モハンマド・アラー・アルジャリール

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Mohammad Alaa Aljaleel

モハンマド・アラー・アルジャリール
生誕 1975年1月1日
アレッポ
住居 アレッポ2016年12月15日まで
国籍 シリアの旗 シリア
別名 アレッポのキャットマン
職業 電気技師、救助ボランティア、猫の保護活動家
著名な実績 エルネスト・サンクチュアリ設立
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モハンマド・アラー・アルジャリールMohammad Alaa Aljaleel1975年 - )は、シリア人の男性である。アレッポ電気技師をしていた時にシリア内戦が起き、被害にあった人々を救助する活動を始める。街に残されたを助けるための施設を設立し、「アレッポのキャットマン」とも呼ばれている[1]

幼少期から成人まで

アルジャリールは、アレッポで消防士として働く父親の家庭に生まれた。アレッポは古来より交易で栄えた都市で、現存する世界最古ともいわれるスーク世界遺産にも指定されている。アルジャリールは歴史の長い土地に生まれたことを誇りに思い、父親のような人々を助ける仕事に憧れながら育った[2][3]。アルジャリールは13歳から14歳頃(1988年か1989年頃)に隣国レバノンで品物を買い付ける仕事を始め、食料・日用品・玩具などを売って家計を助けた[4]。祖父は猫好きで、野良猫にエサをやっていた。5歳の頃に父が祖父からもらってきた白猫のルルは、アルジャリールが15歳になるまで共に暮らし、大切な思い出となった[5]

16歳頃には、叔父の手伝いでセルヴィースと呼ばれる乗合タクシーの運転手もつとめた。14歳から電気技師のもとで技術を学び、18歳の学校卒業後には技師として働くようになった。兵役にもついたが、彼自身の言葉によれば「人を貶めたいだけの指揮官たち」に虐待され、膝を負傷して療養生活を送った。兵役後にはレバノンのアメリカン大学などで働き、自分の店を持ち、東アレッポに自宅を買って25歳で結婚した。消防士になる夢は持ち続けており、研修も受けたが、願いは叶わなかった[注釈 1][7]

内戦と救助活動・猫との交流

シリアでは、ハーフィズ・アル=アサド政権時代にアレッポ包囲(1970年)やハマー虐殺(1982年)などで反対派を弾圧した歴史があった。そのためアラブの春のシリアへの波及を懸念する者も多く、アルジャリールもその1人だった[注釈 2][9]

2012年5月にはアレッポ大学で政府に抗議する学生のデモがあり、2012年7月19日にはアレッポでバッシャール・アル=アサド政権の政府軍と、反体制派自由シリア軍の戦闘が始まった[注釈 3]。アレッポでは電気が止まり、通りで猫を多く見かけるようになった。住人が避難を始め、猫が置き去りにされるようになったためだった[注釈 4]

アルジャリールは、自分が政府側でも反体制側でもなく中立だと考えていた。最も被害を受ける貧しい人々の側に立つことを望み、そうした人々を助けるために救援活動に参加した。自前のミニバンを救急車として使ってボランティアをした[12]

戦闘が激しくなると、アルジャリール一家は東アレッポからハナーノ団地に引っ越した。店からの売り上げがほとんどなくなったために閉店し、貯金を取り崩しながらの生活となった[注釈 5]。戦闘開始から約1ヶ月後に通りで白い猫を見かけ、子供時代に大切だった猫にちなんでルルと名付けて引き取る。それ以来、救助活動の時に猫に出会うと、エサをやったり手当をするようになった[15][16]

猫を保護する理由として、イスラームの伝承集であるハディースには猫が大切にされていた逸話がある点もあげている[注釈 6][18]

