品川県
品川県(しながわけん)は、1869年(明治2年)に武蔵国内の旧幕府領の管轄のために明治政府によって設置された県。おおむね現在の東京都練馬区・杉並区・中野区・新宿区・渋谷区・目黒区・品川区・大田区・世田谷区および、いわゆる多摩地区の東部・南部、さらに埼玉県・神奈川県の一部を管轄した。
概要
明治2年2月(1869年3月)、武蔵知県事・古賀定雄(一平)の管轄区域をもって品川県が設置された。品川県が設置された正確な日付は明らかになっていないが、1月30日付けの古賀一平役所触書に品川県役所と改称する旨の追って書きがあり、古賀一平役所触書としては2月2日付けが最後で、翌3日付けの品川県役所布達が存在していることから、この頃に設置されたものと考えられる。いずれにせよ、同時期設置の各県とまとめて2月9日に告示された[1]。東京府(第1次)や韮山県、川越藩などとの管轄区域の交換を経て、主に東京の南郊から西郊を管轄した。
廃藩置県を経た第1次府県統合において廃止される。荏原郡・豊島郡内、および多摩郡東部の管轄区域は東京府(第2次)が占め、新座郡・入間郡内の管轄区域は入間県が占めた。なお多摩郡内の大部分の管轄区域に関しては、太政官布告では入間県に移管するとされたものの、横浜に居留する外国人の遊歩区域に含まれるとの上申によりまもなく神奈川県に移管されている。
県庁
もともと江戸近郊を支配する関東代官3名の役所は馬喰町御用屋敷(現・日本橋馬喰町二丁目)にあり、近郊に手代が常駐する出先機関が置かれていた。このうち荏原郡品川宿の貫目改所に出先があったことから品川口代官と呼ばれていたのが、品川県の前身にあたる(県名もこれに由来すると考えられる)。1869年(明治2年)の品川県設置にあたり、役所は馬喰町御用屋敷から旧小笠原弥八郎邸(現・日本橋浜町二丁目9番付近)に移転したが、一方でその当初に品川宿に出先が存在していたかは定かでない。[2]
県庁舎の建設について史料に出てくるのは翌明治3年5月が初めで、その時点で品川宿へ県庁舎建設の計画があったことがうかがえる。計画地は東海寺本坊があった場所と伝えられ、現在は品川区立小中一貫校品川学園の敷地となっている。明治4年4月に荏原郡内の村々から集めた人足が仙台藩旧下屋敷(現・東五反田三丁目)の解体と東海寺への古材運搬に従事した記録が残っており、この頃から建築が始まったと考えられる。しかし建築中の同年7月9日(1871年8月24日)に台風のため倒壊したと伝えられている。着工後に府県統合が計画され、倒壊直後の7月14日に廃藩置県が実施されたこともあり、建築が再開されることはなかった。[3]
沿革
- 明治2年
- 明治3年
- 明治4年
- 明治5年
管轄地域
戸口34,511戸188,650人(府藩県別人員表)。●の地域の詳細は錯綜をきわめるため各郡の項目を参照。
なお相給が存在するため、村数の合計は一致しない。
歴代知事
- 明治2年2月9日(1869年3月21日) - 明治2年7月8日(1871年8月15日):知県事・古賀定雄(前武蔵知県事、元佐賀藩士)
- 明治2年7月8日(1871年8月15日) - 明治4年5月17日(1871年7月4日):権知事・古賀定雄[7]
- 明治4年5月17日(1871年7月4日) - 明治4年5月19日(1871年7月6日):知事・古賀定雄[8]
- 明治4年5月20日(1871年7月7日) - 明治4年11月13日(1871年12月24日):大参事・牟田口通照
参考文献
- 東京都品川区 編『品川県史料』〈品川区史〉1970年。 NCID BN05722063。
- ^ 『品川県史料』pp.34-36
- ^ 『品川県史料』pp.47-49
- ^ 『品川県史料』pp.49-59
- ^ 明治2年行政官布告第142号 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
- ^ 明治4年太政官布告第594号 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
- ^ 中野区民生活史編集委員会 編『中野区民生活史』 1巻、中野区、1982年、79頁。全国書誌番号:83003326。
- ^ 百官履歴 67 古賀定雄 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
- ^ 維新史料綱要 明治4年5月17日・19日 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
関連項目
先代 (武蔵国の一部の 幕府領・旗本領など) 韮山県の一部 (多摩郡の一部) |
行政区の変遷 1869年 - 1871年 |
次代 東京府(荏原郡・豊島郡・多摩郡) 神奈川県(多摩郡) 入間県(新座郡) 韮山県(入間郡・高麗郡・比企郡) |