ジョージ・フォアマン
ラスベガスの講演にて(2016年) | |
基本情報 | |
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本名 | ジョージ・エドワード・フォアマン |
通称 | ビッグ・ジョージ |
階級 | ヘビー級 |
身長 | 192cm[1] |
リーチ | 208cm |
国籍 | アメリカ合衆国 |
誕生日 | 1949年1月10日(75歳) |
出身地 | テキサス州マーシャル |
スタイル | オーソドックス |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 81 |
勝ち | 76 |
KO勝ち | 68 |
敗け | 5 |
獲得メダル | ||
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アメリカ合衆国 | ||
男子 ボクシング | ||
オリンピック | ||
金 | 1968 メキシコシティ | ヘビー級 |
ジョージ・エドワード・フォアマン(George Edward Foreman、1949年1月10日 - )は、アメリカ合衆国の牧師、実業家、元プロボクサー。テキサス州マーシャル出身。1968年メキシコシティーオリンピックボクシングヘビー級で金メダルを獲得。プロ転向後も統一世界ヘビー級王座を獲得し、1度は引退するも10年後に復帰すると45歳9カ月のときにヘビー級王座に返り咲いた。
娘のフリーダ・フォアマンと次男のジョージ・フォアマン3世もプロボクサー。
来歴
生い立ちとアマチュア時代
貧しい黒人家庭で、7人兄弟の5番目の子供として生まれる。成長期は喧嘩・飲酒・窃盗に明け暮れる不良少年で、中学校もまともに卒業していない。16歳の頃、偶然テレビで目にした「君にもセカンドチャンスがある!」という広告にひかれ、リンドン・ジョンソン大統領が貧民救済策として創設した職業部隊 (Job Corps) に加入。職業訓練を受けながらボクシングと出会い更生する[2]。
アマチュアボクシングを始めてから2年足らずで国内選考会を勝ち抜き、メキシコ五輪のボクシングヘビー級米国代表選手に選ばれる。1968年10月、ソビエト連邦代表のイオナス・チェプリスをKOで破り金メダルを獲得する。
プロデビューからヘビー級チャンピオンへ
五輪後はトレーナーのディック・サドラーと契約し、元ヘビー級チャンピオンのソニー・リストンのスパーリングパートナーを務める。1969年6月23日、プロデビュー戦でドン・ウィルドヘイムを3RKOし初勝利。この年13連勝(11KO)、翌年12連勝(11KO)。ただし、サドラーの方針で無名選手を相手に選ぶことが多く、作られた戦績という見方もされていた。
1971年5月10日、北米ボクシング連盟 (NABF) 北米ヘビー級王座を獲得。
1973年1月22日、37戦全勝(34KO)という戦績を引っ提げ、WBA・WBC統一ヘビー級タイトルマッチに初挑戦。29戦全勝(25KO)のチャンピオン、ジョー・フレージャーから1Rに3度、2Rにも3度のダウンを奪い、2RTKOで王座を獲得する。当時最強といわれたフレージャーを叩き潰す試合内容は「キングストンの惨劇」と呼ばれる。
1973年9月1日、東京・日本武道館でホセ・ローマン (Jose "King" Roman) を1RKOで下し初防衛。1974年3月26日、ベネズエラ・カラカスで「モハメド・アリの顎を砕いた男」ケン・ノートンを2RTKOで下し2度目の防衛。
アリ戦の敗戦と転身
1974年10月30日、ザイールのキンシャサで、元王者モハメド・アリと3度目の防衛戦を行う。序盤から圧倒的に攻め続けながら、ロープ際でロープに体を預けて防御するアリの戦法(ロープ・ア・ドープ)にはまり体力を消耗(フォアマンはアリ陣営によってロープが緩められていたと主張している)。8Rに逆転KOされ王座から陥落し、41戦目でのキャリア初黒星となった(キンシャサの奇跡)。
