土方久元
土方 久元 ひじかた ひさもと | |
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生年月日 | 天保4年10月12日(1833年11月23日) |
没年月日 | 大正7年(1918年)11月4日) |
称号 | 伯爵 |
第2代 農商務大臣 | |
内閣 | 第1次伊藤内閣 |
在任期間 | 1887年7月26日 - 9月17日 |
第2代 宮内大臣 | |
在任期間 | 1887年9月16日 - 1898年2月9日 |
土方 久元(ひじかた ひさもと、天保4年10月12日(1833年11月23日) - 大正7年(1918年)11月4日))は、日本の武士(土佐藩士)・政治家である。爵位は伯爵。幼名は大一郎。通称は楠左衛門。号は秦山。
生涯
志士としての活躍
天保4年(1833年)、土佐藩上士土方久用(200石)の長男として生まれる。安政4年(1857年)、江戸へ遊学して儒者大橋訥庵の門に学び、尊王攘夷思想に傾倒する。帰国後、武市瑞山らが結成した土佐勤王党に参加。文久3年(1863年)以後は藩命により京都へ上り、尊攘派の牙城であった長州藩はじめ諸藩の勤王の志士と交流する。やがて過激派公家・三条実美の知己を得、徴士学習院出仕を命ぜられたが、同年の八月十八日の政変により、長州藩と三条らは失脚し京から追放される。久元は「七卿落ち」に従い、三条や沢宣嘉らとともに長州へ下った。
幕府による第一次長州征伐の際には、三条らとともに九州(福岡藩)へ渡海し、大宰府に逃れる。同じ土佐浪士の中岡慎太郎・田中光顕や坂本龍馬らとも連係し、薩長同盟の仲介に尽力。馬関における木戸孝允と西郷隆盛の会談を周旋する(ただし、連絡の行き違いにより未遂に終わる)。
七卿落ちから明治元年(1868年)にいたるまでの土方の活動は、自らの日記『回天実紀』によって詳しく記されている。
維新後
明治維新成った後は新政府に仕え、明治元年(1868年)には東京府判事、ついで鎮将府弁事に任命される。その後、宮内少輔、内務大輔、太政官内閣書記官長、侍補、宮中顧問官、元老院議官などを歴任。宮中職の履歴が多く、元田永孚や佐々木高行らとともに皇権伸張(天皇親政)を主唱し、宮中保守派と目せられた。明治17年(1884年)には子爵に叙爵。
明治18年(1885年)の内閣制度発足に際しては第1次伊藤内閣の農商務大臣として入閣。ついで宮内大臣に転じ、以後11年に渡って職務にあたる。明治21年(1888年)には大日本帝国憲法審議のために設けられた枢密院で憲法草案を議する枢密顧問官に任命され、中正派(天皇親政派)として立憲君主制確立のため君権を制限しようとする伊藤博文らと論争した。憲法制定後は、明治22年(1889年)の嘉仁親王(後の大正天皇)立太子式、翌年の帝国議会発足、明治27年(1894年)からの日清戦争などに際し、明治天皇を支える宮内大臣として取り仕切った。明治28年(1895年)伯爵に陞爵。明治31年(1898年)に宮内大臣を辞し、田中光顕に譲った。
晩年は帝室制度取調係総裁心得、皇典講究所長などを経た後、教育関連の仕事に従事。聖徳講話などを行い国民の教化に尽力し、國學院大學長、東京女学館長などを務めた。また、明治天皇が崩御し、大正の世となると、臨時帝室編修局総裁の職に就き『明治天皇紀』の編纂に尽力した。
大正7年(1918年)没。享年86。墓所は染井墓地(現:染井霊園)。嗣孫は新劇運動の土方与志。日記『回天実記』(新版<幕末維新史料叢書7>新人物往来社 昭和44年(1969年))が遺されている。
参考文献
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)「土方久元」(執筆:鳥海靖)
- 『日本史大事典 5』(平凡社、平成4年(1992年)、ISBN 4582131050)「土方久元」(執筆:酒田正敏)
- 『明治維新人名事典』(日本歴史学会編、吉川弘文館、昭和56年(1981年))815ページ「土方久元」
- 『土方伯』(木村知治、大正2年(1913年))
関連項目
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