九七式車載重機関銃

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九七式車載重機関銃
九七式車載重機関銃
種類 重機関銃
製造国 大日本帝国の旗 大日本帝国
設計・製造 名古屋陸軍造兵廠
年代 1930年代
仕様
種別 車載重機関銃
口径 7.7 mm
銃身長 700 mm
使用弾薬 九二式(九七式)普通実包
装弾数 20 発(箱型弾倉)
全長 1,145 mm
重量 12.5 kg
銃口初速 735 m/s
最大射程 3,420 m
有効射程 540 m
歴史 
設計年 1930年代
製造期間 1938年~1944年
配備期間 1938年~1945年
配備先 大日本帝国陸軍
関連戦争・紛争 ノモンハン事件太平洋戦争
製造数 約18,000挺
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九七式車載重機関銃(きゅうななしきしゃさいじゅうきかんじゅう)は、1930年代に開発・採用された大日本帝国陸軍機関銃(車載重機関銃)。

概要

九七式車載重機。防弾器・照準眼鏡は外されている
九七式中戦車 チハ(チハ車)車内における九七式車載重機関銃。無線手(通信手)は銃手を兼ねる

従来、帝国陸軍において戦車装甲車に搭載(車載)する小火器としては、十一年式軽機関銃を車載用に改良した九一式車載軽機関銃が開発・使用されていた。しかし原型となった十一年式軽機がそうであったように、銃自体の不具合および口径6.5mmでは威力不足であったため、改善が求められた。

開発は1931年(昭和6年)7月から始まった。三年式機関銃を元にした最初の試作品は1934年(昭和9年)3月、改良された第二次試作品は同年11月に完成した。しかし部隊における実用試験では不評であったため、第三次試作品として中国大陸で鹵獲されたチェコスロバキア製のZB26軽機関銃を原型とする、試製B号軽機関銃を改造した車載型「甲号」を作り上げた。そして八九式旋回機関銃(十一年式軽機を元にした航空機搭載型)を元にした車載型「乙号」との比較試験の結果、「甲号」が有望とされ改良された第四次試作品が1937年(昭和12年)7月に完成した。しかし箱形弾倉に、歩兵部隊向けである九二式重機関銃の使用弾薬で半起縁式であった九二式実包を用いると、作動不良が発生しやすかった。そこで試作されていた新規格の無起縁式薬莢を用いたところ快調に作動、1937年11月には九七式車載重機関銃として仮制式制定、翌1938年(昭和13年)2月に制式制定された。無起縁式薬莢を用いた新型弾薬も、九七式実包として制式制定されている[1]

本銃には、銃身とガスチューブの周りを覆う着脱可能な防弾器(重さ3.1kgの装甲カバー。銃身被筒)が取り付けられている。銃床は狭い車内で扱えるよう短くされ、前後長さを微調整できるほか、基部を軸にして前方へ180度回転し、車内スペースをさらに節減することができる。銃床を前方へ向けた状態でも射撃は可能である。床尾の形状には二種類があり、後上端が面取りされているのが前期型、とがっているのが後期型である。照準眼鏡は倍率が1.5倍に設定されており、射手から見て銃の左上に配置され、接眼部には反動や車体の揺れから目を守るために厚いゴム製の緩衝環が付けられた。射手から見て銃の右上には照星と照門が配置され、照準眼鏡の破損時や、車外射撃の際に用いられた。給弾には20発入りの箱型弾倉を使用し、銃の真上から装着された。この方式は一部で狭い車内での弾倉交換は不便だとの批判があったが、最後まで変更されることは無かった[2]。車内にて射撃の際には空薬莢が車内に散乱することを防止するために「打殻受け」と呼ばれる袋を装着する。銃身の交換方法はZB26軽機関銃と同様式だが、銃の左側面に照準眼鏡が置かれるため、銃身を回転させるレバーはZB26の左側面から右側面へ変更されている。ガス規制子はZB26の銃身先端付近から、ガスチューブ先端へ移された。槓桿はZB26の右側面から左側面へ変更され、十一年式軽機のものに似た板状の手掛けを備える。

本銃を装備した車両には交換用の予備銃身、複座バネ、整備用具を収めた箱、二脚が載まれていた。二脚は車体・砲塔より外した本銃を、軽機関銃として地上戦闘で使用する際に装着する。また、砲塔上部に高射機関銃架(対空機関銃架)がある場合、本銃を銃架に載せて対空・対地射撃を行うことができた。

本銃は1930年代後期以降の帝国陸軍主力車載機関銃として、主力新鋭機甲兵器である九五式軽戦車(ハ号)・九七式中戦車 チハ(チハ車)・九七式軽装甲車 テケ(テケ車)等に搭載され、日中戦争支那事変)から太平洋戦争大東亜戦争第二次世界大戦)終戦時に至るまで使用された。また、大戦後期に開発された三式中戦車 チヌ(チヌ車)・四式中戦車 チト(チト車)・五式中戦車 チリ(チリ車)および、試製新砲戦車(甲) ホリ(ホリ車)等も本銃を搭載ないし搭載予定であった。

量産は名古屋陸軍造兵廠(陸軍造兵廠名古屋工廠)で行われ、1944年(昭和19年)までに約18,000挺が生産された。本銃の後継として、1939年よりベルト給弾式(保弾帯)の試製重機関銃I型/II型(試製四式車載重機関銃)が開発・試作・試験されているが、実用化前に終戦を迎えている。

脚注

  1. ^ ただし、後に1940年(昭和15年)には九二式重機関銃も九七式実包規格の弾薬を使用するよう改められ、これに伴い従来九七式実包と呼称されていた弾薬が新たに九二式実包と名称が変更された。従って、この通達以降に関しては九二式重機と同じ口径7.7mmの九二式実包を使用すると言って差し支えない。
  2. ^ また、その装弾数からしばしば持続射撃能力が低いことへの批判がある。しかし陸軍では車載機関銃を自衛用火器として認識していた事や、そもそも機関銃の位置づけが弾幕による制圧射撃を旨としていた他国とは異なり、精密射撃のできる狙撃銃的なものだったことから、本銃に持続射撃能力が求められなかったと考えられる。

参考文献

  • 松井史衛「帝国陸軍九七式車載重機」
サンデーアート社『PANZER』1985年9月号 No.133 p106~p108
  • 佐山二郎「小銃・拳銃・機関銃入門」
光人社NF文庫(2000年・刊)

関連項目