「パルチザン (ユーゴスラビア)」の版間の差分

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{{Infobox War Faction
[[Image:Marshal_Tito_during_the_Second_World_War_in_Yugoslavia%2C_May_1944.jpg|250px|thumb|ユーゴスラビアのパルチザン首脳、1944年(右端、犬を連れている人物が[[ヨシップ・ブロズ・チトー|チトー]])]]
|name = ユーゴスラビア人民解放軍およびパルチザン部隊
ユーゴスラビアの'''パルチザン'''は、[[1941年]]の[[ドイツ軍]]による[[ユーゴスラビア]]侵攻以降、[[ヨシップ・ブロズ・チトー]]を指導者とする[[ユーゴスラビア共産主義者同盟|ユーゴスラビア共産党]]によって組織された、[[枢軸国]]([[ドイツ]]、[[イタリア]]、[[ハンガリー]]、[[ルーマニア]]、[[ブルガリア]])の占領軍およびユーゴ国内の親枢軸政権・組織([[クロアチア独立国]]、[[ウスタシャ]]等)に対する[[レジスタンス運動|抵抗運動]]、またその組織およびその参加者を指す。
|war = [[ユーゴスラビア人民解放戦争]]([[第二次世界大戦]])
|image = [[File:Yugoslav Partisans flag 1945.svg|250px|border]]
|caption = パルチザンが使用した旗
|active = 1941年 - 1945年
|ideology = [[共産主義]]<ref name="Sharon Fisher 2006, p. 27">{{Cite book|last=Fisher|first=Sharon|authorlink=|coauthors=|title=Political change in post-Communist Slovakia and Croatia: from nationalist to Europeanist|publisher=Palgrave Macmillan|year=2006|page=27|isbn=1403972869}}</ref><ref name="Howard Jones 1997, p. 67">{{Cite book|last=Jones|first=Howard|authorlink=|coauthors=|title=A new kind of war: America's global strategy and the Truman Doctrine in Greece|publisher=[[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]]|year=1997|page=67|isbn=0195113853}}</ref><ref name="Dennis P. Hupchick 2004, p. 374">{{Cite book|last=Hupchick|first=Dennis P.|authorlink=|coauthors=|title=The Balkans: from Constantinople to communism|publisher=Palgrave Macmillan|year=2004|page=374|isbn=1403964173}}</ref><ref name="J. Barkley Rosser, Jr. 2004, p. 397">{{Cite book|last=Rosser|first=John Barkley|coauthors=Marina V. Rosser|title=Comparative economics in a transforming world economy
|publisher=MIT Press|year=2004|page=397|isbn=0262182343}}</ref><ref name="Christopher Chant 1986, p. 109">{{Cite book|last=Chant|first=Christopher|authorlink=|coauthors=|title=The encyclopedia of codenames of World War II|publisher=[[ラウトレッジ|Routledge]]|year=1986|page=109|isbn=0710207182}}</ref>
|leaders = [[ヨシップ・ブロズ・ティトー]]
|clans =
|headquarters = 可動
|area = [[枢軸国]]占領下の[[ユーゴスラビア]]
|strength = 80,000人 - 800,000人
|partof =
|previous =
|next = [[ユーゴスラビア人民軍]]
|allies = [[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]
|opponents = [[枢軸国]]([[ナチス・ドイツ]]、[[イタリア王国]]、[[クロアチア独立国]]、[[ブルガリア王国]]、[[チェトニク]]、[[バリ・コンベタル]]
|battles = [[ネレトヴァの戦い]]、[[スティエスカの戦い]]、[[ドルヴァル襲撃]]、[[ベオグラード攻勢]]、[[スレム戦線]]など
}}
ユーゴスラビアの'''パルティザン'''({{lang|sr|partizani / партизани}})<ref name=curtis>{{Cite book| last=Curtis|first=Glenn E.|title=Yugoslavia: A Country Study|publisher=[[アメリカ議会図書館|Library of Congress]]|year =1992|page=39|isbn=0844407356}}</ref>は、正式名称を'''ユーゴスラビア人民解放軍およびパルチザン部隊'''<ref>{{Cite book|last=Trifunovska|first=Snežana|title=Yugoslavia Through Documents:From Its Creation to Its Dissolution|publisher=[[:en:Martinus Nijhoff Publishers|Martinus Nijhoff Publishers]]|year=1994| page=209|isbn=0792326709}}</ref>([[スロベニア語]]:{{lang|sl|Narodnoosvobodilna vojska in partizanski odredi Jugoslavije}}、[[セルビア・クロアチア語]]:{{lang|sr|Narodnooslobodilačka vojska i partizanski odredi Jugoslavije / Народноослободилачка војска и партизански одреди Југославије}}、[[マケドニア語]]:{{lang|mk|Народноослободителна војска и партизанските одреди на Југославија}}、略称:'''{{lang|sr|NOV i POЈ / НОВ и ПОЈ}}''')といい、[[第二次世界大戦]]時の[[ユーゴスラビア]]における、[[枢軸国]]の支配に抵抗した[[共産主義|共産主義者]]主体の勢力である<ref name="Dennison I. Rusinow 1978, p. 2">{{Cite book|last=Rusinow|first=Dennison I.|authorlink=|coauthors=|title=The Yugoslav experiment 1948-1974|publisher=[[:en:University of California Press|University of California Press]]|year=1978|page=2|isbn=0520037308}}</ref>。パルティザンは、[[ユーゴスラビア共産主義者同盟|ユーゴスラビア共産党]]率いる[[人民解放戦線 (ユーゴスラビア)|人民解放戦線]]の軍であり<ref name="Sharon Fisher 2006, p. 27">{{Cite book|last=Fisher|first=Sharon|authorlink=|coauthors=|title=Political change in post-Communist Slovakia and Croatia: from nationalist to Europeanist|publisher=Macmillan|year=2006|page=27|isbn=1403972869}}</ref>、その最高意思決定機関は[[ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議]](AVNOJ)であり、[[ヨシップ・ブロズ・ティトー]]を最高指導者とする。


パルティザンはユーゴスラビアにおける共産主義国家の樹立を目指しており<ref>[[#refTomasevich2001|Tomasevich 2001]], p. 96.</ref>、ユーゴスラビア共産党はユーゴスラビアに住む全ての民族の権利を擁護し、全ての民族に対して支持を訴えた。パルティザンよりも数週間早く設立された、もう一つの反枢軸の抵抗組織に[[チェトニク]]があったが、チェトニクは[[カラジョルジェヴィチ家]]による王政の維持と、[[セルビア人]]の保護を目的としており<ref>[[#Milazzo_1975|Milazzo (1975)]], pp. 30-31</ref><ref>[[#Roberts_1973|Roberts (1973)]], p. 48</ref>、チェトニクが正当で歴史的なセルビア人の土地と考える地域における他民族に対する[[民族浄化]]を通じて[[大セルビア]]を確立することを目指していた<ref>[[#Tomasevich_1975|Tomasevich (1975)]], pp.166-178</ref><ref name="Banac 1996 p143">[[#Banac 1996|Banac (1996)]], p.143<br /><small>1941年夏以降、チェトニクはセルビア人の抵抗者を糾合し、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]東部において[[ムスリム人]]に対する残虐行為の数々を実行した。ムスリム人に対する虐殺は、ノドを切り、川に落とすといったものが多く、[[フォチャ (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|フォチャ]]や[[ゴラジュデ]]、[[チャイニチェ]]、[[ロガティツァ]]、[[ヴィシェグラード (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|ヴィシェグラード]]、[[ヴラセニツァ]]、[[スレブレニツァ]]や[[ドリナ川]]渓谷一帯などのボスニア東部で頻発したが、セルビア人の村が点在する[[ヘルツェゴビナ]]東部でも、1942年までは強固に抵抗を続けるセルビア人の活動があった。チェトニクの文書では、たとえば1942年6月に[[コトル・ヴァロシュ]]地区の[[ヤヴォリネ]]での会合の議事録に見られるように、「セルビア人ではないあらゆるすべてをボスニアから除去する」決定について述べられている。セルビア人チェトニクによる民族浄化の正確な被害者数を特定することは難しいが、数万人が殺害されたと考えられる</small></ref><ref name="Hirsch 2002 p76">[[#Hirsch 2002|Hirsch (2002)]], p.76</ref><ref name="Mulaj 2008 p71">[[#Mulaj 2008|Mulaj (2008)]], p.71</ref><ref>[[#Velikonja_2003|Velikonja (2003)]], p. 166</ref>。パルティザンとチェトニクの関係は当初より険悪であったが、1941年10月以降は全面的な衝突へと発展した。ティトーの汎民族主義は、チェトニクのセルビア人民族主義に反するものであり、チェトニクの王党主義は共産主義者のパルティザンには受け入られるものではなかった<ref>{{Cite web|url=http://www.bbc.co.uk/history/worldwars/wwtwo/partisan_fighters_01.shtml |title=Partisans: War in the Balkans 1941 -1945 |publisher=Bbc.co.uk |date= |accessdate=2011-11-19}}</ref>。
== 経緯 ==


彼らは一般に「パルティザン」あるいは「パルチザン」と呼ばれており、この名前からは[[ゲリラ]]勢力が想起されるが、彼らのゲリラ的な性質は最初の3年間でのことであった。1944年の終わりごろには、パルティザンの兵士の数は65万人におよび、4つの[[方面軍]]、52の[[師団]]を持つ軍隊組織となっていた<ref name=perica>{{Cite book|last=Perica|first=Vjekoslav| title=Balkan Idols: Religion and Nationalism in Yugoslav States|publisher=[[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]]|year=2004|page=96|isbn=0195174291}}</ref>。1945年4月にはパルティザンの兵士は80万人を数えるようになり、この時代のパルティザンは「人民解放軍」と呼ばれることが多い。


== 参考文献 ==
== 背景 ==
{{See also|バルカン半島の戦い}}
*[[柴宜弘]]編『バルカン史』山川出版社、1998年。
[[ファイル:Stjepan Filipovic.jpg|thumb|upright|パルティザンの戦士[[スティエパン・フィリポヴィッチ]]。彼は[[ヴァリェヴォ]]にて[[枢軸国]]勢力に処刑される直前、[[スムルト・ファシズム、スロボダ・ナロドゥ!|ファシズムに死を、人民に自由を]]({{lang|sr|Smrt fašizmu, sloboda narodu!}})と叫んだ。]]
*ロナルド・H・ベイリー著、タイムライフブックス編集部編『ライフ第二次世界大戦史 パルチザンの戦い』1979年。


1941年4月6日、[[ユーゴスラビア王国]]は四方より[[ユーゴスラビア侵攻|枢軸勢力の侵略]]を受けた。侵攻には[[ナチス・ドイツ]]のほかに、[[イタリア王国]]、[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]、[[ブルガリア王国]]が加わった。この時、[[ドイツ空軍]]による[[ベオグラード空爆 (第二次世界大戦)|ベオグラード空爆]]([[:en:Bombing of Belgrade in World War II|Bombing of Belgrade in World War II]])が行われた。侵略は10日前後で完了し、4月17日にユーゴスラビア王国軍は無条件降伏した。ユーゴスラビア王国軍は[[ドイツ国防軍]]と比べて装備が貧弱であったことに加え、あらゆる方面からいっせいに侵入する枢軸勢力と戦うにはあまりに規模が小さすぎた<ref>[[#Tomasevich 1975|Tomasevich (1975)]], p.64-70</ref>。
==ユーゴスラビアのパルチザンを描いた作品==
===小説===
*[[軽井沢洋一]]「[[宅配コンバット学園]]」


枢軸国によるユーゴスラビア支配は極めて過酷なものであり、ユーゴスラビアは領土をばらばらに解体された。[[ドイツ]]は[[スロベニア]]の主要部を併合し、また[[傀儡政権]]として設立された[[セルビア救国政府]]の領域を占領するとともに、[[クロアチア独立国]]などの傀儡国家に対しても影響力を及ぼした<ref name=britannica2>{{Cite web|url=http://www.britannica.com/eb/topic-1413183/Independent-State-of-Croatia|title=Independent State of Croatia|year=2010|publisher=Encyclopædia Britannica Online| accessdate=15 February 2010}}</ref>。[[クロアチア独立国]]はこんにちの[[クロアチア]]と[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、さらに[[セルビア]]の[[スレム]]地方を領土とした。[[ベニート・ムッソリーニ]]率いる[[イタリア王国]]はスロベニアの南部、[[コソボ]]、そして[[ダルマチア]]の沿岸部および[[アドリア海]]の島々を手に入れた。またイタリアは傀儡国家・[[モンテネグロ独立国]]を設置して支配下に置き、またイタリア王家はクロアチア独立国の王位を手に入れた。[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]は[[バラニャ (地方)|バラニャ]]や、[[バチュカ]]などの[[ヴォイヴォディナ]]の一部、クロアチアの[[メジムリェ郡|メジムリェ地方]]、スロベニアの[[プレクムリェ地方]]を併合した。[[ブルガリア王国]]は、こんにちの[[マケドニア共和国]]に相当する地域の大部分、およびセルビア東部とコソボの一部を併合した<ref>[[#Tomasevich 2001|Tomasevich (2001)]], pp. 61-63</ref>。ユーゴスラビア王国の解体とクロアチア独立国、モンテネグロ独立国、セルビア救国政府といった傀儡政権の樹立、枢軸国による占領と併合は、当時の国際法にも反するものであった<ref>{{Cite web|url=http://www.icrc.org/ihl.nsf/COM/380-600054?OpenDocument|title=Commentary on Convention (IV) relative to the Protection of Civilian Persons in Time of War, Part III Status and treatment of protected persons, Section III, Occupied territories, Article 47 Inviolability of Rights|year=1952|publisher=International Committee of the Red Cross, Geneva|accessdate=26 December 2011}}</ref>。
===映画===
*「[[ネレトバの戦い (映画)|ネレトバの戦い]]」(ヴェリコ・ブライーチ監督、1969年 出演:[[ユル・ブリンナー]]、[[オーソン・ウェルズ]]他)
*「[[ナバロンの嵐]]」(ガイ・ハミルトン監督、1978年 出演:[[ロバート・ショウ]]、[[ハリソン・フォード]]他)
*「[[アンダーグラウンド (映画)|アンダーグラウンド]]」([[エミール・クストリッツァ]]監督、1995年 出演:[[ミキ・マノイロヴィッチ]]他)


