足利義兼

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足利義兼
伝足利義兼像(鑁阿寺蔵)
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 久寿元年(1154年)?
死没 正治元年3月8日1199年4月5日
改名 春王丸、義包、義兼、義称(法名
別名 三郎(通称)、足利蔵人、足利上総介
墓所 栃木県足利市樺崎町の樺崎八幡宮
官位 足利荘下司職、八条院蔵人兵衛尉上総介従四位下
幕府 鎌倉幕府
主君 源頼朝
氏族 河内源氏義国足利氏
父母 父:源(足利)義康、母:藤原季範養女
兄弟 義清義長義兼義房
正室:北条時政娘・時子
畠山義純桃井義助義氏藤原親兼室、野田朝氏室、園田成実
養子:義胤
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足利義兼
菊池容斎画 『前賢故実』)

足利 義兼(あしかが よしかね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将御家人足利宗家2代当主。室町幕府初代将軍足利尊氏昆孫に当たる。

生涯[編集]

幼い時に父・足利義康を亡くした義兼は、伯父・源(新田)義重の軍事的庇護を受けていたとされる。

治承4年(1180年)に血縁的に近い源頼朝以仁王令旨に応じて伊豆国で挙兵すると[1]河内源氏の一族であり、また以仁王を養育した暲子内親王(八条院)の蔵人でもあった関係からか、義兼は比較的早い時期から頼朝に従軍していた。

元暦元年(1184年)5月、木曽義仲の遺児・義高残党の討伐において戦功を挙げた。その後、頼朝の弟・範頼に属して平氏を追討した功績により、頼朝の知行国であった上総国国司(上総介)に推挙された。文治5年(1189年)の奥州合戦にも従軍。建久元年(1190年)に出羽国において奥州藤原氏の残党が挙兵すると(大河兼任の乱)、追討使としてこれを平定している[2]

文治元年(1185年)に任ぜられた上総介を4年後の頼朝の知行国返上まで務めるなど、頼朝の門葉として幕府において高い席次を与えられていた。しかし頼朝の地位が高まっていくと、御家人として幕下に組み込まれることとなった[2]

建久6年(1195年)3月に東大寺で出家し、義称(ぎしょう)と称した。頼朝近親の源氏一族が相次いで粛清されたための処世術であったと言われている[誰?]。義兼の死後も岳父・北条時政の他の娘婿らが畠山重忠の乱に関与した疑いなどで次々と滅ぼされたが、足利氏は幕府内の地位を低下させながらも生き残った。出家後は下野国足利荘樺崎寺に隠棲し、正治元年(1199年)3月8日に同寺において死去した後、同地に葬られた。生入定であったとも伝えられている。現在の樺崎八幡宮本殿は、義兼の廟所である赤御堂である。鑁阿寺は、義兼が居館に建立した持仏堂を義氏の代に整備したものとされる。

系譜[編集]

父の義康は源義家の孫・義国の子で足利氏の祖となった。母は熱田大宮司藤原範忠の娘だが、祖父藤原季範の養女となった。藤原季範は頼朝の母由良御前の父でもあるため、義兼は父方でも母方でも頼朝と近い血縁関係にあった。治承5年(1181年)2月に頼朝の正室北条政子の妹・時子と結婚し、頼朝とさらに近い関係になったことも足利氏の嫡流を継いだ要素の一つと言える[2]

異母兄の義清義長は庶子であったために、本拠の足利荘を嫡子の義兼に譲ったという。しかし、義清は祖父義国以来の根本所領簗田御厨を管理し所領としており、元々の家督継承者と見る説もある。義清・義長が治承・寿永の乱で木曽義仲の陣営に参じ、寿永2年(1183年)の水島の戦いで戦死したことから、頼朝を後ろ盾とする義兼が家督を継承したというものである。

長男・義純は遊女の子であったとも伝わる。大伯父の義重に新田荘で養育され、義重の孫来王姫を娶り時兼岩松氏の祖)・時朝田中氏の祖)を儲けた。後に義絶して畠山重忠の未亡人(北条時政の娘)を迎え、泰国源姓畠山氏の祖)が生まれた。

次男・義助上野国桃井郷を領地として城を築く。承久の乱で幕府方の将として戦死したが、遺児の義胤が桃井郷の地頭となり、桃井を苗字とした。子孫の桃井氏室町幕府の草創期に活躍した。

足利氏の嫡流は正室所生の三男義氏が継ぎ、子孫に足利将軍家の他、吉良氏今川氏斯波氏渋川氏一色氏などが出た。なお、その内の一人今川貞世(了俊)は自著『難太平記』の中で、義兼は「(系譜上のまたいとこである源為朝に似て)身丈八尺もあり、力も勝れていた。実は為朝の子といい、義康が赤子の頃から育てた。世を憚って隠したのでこれを知る人はついになかった」と記している[3][注釈 1]

逸話[編集]

  • 義兼の正室時子は侍女藤野が汲んできた生水を飲んだところ妊娠したような腹になり、これを足利忠綱藤姓足利氏)と密通して身籠ったのだと藤野が讒言したことから、身の潔白を示すために自害し、その遺言どおりに遺体を改めると腹から大量の蛭が出てきたという「蛭子伝説」がある。
  • 運慶作と伝わる光得寺(足利市)と、2008年3月に真如苑がニューヨークの競売で落札した大日如来像2体は、義兼の発願に拠るものとされ、義兼の出家の頃に刻まれたと見られている[4][5]
  • 足利学校の開設者については諸説あるが、義兼もそのひとりである。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 曲亭馬琴の『椿説弓張月』はこの伝承をもとにフィクションとして義兼が大凧に乗せられて足利氏に渡されたというストーリーをつくった。

出典[編集]

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 32頁。
  2. ^ a b c 近代足利市史「足利義兼の鎌倉参向」pp151-156。
  3. ^ 臼井(1969)
  4. ^ 峰岸(2009)pp.13-24
  5. ^ 産経新聞 「決断の日本史 117」 2012年4月3日。

参考文献[編集]

  • 臼井信義「尊氏の父祖」『日本歴史』第257号、吉川弘文館、1969年10月、pp.27-40。 
  • 峰岸純夫『足利尊氏と直義』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2009年6月。ISBN 978-4-642-05672-4 
  • 足利市編さん委員会 編『近代 足利市史 第一巻通史編 原始~近代(二)』足利市、1977年2月。 

関連項目[編集]