「クワメ・エンクルマ」の版間の差分

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'''クワメ・'''('''エ''')'''ンクルマ'''('''Kwame Nkrumah''', 本名:'''Francis Nwia Kofia Nkrumah''' [[1909年]][[9月21日]] - [[1972年]][[4月27日]])は[[政治家]]。[[ガーナ]]初代[[大統領]]。ガーナの独立運動を指揮し、[[アフリカ]]の独立運動の父といわれる。[[マルクス主義]]者。日本語では姓が'''ンクルマ'''と表記される場合もある。エンクルマは語頭で「ン」を発音することができない英語での読み方。
'''クワメ・'''('''エ''')'''ンクルマ'''('''Kwame Nkrumah''', 本名:'''Francis Nwia Kofia Nkrumah''' [[1909年]][[9月21日]] - [[1972年]][[4月27日]])は[[政治家]]。[[ガーナ]]初代[[大統領]]。ガーナの独立運動を指揮し、[[アフリカ]]の独立運動の父といわれる。[[マルクス主義]]者。日本語では姓が'''ンクルマ'''と表記される場合もある。エンクルマは語頭で「ン」を発音することができない英語での読み方。


== 生 ==
== 前半生 ==
[[イギリス]]領の植民地[[ゴールド・コースト]]にて、[[アカン族]]の鍛冶屋の家に生まれる。幼少より成績優秀親族に借金して[[アメリカ合衆国]]に学した。
エンクルマは[[1909年]][[9月21日]]、[[イギリス]]領の植民地[[ゴールド・コースト]]の西部海岸にあるンクロフルにて<ref name="mother">{{cite book|last=Yaw Owusu|first=Robert|year=2005|title=Kwame Nkrumah's Liberation Thought: A Paradigm for Religious Advocacy in Contemporary Ghana|pages=97}}</ref>、[[アカン族]]の鍛冶屋の家に生まれる。1930年に首都[[アクラ]]のアチモタ・スクールを卒業後<ref name="bio">{{cite book|last=E. Jessup|first=John|title=An Encyclopedic Dictionary of Conflict and Conflict Resolution, 1945-1996|pages=533}}</ref>、[[ローマ・カトリック]]の[[神学校]]に進み、のちアクシムのカトリックの学校で教鞭をとった。幼少より成績優秀だったため、[[1935年]]、親族に借金して[[アメリカ合衆国]]に渡り、リンカーン大学に入学した。


[[1935年]]、[[イタリア]]の[[第二次エチオピア戦争|エチオピア侵攻]]を聞いて激怒し、植民地制度の打倒を志す。[[1942年]]、[[ペンシルバニア大学]]大学院にて教育学の[[修士]]号を、翌年には[[哲学]]の修士号を取得<ref>高根務『ガーナ 混乱と希望の国』p.86, アジア経済研究所、2003年11月7日 ISBN 978-4258051045</ref>。この間、アメリカやカナダに滞在するアフリカ人留学生の組織化につとめた。このころ、[[マーカス・ガーベイ]]や[[C・L・R・ジェームズ]]、[[W・E・B・デュボイス]]の思想に影響を受け、[[パン・アフリカ主義]]の立場をとるようになった。[[1945年]]5月には[[イギリス]]に渡り、宗主国で優遇されるアフリカ出身のエリートの説得に奔走した。同年、[[マンチェスター]]で開かれた第五回[[パン・アフリカ会議]]ではのちに盟友となる[[ジョージ・パドモア]]と共に書記を務めた。この会議にはエンクルマのほか、[[ケニア]]の[[ジョモ・ケニヤッタ]]、[[マラウイ]]の[[ヘイスティングズ・カムズ・バンダ]]、[[ナイジェリア]]の[[オバフェミ・アウォロウォ]]など[[アフリカ大陸]]の独立指導者が多く参加し、これまでの欧米在住の黒人にかわってアフリカ大陸出身者がパンアフリカニズムの中心となるきっかけとなった。また、この時に国際会議事務局が設置され、エンクルマとパドモアが書記に、ケニヤッタが書記補に就任した<ref>「週刊朝日百科 世界の地理102 ガーナ・トーゴ・ベナン・ブルキナファソ」 昭和60年10月6日発行 朝日新聞社 P11-39</ref>。
[[1935年]]、[[イタリア]]の[[第二次エチオピア戦争|エチオピア侵攻]]を聞いて激怒し、植民地制度の打倒を志す。[[イギリス]]に渡り、宗主国で優遇されるアフリカ出身のエリートの説得に奔走した。[[1945年]]には[[ジョージ・パドモア]]と共に第五回[[パン・アフリカ会議]]の書記を務める。


