清仏戦争

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清仏戦争


日本で描かれた歌川国貞作の「清仏戦争図」(上)とフランス軍事博物館所蔵の「ランソン攻勢」(下)
戦争:清仏戦争
年月日:1884年-1885年
場所ベトナム北部、華南台湾
結果アンナントンキンの仏領化
交戦勢力
フランス共和国 大清帝国
黒旗軍
ファイル:Early Nguyen Dynasty Flag.svg 阮朝
指導者・指揮官
アメデ・クールベ
アンリ・リビエール
張佩綸
馮子材
唐景崧
劉銘伝
劉永福
戦力
15,000-20,000 25,000-35,000
損害
2,100 10,000
清仏戦争

清仏戦争(しんふつせんそう、英語: Sino-French War 中国語: 中法戰争 フランス語: Guerre franco-chinoise) は1884年8月と1885年4月にかけて起きた、ベトナム(越南)領有を巡るフランスとの間の戦争

フランスでは戦争の遂行目的(領土領有)を結果的に達成した為、この戦争を「フランス軍の勝利」と捕らえるのが一般的である。しかしフランス軍は戦争中、幾つかの重要な戦いで質的に劣る清軍に敗北しており、軽視できない損害を出した。また講和も戦勝によってではなく、イギリスと清軍穏健派の手引きによって成立した側面が強い。

現在でも中国や台湾などの中華圏ではフランス軍の実質的敗北と見る論者も少なくない[要出典]

背景

ベトナム進出

ベトナム阮朝)に対するフランスの領土的野心は既に1840年代から始まっていた。フランスは阮朝が南部に設置していた幾つかの行政区を武力併合し、それらを統合して仏領コーチシナを形成した。同植民地はフランスの東南アジア進出における重要拠点と位置付けられた。

後にフランス政府の探検団は雲南から北ベトナムを結ぶ紅河沿いの陸路を開拓、『コーチシナ(仏)』-『トンキン(阮朝)』-『中国南部(清朝)』間の通商路整備を計画し始めた。しかし北ベトナムと中国南部の国境地帯には清帝国と対立する劉永福の軍閥・黒旗軍がおり、法外な通行料をフランス政府に要求した為、フランス政府の計画は頓挫した。

アンリ・リビエールの探検

フランスが北ベトナム侵略に突入したのは、海軍士官アンリ・リビエール英語版の行動によってであった。1881年末、現地のフランス商人に対するベトナムの反発を調査する様に命じられたアンリは、小規模の軍勢を連れてハノイに進み、そこで上官命令を無視して独断で阮朝軍のハノイ砦を占領した。ハノイ砦は程無く阮朝軍に返還されたが、リビエールの占領行為は阮朝、ひいては阮朝を庇護する中国大陸大清帝国に強い警戒感を与えた。しかし阮朝は弱体化が著しく、独力でフランス軍を押しのける余力は残っていなかった。

コウザイの戦い
トゥアンエンの戦い
ソンタイ川の戦い

既に崩壊しつつあった阮朝軍に代わってフランス軍の進出と相対したのが他でもない黒旗軍であった。良く訓練された黒旗軍の兵士達はコーチシナ駐屯軍の士官フランシス・ガルニエール英語版の部隊を1873年に壊滅させ、フランス軍に屈辱を与えた経験を持っていた。ガルニエールはリビエールと同じ様に上官命令を無視して北ベトナムに兵を向け、ハノイ砦で黒旗軍の部隊に襲撃され敗北した。この戦いでガルニエールも戦死し、フランスはベトナムでの敗北を隠蔽しようと探検行為そのものを無かったかの様に振舞わなければならなくなった。

また阮朝は宗主国である清朝にも支援を要請した。庇護国に進出するフランスに不快感を抱いていた清朝は表面上敵対していた黒旗軍に武器や資金を援助し、トンキンでの反フランスの戦いを後援する事を約束した。更に清朝宮殿もフランス人がベトナムにこれ以上進出する事を許さないと警告を発した。

トンキン戦争

1882年、雲南省など南部で主に動員された清帝国の遠征軍がベトナムに入り、ランソンなどトンキンの重要拠点に次々と駐屯を開始した。フランス政府の代表として中国に滞在していた駐在大使フレデリック・ブレーは戦争の勃発に驚き、1882年11月と12月に李鴻章と交渉してトンキンをフランス・中国で二分する協定を結ぼうと奔走した(因みにこの交渉で当事者であるはずの阮朝は完全に両者から蚊帳の外に置かれていた)。