2015年から、アルジャリールの活動がシリアの外でも知られるようになった。その頃には、彼は置き去りにされた60匹から70匹の猫の世話をしていた[注釈 7]。イギリスのジャーナリストが取材をした記事でアルジャリールは注目され、テレビのインタビューも受けて「アレッポのキャットマン」と呼ばれた[注釈 8][21]。アルジャリールの活動への支援も始まり、人道援助団体のカラム財団は車を提供し、NGOのシリア・チャリティは救援活動に対して月給を支払った。アルジャリールの他にも救助活動ボランティが増え、ボランティア組織のホワイト・ヘルメット(シリア民間防衛隊)とも協力をした。その間にも戦闘は次第に激化し、ボランティアの死亡も起きた。政府軍はヘリコプターから樽爆弾英語版で市街地を爆撃し、短時間で同じ場所に爆撃するダブル・タップと呼ばれる戦法を行うようになった。これによって、救助活動に駆けつけたボランティアも危険にさらされた[22]。アルジャリールの妻子は2015年にアレッポを去って隣国トルコへ避難し、イスタンブールで生活を始めた[注釈 9][24]

サンクチュアリ設立

アルジャリールの活動を知り、支援や交流を望む人々が国外で増えていった。イタリア在住でレバノンにもルーツを持つアレッサンドラ・アービディーンは、アルジャリールに連絡をとり、Facebookにグループを作ることを提案した。そして、グループを使って猫が暮らせる施設の設立資金を集めることを申し出た。アルジャリールは当初は乗り気ではなかったが、アービディーンの説得で承諾する。こうしてイル・ガターロ・ダレッポ(イタリア語で「アレッポのキャットマン」)のFacebookグループと、Twitterのアカウントが作られると、ヨーロッパを中心にフォロワーが増えていった。アルジャリールは、アーバディーンが愛猫のエルネストをガンで亡くしていたことを知り、当時保護した猫にエルネストという名前をつけた。そして、施設の名前も「エルネストズ・サンクチュアリ・フォー・キャッツ」とした[25]

サンクチュアリは、自宅に近いハナーノ地区で木が生えている土地を購入して建設された。猫の保護をきっかけにアレッポの苦境を世界に知らせる役割も果たし、世界各地から集まった支援によって周辺の約2000人の住人に食料を配った。貧しい人々から優先して支援し、医療費の提供や生活物資の運搬、建物の修繕も行った。団体の救急車も購入し、2016年には170匹近くの猫を保護した[注釈 10][27]

サンクチュアリでは、子供が猫に親しんでもらうための活動も行ない、多くの子供たちが参加した。街に残された猫に出会ったときの接し方や、エサのやり方なども教えた。アルジャリールは、シリアでは猫に対する印象が悪いと考えており、実際に彼の活動は多くの批判も受けたが、次第に周囲の反応はよくなっていった。寄付をもとに子供のための遊園地の建設や誕生会なども可能になり、子供が楽しめる環境を整えた[28]。サンクチュアリにも取材は訪れるようになった[29]

アレッポからの退避・施設の再開

2016年の7月7日以降にアレッポは包囲され、2016年10月3日に最後通告が出され、携帯電話には政権からのメッセージも届いた[注釈 11][27]。それ以降は爆撃が激しくなり、11月にはサンクチュアリも爆撃され、生き残った猫は30匹ほどになってしまった[注釈 12][32]

アレッポは破壊された[33]。アルジャリールは大きなショックを受けたが、生き残った猫を集めて住まいを移動した。2016年12月に政府軍と反体制派の停戦合意がなされ、アレッポの住人はイドリブ県に移動できることになった[注釈 13]。アルジャリールは猫とともに救急車で移動し、目的地に着いたあとは負傷者の移送を行なった[35]

アルジャリールの友人たちはヨーロッパで暮らすことをすすめたが、彼はシリアで助けを求める人々のために働くことを選んだ。NGOの協力でトルコに入国したアルジャリールは友人たちや家族と会い、サンクチュアリの再開を計画する。イスタンブールで出会ったフィラースという猫とともにシリアに入国し、2017年にトルコ国境の近くに「エルネストのパラダイス」という施設を設立した[注釈 14][37]。虎のような毛並みをしたマキシという猫がマーケティング担当となってSNSで活躍し、資金集めは順調に進んだ。建設では地元の人間を雇用し、子供のために「希望の遊園地」と名づけた遊園地を併設した。「希望」という名は、かつてサンクチュアリにいたホープという名犬に由来している[38]

新しいサンクチュアリの土地には、シリア各地から避難してきた人々が多く、シリアにとどまっていた獣医のユースフの協力も得た。このため猫以外の動物の手当ても可能になり、約100匹の猫の他に、サルウサギハトガンアヒルなども保護した。子供に動物との接し方を教える活動も再開した[39][40]

その後、政府軍がイドリブ県を攻撃したためにサンクチュアリは移動した[注釈 15]。2020年3月5日のトルコとロシアの首脳会議によって停戦となったが、新型コロナウイルスの流行による物価の高騰や、1000匹に急増した保護猫に対応している[注釈 16][42]

著書

  • The Last Sanctuary in Aleppo: A remarkable true story of courage, hope and survival, Headline, 2019.