== 独立まで ==
[[第二次世界大戦]]後、帰国したエンクルマは地元の自治組織の重要人物として迎えられるが、組織は宗主国イギリスを恐れ穏健的であった。[[1949年]]エンクルマは会議人民党を結成、即時独立の要求を掲げ、ストライキなど強硬な政策を打ち出した。穏健派によって逮捕されるが、[[1951年]]の選挙で会議人民党は第一党となり、釈放された。そして、[[1957年]]にゴールドコーストは[[トーゴランド]]と共にガーナとして[[イギリス]]より独立、初代[[首相]]に就任した。
第二次世界大戦後、エンクルマの故国である英領ゴールドコーストでは自治権要求運動がさかんになった。そんな中、[[1947年]]に植民地エリートや伝統首長を中心に[[連合ゴールドコースト会議]]が結成されると、結成メンバーの一人でアメリカ時代のエンクルマの同志であった弁護士アコ=アジェイがエンクルマを招請し、同年12月エンクルマは帰国し、連合ゴールドコースト会議の事務局長に就任した。


[[1948年]]1月、おりからの物価高騰などにより不満を爆発させた市民が首都[[アクラ]]でヨーロッパ商品の不買運動を始め、2月には暴動に発展した。この暴動は連合ゴールドコースト会議が起こしたものではなかったが、植民地当局は同党が煽動をおこなったとして、党の首脳部6人(エンクルマ、エマニュエル・オベツェビ=ランプティ、J.B.ダンカ、エドワード・アクフォ=アド、ウィリアム・オフォリ=アタ、エベネゼル・アコ=アジェイ)の6人を逮捕した。しかしこれにより同党の人気はさらに高まった。
[[1958年]]アフリカ各地の指導者を首都[[アクラ]]に集め、パドモアと共に[[全アフリカ人民会議]]を開催し、[[パトリス・ルムンバ]]らに大きな影響を与えた。またアフリカを統一国家とする[[アフリカ合衆国]]の構想も謳われた。しかし、[[1960年]]1月[[チュニジア]]で開かれた第二回会議では、独立要求こそ謳われたが、アフリカ統一に関する議論はほとんど行なわれなかった。7月に[[共和制]]を採用し、エンクルマは初代大統領に就任した。


これに驚いた宗主国イギリスは調査団をゴールドコーストに派遣し、調査団は自治の拡大とアフリカ人主体の立法評議会の設置を提言した。この提言に対しもともと富裕層中心で穏健だった連合ゴールドコースト会議は賛成したが、エンクルマは即時独立の要求を掲げて党首脳部と対立し、[[1949年]]にはエンクルマは脱党して新党である会議人民党を結成し、ストライキなど強硬な政策を打ち出した。会議人民党は下層住民の支持を受け、党勢は急速に拡大。[[1950年]]1月には即時自治を求めてデモを行い、デモ隊と警官隊が衝突。この責任を問われ逮捕されるが、調査団の提言を元に制定された1951年憲法のもとでおこなわれた[[1951年]]の選挙で会議人民党は第一党となり、獄中から立候補していたエンクルマも当選し、釈放された。エンクルマは政府事務主席の座に就くと、交渉により平和的な方法でのイギリスからの独立に方針を転換した。[[1954年]]には新憲法を制定して国内の自治をイギリスに認めさせ、同年新憲法下でおこなわれた選挙においても会議人民党は104議席中72議席を獲得して圧勝。独立はこれによりほぼ規定路線となった。
[[1961年]]の[[コンゴ動乱]]で、穏健派と強硬派が対立したが、[[エチオピア]]の介入で和解、折衝案を盛り込んだ[[アフリカ統一機構]](OAU)が設立された。政治的統一は排除されたが、アフリカ諸国の相互援助は謳われた。エンクルマは植民地支配を受ける地域や独立間もない国家への支援を積極的に行ったが、結果的に豊かだったガーナの財政は傾いた。反発する大臣らを解任し独裁を敷き、[[アコソンボダム]]を建設させた。