枢軸勢力による地域住民に対する過酷な支配により、パルティザンは住民の広範な支持を得ただけでなく、住民が生き残るための唯一の選択肢であった場合も多い。占領初期には、ドイツ軍は女性や子ども、老人を含む一般市民への無差別殺戮を各所で展開し、ドイツ兵1人の死亡につきセルビアの市民100人、ドイツ兵1人の負傷につき市民50人を殺害するという体制を取った。この他にも枢軸勢力やその協力者による蛮行はユーゴスラビア全土で繰り広げられた。[[クロアチア独立国]]の領土では[[ウスタシャ]]やドイツ軍による民族浄化などの蛮行が盛んに行われた。
===漫画===
*[[坂口尚]]「[[石の花_(坂口尚)|石の花]]」


ユーゴスラビア全土を取り巻くこうした無法状態の中、[[ユーゴスラビア共産主義者同盟|ユーゴスラビア共産党]]は反ファシズムの抵抗勢力を糾合し、全国的な抵抗運動へと組織化していった。[[ヨシップ・ブロズ・ティトー]]率いるユーゴスラビア共産党は戦間期の[[ユーゴスラビア王国]]で非合法化され、それ以降は地下活動を続けていた。
== 関連項目 ==
*[[ユーゴスラビア]]
*[[バルカン半島の戦い]]
*[[ヨシップ・ブロズ・チトー]]
*[[ユーゴスラビア共産主義者同盟]]
*[[チェトニック]]


==外部リンク==
== 活動初期 ==
1941年6月22日の[[バルバロッサ作戦]]によって枢軸勢力は[[ソビエト連邦]]への侵略を始めた<ref name= higgins>{{Cite book|title=Hitler and Russia|first=Trumbull|last=Higgins|publisher=The Macmillan Company|year=1966|pages=11–59, 98–151}}</ref>。ユーゴスラビアで初の共産主義者による抵抗者の軍事組織である[[シサク人民解放パルティザン部隊]]([[:en:Sisak People's Liberation Partisan Detachment|Sisak People's Liberation Partisan Detachment]])は、ドイツが[[ソビエト連邦]]に侵攻を始めた1941年6月22日に組織された。ティトーが率いる抵抗運動が初めて武装抵抗を始めたのは、この2週間後、セルビアでのことであった<ref name="cohen94">[[#refCohen1996|Cohen 1996]], p. 94.</ref>。
{{commonscat|Yugoslav Partisans}}
*[http://www.sabh.hr/ Alliance of Anti-fascist Fighters of Croatia]
*[http://www.ossog.org/balkans.html Office of Strategic Services - Balkan Operational Group]
*[http://www.army.mil/cmh-pg/books/wwii/balkan/intro.htm THE GERMAN CAMPAIGNS IN THE BALKANS (SPRING 1941)]
*[http://www.ibiblio.org/hyperwar/ETO/East/Balkans/Campaigns/Campaigns-1.html The German Campaigns in The Balkans Spring 1941]
*[http://www.geocities.com/freck0/index0.html Web site for the movie 'Partizanska Eskadrila']
*[http://www.wehrmacht-awards.net/war_badges/heer/anti_partisan_badge.htm Wehrmacht Anti-Partisan Operations Badge]


[[ユーゴスラビア共産主義者同盟|ユーゴスラビア共産党]]は7月4日、武装抵抗をはじめることを正式に決定し、この日は後の[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]において「戦士の日」として国民の祝日となった。7月7日、[[ジキツァ・ヨヴァノヴィッチ・シュパナツ]]([[:en:Žikica Jovanović Španac|Žikica Jovanović Španac]])が最初の一発の銃弾を放って、武装抵抗は始まった。この日付は後の[[セルビア社会主義共和国]]における国民の祝日・「蜂起の日」となった。

[[ファイル:Partisan youth execution.jpg|thumb|目隠しをされてドイツ軍に処刑される直前のパルティザン兵士。1941年8月20日、[[スメデレヴスカ・パランカ]]にて]]
8月10日、山中の村スタヌロヴィッチ({{lang|sr|Stanulović}})にて、パルティザン軍はコパオニク・パルティザン分隊総司令部を設置した。パルティザンによって解放された、スタヌロヴィッチと周辺の村々から成る領域は、「鉱夫共和国」と呼ばれ、42日間維持された。この地域の反乱軍は後にパルティザンの本隊に合流した。

[[ヨシフ・スターリン]]の誕生日にあたる1941年12月21日、ユーゴスラヴィア・パルティザンは第1プロレタリアート急襲旅団({{lang|sr|1. Proleterska Udarna Brigada}}, 1st Proletarian Assault Brigade)を組織した。この旅団は、拠点となる地域を超えて活動する能力を持つ、パルティザン初の常設の軍事組織である。1942年、パルティザンの各組織は公式に、'''ユーゴスラビア人民解放軍およびパルチザン部隊'''へと統合され、1942年12月の時点で23万6千人の兵士を擁するまでになった<ref name=time>{{Cite news|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,885272,00.html|title=Foreign News: Partisan Boom|date=3 January 1944 |publisher=Time |accessdate=15 February 2010}}</ref>。

== 戦闘 ==
{{Main|ユーゴスラビア人民解放戦争}}

=== 抵抗運動とそれに対する報復 ===
[[ファイル:Slavonski Korpus 1943.JPG|thumb|right|1943年、スラヴォニアで行軍するパルティザン兵士ら]]
パルティザンが枢軸勢力に対するゲリラ戦を始めた当初は、パルティザンの組織は小規模で、軍事訓練もされておらず、また装備も貧弱であった。しかし、ユーゴスラヴィア域内で活動する他の抵抗組織とくらべて、2つの点で優れていた。1つめに挙がるのは、パルティザンには少数ながらも無視できない数の[[スペイン内戦]]の経験者がおり、ユーゴスラヴィアの置かれている状況に似た環境での現代戦争の経験があったことである。2つめは、パルティザンは民族に基づかず[[イデオロギー]]に基づく集団であったため、多民族国家であるユーゴスラヴィアのすべての民族集団から一定数の支持を得ることができたという点である。これによってパルティザンはより多くの人々を対象に兵士を募集することができ、また域内での可動性を高めることができた。この利点は後になるにつれて大きくなっていった。

これに対してユーゴスラヴィアを占領する枢軸勢力やその協力者らはパルティザンの存在を大きな脅威と捉え、7回に及ぶ[[反パルチザン攻勢|対パルティザン攻勢]]などにより抵抗組織の破壊を試みた。

* [[第1次反パルチザン攻勢]]([[:en:First anti-Partisan Offensive|First anti-Partisan Offensive]])は、1941年秋に枢軸勢力によって行われた大規模攻勢であり、[[セルビア]]西部に成立したパルティザンによる解放区・[[ウジツェ共和国]]([[:en:Republic of Užice|Republic of Užice]])に対して行われた<ref>{{Cite web|url=http://www.vojska.net/eng/world-war-2/battles-and-operations|title=Battles & Campaigns during World War 2 in Yugoslavia|publisher=Vojska.net|accessdate=2011-12-26}}</ref>。1941年11月、[[ナチス・ドイツ]]はこの領域を攻撃して再占領し、パルティザン兵士の多くは[[ボスニア]]東部へと脱出した<ref>[[#Roberts 1973|Roberts(1973)]], p. 37</ref>。この戦闘のさなかに[[チェトニク]]とパルティザンによる脆弱な協力関係が崩壊し、それ以降は互いを公然と敵視するようになった<ref>[[#Tomasevich 1975|Tomasevich (1975)]], pp. 151-155</ref>。

* [[第2次反パルチザン攻勢]]([[:en:Second anti-Partisan Offensive|Second anti-Partisan Offensive]])は、1942年1月に枢軸勢力によってボスニア東部のパルティザンに対して行われた<ref>{{Cite web|url=http://www.vojska.net/eng/world-war-2/battles-and-operations|title=Battles & Campaigns during World War 2 in Yugoslavia|publisher=Vojska.net|accessdate=2011-12-26}}</ref>。パルティザンは包囲を破って[[サラエヴォ]]ちかくの[[イグマン山]]へと退却した<ref>[[#Roberts 1973|Roberts(1973)]], p. 55</ref>。

* [[第3次反パルチザン攻勢]]([[:en:Third anti-Partisan Offensive|Third anti-Partisan Offensive]])は1942年の春に枢軸勢力によって、ボスニア東部から[[モンテネグロ]]、[[サンジャク (地名)|サンジャク]]および[[ヘルツェゴヴィナ]]にかけて行われた<ref>{{Cite web|url=http://www.vojska.net/eng/world-war-2/battles-and-operations|title=Battles & Campaigns during World War 2 in Yugoslavia|publisher=Vojska.net|accessdate=2011-12-26}}</ref>。この攻勢はドイツ側では「トリオ作戦」と呼ばれたが、パルティザンは辛くも脱出に成功した<ref>[[#Roberts 1973|Roberts(1973)]], pp. 56-57</ref>。

* 第4次反パルチザン攻勢は、[[ネレトヴァの戦い]]、あるいはドイツ側では「白作戦」({{lang|de|Fall Weiß}})と呼ばれ、1943年1月から3月にかけて[[ボスニア]]西部から[[ヘルツェゴヴィナ]]北部にかけて行われた。枢軸勢力は解放区・[[ビハチ共和国]]([[:en:Republic of Bihać|Republic of Bihać]])の破壊を目的とし、パルティザンは[[ネレトヴァ川]]]を渡って南側へと脱出した<ref>[[#Roberts 1973|Roberts(1973)]], pp. 100-103</ref>。

* [[第5次反パルチザン攻勢]]([[:en:Fifth anti-Partisan Offensive|Fifth anti-Partisan Offensive]])は、スティエスカの戦い、あるいはドイツ側では「黒作戦」({{lang|de|Fall Schwarz}})と呼ばれる<ref>{{Cite web|url=http://www.vojska.net/eng/world-war-2/battles-and-operations|title=Battles & Campaigns during World War 2 in Yugoslavia|publisher=Vojska.net|accessdate=2011-12-26}}</ref>。ボスニア南東部からモンテネグロ北部にかけて、第4時攻勢の直後から始まった。

* [[第6次反パルチザン攻勢]]([[:en:Sixth anti-Partisan Offensive|Sixth anti-Partisan Offensive]])は、[[イタリアの講和 (第二次世界大戦)|イタリアが降伏]]に伴って撤退する[[アドリア海]]沿岸地域を引き続き確保するために[[ドイツ国防軍]]および[[ウスタシャ]]によって1943年の秋から1944年初頭にかけて行われた<ref>{{Cite web|url=http://www.vojska.net/eng/world-war-2/battles-and-operations|title=Battles & Campaigns during World War 2 in Yugoslavia|publisher=Vojska.net|accessdate=2011-12-26}}</ref>

* [[第7次反パルチザン攻勢]]([[:en:Seventh anti-Partisan Offensive|Seventh anti-Partisan Offensive]])は、1944年春にボスニア西部で行われた枢軸勢力による最後の対パルティザン大攻勢であり、レッセルシュプルング作戦({{lang|de|Operation Rösselsprung}})と呼ばれる軍事作戦や、[[ヨシップ・ブロズ・チトー|ティトー]]の殺害などによるパルティザン指導者の無力化を目的としていた<ref>{{Cite web|url=http://www.vojska.net/eng/world-war-2/battles-and-operations|title=Battles & Campaigns during World War 2 in Yugoslavia|publisher=Vojska.net|accessdate=2011-12-26}}</ref>。

これらの対パルティザン攻勢は、[[ドイツ国防軍]]や[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]](SS)、イタリア軍、ウスタシャ、[[チェトニク]]、ブルガリア軍などによって行われた。

=== 連合国の支援 ===
{{See also|テヘラン会談}}
連合国は当初、[[ドラジャ・ミハイロヴィッチ]]のチェトニクを支援していたが、後期にはパルティザンが形式的な支持や、一部の物資支援を受けるようになった。1942年には物資支援は限定的ではあったものの、チェトニクと並んでパルティザンは連合国の支援対象となった。

[[第5次反パルチザン攻勢]]の頃、イギリスの情報機関による報告では、パルティザンがドイツ軍に対して勇敢によく戦っていること、多くの負傷者が出ていること、支援が必要であることが述べられ、またドイツ国防軍第1山岳師団([[:en:1st Mountain Division (Wehrmacht)|1st Mountain Division]])がチェトニク支配下の領域を通行してロシアから移動してきていることが述べられている。また、ドイツ軍の通信を傍受した結果から、チェトニクがドイツに攻撃できない臆病者であると確信したとしている。この報告は連合国によるユーゴスラヴィア支援の方針を転換させるものとなった。1943年9月、[[ウィンストン・チャーチル]]の指示により、パルティザンと接触を図るために、イギリスの准将[[サー・フィッツロイ・マクリーン]]([[:en:Sir Fitzroy MacLean, 1st Baronet|Sir Fitzroy MacLean]])が[[ドルヴァル川]]近くに司令部を構えるティトーの元にパラシュート降下した。この頃、チェトニクは依然、連合国の支援を受けていたが、これ以降パルティザンもまた連合国の支援を受けられるようになった<ref name=martin>{{Cite book|last=Martin|first=David|title=Ally Betrayed: The Uncensored Story of Tito and Mihailovich|publisher=[[:en:Prentice Hall|Prentice Hall]]|page=34|year=1946}}</ref>。