出典・脚注

注釈

  1. ^ シリアにはワースタ(コネ、知り合い)と呼ばれる習慣があり、アルジャリールにはコネがなかった[6]
  2. ^ シリアの政治は、バアス党の体制に対する反抗は弾圧されて継続しなかったという歴史がある。一致団結した社会運動の継続がなかったが、アラブの春以降の抗議活動では体制打倒を掲げた。そのため市民は体制側と反体制側に分かれ、内戦の要因となった[8]
  3. ^ 国連は2012年にコフィー・アナンを特使に任命し、アナン・プラン英語版によってシリア政府と反体制派の和平調停を試みた。2012年6月にシリアに関するジュネーブ会議が開催され、暫定統治組織の設立についてのジュネーブ合意がシリア政府、反体制派、ロシア、アメリカに賛成された。しかし暫定統治組織についてシリア政府と反体制派の相互合意ができないため挫折した[10]
  4. ^ 2012年8月20日には、アレッポでジャーナリストの山本美香が政権側の民兵であるシャッビーハ英語版に殺害された[11]
  5. ^ 内戦の激化には、シリア政府を支持する国と反体制派を支持する国の対立も一因となった。ロシア、イラン、中国はアサド政権を支持し、サウジアラビア、カタール、トルコ、EU、アメリカは反体制派を支持した。国連特使ラクダル・ブラヒミ英語版は2014年にジュネーブ会議II英語版を開催したが、和平調停は合意にいたらなかった[13][14]
  6. ^ 預言者ムハンマドサハーバ(教友)が猫好きだったという逸話がハディースに記録されている。ムハンマドは上着で寝ていた猫を起こさないように布を切り取ったといわれている。また教友のアブー・フライラ(「子猫の父」の意味)は、いつも猫を連れていたといわれる[17][18]
  7. ^ 内戦によるシリア難民は、2015年から急増した。内戦初期の2年〜3年は国内で我慢していた人々が、長期化するにつれて国外の生活を選んだと推測されている。2014年まではリビアからリビアから地中海を渡るルートが多く、2015年からはより安価なトルコからバルカン半島へと渡るルートが増えた。人口の多い地域はISISの支配下よりも反政府側の地域にあり、出国は政府軍の樽爆弾やロシア軍の空爆が原因とされている[19]
  8. ^ 2014年にはISIS(イラクとシリアのイスラム国)がシリアで勢力を拡大し、政府軍、反体制派、ISISで国土が3分割されるような情勢となった。アメリカはISISへの空爆を行い、ロシアは政府軍への軍事支援を本格化させてISISや反体制派を空爆した。国連のスタファン・デ・ミストゥラ特使はISISの崩壊を共通目標として、2015年11月に国際シリア支援グループ英語版(ISSG)を設立した[20]
  9. ^ 中東諸国へのシリア難民は2016年時点でトルコに200万人、レバノンに120万人、ヨルダンに60万人、エジプトに14万人だった。避難国で就業を認められないシリア難民は、さらにヨーロッパを目指すようになった[23]
  10. ^ 国際連合安全保障理事会の国連決議2254にもとづき、2016年2月からシリア政府と反体制派によるシリア間対話が実施された。同じく2月にはアメリカとロシアの外相がシリアにおける暴力の停止で合意した。このためシリアにおける戦闘は一時的ではあるが80パーセント減少した[26]
  11. ^ シリア政府と反体制派によるシリア間対話は不調で、アサド大統領が暫定政府に入るという点で合意できなかった。このため、2016年4月から政府軍はロシア軍と協力してアレッポへの攻撃を拡大し、アメリカとロシアで合意した暴力の停止は失われた[30]
  12. ^ 人道支援団体が攻撃を受けることもあり、ユニセフは非難声明を出した[31]
  13. ^ 国連のデ・ミストゥラ特使は、政府軍とロシア軍に対してアレッポ攻撃の軽減を訴えた。政府軍やロシア軍は、アレッポの人々を他の反体制派の拠点に移動させることに同意した。12月30日にはシリア全土で停戦合意がされたが、アレッポでは3万1千人が死亡しており、シリア内戦の最大の悲劇のひとつとされている[34]
  14. ^ 2017年1月にはシリア政府と反体制派が参加してアスタナ協議が開催され、ロシア、イラン、トルコの3カ国が停戦のメカニズムを作る合意をした[36]
  15. ^ ISISがシリア内で敗北したのち、シリア政府軍は反体制派との停戦合意を破って攻撃を再開する。2018年には反体制派の領域はイドリブ県を残すのみとなり、和平の実現は2020年現在なされていない[36]
  16. ^ コロナウイルスが猫から人に感染すると信じた人々が、猫を捨てるようになった[41]

