本尊 (日蓮正宗)

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この項目では日蓮正宗本尊について述べる。

概説

日蓮書写の曼荼羅本尊(現存約130幅)については、文字曼荼羅・十界曼荼羅・御本尊などと呼んでいるが、日蓮正宗ではそれらすべては伝本門戒壇之大御本尊を根元として、木の幹が戒壇本尊ならば他は枝葉のようなものであるとしている。

本尊の特徴は中央に「南無妙法蓮華経」の題目と宗祖の名「日蓮」および判形が独特な筆さばきで縦書きされている。その四隅に四天王が書かれ、南無妙法蓮華経の左右に界の釈迦牟尼仏・多宝如来、四菩薩や諸天等神々、地獄界の提婆達多に至るまで、十界の衆生を代表する名前が首題を取り囲むという構造になっており、事の一念三千を文字によって顕している。

これは弘安頃の本尊から徐々に形が完成し、1280年弘安3年)頃に安定した形となっている。

この本尊の姿は、伝本尊七箇之相承の「中央の首題、左右の十界、皆悉く日蓮なり」と伝えられるごとく、霊山会上の儀式の姿を借りて、日蓮の一心に具わるところの十界互具・百界千如・事の一念三千の全体を文字をもって顕したものとされる。すなわち中央の南無妙法蓮華経・左右の十界の聖衆ともに、日蓮の生命全体を顕わすとし、故に日蓮は「日蓮が魂を墨にそめながして書きて候ぞ、信じさせ給へ」と説明している、とされる。

日蓮正宗の各寺院・施設および各信徒宅には、時の大石寺法主によって授与された日蓮書写の本尊、それを板に彫った板本尊、もしくは歴代法主による戒壇本尊を書写した本尊、それを板に彫った板本尊、印刷された形木本尊などが安置されており、本尊に対する日々の給仕は「生身の日蓮にお仕えするのと同じ気持ちで行うべき」とされている。

この本尊は末法の本仏、「日蓮」の悟りそのものであり、本仏としての日蓮の境界を人法一箇の大法として顕わされたものとし、この本尊に朝夕に勤行唱題することによって、“成仏”という永遠に崩れぬ境涯を得ることができるとされている。

大石寺第二祖の日興は、謗法厳戒を厳格に主張して、他宗の寺院神社をすべて謗法と断じて参詣を禁じている。しかしその反面、戒壇本尊への宗教の統一である広宣流布が達成された暁においては、神仏習合も行われ、日本全国の神社仏閣すべてに日蓮正宗の本尊を安置し、参拝を解禁すべき旨を書き残している[要出典]。このため、氏子総代全員が檀信徒である大石寺周辺地域(静岡県富士宮市上条)の神社に於いては、神体として日蓮正宗の本尊が安置されているところがある。

日興以降の歴代法主の本尊は南無妙法蓮華経と書いた直下に日蓮在御判と書き、その左下に書写した法主の名前と花押を加えており、日蓮花押とは書かない。また、日蓮の本尊には一切書かれていない本尊の賞罰についても、左右に小さく書き足しているのも特徴的であるほか、戒壇本尊には二千二百二十余年と書いてあるが、歴代法主は二千二百三十余年と書写する。

例外であるが日蓮在御判の部分を日蓮聖人と書いた日目の本尊も存在する。

本尊の形態

本尊の形態には「紙幅本尊」と「板本尊」がある。

紙幅本尊は表具をつけて掛軸の形にしてあり、法主直筆の「常住本尊(書写本尊)」と、法主直筆の曼荼羅を印刷した「形木本尊」に分けられる。寺院所蔵の紙幅本尊はすべて「常住本尊」であり、葬儀の際に掲げられる「導師本尊」も同じく「常住本尊」である。信徒宅に貸し下げられる本尊は「形木本尊」(特別形木本尊もある)で、信心熱心な信徒が所属寺院を通して総本山に申請すれば「常住本尊」が授与されることもある。

「板本尊」は、日興門流のみに代表される「常住本尊」である。総本山の諸堂、各寺院の本堂に安置され、伝「本門戒壇之大御本尊」を模して、黒漆塗りの板に文字を刻み、文字には金箔が施されている。また、末寺の客殿や納骨堂に安置される板本尊には法主直筆の白木の板本尊もある。蓮華座に本尊の臍を差し込んで安置されている。大石寺客殿安置の「御座替わり御本尊」(日興書写)など、周囲に金色の枠が施されている本尊もあるが、施設に関しては紙幅本尊のところもあれば板本尊のところもある。

