ワーテルローの戦い

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ワーテルローの戦い
ウィリアム・サドラー『ワーテルローの戦い』
戦争ナポレオン戦争
年月日1815年6月18日
場所ベルギーワーテルロー
結果:フランス・ナポレオン軍の敗北
交戦勢力
フランスの旗 フランス イギリスの旗 イギリス
オランダの旗 オランダ
プロイセンの旗 プロイセン王国
指導者・指揮官
フランスの旗ナポレオン・ボナパルト
イギリスの旗ウェリントン公
ブリュッヒャー
戦力
フランス軍 72,000 英蘭軍 68,000
プロイセン軍 48,000
損害
死傷者計 25,000 死傷者計 22,000

ワーテルローの戦い(ワーテルローのたたかい、: The Battle of Waterloo: Bataille de Waterloo)は、1815年6月18日イギリスオランダ連合軍およびプロイセン軍が、フランス皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍を破った戦いである。ナポレオン最後の戦いとして知られる。

英語での発音はウォータールーである。ドイツではラ・ベル・アリアンスの戦い(ラ・ベル・アリアンスのたたかい, ドイツ語: Schlacht bei Belle-Alliance)とも呼ばれる。ベルギーのラ・ベル・アリアンスを主戦場としたが、初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーにより近郊のワーテルローの名を取り、このように命名された。

背景

1815年2月26日エルバ島から脱出したナポレオンはフランスのジュアン湾に上陸し、パリへ進軍した。途中、ミシェル・ネイおよびニコラ=ジャン・ド・デュ・スールトの両元帥を従え、7,000にふくれ上がった軍隊を率いて3月20日パリに入城し再び皇帝となった。

ナポレオンはイギリスオランダ連合軍とプロイセン軍がまだ合流しないうちに各個撃破を計画し、12万4,000の兵を率いて連合軍に戦いを挑むべくベルギーへ向かった。兵の士気は高かった。ベルギーに布陣していたのはウェリントン公率いるイギリス・オランダ連合軍の9万5,000とブリュッヒャー元帥率いるプロイセン軍12万であった。

6月16日、リニーの戦いでナポレオンはプロイセン軍と戦い、死傷者1万6,000の損害を与えたが、完全な撃滅はできなかった。ブリュッヒャーは重傷を負い、参謀長のグナイゼナウが代わりにプロイセン軍の指揮を取った。ナポレオンはプロイセン軍が東へ退却したと誤認し、翌朝グルーシー元帥に3万の別働隊を与えてプロイセン軍を追撃させた。ナポレオン自身は7万2,000の兵を率いてブリュッセルを目指したが、ラ・ベル・アリアンスで6万8,000のイギリス・オランダ連合軍と対峙した。

経過

ワーテルローの戦い(布陣図)

6月18日、前夜からの雨で地面がぬかるみ、大砲の動きがとれないと判断したナポレオンは、部下の進言を退けて戦闘開始を昼ごろまで延期した。イギリス軍の方針はフランス軍を防ぎつつ時間を稼ぎ、プロイセン軍の来援を待つことだった為、この判断は大きなミスだった。これに代表されるように、この頃のナポレオンの気力と判断力に往年の冴えはなく、参謀総長スールトは不慣れな参謀業務を果たせず、命令は明瞭さを欠いていた。ただし、戦闘開始を延期した理由については、雨のためフランス軍の戦場への到着がそもそも遅れていたので、やむを得なかったとの異論もある。

イギリス軍はワーテルローの南方のモン・サン・ジャンの丘陵の尾根の背後に主力を配し、自軍右翼のウーグモン、中央のラ・エイ・サント、左翼のパペロットの3拠点に比較的強力な前哨部隊を配置。ナポレオンはまず、ウーグモンを攻撃・占拠して、イギリス軍の主力を誘引し、しかる後、戦線の中央を突破しようと企図した。この構想によって、11時30分頃にフランス軍の左翼はウーグモンへの攻撃を開始した。

