ないです。
中段のあたりは…多分、要出典テンプレートを「普通に文章を読んだときに感じるノイズ」ととるか、Fuji 3さんのようにとるか、の違いだと思います。俺は、ノイズに思える(だって、普通に本を読んでて「要出典」とか出てきたら興ざめじゃないですか。出典をつける、つけないというのは、あくまで記述する側の問題であって、読む側(検証者とイコールではありません)の問題ではないと思います)ので、要出典テンプレートを張るくらいならば、出典を探します。見つけられず、かつある程度の知識がある分野であれば、ノートに提起します。要出典テンプレートは使わずに。要出典を貼るということに比べて、手間も時間もかかるでしょうが、記事のレベルを上げる方法としては、より適切であろうと思っています。知識がなければ、無視します。いつか、自分よりもそれに詳しい誰かがもっと適切な方法でやってくれるでしょうから。
◆そして氷鷺さんに。
いちゃもんであることは、(上記の通り)認識してます。俺の言が、かなり赤黒いものであることも。でも、着地点は同じだと思いますよ。
要出典を貼られるのは、基本的には「執筆者の失敗」であって、そちら(自分を含めた執筆者)を甘やかす意図はありません。「不備を恥じこそすれ、怒るな」というのは、至極もっともです。「やたらと貼るな」の対には、「はじめから出典を出しておけ」という言があるでしょう、当然ですよね。「要出典貼るなんてとんでもない!」と言ってはいますが、それは「他の方法も考えてみようよ」というアウトプットとイコールです。要出典の使い方は、確かに個人個人の問題ですが、「要出典から一歩先を考えてくれたら、もっといい記事が出来るのになあ」と思うことも多々あります。要出典を張る前に、そっちの方にも気を配って欲しいなあと思うわけなのですよ。「門外漢はさわるな!」については…、文中で示した俺の利用者サブページを見ていただければ、大体何をいいたいのかがわかっていただけると思います。--ish-ka a.k.a.lisky@s.i.b! (talk/wikimail/contributions)2009年2月24日 (火) 06:18 (UTC)[返信]
《「要出典を貼り付けるだけ」、これは恥ずべき手抜き以外のなにものでもありません》って意見はまあ納得できるんだけれども。でも、「出典なき記述をすることはウィキペディア日本語版においては恥ずべき手抜き以外のなにものでもない」ということも理解しておくべきだと思うんですよね。Ish-kaさんはたぶん理解しているんだろうけど、それを抜きに要出典テンプレートの添付だけを非難しても仕方ないと思う。--iwaim 2009年2月27日 (金) 10:45 (UTC)[返信]
  • 記事の内容が怪しい場合や引用元が知りたい場合には「要出典」タグが添付されるのは通常のことですが、意地になって「要出典」タグが貼り付けられてると可読性が著しく阻害されますね(こ[要出典][要出典][要出典][要出典][要出典]にです)。節そのものに大量に「要出典」が張られて可読性が著しく低下している場合は「出典の明記」テンプレートに置換しておけば宜しいのではないでしょうか。また内容があまりにも信頼できない不正確なものなら記載そのものをコメントアウトしておけば宜しいかと。--ネコバット 2009年2月24日 (火) 07:40 (UTC)[返信]
「要出典」のタグを貼るときは必ずどういう理由で「要出典」なのかをノートに書いておくべきだと思います。 私が「要出典」をつけたくなるのは、例えばある人物の記事でその人に関するゴシップがついているときです。 それはその人ならば如何にもありそうだが少々出来過ぎている感じであるときなど、それが事実であることの信用ある典拠が欲しくて「要出典」をつけ、ノートにその旨記載します(最近の例として「洲之内徹」参照)。このようにノートに必ず理由を書くという習慣が広まり、理由を書いてない「要出典」は無視し、取り除いてもよいという風潮になれば、乱用はなくなると考えますが、いかがでしょうか。 --Midz 2009年2月24日 (火) 08:29 (UTC)[返信]
  • ノートに記載がない「要出典」は取り除いてよい、というのはWikipediaの基本ルールに関わりかねない提案なので賛同できかねます。Wikipediaの記事にはすべて引用元が存在しているというのが原則(Wikipedia:検証可能性)ですので、引用元が十分に明示されていない記事のほうが「過渡的」「作成中」なわけです。ある編集者が「要出典」タグを付けて出典要求しているのに対して、出典を提示しないままタグだけ除去するのは本末転倒です。引用元については引用リストが大量にありすぎて煩雑すぎて困る、などという事はありません。--ネコバット 2009年2月24日 (火) 10:30 (UTC)[返信]
  • あくまで検証可能性(三大方針)の問題であると考えます。ノートに要求する具体的内容を示したもの{{要出典範囲}}タグを使用したものについては、検証対象を特定できないということはないので、出典提示なしにはがすべき理由がないと考えます。「検証可能」というのは言語で説明できるということを意味するので「当たり前」としか主観を述べる以外に説明の方法がないのであれば、それは主観に基づく意見であり、第三者が検証できないのでその様な主観的な根拠で要出典を解除してよいという合理性はないと考えます。具体的内容が不明なものはノート等で問い合わせをした上で、先方が議論を拒否するのであればダグを無効化でよいと考えます。--あら金 2009年2月24日 (火) 11:22 (UTC)[返信]
あまりにも常識的なものに要出典をつけるような場合は、「そのような知識もないあなたはこの記事を編集する資格がない」とノートや会話ページで書いておきます。それでも記事の編集を強行するのなら、多数の合意を持って、ブロック依頼をかければいいでしょう。--経済準学士 2009年2月24日 (火) 15:03 (UTC)[返信]
  • 私が過去に関わったものに、グーグル八分という項目があります。現状でもそこそこ要出典がついています。経緯についてはノート(ノート:グーグル八分#「要出典」が多すぎます。)を見ていただければ判るかと思いますが、「信用できない執筆者(出典中に書かれていないことまで記事に記す、複数の合成に伴う独自研究、など)による出典なので、どの出典も信用できない」「一律、出典(らしきもの)を要出典に置き換える」という対応が行なわれた記事です。
    それぞれの出典(らしきもの)が出典足りえるか、以前は気が向いたときにぽつぽつと確認しては要出典を剥がしていたのですが、最近は気が向かない(半分忘れていた)ので放置してありました。(執筆者/編集者として)強い興味がある記事ではなく、私が加筆した文章もないので、積極的に文章を残すための出典確認という気持ちも、この数ともなるとあまり起きないというところです。最初は出典確認してくださる方(要出典を付与した人、要出典に賛同した人、第三者、どの立場の人でも構いません)が現れれば、呼び水となれば、と思っていましたが、結局現時点までにお一人の方が出典を新たに付与してくださっただけで、従来の出典(らしきもの)の出典確認を行なってくださる方は現れませんでした。
    この時は「一律要出典ではなく、要出典を貼る人が個別に出典として妥当であるか確認してほしい」「その個々の出典では駄目だというなら、なぜ駄目なのかをノートに記してほしい」と思いましたが、要出典を貼る人(賛同者を含む)からはそういう動きはありませんでした(補足:ノートの次の節は、日付が紛らわしいですが昨年の話です)。
    ここまでに挙がっているケースとは違うかもしれませんが、事例紹介として。--NISYAN 2009年2月24日 (火) 15:50 (UTC)[返信]
  • {{要出典}}を貼るなとは言いませんが、貼ってある文章に「それに関する記事へのリンク貼ってあるだろーが」てなこともあるので。先日、狂犬病の記事を久々に見たらぺたぺた貼ってあったので、出典を示すべく手を入れたんですが、「ルイ・パスツールによって弱毒狂犬病ワクチンが開発された[要出典]」ってのを見た時には流石にくずおれそうになりました。取り合えず、その文中にあるルイ・パスツールへのリンクは一体何だと思ってるんだ・・・と。--KAMUI 2009年2月25日 (水) 13:45 (UTC)[返信]
    • (コメント)Wikipedia:信頼できる情報源#情報源ではWikipedia内の記事は三次情報源となっております。Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」で求められているのは二次情報源であり、その要出典は妥当であると思いますWikipedia:独自研究は載せない#信頼できる資料ウィキペディア以外のウェブサイトや公共図書館を通じて閲覧者が閲覧できることが必要」)。その要出典に対してパスツール,L. - MSN エンカルタ 百科事典 ダイジェスト世界狂犬病予防デーなどのWikipedia外にある二次情報源を明示することが冗長であるとは思えません。--凪海(Nami-ja) 会話 / 履歴 2009年2月25日 (水) 14:27 (UTC)[返信]
      • 「パスツールが狂犬病ワクチンを開発した」ってのは狂犬病について調べれば普通に出てくる話の一つです。{{要出典}}というかこの場合はご丁寧にUTCまで入れて{{要出典範囲}}で(しかも複数を)括ってますので、その手間かける時間を検索に回せばコンマ何秒でなんぼでも外部の二次情報が引っかかるだろうに、「何で出典を追加する」方に手をかけてくれねーかなぁ・・・という思いが、ね。--KAMUI 2009年2月25日 (水) 14:45 (UTC)[返信]
      • パスツールと狂犬病ウィルスの件を見ていて疑問に思ったのですが、出典を要するというのはどのレベルまででしょうか?
        たとえば、吾輩は猫であるの冒頭部「『吾輩は猫である』(わがはいはねこである)は、夏目漱石の長編小説。1905年1月、「ホトトギス」に発表、好評のため翌年8月まで継続した」には一切出典が書かれていません。
        著者が夏目漱石であること、長編小説であること、1905年1月に発表されたこと、発表誌が「ホトトギス」であること、好評であったこと、翌年8月まで継続したこと(好評と継続の因果関係も必要でしょうか)等の資料の提示が必要なのでしょうか? 考えをお聞かせください。また、この部分にも出典の明示が必要であるということならば、要出典タグを貼り付けるべきかどうかもあわせてお聞かせください。Goodmoon 2009年2月25日 (水) 18:16 (UTC)[返信]
        • 日本人ならば知っていて当然でも、出典明示を求められたならば応えるべきかとは思います。簡単に見つかりますし[2]、むしろどれだけ著名なものでも出典がない状態の記事は検証可能性に照らして「事実であるが(まだ)検証可能にない状態」と認識します。自分は疑問点に思ったならば検証可能性に従い記述を残そうとする観点から出典を明示する努力を行いますが、要出典貼付を行うことは不当とは思いませんし、要出典貼付行為を制限する理由はないと思います。ただし、適切に出典が明示されて以降も出典を閲覧すれば判ることについても更に貼付をやめないような状態では剥がすことも正当でしょう。出典明示については富士山en:Mount Fujiゴールデンゲートブリッジen:Golden Gate Bridgeの比較(その言語版でよく知られた著名な事象に対する出典の必要性比較)が良い例かと思っています。--凪海(Nami-ja) 会話 / 履歴 2009年2月25日 (水) 20:14 (UTC)追記。--凪海(Nami-ja) 会話 / 履歴 2009年2月26日 (木) 03:09 (UTC)[返信]
        • お返事ありがとうございます。お答えには概ね納得いたしました。ただ、簡単に見つかるのだから出典を求められたら提示すべきだという点については疑問があります。私は簡単に見つかるのだから、『要出典』を貼るくらいなら出典を追記した方がよいのではないかと考えます。(凪海さんが「疑問点に思ったならば検証可能性に従い記述を残そうとする観点から出典を明示する努力を行います」と書いておられることは認識していますが、一般論として)
          Wikipedia:「要出典」をクリックされた方へ

          「出典のない記述について「検証可能性」の方針は「誰でも取り除くことができる」、「除去されても文句は言えない」としています。しかし、論争の発生しやすい記事においての突然の除去は編集合戦につながることがありますし、出典を明記すべき範囲についての見解の相違などもあります。そのため、利用者による議論や出典提示の機会を与えるために「要出典」、「要出典範囲」などのテンプレートが用意されています。」「出典を示す義務を負うのは、除去を求める側ではなく、書き加えようとする側」

          とあるように、要出典タグは削除予告なのですから、「ちょっと調べればわかることなのに、削除を前提とされちゃたまらない」という印象を与え、反発を産んでいるのではないでしょうか。簡単なのだからはじめからつけておくにこしたことはありませんが、削除より追記という方針もあることですし、もうすこし平和にいけませんかねえ。Goodmoon 2009年2月26日 (木) 14:10 (UTC)[返信]

こんにちは。書いた人や、その項目の執筆に参加している人のほうが、情報を持っていますし、判断も確かでしょう。まあ、項目や記述内容に拠っては、自分がそれだけの労力を加える気にならないようなこともあるでしょう。出典がないという状態を解決するための労力や動機としても、記事の執筆者らが、出典を付するのが妥当ではないかと思います。書く側が示す、というのは、そういうことではないかと。

「要出典」というのが、編集除去へのステップであるとか、正しさへの懐疑であるとかいうものではなく、まずは、出典を示してほしいということ、通常の百科事典では細かな情報源は示されないけれど、ウィキペディアは誰でも編集できるから、それを示すということになっているのだということ、どんな人が書いているかわからない文章で、その内容の由来が何かは示されていないということ、タグを使って、執筆者や読者に伝えているということだということが、貼る側にも書く側にも共有されるのが望ましいのかな。「誰でも取り除くことができる」「除去されても文句は言えない」とされてはいますが、出典のない記述は除去しなければならないとは書かれていないのです。

方針を踏まえれば、ウィキペディアに参加してしばらくしたら、出典に基づいた記述をするのが、普通という状態になるのが、望まれている。そのためには、要出典を貼る側には、その執筆者に検証可能性を満たすことの重要さや資料を探す方法などを説明して理解していただき、以後の編集では、できるだけ検証可能性を満たしてもらうというのも大事だと思います。 もっとも、正しさへの懐疑があるような記述に対しては、「要出典」が除去へのステップとなりえます。記述そのものの様子や、執筆者の傾向、分野なり項目なりでの検証可能性の必要性の認識のされ具合などにもよりますが、このような意図での「要出典」であれば、疑義についての理由をノートなどで示す事が望ましいでしょう。

「請出典」とか「乞出典」とかにするとか(は、わかりにくいか…)、「Wikipedia:「要出典」をクリックされた方」を書きかえるとか、手続きとしての要出典か、疑義としての要出典かで使い分けられるようにするとか、そういうことは考えられそうですね。--Ks aka 98 2009年2月26日 (木) 18:15 (UTC)[返信]

「正しいことだがWikipediaのルールを満たすために要出典」と、「正しくなさそうだから疑義があるので要出典」が同列になっているのがまずいというのは同意です。Wikipediaはルール上「正しいことを記す場所」ではないとしても、「正しくないことを記す」ことはWikipediaのルール以前の問題として良くないわけで、Ks aka 98さまの議論には全面的に支持します。Wikipediaはしょせん欧米的な発想に基づいたサイトではありますが、欧米的な発想で求められる「常に根拠を明らかにしつつ著述する」態度は決して悪いとは思えませんし、そもそもそういう場所が日本語で容易にアクセスできる場所にあること自体なにか良い意味があるのでしょう。
しかし、要出典タグがついているのに秀逸な記事認定を受けている記事があるというのも異常なことのような。--きたじま/あかみ 2009年2月27日 (金) 04:14 (UTC)[返信]
Ks aka 98 さん:
要出典の意図を明確にすべきだという結論には賛成します。
以下、枝葉末節になりますが、おつきあいください。
先に引用した部分にあるとおり、私には「要出典」タグは削除予告としか思えません。また削除予告でないとすればなんなのかという疑問があります。「要出典」タグを貼り付ける意図はわかりますが、どう決着をつけるつもりなのでしょうか。そのまま出典が明示されなければどうするおつもりなのでしょう。自分で出典を追記するわけではない、しかし削除するわけでもない、そうなると放置するしかありません。原則に則って出典を求めながら、出典がなくても放置するというのは矛盾しませんか?「要出典」タグに反発する人は、「証拠を出せないなら消すぞ」と言われたと捉えているとか、いかにもうさんくさい記述につけられた「要出典」と同レベルに扱われたとか、「こんな調べればすぐにわかるんだから、自分で出典を追記してくれよとか、そういう感情的なものが大きいような気がします。--以上の署名のないコメントは、118.8.84.33会話)さんが 2009年2月28日 (土) 19:20 に投稿したものです。
その記述を除去すべきと考える人が現れれば、除去されるでしょう。この場合は、ノートで除去の理由を示すことが望ましい。除去と同時にタグは除去されます。その記述を積極的に残したいと思う人が現れれば、出典を探して、タグを外すことになるでしょう。いずれの立場の方も現れなければ、まあ、タグが付されている記述は、それほど間違っているわけじゃないだろうけれど、あまり信頼できないものとして読者に受け取られるでしょう。古い記述で、執筆者が活動していなければ、出典を探すことが難しいという事態は十分起こりえます。自分で出典を追記するわけではない、しかし削除するわけでもない、当面は放置する。それらしか選択肢がないのではなく、その記述について、何らかのリアクションをとる人もいるだろうから、その人に委ねる、というのが、タグを貼って記述を残すという判断だと思います。そして、除去されては困ると思う人に限っては、除去の予告なのですね。それなら、出典を加えましょう、と。
「要出典」タグへの反発は、実際、感情的なものだと思うんです。方針上は、出典がなければ除去できるということになっています。ですから、除去してもいい。検証可能性という、容易に改変できないとされる方針を抱えるウィキペディアで、「矛盾」を解消するなら、除去する以外にはないということになります。貼る人の態度が悪すぎるとか、出典が示されているのが明らかなのに読解力が欠けているような場合もあるとは思いますけれど(これは、別の方針にそむく振る舞いです)、でも、そういうようなことでなければ、その反発は正当化できない。
しかし、急いで除去する事が、出典を示すことを含めた記事、あるいはウィキペディア全体の発展に、そのまま結びつくわけではないと思います。ひとつの記事の、いくつかの記述に「要出典」があるかどうか、それを解消すること、よりも、執筆時に出典を付することの重要さ、読者にとっての有益さを、執筆者に理解していただき、検証可能性を満たした記述をするようになってもらうのが、大事だと思うのですね。すぐには情報源を見つけられないけれど、記述がある程度確かだと信じるなら、すぐに除去する必要はないと、ノートで主張することもできます。その場合でも、情報源を示すまでは、タグは残すことになるでしょう。あるいは、記事の根幹となる部分でないのであれば、いったん除去して、情報源が見つかってから加筆するということでもいいのです。--Ks aka 98 2009年2月28日 (土) 20:55 (UTC)[返信]
「正しそうだが出典が付与されていないので記事の精度向上のために出典を求む」場合と「正しくなさそうだから疑義がある」場合の使い分けが行なわれると確かに嬉しいように思います。今、Wikipedia:Template メッセージの一覧/問題のある記事を見ていましたが、「正しくなさそうだから疑義がある」時に使うのに適したテンプレートは{{疑問点}}かもしれません。第1引き数にはノートの節名を記すこともでき、ノートに疑義内容を記すのにも適しているような気がします。あまり使われてはいない様子なのが残念ではあります。表示サンプル[疑問点]も置いておきます。--NISYAN 2009年2月28日 (土) 23:21 (UTC)[返信]

「要出典」と理由の記入

先日、「要出典」には必ず理由をノートに書いた方がよい、理由を書いてない「要出典」タグは「取り除いてもよいという風潮になれば・・・」と書いて、その「取り除いてもよい」に光があたって大分叩かれましたが、私の言いたいのは「要出典」タグを貼るのは「理由をノートに書く」といういう労力に値いする重い行為であるべきだ、ということでず。 検証可能性はもちろん必要ですが、そのために本文中の文章ひとつひとつに引用元をつけていってはとても読みにくい文章になります。 ですから「要出典」タグを貼るのは、その人が読んでいって挙げられた参考文献などを読んでも解消しない何らかの疑義を感じたところに限るべきだと思うのです。 そうであればその疑義の内容をノートに書いておくのは当然だと思います。 そして「要出典」タグを貼るときは理由をノートに書く、という空気が一般に醸成されれば事態は大いに改善されると思います。

疑義の1つのタイプは「内容が誤りではないか」という疑問です。 その種の例として「富ヶ谷」では以前に他の人が貼った「要出典」タグがありましたので、最近その理由をそこのノートに書き込みました。 このように他人の貼った「要出典」タグについても自分が同感であればノートに理由を書き加えるのがよいと思います。 また「ありそうなことだけど出来過ぎの感がある」内容の文章に対して、その信用性を高めるための出典を要求した例に前にも挙げた「洲之内徹」があります。

「要出典」タグが貼ってあれば必ずノートに理由が書いてある、ということになればよいのですが、今のように貼りっぱなしの「要出典」タグが多いと、貼られた文章の執筆者にちゃんと理由を読んでもらうために「要出典、理由はノートに」とでもいうようなタグが欲しくなります。 どなたかお骨折り頂けると幸いです。 --Midz 2009年2月27日 (金) 04:23 (UTC)[返信]

