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イースター島

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座標: 南緯27度7分 西経109度22分 / 南緯27.117度 西経109.367度 / -27.117; -109.367

ラパ・ヌイ
Rapa Nui
イースター島の旗
詳細
公用語 スペイン語
中心地 ハンガロア
ラパ・ヌイの知事 カルメン・カルディナーリ
面積
 - 総計

163.6km²
人口
 - 総計(2005年
 - 人口密度

3,791
/km²
通貨 ペソ
時間帯 UTC-6
ccTLD .cl

イースター島:Easter Island)はチリ領の太平洋上に位置する火山島。現地語名はラパ・ヌイラパ・ヌイ語:Rapa Nui)。正式名はパスクア島スペイン語:Isla de Pascua)で、"Pascua"は復活祭(イースター)を意味する。日本では英称で呼ばれることが多い。

モアイの建つ島である。ポリネシア・トライアングルの東端に当たる。周囲には殆ど島らしい島が存在しない絶海の孤島である。「ラパ・ヌイ」とはポリネシア系の先住民の言葉で「広い大地」(大きな端とも)という意味。かつては、テ・ピト・オ・ヘヌア(世界のへそ)、マタ・キ・テ・ランギ(天を見る眼)などと呼ばれた。これらの名前は19世紀の後半に実際に島にたどりついたポリネシア人がつけたもの。

歴史

海底火山噴火によって形成された島に、最初の移民が辿り着いたのは4世紀5世紀頃だとされている。この移民は、遥か昔に漢民族の南下に伴ってインドシナ半島から押し出されたポリネシア人である。ポリネシア人の社会は、酋長を中心とする部族社会であり、酋長の権力は絶対で、厳然たる階級制度によって成り立っている。部族社会を営むポリネシア人にとって、偉大なる祖先は崇拝の対象であり、神格化された王や勇者達の霊を、部族の守り神として祀る習慣があった。タヒチでは、マラエと呼ばれる祭壇が作られ、木あるいは石を素材とするシンボルが置かれた。イースター島でも、同様に行われていたと想像できる。化石花粉の研究から、当時のラパ・ヌイは、世界でも有数の巨大椰子が生い茂る、亜熱帯性雨林の島と考えられている。初期のヨーロッパ人来航者は、「ホトゥ・マトゥア」という首長が、2艘の大きなカヌーで、ラパ・ヌイに入植したという伝説を採取している。

モアイ像

7世紀8世紀頃に、プラットホーム状に作られた石の祭壇(アフ)作りが始まり、遅くとも10世紀頃には、モアイも作られるようになった。他のポリネシアの地域と違っていたのは、島が完全に孤立していて、外敵の脅威が全くなく、加工し易い軟らかな凝灰岩が、大量に存在していたことである。最初は1人の酋長の下、1つの部族として結束していたが、代を重ねる毎に有力者が分家し、部族の数は増えて行った。島の到る所に、其々の部族の集落ができ祭壇が作られた。モアイは良く「海を背に立っている」と言われている。ただし正確には、集落を守るように立っており、海沿いに建てられたモアイは海を背に、内陸部に建てられたモアイには、海を向いているのもある。祭壇の上に建てられたモアイの中で、最大のものは高さ7,8m、重さ80tもある。島最大のアフ・トンガリキには、高さ5mを超えるモアイが15体も並んでいる。

デザインも時代に連れ変化し、第一期のモアイは、人の姿に近いもので下半身も作られている。第二期のモアイは、下半身がなく細長い手を、お腹の辺りで組んでいる。第三期のモアイは、頭上に赤色凝灰石で作られた、プカオ(ラパヌイ語で髭あるいは髪飾り)と呼ばれる、飾りものが乗せてある。第四期のモアイは、全体的に長い顔、狭い額、長い鼻、くぼんだ眼窩、伸びた耳、尖った顎、一文字の口など、この頃に作られたモアイは、最もモアイらしさが強調されるようになった。18世紀になって西欧人が島に訪れるまで、島には鉄器や銅器は存在せず、モアイは比較的に加工し易い凝灰岩を、玄武岩黒曜石で作った石斧で刻み、10世紀17世紀まで、少なくとも800年は続いた。当時、彼らの作ったモアイや墳墓石碑など考古学上、極めて重要な遺跡が数多く残されている。16世紀以降、モアイ(石像)は造られなくなった。その後は破壊されていった。この時期までが先史社会と考えてよく、ラパヌイ社会の転換期である[1]