なお、此処に書かれている常住板御本尊と本門戒壇大御本尊の形状は同じである。また、本尊には書写年月日、所蔵寺院名、安置場所、願主名などが脇書として書かれることもあり、本尊を書写した時の法主の名と判形(花押)も下部に書かれている。

本門戒壇の大御本尊

大石寺奉安堂所蔵の縦約143センチ、横約65センチの楠木製とされる板曼荼羅である[1]。写真は明治期に熊田葦城著『日蓮上人』に掲載されたが、その後日蓮正宗は写真撮影を禁止する方針をとった(熊田本の写真はこちらを参照)[2]

日蓮正宗では、本門戒壇の大御本尊は、1279年弘安2年)10月12日に日蓮が出世の本懐として作成した本尊といい、日蓮作成の曼荼羅の中でも究境の大曼荼羅と位置づけ[3][4]、広宣流布の暁には日本国民一同が帰依すべき本尊と定めている[5]

熱原の法難を契機に日蓮の指示によって、当時はまだ所化僧であった泉公、後の日法が彫刻して作成したと大石寺側は主張しているが、泉公にを塗る技術や金箔貼りの技術があったのかは不明であり、その事については説明はない[6][7]

対して日蓮宗法華宗、また北山本門寺や京都要法寺等の他の日興門流、富士門流はこの立場を取っておらず、本門戒壇の大本尊は日蓮死後の後世に偽作された偽曼荼羅であると主張し、近年の研究では大石寺9世の日有(室町時代の法主)が他山に対抗して制作したものであると結論付けており、現在まで論争の火種となっている。

また大石寺59世だった堀日亨ですらも晩年は日蓮作では無いと近辺の者に(大橋慈譲など)暴露しており、法主隠居後は大石寺から一人離れて伊豆の畑毛(現・静岡県田方郡函南町)の地に雪山荘という隠居所を建てて移り住み、戒壇本尊には一切給仕をしていない。

日亨の研究により「戒壇本尊は日禅授与本尊を基に作成された偽物である」という話を、昭和30年代当時東京池袋法道院の主管であった早瀬日慈(68世日如の父)が聞いており、後の67世である阿部日顕(当時教学部長)にそのことを密かに伝え「大橋慈譲著の亨師談聴聞記」と「戒壇本尊の写真及び日禅授与本尊の写真」を基に研究し、両者はそれらの結論から戒壇本尊は偽物であるとの認識を持ったことから、宗務院に辞表を提出して有馬温泉に身を隠していた時期もあった。

更に阿部日顕は河辺メモにもあるように、日蓮正宗僧侶である河辺慈篤(当時徳島敬台寺住職)と東京・日比谷帝国ホテルで面会した際「戒壇本尊は偽物である。日禅授与の本尊を板に彫ったものだ」と二つの本尊の写真を示しながら話しており、河辺自身もその重大さに日蓮正宗との対決を決め込んで敬台寺に立て籠もるという事件にまで発展してしまった。しかし後の68世日如や宗務院側からの再三の説得に丸め込まれてしまい、「あれは自分の記録ミスだった」と自信の非を詫びる形で幕引きをしている[1][8]

創価学会日蓮正宗傘下の時代はこの本門戒壇の大御本尊を信仰の対象としており、例えば1955年の日蓮宗との法論「小樽問答」の際の記録にも見て取れる[8]。しかし、1990年代に日蓮正宗との対立の末に日蓮正宗から破門されると、それまで信仰していた戒壇本尊を信仰の対象から徐々に外していった。1999年(平成11年)には河辺のメモ(河辺メモ)が流出し、そこにはメモ流出当時の日蓮正宗法主だった日顕が「戒旦の御本尊のは偽物」と発言していたとする記述があったことから、創価学会側はこの記述を利用して日蓮正宗への批判を強め、そして2014年の会則改正によって正式に「戒壇本尊を受持の対象としない」ことを決定した[9]。また、日蓮正宗に所属していた正信会も「戒壇本尊は弘安二年に存在していなかった」「日蓮作ではない後世の作り物」とする結論を発表し、未だ戒壇本尊を支持する旧来の派閥と、戒壇本尊を支持しないという新しい派閥とに別れて内部分裂に至っている。一方、冨士大石寺顕正会は日蓮正宗から排斥された2022年現在も戒壇本尊の信仰を続け、日蓮の出世の本懐論を踏襲、さらに本門戒壇が日本国政府ないしは皇室によって建立されなければならないとする狭義の国立戒壇論を主張している。それに加えて戒壇本尊を受持の対象にしないとした創価学会の決定こそが大謗法と非難する。

