鬪雞神社

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鬪雞神社
鳥居
地図
所在地 和歌山県田辺市東陽1-1
位置 北緯33度43分46.93秒 東経135度23分2.08秒 / 北緯33.7297028度 東経135.3839111度 / 33.7297028; 135.3839111 (鬪雞神社)座標: 北緯33度43分46.93秒 東経135度23分2.08秒 / 北緯33.7297028度 東経135.3839111度 / 33.7297028; 135.3839111 (鬪雞神社)
主祭神 熊野三所神
社格県社別表神社
創建 允恭天皇8年
本殿の様式 春日造(本殿・上殿・八百萬殿)、四間社流造(中殿・下殿)入母屋造(西殿)
別名 闘鶏神社
田辺宮
新熊野
新熊野雞合大権現
権現さん
札所等 神仏霊場巡拝の道第5番(和歌山第5番)
例祭 7月24日25日田辺祭
地図
鬪雞神社の位置(和歌山県内)
鬪雞神社
鬪雞神社
鬪雞神社の位置(日本内)
鬪雞神社
鬪雞神社
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鬪雞神社(とうけいじんじゃ)[1][2]は、和歌山県田辺市にある神社登記上の宗教法人名称は鬪鷄神社(とうけいじんじゃ)[要出典]。「鬪鶏神社」や「闘鶏神社」などとも表記される。旧称は田辺宮新熊野新熊野雞合大権現。通称:権現さん。旧社格県社で、現在は神社本庁別表神社

歴史

允恭天皇8年9月、熊野権現(現在の熊野本宮大社)を勧請し、田辺宮と称したのに始まる。白河法皇の時代には新たに熊野三所権現を勧請した。平安時代末期の熊野別当湛快のときにさらに天照皇大神以下十一神を勧請して新熊野権現と称し、湛快の子の湛増田辺別当となった。武蔵坊弁慶は湛増の子と伝えられ、その子孫を名乗る大福院(当社境内)から寄進された弁慶の産湯の釜が当社に残る。

田辺は熊野街道大辺路中辺路熊野古道)の分岐点であることから、皇族や貴族の熊野詣の際は当社に参籠し、心願成就を祈願した。熊野三山の全ての祭神を祀る熊野の別宮的な存在であり、当社に参詣して三山を遥拝して山中の熊野まで行かずに引き返す人々もいた。

平家物語』などによれば、治承・寿永の乱(源平合戦)の時、湛増は社地のを紅白2色に分けて闘わせ、白の鶏が勝ったことから源氏に味方することを決め[3]熊野水軍を率いて壇ノ浦へ出陣したという。

このことから「闘鶏権現」や「新熊野雞合大権現」と呼ばれるようになったが、明治神仏分離の際に「鬪雞神社」を正式な社名とした。

1871年(明治4年)に郷社(田辺県)、1873年(明治6年)に村社(和歌山県)、1881年(明治14年)2月には県社となっている。

1971年昭和46年)7月に神社本庁別表神社に加列されている。

2016年平成28年)10月23日第40回世界遺産委員会継続会議において、世界文化遺産紀伊山地の霊場と参詣道」に追加登録された[4]

なおプロ野球の独立リーグ、BASEBALL FIRST LEAGUE(現・関西独立リーグ (2代目))に2017年平成29年)より加盟した和歌山ファイティングバーズはこの神社が名の由来である[5]

熊野神社としての重要性

現存する社殿は近世の再建に係る6棟が揃って遺存するもので、仮庵山を背に北面して建ち、東より西へ西殿、本殿、上殿、中殿、下殿、八百萬殿の6棟が横一列に並ぶ。建立年代は、本殿は寛文元年(1661年)、上殿は推定で江戸時代前期、西殿は元文2年(1737年)、他3棟は延享5年(1748年)である。本殿と上殿は一間社春日造かつ奥行二間とする、いわゆる熊野造である。構成や配置、各建物の形式は熊野三山の社殿と類似しており、熊野との強い関係性を示す。本殿と上殿は、田辺地方における数少ない17世紀中期以前に遡る貴重な神社建築例である。各棟ともに細部には地域的特色を備え、近世における当地方の神社建築の展開を考えるうえでも貴重な遺構とされる[6]。これらの社殿は国の重要文化財に指定されている。

祭神

社殿は6棟あり、それぞれ以下の神を祀る。

境内

文化財

重要文化財

  • 闘雞神社 6棟(建造物)
    内訳は以下。2000年平成21年)3月17日に「鬪雞神社 6棟」として和歌山県指定の有形文化財に指定されたのち[7]2017年(平成29年)2月23日に国の重要文化財に指定[8]
    • 本殿(證誠殿)
    • 西殿
    • 上殿
    • 中殿
    • 下殿
    • 八百萬殿