一方のリビエールはブレーの行動を敵に対して弱腰であると侮蔑して、1883年に黒旗軍・清軍・阮朝軍と決戦を行うべく520人の兵士を連れて進撃を再開した。3月、フランス軍遠征隊はナムディン砦の戦い英語版で200人の敵兵を戦死させて勝利を収め、リビエールは装備差による戦力優位を確信した。続いて敵軍の攻勢によってハノイ砦近郊で発生したGia Cucの戦い英語版にも勝利を得た。リビエールの行動のタイミングは完璧で、ナムディン砦占領という懲罰を覚悟した行為を行った直後、フランス本国で植民地拡大を新たな外交政策に据えるジュール・フェリー政権が成立した。フェリー政権はブレーの講和案を強く批判、ブレーを大使から解任すると共にリビエールの軍事的独断を英雄的行為として賞賛した。

1883年4月、清朝軍の唐景崧将軍は士気の低い阮朝軍ではフランス軍の攻撃に有効な反撃を行えないと主張して、劉永福を説得して黒旗軍による攻勢を計画した。1883年5月10日、3000名の黒旗軍がフランス軍に戦いを挑み、フランス軍もこれに応じて5月19日に両軍はハノイ近郊のコウザイ地区で衝突(コウザイの戦い英語版)した。550人のフランス兵はコウザイ地区に掛かる橋に陣地を築いていた黒旗軍に攻撃を行った所を反撃され、 戦いは指揮官リビエールが戦死して敗走するという惨めな敗北に終わり、フランス軍は撃退された。

しかし既にリビエールの行動はジュール・フェリー政権の支持を得ており、直ちにフランス軍の大規模増派が開始、後に清帝国すら巻き込む全面戦争に発展した。

フランスの再侵略

1883年8月20日、フランス軍の遠征隊指揮官となったアメデ・クールベ提督の遠征軍がベトナムに上陸、阮朝軍に多大な損害を与えた。フランス軍の本格侵攻を前に、嗣徳帝の死で混乱していた阮朝は癸未条約英語版の締結を了承、事実上フランスに降伏した(トゥアンエンの戦い英語版)。

勢いに乗るフランス軍はダイ川に展開する黒旗軍にも攻勢を仕掛け、フーホアイの戦い英語版パランの戦い英語版で一定の損害を与えたが、同時に激しい抵抗を受けた。司令官の劉永福はフランス軍の猛攻に良く持ち堪えて健在振りを示し、二度に亘る大攻勢をもってしてもダイ川から黒旗軍を後退させる事ができなかった。欧州諸国では「フランス軍苦戦」との悪評が広がり、焦ったフランス政府は1883年9月に攻勢失敗を理由に陸戦司令官を解任した。結局、黒旗軍がダイ川を退いたのはフランス軍の攻撃ではなく川の氾濫によってであり、劉永福はソンタイ川付近の陣地へ軍を後退させた。

フランスは年末に黒旗軍を壊滅させる為の大攻勢を計画しつつ、黒旗軍の後ろ盾である中国(清朝)に対して単独講和を打診し始めた(一方で他の欧州主要国にも参戦を促して回った)。しかし清朝政府は駐仏大使の曾紀澤から「フランスは全面戦争に踏み切る勇気がない」との報告を受け、フランスの駐在大使と李鴻章が行っていた交渉を打ち切った。フランス政府はパリの曾紀澤駐仏大使とポール=アルマン・シャルメル=ラクール英語版外務大臣の会談を行わせたが、なんら外交的な前進は見られなかった。

ソンタイ川・バクニンの戦い

フランス政府の焦りを他所に、清帝国は前線から正規の帝国軍部隊を撤退させる事を拒絶した。帝国内でも高まる危機に攘夷運動が各地で発生し、特に運動が盛んだった広東省では広州などでフランスのみならず欧州商人全体への弾圧が行われ、各国が自国住民保護の為に砲艦を派遣する事態に発展した。

清帝国との直接戦争すらも覚悟し始めたフランスはドイツ政府に鎮遠定遠の建造を遅らせる様に要請、前線ではトンキンデルタでフランス軍が幾つかの新たな拠点を確保して、状況の改善に努めていた。フランス軍は黒旗軍との戦闘継続がいずれ中国との宣戦布告の無い戦争へと繋がる事を予想したが、早期にトンキン全土を併合すれば既成事実的に相手方が領有を認めるだろうと判断した。トンキンでの新たな攻勢はクールベ提督を総司令官に据え、1883年12月に1万を越す大軍がソンタイ川に向かって攻撃を開始した。