[[テヘラン会談]]以降、パルティザンは公式にユーゴスラヴィアにおける解放軍として認められ、[[イギリス空軍]]はパルティザンへの物資支援および戦術的な航空支援を目的として[[バルカン空挺部隊]]([[:en:Balkan Air Force|Balkan Air Force]])を設立した。1943年11月24日の[[フランクリン・ルーズベルト]]と[[連合参謀本部]]の会談で、チャーチルは以下の点に言及した

{{Quote|22万2千人を数えるティトーの勢力に対してこれまでほぼ何の支援も取られなかったのは遺憾である(…)英米軍がローマ以南のイタリアで拘束した敵兵の数に匹敵するドイツ兵を、これらの勇敢な兵士たちはユーゴスラヴィアにおいて捕らえているのだ。イタリアの降伏によってドイツ軍は混乱に陥っている中、ユーゴスラヴィアの愛国者たちは沿岸部の広大な領土を確保している。しかし、我らはこの好機をのがしてきたのだ。ドイツ軍は体制を立て直し、次第にパルティザンを追い詰めつつある。この主因となっているのは、バルカン半島を分け隔てる責任分担の区分である(…)我らが何もしなくてもパルティザンがこれだけ大きな成果をもたらしてくれたことを考慮すれば、彼らの抵抗運動への支援を確かなものとし、降伏に追いやることのないようにすることには大きな重要性がある|[[ウィンストン・チャーチル]]、1943年11月24日<ref>Walter R. Roberts, ''Tito, Mihailović, and the Allies'' Duke University Press, 1987 ISBN 0822307731, p.165</ref>}}

=== 1943年-1945年:活動の拡大 ===
連合国による航空支援や[[赤軍]]による支援もあり、[[ウジツェ共和国]]の失敗以降目立って戦闘のなかったセルビアでも、1944年の後半にはパルティザンが支持を集めるようになった。1944年10月20日にはパルティザンと[[赤軍]]の共同による[[ベオグラード攻勢]]([[:en:Belgrade Offensive|Belgrade Offensive]])によって、[[ベオグラード]]が解放された。

1945年にはパルティザンの総数は80万人強に達しており<ref name=perica/>、激戦となった[[スレム]]戦線を制し、4月初旬には[[サラエヴォ]]を解放、[[クロアチア独立国]]軍や[[ドイツ国防軍]]を駆逐し、5月中旬にはクロアチア独立国の残りの領域とスロヴェニアを解放した。戦前はイタリア領であった[[リエカ]]および[[イストリア半島|イストラ半島]]を確保し、連合軍よりも2日早く[[トリエステ]]を占領した<ref>[[#Roberts_1973|Roberts (1973)]], p. 319</ref>。

第二次世界大戦のヨーロッパ最後の戦いであった[[ポリャナの戦い]]([[:en:Battle of Poljana|Battle of Poljana]])は、1945年5月14日から15日にかけて[[スロヴェニア]]の[[コロシュカ地方]]・[[プレヴァリェ]]にて発生し、パルティザンは退却中のドイツ国防軍やその協力者勢力と戦った。

== 軍種 ==
パルティザンには陸軍の他に海軍、空軍もあり、これはヨーロッパの非占領地域における[[レジスタンス運動]]では他に類を見ないことであった。

=== パルティザン海軍 ===
1942年9月19日に[[ダルマティア]]沿岸部のパルティザンが漁船を改造して海軍を設立したのが始まりで、その後規模を拡大しイタリア海軍およびドイツ海軍に対する勇敢な攻撃を遂行してきた。最大時には9隻から10隻の武装船、30の巡視船、200ちかくの支援船、6の砲台、多数の島嶼部のパルティザン分隊と3千人の兵力を擁した。1943年10月26日に4つの海軍管区(Pomorsko Obalni Sektor、Maritime Coastal Sector)が設置され、後に6つに拡張された。海軍の使命は制海権の確保、沿岸および島嶼部の防衛、敵の海上交通の破壊と島嶼部・沿岸部の敵への攻撃であった<ref>{{Cite web|url=http://www.vojska.net/eng/world-war-2/yugoslavia/navy/history/ |title=History of Partisan and Yugoslav Navy |publisher=Vojska.net |date= |accessdate=2011-11-19}}</ref>。

=== パルティザン空軍 ===
かつて[[ユーゴスラビア王国]]軍に属していた[[クロアチア独立国]]空軍のパイロット、[[フラニョ・クルズ]]([[:en:Franjo Kluz|Franjo Kluz]])および[[ルディ・チャヤヴェツ]]([[:en:Rudi Čajavec|Rudi Čajavec]])が、[[複葉機]][[ポテーズ 25]]および[[ブレゲー 19]]を伴ってボスニアでパルティザンに投降したことにより、パルティザンは1942年5月に空軍力を獲得した<ref name= donlagic>{{Cite book|last1=Đonlagić|first1=Ahmet|last2=Atanacković|first2=Žarko|last3=Plenča| first3=Dušan|title=Yugoslavia in the Second World War|publisher=Međunarodna štampa Interpress|page= 85|year=1967}}</ref>。2人のパイロットはその後、これらの爆撃機を使って枢軸勢力と戦った。空軍を運用するインフラストラクチャが十分ではなかったためにパルティザン空軍は短命に終わったものの、これは対独レジスタンスが空軍力を持った初めての出来事であった。<ref>{{Cite web|url=http://www.vojska.net/eng/world-war-2/yugoslavia/airforce/1943/ |title=Yugoslav Partisan Air Force in 1943 |publisher=Vojska.net |date= |accessdate=2011-11-19}}</ref>。その後、枢軸勢力から鹵獲した航空機などによってパルティザン空軍は再建され、後のユーゴスラビア空軍となる。

== 構成 ==
パルティザン運動への支持の広がりは、地域や民族ごとの人々の存亡の危機の度合いによって、温度差があった。パルティザンによる最初の反乱は、1941年6月22日にクロアチアの、[[シサク]]と[[ザグレブ]]の間にある[[ブレゾヴィツァ]](Brezovica)の森にて、40人のパルティザン兵士によって起こされた<ref name="cohen94"/>。セルビアではこの2週間後にティトーの指揮による初の反乱が引き起こされたが、枢軸勢力によって速やかに鎮圧され、セルビアにおけるパルティザンへの支持は低下した。1943年に枢軸勢力に対する武装抵抗が拡大されるまで、セルビアではパルティザンへの支持は低迷を続けた<ref>{{Cite web|last=Hart|first=Stephen|title=BBC History|url=http://www.bbc.co.uk/history/worldwars/wwtwo/partisan_fighters_01.shtml#two|publisher=Partisans : War in the Balkans 1941 - 1945|publisher=BBC|accessdate=12 April 2011}}</ref>。セルビアやその他の地域におけるパルティザンの勢力拡大は、1944年8月17日にティトーが枢軸勢力の協力者に対する恩赦を決めたことによるところもあり、多くのチェトニクの兵士などがパルティザンに転向した。ドイツ軍が[[ベオグラード]]から撤退した1944年11月21日、および1945年1月15日にも枢軸協力者に対する恩赦が実施されている<ref>[[#refCohen1996|Cohen 1996]], p. 61.</ref>。

枢軸の傀儡政権である[[クロアチア独立国]]占領下における[[セルビア人]]に関しては、セルビアとは状況は大きく異なっていた。王党派でセルビア民族主義のチェトニクは、ウスタシャがセルビア人に対してとる蛮行と同様の行為を非セルビア人に対して繰り返しており<ref name="Cohen 95">[[#refCohen1996|Cohen 1996]], p. 95.</ref>、クロアチア独立国占領下のセルビア人の間ではそうしたチェトニクよりも多民族混成のパルティザンへの支持が優勢であり、彼らはチェトニク対してセルビア人どうしで衝突することとなった<ref>[[#refJudah2000|Judah 2000]], p. 119.</ref>。同様にパルティザンを支持するクロアチア人はウスタシャに対してクロアチア人どうしでの衝突が起こった。

[[アメリカ合衆国]]ホロコースト記念博物館百科事典には、パルティザンの多民族性について以下のように記されている:

<blockquote>分断されたユーゴスラビアにおけるパルティザンの抵抗運動は、ドイツ占領下のスロヴェニアではスロヴェニアによる小規模な破壊工作が主であった。セルビアではかつてユーゴスラビア王国軍の大佐であった[[ドラジャ・ミハイロヴィッチ]]率いるチェトニク運動が広がった。しかし1941年6月の壊滅的な蜂起失敗のあと、チェトニクは枢軸勢力との衝突を避けるようになった。共産主義者が支配するパルティザンはヨシップ・ティトーが指揮する多民族の抵抗勢力であり、セルビア人、クロアチア人、[[ボシュニャク人]]([[セルビア・クロアチア語]]を話す[[ムスリム]])、[[ユダヤ人]]、[[スロヴェニア人]]などによって構成されている。主にボスニア北部やセルビア北西部を拠点とし、ティトー率いるパルティザンは、最も継続的にドイツ軍やイタリア軍と戦い、1945年にドイツ軍をユーゴスラビアから駆逐する際に主要な役割を果たした。<ref>{{Cite web|url=http://www.ushmm.org/wlc/en/article.php?ModuleId=10007332 |title=Encyclopedia of the Holocaust, the United States Holocaust Memorial Museum |publisher=Ushmm.org |date=2011-01-06 |accessdate=2011-11-19}}</ref></blockquote>

=== 民族別 ===
[[ファイル:Tito i prva proleterska.jpg|thumb|パルティザンの最高司令官、ヨシップ・ブロズ・ティトーが第1プロレタリアート旅団を閲兵]]
ティトーによると、1944年5月時点のパルティザンの民族別の内訳は、セルビア人が44%、クロアチア人が30%、スロヴェニア人が10%、モンテネグロ人が5%、[[ボシュニャク人]]が2.5%であった<ref name="Ramet 153">[[#refRamet2006|Ramet 1996]], p. 153.</ref>。

=== 地域別 ===
1945年4月の時点で、パルティザンの兵力は80万人程度に及んでいた。1941年から1944年にかけての兵力の推移は以下のとおりである:<ref>[[#refCohen1996|Cohen 1996]], p. 96.</ref>
{|class="wikitable" style="text-align:right;" width="500px"
!!! 1941後期 !! 1942後期 !! 1943年9月 !! 1943後期 !! 1944年後期
|-
|align=left|ボスニア・ヘルツェゴヴィナ || 20,000 || 60,000 || 89,000 || 108,000 || 100,000
|-
|align=left|クロアチア || 7,000 || 48,000 || 78,000 || 122,000 || 150,000
|-
|align=left|コソヴォ || 5,000 || 6,000 || 6,000 || 7,000 || 20,000
|-
|align=left|マケドニア || 1,000 || 2,000 || 10,000 || 7,000 || 66,000
|-
|align=left|モンテネグロ || 22,000 || 6,000 || 10,000 || 24,000 || 30,000
|-
|align=left|中央セルビア || 23,000 || 8,000 || 13,000 || 22,000 || 204,000
|-
|align=left|スロヴェニア || 1,000 || 19,000 || 21,000 || 25,000 || 40,000
|-
|align=left|ヴォイヴォディナ ||1,000 || 1,000 || 3,000 || 5,000 || 40,000
|-
! 合計 || 80,000 || 150,000 || 230,000 || 320,000 || 650,000
|}

[[ファイル:IV crnogorska proleterska brigada.JPG|thumb|left|第4モンテネグロ・プロレタリアート旅団]]
パルティザンはユーゴスラヴィアの全ての人民による[[人民戦線]]を掲げ、[[共産主義]]を標榜する組織であった。例えばボスニアにおいては、パルティザンはセルビア人でもクロアチア人でもムスリムでもなく、すべての人々の平等のための自由と兄弟愛を訴えかけた<ref>[[#refJudah2000|Judah 2000]], p. 120.</ref>。しかしなお、ユーゴスラヴィア・パルティザンにおいて[[セルビア人]]は最大の民族別比率を占めていた<ref>''Century of genocide: critical essays and eyewitness accounts'', Samuel Totten, William S. Parsons, 430.</ref><ref>''Between past and future: civil-military relations in the post-communist Balkans'',Biljana Vankovska, Håkan Wiberg, 197.</ref>。

他方で、ユーゴスラヴィアにおけるもうひとつの反独抵抗組織であった[[チェトニク]]は、セルビア人を主体とするセルビア人民族主義の組織であり、セルビア人以外への訴求力はなかった。チェトニクはボスニア東部においてムスリムに対する[[民族浄化]]作戦を行っており、ムスリムやクロアチア人の加入を排除した<ref>[[#refJudah2000|Judah 2000]], p. 129.</ref>。また、ダルマティア北部では、ダルマティアを支配し同地に対する領土的野心を持っていた[[イタリア]]がチェトニクと協力したことがあり、これによってパルティザンを支持する多数のクロアチア人が殺害される蛮行が引き起こされた。一例として、[[スプリト]]近郊のガラ(Gala)をチェトニクが襲撃した際には、200人の市民が殺害された<ref>[[#refJudah2000|Judah 2000]], p. 128.</ref>。[[ベニート・ムッソリーニ]]によるダルマティアの強制的なイタリア化政策が取られた1941年後期には、クロアチア人パルティザンの数が大幅に増加している。