戒壇本尊が後世に作られたであろう理由としてはいくつかある。

他の弘安2年の曼荼羅と筆配や題目主題の大きさが全く異なる点や、日蓮や直弟子である六老僧に戒壇本尊の記録が全く無いこと、当時彫刻した日法はまだ所化僧であり、その日法すら戒壇本尊について全く触れていないこと、六老僧が日蓮滅後や日蓮が身延下山中に戒壇本尊に対して給仕していないこと、日興や三祖日目等が書写した本尊が戒壇本尊をモデルにしていないこと、大石寺四世日道書の宗祖御伝土代にすら戒壇本尊について全く書かれていないこと、弘安二年十月時点で身延山に板本尊を安置する本堂が完成していないこと、当時の弟子の中に板本尊の漆を塗る技術者がいないこと、板本尊の文字に使われている金箔の調達が不可能であること、身延山周辺に板本尊の原料となっている楠が生えていないこと、「身延の池に板の原木が浮き上がった」「日興と共同で板本尊を作った」等の逸話が存在していたが都合が悪いのか最初からそんな逸話が無かったことにしようとしていること、大事な板本尊なのに池上邸へ下っている間は誰も板本尊を守護していないこと、日興が身延離山の時に大石寺へ運んだというが日興は原殿御返事で身延から何も持ち出していないと手紙に残していること、朝廷へ提出した申し状にすら板本尊について何一つ触れていないことなどが上げられている。

また大石寺9世日有が戒壇本尊を作成した事に関して北山本門寺の日浄が「日有は未聞未見の板本尊を作った」と批判しており、日有はその批判を受けて晩年は大石寺を去り甲斐国(現・山梨県南巨摩郡身延町)の杉山に身を隠している。

20世紀末以後の研究により、日蓮→日興→日目に相伝されていた本尊は戒壇本尊ではなく、嘗て大石寺に存在していた萬年救護の本尊であることが判明している。

日目から血脈を受けたのは日道ではなく日郷であったので、当然日郷が萬年救護本尊を日目から受け継ぎ、南条家との争いに敗れた後は大石寺から萬年救護本尊を持ち出して小泉久遠寺、さらに保田妙本寺へ移動している。日蓮作の本尊が無くなった大石寺としては、日郷が持ち去った萬年救護本尊に対抗してどうしても日蓮作の本尊が必要になり、日郷門流との争いに一段落が着いた頃が丁度日有の時代でもあった。

大石寺2~6世の天皇への申し状の書状に戒壇本尊について一言も触れていないのは、当時は存在していないからである。9世法主日有が戒壇本尊を作成した後は何故か天皇への諫暁も辞めてしまっている。それは大石寺としてのある程度の教義や寺院整備、内部の規律、他山との比較や大石寺の立ち位置を築き上げることに成功したので、日有としては天皇の威光を借りずとも満足いく結果を残せたのであろう。まさにこの頃から今の大石寺の基礎というものができたので、中興の祖とも呼ばれる所以はここからきているのである。17世法主日精も「日興が身に賜わった、弘安二年に譲られし萬年救護の大本尊は現在保田(保田妙本寺:現・千葉県安房郡鋸南町)に有り」と述べているが、それに31世法主日因が二本線を引いて訂正を加え、「日興が身に賜わった弘安二年の戒壇本尊当山に有り」と書き換えている。

このように近年の研究では戒壇本尊が偽作された背景や当時の状況等が徐々に分かってきているのであるが、日蓮正宗側はこのような事実を頑なに受け止めず、「不相伝の輩には分からぬものだ」「戒壇本尊を誹謗することは堕地獄の原因だ」「批判している輩は戒壇本尊が存在しては困る連中だから批判しているのだ」とかえって批判を中傷して断じて聞く耳を持たないのが実情である。

大石寺ではこの戒壇本尊を拝めば必ず幸福になると宣伝をしているが、実際は不幸になれば、過去の罪障が出ている、魔障が競っている、唱題がたりていない、もっと折伏をしろ、供養がたりないからだ、と都合良く指導をしており、それらは大石寺から産まれた他教団組織でも同じように使われている。


