奥柿幸雄

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奥柿 幸雄
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 静岡県小笠郡浜岡町
生年月日 (1948-06-06) 1948年6月6日(75歳)
身長
体重
180 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 内野手 外野手
プロ入り 1966年 第1次ドラフト1位
初出場 1967年
最終出場 1970年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

奥柿 幸雄(おくがき さちお、1948年6月6日 - )は、静岡県[1]出身の元プロ野球選手

来歴・人物[編集]

静岡商では1966年、3年生の時に一塁手、控え投手として夏の甲子園県予選決勝に進出。掛川西に5点をリードされるが、リリーフとして登板し終盤で逆転勝ち。甲子園では1回戦で金沢商に快勝[2]。この試合では左打者ながら左翼へ大会第2号本塁打を放ち、その長打力を注目される。またリリーフとして甲子園初登板を果たした。しかし2回戦で、この大会に準優勝した松山商西本明和投手に抑えられ1-5で敗退[2]

1966年第1次ドラフトサンケイアトムズに1位で入団[1]。高校時代から「2世」と呼ばれており、背番号は読売ジャイアンツの王と同じ1番をもらった[1]。サンケイでは一塁手の豊田泰光小淵泰輔に衰えが見られ、その後継として大きく期待される。1年目から一軍入り、5月からクリーンナップとして4試合に起用された。翌1968年には26試合に先発出場、シーズン後半には五番打者に起用される。同年9月は2試合で四番に入るなど期待の大きさがうかがえるが、打撃面では伸び悩みが続く。1969年には一塁手にロバーツや途中入団のチャンスが入り、出場機会を増やすため外野手も兼ねる。

『プロ野球人名事典 2003』では、1970年のシーズン中に周囲の重圧に耐えきれず突然失踪し[1]、そのままチームを解雇されてしまった[1]としている一方、『週刊ベースボール』1970年12月14日号(ベースボール・マガジン社)では、同年シーズンオフの11月3日に行われた秋季練習を欠席し、そのまま2・3日ほど姿を現さず、失踪事件として家族が警察に届け出をしかけたところ、姿を現して自ら引退を決めた経緯や、その後の本人の「早くプロの汚れ切った気持ちを整理して再起したい。地道なサラリーマンが向いているのかもしれないですね」という談話の記述がある[3]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1967 サンケイ
アトムズ
ヤクルト
41 52 48 3 8 0 0 1 11 3 0 0 0 1 3 0 0 11 2 .167 .212 .229 .441
1968 66 139 127 10 26 3 0 1 32 5 1 2 4 0 7 0 1 28 1 .205 .252 .252 .504
1969 69 101 94 2 17 2 0 1 22 7 0 1 0 1 5 0 1 32 3 .181 .228 .234 .462
1970 46 51 49 1 4 0 1 0 6 0 1 0 0 0 1 0 1 14 3 .082 .118 .122 .240
通算:4年 222 343 318 16 55 5 1 3 71 15 2 3 4 2 16 0 3 85 9 .173 .218 .223 .442
  • サンケイ(サンケイアトムズ)は、1969年にアトムズに、1970年にヤクルト(ヤクルトアトムズ)に球団名を変更

背番号[編集]

  • 1(1967年 - 1970年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、125ページ
  2. ^ a b 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  3. ^ 週べ60周年記念 野村克也監督は二刀流を一度試したかったのかもしれない/週ベ回顧 - 週刊ベースボールONLINE、ベースボール・マガジン社、2020年3月17日配信。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]