この他の地域では、パルティザンを純粋にセルビア人のみの組織と考える一部のセルビア人パルティザンによって、クロアチア人などの加入が排除され、またクロアチア人の村が襲撃されることがあった<ref name="Cohen 95"/>。[[サラエヴォ]]の[[ユダヤ人]]の青年らがカリノヴニク(Kalinovnik)のパルティザン分隊に加入しようとした際、セルビア人パルティザンらがこれを排除して青年らをサラエヴォに差し戻し、その後彼らの多くが枢軸勢力に捕らえられ殺害された<ref>[[#refCohen1996|Cohen 1996]], p. 77.</ref>。クロアチア人ファシスト組織である[[ウスタシャ]]によるセルビア人への蛮行は、セルビア人をゲリラ戦へと向わせる強い動機となり、多くのセルビア人がパルティザン兵士となった<ref>[[#refJudah2000|Judah 2000]], p. 127-128.</ref>。

連合国の勝利が明らかになった時には、ユーゴスラヴィアの非セルビア人の住民らは、セルビア人民族主義を志向する[[ユーゴスラビア王国]]の王党派よりも、パルティザンのほうがより良い未来をもたらすもの考えていた。

==== ボスニア・ヘルツェゴヴィナ ====
[[File:Bosnian-Herzegovinian Partisans flag.svg|thumb|right|ボスニア・ヘルツェゴヴィナのパルティザンによって使用された、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国|ボスニア・ヘルツェゴヴィナ国]]の国旗]]
1942年初期までは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのパルティザンの大部分はセルビア人のみであり、チェトニクとも協力関係にあった。ヘルツェゴヴィナ東部およびボスニア西部のパルティザンの一部は[[ボシュニャク人]](ムスリム人)の加入を拒否していた。ボスニアのムスリムたちにとって、こうしたパルティザンの言動はチェトニクのそれと大きく変わらないと映っていた。しかし、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの一部の地域では初期の段階からクロアチア人やムスリムがパルティザンに加わっており、ボスニア北西部の[[コザラ山]]([[:en:Kozara (mountain)|Kozara]])やサラエヴォ近くの[[ロマニヤ]]地方ではこうした傾向が見られた。コザラでは、1941年末の時点で兵士の25%がクロアチア人やボシュニャク人であった<ref>[[#Tomasevich_2001|Tomasevich (2001)]], pp. 506-507</ref>。

1943年後期の時点で、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのパルティザンの70%はセルビア人、30%がクロアチア人およびボシュニャク人であった<ref name="Hoare 10">[[#refHoare2006|Hoare 2006]], p. 10.</ref>戦争の期間全体を通してのボスニア・ヘルツェゴヴィナのパルティザンのうち、64.1&はセルビア人、23%はボシュニャク人、8.8%はクロアチア人であった<ref name="Hoare 10"/>。

==== クロアチア ====
[[File:Croatian Partisans flag.svg|thumb|right|クロアチアのパルティザンによって使用された、[[クロアチア社会主義共和国|クロアチア国]]の国旗]]
1941年および1942年において、クロアチアのパルティザンの主流を占めているのはセルビア人であったが、1943年10月の時点ではクロアチア人が多数派となっている。[[クロアチア農民党]]([[:en:Croatian Peasant Party|Croatian Peasant Party]])の[[ボジダル・マゴヴェツ]]({{lang|hr|[[:hr:Božidar Magovac|Božidar Magovac]]}})が1943年6月にパルティザンに加入したことも、およびイタリアが降伏したこともこの一因と考えられる<ref>[[#Tomasevich_2001|Tomasevich (2001)]], pp. 362-363</ref>。

クロアチアにおいて、パルティザン運動はクロアチア社会の主流にまで食い込み、1943年の時点でクロアチア出身のパルティザンの多数を[[クロアチア人]]が占めるようになった。1944年後期の統計によると、クロアチア出身のパルティザン兵士の61%はクロアチア人、28%はセルビア人であり、クロアチアの民族別人口比率に比べるとセルビア人の割合が多いものの、クロアチア人が多数を占めていたことがわかる<ref name="Cohen 95"/><ref name=strugar>{{Cite book|last=Strugar|first=Vlado|title=Jugoslavija 1941-1945|publisher= Vojnoizdavački zavod|year=1969}}</ref><ref name=anic>{{Cite book|last1=Anić|first1=Nikola|last2= Joksimović|first2=Sekula|last3=Gutić|first3=Mirko|title=Narodnooslobodilačka vojska Jugoslavije| publisher=Vojnoistorijski institut|year=1982}}</ref><ref name=vukovic>{{Cite book|last1=Vuković| first1=Božidar|last2=Vidaković|first2=Josip|title=Putevim Glavnog štaba Hrvatske|year=1976}}</ref>。枢軸勢力への協力を止めてパルティザンに加われば敵通の罪を免除するとする恩赦が1944年9月15日に発令され、これによってクロアチア人のパルティザン参加が拡大した。

1941年末の時点でクロアチアのパルティザンの77%はセルビア人、21.5%はクロアチア人やその他の民族であった。クロアチアのパルティザンにおけるクロアチア人の比率は1942年8月には32%、1943年9月には34%にまで上昇した。イタリアの降伏後にはクロアチア人の兵士数は急増し、1944年末には60.4%がクロアチア人、セルビア人が28.6%、ボシュニャク人が2.8、その他が8.2%となった<ref>Goldstein. ''Serbs and Croats in the national liberation war in Croatia''. , p. 266-267.</ref><ref name="Ramet 153"/>1941年から1945年の全体を通して、クロアチアのパルティザンの61%はクロアチア人であり、その他にはスロヴェニア人、ボシュニャク人、[[モンテネグロ人]]、[[イタリア人]]、[[ハンガリー人]]、[[チェコ人]]、[[ユダヤ人]]、[[ドイツ人]]などがいた<ref name="Cohen 95"/>。

クロアチアのパルティザンはユーゴスラヴィアのパルティザン全体の中で重要な比率を占めていた。クロアチアの人口はユーゴスラヴィア全体の24%であったが、クロアチア出身のパルティザン兵士の数はセルビア、モンテネグロ、スロヴェニア、マケドニア(4地域合計でユーゴスラヴィアの人口の59%に達する)の出身者よりも数が多かった<ref name="Cohen 95"/>。また、クロアチアのパルティザンの特色としてユダヤ人の比率が高かったことが挙げられる。彼らは1943年初期の時点で、枢軸勢力に対抗するクロアチア全体の最高意思決定機関として[[クロアチア人民解放国家反ファシスト委員会]](ZAVNOH)を設立した。これは、ヨーロッパにおける反枢軸レジスタンスの中で初めてのことであった。ZAVNOHの最後の会合は1945年7月24日-25日に[[ザグレブ]]で行われ、この会合にて自身を[[クロアチア議会]]へと改組することが決議された<ref name=Jelic>{{Cite book|last1=Jelic|first1=Ivan| title=Croatia in War and Revolution 1941-1945|publisher=Zagreb: Školska knjiga|year=1978}}</ref>。

==== スロヴェニア ====
[[ファイル:Flag of the Liberation Front.gif|thumb|right|スロヴェニアのパルティザンによって使用された、[[スロベニア人民解放戦線]]の旗]]
[[ファイル:Triglavka.jpg|thumb|right|「[[トリグラウ山|トリグラウ]]型」の帽子]]
初期のころは、スロヴェニアにおけるパルティザンの勢力は小さなもので、インフラストラクチャを持たず、装備も貧弱であったが、ゲリラ戦の経験を有する[[スペイン内戦]]の経験者が含まれていた。スロヴェニアにおけるパルティザンは、[[スロベニア人民解放戦線]]([[:en:Liberation Front of the Slovene Nation|Liberation Front of the Slovene Nation]])の軍事部門に位置づけられており、スロベニア人民解放戦線は1941年4月26日にイタリア占領下の領域([[リュビアナ州]]、[[:en:Province of Ljubljana|Province of Ljubljana]])で設立され、当初は複数の左翼系組織が合同したものであった。戦時中、次第に[[スロベニア共産党|スロヴェニア共産党]]の影響力が強まり、1943年3月1日の[[ドロミティ宣言]]([[:en:Dolomiti Declaration|Dolomiti Declaration]])により共産党の指導性が公式化された<ref name="Gow2010-48">{{Cite book|title=Slovenia and the Slovenes: A Small State in the New Europe |last=Gow |first=James |coauthors=Carmichael, Cathie |edition=Revised and updated |year=2010 |publisher=Hurst Publishers Ltd |isbn=978-1-85065-944-0 |page=48}}</ref>。人民解放戦線のメンバーの一部は[[TIGR]]([[:en:TIGR|TIGR]])の出身であった。

スロヴェニア人民解放戦線に加わる全ての政治組織の代表者は人民解放戦線最高総会に参加し、スロヴェニアにおける抵抗運動を指導した。最高総会は1943年10月3日、[[コチェーヴィエ]]にて120人から成る人民解放会議のメンバーを選出した([[コチェーヴィエ総会]])。最高総会はスロヴェニアの反ファシスト勢力の最高意思決定機関として機能し、その代表者は[[ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議]]の第2回会合にも出席し、ユーゴスラビアを連邦制としスロヴェニアをその構成国と位置づけられた。1944年2月19日の[[チュルノメリ]]での会合時に、最高総会は[[スロベニア人民解放委員会]]へと改組され、その後[[スロベニア社会主義共和国|スロヴェニア国]]の議会へと改組された。

スロヴェニアのパルティザンは独自の組織を持ち、その指揮には[[スロベニア語]]が用いられた。1942年から1944年までの間、[[トリグラウカ]]([[:en:Triglavka|Triglavka]])と呼ばれる帽子が使用されていたが、その後[[ティトヴカ]]([[:en:Titovka (cap)|Titovka]])に置き換えられた<ref name="Vukšić2003">{{Cite web|url=http://books.google.com/books?id=SLix5hc4WRgC&pg=PA21&dq=%22triglav+cap%22+partisan |title=Tito's partisans 1941–45 |last=Vukšić |first=Velimir |year=2003 |month=July |publisher=Osprey Publishing |isbn=9781841766751 |page=21|accessdate=2012-4-2}}</ref>。1945年3月、スロヴェニアのパルティザン部隊は正式に[[ユーゴスラビア人民軍]]へと編入され、独自組織としての幕を閉じた。

スロヴェニアのパルティザン運動は、ティトーに率いられたユーゴスラビア中南部のパルティザンとは別に、1941年に独自に始まったものである。1942年9月、ティトーは初めてスロヴェニアの抵抗運動への指導権獲得を試みた。1943年4月にティトーによりスロヴェニアに送り込まれた[[アルサ・ヨヴァノヴィッチ]]は、スロヴェニアの抵抗運動の統制獲得を試みたが失敗に終わっている。スロヴェニアの抵抗運動のティトー・パルティザンへの統合は1944年に実現された<ref>{{Cite book|url=http://books.google.si/books?id=qwBUkHaz76QC&dq=James+Stewart.+%22Slovenia%22 |title=Slovenia |last=Stewart |first=James |editor=Linda McQueen |publisher=New Holland Publishers |year=2006 |isbn=9781860113369 |page=15}}</ref><ref>{{Cite book|url=http://books.google.si/books?id=ORSMBFwjAKcC&dq=The+former+Yugoslavia%27s+diverse+peoples:+a+reference+sourcebook&source=gbs_navlinks_s |title=The former Yugoslavia's diverse peoples: a reference sourcebook |chapter=Histories of the Individual Yugoslav Nations |publisher=ABC-Clio, Inc |year=2004 |pages=167–168}}</ref>。

1943年12月、オーストリアからわずか数時間の場所に位置する困難な岩地のうえに[[フラニャ・パルティザン病院]]([[:en:Franja Partisan Hospital|Franja Partisan Hospital]])を設置した。また、ラジオ・クリチャチュ({{lang|sl|Kričač}})と呼ばれる秘密のラジオ局を設置し、放送を発信していた。

=== 死傷者 ===
パルティザンは最終的な勝利を収めたものの、多くの死傷者を出してきている。1941年7月7日から1945年5月16日までのパルティザンの死傷者数は以下のとおりである:<ref name=strugar/><ref name=anic/><ref name= vukovic/>

{| class="wikitable" style="text-align:right; width:500px;"
|-
!!! 1941年 !! 1942年 !! 1943年 !! 1944年 !! 1945年 !! 合計
|-
|align=left|戦闘により死亡 || 18,896 || 24,700 || 48,378 || 80,650 || 72,925 || 245,549
|-
|align=left|戦闘により負傷 || 29,300 || 31,200 || 61,730 || 147,650 || 130,000 || 399,880
|-
|align=left|負傷により死亡 || 3,127 || 4,194 || 7,923 || 8,066 || 7,800 || 31,200
|-
|align=left|戦闘中により行方不明 || 3,800 || 6,300 || 5,423 || 5,600 || 7,800 || 28,925
|}