しかし、中央集権的な政権を目指すエンクルマに対し、旧来の大王国を持ち経済的にもゴールドコーストで最も豊かなアシャンティ地方が反発。暴動が勃発し、英国政府は独立の前に総選挙をおこなって民意を確定することを求めた。[[1956年]]に行われた選挙で、ダンカや[[コフィ・ブシア]]が率いる旧[[アシャンティ王国]]を地盤とする国民解放運動はアシャンティ以外で議席を伸ばせず、会議人民党政権は信任を受けた形となった。同年、[[国連信託統治領]]トーゴランドの帰属を確認する住民投票が行われ、北部ではゴールドコーストへの統合、[[エウェ人]]の多い南部では[[フランス]]領[[トーゴ]]との統合を求める票が多かったが、全体としてはゴールドコーストとの統合票が過半数となり、国連信託統治領トーゴランドは英領ゴールドコーストへと統合された<ref>中村弘光 『アフリカ現代史IV』 山川出版社〈世界現代史16〉、東京、1982年12月。pp.134-141</ref>。
[[1966年]][[2月24日]]、[[北京市|北京]]と[[ハノイ]]へ外遊中に[[軍隊]]・[[警察]]の[[クーデター]]があり失脚。以後、[[ギニア]]で亡命生活を送った。


そして、[[1957年]]にゴールドコーストは[[トーゴランド]]と共に[[イギリス]]より独立、国号を西アフリカ最初の大王国であった[[ガーナ王国]]にちなんでガーナと名づけ、エンクルマは初代ガーナ共和国[[首相]]に就任した。
[[1972年]][[4月27日]]、療養のため訪れた[[ルーマニア]]の[[ブカレスト]]で病死。暗殺説もある。

== 独立後 ==
=== 外交 ===
エンクルマは政権の座に就くと、何よりもまずパン・アフリカ主義のもとアフリカ諸国の独立支援と国家間の連帯に力を入れた。同志であるパドモアをガーナへと招聘し、[[1958年]]アフリカ各地の指導者を首都[[アクラ]]に集め、パドモアと共に[[全アフリカ人民会議]]を開催し、[[パトリス・ルムンバ]]らに大きな影響を与えた。またアフリカを統一国家とする[[アフリカ合衆国]]の構想も謳われた。しかし、[[1960年]]1月[[チュニジア]]で開かれた第二回会議では、独立要求こそ謳われたが、アフリカ統一に関する議論はほとんど行なわれなかった。[[1961年]]の[[コンゴ動乱]]では、アフリカ統一と[[社会主義]]を基本とし、[[パトリス・ルムンバ]]を支援するガーナや[[ギニア]]、[[マリ]]といったカサブランカ・グループと、緩やかな統合と欧米との友好を基本とする、[[リベリア]]や[[コートジボワール]]、[[ナイジェリア]]といったモンロビア・グループが対立したが、[[エチオピア]]の[[ハイレ・セラシエ1世]]の介入で和解、[[1963年]]には[[アジスアベバ]]で折衝案を盛り込んだ[[アフリカ統一機構]](OAU)が設立された<ref>中村弘光 『アフリカ現代史IV』 山川出版社〈世界現代史16〉、東京、1982年12月。p186</ref>。政治的統一は排除されたが、アフリカ諸国の相互援助は謳われた。1961年にはW・E・B・デュボイスをガーナに招き、エンサイクロペディア・アフリカーナの編纂を依頼した<ref>[[服部伸六]]「アフリカ歴史人物風土記」(社会思想社、1993年11月30日初版第1刷) ISBN 9784390115155 p61</ref>。エンクルマは植民地支配を受ける地域や独立間もない国家への支援を積極的に行ったが、これは内政の停滞を招き、結果的にゴールドコースト時代、アフリカで最も先進的だったガーナの財政を傾ける原因の一つとなった。

