山川猛

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山川 猛
富山県立氷見高等学校 コーチ
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県姫路市
生年月日 (1955-02-24) 1955年2月24日(69歳)
身長
体重
180 cm
88 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1978年 ドラフト3位
初出場 1980年7月29日
最終出場 1988年5月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 阪神タイガース (1989)
  • 富山県立氷見高等学校

山川 猛(やまかわ たけし、1955年2月24日 - )は、兵庫県姫路市出身の元プロ野球選手捕手)・コーチ

来歴・人物[編集]

プロ入り前[編集]

東洋大姫路高校3年次の1972年夏に夏の甲子園兵庫大会決勝で市神港を延長15回の末に破って出場を決め、本戦では後にプロでチームメイトとなる掛布雅之を擁する習志野との1回戦で大会第1号の満塁本塁打を放って勝利に貢献したが、2回戦で高知商業高校に敗れた。

高校卒業後は1973年駒澤大学へ進学し、東都大学リーグでは5度の優勝を経験。同期の森繁和などとバッテリーを組んでいたが、実際には1学年先輩の小川良一や同期の大宮龍男の後塵を拝していて、リーグ戦へ出場する機会が少なかった。

大学卒業後は1977年石川県金沢市に本社を置く繊維商社「西川物産」[1]へ入社し、1978年ドラフト会議で、当時創設されたばかりの西武ライオンズから3位で指名されたことをきっかけに、球団の1期生としてプロ入りを果たした。背番号は37で、駒大時代の同期生であった森も、住友金属を経て、この会議での1位指名を経て西武へ入団している。

西武時代[編集]

1年目の1979年には、二軍イースタン・リーグ公式戦61試合に出場。捕手として29試合でマスクを被る一方で一塁手としても18試合に出場し、6月26日大洋戦では6回1死からの代打起用で本塁打を放ったものの、捕手や一塁の守備では課題を露呈。5個の捕逸を記録したほか、10月6日の大洋戦では一塁手としてはリーグ最多の1試合3失策を記録し、この試合ではチーム全体でも9個の失策を犯していて、イースタン・リーグの公式戦1試合におけるチーム最多失策記録を更新する羽目になった。

2年目の1980年には、捕手としてイースタン・リーグ公式戦53試合に出場。6月5日巨人戦で11回裏にサヨナラ安打を放つなど、正捕手格での起用に応え続けた結果、通算11本塁打でリーグ本塁打王のタイトルを獲得。7月29日の対阪急戦(西武)9回表に、捕手として守備に就いたことで一軍初出場。8月9日日本ハム戦(後楽園)では8番・捕手として一軍で初めてのスタメンマスクを任されたが、この試合では投手陣が3回裏までに4点を失ったほか、打席でも2打席連続で三振を喫したため途中で交代している。一軍公式戦には通算で6試合に出場したが、打撃面では4打席で3三振を喫したほか、守備面では盗塁を3回仕掛けられた末にいずれも成功を許している。

1981年には一軍公式戦終盤の14試合でスタメンマスクを任されていたが、1982年には一軍へ昇格できず、シーズンの終了後に清家政和との交換トレードで阪神タイガースに移籍。西武の前身であるクラウンライターライオンズ最後の正捕手で、1979年から阪神へ移籍していた若菜嘉晴の退団に伴う移籍で、移籍後の背番号は38となった。

阪神時代[編集]

1983年には笠間雄二や新人・木戸克彦との間で正捕手の座を争ったものの、一軍公式戦への出場は3試合にとどまる。

1984年には安藤統男監督の下で110試合に出場し、笠間から正捕手の座を奪ったものの、打撃面で確実性を欠いていたことなどから、安藤に代わって吉田義男が監督へ復帰した1985年以降は出場機会が減少した。同年には、吉田の方針で木戸が正捕手に据えられたものの、山川も2番手捕手や代打要員としてチーム21年振りのセントラル・リーグ優勝や球団史上初の日本シリーズ制覇に貢献 。1988年限りで現役を引退。

現役引退後[編集]

引退後は阪神で一軍バッテリーコーチ補佐(1989年)を1年だけ務めて退団し、建設会社に営業担当として入社。その後は球団社長からの誘いで球団本部(渉外部)職員として阪神へ復帰し、木戸が球団本部長を務めていた2016年には、木戸の下で編成部のプロスカウトとして活動していた[2]。同年限りで阪神を再び退団したことを機に、学生野球資格の回復に向けた研修を受講。2017年2月27日付で日本学生野球協会から資格回復の適性を認められたこと[3]によって、同協会へ加盟する高校・大学の野球部を指導できるようになった。

2017年からは阪神園芸の職員として甲子園グラウンドキーパーを務めていた[4]が、富山県氷見市で暮らす義母を介護すべく、富山県立氷見高等学校バレーボール部出身の妻と揃って2020年に市内へ移住。同校硬式野球部が2022年選手権富山大会決勝で惜敗したことや、部員の指導に必要な学生野球資格を回復していたことを背景に、関係者からの依頼で同部のコーチを引き受けた。硬式野球部には既に2人のコーチがいて、山川の就任後も指導を続けているが、いずれも同部の出身者である[5]。。

氷見高校野球部は、山川が指導を始めた2022年秋の富山大会で優勝すると、北信越地区高等学校野球大会へ14年振りに出場したばかりか準決勝にまで進出。このような成績に加えて、「所属部員が17名ながら大半が氷見市内の出身者」「地元の小学生向けの野球教室などの普及活動を積極的に展開」といった要素が第95回記念選抜高等学校野球大会2023年春)に向けた出場校の選考で勘案された結果、富山県勢としては初めての「21世紀枠」で30年振り2度目の選抜大会出場を果たした[6]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1980 西武 6 4 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .000 .000 .000 .000
1981 20 54 52 5 11 1 2 1 19 3 0 0 1 0 1 0 0 9 0 .212 .226 .365 .592
1983 阪神 13 8 8 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 5 1 .000 .000 .000 .000
1984 114 281 249 32 48 7 1 10 87 25 1 0 8 1 22 7 1 53 9 .193 .260 .349 .609
1985 48 89 80 12 17 4 0 4 33 10 0 0 2 0 7 2 0 19 1 .213 .276 .413 .688
1986 24 11 10 2 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 1 0 0 5 0 .200 .273 .200 .473
1987 30 32 31 2 6 1 0 2 13 3 0 0 0 0 0 0 1 10 1 .194 .219 .419 .638
1988 2 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
通算:8年 257 481 436 53 84 13 3 17 154 42 1 0 11 1 31 9 2 105 12 .193 .249 .353 .602

年度別守備成績[編集]


捕手
試合 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率
1980 6 3 3 0 .000
1981 20 25 20 5 .200
1983 10 1 1 0 .000
1984 114 97 59 38 .392
1985 35 29 24 5 .172
1986 6 5 3 2 .400
1987 17 8 5 3 .375
通算 208 168 115 53 .315

記録[編集]

背番号[編集]

  • 37 (1979年 - 1982年)
  • 38 (1983年 - 1988年)
  • 86 (1989年)

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]