ソンタイ川の戦い英語版はこの一連の戦争の中で最も激しく争われた戦いだった。中国軍やベトナム人兵士は余り戦いの趨勢に関与せず、3000人の黒旗軍が勇猛な戦い振りでフランス軍と攻防を繰り広げ、12月14日にフランス軍の攻勢を一旦は撃退した。クールベ軍の敗走を絶好の機会と捕らえた黒旗軍は追撃を加えたが、今度は反対に黒旗軍側の攻撃が失敗に終わった。体勢を立て直す時間を得たクールベは、大砲による援護を行いながら12月16日にソンタイ川へ二度目の突撃を敢行した。同日午後5時、フランス軍外人部隊と海兵部隊の一部がソンテイ川の防衛線を突破して市内に突入、劉永福は残存軍を連れてソンテイ川後方へと撤退した。

漸くフランス軍は黒旗軍を退ける事ができたが、装備・数共に劣る黒旗軍に大きな苦戦を強いられ、数百人の死傷者を出した上での事だった。しかし黒旗軍も半数近い兵士を失う損害を蒙っており、中国軍とベトナム軍(両者が加わればフランス軍を上回る数であった)が戦いに加わらなかった事から劉永福は両国の捨駒にされたと憤慨し、以降の戦いには積極的に関わらない決意を固めた。

1884年3月、フランス軍はシャルル・テオドール・ミロー英語版将軍をアメデ・クールベに代わる新たな総司令官に抜擢して事態の好転を図った。フランス本国に加えてアフリカ人の植民地兵が援軍として参加するなど戦力面の更なる強化が進められ、総戦力は今や2個旅団に増派された。第1旅団はセネガル総督として名声を得ていたルイ・ブリエール英語版少将が、そして第2旅団はアルジェリアイスラム教徒の反乱を鎮圧したフランソワ・オスカル英語版少将が旅団長を務めた。フランス軍は作戦目標を清帝国の広西軍が守備するバクニンに定め、攻撃を再開した(バクニンの戦い英語版)。今回は中国軍が主体となって戦ったものの、依然として交戦意欲の薄い広西軍はおざなりな抵抗だけで直ぐに撤退してしまった。両軍合わせて3万人(フランス軍1万、中国軍2万)の大会戦でありながら、両者の被害が僅かに100人程度に終わっているのがそれを物語っている。また前回の戦いで一人戦わされた黒旗軍が戦いに積極的に参加せず、戦力を温存していた事もバクニン占領を容易にし、ミロー将軍はバクニンに残された幾つかのクルップ製の大砲を鹵獲した。

清国軍

清仏戦争勃発

バクニンで黒旗軍に比べて肝心の清軍が不甲斐ない戦い振りを見せた事に清国内では失望感が蔓延し、対外強硬論を説く張之洞ら攘夷派の評判を落とした。フランス軍によってHung Hoaとタイグエンが攻め落とされると一層に李鴻章ら和平派が力を持ち始め、清帝国皇太后・西太后は天津で李鴻章に司令官代理フルニエとの交渉を再開する様に命じた。1884年5月11日、中国軍の撤退・トンキン分割・貿易路の確定などを取り決めた天津停戦協定英語版(李・フルニエ協定)が結ばれた。清国はフランスによるコーチシナ・トンキンの植民地化も追認し、各地にフランス軍が駐屯する事を黙認した。 しかしフルニエは本職の外交官ではなく停戦協定には多くの欠点があり、特に中国側が何時撤退を行うのかについては明確に決められていなかった。フランスは中国軍の即時撤退を要求したが、中国側は条約の履行次第であると拒絶した。 撤兵問題の論争は清国住民に反仏感情を抱かせる結果となり、再び清国政府内で強硬派に発言力を取戻させてしまった。戦争再開を主張する強硬派政治家達だけでなく私怨を持つ翁同龢らが加わって李鴻章の解任を要求し、更に密かに軍勢を前線に移動させた。

6月6日、フランス公使ユール・パトノートル英語版が阮朝ベトナム代表グエン・ヴァン・トゥオン英語版甲申条約英語版(パトノートル条約、Patenôtre Treaty)を新たに締結した。 同時期の6月、フランス軍は中国軍がランソンからの撤退を行うと楽観的に予想して、ランソンへ駐屯部隊を差し向けた。6月23日、バクレ地方を通過していたフランス軍は通行を妨害する広西軍の分遣部隊と遭遇した。戦力差は大きく、本来なら一旦後退して司令部に支持を仰ぐべきであったが、フランス人士官はむしろ中国軍側に最後通牒を突きつけて攻撃を開始した。こうして発生したバクレの戦い英語版(バクレ伏兵事件)で清国軍の攻撃を受けたフランス軍は損害を出して敗走した。