1年以上休養した後、1976年1月24日、ロン・ライル (Ron Lyle) とNABFヘビー級決定戦を行い、ダウンの応酬の末5RKO勝利する。その後、フレージャーとの再戦(5RTKO)を含めて4連勝する。1977年3月17日、勝てばアリへの再挑戦権を得る試合にこぎつける。場所はプエルトリコ・サンファン、相手は格下のジミー・ヤング (Jimmy Young) だった。一方的にヤングを攻めたが、試合中盤に失速し、最終ラウンドにダウンを喫して判定負け。
ヤング戦の試合後ロッカールームで昏倒し、イエス・キリストの存在を感じる神秘的な体験をしたことを契機に、キリスト教に目覚める。28歳でボクサーを引退し、キリスト教の牧師に転身する。
リング復帰と王座返り咲き
引退後はヒューストンの自宅近くに教会と「ジョージ・フォアマン・ユースセンター」を開設。しかし、施設維持費のほか、4度の離婚の慰謝料・12人の子供の養育費、雇っていた会計士の横領事件などによって資金難となり、10年ぶりに現役復帰を決意する。1987年3月9日、スチーブ・ゾースキーを4RKOし復帰戦を飾る。
現役復帰を発表した時は、10年のブランクに加え、体型も明らかに肥満していたため、多くの人々は「正気か」と嘲笑したが[2]、復帰後24連勝してヘビー級タイトル戦線に再浮上する(マイク・タイソンとの対決も期待されたが実現せず)。1991年4月19日、'The Battle of Ages'(世代の対決)と題された一戦でイベンダー・ホリフィールドの持つWBA・WBC・IBF世界ヘビー級王座に挑戦。14歳年下の王者を相手に激しい打ち合いを展開し、判定負けするも多くの人々を驚かせた。
1993年6月7日、トミー・モリソンと空位だったWBO世界ヘビー級王座を争うが、大差の判定負け。その後1年以上ブランクが続き、引退も囁かれる。
1994年11月5日、WBA・IBF世界ヘビー級王者マイケル・モーラーに逆指名され、復帰後3度目のタイトルマッチに臨む。劣勢の中で10Rに逆転の右ストレートでモーラーをKOし、20年ぶりにヘビー級タイトルへの返り咲きを果たした。45歳9カ月での戴冠はボブ・フィッシモンズ(ライトヘビー級)の40歳3カ月を上回る最年長王座獲得記録となった(2011年にバーナード・ホプキンス(ライトヘビー級)が46歳4カ月で更新)。
1995年3月、WBAから指名されたトニー・タッカーとの対戦を拒否し、WBAタイトルを剥奪される。同年4月、アクセル・シュルツを破り、IBF王座防衛とともにWBU世界ヘビー級タイトルを獲得。同年7月、IBFから指令されたシュルツとの再戦を拒否し、IBFタイトルも剥奪される。
1996年11月3日、東京ベイNKホールでクロウフォード・グリムスリーと対戦し(JBC非公認試合・日本IBF協力)、WBU王座防衛とともにIBA世界ヘビー級タイトルを獲得(その後、IBAタイトルを返上)。1997年4月26日、ルー・サバレーセを破りWBU王座を防衛するがこれも返上する。
1997年11月22日、WBC世界ヘビー級王者レノックス・ルイスへの挑戦権をかけてシャノン・ブリッグスと対戦し、12R判定負け。以後、リングから遠ざかるが、正式な引退表明はしていない。
現在はテキサス州のヒューストンにあるキリスト教会、THE CHURCH OF THE LORD JESUS CHRISTで牧師をしており、また、自らの名を冠したバーベキューグリル「ジョージ・フォアマン・グリル (George Foreman Grill) 」をヒットさせ、TVドラマやCMに出演するなど、ビジネスでも成功を収めている。
戦績
- アマチュアボクシング: 26戦 22勝 4敗
- プロボクシング: 81戦 76勝 68KO 5敗
獲得タイトル
- 全米AAU・ボクシング競技ヘビー級優勝(1968年)
- 第19回メキシコシティーオリンピック・ボクシング競技ヘビー級優勝(1968年)
- NABF北米ヘビー級王座
- パンアメリカンヘビー級王座
- IBA世界ヘビー級王座
- WBU世界ヘビー級王座
