アイヴァン・モリス

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アイヴァン・モリス(Ivan Morris、1925年11月29日 - 1976年7月19日)は、イギリス翻訳家日本文学研究者。妻の小川亜矢子によるとIvanの読みは「イヴァン」[1]

来歴・人物

ロンドンに生まれる。父は米国人の小説家のアイラ・モリス、母はスウェーデン人の小説家エディタ・モリス。両親は戦後広島に「ヒロシマ・ハウス」を設立し、母エディタは小説『ヒロシマの花』(阿部知二訳)などを書いた。

裕福なユダヤ系アメリカ人の父とスウェーデンの没落名家出身の母の一人息子としてイギリスに生まれる。一家の自宅は、食肉解体業で財を成した父方から結婚祝いに贈られたパリの東セーヌ=エ=マルヌ県Nesles-la-Gilberde村のマナーハウスだったが、英国の国籍を得るためにハムステッドに一時滞在しての出産だった[2]。働く必要のない両親は子供にも関心が薄く、母親は息子を残して世界中を旅しており、寂しい幼少期を送った[2]。寄宿学校ゴードンストウンを経てフィリップス・アカデミーで学ぶ。

第二次世界大戦で、イギリス軍将校候補生として米国海軍日本語学習プログラムに参加し、それがきっかけになって日本研究を決意。米国海軍で働いたのち[3]ハーヴァード大学で日本語と日本文化を研究し、1946年に卒業[4]

1945年に通訳として来日し、被爆した広島市を訪れた最初の外国人の一人となった。1948年に大学院生として東洋アフリカ研究学院に入り、アーサー・ウェイリーのもとで源氏物語を研究し[3]、1951年に博士号を取得[4]

BBC(イギリス公共放送局)や、イギリス外務省情報局に勤務したのち、妻の亜矢子とともに1956年に再来日し、両親が開いた広島の被爆者支援施設に協力[4]。1958年、ソ連政府がボリス・パステルナークノーベル文学賞授与を辞退させた際、エドワード・サイデンステッカーヨゼフ・ロゲンドルフとともに、日本ペンクラブのソ連政府に同調する姿勢を批判した[5][6]。日本滞在中に『日本のナショナリズムと右翼』を執筆。身分の安定のためコロンビア大学に求職を申請するが、亜矢子によると、大学からの返事を待つ間不安から泣くこともあったという[7]。1959年に妻とともに英国に戻る。

1960年、無事コロンビア大学に教授職を得て渡米、1973年まで東洋学部で教えた[4]。1966年にはオックスフォード大学セント・アントニー・カレッジの特別研究員に選ばれ、1969年まで東アジア言語・文化学部部長を務めた[4]

英語圏での古典・近代日本文学の研究進展に寄与し、英文著書のほか清少納言の「枕草子」、「更級日記」、西鶴作品ほかの古典や、昭和文学では中島敦山月記」、三島の「金閣寺」、大岡昇平野火」、大佛次郎「旅路」など多数を英訳。パズルゲームにも造詣があった。同学のドナルド・キーンの友人であった[8]

『光源氏の世界』は、1965年にダフ・クーパー賞<Duff Cooper Prize>を受賞。三島由紀夫も友人としてロンドンでの授賞式に参列。三島とは在日中に小旅行にも同行し、三島は自決直前に、遺作「豊饒の海」出版に関し英文で書簡を送っている。

晩年の著作となった『高貴なる敗北』「第九章 大西郷崇拝-西郷隆盛」は、映画監督エドワード・ズウィックの作品『ラスト サムライ』に、多大なる影響を与えた。モリス自身『高貴なる敗北』の序で「以下の文章は(略)三島の霊に捧げられるべきものである」と述べている。

