北陸鉄道6010系電車

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北陸鉄道6010系電車
6010系電車「しらさぎ」
(大井川本線抜里駅付近・2001年4月撮影)
基本情報
製造所 日本車輌製造
主要諸元
編成 2両 (1M1T)
軌間 1067 mm
電気方式 直流 600 V
車両定員 100 人
(座席定員60人)
車両重量 29.0 t (クモハ) / 21.0 t (クハ)
最大寸法
(長・幅・高)
18,810 × 2,730 × 4,130 mm (クモハ)
18,810 × 2,730 × 3,715 mm (クハ)
主電動機 直巻電動機SE-102[注釈 1]
主電動機出力 78.3 kW / 個
駆動方式 吊り掛け駆動
編成出力 313.2 kW
制御装置 電動カム軸式NCA-754L-TCW
制動装置 AMA自動空気ブレーキ
備考 データは北陸鉄道在籍当時。
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北陸鉄道6010系電車(ほくりくてつどう6010けいでんしゃ)は、かつて北陸鉄道(北鉄)に在籍していた電車加南線向けに導入されたアルミ合金製車両であり、そのアルミ車体の色と、加南線終点に所在する山中温泉鎌倉武士が浴する白鷺を見て発見されたという伝説から、「しらさぎ」の愛称を与えられた。

本系列は後年大井川鉄道(現・大井川鐵道)に譲渡され、同社6010系として2002年平成14年)まで使用された。

概要[編集]

当時乗客数が増加傾向を示しつつあった加南線において、山中温泉への行楽客を対象とする同線唯一のクロスシート車であったモハ5000形の後継を目的として、1962年昭和37年)に同線へ導入された6000系(クモハ6001+クハ6051)「くたに」の増備車として計画され、翌1963年(昭和38年)にクモハ6000形 クモハ6011+クハ6050形 クハ6061の2両1編成が名古屋の日本車輌製造本店で製造された。

車体[編集]

扉間に転換クロスシートを並べた18 m級2扉セミクロスシート車という車体の基本レイアウトは6000系に準ずる。

ただし、北陸鉄道初のカルダン駆動車となった同系と異なり、予算節減を目的に既存の15 m級車から台車、電装品および空制機器等を流用しており、それらの流用機器の仕様から6000系と同仕様の鋼製車体[注釈 2]では重量過大とされたため、収容力と走行性能を両立すべく新開発の、日本の高速電車では2番目となるアルミ合金製軽量車体が採用された。

またデザイン面では、6000系においては前面両脇の小窓として後退角の付いた平面ガラスが外板より一段奥へ引き込んで取り付けてあったのに対し、前面ガラスに合わせて緩く後退角の付いた曲面ガラスに変更されるなど、前面の構造・形状が微妙に異なっており、どちらかと言えば精悍な印象であった「くたに」とは対照的に、「しらさぎ」の愛称にふさわしい優美な印象を与える造形となった。

また、窓割りも客用扉幅の拡大やその吹き寄せ部寸法の変更などにより連結面の窓1枚が減ってd21D2222D112(d: 乗務員扉・D; 客用扉)からd21D2222D12に変更され、連結面寄り客用扉の位置が若干連結面寄りに移動しており、こちらも6000系とは微妙に異なったレイアウトとなっている。

アルミ合金製軽量車体[編集]

本系列の計画段階では、日本では鉄道車両向け軽合金製車体の研究は黎明期にあり、本格的な高速電気鉄道旅客車としてはようやく1962年に西ドイツのWMD社と提携した川崎車両(現・川崎重工業車両カンパニー)が、そのライセンスの下で製作する全アルミ合金製車両の初号車[注釈 3]として、山陽電鉄向けに車体構造材として5000番台・6000番台のアルミ合金材を混用し、溶接とリベット組み立てを併用する2000系2012-2505-2013の3両1編成を納入したばかりであった。

このような状況下で、本系列の製造を担当した日本車輌製造本店は独自の道を模索し、車体はA6063アルミニウム合金押出形材台枠・柱・長桁などに使用し、これらを溶接して組み上げた骨格に、表面をアルマイト処理した短冊状の波形押出形材[注釈 4]を外板として使用するという独特の工法を開発しており、本系列はその初の実用化例となった。

この工法は製造に非常に手間がかかるためか後続が現れず本系列限りとなったが、軽合金を構造材として使用したことによる軽量化の恩恵は絶大[注釈 5]であり、ここで得られた貴重な知見と実績はその後日本車輌製造が国鉄301系電車の担当メーカーとして川崎車輌とともに指名されるきっかけともなった。