フランス本国ではバクレでのフランス軍の損害は驚きを持って伝えられ、フランス側でも開戦すべきとの声が高まった。フランスのフィリー政権は清国政府に謝罪と賠償金の支払いを要求したが、清国は交渉には同意したが賠償や謝罪は拒否した。両国の外交姿勢は硬化の一途を辿っていき、やがて交渉も打ち切られた。フランス軍はクールベ提督の艦隊を福州に移動させて、清国海軍の福州船政局への攻撃に備える様に命令された。1884年8月5日、フランス海軍は台湾の基隆湾にある石浦湾に砲撃を行い3台の沿岸砲台を破壊して基隆に海兵部隊を上陸させ、劉銘傳指揮の清国軍が来援した為に撤退した。

これにより両国は事実上の戦争状態に突入、清仏戦争が勃発した。

戦況推移

馬江海戦を描いた絵。左側と手前に位置して水柱に包まれているのは福建艦隊で、右側で砲撃しているのがフランス極東艦隊である。最も右側に位置する黒い装甲艦はフランス海軍のラ・ガリソニエール級装甲艦「トリオンファン(Triomphante)」で絵の左側で交戦している「揚武」と「ヴォルタ」を支援するために舷側砲塔を撃ちながら突撃している構図。
赤色の部分が基隆市
石浦湾に突入するフランス海軍の水雷艇
ブリエール・ド・リール将軍
Nui Bopでのフランス軍
ランソン攻勢の一場面
バンボー
ジュール・フェリー

フランス海軍の攻勢

馬江海戦

8月22日、両国間で続けられていた和平交渉は決裂し、フランス軍はアメデ・クールベ提督の極東艦隊に福州に集結していた中国軍の福建艦隊(張佩綸提督)との決戦を命令した。1884年8月23日に発生した馬江海戦福州海戦とも)はバクレでの手痛い打撃への報復となった。福建艦隊22隻の内、旗艦の一等巡洋艦「揚武」を含む11隻は西洋式の最新艦艇であったが、13隻のフランス海軍の前に完膚なきまでに叩きのめされ、殆どが撃沈か大破に追い込まれた。水兵死者数も3000人を越したとされ、対するフランス側の損害は軽微に留まった。

戦いの一部始終は中立を宣言していたアメリカ・イギリス両国海軍によって見届けられた。もっとも福建艦隊の西洋式艦艇はフランス海軍en:Prosper Giquelの技術協力で用意された物であり、自分で作った海軍を自分で破壊するという皮肉な結果でもあった。戦勝を得たクールベは幾つかの沿岸砲台を破壊した後、公海上に脱出して帰還した。

香港暴動

福建艦隊敗北の報と既成事実と化した戦争は中国全土に衝撃を与え、猛烈な反仏感情と愛国運動を生み出した。また前述の英米を通して欧州にも戦闘の報が伝わったが、意外にもヨーロッパ諸国ではフランスに対する脅威論からか中国側に同情的な世論が多く、これを背景に中国政府はイギリスドイツアメリカから軍事顧問団の提供を受ける事ができた。

民衆間で広がる反仏感情はイギリス領香港にまで達した。1884年9月、香港の労働者達によって馬江海戦で損傷を受けたフランス艦艇の修理を拒絶する大ストライキが展開された。修理工達のストライキは月末には解散させられたものの、湾内労働を補助する様々な業種がストライキを継続したので正常に修理を行える状況には無かった。やむなくイギリス政府は香港でのストライキ解消に向けた警察活動を開始、ある労働者が警官に射殺される事件が発生した。これを切っ掛けにストライキは暴動へと性質を変え、10月3日に深刻な大暴動へと発展した。イギリス政府は広東省の役人達が背後で暴動を指揮したのではないかと疑っていたという。