出典

  1. ^ アルジャリール, ダーク 2020, 著者紹介.
  2. ^ 黒田 2016, 序.
  3. ^ アルジャリール, ダーク 2020, pp. 42–44.
  4. ^ アルジャリール, ダーク 2020, p. 29.
  5. ^ アルジャリール, ダーク 2020, pp. 38–41.
  6. ^ アルジャリール, ダーク 2020, pp. 31–32.
  7. ^ アルジャリール, ダーク 2020, pp. 29–32.
  8. ^ 末近 2020, pp. 110–111.
  9. ^ アルジャリール, ダーク 2020, pp. 16–17.
  10. ^ 東 2020, pp. 132–133.
  11. ^ アルジャリール, ダーク 2020, p. 34.
  12. ^ アルジャリール, ダーク 2020, p. 27.
  13. ^ 東 2020, pp. 133–137.
  14. ^ 末近 2020, p. 162.
  15. ^ Saving Syria's cats”. Reuters. 2014年9月25日閲覧。
  16. ^ アルジャリール, ダーク 2020, pp. 32–37.
  17. ^ 大西ほか編 2002, pp. 54, 732.
  18. ^ a b アルジャリール, ダーク 2020, pp. 52–53.
  19. ^ キングズレー 2016, pp. 175–178.
  20. ^ 東 2020, pp. 139–140.
  21. ^ アルジャリール, ダーク 2020, pp. 55–56.
  22. ^ アルジャリール, ダーク 2020, pp. 59–60.
  23. ^ キングズレー 2016, pp. 180–181.
  24. ^ アルジャリール, ダーク 2020, pp. 79–80.
  25. ^ アルジャリール, ダーク 2020, pp. 62–65.
  26. ^ 東 2020, pp. 140–141.
  27. ^ a b アルジャリール, ダーク 2020, pp. 65–67, 68–69.
  28. ^ アルジャリール, ダーク 2020, pp. 69–73.
  29. ^ The cat man of Aleppo”. BBC News. 2016年9月26日閲覧。
  30. ^ 東 2020, p. 142.
  31. ^ シリア・アレッポ 人道支援車列に対する攻撃を非難 ユニセフ事務局長【プレスリリース】”. 2016年9月21日閲覧。
  32. ^ アルジャリール, ダーク 2020, pp. 126, 130–134.
  33. ^ “シリア内戦により破壊されたアレッポの町並み”. (2016年7月1日). http://gramnews.blog.jp/archives/1059202038.html 2016年8月17日閲覧。 
  34. ^ 東 2020, pp. 143–144.
  35. ^ アルジャリール, ダーク 2020, pp. 136, 140–142.
  36. ^ a b 東 2020, pp. 149–150.
  37. ^ アルジャリール, ダーク 2020, pp. 146–147, 150–157.
  38. ^ アルジャリール, ダーク 2020, pp. 158–162.
  39. ^ Return of the cat man of Aleppo”. BBC News. 2019年3月7日閲覧。
  40. ^ アルジャリール, ダーク 2020, pp. 163–165.
  41. ^ アルジャリール, ダーク 2020, p. 220.
  42. ^ アルジャリール, ダーク 2020, pp. 218–220.

参考文献

関連文献

関連項目

外部リンク