また元日蓮正宗信者であった方々が各々のブログ等で、本門戒壇の大御本尊は偽物であると述べているが、その具体的な内容を以下のように述べている。


・弘安2年造立説の戒壇本尊は、日蓮や日興の遺文に全く言及がない。

・日興の『三時弘経次第』や『原殿御返事』にも戒壇本尊への言及がない。つまり身延を離山するに際して日興は戒壇本尊について全く言及していない。


・大石寺4世日道の『三師御伝土代』の弘安2年の項に戒壇本尊の言及は存在しない。


・大石寺3祖日目の『申状』他、日目の遺文にも戒壇本尊の言及はない。


・日興書写本尊に戒壇本尊と同じ相貌をしたものは一体も存在しない。


・戒壇本尊の相貌は『御本尊七箇相承』における書写の指示と異なる。


・『御本尊七箇相承』には「能く能く似せ奉るべし」と書写の指示がされているにも関わらず、戒壇本尊はこの相承の指示通りに書かれていない。


・戒壇本尊と全く同じ相貌で本尊を書写した大石寺の法主は一人も存在しない。


・「奉書写之」の文言は、日興や日目、日道、日行等、大石寺の上代の本尊には見られない。


・『日興跡条条事』原本は日興筆跡と異なることが指摘され、文書には改竄の跡が残る。


・『日興跡条条事』に記された弘安2年本尊について、大石寺18世日精はこれを戒壇本尊ではなく、保田妙本寺蔵の万年救護本尊と解釈している。


・『聖人御難事』の「余は二十七年なり」は文字通り難を受けてきて27年目の意味であり、戒壇本尊が書かれたとする根拠にはなり得ない。


・『聖人御難事』の「余は二十七年なり」を「弘安2年に出世の本懐を遂げた根拠」と曲解したのは大石寺56世大石日応であり、日応以前に『聖人御難事』を出世の本懐が弘安2年とする依文とした人物は存在しない。


・『聖人御難事』執筆の日付は弘安2年10月1日であり、戒壇本尊造立説の日付より前の日付である。


・『伯耆殿御返事』によれば、弘安2年10月12日に日興は日蓮のところにはいなかった。また同抄は弘安2年10月12日の日付で日興に送付されたものなのに、戒壇本尊のことが全く言及されていない。


・犀角独歩氏の解析によれば、戒壇本尊の首題の文字は弘安3年日禅授与本尊と形が一致する。


・北山本門寺6世日浄の『日浄記』によれば、大石寺9世日有が「未聞未見の板本尊」を彫刻偽作したことが記録されている。


・大石寺9世日有の『新池抄聞書』で、歴史上初めて日有によって大石寺に本尊堂があること、大石寺の本尊堂が「事の戒壇」であることが示される。


・戒壇本尊という呼称は大石寺14世日主まで大石寺では全く用いられない。日主の代になり、初めて「本門戒壇御本尊」という言葉が用いられる。


・大石寺66世細井日達の発言によれば戒壇本尊は半丸太形の木だが、重さが推定数百キロであり、身延の険しい山中から日興が数百キロの重量の戒壇本尊を降ろして大石寺に運ぶことは不可能である。


・細井日達の発言によれば戒壇本尊は身延の本堂に安置されていたとするが、本堂にあるなら誰もが見ていた筈なのに、六老僧他当時の弟子たちの文献に戒壇本尊は全く出てこない。


・戒壇本尊が他山の文献に出てくるのは保田妙本寺日我など、室町時代以降のことである。


・大石寺4世日道の『三師御伝土代』の「日興」伝の最後の「図し給う御本尊」の讃文は「仏滅後二千二百三十余年」と書かれており、戒壇本尊の「仏滅後二千二百二十余年」と相違している。


・大石寺ではなぜか10月12日に記念の行事は行われない。したがって大石寺は「10月12日」を公式に記念日と定めてはいない。

・大石寺48世日量によれば日法は戒壇本尊彫刻の功績から阿闍梨号を賜ったとされるが、日興の弘安5年の『宗祖御遷化次第』で日法は「和泉公」と記され、阿闍梨号で書かれていないこと。


・日法彫刻の最初仏について、大石寺48世日量は「(日蓮が)我貌に似たりと印可し給ふ所の像なり」としているが、日興の『富士一跡門徒存知事』では日蓮御影について「一つも似ているものがないが、正和2年日順の像だけは日蓮の面影がある」と述べており、矛盾する。


・戒壇本尊は半丸太形で台座に嵌めて置く形状をしているにも関わらず、『日興跡条条事』では弘安2年の本尊について「相伝之可奉懸本門寺」と書かれており、「懸け奉るべき」としていること。


・日蓮は重要な遺文や本尊には必ず「干支」を記したが、戒壇本尊に「干支」は全く書かれていない。


・重須(北山本門寺)学頭の三位日順は『本門心底抄』で「本門の戒壇」を語る部分で「仏像を安置することは本尊の図の如し」として戒壇本尊について全く言及していないこと。


