ニューコム (駆逐艦)
艦歴 | |
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発注 | |
起工 | 1943年3月19日 |
進水 | 1943年7月4日 |
就役 | 1943年11月10日 |
退役 | 1945年11月20日 |
除籍 | 1946年3月28日 |
その後 | 1947年10月に解体 |
性能諸元 | |
排水量 | 2,050トン |
全長 | 376 ft 5 in (114.7 m) |
全幅 | 39 ft 7 in (12.1 m) |
吃水 | 17 ft 9 in (5.4 m) |
機関 | 2軸推進、60,000 shp (45 MW) |
最大速 | 35ノット (65 km/h) |
航続距離 | 6,500海里 (12,000 km) 15ノット(28km/h)時 |
乗員 | 329名 |
兵装 | 38口径5インチ砲5門 40mm対空砲10門 20mm対空砲7門 21インチ魚雷発射管10門 爆雷軌条2軌、爆雷投射機6基 |
ニューコム (USS Newcomb, DD-586) は、アメリカ海軍の駆逐艦。フレッチャー級駆逐艦の1隻。艦名は米西戦争で活躍したフランク・ニューコム代将にちなむ。
艦歴
ニューコムはボストン海軍工廠で1943年3月19日に起工し、7月4日にC・C・ボウマン夫人によって進水。艦長L・B・クック中佐の指揮の下1943年11月10日に就役する。
就役後、ニューコムは西インド諸島での整調を終えたあと太平洋方面に回航され、1944年4月4日からは日本軍が残っていたミリ、ウォッジェ、ジャルートの各環礁近海での対潜掃討に従事。5月29日から8月5日の間は第56駆逐部隊旗艦[1]としてサイパンの戦いおよびテニアンの戦いで火力支援部隊の護衛に任じる。そのさなかの6月22日朝、ニューコムは掃海駆逐艦チャンドラー(USS Chandler, DMS-9)とともに輸送船団を護衛中、ソナーで伊号第一八五潜水艦(伊185)を探知する[1]。ニューコムとチャンドラーは3時間近くも爆雷を投下し、やがて伊185からの残骸と油を確認、これが伊185の最後であった[1]。サイパンの戦いは、7月4日に日本軍のバンザイ突撃で事実上終わった。
8月中はエニウェトク環礁とツラギ島に回航され[2]、9月6日から10月1日まではペリリューの戦いに加わり、引き続き火力支援部隊の護衛を行う一方で自らも23発の砲弾を日本軍拠点に撃ち込み、また水中爆破班の支援にあたった。10月12日からはレイテ島の戦いとその事前攻撃で水中爆破班支援と妨害のための夜間照射を実施した。10月25日未明のスリガオ海峡の夜戦では、ニューコムはリチャード・P・リアリー (USS Richard P. Leary, DD-664) およびアルバート・W・グラント(USS Albert W. Grant, DD-649)を従えて西村祥治中将率いる日本艦隊に正面から突撃する[3]。ニューコムは魚雷を5本発射し、うち1本は戦艦山城に命中したと判定された[4]。ところが、断末魔の山城からの反撃を受けたため魚雷発射後に即座に反転して北方に向かい、ニューコムとリチャード・P・リアリーは被弾しなかったが、アルバート・W・グラントには山城からの副砲弾が命中し、さらには味方の軽巡洋艦、デンバー (USS Denver, CL-58) とコロンビア (USS Columbia, CL-56) からのものと思われる砲弾も命中して損傷した[5]。この古典的な海戦を含むレイテ沖海戦は、ダグラス・マッカーサー陸軍大将のフィリピン帰還を手厚く助け、一方で日本海軍の脅威にピリオドを打った。海戦の後、ニューコムはアルバート・W・グラントに救護班を派遣し、動けないアルバート・W・グラントを曳航して戦場から後退した[6]。アルバート・W・グラントの損傷があったとはいえ、ニューコム、リチャード・P・リアリーとアルバート・W・グラントの山城への突撃こそ、世界戦史上最後の戦艦への駆逐艦の突撃である[4]。
フィリピン水域においてニューコムは、しばしば神風の脅威にもさらされ、その合間を縫ってフィリピン各地の奪回作戦に参加。12月9日のオルモック上陸作戦では上陸部隊の掩護を行い、ミンドロ島の戦いの従事中の12月19日から12月24日には激しい神風攻撃から船団を守り通した。1945年1月6日のリンガエン湾上陸当日にも神風攻撃にさらされ、ニューコムには神風ではなく味方の対空砲火の流れ弾が命中して損傷し、戦死2名、負傷15名を出した[7][8]。1月24日までリンガエン湾で支援を行ったあとウルシー環礁に移り[2]、2月10日から3月10日までは硫黄島の戦いに参加。2月25日に潜水艦を探知して攻撃を行ったが、その結果はわからなかった。