最初から、出典を書いて、あとから疑問が出てくるような記事を書かなければいいだけだと思うのですが。「出典」の議論が品質の議論に結びつかないのに疑問を感じます。--ゆきち 2009年2月27日 (金) 12:08 (UTC)[返信]
《最初から、出典を書いて、あとから疑問が出てくるような記事を書かなければいいだけ》という点には完全に同意します。但し、要出典系テンプレートを付与するだけの行為もまた品質の向上にはならないということをゆきちさんは理解した方がいいんじゃないかと思います。ゆきちさんの最近の投稿記録を見させていただきましたが、{{出典の明記}}を付与するだけで、要約欄でもノートでもその付与理由が明言されていないものが多いように思いました。品質の話題に触れるのであれば、品質の向上に向けた行動とはどういうものなのかということをもうちょっと考えてみてはいかがでしょうか。そりゃまあ原則論としては「すべての記述は検証可能性を満たすべし」というのはあるでしょうが、まさか検証可能性を満たしていないすべての記述に要出典系テンプレートを付与しようとしているわけでもないでしょうから。なお、「テトリス」での付与理由差分のように、記事の分量と比較して出典が少ないってのはあまり適切な付与理由ではないと私は思います。
私は、要出典系テンプレートの付与を嫌悪している人々がウィキペディア日本語版にいるとは思っているんだけど、それはゆきちさんみたいな行動への怒りが原因であるようには思っています。ちょっとゆきちさんにはそのあたりを考えてみて欲しいと思う。--iwaim 2009年2月27日 (金) 12:36 (UTC)[返信]
ええと。ある記述に対応するという事がわかるように参考とした文献が示されていれば、それは「出典」なのです。そこに「要出典」タグが貼られているなら、「何らかの疑義」以前に、書き手が思っている文献の提示が読み手に伝わっていないか、その参考文献の示し方では雑駁としているので、検証が容易ではないかのどちらかではないかと思います。
脚注を使うか、他のスタイルを使うか、あるいは、文節ごとか、一文ごとか、段落/節ごとか、というようなことは、資料と文章の関係から対応がわかるようにして、かつ可読性を損なわないように書くには、どうすればいいかというところから考える必要があります。よみやすさは重要なものですが、検証可能性を犠牲にするべきものではありません。執筆者は、すでに「知っている」のですから、これでも分かるとか、これくらい読んでおけ、というように考えるかもしれませんが、それでは読者にとって足りないのだということを、とりあえずは指摘されているのだと受け取ってほしいと思います。
「要出典」タグを貼るのは、その人が読んでいって挙げられた参考文献などを読んでも解消しない何らかの疑義を感じたところに限るべきだと思うのです」というのは、検証可能性の方針からは、受け入れがたいものでしょう。ウィキペディアは、誰でも書く事ができます。だから検証可能性を満たすことが求められるのですね。誰が書いたものかはわからない、分かったとしても、百科事典を書くような立場にある人ではないことがほとんどです。ですから、せめて、執筆者の思い込みや誤った理解や思いつきではなく、誰かが書いていることを書いているのだということを示さなければならない。もし、その分野について、ある程度の知識がある人なら、誰でも知っているようなことを書くのであれば、何を参照すれば「ある程度の知識」が得られるのかを書いてください。それによって、読者が「ある程度の知識」を得る事ができますし、どの記述が「誰でも知っているようなこと」なのかがわかります。これは、何かを調べようとして百科事典を読む人にはとても有用な情報です。
要出典を貼る理由というのは、出典が記されていないということ以外にはないのですよね。出典が求められるというのは、内容が正しくないからではない。正しくない記述であれば、出典は示されないか、信頼できない情報源か、信頼できるはずなのだけれどたまたま誤りが記されていたものに依拠していたか、わかりやすさのために厳密さを犠牲にしていた入門書を参照していたか、といったことが考えられます。だから、まずは、出典を示してほしいということ、通常の百科事典では細かな情報源は示されないけれど、ウィキペディアは誰でも編集できるから、それを示すということになっているのだということ、どんな人が書いているかわからない文章で、その内容の由来が何かは示されていないということ、タグを使って、執筆者や読者に伝えているということになります。
「要出典」タグを貼られるということは、誰かが記事を読んで、少なくとも形式的に検証可能性を満たしているかどうか、人によっては、記述の内容や書式などから特に強く求められるのはどれかということを判断し、編集するという負担を、他の編集者に負担させてしまっているということです。そして、可読性以前に、読者が混乱し、あるいはウィキペディアの信頼性を落とす可能性があり、加筆しなければそれが継続するということです。誰でも書けるということは、誰が書いているかわからないということでもあります。たとえ正しい記述でも、典拠が示されていなければ、信頼を得ることは難しい。
「内容が誤りではないか」という疑義があるときや、「ありそうなことだけど出来過ぎの感がある」場合ならば、それは、「要出典」と関係なく、ノートで対話して、正しいとされている情報源が示されなければ除去しなければなりません。そこでは、出典の有無という形式的なことではなく、情報源の信頼性や、情報源にある記述とウィキペディアの記述の整合性といったところに踏み込むことになるでしょう。そうした話をするためには、まずは何に基づいた記述なのかがわからないと話ができません。あるいは、出典さえきちんとつけてあれば、そのような話は必要ないことも多いでしょう。
執筆者に厳しいことを書いているように見えるかもしれません。わたしたちが書いているのは、百科事典なのです。百科事典は、信頼できるものでなければなりません。しかし、わたしたちは専門家ではないですから、どれだけ信頼できるように頑張ったとしても、なかなか信頼に値する記事は書けません。書けないのだ、ということを、いったん受け入れることで、できるだけ信頼できるようにするということを自分に課すと共に、その結果が不十分なものでも、批判を受けるべきではなく、貢献と評価される。「できるだけ」というのも、基本的には、その人にとって、ですよね。執筆と同様に、記事を読んで改善を執筆者に促したり、方針の理解を求めたりというのも、とても難しいことです。わたしたちは、百科事典の執筆経験がないのと同じように、百科事典の編集者として執筆者とやりとりをするような経験も持ち合わせていないのです。記事のメンテナンスなどを主に活動する側も、いろいろ考えたりしないといけない事があるのは言うまでもありません。
要出典を貼るかどうか、というのは、本来いくらか難しい判断が必要だと思います。出典のない記事に対して、自ら出典を加える、要出典を貼る以外にも、いろんな方法があると思うのです。記事に対して要出典を貼るのがよいか、投稿者の会話ページへ行くのがよいか。出典があれば残すのか、そもそもその記述自体が適切でないか。記事の性質や、履歴などから推察される投稿者の様子によって、対応を変える必要もあるでしょう。要出典を貼る側にも、出典をつけるのが当然という態度ではなく、ウィキペディアでは出典を示すことが求められていて、どういう理由でそれが必要で、どのように示せばよいのかということを、執筆者に伝えることが望まれます。そして、当面は明らかとしてもよいようなこともありますし(たとえば、通常の記事で東京が日本の首都であるということは、ことさらに示す必要はないでしょう。「東京」や「首都」であれば、どのような制度の下で、どのような規定によって首都となったかを記す事が望ましいですけれど)、逆に、明らかに主観的な感想を述べている部分や、百科事典的ではない記述について、編集除去を前提として要出典タグを使う場合もあるでしょう。「内容が誤りではないか」という疑義があるときや、「ありそうなことだけど出来過ぎの感がある」場合に、まずは出典を求めるということであれば、ノートで理由を示すことのほうが好ましい。--Ks aka 98 2009年2月28日 (土) 12:30 (UTC)[返信]
>出典が求められるというのは、内容が正しくないからではない。正しくない記述であれば、出典は示されないか、信頼できない情報源か、信頼できるはずなのだけれどたまたま誤りが記されていたものに依拠していたか、わかりやすさのために厳密さを犠牲にしていた入門書を参照していたか、といったことが考えられます。
「執筆者の誤読」も入れておいてください。Uryah 2009年2月28日 (土) 15:39 (UTC)[返信]

要出典系テンプレートを貼る際には原則として理由をノート(か要約)に書き込むという風潮をガイドライン程度の重み(ルールではなく)で制定する、という提案をしてみます。ありとあらゆる記述に出典が貼られることが理想ではありますが、サブカルチャー関連記事が目立つ現在の日本語版Wikipediaでは非現実的ですし、無視できないほど多数の記述に「要出典」が貼られているWikipediaは便利ではありません。

不適切な要出典系テンプレートを剥がして良いという言明には賛成しますが、そちらをガイドラインに書き込むのは反対します:「何が不適切な要出典テンプレートなのか」で議論百出してまとまらなくなるのが落ちだと思いますし。--きたじま/あかみ 2009年2月28日 (土) 09:20 (UTC)[返信]

サブカルチャー関連記事についてです。通常百科事典は、あまりサブカルチャーを取り上げません。これは、従来の学問というものが、なかなか大衆文化を対象としてこなかったことに一因があるでしょう。しかし、わたしたちは、メインカルチャーとサブカルチャーを、それほど区別して扱うことはないと思います。ところが、これらの違いは、先行研究の量と質が違います。そして、大衆文化についての資料収集や分析、情報の蓄積は、マニアとかおたくとかコレクターと呼ばれる人によってなされてきました。そして、その情報が貴重なものであっても、主観的な分析や雑多な調査に留まったりすることも少なくなかったし、そもそも公表されることはあまりない。となると、かつて多くの学者が夏目漱石について研究したように、ラノベや漫画の作者や作品について調査しなければなりません。そして、そのような水準を目指すのでなければ、百科事典として信頼できるものには到達できません。そのような調査は、学者がこれから手をつけるよりも、その分野に興味を持ち、ウィキペディアに参加しようと考える人たちのほうが、向いているかもしれませんよね。そこで学問的な手続きのようなものから逸脱しないためにも、「検証可能性」は有効なはずなのです。競走馬や漫画やポピュラー音楽の一部では、秀逸な記事となっているものも出てきました。もっとも、このような場合は、要出典タグをたくさん貼り付けることよりも、志のある人が記事を書いて示すことや、プロジェクトごとに指針を持つようなことのほうが効果的なのだろうとも思います。--Ks aka 98 2009年2月28日 (土) 12:30 (UTC)[返信]
ウィキペディアはどのような百科事典を目指すべきなのか、を考えてみることも大事と思います。私はやはり紙の百科事典とは違うと思っています。その特徴は、サブカルチャーや歴史上のさほど有名でない人物のように、通常の紙の百科事典では載っていない項目への読者アクセスが非常に多いことです。この分野は、学者や論文に頼るよりも一般人の執筆者の方が多くの情報を持っています。個人執筆者では独自研究に陥りがちな項目もありますが、その項目が多くの執筆者の加筆推敲によって素晴らしいウィキペディア記事になっていった例をたくさん知っています。ウィキペディアで最もアクセスが多い(すなわちウィキペディアに求められている)項目がそれであるとすると、やはり紙の百科辞典とは執筆の方法も異なって考える部分も出てくると思います。私は、出典は基本的に付けるのが原則と言うことに異議はありませんが、出典がないから独自研究だから削除、とするだけでなく、時間をかけて多くの執筆者で加筆して信頼性の高い記事にしてゆくことも、ウィキペディアを世の中のためになる新しい種類の百科事典にする重要な方向と考えます。--寂華 2009年2月28日 (土) 14:23 (UTC)[返信]
(所感)私も濫用防止のために、もう少し要出典の貼付コスト(ノートへの理由表明条件等)を要求する運用の方がよいと思います。--yasumi 2009年3月1日 (日) 00:19 (UTC)[返信]
(コメント)張る行為に関しては、人の記憶などはあやふやなものですから、要出典を張られた際に「ここで述べられてといた」と説明できない記憶のみに頼ったあやふやなことをことを書くのがそもそも間違いのもとです。説明できるのであれば何回貼られようとも要出典ははずすことは可能なはずです。要出典とは説明責任(アカウンタビリティ)の請求ですから(サブカルチャーか否かを問わず)投稿者なり、説明可能な者が明らかにすべきです。
削除する行為については議論の手続きなしに行うべきではないので、議論の手続きなしに削除したものはいったん戻してから、議論の議論の手続きをして(削除者が議論に参加しないのであれば)戻す話だと考えます。(そして議論の結論が削除ならば削除する話です)。張る行為と削除する行為とは基準は別であり、張ったから自動的に(議論なしで独断で)削除できるというものでないことはすでにルールで明らかになっていると考えます。--あら金 2009年3月1日 (日) 03:14 (UTC)[返信]
ルールで明らかになっているとは知りませんでしたが、それが方針に分かりやすく明記されて居れば一番良いと考えます。また削除の議論になって要出典タグ貼り者が議論に参加する場合「とにかく出典がないのでルール違反で削除」と発言するだけではあまり建設的ではありません。やはり執筆協力する姿勢で議論に参加してもらえれば、問題がずっと穏やかになるように思います。--寂華 2009年3月1日 (日) 06:09 (UTC)[返信]
(愚痴りに来ました)出典無しを理由に議論無しのリバート・削除荒らしにあったの昨日からWikipedia:コメント依頼/Sabkakusikakuにてコメント依頼中なのですが、今度は松任城に要出典タグを貼り付けてノートで削除を宣言しています。どうも編集加筆の熱意が感じられず、要出典が削除のための準備運動に使われる傾向なのは否めません。要出典タグが剥がせないからと言って議論合意のない削除が出来ないことがルール化されているそうですが、私も寡聞にして知りませんでしたし、皆さん認識の上で要出典タグを貼り付ける環境にあるのでしょうか? そして愚痴りたくなるのです、「要出典タグを貼る君はどんなに素晴らしい記事に編集してくれるんだろうか・・・」大抵の場合が貼り逃げ、又は削除の事前運動なんですがね。--yasumi 2009年3月2日 (月) 12:56 (UTC)[返信]
要出典タグ→記事削除を仕掛けるのはこれが原因かな、というのは思いつかないわけでもないんですよね。公式な方針である検証可能性にこういう表現があります:「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。」この記述は本来適切な出典がない記事を執筆する執筆者へ向けた警鐘と読み取るのが正当なはずなのですが、逆に削除を正当化するものであると読み取ることができるのかもしれません。
おそらくSabkakusikakuさんもWikipediaのルールを金科玉条として裏読みしていると思うので、「要出典な記事/記述は削除/消去されてもやむを得ない(ので、そういう記事を書く場合は削除/消去(/改善編集)されることを前提とするように。けれども、要出典なことだけでは第三者が当該記事/記述を削除/消去する正当な理由ではない」こと自体を公式なガイドラインに組み込むことまで視野に入れることを考えるべきでしょう。--きたじま/あかみ 2009年3月3日 (火) 05:20 (UTC)[返信]
裏読み・合わせ技で要出典が削除の尖兵に使われているんですかねえ。私も要出典タグの貼り方を見に行ったとき特に削除へのプロセス注意も無かったので、実際に要出典タグ添付→削除という表層事例ばかり見ていたのでそんなもんかと思っていた一人ですし。テンプレページに注意を書くとかの要出典タグの濫用を防ぐ良い方法は無いのでしょうか?上でノートへの説明を義務化したりするのが良いと思ったのは、張付コストがUPすれば、もう少し本来目指した要出典の本領が発揮できるんじゃないかと思うし、削除に入るのであれば張り逃げに終わらずにそれなりの熱意を持って記事を改善してもらいたいです。どうもトリガーハッピーな人が色々居るので、もう少し引き金は重くなると良いな、と思います。--yasumi 2009年3月5日 (木) 12:35 (UTC)[返信]
なんていうか、要出典の付与が目的化している人もいますからねえ…出典は検証可能性の向上や事実に基づかないような独自研究の除外とか中立性を保持するために記述者当人の意見を抜きにするためになどなど、他のガイドラインにも密接に関係しあってるわけで、その意味において全ては「Wikipediaは百科事典であること」に集約される要素のひとつではあるんですが、要出典が目的化してる利用者にとっては「<ref>~</ref>が文中に見当たらない」とか「参考文献の節が無い(悪くすれば参考文献が記述してあってもそれら文献の存在を無視して)」なんていう理由付けで付与され、その一方で記事を書く上で全く参考としておらず出典でもなんでもない「記事内容と同種ないし近しい言説が掲載されている」モノ(参考資料ではあるが)を示してやれば出典が掲載されたと認識するような「要出典を付与することが目的とする者」や、あるいは独自研究ないし演説をする際に「(ググッて出たような)自身の主張に近しい(と当人がみなす)書籍を羅列して出典と称する」ような利用者もいたりして…その両者に共通していえるのは「出典が何たるか」を全く理解できていないことなんじゃないかと思う次第。出典は記事の情報の出所を明かして検証可能性を満たし、読者がその妥当性を計り理解を深めるために利する情報であって、2ちゃんねるあたりで演説している連中に食い下がってソースソースと無邪気に騒いでる連中に食らわせる飴玉じゃあないと思います(漏電中)。--夜飛/ 2009年3月5日 (木) 12:55 (UTC)[返信]
これまでの議論で方向性が出た、と理解してよろしいのでしょうか?--寂華 2009年3月8日 (日) 15:48 (UTC)[返信]
◆はっきりと「コレだ!」という結論は誰も出していないように思います(また、シロクロはっきり付くような話題でもないと、俺自身は思っています。なので「方向性」という表現をなさったのかもしれませんが)。
もし、寂華さんのなかで何らかの結論・方向性が出ているのであれば、ご提示いただけると(俺自身もそうですし、他の方にとってもそうだと思いますが)後学のためになってよいように思います。よろしければ、ご提示願えませんか?--ish-ka a.k.a.lisky@s.i.b! (talk/wikimail/contributions) 2009年3月9日 (月) 13:05 (UTC)[返信]
検証可能性の「この文書の主旨」の句追加のとおりです。--寂華 2009年3月9日 (月) 22:22 (UTC)[返信]
議論を検証可能性のノートで提案しましたが、なかなか・・・・--寂華 2009年3月10日 (火) 11:13 (UTC)[返信]
寂華さんは、このように[3],[4]、合意もなくWikipedia:検証可能性を弄るのをやめてください。あなたは何かを提案するとかそういう以前の問題です。--fromm 2009年3月10日 (火) 13:10 (UTC)[返信]
私はかなり多くの要出典を付ける方ですが、これは明らかに個人的見解だと思うものは最初から削除しますし、要出典タグを付けるのは、きっと資料はあるんだろうなと思える記述に対してです。サブカルチャー関係の記事ではどうしても削除や要出典タグが増えますが、サブカルチャーを対象にした学術論文でも一次資料は研究者ではないマニアやライターが書いた文章を使うのが普通ですから、そういうものを時間があるときに示していただければよろしいだけではないかと。急ぐ必要は無いのですから。現状では出典を全く示さずに記事を書かれる方も沢山いらっしゃるのですから、そういう方々の存在とバランスを取る意味でも要出典タグを付ける編集が多い者の存在はあって良いんじゃないでしょうか。無理に型にはめずとも。--Peachkiller 2009年3月16日 (月) 23:41 (UTC)[返信]
一つ確認させてください。ライターの項にはまったく出典が記されていないので、削除しようと考えています。方針に照らしてもそれは正当な行為だと思いますが(「要出典」タグの貼付はあくまで温情であって、本来は「誰でも取り除くことができる」「除去されても文句は言えない」ものですからね)あたかもそれが悪いことのように議論されているのが気になります。仮に削除を実行したとして、ブロックなどの懲罰を受けることはあり得ますか? 114.164.236.4 2009年3月19日 (木) 12:14 (UTC)[返信]
あなたはペナルティを受けない行為であれば何をやってもいい、という考え方を取られるのでしょうか。誰でも要出典な記事を取り除くことができるというのは「出典を明記していない記述を執筆した著者に向けた警告」と考えるのが妥当であり、たとえペナルティは発生しないとしても要出典な、しかしそれ以外の点では内容上問題のない記事を合意無く「削除する行為」それ自体はWikipediaの目的に照らして荒らしとしての評価に値する、即ち道義的によろしくないことなのは間違いないでしょう。削除して記事をスリム化することも時には必要かも知れませんが、本来は記事を充実させる方向へ向かうことがWikipediaの目的に照らしてより妥当であるという根源的な解釈を忘れないでいただきたいものです。
もし「要出典」な記事の大量削除に踏み切った場合、当該ページをめぐる議論としてユーザー間で合意が得られていなければ(そして、「要出典」だけでは実際に記事を削除するのに十分な理由とならないと多くのユーザーが考えているのはこの井戸端で議論されている通り)そもそもWikipediaの利便性を損ねる行為として荒らし扱いされブロックされることも大いにあり得るでしょう。では、大量の記事を削除するのはNGだが1つの記事を削除するのはOKということがあるかどうか?私はそうは思いません。--きたじま/あかみ 2009年3月20日 (金) 05:36 (UTC)[返信]
これまでの議論が全く踏まえられていないIP氏の発言に愕然とします。そもそも「温情」とは? 誰から誰に対する・いったい何のつもりでする発言なのでしょうか。読者に対して記事の品質を保証するために出典が必要である、だから出典を欠いた記事に対し出典を要請する、というのが「要出典」の趣旨であって、少なくとも削除の免罪符ではないはずです。そうした読者に対する配慮が欠けた参加者の執筆はWikipedaiの成長に資しません。自分が何を言っているのかよく考え直してください。--ikedat76 2009年3月20日 (金) 14:02 (UTC)[返信]
きついことを申し上げますが、私から見れば、きたじま/あかみ さんや、ikedat76さんのほうがここまでの議論を踏まえられていない、と感じられます。
2009年2月24日01:43のゆきち さんの投稿は少なくともこの節の議題提起内容に懐疑的で、2009年2月24日03:50のFuji 3さんは「基本的に要出典タグの乱用というのはありえない」と書き、2009年2月24日05:11の氷鷺さんもFuji 3さんに同調し、2009年2月24日10:30のネコバットさんは出典の要求は正当であることを確認し、2009年2月24日11:22のあら金さんも同様と、出典を示す責任はあくまで執筆者・加筆者側にあることを主張している人は少なくありません。
Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側に(WP:V)を素直に読めば、出典を示す責任は執筆者・加筆者側にあり、出典のない記述に出典を求めること、除去することは正当であって、出典を求めるにせよ、除去するにせよそれを行うにつき負担を求められるようなことではない、とういうことは明白な方針として存在していると私は思います。また、上にアカウント名を挙げた方々や、Ks aka 98さん、凪海さんも同じか、近い意見だろうと思います。少なくとも、WP:Vを解釈するにつき、出典のない記述を除去するのは正当であり負担を求められることはないという素直な解釈(だと私は考えますが)を覆すような合意が確認されたとは思えません。
2009年3月19日12:14の114.164.236.4さんの考えは少し極端かもしれませんが、これまでの議論をふまえた上でなお、非難されるようなものではないと思います(というか、WP:Vはどちらかといえばそういう考えに肯定的なように読める)。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2009年3月25日 (水) 16:17 (UTC)[返信]
議論を再確認してきました。mizusumashiさんの読みこそ、失礼ですが議論の経緯を勘違いしていると考えます。なぜなら、挙げられている議論は「要出典タグ等の方法によって出典の明示を要求する」ことへの是認であり、要出典タグを根拠に「記事を削除する」ことへの是認ではありません。一方、私の発言は記事を削除することの憂慮であり、これまでの議論とは矛盾していません。立場の表明として申し上げると、私自身も要出典タグを貼ること自体を拒否はしません。もちろん「なぜ要出典なのか、どのような出典が必要なのか」をノートや要約等で明らかにすることは(Wikipediaの明文化されたルールではなく)よりよい議論を進めるために奨励されると考えます(自分自身もここの議論に参入するようになってから心がけるようにしています)。
しかし、それと記事の削除は全く別問題でしょう。ここまでの議論では要出典タグのみを根拠とした記事削除について是認するような発言は見あたりません。mizusumashiさんが自らの主張を強化するために根拠にされているあら金さまの発言で、まさに2009年3月1日 (日) 03:14 (UTC)の発言で(以下引用)「自動的に(議論なしで独断で)削除できるというものでないことはすでにルールで明らかになっていると考えます」(ここまで引用)という内容があります。ikedat76さんの発言についても、要出典タグの貼り付け自体ではなく要出典であることを理由とした記事の削除について憂慮を表明されていると考えるのがより妥当な読み方でしょう(勘違いしていたらご指摘ください>引用・言及された皆様)
ただし、原理主義的ではなくより現実的な解釈を書き添えておきますと、この手の議論は最終的にバランスの問題に帰着すると考えます。現在のWikipedia日本語版で、明確な出典が記載されていない記事を全部削除したらどのようなことが起こるでしょうか?おそらく大半の記事が消滅することが推測できるでしょう。そうなったWikipediaは果たして価値があるでしょうか?一方、Wikipediaの価値を高めるためにはすべての記事に出典が貼り付けられていることは確かに重要です。となると、いま「この場で」要出典タグが付いている記事はどれも削除して良いというコンセンサスを作ってしまうのはバランスを崩すことになるわけで、いま現実的な選択を考えるならば要出典タグが付いている記事については可能な限り改善を目指すべきであり、削除は「禁止されていないと明示される」程度の意味合いで受け取るのが妥当ではないでしょうか。そして、将来的に出典がついている記事の比率が高まれば、要出典タグのついている記事はタグがついていることだけを理由に削除して良いという形に持っていくことも不可能ではないかもしれません。というかWikipediaはそれを理想としている、と考えるのはWP:Vが「どちらかといえば肯定的」とご指摘された通りかもしれません。--きたじま/あかみ 2009年3月25日 (水) 17:39 (UTC)[返信]
ノートにて応答いたしました。ご一読くだされば、幸いです。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2009年3月26日 (木) 08:31 (UTC)[返信]

(インデント戻します)まず、管理者でなければ削除することはできません。編集で除去すること、削除依頼に提出することは出来ます。ブロックは懲罰ではありません。ま、言葉の綾ではありますが。