台湾攻防戦

馬江海戦の後、フランス軍は8月5日に中国軍に撃退されて失敗した台湾島北部沿岸部の要衝・基隆市占領を再び計画し始めていた。フランス軍は馬江海戦の勝利と合わせて北部台湾を占領する事で早期に講和を実現しようと考えていた。10月1日にフランス海軍の海兵隊1800名が上陸、現地守備隊は基隆市を放棄して後方の防衛拠点に下がって防戦の準備を整えた。上陸したフランス軍の戦力では基隆市より先に進むには心許なく、補給面でも不安があった。10月2日、フランス海軍のレスペス提督は意味のない沿岸砲撃を経て、水兵600名を基隆市後方の淡水へと差し向けた(淡水の戦い英語版)。淡水を守る孫開華将軍の中国軍1000名にフランス軍は敢え無く撃退され、戦いは徒労に終わった。フランス軍は基隆市周辺の確保で手一杯となり、戦果は講和へは程遠い状況に留められた。

1884年末、フランス海軍は台湾島の海上封鎖を実行、高雄台南など幾つかの重要な港を封鎖した。その上で1885年1月に大規模な陸上戦力の増強を図り、遠征軍は4000名にまで増派された。だがその時既に中国側も戦力の強化に着手していて、2万5000名の大軍が台湾北部を防衛していた。1885年1月から始まったフランス軍の攻勢は基隆市周辺の幾つかの小村を占領したのみに終わり、大雨の影響で2月には攻勢は中止された(基隆の戦い英語版)。

石浦湾海戦

台湾での戦果が芳しくない中、フランス軍は新たな戦果を再び海上に求めた。クールベ艦隊の戦力は強化され続け、1884年10月時点よりも強大な戦力を自由に扱える状態にあった。1885年2月11日、クールベ艦隊の分隊が台湾封鎖を解除しようとする中国海軍の南洋水師英語版と交戦(石浦湾海戦英語版)、2月14日の夜にフランス海軍の小型艦艇の奇襲でフリゲート艦「馭遠」1隻を撃沈して勝利した。続いてクールベ艦隊本隊も中国海軍を補足、寧波に近い鎮海港へ逃げ込んだ中国海軍の封鎖を行った。後に装甲艦2隻を基幹とした部隊で鎮海港への砲撃を行った(鎮海海戦英語版)が、実際には海戦と呼べるほどの規模ではなく双方の損失も僅かだった。

二つの海戦の後、1885年2月に中国政府の要請を受けたイギリス政府は極東でのフランス海軍入港の拒否を決定した。補給港を失ったクールベ艦隊は報復として揚子江で行われる米輸送を妨害、中国北部で食糧難を引き起こして講和を促そうと試みた。実際、この行動は米の輸送を陸路のみに限らせる効果を齎したが、それが講和を引き出す事は最後までなかった。

トンキンを巡る戦い

三角州での勝利

海軍の攻勢が行われる中、陸軍もまたトンキン戦線で中国軍と黒旗軍への攻撃を繰り返していた。シャルル・テオドール・ミロー将軍は病に倒れた為、1884年9月にトンキン遠征部隊の総司令官を辞任して副官のブリエール・ド・リール将軍に指揮権が移されていた。ブリエールの司令官としての最初の任務は紅河デルタ付近への大規模な中国軍の攻撃に対処する事だった。

1884年9月、広西軍の遠征隊がランソンを越えるとフランス軍の2隻の砲艦に伏兵攻撃を行った。ブリエールは直ちに攻撃に反応して、敵が本格的に集合する前に3000人の兵士を集め反撃に転じた(ケップ攻勢英語版)。白兵戦を含む激しい戦いの末、三派に分けられたフランス軍は各所で広西軍を撃破した。興奮したフランス兵は負傷して動けない多くの敵兵を捕虜にせず銃殺、もしくは刺殺する虐殺行為を行った。ケップ攻勢でのフランス軍の乱暴狼藉はヨーロッパ諸国からの激しい批判に晒される事になる。

フランス軍に敗れた広西軍は大きく動揺し、後方のドンソン英語版に下がって防衛拠点の形成に努めた。対するフランス軍もケップ攻勢で得た拠点(ドンソンから2,3マイルしか離れていなかった)に陣地を築いて中国軍を圧迫した。中国軍は小規模な襲撃部隊を送り込んでフランス軍に損害を強いたが、フランス軍の反撃で前線陣地を奪い取る事はできなかった。フランス軍は黒旗軍や雲南軍が増援として到着した場合を危惧していたが、予想通り11月19日に黒旗軍2000名が移動中のフランス軍700名を補足して攻撃を開始した(Yu Ocの戦い英語版)。しかしフランス軍は首尾よく黒旗軍を撃退、更に広東省に拠点を持つ中国の民兵部隊を紅河デルタから追い払う事にも成功して、デルタ東方の掌握を達成した。平行してアンナンのベトナム人民兵部隊の掃討も完了し、フランス軍は紅河デルタ占領へと駒を進めた。