== 救出作戦 ==
パルティザンは、地域に墜落した連合軍兵士の救出でも多数の実績をあげている。例えば、1944年1月1日から10月15日までの間に、アメリカ合衆国空軍士官救出隊(US Air Force Air Crew Rescue Unit)の取りまとめによると、1152人のアメリカ兵士がユーゴスラビアから救出されており、うち795人がパルティザン、356人がチェトニクによるものであった<ref>{{Cite book|last=Leary|first=William Matthew|title=Fueling the Fires of Resistance: Army Air Forces Special Operations in the Balkans during World War II|year=1995|publisher=Government Printing Office|isbn=0-16-061364-7|page=34}}</ref>。スロヴェニアのパルティザンは303人のアメリカ兵士、389人のイギリス兵士および捕虜、120人のフランスその他の捕虜や強制労働服務者を救出している<ref>[[#refTomasevich2001|Tomasevich 2001]], p. 115.</ref>。

パルティザンはまたドイツの捕虜収容所からの連合軍兵士の脱出の支援もしていた(主にオーストリア南部の収容所からの脱出者を支援した)。脱出に成功した兵士の大部分はスロヴェニアを縦断して[[セミチ]]から空輸にて救出され、また一部は更に[[クロアチア]]を経由して[[イタリア]]の[[バーリ]]へと海路で救出された。1944年春、スロヴェニアに送られたイギリス軍の使節は、捕虜収容所からの脱出が「ゆっくり、漏れ出すように」続いていたことを報告している。兵士らは地元の市民の協力の下、[[ドラーヴァ川]]にてパルティザンと接触し、ユーゴスラヴィア脱出までパルティザンの保護を受けられた。

=== オジュバルト襲撃 ===
1944年8月に行われたパルティザンによる軍事作戦では、132人の連合軍の兵士が一挙に救出され、この事件は[[オジュバルト襲撃]]([[:en:Raid at Ožbalt|Raid at Ožbalt]])と呼ばれる。

1944年6月、連合軍はオーストリア南部の収容所からユーゴスラヴィアを経て脱出する連合軍兵士への支援に乗り出した。連合軍はスロヴェニア北部、[[マリボル]]の北50キロメートルほどの、オーストリアのすぐ南に位置する[[オジュバルト]]([[:en:Ožbalt|Ožbalt]])に監視哨を設置した。この近くにはドイツが設置した労働収容所があり、スロヴェニア・パルティザンはここを襲撃して全ての囚人を解放した。

100人を超える戦争捕虜たちは、マリボルの[[スタラクXVIII-D]]([[:en:Stalag XVIII-D|Stalag XVIII-D]])の管理下に置かれ、毎日鉄道修復の作業をし、夜に収容所に戻る生活をしていた。パルティザンはこの捕虜と接触し、8月30日の15時に監視の目をかいくぐって7人の捕虜が脱出に成功し、21時には国境よりスロヴェニア側に8キロメートルのところにある村でパルティザンから脱出を祝福されていた<ref name=mason>{{Cite book|last1=Mason|first1=Walter W.|last2=Kippenberger|first2=Howard K.|title= Prisoners of War|publisher=Historical Publications Branch|page=383|year=1954}}</ref>。7人の脱走捕虜はパルティザンと共に残された捕虜たちの解放を計画した。31日の朝、7人は100人程度のパルティザンとともに、労働のために捕虜を運ぶ列車の到着を待った。捕虜たちの労働が始まるとパルティザンは襲撃を開始し、監視しているドイツ人らを無力化し、捕虜たちはパルティザンの保護の下脱走に成功した。

捕虜たちはパルティザンの司令部のキャンプに到着すると、132人の囚人が脱出に成功した旨をイギリスに伝達した。ドイツ軍のパトロールは重厚で、脱出経路の確保は困難を極め、パトロール中のドイツ軍の夜襲によって2人の脱走捕虜と2人の護衛が死亡する事態も起こった。最終的に脱走捕虜は[[ベラ・クライナ地方]]の[[セミチ]]にあるパルティザンの空軍基地に到達し、1944年9月21日にイタリアの[[バーリ]]に帰還した<ref name=mason/>。

== 終戦後 ==
{{Main|ユーゴスラビア社会主義連邦共和国}}
ユーゴスラヴィアは、第二次世界大戦において自力で自国を解放した数少ない国のひとつであった。[[ベオグラード攻勢]]([[:en:Belgrade Offensive|Belgrade Offensive]])を始めとするセルビアの解放では[[赤軍]]の支援を受け、また1944年中期以降はイギリスを中心とする[[バルカン航空部隊]]からの継続的な航空支援を受けていたが、支援は限定的であった。終戦の時点において、ユーゴスラヴィアの域内には外国の軍隊はいなかった。こうした事実は、その後の[[冷戦|冷戦期]]においてユーゴスラヴィアが東西陣営から一定の距離を保って自立することができた一因である。

1947年から48年にかけて、[[ソビエト連邦]]はユーゴスラヴィアへの指導権の確保を試みたが失敗し、[[ティトー=スターリン決別]]([[:en:Tito-Stalin split|Tito-Stalin split]])を招いた。ユーゴスラヴィアとソビエト連邦の関係が悪化したこの時期に、アメリカおよびイギリスはユーゴスラヴィアの[[北大西洋条約機構]]を検討したが、1953年の[[トリエステ]]危機によって西側諸国とユーゴスラヴィアの関係が悪化し([[トリエステ自由地域]])、また1956年にソビエト連邦との関係回復が図られたため、西側諸国入りすることもなかった。その後ユーゴスラヴィアは崩壊時まで[[非同盟]]外交路線を堅持した。

=== 報復行為 ===
終戦直後の時期、一部地域の住民やパルティザン兵士による枢軸勢力の同調者、協力者、ファシストに対する報復行為が発生した。その顕著な例が[[ブライブルク虐殺]]([[:en:Bleiburg massacre|Bleiburg massacre]])、[[フォイベの虐殺]]([[:en:foibe massacres|foibe massacres]])、[[バチュカ虐殺]]([[:en:1944-1945 killings in Bačka|killings in Bačka]])などであった。

ブライブルクの虐殺では、西側諸国に降伏するためにオーストリア南部に向かった[[チェトニク]]やスロヴェニア人の[[ドモブランツィ]]([[:en:Slovene Home Guard|Slovene Home Guard]])、[[クロアチア独立国]]軍の兵士に対して報復行為が行われた。フォイベの虐殺とは、パルティザンの第8ダルマティア軍団やファシストに憤る市民らによって、イタリア人ファシストやその協力者、同調者、分離主義者と目された人々が殺害され、フォイベ([[:en:foibe|foibe]])と呼ばれる洞穴に投げ込まれた事件である。それまで[[イストリア半島|イストラ半島]]は長くイタリアの統治下に置かれ、非イタリア人は抑圧下に置かれていた。1993年に発足したイタリア人とスロヴェニア人の混成の歴史家委員会はイタリア領およびスロヴェニア領で発生した事件を調査した。それによると、虐殺の対象は、各個人の責任よりも立場上のファシズムとの近さに基づいたもので、共産主義政府にとって真に有害な者のみならず、その疑いのある者や潜在的な可能性を持つ者を一掃することに重点を置いたものであったとしている<ref>{{Cite web|url=http://www.kozina.com/premik/indexeng_porocilo.htm |title=Slovene-Italian historical commission |publisher=Kozina.com |date= |accessdate=2011-11-19}}</ref>。[[バチュカ]]の虐殺は、ハンガリー人のファシストや協力者、その疑いのあるものを対象とした同種の虐殺である。

また、各地のパルティザンの命令系統の整合性にも問題があった。例えば、スロヴェニア・[[アイドフシュチナ]]のパルティザンは退却中のドイツ軍との間でこれ以上の戦闘をしないことを合意し、ドイツ軍は武装解除した。しかし、その後ユーゴスラヴィアの別の地域から来たパルティザン部隊が、非武装化されたドイツ軍を銃殺した。

しかし、ドイツ人やイタリア人、ファシスト協力者らに対するこうした報復殺害の数は、最大限に多く見積もっても枢軸勢力による死者数よりははるかに少ないものであった。ドイツやイタリア、ウスタシャやチェトニクなどと異なり、パルティザンは[[ジェノサイド]]の戦略を持たず、全てのユーゴスラヴィアの諸民族の「[[兄弟愛と統一]]」を基本原則に掲げていた。枢軸勢力による占領の期間中、軍人・民間人あわせて90万人から150万人がファシストの犠牲となっている<ref>[[#Tomasevich 2001|Tomasevich (2001)]], p. 737</ref>。

このパルティザンの暗黒史は、[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]では1980年代末期までタブーであり、公的機関がパルティザンの犯罪行為に対して沈黙を貫いたことにより、民族主義者らがプロパガンダ目的で好き勝手に数字を誇張できる状態になってしまった<ref name=macdonald>{{Cite book|last=MacDonald|first=David B.|title=Balkan Holocausts?: Serbian and Croatian Victim Centred Propaganda and the War in Yugoslavia|publisher=[[:en:Manchester University Press|Manchester University Press]]|year=2002| isbn=0719064678}}</ref>。

== 装備 ==
初期のパルティザンの装備の一部は、敗退した[[ユーゴスラビア王国軍]]([[:en:Royal Yugoslav Army|Royal Yugoslav Army]])のものが使用された。パルティザンは戦闘中、手に入るあらゆる武器を使用して戦った。それらは主にドイツ軍、イタリア軍、クロアチア独立国軍、ウスタシャ、チェトニクから鹵獲したものであり、[[Kar98k]]、[[MP40]]、[[ラインメタル/マウザー・ヴェルケMG34機関銃|MG34]]、カルカノ銃、[[カービン]]、ベレッタ機関銃などであった。後期には[[イギリス]]や[[ソビエト連邦]]からの供給を受け、[[PPSh-41]]や[[ステン短機関銃|ステン]]MKIIなどが投入された。これに加えて、パルティザンは既存の軍需工場を活用して自ら武器を製造しており、製造された武器は「パルティザン・ライフル」、「パルティザン対戦車迫撃砲」などと呼ばれた。

== 文化的影響 ==
[[ファイル:Dolina heroja-Spomenik-Tjentiste2.JPG|thumb|[[ボスニア・ヘルツェゴヴィナ]]・[[スティエスカ]]にある、[[スティエスカの戦い]]の記念碑]]
パルティザンは[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]の芸術家、作家などにとって重要なテーマとして取り上げられた。パルティザンはユーゴスラヴィアの文化に大きな影響をもたらしており、彼らの戦いは、本人たちの回顧録を通じて鮮明に記録され、後に[[ユレ・カシュテラン]]({{lang|hr|[[:hr:Jure Kaštelan|Jure Kaštelan]]}})、[[ヨジャ・ホルヴァト]]([[:en:Joža Horvat|Joža Horvat]])、[[オスカル・ダヴィチョ]]([[:en:Oskar Davičo|Oskar Davičo]])、[[アントニイェ・イサコヴィッチ]])([[:en:Antonije Isaković|Antonije Isaković]])、[[ブランコ・チョピッチ]]([[:en:Branko Ćopić|Branko Ćopić]])、[[イヴァン・ゴラン・コヴァチェヴィッチ]]([[:en:Ivan Goran Kovačić|Ivan Goran Kovačić]])、[[カレル・デストヴニク・カユフ]]([[:en:Karel Destovnik Kajuh|Karel Destovnik Kajuh]])、[[ミハイロ・ラリッチ]]([[:en:Mihailo Lalić|Mihailo Lalić]])、[[エドヴァルド・コツベク]]([[:en:Edvard Kocbek|Edvard Kocbek]])、[[トネ・スヴェティナ]]([[:sl:Tone Svetina|Tone Svetina]])、[[ヴィトミル・ズパン]]([[:en:Vitomil Zupan|Vitomil Zupan]])を始めとして、多くの文学作品に取り上げられた。

[[ヴラディミル・デディイェル]]([[:en:Vladimir Dedijer|Vladimir Dedijer]])によると、パルティザンに感化された民俗詩は4万を超える<ref name=dedijer>{{Cite book|last=Dedijer|first=Vladimir|title=Novi prilozi za biografiju Josipa Broza Tita|publisher=Mladost|year=1980|page=929}}</ref>。

パルティザンの戦いを描いた漫画作品も多く、クロアチア人作家の[[ユリオ・ラディロヴィッチ]]([[:en:Julio Radilović|Julio Radilović]])の作品や、『[[ミルコとスラヴコ]]』({{lang|sr|[[:sr:Мирко и Славко|Мирко и Славко]]}})シリーズなどが知られる。日本の漫画家・[[坂口尚]]の作品『[[石の花 (坂口尚)|石の花]]』は、大戦期のスロヴェニアのパルティザンを描いた作品である。

パルティザンの戦いは映画産業にも影響を与えており、アメリカの[[西部劇]]や[[日本]]の[[時代劇]]同様に、こうした作品は[[パルチザン映画|パルティザン映画]]([[:en:Partisan film|Partisan film]])と呼ばれる1ジャンルを形成している。『[[ネレトバの戦い (映画)|ネレトバの戦い]]』は、1943年の第4次反パルチザン攻勢([[ネレトヴァの戦い]])に基づいた作品である。

『[[ナヴァロンの嵐]]』は、イギリスやアメリカの軍が、闘争を続けるパルティザンを支援するためにユーゴスラヴィアに入る物語である。パルティザンを支援する外国人については[[イーヴリン・ウォー]]の1961年の小説『Unconditional Surrender』にも記されている。ウォーは大戦末期にユーゴスラヴィアで活動していた。

パルティザンの活躍を表現した記念碑は数多く立てられ、その多くが[[社会主義リアリズム]]の様式をとっていた。1990年の[[ユーゴスラビア崩壊]]以降、多数のこうした記念碑が新しく独立した国々や民間人の手によって破壊された。[[エミール・クストリッツァ]]監督の映画『[[アンダーグラウンド (映画)|アンダーグラウンド]]』は、第二次世界大戦におけるパルティザンの戦いから、1990年代の[[ユーゴスラビア紛争]]までのユーゴスラビアの激変の歴史を舞台としている。

== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
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<!-- Wikipedia 翻訳支援ツール Ver1.01、[[:en:Yugoslav Partisans]](2012年1月24日 7:43:08(UTC))より -->
<!-- Wikipedia 翻訳支援ツール Ver1.01、[[:en:Yugoslav Partisans]](2012年3月28日 17:13:50(UTC))より -->

2012年4月4日 (水) 18:39時点における版

ユーゴスラビア人民解放軍およびパルチザン部隊
ユーゴスラビア人民解放戦争第二次世界大戦)に参加
パルチザンが使用した旗
活動期間 1941年 - 1945年
活動目的 共産主義[1][2][3][4][5]
指導者 ヨシップ・ブロズ・ティトー
本部 可動
活動地域 枢軸国占領下のユーゴスラビア
兵力 80,000人 - 800,000人
後継 ユーゴスラビア人民軍
関連勢力 連合国
敵対勢力 枢軸国ナチス・ドイツイタリア王国クロアチア独立国ブルガリア王国チェトニクバリ・コンベタル
戦闘 ネレトヴァの戦いスティエスカの戦いドルヴァル襲撃ベオグラード攻勢スレム戦線など
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ユーゴスラビアのパルティザンpartizani / партизани[6]は、正式名称をユーゴスラビア人民解放軍およびパルチザン部隊[7]スロベニア語:Narodnoosvobodilna vojska in partizanski odredi Jugoslavijeセルビア・クロアチア語:Narodnooslobodilačka vojska i partizanski odredi Jugoslavije / Народноослободилачка војска и партизански одреди Југославијеマケドニア語:Народноослободителна војска и партизанските одреди на Југославија、略称:NOV i POЈ / НОВ и ПОЈ)といい、第二次世界大戦時のユーゴスラビアにおける、枢軸国の支配に抵抗した共産主義者主体の勢力である[8]。パルティザンは、ユーゴスラビア共産党率いる人民解放戦線の軍であり[1]、その最高意思決定機関はユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)であり、ヨシップ・ブロズ・ティトーを最高指導者とする。

パルティザンはユーゴスラビアにおける共産主義国家の樹立を目指しており[9]、ユーゴスラビア共産党はユーゴスラビアに住む全ての民族の権利を擁護し、全ての民族に対して支持を訴えた。パルティザンよりも数週間早く設立された、もう一つの反枢軸の抵抗組織にチェトニクがあったが、チェトニクはカラジョルジェヴィチ家による王政の維持と、セルビア人の保護を目的としており[10][11]、チェトニクが正当で歴史的なセルビア人の土地と考える地域における他民族に対する民族浄化を通じて大セルビアを確立することを目指していた[12][13][14][15][16]。パルティザンとチェトニクの関係は当初より険悪であったが、1941年10月以降は全面的な衝突へと発展した。ティトーの汎民族主義は、チェトニクのセルビア人民族主義に反するものであり、チェトニクの王党主義は共産主義者のパルティザンには受け入られるものではなかった[17]

彼らは一般に「パルティザン」あるいは「パルチザン」と呼ばれており、この名前からはゲリラ勢力が想起されるが、彼らのゲリラ的な性質は最初の3年間でのことであった。1944年の終わりごろには、パルティザンの兵士の数は65万人におよび、4つの方面軍、52の師団を持つ軍隊組織となっていた[18]。1945年4月にはパルティザンの兵士は80万人を数えるようになり、この時代のパルティザンは「人民解放軍」と呼ばれることが多い。

背景

パルティザンの戦士スティエパン・フィリポヴィッチ。彼はヴァリェヴォにて枢軸国勢力に処刑される直前、ファシズムに死を、人民に自由をSmrt fašizmu, sloboda narodu!)と叫んだ。

1941年4月6日、ユーゴスラビア王国は四方より枢軸勢力の侵略を受けた。侵攻にはナチス・ドイツのほかに、イタリア王国ハンガリー王国ブルガリア王国が加わった。この時、ドイツ空軍によるベオグラード空爆Bombing of Belgrade in World War II)が行われた。侵略は10日前後で完了し、4月17日にユーゴスラビア王国軍は無条件降伏した。ユーゴスラビア王国軍はドイツ国防軍と比べて装備が貧弱であったことに加え、あらゆる方面からいっせいに侵入する枢軸勢力と戦うにはあまりに規模が小さすぎた[19]

枢軸国によるユーゴスラビア支配は極めて過酷なものであり、ユーゴスラビアは領土をばらばらに解体された。ドイツスロベニアの主要部を併合し、また傀儡政権として設立されたセルビア救国政府の領域を占領するとともに、クロアチア独立国などの傀儡国家に対しても影響力を及ぼした[20]クロアチア独立国はこんにちのクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナ、さらにセルビアスレム地方を領土とした。ベニート・ムッソリーニ率いるイタリア王国はスロベニアの南部、コソボ、そしてダルマチアの沿岸部およびアドリア海の島々を手に入れた。またイタリアは傀儡国家・モンテネグロ独立国を設置して支配下に置き、またイタリア王家はクロアチア独立国の王位を手に入れた。ハンガリー王国バラニャや、バチュカなどのヴォイヴォディナの一部、クロアチアのメジムリェ地方、スロベニアのプレクムリェ地方を併合した。ブルガリア王国は、こんにちのマケドニア共和国に相当する地域の大部分、およびセルビア東部とコソボの一部を併合した[21]。ユーゴスラビア王国の解体とクロアチア独立国、モンテネグロ独立国、セルビア救国政府といった傀儡政権の樹立、枢軸国による占領と併合は、当時の国際法にも反するものであった[22]

枢軸勢力による地域住民に対する過酷な支配により、パルティザンは住民の広範な支持を得ただけでなく、住民が生き残るための唯一の選択肢であった場合も多い。占領初期には、ドイツ軍は女性や子ども、老人を含む一般市民への無差別殺戮を各所で展開し、ドイツ兵1人の死亡につきセルビアの市民100人、ドイツ兵1人の負傷につき市民50人を殺害するという体制を取った。この他にも枢軸勢力やその協力者による蛮行はユーゴスラビア全土で繰り広げられた。クロアチア独立国の領土ではウスタシャやドイツ軍による民族浄化などの蛮行が盛んに行われた。

ユーゴスラビア全土を取り巻くこうした無法状態の中、ユーゴスラビア共産党は反ファシズムの抵抗勢力を糾合し、全国的な抵抗運動へと組織化していった。ヨシップ・ブロズ・ティトー率いるユーゴスラビア共産党は戦間期のユーゴスラビア王国で非合法化され、それ以降は地下活動を続けていた。

活動初期

1941年6月22日のバルバロッサ作戦によって枢軸勢力はソビエト連邦への侵略を始めた[23]。ユーゴスラビアで初の共産主義者による抵抗者の軍事組織であるシサク人民解放パルティザン部隊Sisak People's Liberation Partisan Detachment)は、ドイツがソビエト連邦に侵攻を始めた1941年6月22日に組織された。ティトーが率いる抵抗運動が初めて武装抵抗を始めたのは、この2週間後、セルビアでのことであった[24]

ユーゴスラビア共産党は7月4日、武装抵抗をはじめることを正式に決定し、この日は後のユーゴスラビア社会主義連邦共和国において「戦士の日」として国民の祝日となった。7月7日、ジキツァ・ヨヴァノヴィッチ・シュパナツŽikica Jovanović Španac)が最初の一発の銃弾を放って、武装抵抗は始まった。この日付は後のセルビア社会主義共和国における国民の祝日・「蜂起の日」となった。

目隠しをされてドイツ軍に処刑される直前のパルティザン兵士。1941年8月20日、スメデレヴスカ・パランカにて

8月10日、山中の村スタヌロヴィッチ(Stanulović)にて、パルティザン軍はコパオニク・パルティザン分隊総司令部を設置した。パルティザンによって解放された、スタヌロヴィッチと周辺の村々から成る領域は、「鉱夫共和国」と呼ばれ、42日間維持された。この地域の反乱軍は後にパルティザンの本隊に合流した。

ヨシフ・スターリンの誕生日にあたる1941年12月21日、ユーゴスラヴィア・パルティザンは第1プロレタリアート急襲旅団(1. Proleterska Udarna Brigada, 1st Proletarian Assault Brigade)を組織した。この旅団は、拠点となる地域を超えて活動する能力を持つ、パルティザン初の常設の軍事組織である。1942年、パルティザンの各組織は公式に、ユーゴスラビア人民解放軍およびパルチザン部隊へと統合され、1942年12月の時点で23万6千人の兵士を擁するまでになった[25]

戦闘

抵抗運動とそれに対する報復

ファイル:Slavonski Korpus 1943.JPG
1943年、スラヴォニアで行軍するパルティザン兵士ら

パルティザンが枢軸勢力に対するゲリラ戦を始めた当初は、パルティザンの組織は小規模で、軍事訓練もされておらず、また装備も貧弱であった。しかし、ユーゴスラヴィア域内で活動する他の抵抗組織とくらべて、2つの点で優れていた。1つめに挙がるのは、パルティザンには少数ながらも無視できない数のスペイン内戦の経験者がおり、ユーゴスラヴィアの置かれている状況に似た環境での現代戦争の経験があったことである。2つめは、パルティザンは民族に基づかずイデオロギーに基づく集団であったため、多民族国家であるユーゴスラヴィアのすべての民族集団から一定数の支持を得ることができたという点である。これによってパルティザンはより多くの人々を対象に兵士を募集することができ、また域内での可動性を高めることができた。この利点は後になるにつれて大きくなっていった。

これに対してユーゴスラヴィアを占領する枢軸勢力やその協力者らはパルティザンの存在を大きな脅威と捉え、7回に及ぶ対パルティザン攻勢などにより抵抗組織の破壊を試みた。

  • 第7次反パルチザン攻勢Seventh anti-Partisan Offensive)は、1944年春にボスニア西部で行われた枢軸勢力による最後の対パルティザン大攻勢であり、レッセルシュプルング作戦(Operation Rösselsprung)と呼ばれる軍事作戦や、ティトーの殺害などによるパルティザン指導者の無力化を目的としていた[36]

これらの対パルティザン攻勢は、ドイツ国防軍親衛隊(SS)、イタリア軍、ウスタシャ、チェトニク、ブルガリア軍などによって行われた。

連合国の支援

連合国は当初、ドラジャ・ミハイロヴィッチのチェトニクを支援していたが、後期にはパルティザンが形式的な支持や、一部の物資支援を受けるようになった。1942年には物資支援は限定的ではあったものの、チェトニクと並んでパルティザンは連合国の支援対象となった。

第5次反パルチザン攻勢の頃、イギリスの情報機関による報告では、パルティザンがドイツ軍に対して勇敢によく戦っていること、多くの負傷者が出ていること、支援が必要であることが述べられ、またドイツ国防軍第1山岳師団(1st Mountain Division)がチェトニク支配下の領域を通行してロシアから移動してきていることが述べられている。また、ドイツ軍の通信を傍受した結果から、チェトニクがドイツに攻撃できない臆病者であると確信したとしている。この報告は連合国によるユーゴスラヴィア支援の方針を転換させるものとなった。1943年9月、ウィンストン・チャーチルの指示により、パルティザンと接触を図るために、イギリスの准将サー・フィッツロイ・マクリーンSir Fitzroy MacLean)がドルヴァル川近くに司令部を構えるティトーの元にパラシュート降下した。この頃、チェトニクは依然、連合国の支援を受けていたが、これ以降パルティザンもまた連合国の支援を受けられるようになった[37]

テヘラン会談以降、パルティザンは公式にユーゴスラヴィアにおける解放軍として認められ、イギリス空軍はパルティザンへの物資支援および戦術的な航空支援を目的としてバルカン空挺部隊Balkan Air Force)を設立した。1943年11月24日のフランクリン・ルーズベルト連合参謀本部の会談で、チャーチルは以下の点に言及した

22万2千人を数えるティトーの勢力に対してこれまでほぼ何の支援も取られなかったのは遺憾である(…)英米軍がローマ以南のイタリアで拘束した敵兵の数に匹敵するドイツ兵を、これらの勇敢な兵士たちはユーゴスラヴィアにおいて捕らえているのだ。イタリアの降伏によってドイツ軍は混乱に陥っている中、ユーゴスラヴィアの愛国者たちは沿岸部の広大な領土を確保している。しかし、我らはこの好機をのがしてきたのだ。ドイツ軍は体制を立て直し、次第にパルティザンを追い詰めつつある。この主因となっているのは、バルカン半島を分け隔てる責任分担の区分である(…)我らが何もしなくてもパルティザンがこれだけ大きな成果をもたらしてくれたことを考慮すれば、彼らの抵抗運動への支援を確かなものとし、降伏に追いやることのないようにすることには大きな重要性がある

1943年-1945年:活動の拡大

連合国による航空支援や赤軍による支援もあり、ウジツェ共和国の失敗以降目立って戦闘のなかったセルビアでも、1944年の後半にはパルティザンが支持を集めるようになった。1944年10月20日にはパルティザンと赤軍の共同によるベオグラード攻勢Belgrade Offensive)によって、ベオグラードが解放された。