記事があり、出典がなければ編集で除去することは可能ですが、編集除去できるというだけで、除去するべきとはされておらず、何かを書くときに出典を示さないことは正当化されないでしょうが、出典なく書かれてしまったものを除去するということが常に正当化されるわけではありません。出典なく書いた利用者は、まだ検証可能性の必要性を理解していない初心者なのですから、出典を示すことが大事だということを説明してあげてください。

わたしたちが目指すのは、検証可能な信頼できる情報源に由来する記事として充実させることであり、わたしたちは誰でも編集する事ができるのです。不確かな記述を除くことは記事を改善させるためのひとつの方法ですし、批判的であったり、内容が疑わしいものであれば、これを除去し、適切な記述に改めることが望ましいですが、妥当な記述であるなら、記述を除去しようとする前に、自ら出典となるものを探して加筆することを考える必要があります。とはいえ、出典のない記事の除去には、合意は不要ですし、除去のみで荒らしに値することではありません。

その記事をよりよいものにしようとするための選択肢として編集除去しか選ばない/選べないままであれば、ブロックされる可能性はありますし、除去する際に反対された執筆者に対して方針の意義や重要さの説明を怠ったり、高圧的なふるまいばかりをしていれば、これもブロックされる可能性はあると思います。

繰り返しになりますが、検証可能性の方針は、編集除去を可能にし、執筆する側に出典を付することを求めますが、除去しなければならないとするものではありません。現実には、出典のない記事はまだまだ多いですし、うろ覚えのまま書いたり、自分の考えを書いたり、出典をしめすということがどういうことかわかっていないまま、自明であるから示す必要がないと強弁したり、出典を示さずに書くことを正当化させようと議論に望むような事例もみかけます。コミュニティ全体が、その必要性を理解し、出典をつけるようになり、最低限の記事の質を担保できるようになるのがいいわけです。そのために、一度出典のない記事は削除してしまうという荒療治が必要だ、ということであれば、検討の余地はあるでしょう。個人的には、それよりも、おそらく出典を示しながら書くことに不慣れであったり、どのように示せばいいのかがわからなかったりという人たちに、必要性ややりかたを覚えてもらっていくことで、情報源に基づいた記事を書いている人は、きちんと出典を付けているという状態になる。それによって、慣れない人に説明できる人も増え、あいまいな記述や自分の考えを排することが容易になり、自分は出典をつけるけれど、その上で、どういう問題点があり、どういう運用をするのがよいかを議論できるようになっていく。そのほうが、よりよい百科事典になると考えます。--Ks aka 98 2009年3月25日 (水) 19:45 (UTC)[返信]

出典追加後のタグ剥がし、要出典タグに対する応答がない場合など

すみませんが、この場をお借りしてお尋ねしたいことがございます。「要出典」タグを貼った方を「甲」、貼られた寄稿者を「乙」、第三者を「丙」としますが、
  1. 乙は要求に応えて出典を示す際にタグを剥がしてもいいのでしょうか?それとも、甲が出典提示を確認した段階で甲によって剥がされるべきなのでしょうか?
  2. また、甲が「要出典」タグを貼ってノートページに疑点を記し、それに対する乙の応答が無い場合は再度乙の会話ページに呼びかけを行うべきなのでしょうか?
  3. 更に、乙の反応、または丙による意見も無く、甲がその部分の記述を削除、または改変する場合、その期間(タグ貼付から改変まで)の目安といったものはあるのでしょうか?
--胡亂堂 2009年3月25日 (水) 14:47 (UTC)[返信]
乙が剥がせばよいですよ。ある程度、情報源が特定できれば、まずは、それでよいと思います。ただ、その記述と、示された情報源にある記述・内容に齟齬があれば、再度指摘されるでしょうし、この場合は、再度「要出典」とされる可能性があります。不慣れな間は書誌情報の不足や書式上の不備などがあるかもしれませんし、また、その情報源の信頼性などについて、意見が分かれ、議論となるかもしれません。出典の有無だけでないところで、よりよい記事になるよう、対話を進めていただければと思います。
乙の反応がない場合、甲自身が出典を探す/乙の会話ページなどで出典の提示を促す/関連記事やプロジェクト、詳しそうな執筆者にお願いしてみる/記述を除去する/要出典としたまま記述を残す、などなど、さまざまな対応の仕方があります。これは、その記述がとりあえずは信頼できそうかどうか、誤りであった場合にどういう影響が考えられるか、批判的な記述かどうか、情報源となりそうなものを探すのがどの程度難しそうか、その情報はその項目にとって重要な位置を占めるかどうか、といったところから、個別に判断するしかないと思います。--Ks aka 98 2009年3月25日 (水) 15:53 (UTC)[返信]
(編集競合が起きましたが、そのまま)
私の意見としては、出典が付いたのであれば誰が除去してもかまわないと思いますので、しいていえば「乙は要求に応えて出典を示す際にタグを剥がしてもいい」と思います。ただ、ノートですでに議論になっているのであれば、ノートで出典をつけたので「要出典」タグをはがしてもかまわないかと質問し、1週間くらいまったほうがよいと思います。
二点目については、そこまでする必要はないと思いますが、そうしてくださればより望ましいと思います。
三点目は、このサブページで議論されていることに関係しますが、どうも見解に幅があると考えたほうがよいように思います。ただ、改変については、文章・内容としてよほどの改悪になるというのではなく、ほぼ同じ内容で出典をつけ、より出典に正確な内容にあらためるならば、待つ必要はないと思います。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2009年3月25日 (水) 16:17 (UTC)[返信]
ありがとうございました。3点目については、今後の上での議論に注目したいと思います。--胡亂堂 2009年3月26日 (木) 10:52 (UTC)[返信]

翻訳と「独自研究」について

お願いいたします。私は初めてWikipediaに「アラトリステ(映画)」というページを書き込んだCoinntoと申します。現在も地方館で順次公開中のこの映画は、馴染みの薄いスペインの歴史物である上に、長尺なため完成時に一時間近くカットされ、原作を知らない観客にとって、とても分かりにくい内容になっています。そのため日本語字幕にもミスが多く、有志の方がノートページに「字幕の正誤表」を書き込まれました。 しかし、この「正誤表」は「独自研究」に当たるとして、本文に書き込まれた「ノートページに正誤表がある」という記述や内部リンクが削除されてしまいます。 本文とのリンクは、日ごろノートページまではチェックしない閲覧者に「正誤表」があることを知らせる為に付けているので、削除されることに困惑しております。

この「正誤表」は、本文ではなくノートページに書き込まれ、執筆者も謙虚に更なる訂正と対話を求めています。スペイン版DVDの字幕を頼りに逐一訳しているので、「独自研究」と言われるほど逸脱した部分があるとは、どうしても思えません。内部リンクを貼ることすら許されない内容だとは思えないのです。そこで、Wikipediaに詳しい方々に、どの部分が「独自研究」なのか、どう直せばルールに沿うのか、お尋ねしたいと考えました。

映画の字幕ですので、ネタバレになりますが、よろしければご一読いただけませんでしょうか。字幕の一部しか記載されておりませんので、必要でしたら、適宜スペイン語と英語の字幕を書き加えます。どうか、よろしくお願い申し上げます。--Coinnto 2009年3月5日 (木) 04:19 (UTC)[返信]

(コメント)「独自研究」か否かの前に、その正誤表が正しいかどうかを保障するのは誰かという観点があります。その正誤表の検証可能性はどのように担保されているのでしょうかということです。また別の観点としては、その記事を理解したり作品の芸術性を認識する上で正誤表は必須のものでしようか?必須でなければWikipedia:ウィキペディアは何ではないかなどの「(スペイン語の)語法案内ではありません」とか「(字幕が間違っているという)独自の調査結果を発表する場所ではありません」とか「(字幕が間違っているという)事実の暴露や報道をする場所ではありません」とか「(間違な字幕の)データベースではありません」とかに該当しないというための表なのでしょうか? たとえば特定の場面が字幕の誤訳により芸術としての解釈に齟齬をきたす(作品の根幹が理解できなくなるとか、作品全体としての解釈が反対の解釈に導いてしまう)誤訳であれば有用性はあるかもしれませんが、正誤表の目的が「字幕の誤訳を網羅的に列挙する」意図しかなければ「ウィキペディアは何ではないか」のガイドラインにより無くともよい表と評価されると考えます。--あら金 2009年3月5日 (木) 07:51 (UTC)[返信]
(コメント)アポロ13#日本語版での翻訳の誤り等についてにも同じようなことでしょうか。この記述自体は親切心に基づいていると思いますし、除去してしまうのももったいない気がします。ただ、第三者が雑誌などの媒体上で誤訳を指摘したわけではなく、利用者本人が発見(?)した誤訳ですよね?そうすると独自研究という非難は甘んじて受けるしかないでしょう。またザ・リングでも「66年の流産」→「66の流産」という有名な[5]誤訳がありますが、第三者の出典無しにザ・リングの記事中でわざわざ指摘するのは適切でないように思います。ざっくり言うと、誤訳の指摘というのは映画評論に近くWikipediaの守備範囲からは外れるかと。--fromm 2009年3月5日 (木) 09:13 (UTC)[返信]
(コメント)ノートでの議論を拝見しましたが、目的外利用との印象を受けました。先人の経験[6]を参考にして、Wikipedia 外で独自に活動をされることを勧めます。 --Yhiroyuki 2009年3月5日 (木) 11:44 (UTC)[返信]
(コメント)まさしく検証可能性の原則に相当するケースだと思います。信頼できる情報源にそのような指摘があると示すことが可能であれば問題ないとは思うのですが・・・。Wikipediaの影響力は絶大です。検証可能性の薄い情報が、どれほどWikipediaを発信元として世の中を一人歩きしているか、お気づきの方もおられますよね。服部半端 2009年3月5日 (木) 12:38 (UTC)[返信]
その言語に慣れた人にはそれが誤訳だと指摘することはほとんど1+1は2だというぐらいのことに感じられるかもしれませんが、誤訳の指摘はどうしても解釈を含んだものになります。ウィキペディアでは解釈には出典が必要とされます。なので誤訳だと指摘した情報源を見つけるか、、あるいはウィキペディア以外にその調査結果を公表するかですね。--Afaz 2009年3月5日 (木) 13:04 (UTC)[返信]
あら金様、お返事をありがとうございました。正誤表の検証については、本国スペインで発売されたDVDのスペイン語字幕(セリフ通り)や英語字幕(スペイン語からの直訳)を添付しております。理解については、例えば「ブレダを包囲した」は、「ブレダが降伏した」(一年間も包囲した末に、ようやく降伏させた場面です)。「トゥーリン」は「トリノ」である等、訂正が必要な誤訳を書き出しました。作品の根幹については、主人公がヒロインにプロポーズするか否かの問題で…こう書くと、非常に安っぽい話に見えると思いますが、これは例えば「宮本武蔵はお通さんにプロポーズするか」というレベルの問題なため、見過ごすことが出来ませんでした。その他にも、これは容認できないという部分がございましたら、更なるご指摘を、どうぞ宜しくお願い申し上げます。--Coinnto 2009年3月5日 (木) 15:26 (UTC)[返信]
fromm様、大変遅れまして申し訳ございません。独自研究でも削除の対称にならずに済めば、ありがたいことです。「雑誌等に発表されている」という案件については、この映画が史実に基づいているため、ある程度まで百科事典でカバーできると思います。フィクションの部分に関しては、スペインで、すでに発売されているDVDの字幕を参考に、日本語字幕と比較して、「意訳にしても、それでは正反対です」と指摘しております。DVDの字幕(セリフ通り)は、「発表されている」の範疇には入りませんでしょうか。活字媒体としては、スペイン語のシナリオ本も発売されています。これらは、いわば原典だと思うのですが。書きすぎの部分も確かにございますので、どうぞご指摘をお願いいたします。--Coinnto 2009年3月5日 (木) 15:26 (UTC)[返信]
Yhiroyuki様、分量の多いページをお読みいただきまして、ありがとうございました。Wikipediaのルールに則った形で、正誤表を掲載できればと儚い望みを抱いております。
服部半端様、お返事が遅れまして申し訳ございません。今回の正誤表は、日本語字幕に関するものですので、スペイン版DVDのスペイン語字幕(セリフ通り)と、その直訳である英語字幕は、「信頼できる情報源」と言えませんでしょうか。日本語字幕との差異を確認するだけならば、自動翻訳で十分です。この正誤表で最も主張されているのは、ストーリーの柱とも言える主人公とヒロインの関係ですが、日本語字幕はここに大きな問題があります。原作の小説には、この部分は描かれておらず、言わば映画そのものが原作です。スペイン語字幕か、直訳の英語字幕を正しく読み取れば、誰でも原典に当たったことになるわけです。それでも、どこかの活字媒体に記事が載らなければ、誰も確証を得られないのでしょうか。そこのところが、どうも分からず困っております。(シナリオもスペイン語のみですが、手元にございます)。--Coinnto 2009年3月5日 (木) 21:19 (UTC)[返信]
Afaz様、本当に大変遅くなりました。確かに「正誤表」と「意訳について」の記事には、翻訳のクセを指摘したものもございました。これは反省せねばなりません。出典が必要とのご指摘も、ありがとうございます。歴史上の人物名や地名は辞書に頼り、一部は原作の小説の該当箇所を明記いたしました。原作にないオリジナルの部分はスペイン版DVDの字幕を参考にしています。上の服部半端様へのお返事にも書かせていただきましたが、スペイン語字幕はセリフ通りですし、映画製作サイドによる英語字幕も、それなりに権威があると思っております。--Coinnto 2009年3月5日 (木) 21:19 (UTC)[返信]
まずは端的に、わたしの見解としてCoinntoさんのご質問にお答えします。
1.スペイン版DVDのスペイン語字幕(セリフ通り)と、英語字幕は、「信頼できる情報源」かどうか
Coinntoさんがおっしゃるような「正誤表」を作成するための「信頼できる情報源」にはあたらないと思います。
2.スペイン語字幕や英語字幕の存在にかかわらず活字媒体の記事が必要かどうか
「信頼できる情報源」が別途が必要だと思います。(必ずしも「活字」印刷物でなくともよい。ネット上のソースでも可。)
いま一度、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないをご覧ください。
わたしはCoinntoさんのいわれる「正誤表」は、発表された情報に対する未発表の分析結果にあたると考えます。すなわち、独自研究です。スペイン語が元の映画ということですから、スペイン語が原典、つまり一次資料にはなると思います。この原典にあたられたことを強調なさっていますが、このスペイン語の字幕を読むことで「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」(Wikipedia:独自研究は載せないより)が可能でしょうか。わたしは無理だと思います。無理であればこそ、翻訳の専門職の人が存在するわけです。しかもその専門職の人をしてパーフェクトにはなりえないのが実態です。問題の記事のノートでも、もう1人ご参加の方がやはりスペイン語は分からないとおっしゃっているとおり、それが普通でしょう。このような状況であるにもかかわらず、Coinntoさんはさらに、スペイン語版と日本語版字幕の記述を照らし合わせた上で、この映画を「どう見るべきか」にまで踏み込んでおられます。Wikipedia:独自研究は載せないでは、一次資料を基に記事を書いてもよいのは、先ほどあげた「誰でも検証できるかどうか」という観点に加えて「分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない記事」であること、としています。この点でも、Coinntoさんのおっしゃる「正誤表」が「独自研究」にあたると考えます。「英語字幕」が「直訳」であるからそれを見れば「誰でも分かる」という理論を展開するのは屋上屋を架すようなもので、同じ問題を多重化することにはなってもなんら手助けにはなりません。「英語字幕がスペイン語の直訳だ」と評している検証可能かつ信頼性ある情報源を探すところから始まるだけのことです。
せっかく井戸端で「正誤表」の意義について討議を呼びかけたのですから、ここで議論が行われていることを理由に記事ノートで「正誤表」の是非でなく、内容について議論を再開し、推し進めようとする行動には賛同しかねます。服部半端 2009年3月6日 (金) 16:56 (UTC)[返信]
服部半端様、ありがとうございます。大変お手数をおかけいたしました。
しつこいようですが、更に皆様にお尋ねいたします。「正誤表」は検証可能な事実のみとし、どうしても問題ありと思われる意訳は、日本語字幕と英語字幕を併記して、「ここは訳し方が違うと思うのですが、どうでしょうか?」と、問いかけるに留めた場合、書き込みの許容範囲に収まるでしょうか。「こうであるべき」と断定するのではなく、閲覧される全ての方に対して、信憑性のある回答を求めたいのです。
「正誤表」として残す部分の存在価値については、この映画が「三十年戦争」「八十年戦争」という史実に基づくため、例えば「エンギエン侯爵」という字幕は、実際はアンギャン公という実在の将軍であること等、Wikipediaに相応しい内容だと思います。--Coinnto 2009年3月7日 (土) 06:03 (UTC)[返信]
「ここは訳し方が違うと思うのですが、どうでしょうか?」と、問いかけるに留めた場合、書き込みの許容範囲に収まるでしょうか。「ここは訳し方が違う」と思っているのは誰ですか?それがWikipediaの執筆者の考えに過ぎないなら、記事に書くのはご遠慮下さい。
この映画が「三十年戦争」「八十年戦争」という史実に基づくため、例えば「エンギエン侯爵」という字幕は、実際はアンギャン公という実在の将軍であること等、Wikipediaに相応しい内容だと思います。「映画の中のエンギエン公爵=アンギャン公という実在の将軍」は誰の判断ですか?そのような判断を記載した「信頼できる情報源」があるなら、その情報源を明記した上で記事に書いてください。そうでなければ、やはり記事に書くのはご遠慮いただくしかないと思います。--Dwy 2009年3月7日 (土) 07:28 (UTC)[返信]
信憑性のある回答を求めたいのです
Yahoo!知恵袋をご利用ください。
「正誤表」として残す部分の存在価値
Wikiepedia的には個々の誤訳の紹介自体は必要でありません。例えば『ロード・オブ・ザ・リング』での「嘘をつくな」のような大きなものが一つあれば十分です。誤訳の背景とか評価とか、その後どうなったとか、そういう情報の方がふさわしいです。 --Yhiroyuki 2009年3月7日 (土) 13:42 (UTC)[返信]

(インデント戻し)Dwy様、ありがとうございます。Dwy様の書き込まれた「検証可能性を理由に記述を除去されてしまったら」は、以前から参考にさせていただいておりました。私は、スペイン語であっても「シナリオ」が最も権威ある情報源だと思っておりましたので、ご迷惑をおかけしております。
この「正誤表」はノートページに書き込まれたものですので、「ノートに移動して、他の編集者に出典の提供を呼びかけてみる」というDwy様のアドバイスに則り、例えば、原文と訳文を併記して、「このように訳す根拠について、出典を求めます」と書き込むのは、いかがでしょうか。本当にしつこくて申し訳ございません。意訳によってストーリーが正反対になった部分がございますので、お許し下さい。
史実に関する「信頼できる情報源」としては、それぞれWikipediaにリンクを貼っておりますが、百科事典や歴史書と差し替えることも可能です。--Coinnto 2009年3月7日 (土) 23:49 (UTC)[返信]
Yhiroyuki様、ありがとうございます。実は、自力で理解できない部分について、「Yahoo!知恵袋」も利用いたしました。ただ、識者と思しき方からお答えを頂いても、その回答者に、「本名を名乗って、Wikipediaで信頼できる情報源になって下さい」とまでは、お願いできませんでした。
「正誤表」が文章ではなく、リストになっているのは、映画が現在も地方館で公開中のため、照らし合わせる際の利便性を求めました。
大きな誤訳については、確かな情報源としてスペインの映画製作会社に、返事が来るまでしつこく問い合わせるという手が残っておりますが、実は、この映画に関しては、数か月後に発売される日本版DVDで、字幕がかなり修正されるという話題が、ネット上に広まっています。

そこで、皆様に再度お尋ねいたします。あと二か月ほどで映画の公開が終れば、この「正誤表」は事実上、御役御免となります。「正誤表」の執筆者とも話しましたが、日本語字幕の翻訳者さんを責めるための記事ではないので、日本版DVDが正しく修正されさえすれば、どなたかの判断で削除されても、何の蟠りもございません。(ただ、どうか公開終了まで、あと二か月はご容赦ください)
ですが、今回のようにストーリーが正反対になる程の誤訳があり、本来のセリフがシナリオ等で確認できるにも関わらず、スペイン語であるとの理由で認められないことには、やはり違和感を覚えます。大ヒット映画ではないので、「映画紹介」以上に踏み込んだ記事は期待できません。
これは、「正誤表」の全体ではなく、最も訂正が必要な、「正反対になった主人公とヒロインの関係」の部分のみの質問ですが、仮に映画製作会社に問い合わせ、運よく回答が得られたとしても、その文章もまたスペイン語です。
こういう場合、皆様でしたらどう対処されますでしょうか。伝をたよって、大学のスペイン語学科の教授に「お墨付き」を頂こうかとも思いましたが、「Wikipediaの映画の項目のために」とお願いするのは少し憚られる方で、実行はいたしませんでした。プロの翻訳家に依頼する方法もありますが、どの程度のプロならば認められるでしょうか。
「正誤表」そのものについては、現在の日本語字幕の中で、気になる点を書き出したものですので、書き過ぎの部分を削除することには、全く異議はございません。
お尋ねすべきことは、たぶん、これで全てだと思います。どうか、よろしくお願い申し上げます。--Coinnto 2009年3月7日 (土) 23:49 (UTC)[返信]

(コメント)なんというか、ご自分の都合ばかりを前面に押し出したコメントに思えます。既に複数の方から方針について指摘がありますが、それらの方針文書は読んだのでしょうか。読んでなお上記コメントであれば方針に従う意思なしとみなされても文句は言えないでしょうし、読まずに書いてるなら、まず方針を熟読・理解の上でコメントしてくださいとしか言えません。-- 2009年3月8日 (日) 01:10 (UTC)[返信]
(コメント)その誤訳が真に重要なものであれば、スペイン語版をもとにしてあらすじや登場人物紹介を記述し、脚注で日本語版の字幕について触れるという形で記述できるはずです。もし、正誤表という形でしか記述できないのであれば、それは重要ではありません。 --Yhiroyuki 2009年3月8日 (日) 06:27 (UTC)[返信]

Coinntoさんについて、Wikipedia:管理者伝言板/投稿ブロックにて報告をいたしました。メインページに明記してあるとおり、「基本方針に賛同していただけるなら」誰でも記事を編集したり新しく作成したりできますが、逆に方針を理解しなかったり同意しないのであれば、記事の編集はお断りです。

Wikipediaはそのシステム上、誰でも編集できます。しかし、その目的は百科事典を作ることであり、百科事典である以上、その記事は信頼性のあるものでなければなりません。「誰でも編集できる」と「信頼性のある記事」とは矛盾します(なぜなのか説明する必要があるでしょうか?)。だからこそ、Wikipediaではいくつかの基本方針が設けられ、書き手に制約を課しています。

まず、記事の記述には「Wikipedia:検証可能性」が求められます。「検証可能性」とは、公刊された信頼できる情報源にもとづいた記述であることを意味し、簡単に言えばしっかりした裏付けなり根拠なりのある記述であることが必須です。言い換えれば、Coinntoさんであれ私であれ、あるいは他の人であれ、個々のユーザが「私はこう思う」だけでは記事を書いてはいけないというのが原則なのです。「私はこう思う」だけで書いてよければ、悪意を持って嘘を書く(信頼性のない記事を書く)ことを阻むことは出来ません。また、インターネットでは「自称専門家」と本物の専門家を区別することは困難です。だからこそ、裏付けなり根拠なりを書かなければいけませんし、それなしではWikipediaの目的の実現は妨げられてしまいます。