第一次ランソン攻勢

1884年12月、フランス議会はトンキンでの陸軍作戦を大きな議題として取り上げた。陸軍大臣はフランス軍が紅河デルタの確保を確固たるものにしなければならないと主張したが、強硬派はトンキン全土での総攻撃を主張した。議論は強硬派の押す陸軍大臣が新たに着任した事で決着し、フランス軍はトンキン最大の都市ランソンに向けて総攻撃を開始した。前線基地を出撃したフランス軍は1885年1月3日から4日にかけての攻撃でNui Bopの広西軍守備隊を破り、ランソン攻撃の前哨戦に勝利を収めた(Nui Bopの戦い英語版)。

ランソンに対する攻撃は1ヶ月の準備期間を必要とした。1885年2月3日、フランス軍は7200人の正規軍と4500人の現地兵を引き連れて攻撃を再開、中国軍20000人が迎え撃った。フランス軍は装備を運ぶ事に難渋し、またテイホア英語版やドンソンで連日の様に続く中国軍の激しい抵抗に消耗していった。それでも10日にはランソン周辺部に到達し、12日に中国軍と激戦を繰り広げてランソン北部へ一部部隊が侵入に成功、中国軍はランソンを放棄して後退した(第一次ランソン攻勢英語版)。

トゥエンクアン包囲戦

ランソン占領はフランス軍に更なる攻撃を促し、1884年11月に雲南軍と黒旗軍に包囲されたトゥエンクアンのフランス軍守備隊の救援に向かわせた。雲南軍と黒旗軍はトゥエンクアンを包囲して様々な箇所からフランス軍に猛攻を加え、フランス軍の守備隊はトンキン人の動員兵と懸命に防戦したが、ランソン占領時点で兵員の3分の1が死傷する状態に追い込まれていた。救援が無ければ程なくトゥエンクアンが陥落するのは間違いの無い状態にあった。

フランス軍第1旅団はランソンからトゥエンクアン開放の為に転進して、ホアモクに築かれた包囲側の防衛陣地に攻撃を仕掛けた(ホアモクの戦い英語版)。戦争中最も激しく争われたホアモクの戦いで1885年3月2日に防衛線に襲撃を行ったフランス軍の旅団は撃退され、彼らは数百人の死傷者に苦しまなければならなくなった。それでも辛うじてトゥエンクアンへの道を開いたフランス軍は包囲下の友軍を救う為の戦いを開始、程なくして雲南軍と黒旗軍は包囲を諦めて撤収した(トゥエンクアン包囲戦英語版)。

苦戦の末に友軍を救ったこの戦いはフランス軍の士気を大いに高め、ブリエール将軍は「フランスを救った」と国内で賞賛された。

終局

泥沼化

トゥエンクアンに向かう前、ブリエールはランソンから更に北進して、ランソン攻勢で致命的な損害を受けていた広西軍に追撃を行う様に前線司令官へ命令していた。フランス軍第2旅団は食料と弾薬を補給した後に命令に従って進撃を再開、2月23日にドンダンで広西軍を破って遂にトンキンから中国本土へ押し退けた(ドンダンの戦い英語版)。加えて中国側の国境拠点の幾つかを攻撃したが、これ以上戦果を拡大する力は第2旅団には存在せず、ランソンに帰還した。ランソン攻勢以来、戦勝が続いていたフランス軍もここで一旦手詰まりとなった。第2旅団はランソンで広西軍の反撃に対処する事に忙殺され、同じ時に第1旅団は雲南軍の攻撃にあたっていた。広西軍と雲南軍は数週間に亘って攻勢に転じれる状態に無かったが、フランス軍の2個旅団も広西軍と雲南軍に決定的な敗北を強いれる可能性をそれぞれ持たなかった。

戦争の膠着に苛立ったフィリー首相は講和を引き出す為にブリエールに第2旅団を中国南部の国境地帯に再突入させる様に厳命した。ブリエーレは広西省国境から80キロ辺りにまで軍を突出させる作戦計画について状況から結果を推測したが、3月17日にパリへ打電された結論は「戦力不足で不可能」というものだった。フィリー政権は更に大規模な増援をトンキンへ送り込む決断を下し、これで取りあえず手詰まりの状態からは脱する事ができると見られていた。