平和の中でのモアイ作りは突然終息する。モアイを作り運び、モアイを建てる為には大量の木材が必要で、大量伐採によってが失われる。森を失った島からは、肥えた土が海に流れ出し、土地が痩せ衰えた。そこに人口爆発が起こり、当時の島には、1万人を超える人々が暮らしていたと言われており、一説では2万人が住んでいたともされる。僅か数十年の間に、人口が4倍にも5倍にも膨れ上がり、やがて深刻な食糧不足に陥るようになり、頻繁に耕作地域や漁場を争っては、部族間に武力闘争が生じるようになる。モアイは、目に霊力(マナ)が宿ると考えられていたため、相手の部族を攻撃する場合、守り神であるモアイをうつ伏せに倒し、目の部分を粉々に破壊した。その後、モアイ倒し戦争は50年ほど続いた。森林伐採は結果として、家屋カヌーなどのインフラ整備を不可能にし、ヨーロッパ人が到達したときは島民の生活は石器時代と殆ど変わらないものになっていた。

1722年復活祭の夜、オランダ海軍提督のヤコブ・ロッゲフェーンが、南太平洋上に浮かぶ小さな島を発見する。発見した日がイースターのため「イースター島」と名前が付いたと言われている。この島に上陸したロッゲフェーンは、1000体を超えるモアイと、その前で火を焚き地に頭を着けて、祈りを捧げる島人の姿を目の当たりにする。1774年には、イギリス人探検家のジェームス・クックも上陸している。クックが目にしたものは倒れ、壊されたモアイ像の数々で、島のモアイの半数ほどが、まだ直立していたと云う。そして山肌には作りかけのモアイ像が、まるで作業を急に止めてしまったかのように放置されていた。伝承では、1840年に最後のモアイが倒されたとされる。18世紀19世紀にかけて、ペルー政府の依頼を受けた、アイルランド人のジョセフ・バーンや、タヒチのフランス人の手によって、住民らが奴隷として連れ出された。また、外部から持ち込まれた天然痘が、猛威を振るった。その結果、島の人口は更に激減し、先住民は絶滅寸前まで追い込まれた。1872年当時の島民数はわずか111人である。1888年にチリ領になり現在に至る。

2010年7月11日グリニッジ標準時11日午後8時11分に皆既日食が観測された。天文ファンや観光客約4000人が押し寄せた。

地理

イースター島の位置
イースター島の地図

位置は、チリの首都であるサンティアゴから西へ3,700km、タヒチから東へ4,000kmの太平洋上に位置する。

の周辺海域はペルー海流が渦巻き、近海は海産資源豊富な漁場であり、とくにカタクチイワシが多く捕れる。

島の全周は60kmほどで、面積は180平方kmであり、北海道利尻島とほぼ同じ大きさである。

マグマの噴出によって造られた小さな火山島。玄武岩で構成され、島の中央付近に山がそびえたっている。 島全体が、ラパ・ヌイ国立公園としてチリ政府により国立公園に登録されている。また1995年世界遺産に登録されている。

絶海の孤島であり、最も近いサラ・イ・ゴメス島でも東北東に415kmも離れている。人の住む最も近い島であるピトケアン島からだと、約2,000kmの距離がある。年間降雨量は1250ミリメートルと少なく乾燥した気候である。バナナ、サトウキビなどン栽培には十分だが、河川がないため灌漑用水に困りタロイモ栽培には適していない。

地質

詳細は (Easter Islandを参照

イースター島は3つの火山から成る。テレバカ山(海抜507m)が島の大部分を占め、他の2つの他に多数の噴火口がある。海底からは2千mの高さになる。ガラパゴスやハワイと同じ玄武岩で鉄分が多い。75万年前に形成され、最新の噴火は約10万年前だった。20世紀前半にも水蒸気が噴出した。