1945年にはパルティザンの総数は80万人強に達しており[18]、激戦となったスレム戦線を制し、4月初旬にはサラエヴォを解放、クロアチア独立国軍やドイツ国防軍を駆逐し、5月中旬にはクロアチア独立国の残りの領域とスロヴェニアを解放した。戦前はイタリア領であったリエカおよびイストラ半島を確保し、連合軍よりも2日早くトリエステを占領した[39]

第二次世界大戦のヨーロッパ最後の戦いであったポリャナの戦いBattle of Poljana)は、1945年5月14日から15日にかけてスロヴェニアコロシュカ地方プレヴァリェにて発生し、パルティザンは退却中のドイツ国防軍やその協力者勢力と戦った。

軍種

パルティザンには陸軍の他に海軍、空軍もあり、これはヨーロッパの非占領地域におけるレジスタンス運動では他に類を見ないことであった。

パルティザン海軍

1942年9月19日にダルマティア沿岸部のパルティザンが漁船を改造して海軍を設立したのが始まりで、その後規模を拡大しイタリア海軍およびドイツ海軍に対する勇敢な攻撃を遂行してきた。最大時には9隻から10隻の武装船、30の巡視船、200ちかくの支援船、6の砲台、多数の島嶼部のパルティザン分隊と3千人の兵力を擁した。1943年10月26日に4つの海軍管区(Pomorsko Obalni Sektor、Maritime Coastal Sector)が設置され、後に6つに拡張された。海軍の使命は制海権の確保、沿岸および島嶼部の防衛、敵の海上交通の破壊と島嶼部・沿岸部の敵への攻撃であった[40]

パルティザン空軍

かつてユーゴスラビア王国軍に属していたクロアチア独立国空軍のパイロット、フラニョ・クルズFranjo Kluz)およびルディ・チャヤヴェツRudi Čajavec)が、複葉機ポテーズ 25およびブレゲー 19を伴ってボスニアでパルティザンに投降したことにより、パルティザンは1942年5月に空軍力を獲得した[41]。2人のパイロットはその後、これらの爆撃機を使って枢軸勢力と戦った。空軍を運用するインフラストラクチャが十分ではなかったためにパルティザン空軍は短命に終わったものの、これは対独レジスタンスが空軍力を持った初めての出来事であった。[42]。その後、枢軸勢力から鹵獲した航空機などによってパルティザン空軍は再建され、後のユーゴスラビア空軍となる。

構成

パルティザン運動への支持の広がりは、地域や民族ごとの人々の存亡の危機の度合いによって、温度差があった。パルティザンによる最初の反乱は、1941年6月22日にクロアチアの、シサクザグレブの間にあるブレゾヴィツァ(Brezovica)の森にて、40人のパルティザン兵士によって起こされた[24]。セルビアではこの2週間後にティトーの指揮による初の反乱が引き起こされたが、枢軸勢力によって速やかに鎮圧され、セルビアにおけるパルティザンへの支持は低下した。1943年に枢軸勢力に対する武装抵抗が拡大されるまで、セルビアではパルティザンへの支持は低迷を続けた[43]。セルビアやその他の地域におけるパルティザンの勢力拡大は、1944年8月17日にティトーが枢軸勢力の協力者に対する恩赦を決めたことによるところもあり、多くのチェトニクの兵士などがパルティザンに転向した。ドイツ軍がベオグラードから撤退した1944年11月21日、および1945年1月15日にも枢軸協力者に対する恩赦が実施されている[44]

枢軸の傀儡政権であるクロアチア独立国占領下におけるセルビア人に関しては、セルビアとは状況は大きく異なっていた。王党派でセルビア民族主義のチェトニクは、ウスタシャがセルビア人に対してとる蛮行と同様の行為を非セルビア人に対して繰り返しており[45]、クロアチア独立国占領下のセルビア人の間ではそうしたチェトニクよりも多民族混成のパルティザンへの支持が優勢であり、彼らはチェトニク対してセルビア人どうしで衝突することとなった[46]。同様にパルティザンを支持するクロアチア人はウスタシャに対してクロアチア人どうしでの衝突が起こった。

アメリカ合衆国ホロコースト記念博物館百科事典には、パルティザンの多民族性について以下のように記されている:

分断されたユーゴスラビアにおけるパルティザンの抵抗運動は、ドイツ占領下のスロヴェニアではスロヴェニアによる小規模な破壊工作が主であった。セルビアではかつてユーゴスラビア王国軍の大佐であったドラジャ・ミハイロヴィッチ率いるチェトニク運動が広がった。しかし1941年6月の壊滅的な蜂起失敗のあと、チェトニクは枢軸勢力との衝突を避けるようになった。共産主義者が支配するパルティザンはヨシップ・ティトーが指揮する多民族の抵抗勢力であり、セルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人セルビア・クロアチア語を話すムスリム)、ユダヤ人スロヴェニア人などによって構成されている。主にボスニア北部やセルビア北西部を拠点とし、ティトー率いるパルティザンは、最も継続的にドイツ軍やイタリア軍と戦い、1945年にドイツ軍をユーゴスラビアから駆逐する際に主要な役割を果たした。[47]

民族別

ファイル:Tito i prva proleterska.jpg
パルティザンの最高司令官、ヨシップ・ブロズ・ティトーが第1プロレタリアート旅団を閲兵

ティトーによると、1944年5月時点のパルティザンの民族別の内訳は、セルビア人が44%、クロアチア人が30%、スロヴェニア人が10%、モンテネグロ人が5%、ボシュニャク人が2.5%であった[48]

地域別

1945年4月の時点で、パルティザンの兵力は80万人程度に及んでいた。1941年から1944年にかけての兵力の推移は以下のとおりである:[49]

1941後期 1942後期 1943年9月 1943後期 1944年後期
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ 20,000 60,000 89,000 108,000 100,000
クロアチア 7,000 48,000 78,000 122,000 150,000
コソヴォ 5,000 6,000 6,000 7,000 20,000
マケドニア 1,000 2,000 10,000 7,000 66,000
モンテネグロ 22,000 6,000 10,000 24,000 30,000
中央セルビア 23,000 8,000 13,000 22,000 204,000
スロヴェニア 1,000 19,000 21,000 25,000 40,000
ヴォイヴォディナ 1,000 1,000 3,000 5,000 40,000
合計 80,000 150,000 230,000 320,000 650,000
第4モンテネグロ・プロレタリアート旅団

パルティザンはユーゴスラヴィアの全ての人民による人民戦線を掲げ、共産主義を標榜する組織であった。例えばボスニアにおいては、パルティザンはセルビア人でもクロアチア人でもムスリムでもなく、すべての人々の平等のための自由と兄弟愛を訴えかけた[50]。しかしなお、ユーゴスラヴィア・パルティザンにおいてセルビア人は最大の民族別比率を占めていた[51][52]

他方で、ユーゴスラヴィアにおけるもうひとつの反独抵抗組織であったチェトニクは、セルビア人を主体とするセルビア人民族主義の組織であり、セルビア人以外への訴求力はなかった。チェトニクはボスニア東部においてムスリムに対する民族浄化作戦を行っており、ムスリムやクロアチア人の加入を排除した[53]。また、ダルマティア北部では、ダルマティアを支配し同地に対する領土的野心を持っていたイタリアがチェトニクと協力したことがあり、これによってパルティザンを支持する多数のクロアチア人が殺害される蛮行が引き起こされた。一例として、スプリト近郊のガラ(Gala)をチェトニクが襲撃した際には、200人の市民が殺害された[54]ベニート・ムッソリーニによるダルマティアの強制的なイタリア化政策が取られた1941年後期には、クロアチア人パルティザンの数が大幅に増加している。

この他の地域では、パルティザンを純粋にセルビア人のみの組織と考える一部のセルビア人パルティザンによって、クロアチア人などの加入が排除され、またクロアチア人の村が襲撃されることがあった[45]サラエヴォユダヤ人の青年らがカリノヴニク(Kalinovnik)のパルティザン分隊に加入しようとした際、セルビア人パルティザンらがこれを排除して青年らをサラエヴォに差し戻し、その後彼らの多くが枢軸勢力に捕らえられ殺害された[55]。クロアチア人ファシスト組織であるウスタシャによるセルビア人への蛮行は、セルビア人をゲリラ戦へと向わせる強い動機となり、多くのセルビア人がパルティザン兵士となった[56]

連合国の勝利が明らかになった時には、ユーゴスラヴィアの非セルビア人の住民らは、セルビア人民族主義を志向するユーゴスラビア王国の王党派よりも、パルティザンのほうがより良い未来をもたらすもの考えていた。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ

ボスニア・ヘルツェゴヴィナのパルティザンによって使用された、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ国の国旗

1942年初期までは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのパルティザンの大部分はセルビア人のみであり、チェトニクとも協力関係にあった。ヘルツェゴヴィナ東部およびボスニア西部のパルティザンの一部はボシュニャク人(ムスリム人)の加入を拒否していた。ボスニアのムスリムたちにとって、こうしたパルティザンの言動はチェトニクのそれと大きく変わらないと映っていた。しかし、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの一部の地域では初期の段階からクロアチア人やムスリムがパルティザンに加わっており、ボスニア北西部のコザラ山Kozara)やサラエヴォ近くのロマニヤ地方ではこうした傾向が見られた。コザラでは、1941年末の時点で兵士の25%がクロアチア人やボシュニャク人であった[57]

1943年後期の時点で、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのパルティザンの70%はセルビア人、30%がクロアチア人およびボシュニャク人であった[58]戦争の期間全体を通してのボスニア・ヘルツェゴヴィナのパルティザンのうち、64.1&はセルビア人、23%はボシュニャク人、8.8%はクロアチア人であった[58]

クロアチア

クロアチアのパルティザンによって使用された、クロアチア国の国旗

1941年および1942年において、クロアチアのパルティザンの主流を占めているのはセルビア人であったが、1943年10月の時点ではクロアチア人が多数派となっている。クロアチア農民党Croatian Peasant Party)のボジダル・マゴヴェツBožidar Magovac)が1943年6月にパルティザンに加入したことも、およびイタリアが降伏したこともこの一因と考えられる[59]

クロアチアにおいて、パルティザン運動はクロアチア社会の主流にまで食い込み、1943年の時点でクロアチア出身のパルティザンの多数をクロアチア人が占めるようになった。1944年後期の統計によると、クロアチア出身のパルティザン兵士の61%はクロアチア人、28%はセルビア人であり、クロアチアの民族別人口比率に比べるとセルビア人の割合が多いものの、クロアチア人が多数を占めていたことがわかる[45][60][61][62]。枢軸勢力への協力を止めてパルティザンに加われば敵通の罪を免除するとする恩赦が1944年9月15日に発令され、これによってクロアチア人のパルティザン参加が拡大した。

1941年末の時点でクロアチアのパルティザンの77%はセルビア人、21.5%はクロアチア人やその他の民族であった。クロアチアのパルティザンにおけるクロアチア人の比率は1942年8月には32%、1943年9月には34%にまで上昇した。イタリアの降伏後にはクロアチア人の兵士数は急増し、1944年末には60.4%がクロアチア人、セルビア人が28.6%、ボシュニャク人が2.8、その他が8.2%となった[63][48]1941年から1945年の全体を通して、クロアチアのパルティザンの61%はクロアチア人であり、その他にはスロヴェニア人、ボシュニャク人、モンテネグロ人イタリア人ハンガリー人チェコ人ユダヤ人ドイツ人などがいた[45]

クロアチアのパルティザンはユーゴスラヴィアのパルティザン全体の中で重要な比率を占めていた。クロアチアの人口はユーゴスラヴィア全体の24%であったが、クロアチア出身のパルティザン兵士の数はセルビア、モンテネグロ、スロヴェニア、マケドニア(4地域合計でユーゴスラヴィアの人口の59%に達する)の出身者よりも数が多かった[45]。また、クロアチアのパルティザンの特色としてユダヤ人の比率が高かったことが挙げられる。彼らは1943年初期の時点で、枢軸勢力に対抗するクロアチア全体の最高意思決定機関としてクロアチア人民解放国家反ファシスト委員会(ZAVNOH)を設立した。これは、ヨーロッパにおける反枢軸レジスタンスの中で初めてのことであった。ZAVNOHの最後の会合は1945年7月24日-25日にザグレブで行われ、この会合にて自身をクロアチア議会へと改組することが決議された[64]

スロヴェニア

スロヴェニアのパルティザンによって使用された、スロベニア人民解放戦線の旗
トリグラウ型」の帽子

初期のころは、スロヴェニアにおけるパルティザンの勢力は小さなもので、インフラストラクチャを持たず、装備も貧弱であったが、ゲリラ戦の経験を有するスペイン内戦の経験者が含まれていた。スロヴェニアにおけるパルティザンは、スロベニア人民解放戦線Liberation Front of the Slovene Nation)の軍事部門に位置づけられており、スロベニア人民解放戦線は1941年4月26日にイタリア占領下の領域(リュビアナ州Province of Ljubljana)で設立され、当初は複数の左翼系組織が合同したものであった。戦時中、次第にスロヴェニア共産党の影響力が強まり、1943年3月1日のドロミティ宣言Dolomiti Declaration)により共産党の指導性が公式化された[65]。人民解放戦線のメンバーの一部はTIGRTIGR)の出身であった。

スロヴェニア人民解放戦線に加わる全ての政治組織の代表者は人民解放戦線最高総会に参加し、スロヴェニアにおける抵抗運動を指導した。最高総会は1943年10月3日、コチェーヴィエにて120人から成る人民解放会議のメンバーを選出した(コチェーヴィエ総会)。最高総会はスロヴェニアの反ファシスト勢力の最高意思決定機関として機能し、その代表者はユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議の第2回会合にも出席し、ユーゴスラビアを連邦制としスロヴェニアをその構成国と位置づけられた。1944年2月19日のチュルノメリでの会合時に、最高総会はスロベニア人民解放委員会へと改組され、その後スロヴェニア国の議会へと改組された。