1976年に旅先のイタリアボローニャで心臓発作により急逝した。

親族

母親のエディータ
  • 父・アイラ・モリス(Ira Victor Morris, 1903-1972)シカゴ生まれの著述家。両親ともにユダヤ人で、ドイツ生まれの祖父ネルソン・モリスドイツにおける1848年革命の影響で15歳で米国に移民し、食肉解体業「モリス&カンパニー」を創業して成功した。父のアイラ・ネルソン・モリスは創業者家族として同社幹部に名を連ねたほか、1914年から1923年までスウェーデンの米国全権大臣(在スウェーデン米国大使の前身)を務めた(当時の米国では一部の大使職は購入できたためしばしば富裕層が務めた)[2]ハーバード大学卒。親から贈られたフランスの城に多くの召使を雇って優雅に暮らしつつ共産主義を唱え[2]、第二次大戦中は妻と妻の愛人の画家とともにメキシコで暮らした[9]。戦後は1950年にエジンバラで開催された国際ペンクラブ大会で広島の被爆状況を知り、1955年に妻と来日、1957年に広島市宇品の古い旅館を改装し、被爆者のレクリエーション施設「広島憩いの家」を開設、その後ヒロシマ財団(1992年解散)を設立するなど原爆被害者の支援活動に携わった[10][11]。妻とともに広島市から特別名誉市民を贈られた[12]。息子のイヴァンは父のことをアメリカの金持ちぼんぼんのまま、何事も成し遂げられなかった中途半端な人と見ており、父を反面教師にして、努力を惜しまないことを自身の信条としていた[13]
  • 母・エディータ・モリス(Edith (Edita) Dagmar Emilia Morris, 1902-1988) - アレクサンドル1世軍の将軍としてナポレオン戦争を戦った先祖を持つスウェーデンの名家の出だが、父親が一族を離れたため経済的には余裕はなかった。アイラが大学の夏期休暇でストックホルムの父親宅に滞在中に知り合い、結婚してイヴァンをもうけたが、1930年代以降はスウェーデン人画家のニルス・ダルデルと恋仲となり、ダルデルが亡くなる1943年まで夫公認で交際した。同年、初の小説"My darling from the Lions"を発表、1959年に出した"The Flowers of Hiroshima"は39か国語に訳され、代表作となった。イヴァンが死んだ際は、当時イヴァンの恋人だったボローニャ貴族の未亡人とのトラブルで殺されたと主張した[14]
  • 最初の妻・アン - 南アフリカで結婚[3][15]
  • 二番目の妻・小川亜矢子(1933-2015、愛称ヤキ) - 京都府生まれ。身長167cm。父親の小川正は映画の脚本家・プロデューサー[16]鴎友学園[17]。12歳で東勇作に師事し、小牧バレエ団入団[18]。1953年、英国のサドラーズ・ウエルズ・バレエ・スクール(のちのロイヤル・バレエ学校)に2年間留学、同校初の日本人留学生となる。モリスの両親が住むパリ郊外の城でモリスと同棲したのち1956年にニューヨークで結婚し帰国、1960年にモリスの仕事に伴い渡米、メトロポリタン・オペラ附属バレエ団に入団、1966年に離婚し帰国、スターダンサーズ・バレエ団の運営に協力。その後父親のツテで新宿コマ劇場階上に「コマ・小川亜矢子バレエスタジオ」を開設、1980年代にはコマが出資した「スタジオ一番街」で多くの後身を育て、1996年にかねてよりパートナーだったり24歳年下のダンサー小川和也(旧姓桑名)と再婚、父親の資金援助で翌年青山ベルコモンズ最上階にチケット制のダンス教室「青山ダンシング・スクエア」を開設[17][19]。2000年に紫綬褒章、2007年に旭日小綬章受章[20]
  • 三番目の妻・上西信子(1940-) - 空調会社大気社の娘で、神戸女学院から早稲田大学演劇科に進み、倉橋健に師事したが中退してニューヨークに移る[21]。1961年から1963年までニューヨーク大学のドラマ科で学び、1966年モリスと結婚、ミュージカルなど舞台芸術の手配などに携わった。その後モリスとは離婚し、26歳年上で、オリバー! (ミュージカル)などの制作で知られた英国人舞台プロデューサーのサー・ドナルド・アルベリー(en:Donald Albery)と1974年に再婚した[22]

著書

  • 「The Tale of Genji Scroll」 Kodansha International, Tokyo 1971.
Introduction By Yoshinobu Tokugawa(徳川義宣)の解説序文
  • 「Dictionary of Selected Forms in Classical Japanese Literature」
Columbia University Press, New York 1966.
  • 「The World of the Shining Prince: Court Life in Ancient Japan」Oxford University Press , London 1964.
  • 「The Nobility of Failure: Tragic Heroes in the History of Japan」 Secker and Warburg, London 1975.
  • 編著『アイヴァン・モリスのパズルブック』全2巻 TBSブリタニカ
<シリーズ 世界のパズル> 1.藤井良治訳、2.沖記久子訳、1978年

脚注

注釈

出典

  1. ^ 『運命に従う』小川亜矢子、幻冬舎、2004年
  2. ^ a b c d "Britain and Japan: Biographical Portraits, Vol. IV, Volume 4" Hugh Cortazzi, Routledge, 2013/05/13 , p276-277
  3. ^ a b c "Britain and Japan: Biographical Portraits, Vol. IV, Volume 4" Hugh Cortazzi, Routledge, 2013/05/13 , p452
  4. ^ a b c d e 橋本かほる「ジャパノロジストIvan Morrisについて (1):The Nobility of Failureを中心に」『英学史研究』第2001巻第33号、日本英学史学会、2000年、155-168頁、doi:10.5024/jeigakushi.2001.155ISSN 0386-9490NAID 130003437312 
  5. ^ エドワード・G・サイデンステッカー「日本との50年戦争―ひと・くに・ことば」(朝日新聞社)P.211
  6. ^ 大宅壮一「群像断裁」(文藝春秋新社)P.129
  7. ^ 『運命に従う』p66
  8. ^ キーンドナルド 著、幸男角地 訳『ドナルド・キーン自伝-増補新版』中央公論新社、2019年3月25日、204頁。ISBN 978-4-12-206730-1OCLC 1097659731 
  9. ^ 『運命に従う』p41
  10. ^ 緑地帯 川端康成とヒロシマ 森本穫 <7>中国新聞、2016年9月29日
  11. ^ 企画展を見よう広島平和記念資料館バーチャルミュージアム
  12. ^ 広島市名誉市民広島市、2019年10月21日
  13. ^ "Britain and Japan: Biographical Portraits, Vol. IV, Volume 4" Hugh Cortazzi, p281-282
  14. ^ 『運命に従う』p141
  15. ^ 『運命に従う』p86
  16. ^ 『運命に従う』p28
  17. ^ a b 小川亜矢子 プロフィールHMV&BOOKS
  18. ^ 追悼・小川亜矢子The Dance Times、2015年2月5日
  19. ^ 『運命に従う』p146
  20. ^ バレリーナで振付家の小川亜矢子さん死去ネビュラエンタープライズ15.01/16
  21. ^ 舞台裏で活躍した女性たち安倍寧聞き書き、2014年8月19日、日本近代演劇デジタル・オーラル・ヒストリー・アーカイブ
  22. ^ Albery, Nobuko 1940-encyclopedia.com

外部リンク