3月21日、ニューコムは沖縄戦に加わるためウルシーを出撃し、沖縄戦開始後は伊江島近海で水中爆破班と掃海部隊の支援に従事。4月6日午後、日本軍は菊水一号作戦を発動して神風を大量投入。空は少なくとも40機はいるであろう神風と、対空砲火からの黒煙で埋め尽くされていた[9]。ニューコムは高速で回避運動を行い、16時25分と17時には神風を撃墜[10]。いったん神風の飛来が止まったので、ニューコムはモートン・デヨ少将の火力支援部隊に合同するため25ノットの速度で航海を開始した[10]。しかし、中休みは間もなく終わり、対空砲火から逃れていた神風が突入してきた。ニューコムは対空砲火を撃ちあげたものの、1機がニューコムの二番煙突に突入し、間を置かず2機目がニューコムの砲塔に、3機目が船体中央部にそれぞれ命中してニューコムの船体中央は火を噴く廃墟と化した。「難破船荒らしに襲われたかのように」[11]不随となったニューコムに対して4機目の神風が船体中央部に突入し、火勢を強める役割を果たした[11]。僚艦ロイツェ(USS Leutze, DD-481)が消火のためニューコムに横付けしたが、この時、新たな神風がニューコムに突入しようとしていた[11]。ニューコムは辛うじて一番砲塔が人力での操作が可能であり、偶然5機目の神風がいた方角を向いていたためそのまま発砲[12]。しかし、5機目もニューコムの中央部に命中し、弾みでロイツェの艦尾にも命中して損害を与えた[12]。完全に動力を失ったニューコムは戦死18名、行方不明25名、負傷64名を出し、ビール(USS Beale, DD-471)の護衛と艦隊曳船テケスタ(USS Tekesta, ATF-93)の曳航により慶良間諸島の泊地に向かった。
ニューコムは工作艦ヴェスタル (USS Vestal, AR-4) によって6月14日まで仮修理が行われたあと、サイパン島、真珠湾を経て8月8日にサンフランシスコに到着。しかし、間もなく戦争が終わり、修理は行われなかった。ニューコムは1945年11月20日に退役し、1946年3月28日に除籍。その後、1947年10月にメア・アイランド海軍造船所で解体された。
ニューコムは第二次世界大戦の戦功で8個の従軍星章を受章し、殊勲部隊章と海軍部隊表彰を1つずつ受章した。
脚注
- ^ a b c #木俣潜 p.648
- ^ a b #Newcomb
- ^ #木俣戦艦 pp.568-570
- ^ a b #木俣戦艦 p.569
- ^ #木俣戦艦 pp.569-571
- ^ #木俣戦艦 p.572
- ^ “Chapter VII: 1945” (英語). The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II. HyperWar. 2012年12月14日閲覧。
- ^ #森本 p.181
- ^ #ウォーナー下 p.31
- ^ a b #ウォーナー下 p.32
- ^ a b c #ウォーナー下 p.33
- ^ a b #ウォーナー下 p.34
参考文献
サイト
- “DD-586 Newcomb” (チェコ語). Naval War in Pacific 1941 - 1945. valka.cz. 2012年12月14日閲覧。
印刷物
- デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌』 上、妹尾作太男(訳)、時事通信社、1982年。ISBN 4-7887-8217-0。
- デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌』 下、妹尾作太男(訳)、時事通信社、1982年。ISBN 4-7887-8218-9。
- 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年。
- 森本忠夫『特攻 外道の統率と人間の条件』文藝春秋、1992年。ISBN 4-16-346500-6。
- 木俣滋郎『日本潜水艦戦史』図書出版社、1993年。ISBN 4-8099-0178-5。
- 『世界の艦船増刊第43集 アメリカ駆逐艦史』、海人社、1995年。
- M.J.ホイットレー『第二次大戦駆逐艦総覧』岩重多四郎(訳)、大日本絵画、2000年。ISBN 4-499-22710-0。
- この記事はアメリカ合衆国政府の著作物であるDictionary of American Naval Fighting Shipsに由来する文章を含んでいます。 記事はここで閲覧できます。
外部リンク
- USS Newcomb website at Destroyer History Foundation
- Navsource.Org: DD-586 Newcomb
- Forward Repair following Kamikaze strikes, April 1945
関連項目