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41 (航空機)

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41 (Изделие 41)

41または33[1]は、ソ連ミコヤン設計局が計画した戦闘機である。製品41ロシア語:Изделие 41)または計画41Проект 41)とも呼ばれる。1980年代前半に計画中止となった。

概要

1970年代中盤、ミコヤン設計局は大型のAL-31Fターボファンエンジン1基を搭載する小型前線戦闘機の開発を行った。しかし、この機体では小型のRD-33の双発としたMiG-29に比べメリットがないとして開発中止となった。特に、MiG-29との比較において大して安価にならず、また性能も特筆すべきものがなかった点は大きな失点であった。

ミコヤン設計局はその後、1980年代初頭にMiG-29を単発小型化した軽量戦闘機[2]案を提示した。これは、空軍向けに並行して開発していた重量級の双発戦闘機を補完する機体で、MiG-21に連なる軽量の高機動型戦闘機となることが開発目標とされていた。用途としては、空中戦をこなす制空戦闘機としての能力の他、対地攻撃にも使用できるというまさにMiG-21と同様の範囲が求められた。加えて、ソ連及びミコヤン設計局がワルシャワ条約機構第三世界の中小国に大量に輸出してきたMiG-21を代替できるよう、大量に生産でき、安価で、維持技術・費用を最低限度に抑えることも要求された。MiG-21に続いて生産されたMiG-23やMiG-29は機体が大型・高価で維持にも費用がかかり[3]、より広範囲な運用を達成するためにはより簡略で安価な機体が必要とされたのである。

こうしたコンセプトの中で、ミコヤン設計局は1981年[4]、単発の軽量戦闘機「41」を提案した。搭載エンジンは推力を10000 kgf[5]に増強したRD-33Kターボファンエンジンが選択され、計画では通常離陸重量はMiG-21並みの9500 kg、最大速度は1800 km/h[6]、航続距離は増槽なしで2000 km、増槽ありで3000 km、最大武装搭載量は3500 kgとされた。また、未舗装滑走路からの離着陸能力も予定された。機上レーダーには、新しいフェーズドアレイレーダーの「コマール」が予定された。[7]

機体コンフィギュレーションはMiG-21と同様で、デルタ翼水平尾翼垂直尾翼が1枚ずつであったが、インテーク(空気取り入れ口)は機首から機体下面へと移された。設計はその後変更され、水平尾翼を廃して代わりに機首に小型のカナード(前翼)が設けられた。また、インテークの改良により最大速度はマッハ 1.8から1.84に向上した。

しかしながら、41はペーパープランに終わった。結局のところ、41の性能はMiG-29のそれに多少なりとも及ばず、空軍首脳部の不満を買ったのである。とはいえ、41の研究は無駄にはならなかった。その後、第二次天安門事件で技術提供が打ち切られ開発が停滞していた中華人民共和国のSuper-7計画に41の技術が応用され、軽量戦闘機FC-1が完成したのである。

41の設計は、本国でもLFI計画MFI計画での単発前線戦闘機の開発の際に参考にされた。LFIに41計画を流用することも検討されたが、1990年代初めにはソ連崩壊とその後のロシアの経済状況の悪化に伴いLFI計画は中止され、また対抗国であったアメリカ合衆国でも先進戦術戦闘機計画を補完しF-16を代替する軽量戦闘機計画を縮小したため、41のような機体はロシア空軍にとって必要のない機体となった。結局、このクラスの戦闘機としてMiG-29の派生型としてMiG-29M1やMiG-29M2, MiG-29M3が研究されたが、いずれも計画のみに終わっている。

スペック

2面図

脚注

  1. ^ 「33」の名称の由来は搭載しているRD-33エンジンから。MiG-33とされる場合もあるがこれは誤り。MiG-33はMiG-29Mの輸出型MiG-29MEの別称である。
  2. ^ 当機はLFI計画の候補機だったという説があるが、単に軽量戦闘機(Лёгкий истребитель)とされるだけで、開発時期の相違からしても当機はLFIとは直接的には無関係である。但し、後述の通りLFI計画の際に技術参考とされ、また41計画を流用しようという計画もあった(実際には流用されなかった)。
  3. ^ 実際、冷戦終結後にはより高性能なこれらの機体を早期退役させてMiG-21に統一させた国もあった。
  4. ^ 一説には1984年から1985年
  5. ^ 計画第1段階では8300 kgf。
  6. ^ 一説にはマッハ 1.7。
  7. ^ 「コマール」は、計画第1段階では通常のパラボラアンテナ式であった。なお、「コマール」(Комар)とはロシア語で「」のこと。