=== 内政 ===
内政においては中央集権を進め、各地の伝統首長や地方勢力と対立した。地方勢力や伝統首長層を制肘するため、1957年に独立するとすぐに差別廃止法が制定され、人種、出身、宗教を基盤とする政党は結成を禁止された<ref>田辺 裕、島田 周平、柴田 匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』、朝倉書店  p91 ISBN 4254166621</ref>。これは、エンクルマの与党である会議人民党が全国的な組織を持つのに対し、主要野党である国民解放運動は旧アシャンティ王国を基盤とし、トーゴランド会議が旧トーゴランド国連信託統治領のエウェ人を、北部人民党が北部の首長層を、ムスリム協会党が[[イスラム教徒]]を基盤としたため、与党にとって有利な法律であった。また、伝統首長に就任するには会議人民党の承認が必要になり、さらに伝統首長のポストはこの時代に大増設され、会議人民党に従順なもののみが就任を許された。これによりかつてゴールドコースト政界の主導権を握っていた伝統首長層の政治力は大幅に削減された。さらにカカオの栽培と[[金]]の産出によって国内で最も富み、王国の歴史があって独立心が強く、反エンクルマの傾向の強い有力州[[アシャンティ州]]については、アシャンティ人に従属していた州北部のブロン人とアハホ人を説得し、1958年に[[ブロング=アハフォ州]]として独立させることで州の力を削いだ<ref>高根務『ガーナ 混乱と希望の国』p96, アジア経済研究所、2003年11月7日 ISBN 978-4258051045</ref>。

これに対し、野党は団結して統一党を結成し、ダンカとブシアを指導者としてエンクルマに対抗したが、エンクルマは1958年に予防拘禁法を国会で通過させた。これは裁判無しでの投獄を可能とするもので、これによって統一党の主導者層は軒並み逮捕され、のちにダンカは獄死、ブシアはイギリスへの[[亡命]]を余儀なくされた。これによって対抗者を権力で抑圧し、エンクルマ政権は独裁化の道を歩み始める。[1960年]7月には[[共和制]]を採用し、エンクルマは初代大統領に就任した。こののちも独裁化は止まらず、1962年の8月と9月にはエンクルマの暗殺未遂が起こっている。これによって不安を感じたエンクルマは、軍とは別個の組織として大統領警護隊を組織したが、これは第2の軍の成立に不満を持った正規軍との間に不和を生じさせる原因となった<ref>片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年 ISBN 4-7947-0523-9 pp236-237</ref>。さらにエンクルマは個人崇拝を強制するようになり、また暗殺を恐れて会議などでは必ず壁を背にして座るようになった<ref>[[服部伸六]]「アフリカ歴史人物風土記」(社会思想社、1993年11月30日初版第1刷) ISBN 9784390115155 pp60-61</ref>。1964年1月にはついに野党を禁止し、ガーナは[[一党独裁制]]国家となった。

=== 経済 ===
エンクルマ政権の経済政策は、巨大プロジェクトの推進や機械化された大規模[[集団農場]]の設立、政府系企業の設立などを中心とした国家主導型の開発政策をとった。ヴォルタ川に巨大な[[アコソンボダム]]を建設し、その電力によって[[テマ]]に建設された[[アルミニウム]]精錬工場などのコンビナートを稼動させ外貨を得るという計画は、[[1962年]]1月に着工し、[[1966年]]に建設及び稼動には成功したものの予想を下回る成果しか得られなかったが、この計画はエンクルマ政権のプロジェクトの中で最も成功した部類に入る。[[工業化]]を目指して設立された政府系企業は機能せず、会議人民党に近い人々が利権を貪る場となった。これは、ガーナには自立した独立小農は多かったものの、企業家層および技術者が絶対的に不足しており、工業化を推進する条件が整っていなかったことによる。集団農場政策も失敗に終わった。[[カカオ]]はもともと小規模農家でも充分に採算が取れる作物であり、集団化させる必然性に乏しい。そのうえ国営農場は非常に非効率であり、機械化に要した費用も経済の重荷となった。