イギリス軍は防御に徹し、突撃してくるフランス軍に猛射を浴びせた。戦場の要所、ウーグモンをめぐってナポレオンの弟ジェロームの師団は攻撃を繰り返した。しかし、ウーグモンは頑強なつくりの城館だったため、そこに篭るイギリス軍部隊への攻撃は難航を極め、ナポレオンの構想はつまずいてしまう。

ウーグモンの占拠とイギリス軍主力の誘い出しができないままに、13時30分頃から、仏軍中央と右翼の各部隊が攻撃を本格化。この攻撃により、イギリス軍左翼のパペロットは陥落し、指揮官ピクトンの戦死によってイギリス軍は混乱に陥る。状況の打開のために、ウェリントンはポンソンビー将軍率いるスコットランド竜騎兵を中核とする重騎兵2個旅団に突撃を命ずる。このイギリス軍騎兵の戦線中央部への突撃は、フランス軍に強烈な打撃を与えるが、これに対抗して繰り出されたフランス槍騎兵(仏語ランシエ)の猛反撃を受けて潰走する。ポンソンビーも槍騎兵の槍を多数体に受けて壮絶な戦死を遂げるが、この突撃によってイギリス軍の戦線は小康を得た。

その後、戦況は一進一退。ついに前々日リニーで撃破したはずのプロイセン軍が、フランス軍右翼を間近に見る位置へと到着する。ナポレオンは予備に後置していたロボーの軍団を右翼に振り向けて、その足止めを図る。この会戦が始まる以前から、ナポレオンは決戦場にグルーシー軍を呼ぼうと命じてはいたが、スルトはたった一人しか伝令を出さず(かつての参謀総長ベルティエ元帥なら一ダースの伝令を出しただろう、とナポレオンは後に語っている)、しかも命令書は明瞭さに著しく欠けていたこともあり、グルーシー軍はプロイセン軍に振り切られてワーテルローと逆方面へ向かっていた。

一方、ウェリントンは、兵の消耗が著しいことから、自軍中央と左翼の部隊の一時的な後退を命ずる。ナポレオンがプロイセン軍に対する処置を行っている間に、ネイがイギリス軍のこの後退を全面退却と誤って判断、騎兵5,000を率いてイギリス軍への突撃を敢行する。しかし、待ち構えていた歩兵方陣への強襲となり、戦力をかなり損耗してしまう。ネイは5回も乗馬を撃たれて落馬したという。当時の騎兵は銃剣の槍ぶすまを築いて一斉射撃を行う歩兵方陣を突破できず、イギリス軍は持ちこたえた。しかもフランス軍はイギリス軍の大砲の尾栓を破壊するのを忘れていた。

こうしてイギリス軍の方陣20個はネイの突撃を持ちこたえ、戦線を建て直したものの、この後は、数に劣るイギリス軍がフランス軍の猛攻の前にじりじりと押されていった。しかし、フランス軍も、イギリス軍を全面退却に追い込むには、決定的な決め手に欠いていた。特に、ネイが行った突撃により騎兵を損耗したうえ、予備の軍団もプロイセン軍への対処のために割いていたことが響いた。

そんな中、夕刻に至り、イギリス軍中央の前哨拠点ラ・エイ・サントが陥落。19時頃、イギリス軍にとどめを刺すべくナポレオンは、最後の切り札とも言うべき古参近衛隊の投入を命じる。しかし、この近衛隊の攻撃は、イギリス近衛部隊の激しい射撃の前に撃退される。(この時のイギリス近衛兵の横隊防御火力は、のちにThe Thin Red Lineと賞賛され、フランス近衛兵のかぶっていた熊毛帽を、イギリス近衛兵が勝利の記念として着用するようになった。)無敵を謳われた近衛隊の敗北を目の当たりにしたフランス軍部隊の士気は著しく低下。さらに、プロイセン軍がロボー軍団を撃破し、フランス軍の側面へ猛攻をかけた。これに呼応してイギリス軍も反撃し、フランス軍は全面的な潰走に移る。最後まで戦場に残った古参近衛隊は味方の退却を勇敢に援護したが、最終的には包囲され、降伏勧告を蹴ったために多くが壮絶な戦死を遂げた。プロイセン軍参謀長のグナイゼナウは強行軍と会戦で疲弊した部隊を叱咤して夜通しの追撃を行い、フランス軍を完全に崩壊させた。