国の史跡

国の名勝

  • 名勝「南方曼荼羅の風景地」の一部(2015年〈平成27年〉10月7日指定)[10]

和歌山県指定有形文化財

  • 万代記 1括 - 室町から江戸の記録。和歌山県指定有形文化財(書籍、1963年〈昭和38年〉3月26日指定)[11]
  • 御用留 42冊 - 江戸時代から近代の記録(書籍、1970年〈昭和45年〉5月25日指定)[11]
  • 田辺町大帳 130冊および町大帳早引 8冊 - 桃山~近代の記録(書籍、1970年〈昭和45年〉5月25日指定)[11]
  • 那智参詣曼荼羅 1幅 - 絵画。2010年(平成22年)3月16日指定[11]

和歌山県指定史跡

  • 鬪雞神社境内 - 2002年(平成23年)3月15日指定[12]。市街の東部に連なる小丘陵の西端、仮庵山の北麓にあり、社殿はほぼ北向きに鎮座している。社殿背後の仮庵山の中腹から山頂で、平安時代末期から鎌倉時代初頭の経塚が3基発見され、外容器の甕、経筒、合子(ごうす)、刀子(とうす)、小型硯、古銭などの遺物が出土した[13]。また、仮庵山については南方熊楠が「当県で平地にはちょっと見られぬ密林なり」と述べている。熊楠は闘雞神社宮司田村宗造の四女松枝の夫である。

行事

祭事 

  • 御田祭
    • 4月15日
  • 夏越大祓式
  • 例大祭(田辺祭
    • 7月24日(宵宮)
    • 7月25日(本祭)
  • 年越大祓式・除夜祭

その他 

  • 弁慶まつり弁慶が鬪鷄神社境内の大福院で産まれたという伝説から、祭り1日目は同神社で演劇が行われる)
  • 弁慶市(南紀みらい主催、2020年11月まで)2020年12月より新武道館(扇ヶ浜)にて行われる予定。
    • 毎月第三日曜日[17]

氏子町

  • 本町
  • 江川町
  • 福路町
  • 紺屋町
  • 片町
  • 栄町
  • 北新町
  • 南新町
  • 上屋敷町
  • 中屋敷町
  • 下屋敷町
  • 新屋敷町
  • 今福町
  • 江川桝潟町(明治〜大正期にかけて江川浜が埋め立てられ、住宅地となった)

前後の札所

神仏霊場巡拝の道
4 熊野本宮大社 - 5 鬪雞神社 - 6 道成寺

交通

脚注

  1. ^ 和歌山県神社庁-鬪鶏神社 とうけいじんじゃ-”. wakayama-jinjacho.or.jp. 2020年7月27日閲覧。
  2. ^ 田辺探訪(和歌山県田辺観光協会) :: 闘鶏神社”. 田辺探訪(和歌山県田辺観光協会) :: 闘鶏神社. 2020年7月27日閲覧。
  3. ^ 『平家物語』鶏合わせ(壇ノ浦合戦)のくだり
  4. ^ 世界遺産への追加登録承認 闘鶏神社や八上王子跡など紀伊民報 2016年6月11日
  5. ^ “野球で地域盛り上げたい 田辺市に独立リーグ球団”. 紀伊民報. (2016年6月10日). http://www.agara.co.jp/news/daily/?i=315969&p=more 2016年6月26日閲覧。 
  6. ^ 鬪雞神社/6棟”. わかやま文化財ガイド. 和歌山県. 2015年2月14日閲覧。
  7. ^ 県指定文化財・有形文化財・建造物”. 和歌山県教育委員会. 2014年2月14日閲覧。
  8. ^ 平成29年2月23日文部科学省告示第17号。
  9. ^ 田辺市の指定文化財一覧表”. 田辺市教育委員会. 2016年5月20日閲覧。
  10. ^ 田辺市の指定文化財一覧表”. 田辺市教育委員会. 2016年5月21日閲覧。
  11. ^ a b c d 県指定文化財・有形文化財・美術工芸品”. 和歌山県教育委員会. 2016年2月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月14日閲覧。
  12. ^ 鬪雞神社 (新熊野鬪雞権現社)境内”. 和歌山県教育委員会. 2017年2月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月14日閲覧。
  13. ^ 鬪雞神社境内”. わかやま文化財ガイド. 和歌山県. 2017年2月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年2月14日閲覧。
  14. ^ 夏越大祓式”. 鬪雞神社を知る. 田辺市. 2020年4月20日閲覧。
  15. ^ 年越大祓式・除夜祭”. 鬪雞神社を知る. 田辺市. 2020年4月20日閲覧。
  16. ^ 弁慶祭り”. 鬪雞神社を知る. 田辺市. 2020年4月20日閲覧。
  17. ^ 弁慶市”. 鬪雞神社を知る. 田辺市. 2020年4月20日閲覧。

参考文献

外部リンク