増援の殆どは第1旅団に向けられ、第2旅団がランソンを守備する間に前線に立ちふさがる雲南軍の拠点へ攻撃を敢行した(バンボーの戦い英語版)。3月23日にフランス軍はバンボーの幾つかの拠点を占領したが、翌日に始まった雲南軍の猛攻に晒され、損害を出したフランス軍はバンボー占領を諦めて退却した。フランス軍は戦線に穴を開けない様に撤退できたが、後方で再編成を受けたフランス兵達は長引く戦いに怯えつつあった。敗北したフランス兵は士気を低下させており、これは後に起こる失態への予兆を示していた。

第二次ランソン攻勢

第1旅団が後退したランソンは雲南軍と歩調を合わせた広西軍の包囲攻撃を受けていた。第2旅団は少ない手勢で攻撃に耐え、広西軍に反撃してランソン奪還を諦めさせた。雲南軍の勝利に広西軍が乗じる事を防いだ第2旅団は広西軍を追撃して前述の国境攻撃を再開しようとしたが、その途中で前線司令官が負傷した事で指揮系統が麻痺してしまった。指揮権を引き継いだ副官は普仏戦争で名を挙げた人物だったが、前線司令官としては能力を発揮できなかった。第1旅団は追撃を行わず、第2旅団の敗北を埋め合わせて余りある機会を取り逃してしまった。そればかりかバンボーの戦いでの敗北による兵士の士気低下や、広西軍や雲南軍の反撃などで平静な判断力を失ったフランス軍はランソンを自ら捨てて敗走してしまった(第二次ランソン攻勢英語版)。

実際には広西軍は反撃を行える状態になく、雲南軍もランソンの戦いに参戦する可能性は無かった。フランス軍内でも反対意見は存在したが、現実に反映される事はなかった。一向に始まる気配のない追撃の恐怖に、フランス軍部隊は最低限の物資しか持ち出さず、我先に逃げ出していった。その為、体制を立て直した広西軍の潘鼎新が「フランス軍敗走」という思いがけない報告にランソンを再占領した時、そこにはフランス製の膨大な物資や武器が残されていた。命からがら後方へ逃げ去ったフランス兵達は恐怖や疲労から極度に士気を落としていたが、広西軍もまた大きな損害を蒙っていたので追撃は行われなかった。しかし代わりに追い討ちを掛けるように黒旗軍と雲南軍が西方でフランス軍の守備隊を撃破して敗走させ(フー・ラム・タオの戦い英語版)、フランス軍の恐慌状態に拍車を掛けた。

フェリー政権崩壊

第二次ランソン攻勢でのフランス軍の醜態は戦いの結果ではなく、存在しない追撃に自ら怯えた結果であった。従って敗走の後ですら依然としてフランス軍は一定の優位を保っていたが、平静さを失った前線からの報告はブリエール将軍ら後方司令部にも恐怖を伝染させた。3月28日、フランス軍司令部は本国に敗戦の可能性を通達、軍の電報にパリのフランス政府は大きな衝撃を受けた。報告を受けたフェリー首相が速やかに反撃に転じる様に命令すると、ブリエールも「状況が安定化する可能性もある」と報告を修正した。しかし前線と同じく厭戦感情が沸き始めたフランス本国で、この電報の内容は余りにも衝撃的だった。

最初の電報が公に公開されると直ぐに議会で戦争継続の是非を問う議論が紛糾し、戦争の泥沼化に対してフェリー政権への不信任案が提出される事態に発展、3月30日にジュール・フェリーは首相を解任された。彼は二度と同職に復帰する事はなく、政界でも閑職へと回された。トンキン騒動英語版と呼ばれるこの政治問題はフェリーの政治家としての前途を完全に終わらせてしまったのである。

停戦合意

新たに首相となったシャルル・ド・フレシネは中国との講和を打診し、穏健派が力を取り戻していた中国側も了承した。中国側が領土割譲などやや不利な条件を呑んだ背景には、日本の参戦を恐れた為であるとする意見もある。中国側は開戦前に結ばれた天津休戦条約を履行し、フランス側はバクレ伏兵事件の賠償請求を取り下げるなど戦後の関係改善を約束した。

トンキン戦線の敗北による停戦合意の直前、皮肉にも膠着していた台湾戦線では2つの勝利が得られていた。3月、台湾ではフランス軍の駐屯部隊が基隆の包囲を破り台北に退却させたが、やはりそれ以上戦果を拡大する事は難しかった(基隆の戦い英語版)。もう一つは海軍の攻勢で、澎湖諸島を占領下においていた(澎湖諸島海戦英語版)。しかしいずれの勝利も遅きに失した感は否めず、戦局に大きな影響は与えなかった。休戦合意が取り結ばれた時点で2個旅団は体制を立て直しており、フーラムタオへの復讐を主張して和平に反対したが、同地を占領できる見通しは殆どなかった。一方で中国軍がランソンより南に更に南下できる可能性も無かった。