影響

ワーテルローの戦いでフランス軍は3万を失い、連合軍も25,000の死傷者を出した。ナポレオンは退位してイギリスへ亡命し百日天下は終わった。ナポレオンはイギリスのプリマスへの上陸を求めたが、ヨーロッパの混乱の元凶はナポレオンにあるとされ、ベルトランモントロングールゴの3人の将軍とともにセントヘレナ島に流されて1821年5月5日、彼の死を看取った[1]

逸話

ワーテルローのライオンの丘

この戦いの後ワーテルローにはライオンの丘が築かれた。頂上にはナポレオン軍の大砲を鋳潰してつくられたライオンの像がある。ウェリントン公はこの丘を見て「なんて事をするんだ。私の戦場が台無しではないか。」と叫んだといわれている。

この戦いを主戦場の名を取りラ・ベル・アリアンスの戦いと呼ぶこともある。ウェリントンが司令部を置いた村落の名から勝手にワーテルローと命名したことに対して、戦局をひっくり返したプロイセン軍元帥のブリュッヒャーはそれが気に入らず、自分たちが活躍した主戦場の名を命名した。今でもドイツではこの名前の方が通りが良い。

当時世界経済の中心だったイギリスの株式市場は、その座をフランスに奪われるか否かの運命が掛かったこの戦いの勝敗に注目していた。そんな中、ナポレオン敗北の報をいち早く入手した銀行家ネイサン・メイアー・ロスチャイルドは、後に「ネイサンの逆売り」と呼ばれる株式売買で巨額の利益を獲得、ロスチャイルド財閥の礎を築いた。

英語でウォータールー (Waterloo) は「完膚なきまでにやぶれた惨敗」の喩えとなっている(参考:ABBA恋のウォータールー」、RUNNING WILDBattle Of Waterloo」)。

後日談

1974年スウェーデンの音楽グループABBAが「恋のウォータールー」を発表したが「英語の辞書を引けば『ワーテルロー(ウォータールー)』とは『惨めな敗北』という意味なのね」という歌詞にもかかわらず、同年のフランスのシングル・チャートでは3位となる大ヒットとなった。

1994年英仏海峡トンネルが完成し、パリロンドンを結ぶ高速列車ユーロスターが運行を開始した際、ロンドン側ターミナルが皮肉にもウォータールー駅(ワーテルローの英語読み)であった。このため、フランス側は、幾度となく駅の改名や変更を求めたという。2007年にはイギリス国内の高速新線が完成し、ターミナルもセント・パンクラス駅に変更されたため、ようやくフランス側の悲願が叶った。

当時ウェリントン公の秘書官を務めていたラグラン男爵・フィッツロイ・サマセットは、この戦いで右腕を負傷し切断を余儀なくされた(ラグラン袖は彼の失われた右腕に合わせて作られたものである)。彼は後に陸軍最高司令官となり、クリミア戦争の総指揮を執る事になる。

ワーテルローの戦いを題材とした作品

  • ワーテルロー (映画)
  • コナン・ドイル『勇将ジェラールの回想』創元推理文庫(Fト-1-1)
  • コナン・ドイル『勇将ジェラールの冒険』創元推理文庫(Fト-1-2)
  • ウォータールーの戦い(ピアノ曲) - イギリスの女流作曲家ウィルマ・アンダーソン・ギルマンが作曲したピアノ曲。及び、ワーテルローの戦いの出来事を基づいて作曲されたピアノ曲。初級レベルの曲で、発表会でもしばしば取り上げられる。本曲では「ワーテルロー」より「ウォータールー」の表記が定着されている。
  • さらば友よ(映画)金庫を開ける数字が、ワーテルローの戦いの日付と同じで、プロップ(チャールズ・ブロンソン)「あんた、歴史は得意かい。1815.6.18。」バラン(アラン・ドロン)「ワーテルローか・・・」ワーテルローとは、バランを金庫破りに誘った女のあだ名であった。

脚注

  1. ^ 1821年5月5日 セント=ヘレナ”. 2011年5月7日閲覧。

外部リンク

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