最初から指摘しましょう。「日本語字幕が誤訳である」という命題の根拠は何ですか? 正誤表の翻訳が語学や史実等の観点に照らして正しいというその根拠は何ですか? くどいようですがCoinntoさんが「誤訳だと考える・思う」ではダメです。掲示板は信頼できる情報源ではなく、根拠になりません。専門家やプロの専門家に「お墨付き」をもらっても、その「お墨付き」が公刊されたものでないかぎり、やはり根拠になりません。

もっと簡単に質問しましょう:現在公開されている日本語字幕が誤訳であるという判断をしたのはで、その判断はどこ(書籍、雑誌、論文、専門的な権威のあるウェブサイト…等々)を見ればわかるのでしょうか。

ここまでの発言を拝見するに、この質問をクリアできるような情報源をお持ちではないように見受けられます。郁さんが言われるように、基本方針をまず虚心に熟読し、それらに従ってご自身のやりたいことを出来るのか否か、冷静に判断してください。いままでのご発言を見る限り、指摘された基本方針の文書を読んだ上での発言であるとはとうてい判断しえません。

なお、あまり言うべきではないかも知れませんが、基本方針に従えない方の参加は強制的にお断り(Wikipedia:投稿ブロック)される場合がございます。ご注意ください。--ikedat76 2009年3月8日 (日) 06:34 (UTC)[返信]

郁様、Yhiroyuki様、ご指摘をありがとうございました。お返事を用意している間に、Ikedat76様からも書き込みを頂きましたが、とりあえず、この文章を投稿いたします。
「スペイン語が認められないことに違和感を覚える」という文章は、確かに誤解を招く表現でした。お詫びいたします。よろしければ、下記の文章をお読みください。
皆様のコメントは、本当に時間をかけて読ませていただきました。そのために毎回お返事が遅れ、申し訳なく思っております。気付いた誤訳を全て書き出すのは誤りだということも、スペイン語のセリフも現状では「信頼できる情報源」に当たらないということも教わりました。あと二か月間は残したいという記述も、言葉足らずでした。どうかお許しください。
私が井戸端に質問させていただいた動機は、ノートページで「独自研究」との指摘を受けた記事が、いつ削除されるか分からない。削除されない記事にするには、どうすれば良いかという点にありました。そこまでして残したい理由は、まだ劇場公開が続いている映画に、「重大な誤訳」があるためです。
とりあえず公開終了までの二か月だけでも、この点を閲覧者にアピールできれば、映画館に足を運び、更にネットで確認しようという観客にメッセージを伝えられます。誰もが発売される日本版DVDで映画を見直すとは限らないからです。
日本では、この点にまで踏み込んだ評論記事が書かれる可能性は、あまりなさそうです。それでも、「独自研究」と指摘されない記事にするには、どうするべきか。それには、何とかスペイン語の「シナリオ」(字幕)を使えるようにしなければ。
私がこう考えたのは、「信頼できる情報源」を読み、「記事の中で非英語の情報源を自身で英語に翻訳したものを引用する場合、外国語による原文の引用を明確にするようにし、読者が元の情報源が何を語っているのかと翻訳の正確さを確認できるようにすべきです」という文章に活路を見出したからです。皆様から「私自身の考えを押し付けてはならない」と教わりましたので、無関係な、本物のプロによる翻訳と原文の併記ならば可能ではないかと思いました。
その場合、誰に依頼すれば良いのか。あのご高齢の大学教授は引き受けて下さらないだろうなァ…と、このような考えを巡らせた結果、上記の「最後の質問」の文章が出来上がりました。
Yhiroyuki様のご質問ですが、「あらすじや登場人物紹介」は、件のページの本文がそれに当たります。ノートページに「正誤表」を書き込んだのは、閲覧者に参加と意見を求めるためです。--Coinnto 2009年3月8日 (日) 11:02 (UTC)[返信]
ikedat76様、報告していただくことに全く問題はございません。削除されそうな記事を掲載可能なものにするには、どうすれば良いかと言うのが、そもそものクエスチョンですので。
誤訳であるという根拠ですが、この映画は史実に基づくため、史実とフィクションの部分があります。史実の誤訳はWikipediaの正しい表記にリンクを貼りましたが、歴史書などに差し替える用意もあります。フィクションの大部分は、原作の小説(日本語版)の該当箇所を記しました。残りは、映画オリジナルの部分ですので、この映画の製作国であるスペイン製のシナリオやDVDの字幕を日本語字幕と併記しました。上記のコメントにも書きましたが、翻訳する場合は原文を示せと「信頼できる情報源」に記されておりました。シナリオはスペインで公刊された書物です。また、誤記であると断定してはいけないと皆様から教わりましたので、断定しない形に書き換える準備をしております。--Coinnto 2009年3月8日 (日) 14:21 (UTC)[返信]

全く分かっていただけていないので端的に質問します。誤訳だという判断はがしたのでしょうか。お答えください。判断をしたのがCoinntoさんである限り、どんなにやっても削除しなければなりません。個人サイトなりブログなり別の場所をお探しください。--ikedat76 2009年3月8日 (日) 15:02 (UTC)[返信]

ikedat76様、たいへん遅くなりました。
これまで皆様から多くのご指摘をいただき、私が「誤訳である」「…に違いない」と断定してはならないこと、スペイン版の資料だけでは、「正誤表」として不完全だということも理解いたしました。記事の修正を始めていないので、「正誤表」を残そうとしていると思われるかも知れませんが、その考えはございません。Yhiroyuki 様のアドバイスのように、文章にすることも考えましたが、「誤訳があった」という表現も今のところ根拠を示せないので、無理なようです。しかし、「誤訳」と指摘せず、「スペイン語の字幕と日本語の意訳」として、重要な部分のみ、書き出すことは出来ないものかと思いました。
原語と併記ということで、日本語の直訳を付けられれば、ありがたいのですが。--Coinnto 2009年3月9日 (月) 01:17 (UTC)[返信]

ウィキペディアではなくご自身のホームページでやってはいかがです?尊敬に値するたいへん有意義な試みだとは思うものの、ここは検証サイトではないし、Coinntoさんがどんなにがんばっても、どんなに有意義なことを書いても、今後他の人が「必要ない」「ふさわしくない」と判断すれば消しますよ。そもそも、「ウィキペディアの記事」とは、なにか。に、ついて、Coinntoさんのもつイメージと他の人のイメージとに非常に大きな隔たりがあるようです。ウィキペディアにはさまざまな制約があるため、どんなに重要なことでも、ウィキペディア 「には」 書けないことも少なくありません。たとえば、どんなに重要なニュースでも、拙速な記事化は推奨されていません。完結していないテレビ番組に対するリアルタイムの過度な加筆は好ましいとされていません。映画公開の期間中に、観客に重大なメッセージを送るために、ウィキペディアを利用しようとすることは目的外使用なのです。122.249.212.185 2009年3月9日 (月) 13:01 (UTC)[返信]

ひとつだけ。ノートページは本文ではありません。したがって、「ノートページに正誤表がある」と指示をするのは、記述上不適切です。本文に書くかどうかを調整するのがノートページの役割であって、本文の補足として使うものではありません。--ゆきち 2009年3月9日 (月) 13:31 (UTC)[返信]
間に他の方のコメントが挟まっていますがこのまま。
お話を伺う限り、「正誤表」も「原語/日本語対訳」もどちらもまず記事本文に載せることはできません。
ゆきちさんがご指摘の点からすると、ノートページにもダメです。記事の補足としてノートページを使うというやり方がおかしいという点がまずひとつ。もうひとつには、「正誤表」「原語/日本語対訳」等、何でもよいいのですが、記事本文に掲載できないという判断がこれだけ示されているとおり、それらをノートページに記載しても記事本文に何ら貢献し得ないと言う意味で、目的外利用(はっきり言えば、スペースの無駄遣い)です。
さらに、IPユーザ氏が指摘されているように、「映画公開期間中だけ載せてほしい」というのもある種の宣伝行為と解する余地のあるものであり、ウィキペディアでやってはならないことと見なさざるを得ません。
結論として、あきらめてください、と申し上げるほかありません。--ikedat76 2009年3月9日 (月) 14:54 (UTC)[返信]

参考までに。その作品の日本語訳の誤訳(とされるもの)への言及のある項目としては赤と黒ハリー・ポッターシリーズといったものがあります。これらの例を見ても例え誤訳についての検証可能性に耐えうる出典が存在するとしても「誤訳が存在するという見解があること」と「指摘されている代表的な誤訳」の記述程度にとどめるべきかと思います。--211.124.129.185 2009年3月9日 (月) 20:49 (UTC)[返信]

皆様、ご指摘をありがとうございます。正誤表の掲載に無理があるということは、よく理解いたしました。削除されることに、反論する意思は全くございません。
本当にしつこくて申し訳ございませんが、「アラトリステ(映画)」というページを開設した者として、今日も映画館に足を運ぶ方がおられる以上、ストーリーが正反対になっていることの指摘は、義務だと感じておりますので、更なる書き込みをお許しください。
正誤表に代わるものとして、次の二つの方法を考えました。
①本文の「あらすじ」に、「主人公はヒロインに求婚"しない"」という記述を載せ、それに対して「要出典」や「疑問点」のタグを貼り、ノートページで、日本語字幕を盾に訂正を求める。
この場合、検証のためのディベートとして開始された議論であることも明記し、閲覧者の参加も求めます。
②本文の「あらすじ」に、「主人公はヒロインに求婚"する"」という記述を載せ、同じく「疑問点」等のタグによって、別の人物が異議の文章をノートページに書き込む。
この場合は、体裁としては正しくても、本文に書き込みをした者が、タグを貼られることを承知しておりますので、やはり一種のディベートに当たると思われます。
これらのコメントの中で、資料として「原文と訳文の併記」を上げれば、正誤表が削除されても、最も重要なメッセージは残ります。その間に、スペインの映画製作会社に、「どちらが正しいのか」という質問状も送ります。運良く回答が得られた場合、スペイン語からの翻訳に権威が必要ならば、プロに依頼いたします。「プロに依頼」の意味は、「誤訳であるというお墨付き」ではなく、私の翻訳では故意による意訳の疑いがあり、信用されない場合に、「信頼できる情報源」を求めるということです。いかがでしょうか。--Coinnto 2009年3月10日 (火) 02:55 (UTC)[返信]

「「アラトリステ(映画)」というページを開設した者」などという特別な地位は存在しません。Wikipedia:記事の所有権をご覧下さい。「信頼できる情報源」があろうがなかろうが「訂正を求める」とか「注意を喚起する」とかはどう考えてもウィキペディアの目的外利用ですからやるべきではないでしょう。これ以上議論を続けても異なる結論が出るとは思えません。もう議論は終了させませんか。--222.147.227.241 2009年3月10日 (火) 03:49 (UTC)[返信]

わたしも、既に議論は存在していないと思います。長々と続けられているのは、Coinntoさんに対する、Wikipediaの方針についての説明だけです。
Coinntoさんがお考えになっているような義務は、Coinntoさんにはありません。そのような義務感は、安心してご放念ください。Coinntoさんに何がしかの義務があるとすれば、それはWikipediaの方針についての理解を深めていただくことです。
Coinntoさん、もう一度、この文書→Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかの、特に「ウィキペディアは演説をする場所ではありません」の節をよくご覧ください。わたしの目から見ますと、Coinntoさんのやろうとなさっていることは、ここに書かれている項目のうち、少なくとも 1、2、3、4、5、9番に相当すると思います。
あえて苦言いたします:
Coinntoさんが「誤訳」や「正誤」の指摘の必要ありとお考えになっているものは、「解釈」や「鑑賞」方法の域です。Coinntoさん自身のノートページからの言葉をお借りすれば、「映画の中にちりばめられ、役者さんの微妙な演技や、短い台詞、音楽、編集、小道具に至る全てから観客が感じ取るべき」ものを、書き出そうといっているようなものです。「ここは原作と違う」とか、「観客が見方を間違えてしまう」あるいは「ここは重要だから指摘しないと」というのも、すべてCoinntoさんの主観によるものです。ご自身のお言葉に矛盾しています。Wikipediaでそのようなご指摘やご講釈は不要です。今あなたがやろうとなさっていることは、「Coinnto流『映画アラトリステ』はこう鑑賞しろ!」という個人サイトの内容にはぴったりでも、Wikipediaには不要なばかりか、逆にあってはならないものでしかありません。
冒頭に述べましたように、わたしは既に「議論」はないと考えますが、何か「議論」があると主張し、本来記事にならざる内容へと利用者を誘導することも問題ではないかと思います。現時点で、問題の記事と、ノートページがまさしくその関係になっていることも危惧しております。服部半端 2009年3月10日 (火) 05:19 (UTC)[返信]
皆様へ、たいへん遅くなりました。近々に削除が行われそうな状況の中で、何とか重要な部分だけは残したいと、しつこく質問を続けてしまいました。申し訳ございません。
一つだけ、管理者の方によって削除が行われる場合、誤訳に関する多くのコメントも、その対象に含まれますでしょうか。
誤訳の指摘は、日本語字幕の翻訳者さんを責めることが目的ではなく、「正誤表」と「意訳について」を書き込んだ者は全員、映画の公開終了時には、コメントも含めて消えた状態に戻したいと希望しておりました。ですが、他の方のコメントも書き込まれているため、勝手な真似が出来ないことも懸念の一つでした。
削除されることに、不満は全くございませんので、コメントの部分もご配慮いただけますよう、よろしくお願い申し上げます。本当にお手数をおかけいたしました。お詫び申し上げます。--Coinnto 2009年3月10日 (火) 23:17 (UTC)[返信]
同作品については、劇場で上映されたものと日本語版DVDとで大幅に字幕が変更されるということは既に原作翻訳者によって明らかにされておりますから[7]、本文記事中にこの事実のみを記述し、ノートページの「正誤表」および「正誤表の内容についての議論」は削除するのがよろしいかと思います。ノートページの使い方としては少々乱暴過ぎるところまで来てしまったかと。--Uniontour 2009年3月10日 (火) 23:53 (UTC)[返信]

誤訳の指摘に関して、「誤訳 映画」で検索[8]しますと、結構な件数ヒットしますね。映画記事に限らずこういうツッコミ的な書き込みはよくあります。--fromm 2009年3月11日 (水) 02:47 (UTC)[返信]

ノートページで度々、本文との内部リンクを外す操作をされた方によって、「正誤表」は削除されました。「正誤表」の製作者は管理者の裁定を待っていたため、ご本人の利用者ページで確認したところ、削除ではなく「コメントアウト」であることと、「管理者はしばしば、議論の当事者による解決を期待して介入を見合わせる」との回答を頂きました。「コメントアウト」の理由は、「正誤表」の製作者が個人ブログ等に記事を転載する際、記録の保存が必要だからとのことです。
この方がノートページに書き込まれたコメントは、当該箇所のスペイン語字幕を全て書き出す必要があるとのアドバイスと、「独自研究」についての指摘のみで、「正誤表」の外部転記には関係しておられません。また、「ノートページに書かれた他人の意見は削除すべきではない」とされながら、直前に書き込まれていた「削除に備えて保存を」という、「コメントアウト」の根拠を覆すCoinntoのコメントは消されていました。
この場合、むしろ「削除した」と表現して下さった方が、率直なご意見と受け取れたと思います。
以前にも申し上げましたが、「正誤表」と「意訳について」の製作者は、管理者の方による削除が行われる際には、誤訳について詳細に語っている多くのコメントも消えることを希望しておりました。しかし現在は、「コメントアウト」が行われた状態のまま放置しております。見苦しい部分もありますが、いつまでもこの状態に置く意思はございませんのでご容赦くださいませ。--Coinnto 2009年3月14日 (土) 01:04 (UTC)[返信]
私が行ったのは「正誤表」とその内容についての議論のコメントアウトであって、削除ではありません。コメントアウトと削除を混同しないでください。
コメントアウトにとどめたのは、ノートページでの議論は削除しないということが通例だからです。問題なのは、お二人がノートページを事実上、本文ページに対する規制が及ばないアネックスとして利用していたという点です。本文記事であれば遠慮なく消すことが出来るのですけれども、一応、ノートページで書かれたものであるということを考慮して、しかしこれまでの議論からノートページであってもああしたものがあるのは望ましくない(独自研究の公開)という意見が大勢を占めましたので、緊急避難としてコメントアウトとしたわけです。
お二人が削除に同意されるのであれば、私の手で削除しておきますが、よろしいでしょうか?--Uniontour 2009年3月14日 (土) 08:05 (UTC)[返信]
どなたによるものかまでは断定できませんが、Wikipedia外から積極的に問題の記事のノートページへの誘導を行おうとする呼びかけもなされていたようです。これまでの書き込み、経緯から見て、Wikipediaの方針が理解できないというよりは、従う意志がないという印象がわたしには強くあります。ご本人の手による削除、同意を待つ必要はないかと考えます。服部半端 2009年3月14日 (土) 14:55 (UTC)[返信]
服部半端様へ、ここで議論を再会する意思はございません。ご意見を頂戴した皆様と管理者の方へ結果をご報告したまでです。「正誤表」を削除された方からお返事があるかと思い、コメントを用意しておりましたので、そのまま書き込ませていただきます。「正誤表」が、「アラトリステ」に関する他のWikipediaの記事や、何らかの団体、個人の方にご迷惑をおかけしましたら、心からお詫びいたします。それ程お急ぎにならなくとも、管理者の方による削除が行われなければ、問い合わせるなり、自分たちで削除するなりしておりました。宜しければ「コメントアウト」を解除し、元の状態に戻していただけると幸いです。
「正誤表」について記事を掲載されている方にも、連絡がつく限り、無用な情報は消して下さるようお願いいたします。以上です。皆様、お騒がせをいたしました。ありがとうございました。--Coinnto 2009年3月15日 (日) 00:40 (UTC)[返信]
服部半端氏が指摘されるように、Coinnto氏はウィキペディアの方針に従う意志がないとまでは断言したくないですが、少なくともウィキペディアの仕組みを理解しておられないし、理解しようという努力に対して消極的ではないかと思えます。また、「ここで議論を再会する意思はございません」という宣言は合意形成努力を放棄されたものと解釈する以外無いようです。ともかく、ご自身の手で削除されるならば、現状からでも何の障害もございませんので、コメントアウトタグごとの削除をしてください。数日経っても残っている場合には私が代わりに削除しておきます。--Uniontour 2009年3月15日 (日) 01:31 (UTC)[返信]

Coinntoさんへ。こんにちは。ええと。「削除」すると、管理者以外は誰も見れなくなります。削除するには、削除依頼などを通してコミュニティの合意を得た後に、管理者が対処する必要があります。「編集除去」は、誰でもできます。最新版には掲載されませんが、誰でも履歴から掲載されている版を見る事ができます。「コメントアウト」は、ソースには残っているけれど、表示されないようになっているものです。古い版を探さなくても、編集タブで編集画面を開くと、その内容を見る事ができます。権利侵害などがあると、「編集除去」や「コメントアウト」では、侵害が継続することになりますから「削除」する必要があります。今回は、侵害については問題とされていませんから、削除ではなく、除去/コメントアウトという対応がとられています。保存などが必要なら正誤表が残っている版を閲覧する事ができます。

正誤表については、まずは、通常では百科事典の内容としてはそぐわないということがひとつ、その「正誤」や「正誤がもたらす重要さ」については単純に評価ができるものではなく、ウィキペディアではないところ、たとえば映画や翻訳の雑誌などで、編集者らの判断の後でなければ、ウィキペディアには掲載することが難しいとご理解いただければと思います。映画を見る人たちにとって有益な情報であれば、百科事典ではなく、ブロクなどで掲載されていても、十分関心を集めることになるでしょう。

ノートページは、正誤表に関する話題を過去ログ化しました。念のためですが、除去した話題は、ノート最上部で示したリンクから閲覧する事が可能です。--Ks aka 98 2009年3月15日 (日) 09:28 (UTC)[返信]

お疲れ様です。ひとまずこの状態で様子を見ますか。--Uniontour 2009年3月15日 (日) 10:17 (UTC)[返信]
Ks aka 98様、ありがとうございました。第三者である管理者の方に適切に処理していただき、心底ホッといたしました。管理者伝言板/投稿ブロックに報告されていましたので、不適切な利用者として、投稿記事も削除の対象となるのではと、各自、記録を保存した上でお待ちしておりました。「正誤表」は、映画の公開終了後には無用となり、字幕作家さんへの「非難」に過ぎなくなる文章です。管理者の方の裁決がない場合、自分で自分の削除依頼を出すべきかとも話し合っておりました。お手数をおかけし申し訳ございません。感謝いたします。--Coinnto 2009年3月15日 (日) 16:47 (UTC)[返信]
管理者による裁定を希望するのであれば、最初から井戸端ではなく削除依頼を出されるべきだったのではないでしょうか? ここで色々な方の意見が出されたにもかかわらず、管理者による裁定にこだわってそれらの意見を取り入れた行動をされることは無かったわけですから、議論に参加してくださった方々に対しての礼を失しているように思います。それに、いまだにご理解いただけていないようですが、「正誤表」は映画の公開中であろうがなかろうがウィキペディアには無用のものです。今後もウィキペディアに参加されるのでしたら、まずは方針文書やガイドライン文書の熟読をしていただきたく思います。--Uniontour 2009年3月15日 (日) 22:40 (UTC)[返信]
Coinnto氏は海獺氏によって投稿ブロックとなりました。ご報告まで。--Uniontour 2009年3月15日 (日) 23:43 (UTC)[返信]

「コメント依頼を出しても意味が無いのでは」と感じたときにはどうするべき?

利用者の行為にあまりに問題があると思った場合、コメント依頼を出して是正を促すなどが正しい選択なのだと思います。ですが最近、ある利用者の方と会話をしたのですが、その中で「自身の行動が礼儀を忘れないに反していることはわかっているが、わざと行っている。自身の行動を変える気はない。」(大意としてこのような内容)と言われました。このような場合、コメント依頼を出すことは意味が無いような気がするのですが、それでもコメント依頼を出すべきでしょうか?もしくは、三大方針に違反しているわけではないので何もしない方がよろしいでしょうか?

まさか、方針を無視すると言い切るとは思っていなかったために戸惑っております。過去に議論があったのでしたら、そちらのリンクでもかまいませんので、ご教授ください。よろしくお願いいたします。--しろぼる 2009年3月8日 (日) 15:25 (UTC)[返信]

コメント依頼は、「いままで議論に関わっていなかった利用者に議論への参加を広く呼びかけること」です。この場合、特定の利用者の行為に関して他の利用者と共に、どう対処すべきか議論する場であり、結果として「是正を促す」こともあると思いますが、最初から一方的に相手に「是正を促す」ことが目的ではありませんよ。--カイの迷宮 2009年3月8日 (日) 15:48 (UTC)[返信]
カイの迷宮氏ありがとうございました。どういう場所であるのか、勘違いしておりました。ご教授いただきありがとうございました。
ところで話が変わるのですが、初心者用のリンクの方からこの内容を投稿したのですが、サブページになっていないようです。自動でなるわけではないですよね?申し訳ないのですが、やり方がわかる方がいましたら、移動していただけますでしょうか。適切に移動できる自信がまだないので、どうかよろしくお願いいたします。--しろぼる 2009年3月10日 (火) 14:47 (UTC)[返信]

記事の節にリダイレクトするのは適切?