・下条妙蓮寺5世日眼の『五人所破抄見聞』では本尊の讃文に「二千二百三十余年」と書かれているものが「肝心」であるとしており、「二千二百二十余年」と書かれている戒壇本尊に全く触れていない。

・現在の大石寺には客殿から戒壇本尊に対する「遥拝勤行」の化儀が残されているが、そもそも客殿の創建は寛正6年(1465年)であり、それ以前に客殿は存在しなかったこと。


・日興は重要な本尊に対して「本門寺重宝」「本門寺に懸け奉るべし」と脇書を多く残しているにも関わらず、戒壇本尊には全く書かれていない。


導師本尊

各寺院所蔵の本尊のうち、枕経・通夜・葬儀の際に掲げられる「導師本尊」は、故人を霊山浄土へ導くとされる即身成仏のための本尊で、「即身成仏の御本尊」ともいわれる。また、総本山大石寺をはじめとする寺院の納骨堂には本尊が安置される場合もある。納骨堂に本尊を安置する場合も同じ意味で導師本尊が安置され、板本尊も存在する。

紫宸殿御本尊

通称、紫宸殿御本尊(ししんでんごほんぞん)と呼ばれるものは、富士大石寺と京都要法寺にある本尊である。しかし、大石寺と要法寺のものは、まったくの別物である。

大石寺のものは、1280年(弘安3年)太歳庚辰3月日、日蓮の真筆で紙幅の曼荼羅であり、富士宗学要集5巻には「紫宸殿御本尊と号す」と記載され、天皇が日蓮の仏法に帰依したとき、天皇に下附し紫宸殿天皇の住居)に奉掲するための特別の本尊とされている。また別な伝説によれば、9世法主日有の時代に、本門戒壇之大御本尊を盗賊から守るため沼津(現・静岡県沼津市)の井出という家の洞穴に保管し、紫宸殿御本尊を板に刻み「身代わり御本尊」としたと伝えられている。紫宸殿御本尊という名称は、もとより伝承であり長い間親しまれてきたが、2002年の御虫払い法要において67世法主日顕の説法があり「その名称も見直しが行われるべきであり師資相承之御本尊または師資伝授之御本尊と呼ぶのが正しい」とされている。

要法寺にあるものは、1756年(宝暦6年)、紫宸殿において天覧に奏した紙幅の曼荼羅であるが、日蓮の真筆ではないとされている。

安置形式と仏壇・仏具

本尊の安置形式は、通常は本尊のみを安置する形式であるが、一部の寺院では、大石寺御影堂のように本尊の前に日蓮の像を安置する「御影堂式」、「一体三宝式」または、大石寺の客殿のように中央に本尊を安置し、本尊に向かって左側に日蓮の像、本尊に向かって右側に日興の像を安置する「客殿式」、「別体三宝式」の安置形式をとっているところもある。

日蓮正宗では、本尊を厨子に安置する。また、仏壇に位牌を置くことはない。葬儀においては白木の位牌が用いられるが、五七日忌または七七日忌などに納骨を行う際に、過去帖に記入し、白木の位牌はお寺納めとする。したがって、朝夕の勤行においては、過去帖を見ながら物故者の追善を行う。また、日蓮正宗の仏壇は、他宗派の仏壇とは構造が大きく異なり、内側に厨子が付いているものが特徴である。また、寺院の厨子を模した家庭用仏壇もある。

信徒が仏壇に位牌を置くことはないが、大石寺の大講堂の仏前には日興と日目の位牌が安置されている。これは、日蓮が説法し、血脈を直接受け継いだとされる弟子の日興と日目が日蓮の見守る中、説法する意味が込められている。

脚注

出典

参考文献

  • 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 編『日蓮正宗入門』阿部日顕(監修)(第2版)、大石寺、2002年10月12日。ISBN 978-4904429778NCID BA56841964OCLC 675627893https://web.archive.org/web/20041105054029/http://www.geocities.jp/shoshu_newmon/2014年12月5日閲覧 (ISBNは、改訂版のもの。)
  • 日蓮正宗宗務院(編)「日蓮正宗宗規第3条」『大日蓮 平成16年4月号』、大日蓮出版、2004年4月、2014年12月12日閲覧 
  • 日蓮正宗宗務院 編『法華講員の心得』(改訂版第5刷)大日蓮出版、2008年2月16日(原著1988年10月1日)。ISBN 978-4904429150OCLC 676522972 
  • 金原明彦『日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実』水声社、2007年8月。ISBN 978-4891766481 

外部リンク