スロヴェニアのパルティザンは独自の組織を持ち、その指揮にはスロベニア語が用いられた。1942年から1944年までの間、トリグラウカTriglavka)と呼ばれる帽子が使用されていたが、その後ティトヴカTitovka)に置き換えられた[66]。1945年3月、スロヴェニアのパルティザン部隊は正式にユーゴスラビア人民軍へと編入され、独自組織としての幕を閉じた。

スロヴェニアのパルティザン運動は、ティトーに率いられたユーゴスラビア中南部のパルティザンとは別に、1941年に独自に始まったものである。1942年9月、ティトーは初めてスロヴェニアの抵抗運動への指導権獲得を試みた。1943年4月にティトーによりスロヴェニアに送り込まれたアルサ・ヨヴァノヴィッチは、スロヴェニアの抵抗運動の統制獲得を試みたが失敗に終わっている。スロヴェニアの抵抗運動のティトー・パルティザンへの統合は1944年に実現された[67][68]

1943年12月、オーストリアからわずか数時間の場所に位置する困難な岩地のうえにフラニャ・パルティザン病院Franja Partisan Hospital)を設置した。また、ラジオ・クリチャチュ(Kričač)と呼ばれる秘密のラジオ局を設置し、放送を発信していた。

死傷者

パルティザンは最終的な勝利を収めたものの、多くの死傷者を出してきている。1941年7月7日から1945年5月16日までのパルティザンの死傷者数は以下のとおりである:[60][61][62]

1941年 1942年 1943年 1944年 1945年 合計
戦闘により死亡 18,896 24,700 48,378 80,650 72,925 245,549
戦闘により負傷 29,300 31,200 61,730 147,650 130,000 399,880
負傷により死亡 3,127 4,194 7,923 8,066 7,800 31,200
戦闘中により行方不明 3,800 6,300 5,423 5,600 7,800 28,925

救出作戦

パルティザンは、地域に墜落した連合軍兵士の救出でも多数の実績をあげている。例えば、1944年1月1日から10月15日までの間に、アメリカ合衆国空軍士官救出隊(US Air Force Air Crew Rescue Unit)の取りまとめによると、1152人のアメリカ兵士がユーゴスラビアから救出されており、うち795人がパルティザン、356人がチェトニクによるものであった[69]。スロヴェニアのパルティザンは303人のアメリカ兵士、389人のイギリス兵士および捕虜、120人のフランスその他の捕虜や強制労働服務者を救出している[70]

パルティザンはまたドイツの捕虜収容所からの連合軍兵士の脱出の支援もしていた(主にオーストリア南部の収容所からの脱出者を支援した)。脱出に成功した兵士の大部分はスロヴェニアを縦断してセミチから空輸にて救出され、また一部は更にクロアチアを経由してイタリアバーリへと海路で救出された。1944年春、スロヴェニアに送られたイギリス軍の使節は、捕虜収容所からの脱出が「ゆっくり、漏れ出すように」続いていたことを報告している。兵士らは地元の市民の協力の下、ドラーヴァ川にてパルティザンと接触し、ユーゴスラヴィア脱出までパルティザンの保護を受けられた。

オジュバルト襲撃

1944年8月に行われたパルティザンによる軍事作戦では、132人の連合軍の兵士が一挙に救出され、この事件はオジュバルト襲撃Raid at Ožbalt)と呼ばれる。

1944年6月、連合軍はオーストリア南部の収容所からユーゴスラヴィアを経て脱出する連合軍兵士への支援に乗り出した。連合軍はスロヴェニア北部、マリボルの北50キロメートルほどの、オーストリアのすぐ南に位置するオジュバルトOžbalt)に監視哨を設置した。この近くにはドイツが設置した労働収容所があり、スロヴェニア・パルティザンはここを襲撃して全ての囚人を解放した。

100人を超える戦争捕虜たちは、マリボルのスタラクXVIII-DStalag XVIII-D)の管理下に置かれ、毎日鉄道修復の作業をし、夜に収容所に戻る生活をしていた。パルティザンはこの捕虜と接触し、8月30日の15時に監視の目をかいくぐって7人の捕虜が脱出に成功し、21時には国境よりスロヴェニア側に8キロメートルのところにある村でパルティザンから脱出を祝福されていた[71]。7人の脱走捕虜はパルティザンと共に残された捕虜たちの解放を計画した。31日の朝、7人は100人程度のパルティザンとともに、労働のために捕虜を運ぶ列車の到着を待った。捕虜たちの労働が始まるとパルティザンは襲撃を開始し、監視しているドイツ人らを無力化し、捕虜たちはパルティザンの保護の下脱走に成功した。

捕虜たちはパルティザンの司令部のキャンプに到着すると、132人の囚人が脱出に成功した旨をイギリスに伝達した。ドイツ軍のパトロールは重厚で、脱出経路の確保は困難を極め、パトロール中のドイツ軍の夜襲によって2人の脱走捕虜と2人の護衛が死亡する事態も起こった。最終的に脱走捕虜はベラ・クライナ地方セミチにあるパルティザンの空軍基地に到達し、1944年9月21日にイタリアのバーリに帰還した[71]

終戦後

ユーゴスラヴィアは、第二次世界大戦において自力で自国を解放した数少ない国のひとつであった。ベオグラード攻勢Belgrade Offensive)を始めとするセルビアの解放では赤軍の支援を受け、また1944年中期以降はイギリスを中心とするバルカン航空部隊からの継続的な航空支援を受けていたが、支援は限定的であった。終戦の時点において、ユーゴスラヴィアの域内には外国の軍隊はいなかった。こうした事実は、その後の冷戦期においてユーゴスラヴィアが東西陣営から一定の距離を保って自立することができた一因である。

1947年から48年にかけて、ソビエト連邦はユーゴスラヴィアへの指導権の確保を試みたが失敗し、ティトー=スターリン決別Tito-Stalin split)を招いた。ユーゴスラヴィアとソビエト連邦の関係が悪化したこの時期に、アメリカおよびイギリスはユーゴスラヴィアの北大西洋条約機構を検討したが、1953年のトリエステ危機によって西側諸国とユーゴスラヴィアの関係が悪化し(トリエステ自由地域)、また1956年にソビエト連邦との関係回復が図られたため、西側諸国入りすることもなかった。その後ユーゴスラヴィアは崩壊時まで非同盟外交路線を堅持した。

報復行為

終戦直後の時期、一部地域の住民やパルティザン兵士による枢軸勢力の同調者、協力者、ファシストに対する報復行為が発生した。その顕著な例がブライブルク虐殺Bleiburg massacre)、フォイベの虐殺foibe massacres)、バチュカ虐殺killings in Bačka)などであった。

ブライブルクの虐殺では、西側諸国に降伏するためにオーストリア南部に向かったチェトニクやスロヴェニア人のドモブランツィSlovene Home Guard)、クロアチア独立国軍の兵士に対して報復行為が行われた。フォイベの虐殺とは、パルティザンの第8ダルマティア軍団やファシストに憤る市民らによって、イタリア人ファシストやその協力者、同調者、分離主義者と目された人々が殺害され、フォイベ(foibe)と呼ばれる洞穴に投げ込まれた事件である。それまでイストラ半島は長くイタリアの統治下に置かれ、非イタリア人は抑圧下に置かれていた。1993年に発足したイタリア人とスロヴェニア人の混成の歴史家委員会はイタリア領およびスロヴェニア領で発生した事件を調査した。それによると、虐殺の対象は、各個人の責任よりも立場上のファシズムとの近さに基づいたもので、共産主義政府にとって真に有害な者のみならず、その疑いのある者や潜在的な可能性を持つ者を一掃することに重点を置いたものであったとしている[72]バチュカの虐殺は、ハンガリー人のファシストや協力者、その疑いのあるものを対象とした同種の虐殺である。

また、各地のパルティザンの命令系統の整合性にも問題があった。例えば、スロヴェニア・アイドフシュチナのパルティザンは退却中のドイツ軍との間でこれ以上の戦闘をしないことを合意し、ドイツ軍は武装解除した。しかし、その後ユーゴスラヴィアの別の地域から来たパルティザン部隊が、非武装化されたドイツ軍を銃殺した。

しかし、ドイツ人やイタリア人、ファシスト協力者らに対するこうした報復殺害の数は、最大限に多く見積もっても枢軸勢力による死者数よりははるかに少ないものであった。ドイツやイタリア、ウスタシャやチェトニクなどと異なり、パルティザンはジェノサイドの戦略を持たず、全てのユーゴスラヴィアの諸民族の「兄弟愛と統一」を基本原則に掲げていた。枢軸勢力による占領の期間中、軍人・民間人あわせて90万人から150万人がファシストの犠牲となっている[73]

このパルティザンの暗黒史は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国では1980年代末期までタブーであり、公的機関がパルティザンの犯罪行為に対して沈黙を貫いたことにより、民族主義者らがプロパガンダ目的で好き勝手に数字を誇張できる状態になってしまった[74]

装備

初期のパルティザンの装備の一部は、敗退したユーゴスラビア王国軍Royal Yugoslav Army)のものが使用された。パルティザンは戦闘中、手に入るあらゆる武器を使用して戦った。それらは主にドイツ軍、イタリア軍、クロアチア独立国軍、ウスタシャ、チェトニクから鹵獲したものであり、Kar98kMP40MG34、カルカノ銃、カービン、ベレッタ機関銃などであった。後期にはイギリスソビエト連邦からの供給を受け、PPSh-41ステンMKIIなどが投入された。これに加えて、パルティザンは既存の軍需工場を活用して自ら武器を製造しており、製造された武器は「パルティザン・ライフル」、「パルティザン対戦車迫撃砲」などと呼ばれた。

文化的影響

ファイル:Dolina heroja-Spomenik-Tjentiste2.JPG
ボスニア・ヘルツェゴヴィナスティエスカにある、スティエスカの戦いの記念碑

パルティザンはユーゴスラビア社会主義連邦共和国の芸術家、作家などにとって重要なテーマとして取り上げられた。パルティザンはユーゴスラヴィアの文化に大きな影響をもたらしており、彼らの戦いは、本人たちの回顧録を通じて鮮明に記録され、後にユレ・カシュテランJure Kaštelan)、ヨジャ・ホルヴァトJoža Horvat)、オスカル・ダヴィチョOskar Davičo)、アントニイェ・イサコヴィッチ)(Antonije Isaković)、ブランコ・チョピッチBranko Ćopić)、イヴァン・ゴラン・コヴァチェヴィッチIvan Goran Kovačić)、カレル・デストヴニク・カユフKarel Destovnik Kajuh)、ミハイロ・ラリッチMihailo Lalić)、エドヴァルド・コツベクEdvard Kocbek)、トネ・スヴェティナTone Svetina)、ヴィトミル・ズパンVitomil Zupan)を始めとして、多くの文学作品に取り上げられた。

ヴラディミル・デディイェルVladimir Dedijer)によると、パルティザンに感化された民俗詩は4万を超える[75]

パルティザンの戦いを描いた漫画作品も多く、クロアチア人作家のユリオ・ラディロヴィッチJulio Radilović)の作品や、『ミルコとスラヴコ』(Мирко и Славко)シリーズなどが知られる。日本の漫画家・坂口尚の作品『石の花』は、大戦期のスロヴェニアのパルティザンを描いた作品である。

パルティザンの戦いは映画産業にも影響を与えており、アメリカの西部劇日本時代劇同様に、こうした作品はパルティザン映画Partisan film)と呼ばれる1ジャンルを形成している。『ネレトバの戦い』は、1943年の第4次反パルチザン攻勢(ネレトヴァの戦い)に基づいた作品である。

ナヴァロンの嵐』は、イギリスやアメリカの軍が、闘争を続けるパルティザンを支援するためにユーゴスラヴィアに入る物語である。パルティザンを支援する外国人についてはイーヴリン・ウォーの1961年の小説『Unconditional Surrender』にも記されている。ウォーは大戦末期にユーゴスラヴィアで活動していた。

パルティザンの活躍を表現した記念碑は数多く立てられ、その多くが社会主義リアリズムの様式をとっていた。1990年のユーゴスラビア崩壊以降、多数のこうした記念碑が新しく独立した国々や民間人の手によって破壊された。エミール・クストリッツァ監督の映画『アンダーグラウンド』は、第二次世界大戦におけるパルティザンの戦いから、1990年代のユーゴスラビア紛争までのユーゴスラビアの激変の歴史を舞台としている。

脚注

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  13. ^ Banac (1996), p.143
    1941年夏以降、チェトニクはセルビア人の抵抗者を糾合し、ボスニア・ヘルツェゴビナ東部においてムスリム人に対する残虐行為の数々を実行した。ムスリム人に対する虐殺は、ノドを切り、川に落とすといったものが多く、フォチャゴラジュデチャイニチェロガティツァヴィシェグラードヴラセニツァスレブレニツァドリナ川渓谷一帯などのボスニア東部で頻発したが、セルビア人の村が点在するヘルツェゴビナ東部でも、1942年までは強固に抵抗を続けるセルビア人の活動があった。チェトニクの文書では、たとえば1942年6月にコトル・ヴァロシュ地区のヤヴォリネでの会合の議事録に見られるように、「セルビア人ではないあらゆるすべてをボスニアから除去する」決定について述べられている。セルビア人チェトニクによる民族浄化の正確な被害者数を特定することは難しいが、数万人が殺害されたと考えられる
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