事実、機器による重量差の出にくいクハは本系列のクハ6061の方が6000系のクハ6051よりも自重が2 t軽量化されていた。これは、装着する台車がプレス材溶接組み立てによる軽量構造の日本車輛製造ND-109Aであったクハ6051に対し、クハ6061が後述するように重い形鋼組み立て式釣り合い梁台車である日本車輛製造製D-16を装着していたことを考慮すると、車体重量については差が更に拡大する。クハ6061の装着台車であるD-16自体は心皿荷重上限16 t級で他社では普通鋼製の18 m車に装着されていた機種であるが、こうした車体の軽量化により1ランク下の15 m級車から流用した旧型台車や低出力な主電動機を使用しつつ、脆弱な軌道条件の線区で使用可能な18 m級車を実現する、という当初の設計目標は見事に果たされていたことになる。

主要機器[編集]

上述のとおり、本系列は製造費節減のため、製造当時北陸鉄道に在籍した旧型車の機器が流用された。それゆえ、搭載機器はいずれも車体に似合わぬ旧式機器ばかりである。

主電動機は吊り掛け式芝浦製作所SE-102[注釈 1]歯数比は3.42で、これをクモハが装着するイコライザー式台車の住友金属工業KS-30L (SH-11) に装架した。これらは国鉄による買収後、北陸鉄道へ払い下げられた旧伊那電気鉄道車からの流用品であった。

これに対し、クハは日本車輌製造製D-16を装着しており、2両で台車形状が異なっていた。いずれの台車も平軸受のままであり、近代的な車体とは非常にアンバランスであった。

空制系はA動作弁を用いたAMA自動空気ブレーキ方式を採用しており、従来通り車体裝架式のブレーキシリンダよりブレーキロッドを介して台車の両抱き式ブレーキを駆動した。

なお、主制御装置のみは新製され、日本車輌製造製NCA-754L-TCW電動カム軸式制御器を搭載した。

運用[編集]

大井川鉄道6010系クハ6061
(大井川本線千頭駅構内・2003年1月撮影)

本系列は姉妹形式である6000系とともに、加南線[注釈 6]の代表形式として運行された。しかし、モータリゼーションの急速な進行に加え、国鉄の特急停車駅から大聖寺駅が外されたことで、同駅を起点としていた山中線は大きな打撃を受けたため、同線を含む加南線は1971年(昭和46年)7月11日に全線廃止となった。

これに伴い余剰となった本系列は、車両限界の制約などから北陸鉄道の他線への転用が困難であったため、廃線に先立って北陸鉄道と同じ名鉄の資本系列下にある[注釈 7]大井川鉄道(現・大井川鐵道)へ譲渡された6000系の後を追う形で、同年10月に同社へ譲渡されることになった。

大井川鉄道6010系電車[編集]

大井川鉄道では1971年11月13日付で竣工し、クモハ6011がモハ6011に改称されたほかは北陸鉄道時代と変わらず、愛称・塗色もそのままで大井川本線で運行された[注釈 8]

加南線は直流600 V、大井川鉄道は直流1,500 Vと架線電圧が異なっていたため、同様の問題からトレーラー化された6000系と同じく、本系列も入線当初は非電装のトレーラーとして使用され、モハ308(元南武鉄道モハ150形モハ153→国鉄モハ2000形モハ2002)に牽引されていた。その後、1972年(昭和47年)3月に主電動機の小改造や主制御器の換装[注釈 9]が施工され、単独走行が可能となった。

この結果、アルミ車体ゆえに塗装が不要で機器も単純な本系列は、保守が容易なことに加えて最小運行単位が2両編成であることから重宝された。1984年(昭和59年)12月の大井川本線ワンマン化に際しては、整理券発行器、料金表、運賃箱等が設置された。また、クハの連結面側に飲料水の自動販売機が設置された(設置時期不明)[1]。姉妹車である6000系が諸問題からワンマン運転に対応できず敬遠され、1996年(平成8年)に一足先に廃車となった後も、本形式は1990年代末になって南海近鉄京阪の関西私鉄3社から車両を譲受するようになるまで、実に20年近くにわたって大井川本線の主力車両として運用された。その間、主要機器を名鉄AL車の廃車発生品に換装し[注釈 10]、また前照灯が従来の白熱灯1灯のみでは照度不足であったため、1990年代中盤に中央の前照灯を挟む形でシールドビームを左右に各1灯ずつ増設する工事を実施している。なお、増設後は従来の前照灯は使用停止となった。

もっとも、その最末期は主要機器の急激な老朽化と保守部品の入手難が重なってほとんど稼働しておらず、一度は幸いした旧型車の機器流用車であることが、最終的に本系列の寿命を決定する結果となった[注釈 11]。2002年10月18日付で廃車となり、その後は千頭駅構内に留置されていた。

保存[編集]