戦争は両者手詰まりの状態でなし崩し的に終戦を迎える事になった。停戦合意が結ばれると速やかに中国軍は条約を履行して軍を撤退させ、黒旗軍も中国本土へ撤収した。フランス軍も台湾島や周辺の島々などベトナム以外の地域から撤退して、海軍を引き上げさせた。

6月11日、フランス側の総司令官であったクールベ提督は休戦の直後に病死した。

戦後

フランスによる東南アジア征服

フランス

軍事的な挫折があったとはいえ、1885年6月9日に締結された講和条約である天津条約(李・パトノール条約)はフランス側にある程度の満足を与える内容だった。開戦当初に目指した台湾島や澎湖諸島の占領は失敗したが、それでも北ベトナムの獲得と通商路の確保(黒旗軍の解散)は東南アジア植民地化に前進を齎した。終戦から暫くはベトナム系の反乱軍鎮圧に時間を要したが、1887年にはカンボジアやと南北ベトナムを合わせて仏領インドシナが成立した。フランスの東南アジア征服の拠点となった同地はラオスなど他の植民地を取り込んで肥大化していく事になる(仏泰戦争英語版を参照)。

だが清仏戦争でのフランス軍の失態は大いにフランス共和国の帝国主義に水を指し、国民に失望感を蔓延させた。「ランソンからの敗走」によって既に政治家としての権威を剥奪されたフェリーだけでなく、側近として彼の後任となったアンリ・ブリッソンも1885年12月に行われた「トンキン論争」で辛辣な批判を浴び、短期間で辞任に追い込まれた。「トンキン論争」でクレマンソーら植民地拡大に反対する政治家達はトンキンからの完全撤退すら要求して、議会で行われた撤兵案の議決は反対273票、賛成270票という僅差で退けられた。もう数人が賛成票に投じていたら、ベトナムは独立を回復していた可能性があった。

清仏戦争の苦戦はフランス国内で植民地拡大を主張する勢力の信用を失わせ、マダガスカル島など幾つかの占領計画が先延ばしにされた。フランスが戦争を再開するのは1890年頃に入ってからの事になる。

中国

一方、中国では清仏戦争は近代的な国家主義運動の出現を促し、旧態依然の君主制を取る清朝の歴史的な役割を終わらせる切っ掛けとなった。

1884年8月23日の福建艦隊の敗北は清朝の進めてきた近代化政策(洋務運動)に大きな失望を抱かせた。清仏戦争の教訓の全てが清朝帝国の前近代的な指揮系統や装備を示していた。主要艦隊の一部は戦いに加わらなかったが、これを日本に対する備えにしたという帝国上層部の弁明は全く説得力を持たなかった。虎の子の海軍部隊を出し惜しんだ事が、フランス軍の遠征艦隊に絶対的な有利を与えた事は明らかだった。

女帝と宮殿の官僚達は1885年10月に海軍の近代化と指揮権の統合を進め、清仏戦争後の10年間に進められた近代化政策は海軍を精強にする事で植民地戦争の阻止を実行に移した筈だった。しかし、改革の利益は古い政治体制の下では帝国内の腐敗によって無為に帰すばかりで無効にされ、戦争に寄与せず日清戦争にも敗れてしまった。清仏戦争は中国にとって帝政に変わる制度が必要である事を示した出来事のひとつに過ぎなかったのである。

日本との関わり

フランス国内では、リヴィエール死後の1883年6月にトンキンでの軍事的敗北を相殺するために、日本の参戦を促す動きがあった。[要出典]

中国軍や黒旗軍の攻撃が深まるにつれ、フランス政府は不平等条約の改定などの条件を出して打診を行った。しかし当時の日本にとって中国との全面戦争は危険すぎる行為であり、国際状況の推移によって多少の変化はあったものの、参戦には後ろ向きだった。戦争後半の1884年12月4日に起こった甲申政変をきっかけに日本国内で対中感情が悪化して参戦論が高まる(時の外務卿井上馨は参戦に意欲を示したが、伊藤博文西郷従道らが反対)が、逆にフランスの方はランソン攻勢の辺りになると日本の参戦に興味を失い、殆ど呼びかけに応じなかった。

結局、清仏戦争に日本が関わることは最後までなく、中国とフランスの戦争として終わった。

関連項目

資料

引用