可変IP(IP:219.97.16.77会話 / 投稿記録、IP:219.97.19.237会話 / 投稿記録)の人が山ほどリダイレクトを新規作成しているのを見つけました。履歴を見ていただけばわかりますがその中身がある記事への節へのリダイレクトばかり。リダイレクトの項目を見ても節はいけないとは書いてないですし、現状ではきちんと機能しているようですが、本文書き換えられて節名称が変わった場合はどうなるのか?通常のweb動作に従ってページ最上部に案内されて終わるのでしょうか?ノーリンクになるのでしょうか?また、とりあえず(サーバリソース以外の)実害はなさそうなので放置してますが、このようなリダイレクトは削除したほうがいいのでしょうか?なにか方針はありますか?--Tow 2009年3月10日 (火) 10:27 (UTC)[返信]

こんにちは。Imuzakと申します。リダイレクトの削除についての方針は、リダイレクト削除の方針がありました。でも、そこには、今回のような事例については書かれていないようなんですね…。 私個人としてはそういった類のリダイレクトはあまり必要ではないと思いますが、とりあえず、そのIPの方に案内を出して、なぜそのリダイレクトが必要だと思うのか説明を求めてみましょうか?--Imuzak 2009年3月10日 (火) 11:02 (UTC)[返信]

節へのリダイレクトは、<a>要素と同じ扱いでアンカーとして働いているだけなのでもし見つからなければ(大抵のブラウザなら)そのページの冒頭に飛ぶだけです。そして、節へのリダイレクトですが、節へのリダイレクトが必要だと思う場合はその部分を分割することを検討してみるといいかと思います。その上で、分割すると見通しが悪くなるとか分割するだけの分量がない場合は、節へのリダイレクトも必要な場合が出てくるかと思います。ただし、私の場合は○○○という名前の節へのリダイレクトを作るより、記事そのものへのリダイレクトとして冒頭に「ここでは○○○についても説明する」と加える方法を好んで使っています。--青子守歌会話/履歴 2009年3月11日 (水) 04:03 (UTC)[返信]
ありがとうございます。仕組みについては理解しました。現状の主要ブラウザの仕様からして問題はなさそうですね。また、リダイレクトを作成した可変IP氏は方針無理解でコメント依頼を出させていただいている方とおそらく同一人物で、だとすると対話は成立しませんので後片付けのみ行っているところです。今回作成されたリダイレクトは私個人の見解としては本来の目的から大きく逸脱した目的で作成されているように見え、そのほとんどはそんな検索ワードでは検索しないだろうとも思えます。また、転送先は青子守歌さんのおっしゃるような分割に値するほどの量がありません・・・というか分割したら数行のリストになっちゃう、どうにも無意味な量産をしているようにしか見えないのです。ですが、リダイレクトの方針、及び教えていただいたリダイレクトの削除の方針を読む限り対応しようがないかなと。とりあえずは放置する以外に手はなさそうだと言うことはわかりました。--Tow 2009年3月11日 (水) 14:39 (UTC)[返信]
「○○のXX」というリダイレクトがリダイレクト削除に提出されたとき私は「複合名称で検索上の有用性が低い」として削除票を投じています。入力では有用性が低いこれらリダイレクトを何故作ったのかを考えてみたのですが、もしかすると検索窓に候補が現れる先読み候補に使おうと思ったのかもしれません。たしかにこの機能は便利なので、どのように活用しようかという議論もされていますが、弱点として候補が最大10件しか表示されないため、「大船」と打ち込んだときに今回の「大船のxx」という節リダイレクトがたくさん表示されて肝心の「大船駅」が表示されません。したがってこの機能は節レベルまでリダイレクトを用意することを想定していないと思われますので、私はこれらのリダイレクトは削除でよいと考えています。--Triglav 2009年3月15日 (日) 04:49 (UTC)[返信]

同一記事への過度な多重リンクに対する制限の根拠

徳川家康において、余りにも同一記事への過剰なリンクが多すぎるためにシステム負荷の問題もあることから、過剰な多重リンクの削減を行ったのですが[9]、その後にIPユーザーから「何が過剰なのか、明確にしてください」として差し戻されてしまいました[10]。そこでウィキペディアでは、多重リンクがシステム負荷などの問題があるために制限されているということを説明しようと思ったのですが、Wikipedia:スタイルマニュアルWikipedia:表記ガイドWikipedia:記事どうしをつなぐHelp:リンクWikipedia:内容に関連するリンクだけを作成など関連しそうな文書を探してみたのですが、同一リンクへの多重リンクの問題について触れている文書が見つかりませんでした。

確かにWikipedia‐ノート:内容に関連するリンクだけを作成Wikipedia:井戸端/過去ログ/2005年6月#リンクの慣習についてWikipedia‐ノート:スタイルマニュアルでも過去2回([11]の5及び[12]の10)話し合われてのが確認できましたが、具体的な結論が出されないまま、現状としては慣習的にリンクは最初の1回、長い記事によっては必要に応じて複数回リンクを行うことが行われている以上のことは分りませんでした。ただ現状では、同一項目に対するリンクが多重か否かは個々の判断に委ねられてしまうことになり、「関連性があるのだから、全部リンクして方が親切ではないか」とか言われたら反論できないのではないかと危惧しています。

せめて、同一項目への過度な多重リンク(具体的には同一の用語が10箇所出てきたら10箇所全部にリンクを貼る様なケース)が問題であることが示されている典拠のようなものがあれば教えていただけると幸いです。--水野白楓 2009年3月10日 (火) 14:09 (UTC)[返信]

たしか、慣習法だったと記憶しています。おっしゃるようにリンクの数はどれぐらいが過多なのかという基準が人それぞれで、「1つの記事には1回で十分」という人や「全部の単語に全部必要だ」という人までいます。私の場合は「そこでリンクすることで記事の理解を助けると説明できるかどうか」を基準としています。なので、リンクを張りたがっている人に「なぜそこにリンクが必要なのか」を聞いてみるといいかもしれません。その上で、過多なリンクがどのように悪いのかを説明しつつサーバ負荷を気にしすぎない程度のリンクを許容するのがいいのではないでしょうか。--青子守歌会話/履歴 2009年3月11日 (水) 03:43 (UTC)[返信]

リンクをいくつ貼っても、表示の際には負荷にはなりません。MediaWikiはページをhtmlの状態でもキャッシュしているので、負荷になるとするとページを保存するときだけです。ただもちろんページを表示する際のデータサイズは大きくなるので、その送出のためのバンド幅とサーバ負荷はかかりますし、閲覧する際に表示までに時間がかかるとか、そういった弊害はありますが、その程度とも言えます。(せいぜい百分の何秒の違いでしょう)

何をリンクするべきでするべきでないかはen:Wikipedia:Linkingにまとめられています。スタイルマニュアルにその記述が入ったのは英語版の同様の記述[13]からで、これは前後のこのユーザーのtalkから、botで記事が存在する単語にリンクを貼りまくることへの防止として入れたようです。リンクに関する議論はen:Wikipedia talk:Only make links that are relevant to the context/Archive 4でたくさんされていますね。全部は読んでいないのですが、理由に関するものは過度の繰り返しリンクは一般的ではないぐらいしか見当たりませんでした。ただ、実感としては、普通のブラウザでページを表示した際に、青いリンクがあまりにもたくさんあるページは非常に読みにくいです。画面がちらついて見えます。(錯覚の一種でしょうか。)便利かもしれませんが、読むのに疲れるので読む気が失せて、ページを見る行為を体が拒否します。それを考えると、同一記事へのリンクは一つのセクションに一つまで、という現在の英語版の制限がとても妥当なものと思えます。日本語版のほうは整備が追いついていないようではありますが参考までに。--Mage Whopper 2009年3月11日 (水) 10:38 (UTC)[返信]

徳川家康も酷いですが、文禄・慶長の役の最新も酷い[14]です。なんとかして良い物なんでしょうか?--yasumi 2009年3月11日 (水) 10:49 (UTC)[返信]
コメント 現状の徳川家康はちょっと酷いですね…。「同一記事へのリンクは一つのセクションに一つまで」が妥当だと思います(但し表は例外)。日本語版のガイドラインにも反映した方が良いようにも思います。--Penn Station 2009年3月11日 (水) 11:20 (UTC)[返信]
「同一記事へのリンクは一つのセクションに一つまで」「そこでリンクすることで記事の理解を助けると説明できるかどうか」が基準ということで間違いないと思います。またガイドラインへの反映にも賛成いたします。ただ、問題はこれら2つの基準に従うには、記事全体の構成や文脈をよく考えた上でなければ出来ません。おそらく過剰リンクをする人って、そういう配慮無しに末梢神経的にリンクつけて回っているんじゃないかという気がします。「要出典」タグをめぐる議論が先日から続いていますが、ある意味そちらと同じで、記事の品質ということをちゃんと考るようにならないと過剰リンクってなくならないのではないでしょうか。--ikedat76 2009年3月11日 (水) 13:13 (UTC)[返信]
一応WP:NOTもあるので、これは多少ですがリンクに制限を加えることへの根拠になると思います。基準と明文化することに賛成します。といってもまずは、ふさわしいガイドラインに提案・議論の場を移動することが必要ですね。--春日椿 2009年3月11日 (水) 13:20 (UTC)[返信]

利用者‐会話:Fromm#徳川家康のリバートについてが関連です。「同じ内部リンクの繰り返しを避ける」などは、確かに慣習法的なところがあるので、ガイドラインを明示せよと迫られると苦しい面があります。--fromm 2009年3月12日 (木) 03:07 (UTC)[返信]

「過剰リンクをするな」という明確な基準を示したガイドラインはありませんが、「内部リンク可能な単語があれば、既にリンクしていてもどんどんリンクしてやれ」と推奨するような方針も存在しないわけで。なぜに過剰なリンクを抑制する意見を主張する場合には、リンクを積極的につける側に対して公式な方針を持ち出して説明しなければならないのか疑問に思います。どちらも方針にないことなので、話し合う場合はノートでみなさんこういう意見が出している、と示すだけで不十分なのでしょうか(ガイドラインなんか作らなくて良いと言う意味ではなく)。--草薙 2009年3月15日 (日) 02:40 (UTC)[返信]
なぜ、リンクを抑止する側が説明しなくてはならないのかということですが、他の人が書いたものを除去する前に議論を提起するという慣行に乗っ取っているのではないでしょうか。明示的に禁止されていないことを書くのをとがめるのはむずかしいですが、根拠なき除去はとがめられますからね。
話はかわりますが、以前、リンクは1ページにつき一度で十分と言われたことがありまして、その時はそんなもんかなとほっといたのですが、それだと目次からページ半ばにジャンプしたときに不便ですね。Goodmoon 2009年3月19日 (木) 16:52 (UTC)[返信]
いや、「説明しなければならない」点に不満を持っているのではなくて(それは説得するのだからしょうがない)、「公式な方針を持ち出す」点に疑問を感じている訳でして。その前後の文脈から判断していただければと。--草薙 2009年3月20日 (金) 16:48 (UTC)[返信]

投稿ブロック期間の「ヶ月」について

前回、『「ヶ月」と「箇月」、どちらの表記が正しい?』と質問した際に、「ヶ月」は規定(Wikipedia:表記ガイド#仮名)で使ってはいけないそうです。となると、投稿ブロック期間の「ヶ月」も使ってはいけないってことになりますが、このままの表記でいいのでしょうか。またシステム上、修正は可能なんでしょうか。--影虎 2009年3月11日 (水) 01:47 (UTC)追記--影虎 2009年3月11日 (水) 01:51 (UTC)[返信]

冒頭を読んでもらうとわかりますが、WP:JPE記事のみに適用されるもので、その他については考慮されていません。よってそのままで特に問題ありません。--青子守歌会話/履歴 2009年3月11日 (水) 03:30 (UTC)[返信]
そうだったのですか。ご回答ありがとうございます。--影虎 2009年3月11日 (水) 03:35 (UTC)[返信]
あら、どうやら、投稿ブロック期間の「ヶ月」が「か月」に修正(変更)されたようです。--影虎 2009年3月11日 (水) 04:45 (UTC)[返信]

Youtubeの動画は一次資料として有効かどうか?

現在ノート:柏原芳恵にて「『中島みゆきのオールナイトニッポン』の最終回(1987年3月31日)に花束をプレゼントしている。」という記事を載せるかどうかで議論しておりますが、Youtubeを一次資料としているため検証可能性を満たすかどうかで議論が膠着しております。

過去Wikipedia:井戸端の過去ログ/2006年10月/下旬#YouTubeの動画ページ、またはまとめサイトを外部リンクに置くことの是非Wikipedia:井戸端/subj/YouTubeへの外部リンクでYoutubeへの外部リンクを貼る事は好ましくないとの結論が出たようですが、一次資料として有効とするかどうかは結論が出ていなかったようです。YouTubeの動画は一次資料として有効かどうか、広くご意見伺いたいと思います。宜しくお願い致します。--Badboy(会話/履歴) 2009年3月11日 (水) 02:21 (UTC)[返信]

テレビ番組でしたら、Youtubeの動画を情報源とせずにその番組そのものを情報源としたらいいんじゃないでしょうか?もっとも、テレビ番組自体が信頼できる情報源かといえばまた議論の余地があるところなのですが・・・。少なくともYoutubeを含む動画におかれている動画自体は自主公表された情報源ですし、極論すれば改変されている可能性を否定できませんから、それをそのままウィキペディア上の情報源とするのは無理があるかと思います。--青子守歌会話/履歴 2009年3月11日 (水) 03:52 (UTC)[返信]

一応、ノート:柏原芳恵で出た論点を簡単にまとめておきますと、

youtubeを出典として記事を執筆することは不可能である根拠として、

  1. youtubeは、Wikipedia:検証可能性等で定義された「事実確認と正確さについて定評のある、信用できる第三者情報源」にはあたらない。
  2. 著作権侵害を行っているページへのリンクは禁止されている以上、Wikipediaの出典としては使用できないため、検証可能性を満たすことが不可能。

対して、youtubeを一次資料として使用可能とする主張の理由として、

  1. Youtubeを指定して信頼できない情報源と除外する規定は存在しない
  2. 他のページでも使用している

というものでした。--Dr.Jimmy 2009年3月11日 (水) 04:22 (UTC)[返信]

youtubeに投稿されたものを一括して同じ扱いとするのであれば、「一時資料とはできない」以外に選択肢はないと思います。 youtubeはblogと同じく、誰でも好きな内容のビデオを投稿できるからです。ブログや投稿型の掲示板となんら変わらない信頼度しかありません。(→Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源と同じ扱い)テレビで放送されたものであっても、権利者が削除しない限りは改変したり、独自の解釈を付け加えて投稿が可能ですし、掲載され続けます。(もちろんblogも同じです。)
>Youtubeを指定して信頼できない情報源と除外する規定は存在しない この理屈でルールを書くとすべてのだめなケースを書かねばならない悪魔の証明になりますし、
>他のページでも使用している は理由になっていません。
ただ、私は条件付きであればyoutubeもWikipedia:検証可能性に沿って情報源とすることは可能だと考えます。たとえば、NHKonline チャンネルにアップロードされた動画は、NHKがそのように報道/公表したものとして採用して問題ないと思います。(発言者が明確にわかる公表に当たるのではないでしょうか。)そういった公式以外の一般ユーザーが投稿したものについては、どのような内容であれblogと変わりませんし、テレビの録画であっても、投稿されたものと放送が同一であることの確認は第三者にできませんから、情報源としない方が良いと思います。あと、蛇足ですが花束を渡した、というのは事実であってもTemplate:雑多な内容の箇条書きでしかないと思います。--Mage Whopper 2009年3月11日 (水) 06:40 (UTC)[返信]

en:Wikipedia:Reliable source examples#Questions about the reliability of specific sourcesではYouTubeは信頼のおける情報源ではないと述べられていますが、資料として使用できる場合も述べられています。Mage Whopperさんが述べられている公式チャンネルの場合と別の資料源でも確認できる場合です。

  • 著作権侵害をしているYouTubeの動画にリンクしてはならない。(WP:ELより)
  • YouTube上に著作権者以外のものからアップされているTV番組を出典としてはならない。著作権侵害か確認できないし、改変されているかも確認できない。オリジナルのTV番組を出典とすべき。
  • YouTube上の現象を記述する場合は一次資料源として使用できる。(ロンリーガールフィフティーンなど)

自分の考えでは以上のようになるかと思います。ちなみに英語版での議論はen:Wikipedia_talk:Reliable_sources/archive13#YouTube_as_a_sourceで行われたようです。--Afaz 2009年3月11日 (水) 10:01 (UTC)[返信]

一項目は、
  • 著作権者がアップロードしたと確認できるものを除き、YouTubeの動画にリンクしてはならない。
の方がよさそうな気がします。誰にでもアップロードできる以上、明確に著作権者からのアップロードと確認できるもの以外は著作権侵害と推定した方が安全ではないでしょうか。-- 2009年3月11日 (水) 11:17 (UTC)[返信]

ウィキペディアの新しいライセンスについて、判りやすく教えてください。

なんか変になったけど、ともあれ表題の通りです。--220.210.110.108 2009年3月11日 (水) 02:51 (UTC)[返信]

概要的には、GFDLの翻訳者である八田さんの記事をご覧ください。大雑把に言えば、期限付きでGFDL 1.3のコンテンツをCC-by-sa 3.0に転換可能だと言うことです(僕は単に情報としてしか知らないので、厳密な解釈は勘弁してください)。--ゆきち 2009年3月11日 (水) 17:44 (UTC)[返信]

便乗して質問します。これって、詳細な履歴継承しなくても要約だけで各国語版プロジェクト間やウィキプロジェクト間の転記や翻訳転載がOKって事なんでしょうか? --ひゃくまんこのしあわせ 2009年3月17日 (火) 00:26 (UTC)[返信]

実際にライセンスの差分を読み比べてもらえると分かるのですが、1.2から1.3への大きな変更は、新設された"11. RELICENSING"にかかっています。これは、上記の通りGFDL 1.3のものをCCに置き換えることを謳ったもので、逆に言えば、それ以外の部分はほとんど変わっていません。つまり、全体がそのままGFDL 1.3に移行したとしても、1.2を採用している時点と、やることは変わりません("9. TERMINATION"の部分も幾分変更されているけど)。
もし、上記の質問が「CCに転換した後」であるならば、今度はCCの条件を満たしつつ利用することになりますが、「GFDL1.3を採用すること」がすなわち「CCを採用すること」ではないので、よそのサイトでCCで利用するならともかく、GFDLを採用しているウィキペディア上では何も影響することはありません。--ゆきち 2009年3月17日 (火) 05:31 (UTC)[返信]

公式なものではないですが、日本語版の利用者で以前検討したものが「Wikipedia:GFDL1.3のリリースについて」にあります。また、ノートに、追加の情報やリンクが示されているので、こちらも参照ください。

GFDL 1.3は、期間を決めてCC-BY-SA3.0への移行を可能にするものに過ぎなかったりしますから、1.3になること自体は、一部をのぞいては、普段の編集に大きな影響はないでしょう。

1.3を採用し、CC-BY-SA3.0への移行が行なわれることで、かなり変化が生じる可能性があります。とはいえ、現実的には、ウィキペディアは、GFDLからCCへの移行ではなく、GFDLとのデュアルライセンスになるという見込みのようで(ノート参照)、この場合は、ウィキペディアの編集者にとっては、これまでよりも制約がある(そのかわり、外部の利用の幅が広がる)ということになります。CC-BY-SA3.0とGFDLは、本質的には類似した条件を課すものですから、デュアルライセンスとなった場合に、新たに加わる制約も、それほど増えるものではないと予想されますが、日本の法律との兼ね合いやライセンス文の構成や文言の事情から、妙なところでコンフリクトが生じる可能性はあります。

詳細な履歴継承については、上記の通り、日本語版ではこれまで同様の運用をせざるをえないと考えられます。ただ、これは日本語版独自の運用と言う面もあり、外部利用の際の著作者表示についても話が進んでいるようで、この展開次第では、さらに他言語版との運用の違いが際立つことにもなりそうです。これどうすればいいのかなあ…。--Ks aka 98 2009年3月17日 (火) 06:03 (UTC)[返信]

泥士朗氏とACCESS 機械じかけの戦乙女

人造人間の登場する作品の中に、1997年12月に発売された泥士朗氏ライトノベルACCESS 機械じかけの戦乙女」について、新たに記載して頂きたいと思いますけどどうでしょうか?また、泥士朗氏に関するデータが全く記載されていないので、それについても調査の上投稿をお願いしたいと思います。--125.175.2.208 2009年3月11日 (水) 09:24 (UTC)[返信]

当該項目を拝見しましたが、ここで挙げられているのは「Wikipedia日本語版内に解説ページが存在する」という前提の作品ですね。…つまり、その要件を満たすために「ACCESS」(及び、作者「泥士朗」)の執筆依頼をしたい、との解釈でよろしいでしょうか?そうであれば、適切な依頼先への依頼文掲載を行う事になります。ライトノベルですと「Portal:文学/執筆・加筆依頼総合版」ですかね。作品・人物ともに依頼対象となりますので、過去履歴を参考に依頼をしてみて下さい(現状、ライトノベルに関しては独立項目が無いようなので「近代・現代」の「小説」へ追加するか、新たに項目を新設する事になります。たぶん前者で大丈夫と思いますが…)。--Dr.eXtreme 2009年3月11日 (水) 15:48 (UTC)[返信]
別のPCからで申し訳ありません。はい、上記の通りで特に問題ありません。ただ私1人だと記憶が曖昧なので、何方か協力者がいて頂けると思うのですが?とにかくまず、Portal:文学/執筆・加筆依頼総合版にて本件の依頼をして行くので大丈夫でしょうか?--125.175.2.208 2009年3月12日 (木) 05:11 (UTC)[返信]
最低限の範囲にてACCESS 機械じかけの戦乙女を作成しましたが、著者については存じ上げておりませんので他の方のご協力を頂ければと存じます。何かありましたら該当記事のノートへ移動頂きたく。--Ritis 2009年3月13日 (金) 16:28 (UTC)[返信]
Ritisさんご協力有り難うございます、それでは次回以降該当記事のノートにて相談や依頼等を致します(私自身も可能な限り投稿して行く方針です)。--125.175.2.208 2009年3月14日 (土) 09:31 (UTC)[返信]

「要出典」

  • もう既に亡くなられてしまった人の逸話など聞き覚えだけで記載しましたら、「要出典」マークが付きました。もちろん即、自分の記載した箇所は削除しました。出典先を世界中誰も知らない逸話などは、辞典には不要なものなのか、少し疑問?。凄く心配している事の一つに、戦争時代の逸話がかなりの数あると考えていますが、しかし、もう時間が無いですよね。例えば「防空壕の中の逸話」など冷静に判断すると「要出典」が必要なのでしょうか。もちろん「逸話」など人の脳内でのイメージで、変質が激しいものでしょうから、とも考えていますが。
  • こんな言葉にならない世界もあるなど記載されたら、これはもう完全に辞典にはだめでしょう。哲学などは辞典に不向きな世界かな。ソクラテスも親鸞も自分は話しただけで、弟子が書いたものらしい理由から、事実でない箇所も沢山ありそうだなとも思えますが。(ソクラテスが言っていた=実は本当の出典先)
  • 私にとっては大変難しい、悩ましい問題です。--銀太 2009年3月16日 (月) 01:30 (UTC)[返信]
Wikipedia:検証可能性の問題ですね。辞典の記述として必要なものは逸話よりも説明ですので、プロジェクト以外で何か役立てられることを願います。--草薙 2009年3月13日 (金) 08:52 (UTC)[返信]
  • ご指摘有難うございます。実は今日から参加した老人だけど新人です。私はWikipediaを大変愛用しています。出典先問題は「下町文化」「大衆食堂文化」など当たり前のように使われてている言葉ですが、きっと記載が無いだろうと考えていた事が発端です。(説明できないようなものがないと、きっと世の中つまらなくなるような気がします。)色々勉強になり感謝しております。今後ともご指導の程、宜しく御願い致します。--銀太 2009年3月16日 (月) 01:30 (UTC)[返信]
下町文化に近いのは、東京市街の変遷ですかね。大衆食堂文化は、大衆食堂の説明に含められるものだと思います。項目としては存在しないが、別のページに含められているという場合はよくあります。--草薙 2009年3月15日 (日) 01:56 (UTC)[返信]
ウィキペディアではなく、別のメディアにまずは記録を残されることをおすすめします。自主出版物でも一次資料としては有効ですから。--Peachkiller 2009年3月23日 (月) 12:25 (UTC)[返信]

政治家関係者や元政治家はどこまでが公人であると言えるか?