処分保留のまま長らく千頭駅構内に留置されていた本系列であったが、2005年(平成17年)に本系列ゆかりの地である石川県江沼郡山中町(現・加賀市)での保存が決定した。これは同年、市町村合併(平成の大合併)に伴い消滅することが決定していた山中町より「地元の記念品として町内に展示保存したい」との申し入れがあり、それを快諾した大井川鐵道が本系列を同町へ無償譲渡したものであった。同年8月国道364号線沿いの「道の駅山中温泉 ゆけむり健康村」へ搬入され、同所で静態保存されている[注釈 12]。搬入後、順次北陸鉄道時代の姿への復元が行われ、当初は存置されていた大井川鉄道時代に追加されたサボ受けや増設された前照灯などが撤去された。現在では側面窓下の北鉄の社章も復元されてより原形に近い外観となっているが、内外装の一部に大井川鉄道時代の装備を残している。

静態保存された「しらさぎ」クハ6061と案内板 (2008年8月) クモハ6011の外観と車内 (補助前照灯撤去後・2012年7月)
静態保存された「しらさぎ」クハ6061と案内板
(2008年8月)
クモハ6011の外観と車内
(補助前照灯撤去後・2012年7月)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 端子電圧600V時定格出力78.3kW、定格回転数890rpm。国鉄MT4として、のちのモハ1系に制式採用されたゼネラル・エレクトリック社製GE-244Aのデッドコピー品。同じ伊那電に由来し、やはり同じ電動機を搭載した伊那電気鉄道デキ1形電気機関車を含め、国鉄時代はスケッチ元のGE-244Aと共通でMT4として取り扱われていた。
  2. ^ 名鉄5000系に由来する準張殻構造の軽量車体であった。
  3. ^ 長年日本初とされてきたが、これに先んじて新潟県の栃尾電鉄(現・越後交通栃尾線)が1954年(昭和29年)に自社工場でモハ210(→クハ112)の車体をアルミ合金を用いて製作したとされるため、現在ではこれは日本初ではないと考えられている(とはいえ、これが高速電気鉄道向けとして日本初のアルミ車であることは疑う余地がなく、このことによりその技術的・歴史的価値が損なわれるものではない)。もっとも栃尾電鉄モハ210には「車体に磁石を近づけたがくっつかなかった」との証言はあるものの、ジュラルミン製であるとの説もあり、その構造に関する詳細は明らかではない。なお、この車両は全溶接構造で組み立てられており、溶接が困難なジュラルミンを使用していた可能性は低いと見られている。いずれにせよ、これは車体の骨組が製でしかも外板が鋲接で組み立てられた国鉄モハ63形ジュラルミン車と同様に、その製造ノウハウはその後のアルミ合金製鉄道車両の開発・発達に寄与しておらず、積極的に軽量化を目的としたものでもなかった模様である。また、1952年(昭和27年)に日立製作所南海電気鉄道に納入した鋼索線用ケーブルカーの車体がアルミ合金製で全溶接構造であったが、これは材質面で大型の鉄道車両に応用が難しいものであったと伝えられている。
  4. ^ 形状を工夫して上下を噛み合わせ、裏側で溶接可能とした。
  5. ^ 具体的にはクモハ6011が29t、クハ6061が21tで特にモハは前年の6000系とほぼ同じ自重で収まった。車体は軽量構造とは言え普通鋼製だが機器は最新の軽量構造台車や軽量高速モーターを搭載した6000系と比較すると、本系列の方が台車や電装品などの機器が旧式で重いため、その差を車体へのアルミ合金使用による軽量化で相殺していたことになる。
  6. ^ 厳密には同線を構成した5線の内の山中線を主体に運用された。
  7. ^ 現在は名鉄グループから離脱、エクリプス日高の完全子会社になった。
  8. ^ 6000系と異なり、側面客用扉は交換されていない。
  9. ^ 主制御器は東洋電機製造製ES-516Cに換装された。なお、本系列の種車となった旧伊那電鉄車は元より架線電圧1,200 V仕様で、流用機器群の大半は特に昇圧工事を必要とせず、絶縁の問題があるため通常は昇圧対策が難しい主電動機も元々端子電圧750 V定格、つまり直流1,500 V対応として設計されたものであったため、直並列つなぎを変更する程度の工事で済んでいる。
  10. ^ 主電動機は東洋製TDK528/18PM(端子電圧750 V時定格出力112.5 kW / 同定格回転数1,250 rpm歯車比3.21)に、台車はモハがD-18、クハがKS-33にそれぞれ換装された。なお、クハの装備するKS-33台車は名鉄3880系の廃車発生品であり、枕ばねがコイルばねとオイルダンパーの組み合わせに改造されていたことが特徴であった。
  11. ^ 1998年(平成10年)に1000系が脱線事故を起こした際、併結相手であった本系列も被災した。元々機器の老朽化が急速に進行しつつあったこともあり、そのまま廃車される予定であったが、のちに1000系の破損状況が想定以上に悪かったことが発覚してその修復が断念され、逆に同系の廃車が決定した。このため、本系列は廃車を免れ延命されることとなり、修復後運用に復帰した。
  12. ^ 現役時代とは向きが逆でクハ6061が山中方とされている。

出典[編集]

  1. ^ 『大井川鉄道』保育社、1986年、p.40

外部リンク[編集]