交通

マタベリ国際空港

島内

島の人口は約4000人。島内には、チリ海軍が駐留し、数ヶ月に1度は物資とともに海兵隊もやって来る。

鉄道は敷設されていないが、主要道路については舗装されており、島内の主な交通手段としては、乗り合いバスもしくはタクシーが、主な公共交通手段として、島民や観光客に利用されている。観光客には、レンタカー、レンタルバイクも利用されることが多い。

島内には、レストラン、ホテル、ディスコ、ガソリンスタンド、ビデオレンタルショップ、学校、病院、博物館、郵便局、放送局(テレビ局3局、ラジオ局1局)等の施設が整っており、島の暮らしは至って現代的である。

島外

ラン航空が、マタベリ国際空港とサンティアゴ、リマタヒチパペーテとの間に定期便を運航している。近隣諸島との間には貨客船も運航されている。

なお、マタベリ国際空港の滑走路は、島の規模には不釣合いな3300mの長大なものである。これはかつてNASAスペースシャトルヴァンデンバーグ空軍基地から打ち上げる計画を持っていたため、その際の緊急着陸地(TAL sites)のひとつとして整備されたものである。チャレンジャー号爆発事故によってこの計画も中止されたため、緊急着陸地のリストから外された。

文化

文字

住民はポリネシアで唯一文字を持っていた。ラパヌイ文字(ロンゴロンゴ文字)と呼ばれる絵文字がこれに当たる。この絵文字は古代文字によく見られる牛耕式と呼ばれる方法で書かれ、1行目を読み終えると逆さにして2行目を読むというように、偶数行の絵文字が逆さになっている。板や石に書かれ、かつては木材に刻まれたものが多数存在したようである。宣教師らが「悪魔の文字」であるとして破壊したという俗説があるが、実際は過度の伐採により木材が常に不足している島の住民たちによって、薪や釣り糸のリールとなり、多数の文字資料が失われたという。そのため、現在はわずか26点しか存在しない。また、現在のラパ・ヌイ人は、フランス人の奴隷狩りによりタヒチに連れ去られ、戻ってきた人々の子孫であり、現行のラパ・ヌイ語タヒチ語の影響を強く受けた言語である。古代ラパ・ヌイ語についてはヨーロッパ人による貧弱な記録をたどる他は、現行のラパ・ヌイ語から復元する以外、知る手立ては存在しない。したがって、解読は難しいとされている。

ラパヌイ文字はインダス文字との外見上の類似を指摘されている。ただ、現存する資料は全て西洋人との接触後に書かれたものと見られている。ラパ・ヌイの先住民が最初に外国から来た船で西洋人と接した時、文字の存在を知り、その有効性を学び、そこから自らの文字を真似て作り上げたとする説も極めて有力である。そのため、ラパヌイ文字をポリネシアの古来からの書記言語と断定することはできない。よって、インダス文字との関わりについては、学術的には、あくまでも一つの可能性という範囲に留まっている。

現代文明への教訓

閉鎖された空間に存在した文明が、無計画な開発と環境破壊を続けた結果、資源を消費し尽くして最後にはほぼ消滅した[2]という歴史は、現代文明の未来への警鐘として言及されることが多い[3]

参考文献

ISBN 4-7942-1464-2

関連項目

脚注

  1. ^ 野嶋洋子「ラパヌイ(イースター島)」/吉岡政徳・石森昭男編著『南太平洋を知るための58章 メラネシア ポリネシア』明石書店 2010年 249ページ
  2. ^ ポリネシア人がラパヌイ島にたどり着いたころの森林は島を覆い尽くすほど茂っていた。ところが、17世紀末ごろまでに森林がほぼ消滅いたと推測される。花粉分析から900~1500年ごろにヤシなどの樹木類が減少し、イネ科やカヤツリグサ科などの花粉が急増する。環境破壊をし尽くしたのは島民であるという説(ジャレド・ダイヤモンド『文明崩壊ーー滅亡と存続の命運を分けるもの』2005年)と西洋人との接触説などが存在する。(野嶋洋子「ラパヌイ(イースター島)」/吉岡政徳・石森昭男編著『南太平洋を知るための58章 メラネシア ポリネシア』明石書店 2010年 249ページ)
  3. ^ Clive Ponting A green history of the world

外部リンク


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