Wikipedia:削除依頼/石川知裕でのやり取りを見て気になっているのですが、国会議員などの政治家本人が公人であるのは疑いようがないというのは常識であると言えます。 しかし、大昔に引退し、現在は表舞台に現れていない元政治家は現在は公人であると言えるのでしょうか?

また、公設秘書と私設秘書の取り扱い(公人私人をどこで区別するか。公設秘書は国費ですので公人だと思いますが)もハッキリさせたいと思い、提起させていただきました。--準特橋本Talk/Contribs2009年3月13日 (金) 11:23 (UTC)[返信]

未来永劫に続く事を想定するウィキペディアにおいて、「(大)昔」「現(在)」「元」といった概念を持ち込む事自体が不適切。「今」もすぐ「過去」になる。この世に起きた事は、いつの時代の事象だろうと、同様に扱われるべき。「日本版でなく日本語版」だと「日本POV」にうるさい人たちがいますが、個人的には「今POV」のほうがよっぽど気になります。--Khhy 2009年3月13日 (金) 20:26 (UTC)[返信]

政治家は公人であるとして、その職務にまつわる事柄に関することであれば、公人として扱うべきでしょう。政治家ではなくなってからの私事にまつわることは書かれるべきではなく、大昔であっても政治家としての職務にまつわるものであれば、「存命人物の伝記」などの方針に従う範囲で、書くべきものは書く、ということになるでしょうか(書く必要のないものもあるでしょう)。
Khhyさんのご意見は、記事を仕上げる上での考え方としては同意できるのですが、現在進行中のものを記事に反映させる上では、情報収集や、ある出来事への評価の固まりかたなどの面で、遠い過去と同様に扱う事が難しいことはありますし、存命かどうか、現在あるいは当時どのような立場にいたのかということは、名誉毀損やプライバシーを考える上では考慮に入れなければならないということも考慮していただければ幸いです。--Ks aka 98 2009年3月15日 (日) 08:33 (UTC)[返信]
公設秘書か私設秘書かによっても左右されるかもしれませんね。
ただ私設秘書でも政治家秘書という経歴を持って著書を出している人物は公人としてWikipediaで記載可能としていいと思います。たとえば佐藤昭子とか。--経済準学士 2009年3月16日 (月) 16:24 (UTC)[返信]
皆さんありがとうございます。元国会議員の場合は、政治家時代の職務にまつわることや、事実上の院政を行っているような場合は公人扱いで、公設秘書は公人、私設秘書は積極的にその立場であることをメディア等を通じて発信している場合は公設秘書に準ずる扱いであることと理解してよろしいですか.--準特橋本Talk/Contribs2009年3月19日 (木) 13:20 (UTC)[返信]

言語バベル

失礼します。{{user ay-0}}と{{user jsl-0}}を作ろうとしましたが、うまくいきませんでした。Categoryも何かおかしくなってしまっているのですが、修正できずにおります。申し訳ないのですが、どなたかご助力願えないでしょうか。--XoPALTan X 2009年3月13日 (金) 12:14 (UTC)[返信]

Wikipedia:バベル/拡充にいちおう説明があります。が、日本語版にそのバベルが本当に必要でしょうか。-0というのは「しゃべれない」ことを示すわけで、あらゆる言語について「しゃべれない」ことを表示するのは手間とリソースの無駄だと考えますが。--Aotake 2009年3月13日 (金) 12:46 (UTC)[返信]
修正入れた人間が言うのもなんですが、XoPALTan Xさん、レベル0は日本語版利用者だが日本語を話せない、英語版利用者だが英語を話せない、のような各言語版においてその言語を話せない場合にのみ使われる相当性があるように思います。英語圏の人が日本語版の利用者ページでja-0のバベルを使っているのは良く見かけますからね。日本語版でしたら、日本語以外については表示していない=喋れないと取られるのが普通ですから(喋れたら1など表示するはず)、やたらに表示する必要もないのではと思います。--草薙 2009年3月14日 (土) 01:40 (UTC)[返信]
ところで、英語版では2年くらい前に-0 のテンプレートによるカテゴリ付与をやめたようですね(en-0以外についてen-0について)。ja-0にのカテゴライズは一定の有用性があるかもしれませんが、それ以外についてはカテゴライズはやめたほうが今後の乱造を防ぐためにもいいかもしれません。賛同が得られれば削除依頼を出しますけれども。--Aotake 2009年3月14日 (土) 12:03 (UTC)[返信]
「ユーザーが知っているものをカテゴライズすべきで、知らない言語をカテゴライズすべきではない」っていうのが大まかな依頼理由みたいですね。賛同しておきます。--草薙 2009年3月15日 (日) 01:58 (UTC)[返信]
Wikipedia:削除依頼/レベル0の言語別の利用者カテゴリを提出しました。ご意見よろしくお願いします。--Aotake 2009年3月16日 (月) 12:59 (UTC)[返信]

小説や映画の要約やあらすじは著作権違反でしょうか?

小説や映画の要約やあらすじは著作権違反でしょうか? 要約やあらすじについて調査した結果、次の著作権についての記述を発見しました。 [15] [16] また、次のような記述もありました。 [17] 2~3行程度の文ならよいとも記述してありますが・・・。 要約やあらすじはWikipedia内にも多少あると思うのです。 要約やあらすじを書くべきか?またどの程度書くべきでしょうか?--Atheroma 2009年3月14日 (土) 07:06 (UTC)[返信]

  • こんにちは。個人的に私もすこし問題意識を感じたことがありまして投稿いたします。Wikipedia‐ノート:出典を明記するで同様の話題が提供され、そこで個人の方の先行した検討案(利用者:Kojidoi/ストーリー紹介の在り方についての解説素案)を教えていただきました。Wikipediaコミュニティでは今のところ明確な指針案(ガイドライン)は存在しないようですね。著作権は財産権ですから、著作権者が権利保護に動けば「翻案」であるあらすじは排除されることになると(法的)には思いますが、親告罪なので野放しに近いのが現状ですね(古典など作者死亡50年以上、映画公表70円以上のものは権利が切れていますので問題はないのでしょうが・・)。原則はダメなんじゃないかと思いますが専門家ではありませんので私も良く分かりません(・A・)--ネコバット 2009年3月14日 (土) 11:17 (UTC)権利者でもない一般Wikipedianにとっては、他のWikipedianが投稿した「翻案」をわざわざ権利者に成り代わって排除していくほどの義理もない、といった微妙な力学で、なんとなく「あらすじ」要約が生き延びている状態にあると考えております。--ネコバット 2009年3月14日 (土) 11:21 (UTC)[返信]
  • 要約については、『原作品を読まなくても内容が分かるような要約は、著作権法上の「翻案」に当たる。これにはもちろん著作権者の承諾が必要となる。』[18]という考え方もあるので、例えば小説や映画のあらすじが分かるようなものは、その行数や文字数にかかわらずグレーゾーンだと考えるのが普通では無いでしょうか。--Inoue-hiro 2009年3月14日 (土) 12:09 (UTC)[返信]
  • 最高裁のサイトで「著作権」and「あらすじ or 粗筋 or 荒筋」and「翻案」で検索してみたところ、関連しそうな判例がいくつかヒットしました。その中の一つに興味深い判決があったことが書かれていたので、更に追いかけたところ、江差追分事件上告審判決(PDF)(最一小判平成13年6月28日(平成11(受)922)民集55巻4号837頁)を見つけました。翻案に関する最高裁の判断は以下の通り。
【要旨1】 言語の著作物の翻案(著作権法27条)とは,既存の著作物に依拠し,かつ,その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ,具体的表現に修正,増減,変更等を加えて,新たに思想又は感情を創作的に表現することにより,これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいう。そして,著作権法は,思想又は感情の創作的な表現を保護するものであるから(同法2条1項1号参照),【要旨2】既存の著作物に依拠して創作された著作物が,思想,感情若しくはアイデア,事実若しくは事件など表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において,既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には,翻案には当たらないと解するのが相当である。 — 江差追分事件上告審判決、理由4(1)より
要旨とある通り、すべてPDF化されているわけではなさそうですが、翻案について述べる分には十分でしょう。これからすると、要約やあらすじを翻案にあたるとするのは、なかなか難しいと言えるかもしれません。ただ内容如何では、翻案にあたる可能性も無きにしも非ずです。
結局何が言いたいかというと、一口に要約やあらすじといっても、ケースバイケースとしか言いようがないのではないか、ということです。-- 2009年3月14日 (土) 13:43 (UTC)[返信]


  • こんにちは。ネコバットさん、Inoue-hiroさん、郁さん早速の回答ありがとうございます。回答とご紹介いただきました検討案を拝見させていただきました。「あらすじ」「要約」は著作権が切れている場合を除き白ではないと感じました。(グレーか黒かはおいといて。)微妙な問題ですね。検討案のようなガイドラインが出来ることを願ってやみません。ネコバットさん、Inoue-hiroさん、郁さんのご回答を参考にして無難(素人には法律を解釈しての運用は難しすぎます)に私自身は書かないほうがよいかなと今考えています。--Atheroma 2009年3月14日 (土) 14:33 (UTC)[返信]
  • こんばんは。AtheromaさんやInoue-hiroさんが示されている記事は、内容的に「速読本舗」の件を指していると思いますが。これは所謂ビジネス書を、その本を購入せずとも済むレベルまでに要約したものであったそうです。私は現物の要約文は見たことがありませんが、当時の報道などを読むと約4000文字の詳細な要約に、わずか10行程度(メール文で)の書評をお飾りにつけたもので、これでは訴えられても仕方がなかろうというものだったようです。著作権法的には、翻案となるほどの要約は著作者の許可を必要とされ、抄録ならばケースごとの判断になると考えます。日本語版で記事を書く際には、著作権の保護期間を過ぎている過去の名作などを除き、抄録として許される範囲で書く必要があろうかと思います。ただ、どこまでが抄録で、どこからが要約となるのかは、定量的に示せるものではなく、著作物ごとに判断していくしかないのではと思います(『クリエーター・編集者のための引用ハンドブック 』(太田出版)においては、800文字以下に抑えておけば抄録といえるとアドバイスされているようですが)。新聞報道やビジネス書等のノウハウ本は、内容のエキスだけをつまんで示せば、現物を購入しなくても用が足りてしまうことが多く、こうしたものは個人的には注意する必要があろうと思います。創作作品においては、言語の著作物である小説はともかくとして、映像作品である映画などは、表現方法も多彩ですし現物を見なくても足りるほどのあらすじは、実際に日本語版で目にしたことはこれまでありません(そこまで詳細な要約は百科事典の範疇からも外れますし)。著作権法で保護されている映画のあらすじについては、個人的にはキネマ旬報のレベルが参考になるのではないかと思っています(一例『もののけ姫』)。(編集競合しましたが、「自分自身は書かない」という判断はありだと勿論思いますが、安全側に倒して「Wikipedia日本語版としてあらすじは書かない」(もしくは報知的抄録は禁止し指示的抄録しか認めない)という方向性には、私は進んでほしくないかなと思います。)--Giftlists 2009年3月14日 (土) 14:51 (UTC)[返信]
  • 抄録という概念は知りませんでした。勉強になります。著作権と抄録(新聞記事タイトルの著作権:著作権情報センター)[19]、論文の紀要を作成するさいの著作権(国立情報学研究所)[20]PDF12頁。私も個人的にはあらすじがあったほうが原作にあたってみたいという気持ちが喚起されて嬉しいのでWikipediaにあって欲しい(読んでいても楽しい)のですが、逆に「ここまでなら投稿してさしつかえがない」ガイドラインのようなものがあったほうが投稿頂く方の手助けになるのかなと感じています。--ネコバット 2009年3月14日 (土) 15:20 (UTC)[返信]
  • Giftlistsさんが示唆された、「速読本舗」の件について。判例はネット上で公開されています。平成13年12月3日に判決がでていますので裁判所のホームページから検索してみてください。先ほどの日付で検索すれば、著作権に関する民事訴訟の記録が2つみつかります。いずれも件の件に関する裁判記録です。「Wikipedia:井戸端/subj/推理小説のネタバレ」にも「コメットハンター事件」として紹介されていますが、やはり、オリジナル情報に接することをお勧めします。--Bellis 2009年3月14日 (土) 16:17 (UTC) 少し訂正--Bellis 2009年3月14日 (土) 18:33 (UTC)[返信]
  • 例えばこういう論法は無理押しでしょうか。①Wikipediaは著作権保護の観点から、創作物の「あらすじ」投稿は禁止している。②しかしGFDLを基本理念とするWikipediaにおいては投稿された「あらすじ」が著作権の保護する「権利者による承認のない「翻案」「抄録」」に相当するのかどうかを判定することができない。③著作権原者におかれましてはWikipediaに「権利者による承認のない「翻案」「抄録」」が記載されている場合は、検証可能性のある手法(公式HPや公式文書などによる警告、あるいは裁判所への訴状など)による正式なクレーム(claim)であることを明示して頂くか④あるいは非権原者が検証可能で信頼できる媒体において「著作権原者の権利を侵害している」旨のクレーム(claim)を主張していただく事で無条件に即時削除する、というものです。⑤むろん、Wikipedianによって投稿された「あらすじ」が「権利者による承認のない「翻案」「抄録」」である可能性・危険性に配慮して、あらかじめ最低限の規制(ガイドライン)を制定しておくことはWikipediaの健全な(法的責任を回避している)発展を目指す趣旨において有益、であります。--ネコバット 2009年3月14日 (土) 17:07 (UTC)[返信]
  • ネコバットさんの御意見の①と④の部分について全く賛同できません。①についてはただあらすじというだけで縛りをかけてることにより著作者の権利を侵害していると言えないケースについても一律に禁止してしまおうとする考え方について納得がいかないということと、史実を題材とした作品などならともかく(例として三国志演義を挙げます)、そもそもフィクション作品の記事にまったくあらすじなり要約なりがない状態で百科事典としての機能が果たせるとは考えにくいこと(例としてストーリー節が未執筆になっている少年ケニヤを挙げます。結構有名な作品ですが最低限のあらすじか要約なしにこの作品がどんなものなのか作品を全く知らない人が見当が付けられるような記事にするのは難しそうです)の2点にひっかかりを感じます。④については無条件で即時削除にする理由に納得がいきません。著作権原者の警告があるなら話し合いを経ての削除をするのが相当だろうと思いますし、裁判の訴状が出ている状態で削除していいのかどうか(タイミングによっては証拠隠滅ととらえられかねない点で)疑問があります。非権原者のクレームにより無条件で即時削除という点についてはナンセンスだと思います。それこそ話し合いをして解決すべきことではないのでしょうか。非権原者の意見を無条件に受け入れなければならない理由が分からないし、第一それでは記事の執筆者の著作権が軽視されすぎだろうと思いますが。ともあれ、記事を書く上でのガイドライン的なものは無いよりはある方がよさそうですが、Giftlistsさんの御意見と同じく変に萎縮しすぎてあらすじの一律禁止なんかをする方向には進んで欲しくありません。--zenkota 2009年3月15日 (日) 03:14 (UTC)[返信]
  • そもそも法律(ここでは著作権法)の性質上ケースバイケースとしかいえないものに、一律禁止とか言う時点で誤りではないでしょうか。Wikipedia日本語版としてできるのは、先に提示した江差追分事件上告審判決とともに、あらすじ/要約/抄録についてWikipedia:著作権に一節設けるというあたりが落としどころだと思います。もっとも、著作権侵害による削除依頼の多さを考えると、何らかの歯止めは必要かもしれませんが、だからといって禁止というのは極端に過ぎます(複製権侵害の可能性があるから安全側に倒して「引用禁止」などできないでしょう)。-- 2009年3月15日 (日) 04:30 (UTC)[返信]
  • (コメント)著作権の基本的な考え方として「事実の列記は著作ではない」というものがあります。その範囲ならば著作権侵害ではないと考えます。たとえば機動戦士ガンダムの説明「ガンダムのパイロットとなったアムロ・レイ地球連邦軍の一員としてジオン公国と戦う」これならさすがに事実の列記でしょう。そして、この文が50文字もない、という点に注目してください。これは極端な例ですが、事実の列記たる最低限の説明ならそれほど文字数はいないということです。上記にある、著作権侵害が認められた件について、現物を見ていないのでよく分かりませんが、その本のまとめには4000文字も必要だったのか、という観点での検証が必要かもしれません。漫画やアニメの項目であらすじやキャラの説明がやたら長くて読むのが面倒くさいものが多いので発言しました。--6144 2009年3月15日 (日) 03:58 (UTC)[返信]
  • 「事実」とは創作物の外にあるものじゃないのですか?歴史的な事件である八甲田雪中行軍遭難事件が事実で記事:八甲田雪中行軍遭難事件は事実の列記、八甲田山死の彷徨は創作物です。書籍「八甲田山死の彷徨」の存在について記述するのは事実の列記ですが、その登場人物や新田次郎の小説内での創作について列記するのは「抄録」と考えるのが自然じゃないですか(説明に不可欠な「引用」の範囲ならば著作権を侵害しない)?「書籍にこうかいてあるのは【事実】なんだからあらすじは【事実の列記】であり【抄録】ではない」との論法は、さすがにちょっと乱暴すぎるのでは。文字数制限という考え方は良案そうですね(詩・俳句・川柳等除く)。--ネコバット 2009年3月15日 (日) 05:13 (UTC)[返信]
    • こんにちは。「文字数制限という考え方」には私は否定的です。何年にも渡って書き綴られた大長編の『源氏物語』と夏目漱石の『坊つちやん』の梗概を比して、文字数だけで等しく適不適を判断できるとは思えません(両作品は著作権の保護対象外ですが誰でも知っている創作作品として例示として用いています)。定量化して示すガイドラインは一面として楽な基準かと思いますが、法の専門家をもってしても簡単にはできない境界の線引きを、日本語版で独自基準として定めることも疑問です。独自の自主規制を設けようとすると、どうしても安全側に倒す思考になり、完全に白とされている指示的抄録しか認めないですとか、それこそ文字数は○○文字まで、などといった安易なライン引きに帰着するだけではないかと思います。禁止系や定量化のガイドラインを安易に増やしていく流れは、私はどうかなあと思うのが正直なところです。--Giftlists 2009年3月15日 (日) 06:11 (UTC)[返信]
    • 「「事実」とは創作物の外にあるものじゃないのですか?」「自然じゃないですか」「ちょっと乱暴すぎるのでは」これらの発言は心情を基にしたものであって、正当な論理に基づくものではないと考えます。また、Giftlists氏のおっしゃるとおり、文字数制限と言う考え方には無理があります。さて、指示的抄録について調べてみました。[21]この様な発言がありました。ぶっちゃけ文献の存在について指示を与えるだけなら書誌情報で十分です。文部科学省でもよく分かっていないものであると考えます。よって安全側に倒すとすると、あらすじは一切記載できない他、一切の(古典のキャラを除く)架空のキャラクターの記事を削除+白紙保護する必要が生じることになります。もちろんこれは不合理であり、世界中どこの言語版でもこんな運用はしてません(多分)。また、上記のとおり最低限の事実の列記であればこれは著作権侵害ではないものと考えます。--6144 2009年3月15日 (日) 06:51 (UTC)[返信]
  • 銀河英雄伝説関連の一連の記事などはあきらかにやり過ぎな気がするんですが、権利者に成り代わって削除を主張するまでもないので楽しく読ませて頂いたりするわけですが、説明にこれほどの情報量を必要とせずとも300字もあれば十分説明できるわけです。このあたり判断基準が投稿者まかせでグレーですね。--ネコバット 2009年3月15日 (日) 07:56 (UTC)[返信]

うーん。

抄録については「第4小委員会(複写複製関係)報告書:昭和51年9月 文化庁」、新聞記事についてはコムライン事件判決文が、まず参照するべきものでしょうか。裁判例にある新聞記事と比べると小説など創作性の高いもののほうが保護される範囲・程度は広いとはいえ、もととなる著作物の量なども含めて勘案するべきことかと考えます。他方、アブストラクトはセーフと言われていますし、アイディアは保護の対象となりません。物語の設定や構成などを自分の言葉で説明することまでは、程度の問題こそあれ、保護されないでしょう。

単純化した線引きは、難しいと思うのですね。まずは、書く側、書かれたものを見て何かを指摘する側、双方とも、百科事典の作品項目や全集や作家論などでの解題、文芸批評を読んで、社会的な慣習として、どういうことがどの程度まで書かれているかを確認する必要があるのではないかと思います。作品記事などを見ていて思うのは、そもそも項目で書かれるべきは、宣伝文句としての「あらすじ」ではないことはもちろん、物語の要約でもなく、筋書きの説明だということです。つまり、物語そのものを再構成して提示するとなると、それは翻案・二次著作物となりますが、物語を外部から見て説明するという形であれば、あからさまな「翻案」とは異なります。第4小委員会の説明、コムライン事件や速読本舗事件は、元となる著作物の代用として機能しうる、させようとするものでした。また、項目のほとんどを「あらすじ」が占めてしまうようでは、元の著作物の代用というように見えてしまいます。もととなる著作物の長さと、あらすじの長さというのも考慮すべきところになるでしょうし。「中立的な観点」の方針にも似たようなところがあると思うのですが、項目全体としてどうなっているか、というところとの兼ね合いで、どれくらい書けるかというのも変わってくるでしょう。

ひとまずは、筋書きの説明は必要ではあるが、単に詳しく書けばいいということではなく、書き方についてはさまざまな配慮が必要であり、必要最小限に抑えることが望ましいということを共有できるように、というのが大事だと思います。削除するかどうかについては、その判断は難しく、そのなかで安全側に倒すことで多くの情報が損なわれることを思えば、特に問題と思われるもの派別として、当面は削除依頼を出すのではなく、編集での対応でよいと考えます。--Ks aka 98 2009年3月15日 (日) 08:35 (UTC)[返信]

  • Giftlistsさん、Bellisさん、zenkotaさん、6144さん、Ks aka 98さんこんにちは。回答ありがとうございます。ご回答を読ませていただきました。無い頭使ってみたのですが、ガイドラインやWikipedia:著作権に記述できるような文言は私には出来そうにありません。今は司法の明確な基準もないようなので記事も削除などでなく、編集も社会的な慣習やケースバイケースで対応すればいいかなと私は考えます。ガイドラインもいつかできるといいなあと思っています。--Atheroma 2009年3月15日 (日) 14:52 (UTC)[返信]