- WBA世界ヘビー級王座(1度目は防衛2度、2度目は防衛0度)
- WBC世界ヘビー級王座(防衛2度)
- IBF世界ヘビー級王座(防衛1度)
エピソード
- 1968年のメキシコ五輪で金メダルを獲得した時、フォアマンは星条旗の小旗を振って喜びを表した。しかし、当時のアメリカでは黒人差別への抗議活動がスポーツ分野にも及んでおり、男子200m走の表彰式では金・銅メダルのトミー・スミスと銅メダルのジョン・カーロスが黒い手袋をつけた拳を掲げるデモンストレーション(ブラックパワー・サリュート)を行い、大会から追放された。フォアマンの行為は偽善愛国者と誤解され、同胞の黒人から非難されてしまった[3]。
- ボクシングで稼いだ金を更生施設の建設につぎ込むなど、社会奉仕活動を積極的に行う人柄が人々から慕われ、体と器の大きさを讃えて「ビッグ・ジョージ」という愛称を持つ[2]。
- 最初の王者だった頃、試合前にレフリーの前で相対するときに「相手を睨みつける 」 心理戦を得意としていた。 当時としては大柄だったので、上から睨みつけ、相手が少しでも目をそらしたら、勝ちを確信したという。(現役復帰して2度目の戴冠までは、相手をじっと見たり、睨んだりしなかった。)
- 最初の王者だった頃は不愛想で、周囲に殺気を放つような人物だった。引退後、キリスト教の牧師となり、その宣教を通して心の平穏を得ると、柔らかな表情とユーモアのあるコメントでファンに愛されるキャラクターとなった。また、100kg前後だった体重が復帰後は120kgまで増加し、頭髪も丸めていたため、外見のイメージも一変していた。
- 7人兄弟の次男(上から5番目)であるが、フォアマンのみ異父を持つ。本人はこの事実をアリ戦の敗戦後に知った。
- フォアマンには5男7女の12人の子供がいる。その内の次男、ジョージ・フォアマン3世(MONK)によると、フォアマンは息子に、ボクシングのことを全く語らなかったため、息子は父親が世界チャンピオンであったことを知らなかったという。MONKは、フォアマンを超える恵まれた体格を持つが、フォアマンは息子にボクシングを教えることもなく、勉強を熱心に薦めた。MONKは大学に通いながら、父の青少年更生センターを手伝っているが、2009年にプロボクサーとしてデビューした[4]。
著書
- ジョージ・フォアマン著/ジョエル・エンジェル協力 安部譲二訳『敗れざる者 - ジョージ・フォアマン自伝』、原題:"The Autobiography of George Foreman"、角川春樹事務所、1996年、ISBN 978-4894560062。
脚注
関連項目
- 男子ボクサー一覧
- オリンピックのボクシング競技・メダリスト一覧
- 世界ボクシング協会世界王者一覧#ヘビー級
- 世界ボクシング評議会世界王者一覧#ヘビー級
- 国際ボクシング連盟世界王者一覧#ヘビー級
- 統一世界王者
- 国際ボクシング名誉の殿堂博物館
- 世界ボクシング殿堂
- リングマガジン ファイター・オブ・ザ・イヤー - 2度受賞(1973年、1976年)
外部リンク
- The Official Site of George Foreman
- ジョージ・フォアマン (@GeorgeForeman) - X(旧Twitter)
- ジョージ・フォアマンの戦績 - BoxRec(英語)
- フォアマンの強打炸裂中日映画社
前王者 ジョー・フレージャー |
WBA世界ヘビー級王者 1973年1月22日 - 1974年10月30日 |
次王者 モハメド・アリ |
前王者 ジョー・フレージャー |
WBC世界ヘビー級王者 1973年1月22日 - 1974年10月30日 |
次王者 モハメド・アリ |
前王者 マイケル・モーラー |
WBA世界ヘビー級王者 1994年11月5日 - 1995年3月4日(剥奪) |
空位 次タイトル獲得者 ブルース・セルドン |
前王者 マイケル・モーラー |
IBF世界ヘビー級王者 1994年11月5日 - 1995年12月9日(剥奪) |
空位 次タイトル獲得者 マイケル・モーラー |