パイプを用いて曖昧な内部リンクを張ることへの意見

内部リンクのパイプを使用したもので、表示される記述をあえて曖昧化してあるのをたびたび見ます(「某○○」とか「○○の登場人物に似ている」など、よほどマニアなど情報に精通して無い限り、リンクを踏んで初めて記述の意味がわかるような物)。が、本来のパイプ使用は、いくつか名称がある場合や、単語とするには文意がおかしくなる場合に文章ごとリンクするため(アメリカのアフガン侵攻→アフガニスタン侵攻)に用いる物と考えています。

前者の用いられ方はいわば演出と言った方が良く、一般のサイトならともかく、本来の使用目的から外れてる上に事典としても不適切だと考えますが、特別ガイドラインに記述も無いため、意見が欲しいです。--EULE 2009年3月15日 (日) 04:03 (UTC)[返信]

[[○○|某作品]] や [[○○|あるキャラクター]] という使われ方は適切なリンク、というか適切な表現ではないと思います。なぜ「某」とする必要性があるのか判りません。 By 健ちゃん 2009年3月15日 (日) 04:35 (UTC)[返信]
記事の中の話ですか?ノートでの議論中の話ですか?前者はさすがにまずいでしょうけど、後者はある程度許容してもよいのではないかと思います(確かに趣味はあまり良くないと思いますけど)。--Dwy 2009年3月15日 (日) 04:41 (UTC)[返信]
本文中の物です。ノートの場合は前提に入ってませんでしたが、その論議をする上で当然知っている(知っているべき)ならともかく、そうでない場合ならば、やはりこれも適切なリンクとは呼べないと私は考えます。--EULE 2009年3月15日 (日) 06:45 (UTC)[返信]
ていうか○○と伏せる時点でファンサイト的な目的外利用でしょう。リンク以前の問題として。--6144 2009年3月15日 (日) 06:54 (UTC)[返信]
ここで使われている○○は伏字ではなくて、「何らかの作品」という意味合いの代替文字だと思います。とりあえずそういうのは「面白くない形に開いて良いよ」という感じになります。Wikipedia:言葉を濁さない#基本的ガイドラインも参照で。
ハヤテのごとく!の登場人物 2008年3月15日版
そういうリンクの多用で一時期とんでもないことになっていたページを資料として提示しておきます。こちらでは○が伏字で使われてもいました。最新版では鳴りを潜めていますが、ノートページもみると良いと思います。--草薙 2009年3月15日 (日) 07:28 (UTC)[返信]

ちょっとわかりにくかった様なので具体例を挙げますが、例えば『学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD』のページでは、登場人物の1人が漫画家の平野浩太をモデルにしたと思われることを「[[平野浩太|某漫画家]]をモデルにしているようである」と曖昧化、あるいは濁しています。○などを使った伏字も当然問題ですが、今回挙げたのは、その記述だけでは普通は全くわからない物というある意味でそれ以上の問題行為かもしれないことについてです(単に「某漫画家」と言われても、まず普通の人は何のことかわからないでしょう)。おそらく(好意的にとって)ネタバレを防ぐという意味を勘違いしてこういうことをするのだと思いますが(曖昧な記述を避けるというガイドラインも「リンクを踏めばわかるから問題ない」と考えているのかもしれません)。

元々、通常のリンクにおいてこういう演出法(?)がまま使われることがあるので、問題の無い行為だと思っているのかもしれません。私としてはHelp:リンクあたりなどに、はっきりとパイプを用いる際の注意点みたいなものを記述した方が良いと考えてます。--EULE 2009年3月15日 (日) 07:54 (UTC)[返信]

注意点を明示すべきかもしれませんが、各種ウィキプロジェクトで注意喚起する範疇かとも思いました。それに該当するのはライトノベル、コンピュータゲーム、漫画、アニメ、美少女ゲーム、あたりだと思います。これはサブカルチャー系の記事特有の問題で、ほぼ全ての分野に適用されるようなお話ではないですから。あとそういう表現を使ってるのに気付いたら、遠慮なく曖昧でない形に編集してしまって良いと思います。誰かが修正しないと、直るものも直らないので。--草薙 2009年3月15日 (日) 11:23 (UTC)[返信]
しばらく前に 某キャラ某作品 で検索した結果で修正してみたことがありますけど、よく知らない作品だと直しきれないこともありますね、「~の登場人物一覧」にリンクしている場合なんかは。 By 健ちゃん 2009年3月15日 (日) 14:57 (UTC)[返信]
遠慮なく修正してしまえることは確認できましたが、サブカル系特有の問題とは言え、やはり元から絶つ必要性はあると考えます。健ちゃん氏のおっしゃるように、記述のガイドラインなどとは違い、それを知らない人間にとって修正が難しい場合も多々ありますので。--EULE 2009年3月16日 (月) 11:36 (UTC)[返信]
ではHelp:パイプ付きリンクに書きましょうか。Help空間は「使い方」を説明するページなので、方針を変えてしまうという類のものではないですし。加筆には同意しておきますね。文面はどうしますか。曖昧な表現の内部リンクを作らないでください(+例示)、というような文言でいいのでしょうか。--草薙 2009年3月16日 (月) 12:30 (UTC)[返信]
そうですね、悪例を載せて「言葉を濁さない」への参照もあったら良いかもしれません。--EULE 2009年3月17日 (火) 09:32 (UTC)[返信]
ひとまず載せておきました。Wikiなので自由に編集して言い回しを変えたり、適当な悪例がありましたら追加するなどしてみてください。よろしくお願いします。--草薙 2009年3月17日 (火) 10:54 (UTC)[返信]
対処ありがとうございます。追って気付いたことがあったら手を加えたいと思います。--EULE 2009年3月18日 (水) 10:26 (UTC)[返信]

「百科事典的でない」と言われた記述について

最近、自分と議論した方から「記述が百科辞典的でないと私が判断したら容赦なく刈ります」と言われたのですが、これはウィキペディアの方針としてはどうなんでしょう。誰か一人に「百科事典的でない」と言われた記述はウィキペディアに存在してはいけないのでしょうか。--Godsigma 2009年3月16日 (月) 10:29 (UTC)[返信]

おっしゃっている意味が良く分かりませんが、あえてその言い回しにのると、誰か一人が「百科事典的である」と考えたならば、ウィキペディアに存在して良いことになるのでしょうか?
大きな目で見れば、優れた記事・記述を執筆される方が評価されますし、またそうあるべきです。しかし、記述の加筆とともに、記述の除去もまた編集の一種であって、つねにどちらかが優れているとはいえません。ケース・バ・イケースです。ですから、一般論としては、誰かが有用だと思えば記述を加えて良いのであれば、誰かが有用性を損ねると思えば記述を除去してかまわないでしょう。
もっとも、加筆にせよ除去にせよ、誰か一人がそう思ったから、誰か一人が実際にそうしたからといって、ウィキペディアに存在してよいことになったり、存在してはいけないことになったりはしません。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2009年3月16日 (月) 10:48 (UTC)[返信]
まずケースバイケースだと思いますので、氏がそう言われた状況がわからない現状では何とも言えません。自分も百科事典的ではないと忠告して編集することがありますが、その場合には単なる事実の羅列や広告、そのページの有用性に何ら寄与しない詳細な情報の削除を目的としてます。これらはガイドラインにあることなので、「百科事典的ではない」ではなく、該当するそのガイドラインの旨を引用すれば良いのですが、面倒で「百科事典的ではない」とだけ書いてしまってます。あるいは逆に「百科事典的ではない」と言って削除しているユーザーと対立したこともあり、その判断基準が非常に個人に寄ってしまうことは(自分のことも含め)否定しません。「百科事典的ではない」は簡単な文句ですが望ましい物ではないと思います。--EULE 2009年3月16日 (月) 11:38 (UTC)[返信]
(補足)つまり自分や、そういう言い回しを使う他のユーザーを見るに「百科事典的ではない」と言うのは、該当するガイドラインを引用することを放棄しているのだと思います。無論、ユーザー個人の勝手な価値判断な可能性もあるでしょうが。--EULE 2009年3月16日 (月) 11:51 (UTC)[返信]
おそらくGodsigmaさんの編集が気に食わない人がいて、「今度同じような書き方したら有無を言わず消すぞ」というような意味合いで言われたのだと思います。まずは、いかなる場合にせよ「百科事典的でない」と断じられたからには自分の編集に何か問題があったのではないか、と省みてください。「人間的に気に食わない」という時以外は、相手も何かしらその編集を気に入らない(百科事典的でないと評価する)理由があって言っているのだと思いますから、そこは一度立ち止まって考えてみるべきではないでしょうか。客観性を欠いていないだろうか、独自研究になっていないだろうか、どこか表現がまずいのではないだろうか、など考える点は多々あります。
ただし、それを考えるためには方針と照らし合わせて考えることが必要です。方針の理解無しに相手への反論も、相手から文句の出ない記述もできないかと思います。
しかし、百科事典的でない記述を見つけたら、それを注意したり咎めたりするにせよ、消さずに表現をうまく変えて利用する方向でできるだけ考えていった方が、記事としても発展するんじゃないかなと個人的には思っています(が、方針を理解して文句の出ない編集をするに越したことはないです)。--草薙 2009年3月16日 (月) 13:14 (UTC)[返信]
この件はとある記事のノートで一ヶ月以上議論が続いており、「容赦なく刈ります」と言った当人を含む複数のユーザーがGodsigmaさんの記述しようとした内容が百科事典的でないことを繰り返し説明しています。本人は納得していないようですが。West 2009年3月16日 (月) 15:12 (UTC)[返信]
その「とあるノートページ」はどこなんでしょうか。--ゆきち 2009年3月16日 (月) 17:01 (UTC)[返信]
ノート:天地無用!ではないでしょうか、ある記述をめぐってGodsigmaさんと他のユーザーさんの間で議論となっていて「合意形成のためのコメント依頼」にも提出されているようです。この議論のGodsigmaさんに対するもう一方の主な利用者の方が比較的強硬な姿勢で議論をされる方(それが原因で以前に利用者の行為についてのコメント依頼に出されたことがあるようです)なので双方ヒートアップ気味なようですね。115.162.248.204 2009年3月16日 (月) 22:27 (UTC)[返信]
以前というか、今もコメント依頼に出しています。--203.91.164.37 2009年3月17日 (火) 12:46 (UTC)[返信]

(インデント戻し)mizusumashiさんへ。すると加筆するのも除去するのも個人の自由ということでいいのでしょうか。そして編集の根拠も「そう思った」というだけで十分ということでしょうか。「百科事典的でない」と決めつけられて一方的に除去されても止めることはできないということになるのでしょうか。じゃあ自分はどうしたらいいのでしょう。相手の方と議論しても百科事典的であるかないかを延々と言い合っているだけになってしまいます。今後も同じ人に「百科事典的でない」と自分の記述を刈られ続けなければいけないのでしょうか。
EULEさんへ。ずいぶん長い議論なので状況を説明するのがちょっと難しいです。相手の方は「百科事典的でない」根拠として五本の柱の「単なる情報やデータを無差別に収集する場所でも、雑学集やトリビアコレクションでもありません」やウィキペディアは何でないかの「単なる知識ベース」などを引用していました。しかしEULEさんのおっしゃる通り、結局は個人的判断ということなのでしょう。雑学であるでない、トリビアであるでない、無差別に収集しているしていないという言い合いになってしまいました。
草薙さんへ。おそらく草薙さんのおっしゃる「気に食わない人」だったとは思います。前述のように問題となったのは雑学かどうかという点などで、独自研究や客観性は相手の方も問題にはしていなかったと思います。
West さんへ。たしかに納得していませんが、とりあえず本議論には関係ないと思います。自分の最初の疑問に答えていただけると幸いです。
115.162.248.204さんへ。たしかにノート:天地無用!でのことです。--Godsigma 2009年3月18日 (水) 08:15 (UTC)[返信]

単に「百科事典ではない」だけではなく、既に何が百科事典的ではないのかを具体的に指摘・議論されているのであれば、それに沿って進めるべきでしょう。それで納得がいかないなら、その点を突き詰めるか、コメント依頼で中立的な第三者を求めるかした方が良いと思います。相手が「百科事典的ではない」と具体性にかける言葉を金科玉条かのように使い、どんなに説明を求めても、それしか言ってこないならば問題でしたが。当該のノートも読みましたが、内容の如何は別にして、論を詰めるには悪い相手と言え、冷静な第三者がいれば、また違うのではないかと思いました。--EULE 2009年3月18日 (水) 10:48 (UTC)[返信]
mizusumashiです。
> すると加筆するのも除去するのも個人の自由ということでいいのでしょうか。
もし、その「自由」という言葉を、どういう加筆や除去を行ってもどのような批判も受けず不利益も受けない、という意味で使われてるのであれば、そうではありません。不適切な加筆や除去を行えば、批判を受けますし、場合によっては不利益も受けます。
もし、その「自由」という言葉を、事前の手続きは必要なく、個人の評価と判断で行い、その結果の批判や不利益も自分で受ける、という意味で使われているのであれば、はい、「個人の自由」だと思います。
> そして編集の根拠も「そう思った」というだけで十分ということでしょうか。
いえ、自分が「そう思った」といことが、編集の根拠に(少なくとも強い根拠に)なるわけではないでしょう。
現実に有益である、有益でない、あるいは百科事典的である、百科事典的ではないという評価が編集の根拠になります。しかし、そういった評価をする一次的な主体として、個々の編集者にその評価が委ねられている、ということです。
そして、一次的には委ねられているわけですから、多少の間違いや不合理な判断があっても強く非難されるわけではないでしょうが、その評価に絶対的な権威があるわけではありません。対論者や第三者の評価にも同等の権威があり、最終的にウィキペディア日本語版コミュニティの評価がその権威を上回るでしょう。そして、個々の編集者の評価があまりに間違っているとか、あまりに不道理であったとかであれば、批判や不利益を受けることがあるかもしれません。
> 「百科事典的でない」と決めつけられて一方的に除去されても止めることはできないということになるのでしょうか。じゃあ自分はどうしたらいいのでしょう。
それが本当に不当な決め付けであるのであれば、コメント依頼でコメントをつのり、場合によっては投稿ブロック依頼を出せばよいと思います。
> 相手の方と議論しても百科事典的であるかないかを延々と言い合っているだけになってしまいます。
適切な対応をとれば、ならないと思います。
相手の方が合理的であったり、相手のほうを合理的だと認める第三者が多ければ、自分の主張を取り下げればよいだけです(自分の内面の意見を変える必要はありません。たんに対外的に行っている主張を取り下げればよいのです)。
もし、相手のほうが不合理であったり、あるいは相手のほうを不合理だと認める第三者が多ければ、コメント依頼でコメントをつのり、場合によっては投稿ブロック依頼を出せばよいでしょう。
> 今後も同じ人に「百科事典的でない」と自分の記述を刈られ続けなければいけないのでしょうか。
とりあえずは、毎回、前述のことを繰り返せばよいと思います。
ところで、私の「あえてその言い回しにのると、誰か一人が「百科事典的である」と考えたならば、ウィキペディアに存在して良いことになるのでしょうか?」という質問にお答えいただいていないようですが、お答えいただけないのでしょうか?--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2009年3月18日 (水) 12:13 (UTC)[返信]
mizusumashiさんの仰ることに同感です。「書いてはいけない」ではなく、「書いてもいいけど内容によっては除去される」ということですね。天地無用!の件に関して言えば、mizusumashiさんの言われるところの「相手のほうを合理的だと認める第三者が多い」状態だと思います(しかも、書き方や書く場所によっては有益な情報になりうると言われているのですから、かたくなになる必要はないと思うのですが)。いずれにせよ、態度としては草薙さんが仰っているようなやり方を私もおすすめします。--ふくたろう 2009年3月19日 (木) 03:01 (UTC)[返信]
EULEさんへ。いやいや金科玉条が「雑学である」や「トリビアである」になるだけで、あまり具体的な論にはならなかったと思います。当該のノートではすでにコメント依頼は出してあります。
mizusumashiさんへ。ちょっと疑問を出しすぎたかもしれません。
自分が言った「自由」とは、どちらかといえば後者の方です。
それにしても個々の編集者の評価=個々の編集者の「そう思った」としちゃいけないのでしょうか。とりあえず一次的には個々の編集者の判断で編集してよいが、二次的な編集は集団の判断でやるべきだということなのですね。
しかしmizusumashiさんのお話だと、百科事典的な記述を練るよりもコミュニティ内で多数派になることの方が重要だという印象です。先のことを心配しすぎなのかもしれませんが、もし自分が少数派に属し、「刈ります」発言の方が多数派に属しているならmizusumashiさんのおっしゃる対応では、ずっと主張を取り下げ、刈られ続けなければならないことになるように思えます。もしそうなったらどうしたらいいのでしょう。
以前はmizusumashiさんの「言い回しにのると…」の質問にどう答えていいのかよく解らなかったのですが、今なら「一時的には存在してもいいが最終的にはコミュニティの多数派が認めないと存在できない」と答えます。
ふくたろうさんへ。とりあえず天地無用!の件は本議論では置いとくようお願いします。
一応、自分は草薙さんのおっしゃるような感じでやってきたつもりです。(「つもり」にすぎないと言われると困りますが)。しかし「百科事典的でない」「雑学」「トリビア」「単なる知識ベース」といった言葉は随分、広い解釈ができる表現のようです。いくら方針関連の文章を読んでも、これらに当てはまらないと確信できるような記述の仕方が解りませんでした。(特に雑学が何の定義も定められていないのに困りました)。自分が如何に百科事典的な記述をしたつもりでも、相手の方が拡大解釈をすれば、何でも「百科事典的でない」等に決めつけて除去されてしまうのではないかと考えてしまいます。(ここから最初の質問が生まれたわけです)。もちろん自分にも至らない点が色々あるとは思いますが、それを改めればいいとはどうも思えなくなってしまいました。
なんだかネガティブな意見ばかりですみません。それでは失礼します。--Godsigma 2009年3月22日 (日) 08:29 (UTC)[返信]
mizusumashiです。引用の順番が、前後しますが、ご寛恕ください。
> 今なら「一時的には存在してもいいが最終的にはコミュニティの多数派が認めないと存在できない」と答えます。
私も基本的にはそうだと思います。そして、除去もまたその裏返しであって、一時的に存在しない状態にしてもよいが、最終的にはコミュニティの多数派が記述の復帰を認めれば、復帰することになると思います。
> しかしmizusumashiさんのお話だと、百科事典的な記述を練るよりもコミュニティ内で多数派になることの方が重要だという印象です。
そうお思いになりたいのであれば、否定はしません。もっとも、百科事典的であるかないかという論点において多数派を形成できなかった場合に、「百科事典的な記述を練るよりもコミュニティ内で多数派になることの方が重要」だということなのかといっても、それは多数派の判断よりも少数派である自分の意見のほうが正しい、おまえらは愚か者の集団だ、といっているのと似たようなものだとは思いますが。
> 先のことを心配しすぎなのかもしれませんが、もし自分が少数派に属し、「刈ります」発言の方が多数派に属しているならmizusumashiさんのおっしゃる対応では、ずっと主張を取り下げ、刈られ続けなければならないことになるように思えます。
多数派と少数派が逆転でき、自分の意見が多数派となるよう努力すれば良いのではないでしょうか。いちばん簡単なのは、自分がどうしても譲歩できない部分以外は、ぜんぶ譲歩してしまうことです。あるいは、「この記述」を残すかどうかで争うのではなく、どういう記述に変更すれば残してよいのかということを相談することです。
その相談をどうすればうまく進められるのかは、人によって考え方がいろいろあるでしょうが、自分から「Aさんの○○というご意見と、Bさんの××というご意見を反映し、『・・・』という記述にしたいと思います。ひとまず、これでどうでしょうか」という感じで、改定案をどんどん出すという手法が効率的だと私は思っています(べつにAさんやBさんの意見に納得している必要はありません。自分が譲歩できることなら、譲歩してしまえば良いのです)。
--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2009年3月22日 (日) 10:46 (UTC)[返信]
私には具体的に何が問題であるかは指摘されているように見えますが、あなたがそう思うならば、これは寝ず見氏の論の張り方にも問題があることの結果なのでこれ以上は何とも言えません。
あと多数派が~とあまり納得されていない様ですがWikipedia:合意形成をご覧ください。完全に全てを決定できるルールなんて言う物はありませんから、微妙な解釈の違いなどで対立が起こることは必然です。そこで、それを解決するために民主的な手続きを経るのであれば、少数派の意見も尊重されます。そして議論を行い、主張する持論が正しいのであれば、必ず賛同者が現れるでしょうから。その上で少数派だった物が多数派に変わることもあり、選ばれる可能性だって出てくる。逆に賛同者が現れないということは、まず自分の方が間違っていると認識すべきで、何が間違っているか、譲歩できる内容かを検討すべきだと考えます。稀に少数派が正しかったということもありますが、それはあくまで稀な例ですし、「一定の議論」を経た結果であるなら、なおのこと、その可能性は低くなります(そしてちゃんとしたプロセスを経たのであれば、間違っている方が採択されたとしても、多数派はそのこと自体では攻められません。議論の結果は実際の内容の如何に関係無く正しい、それが民主的な手続きです)。これは別にウィキペディアに限った話ではなく、社会通念上の当たり前の話です。--EULE 2009年3月22日 (日) 15:21 (UTC)[返信]
横から、かつ本論とは全然関係のない指摘なので失礼ですが、バンドワゴン効果というものがあるので、賛同者の出現の有無という要素は必ずしも主張する持論の正しさ(あるいは誤り)を担保(あるいは暗示)するものではありません。多数派が多数派であることを理由に免責され、結論の正しさについて無答責である、という条件の下での議論であるのであればなおさらです。「社会通念」ではどうだか知りませんが、社会科学的な常識とは少々乖離しているように思われます。--倫敦橋 (Londonbashi) 2009年3月22日 (日) 15:40 (UTC)[返信]
ですから一定の議論と言う条件を張ってありますし、多数派が間違っている可能性についても言及しています。--EULE 2009年3月22日 (日) 15:59 (UTC)[返信]
横から失礼。この案件に類似する様な事は何度も繰り返されて来たと思われるが、単純な話、改修側の説明責任の放棄又は説明不足による衝突ではないだろうか。wikipediaは管理者権限を持つ者を除いて判断権限は無い。当然プロジェクト参加者(多数派)だろうと判断権限は無いし、第一IDが『身を守る為』と言う建前で重複取得できる以上、『多数派』と言う事がすでに意味を成さない。だから本来、新参の編集に対して改修する時に説明責任が発生する。
 ここで重要なのは『何を持って、誰が、どう判断するのか』が明確に理解できなければならない事。唯のユーザーが『俺がこう判断したから正しい、コミュニティの人間もそういっているだろ』と言った所で、新参が『何で高が100人も満たないコミュニティの、判断権限の無い唯のユーザーが判断しているんだ』と考えて反発するのは当たり前。必要なのは『管理者による物と明確に解る方針及び指針に基く説明』であって個人的指摘ではない。当たり前の事だが、例え新参に間違いが有るとしても、改修者の説明責任は無くならない。
 更に言うと、管理者の方針、指針と全く関係ないコミュニティ内だけのローカルルールに従わせたいなら、それ相応に細かく相手が納得出来る様説明する義務が生じる。とりあえず新参を貶す前に、自分が説明責任を果たせているかどうか考えてみてはどうだろうか、そうすれば無用な衝突が減ると思うのだが。--218.216.229.30 2009年3月22日 (日) 18:00 (UTC)[返信]

ええと。多数派/少数派というのは、その数で判断する前に、それぞれの主張というのがあって、その説得力で、多数/少数というのは揺れ動くものだと思うのですね。「その項目と記述内容は既に平凡社の最新版の百科事典に掲載されている」ということなら、それが百科事典的な内容というのを覆すのは、相当困難でしょう。ウィキペディアでは、質的にも量的にも世界最大のものを目指しますから、他の百科事典にないものでも、百科事典的なものとして書かれるべきことなら、書いたほうがいい。その「百科事典的」というところを、既存の百科事典や、「百科事典」について書かれたもの、それから「ウィキペディアは何ではないか」の文書などから考えて、それぞれに判断していくということになるでしょう。百科事典についての本や論考はそれほど多くありませんが、たとえば、小学館や平凡社、ブリタニカの百科事典の実物は、多くの図書館に置かれていますし、それぞれの百科事典の項目や「序」は参考になるでしょう。岩波文庫の百科全書も入手が容易です。

IPさんの投稿ですが、記事の内容について管理者は判断する権限を持ちません。必要なあらゆる情報を基に、参加しようとするすべての人が、合意を目指して判断する以外に途はありません。自分の意見が正しいということを前提としているならば、説明は難しくないはずです(あるいは、説明が難しいということを承知しているはずです)。難しいと思ったら、自分の意見を疑い、より強固な論を立てるだけの情報源を探し、あるいはその論の立て方が正しいということを示すものを探すのが望ましいでしょう。--Ks aka 98 2009年3月23日 (月) 18:04 (UTC)[返信]

mizusumashiさんへ。なるほど一端少数派になっても多数派になって捲土重来できるかもしれないということですね。おかげで少し希望が湧きました。
自分の記述の一部分が気にいらないだけなら、いきなり全部除去なんてことはしないと思います。たしかに譲歩にしろ提案にしろいくつか出すことはできるとは思います。しかしそれに異論を唱えることもいくらでもできるでしょう。結局の所、相手の方が除去したいという気持ちを持っている限り、譲歩できない所まで追い詰められるだけではないのでしょうか。なんだかノート:天地無用!はそんな感じだった気がします。
EULEさんへ。多数決で決定すること自体は特に異論はありませんし、合意形成のことも理解しているつもりです。
218.216.229.30さんへ。「刈ります」発言の方は、一応五本の柱などの方針を根拠にしています。
Ks aka 98さんへ。そんなに意見の揺れる浮動票がたくさんあるものなのでしょうか。しかも議論が深まれば浮動票は減っていくんじゃないでしょうか。それに平凡社の最新版の百科事典を覆すのはそれほど困難ではないと思います。「百科事典からとった雑学だ」とか「百科事典から無差別に情報を収集している」とか色々あるでしょう。こういった理屈でも多数派でありさえすれば通用し得るということが心配なわけです。一応おっしゃるような情報源は探すということはやっています。--Godsigma 2009年3月28日 (土) 09:10 (UTC)[返信]
「相手の方」、つまりある個人(ここでは寝ず見さん?)が問題だと思っているのであれば、コメント依頼投稿ブロック依頼を出せばよいでしょうとすでに述べていますよね(というか、Wikipedia:コメント依頼/寝ず見 20090316がすでに出ていますが)。「相手の方が除去したいという気持ちを持っている限り」とかなんとかいう話は、それで終わりです。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2009年3月28日 (土) 10:12 (UTC)[返信]
さて、これだけははっきりさせておきます。既にノート:天地無用!は一定の議論を経ていると思います。寝ず見氏は単に「百科事典的ではない」ではなく、それまでの経過も含めて理由を述べているし、それについて直接の当事者以外の、例えばふくたろう氏やWest氏なども交え、さらにコメント依頼・投稿ブロック依頼という手段も経た上で一定の議論が起こっている。つまり、寝ず見氏の論旨に落ち度はない(口調には落ち度があるが)。
ここであなたが話題に上げている『「百科事典的でない」と言われた記述について』と言う話に限って言うなら、皆が言うように「議論をすべき」という話です。しかし発端となったノート:天地無用!について言うなら、既に議論が起こっている。つまり、この井戸端での話は、既にノート:天地無用!にはさして影響を与え無いでしょう。この点だけははっきりと述べておきます--EULE 2009年3月28日 (土) 13:30 (UTC)[返信]

長期積み残し案件の削除依頼対処のお願い

Wikipedia:削除依頼/GFDLの要件を満たしていない恐れがあるメジャーリーグの選手記事がほぼ結論が出ていてあとは管理者様の対応待ちだと思うのですが、見逃されているのか対応がありません。問題のないようでしたら早急に対応をお願いします。--Win51 2009年3月17日 (火) 05:10 (UTC)[返信]

「刑事案件」について

参考:Wikipedia:井戸端/subj/東京工業大学ほかの広域ブロックについてWikipedia‐ノート:広域ブロック‎

一連の議論でよく刑事案件という単語が現れたが、調べる限りどこにもそれを定義する合意形成された形跡が調べる限りでは見つけることが出来なかった。

  1. 警察に通報した案件、警察が刑事事件であると判断した案件
  2. 管理者が刑事事件であると判断した案件

この2つのどちらかだと推測するが、この2つには雲泥の差がある。Wikipediaではこのどちらであるのか質問をしたい。--74cc1664d58f0ed3e0b34701b528e1ab 2009年3月17日 (火) 06:39 (UTC)[返信]

Wikipediaのどこかで定義づけられて使われている類の単語ではないだろうと思います。もし1番に当てはまらないものを(つまり単なる独断で)「刑事案件」と言っていたら、それは誤解を招く一方でしょうから、そう言わない方がいいと思います。ですので通報等をした結果、警察組織が関わる事になった案件(1番に該当)のみを「刑事案件」というべきではないかと考えます。--草薙 2009年3月17日 (火) 11:27 (UTC)[返信]

一連の議論はきちんと追えていないのですが、参考としてリンクをされているページを検索してみたところ、「刑事案件」という言葉を使っているのは74cc...さんだけのようですが…。

なので、ちょっと、ぼくが答えるべき問いではないと思います。しいて考えてみるなら、ウィキペディア日本語版でなされた、「刑事事件」になりうる行為、あるいは、そのような行為にまつわる、管理者/CU/その他の利用者を問わず、当該書き込みの削除、ブロック、警察への通報など一連の対処、という意味になるでしょうか。--Ks aka 98 2009年3月17日 (火) 12:11 (UTC)[返信]

失礼、「刑事案件」という単語は私だけかも知れないが、同等の単語は海獺氏やFaso氏などの管理者たちも使っていた。議論が広域に渡っているので可読性が低くなっているかも知れないが、使っていたと言うことだけは述べておく。
さて、草薙氏は1.を、Ks aka 98氏は強いて考えて2.である(と読み取れる)わけだが、どうも合意形成か何かを取った方が良さそうな感じであるな。一歩使い方を間違えれば名誉毀損などの民事訴訟案件に発展するような性質の問題であるので、広く議論を行っていった方がいいな。--74cc1664d58f0ed3e0b34701b528e1ab 2009年3月17日 (火) 12:23 (UTC)[返信]
同等の単語」では、まるで話が違うのではないかと思います。それと、名誉毀損がどうとかいう話になる理由も分かりかねます。 -- NiKe 2009年3月17日 (火) 14:34 (UTC)[返信]

とりあえずどこから出てきたか、規定の用語なのかなど謎な状況のようですので、とりあえずサーチャーしときます。利用者‐会話:Faso#東工大に対するオープンプロキシを理由としたブロックの根拠について内のFaso氏発言、刑事に関わるやり取りがあり、が、もともとの語源と推察されます。この発言への返答の中に、刑事事件に関する案件であれば、 刑事に関わるやり取りがあったのですね。とあり、Wikipedia:井戸端/subj/東京工業大学ほかの広域ブロックについてにて刑事に関わるやり取りがあった、Wikipedia:井戸端/subj/Faso氏からの回答が理解の範囲を超えているにて箇条書きにしたときに刑事案件に関わると、と74cc1664d58f0ed3e0b34701b528e1ab氏発言が転じて短縮され、刑事案件という用語的なものに成り立ったようです。その返答に海獺氏発言の刑事案件などの重大案件が絡んでいる場合ですと、この様にFaso氏海獺氏の管理者二名がこの経緯により関係する事により、普通に使われる用語として普遍化が肯定されたような状況になったようです。そして本来の刑事案件と言う語彙の意味のついてですが、ウィクショナリー日本語版(Wiktionary)にも無く、ネット検索の結果で推察するならば、犯罪に何らかの理由で関係する=刑事の案件であり、出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』刑事(けいじ)は、1. 犯罪や刑罰に関することをいう(例えば、刑事法、刑事事件、刑事訴訟など)。民事に対する言葉。ともなっていますので、Faso氏語源の刑事に関わるやり取りがあり、刑事案件と表される事については語彙の意味からいってもおかしくないことになるかと推論できます。--Justia 2009年3月17日 (火) 15:36 (UTC)[返信]

語源についてはサーチャーしましたので、「刑事案件」について私見を。「刑事」と言う意味が犯罪や刑罰に関することを言う以上、2.が司法資格者の証明が出来ない現状では、使用するべきではない事柄であり成り立たないと言えます。よって司法資格者(警察などへの通報、通報後の立件など)が判断しうる1.でのみが「刑事」および「刑事案件」等の用語を使用できる案件になりえましょう。司法資格者でない人物が明示できるのは「民事」以外は有り得ないと私見を述べます。--Justia 2009年3月17日 (火) 16:58 (UTC)[返信]
単純に下にくっつけておく。
そうか?証明も出来ないのに刑事案件があったとか言ったら名誉毀損になる可能性は充分にあり得るが。まー、あっちのさじ加減だからどうでもええわ。Wikipedia:法的な脅迫をしないもあるしな。しかしどこまで公開していいのか、東工大については俺宛に続きのメールが来てるんだよ。東工大の件はWikipediaとネットワーク管理者(飯田氏)だけとの案件では無くなりそうだ。
 サーチャー感謝する。少し勘違いしていたな。しかし同等の単語ということで間違いはなさそうだ。で、合意形成は行う方向で行くか。時間見つけてへましないように慎重に話進めていくわ。--74cc1664d58f0ed3e0b34701b528e1ab 2009年3月17日 (火) 20:43 (UTC)[返信]

秀逸な記事について

  • 秀逸な記事というのゝ、基準というのは、何なのですか?
できればおしえてください。--Gamy 2009年3月17日 (火) 06:42 (UTC)[返信]

Botとはどんなものなのですか

  • 初心者の私には、BOTがどんなものなのかわかりません。
教えてください。
--Gamy 2009年3月17日 (火) 06
46 (UTC)

標準名前空間にある履歴を保存したページの扱いについて

『○○/logYYYYMMDD』といった記事名で、記事の履歴を保存したものをいくつか見つけることができます。しかしながら下記の9件の記事にはカテゴリが付与されておらず、カテゴリ未導入のページに、長期にわたって残されてしまっています。Category:記事の履歴というカテゴリがありますが、9件の記事はこれらとは異質のもののようです。履歴を分離した「記事」を標準名前空間に置くことの是非と、とりあえずカテゴライズするとしたらどういったものが良いか、ご意見を伺いたいと思います。

履歴を分離した「記事」(いずれも全保護中)

--Shadow ump 2009年3月18日 (水) 02:41 (UTC)[返信]

履歴であって記事ではないので、何かのカテゴリに含めておく必要はないと思います。カテゴリ検索で行き当たる必要性がないでしょう。履歴の分割は日本語版ですと版の多い項目に対して井戸端でも慣習的に行なわれている行為です。しかし、記事数・毎日の編集回数が共に多い英語版での「Special:MostRevisions」の一位(約33500の版)で、日本語版での一位(約4500の版)の7、8倍にも上る履歴が存在しているGeorge W. Bushは、そういった履歴分割をしておらず、投稿履歴から初版の2002年の版まで遡ることができます。ひとまず、そういう事実は提示しておきます。--草薙 2009年3月19日 (木) 03:15 (UTC)[返信]
個人的には、余計なページを増やすだけの余り意味が無い作業だと思います。初版からどれだけ変わったのかなって比較ができなくなってますし。なにを基準に履歴分離してるのでしょうか?Special:MostRevisions は更新が停まってますし、編集回数を数えているのでしょうか?それこそ無駄な労力でしょう。--屏風に坊主が上手にジョーズの絵を描いた 2009年3月19日 (木) 03:46 (UTC)[返信]
WikipediaのMediaWikiは5000版を超えた場合、通常の削除権限では削除処理が出来ないように設定されています。私もよくは知りませんが、多分削除処理はテンプレートの変更などのように不可分散を行わず一瞬で処理を行っているのだと思われます。このため特定版削除の際に一旦全削除を行う現行方式を採用する限り、履歴の分離は必要不可欠なものとなるでしょう。
つうか、一旦全削除を行う処理方式の負荷が高いのであれば、ある意味現行の特定版削除ってシステム的に好ましくない処理方法ですよね。Wikipediaの運用と言う面からすれば必要なんですが…。指定された版のみ削除する機能を導入したほうがいいかどうか検討したほうがいいんでしょうか。--Marine-Blue [ 会話 履歴 電信 ] 2009年3月20日 (金) 09:11 (UTC)[返信]
分割している理由はわかりました。ということは、現在の英語版のブッシュさんの記事に削除事由が発生した場合、どうしようもないという事ですか?--草薙 2009年3月24日 (火) 07:53 (UTC)[返信]
英語版は指定した版の削除を行っていないようなので基本的にそういう問題は発生しないと思いますが、まぁそういう意味は訊かれてないだろうから関係ないですね。置いときます。
英語版はOversightが導入されており、Oversightの利用者に指定された版を間引く操作が出来るため、特定の版だけを消すことは出来るようになってます。版数が5000を超えるページの削除が必要な場合、システム管理者に頼めば削除できると思います。Special:ListGroupRightsで管理者に割り当てられているdelete権限より上の権限としてbigdeleteという権限があるので、どうしても必要とあらばシステム管理者が一時的にその権限を有効にして削除作業を行ってくれるんじゃないかな。
確かウィキニュースでプロジェクト名前空間が「Wikinews」から「ウィキニュース」に変更されたとき、名前空間変更の処理前に「Wikinews:〜〜」を全て「ウィキニュース:〜〜」に移動したらしいのですが、名前空間変更後に移動漏れなどの問題が見つかった場合はbugzillaに持って行ってたような気がします。ローカルで対処できない問題はシステム管理者へ、ってことみたいです。自分が参加するよりも前のことなのであやふやなことしか把握してないんですが。--Marine-Blue [ 会話 履歴 電信 ] 2009年3月24日 (火) 08:48 (UTC)[返信]
Shadow umpさんが指摘された問題については、孤立しているページでも発生しているようです。--水野白楓 2009年3月24日 (火) 11:53 (UTC)[返信]

「Category:履歴を分離した記事」を作って、元となるページと履歴保存用ページをここにカテゴライズ(カテゴリ未導入)、元記事のノート上部に履歴を分離している旨を書く(孤立対策)ということでよいのでは。よくわかってないんですが、ノートからだと孤立のままだったりするのでしょうか。履歴を分離というと、GFDL的にややこしい誤解もでてきそうなので、(「このページは技術的な理由のために古い版を[[ほげほげ/log|別のページ]]に分離しています」とかでどうでしょう。--Ks aka 98 2009年3月24日 (火) 19:31 (UTC)[返信]

良い案だと思います。カテゴリを隠しカテゴリにしておけば特に問題ないでしょうね。--Marine-Blue [ 会話 履歴 電信 ] 2009年3月30日 (月) 06:29 (UTC)[返信]
このままで行くならKs akaさんの案でよさそうなのですが、日本語版にOversightを導入するに当たっては何か障害とか問題があるんでしょうか。今後も履歴分割は徐々に増えていくでしょうし(既に分割されているページは毎日の編集回数が多いから特に)、延々分割対応って言うのもどうなのかな、と。しかも2回目の分割は1回目とは別にページを作ってそこに分割ですよね。まとめると削除とかができなくなるのであれば。--草薙 2009年4月1日 (水) 05:10 (UTC)[返信]

過去の議論

すみません。過去の似たような議論の存在についてよく確認せずに問題提起をしてしまいました。参考になりそうな議論は井戸端自体の履歴分離(これはサブページ化することで解決)、標準名前空間での履歴肥大に関するもの(ルール化しようという提案はあったが実現せず)、があります。--Shadow ump 2009年3月19日 (木) 06:44 (UTC)[返信]

  • 「Wikipedia:履歴」のノートあたりにもこれまでの話があります。詳細は過去の議論を読んでいただくとして、現状の履歴分離はウェブブラウザでの操作性とか Mediawiki の負荷、操作制限等、技術的な理由によるものです。将来的に分離しておく必要性がなくなればまた履歴統合すればいいと思いますが今のところは必要性があると考えています。 By 健ちゃん 2009年3月19日 (木) 11:01 (UTC)(既出リンク先除去 By 健ちゃん 2009年3月19日 (木) 11:06 (UTC)[返信]

情報開示も場合によっては止めた方が良いのでは。

国会議員のページで、本人の部屋が 何号館、何号室と明記されて居ますが、

テロリストに利用される可能性が、十分に 有ります。

特に朝鮮人に不利益な発言をした議員等 簡単に暗殺されますよ。

削除すべきと思います。 以上の署名の無いコメントは、219.104.107.19(会話履歴)さんによるものです。

と、匿名性の陰に隠れた(つもりの)君は言うのではありますが…公人が、公務に付くに当たって公開している情報でしかなく、それは秘匿されるべき情報(いわゆる個人情報の一種?)にはあたりません。っていうかー、Wikipedia(言うまでもなく「Wikipedia:井戸端」も)は変な空想で民族差別発言を書き散らす場所じゃありませんよ。ちっともクールじゃありません(漏電中)。--夜飛/ 2009年3月18日 (水) 12:25 (UTC)[返信]

小説は出典に使えますか

ノート:ジャングル大帝で、ある小説が出典に使えるか否かで意見が分かれています。その小説は半自伝的小説で、著者の後書きによれば、プライベートはフィクションだが、仕事関係はほとんど事実というものです。「ほとんど事実」ということで、プロのライターも資料として重要視しており、研究書で引用しているものなのですが。--203.91.164.37 2009年3月18日 (水) 11:22 (UTC)[返信]

この場合の出典は、検証可能性を挙げるために示すものであるため、「ほとんど事実」は言い換えれば「何処にフィクションがあるのかは読者には判らない」と言う意味で、「ワイン一杯の樽にナンか嫌げな汁をちょっぴりたらしたもの」と「樽一杯のナンか嫌げな汁にワインをちょっぴりたらしたもの」が等しく「樽一杯のナンか嫌げな汁」であるように、どちらも意味を成さないかと。ただ、客観的事実として、件の小説がそういった性質にあることを述べた上で、同小説中に斯く斯く云々という描写があることを述べることは、作中の描写は事実なのかフィクションなのか読者が判断すべきことに出来るとおもいますけどね。ただ、それをもってその作中の描写が事実だったと断ずることは、「小説の描写がセミフィクションである」と言う事実と、「その小説中に斯く斯く云々という描写がある」という事実を合成した独自研究の一種に成ると思いますが。--夜飛/ 2009年3月18日 (水) 12:16 (UTC)[返信]
たとえば、アニメ研究者の津堅信之氏は、「ほとんど事実」という部分にひっかかりを感じつつ、「それでも、虫プロの仕事と混乱の状況について、最も多くの事実を伝えている資料であることは間違いなく、虫プロと、アニメ作家としての手塚治虫研究には必須の文献である」と文献としての価値を非常に高く認めています。その他のライターにも、(仕事関係については)その分野では史実であるとして扱われているのが現状です。参考リンク→[22][23][24]。逆にノンフィクションとして出版されている手塚治虫の自伝は、逆に嘘や誇張、作りが入ってることが研究者から指摘されているんです(自伝に限らず、手塚治虫の発言は鵜呑みに出来ないことが常識となってる)。作者が「ほとんど事実(何処にフィクションがあるのかは読者には判らない)」と言っている小説は、仕事分野に関しては第3者から情報源として定評があるのに対して、作者が「自伝」と銘打ったノンフィクションは逆に無条件に信頼することの出来ない資料と見られている、という逆転現象が生じているのです。--203.91.164.37 2009年3月18日 (水) 12:47 (UTC)[返信]
それは、それら研究者らが各々示している意見であって、客観的には「定評と言う水準で妥当性が論じられている」ため、その定評と位置づけを合成して無条件で事実だとすることには飛躍(「論理的ではない短絡」と言い換えてもいい)があるように思います。それはあくまでも件の小説がそういう性質(仕事関係ほとんど事実だと評されている)の域を超えるものではないでしょう。そういった性質を小説の属性として説明することは問題はありませんが、そういう性質から斯く斯く云々という描写を事実だと断ずることはやめたほうがいいと思います…余りにも危ういので。--夜飛/ 2009年3月18日 (水) 12:55 (UTC)[返信]
Wikipedia:検証可能性によれば、著作者の「これは小説です」「これは自伝です」という自己申告はさして重要ではないように思われます。ソースについては「事実確認と正確さについて定評のある、信用できる第三者情報源」に基づいて書くように指導されており、その点で津堅さ氏「最も多くの事実を伝えている資料であることは間違いなく」と評価しております。また、真実かどうかよりも検証可能かが重視されるとあるのですが、その点はいかがでしょうか。--203.91.164.37 2009年3月18日 (水) 13:25 (UTC)[返信]
単純に「小説にはこれこれこういう記述がある」と示すことはできると思いますが、それを以って事実の証明に使えるかといえば、難しいと思います。あくまでフィクション混じりの小説にはこう記載されていた、と書ける(事実を提示するのみである)のがウィキペディアの限界だろうと思います。適切な但し書きを添えた上で、です。--草薙 2009年3月18日 (水) 13:40 (UTC)[返信]
(203.91.164.37さんへ)検証可能性の観点に立てば、その情報の出自の性質が問われるのは前提レベルの話だと思います。津堅信之氏はそのリンク先でもセミフィクションで何処までが事実なのか判らないとしている以上、その津堅信之氏の文章一つもっても事実として断ずることは出来ないでしょう。出典の提示は、「これは事実だ」と所定の資料を示すことではなく、その資料が存在することおよび資料の中に斯く斯く云々の記述が存在するところまでを検証可能な事実として証明するに過ぎません。--夜飛/ 2009年3月18日 (水) 13:59 (UTC)[返信]
えーと、ですから、事実として提示するのでなく、山本暎一「虫プロ興亡記」にはこう書いている、と示せばいいのですね、ネタかどうか判断に迷うような東京スポーツやお笑いタレントの発言を出典元とするときと同様に。で、事実かどうかを編者は読者に押し付けるのでなく、読者が参照先として挙げられた「虫プロ興亡記」を読んで判断すればいい、と。--203.91.164.37 2009年3月18日 (水) 14:13 (UTC)[返信]
そうですね、客観的に確認可能な事実として扱えるのは、その範疇だと思います。--夜飛/ 2009年3月18日 (水) 15:12 (UTC)[返信]
なお、(証明方法がしっかりしている)論文や100%事実しか書かれてない自伝を引用元として使う場合でも、「これこれこういうこと『だから』こうである」と、書き手によって考えられた新たな論をWikipedia内に展開する事は「独自研究」になります。念のため。詳細はWikipedia:独自研究は載せないにて。これは気をつけていてもありがちな行為です。--草薙 2009年3月20日 (金) 04:04 (UTC)[返信]