一方、独立前のゴールドコースト経済を支えていた独立小農に対しては、ほとんど支援を与えず、逆に彼らの犠牲の元で経済成長を進める方針を採った。この方針を可能にしたのが、[[1947年]]に設立されたカカオ・マーケティング・ボードである。この機構はゴールドコーストで生産されたカカオをすべて買い取り輸出するために設けられたものであり、本来はそれによってカカオの価格変動を抑え安定した収入をカカオ農家にもたらすためのものであった。しかし、エンクルマは政権の座に就くとこのカカオ買取価格を低く抑え、差額を国家の収入として積極的に活用し始めた<ref>高根務『ガーナ 混乱と希望の国』pp.97-100, アジア経済研究所、2003年11月7日 ISBN 978-4258051045</ref>。このことは、ガーナ経済の最大の強みであった意欲ある独立小農の意欲を大幅に減退させた。集団農場の失敗と独立小農の失望によりカカオの生産高は減少し、それとともにガーナ経済も衰退していった。外貨準備は1957年に2億[[イギリス・ポンド]]あり、負債は2000万ポンドに過ぎなかったが、1965年には外貨準備は0に、負債は4億イギリス・ポンドに達した<ref>中村弘光 『アフリカ現代史IV』 山川出版社〈世界現代史16〉、東京、1982年12月。p205</ref>。この経済混乱はエンクルマ失脚後にも尾を引き、1960年から[[1979年]]までのガーナ経済の年平均経済成長率は-0.8%となり、独立直後と比べて大幅に経済が縮小した。<ref>中村弘光 『アフリカ現代史IV』 山川出版社〈世界現代史16〉、東京、1982年12月。p176</ref>

== 失脚 ==
[[1966年]][[2月24日]]、[[北京市|北京]]と[[ハノイ]]へ外遊中にエマヌエル・コトカ大佐とアクワシ・アフリファ少佐による[[軍隊]]の[[クーデター]]が起こり、エンクルマは失脚し、政治的に近かった[[セク・トゥーレ]]率いる[[ギニア]]への亡命を余儀なくされた。ギニアでは賓客として遇され、回顧録の執筆や薔薇の栽培などをして過ごした。そして亡命から6年後の[[1972年]][[4月27日]]、療養のため訪れた[[ルーマニア]]の[[ブカレスト]]で[[癌]]により病死した。<ref>高根務『ガーナ 混乱と希望の国』p104, アジア経済研究所、2003年11月7日 ISBN 978-4258051045</ref>遺体は出生地であるンクロフルに埋葬するためガーナへと送り返され、当時の国家元首である[[イグナティウス・アチャンポン]]ほか2万人が葬儀に参列した。<ref>中村弘光 『アフリカ現代史IV』 山川出版社〈世界現代史16〉、東京、1982年12月。p208</ref>


== 著作 ==
== 著作 ==
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* [[アフリカ統一機構]]
* [[アフリカ統一機構]]
* [[アフリカ合衆国]]
* [[アフリカ合衆国]]

== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2011年9月2日 (金) 15:18時点における版

フランシス・ンウィア・コフィア・ンクルマ
Francis Nwia Kofia Nkrumah


ガーナ共和国
初代 大統領
任期 1960年7月1日1966年2月24日

ガーナ共和国
初代 首相
任期 1957年3月6日1960年7月1日

英領ゴールド・コースト
初代 首相
任期 1952年1957年

任期 1965年10月21日1966年2月24日

出生 (1909-09-21) 1909年9月21日
ンクロフル
死去 (1972-04-27) 1972年4月27日(62歳没)
ブカレスト
ソ連で発行されたエンクルマの肖像切手(1989年)

クワメ・ンクルマKwame Nkrumah, 本名:Francis Nwia Kofia Nkrumah 1909年9月21日 - 1972年4月27日)は政治家ガーナ初代大統領。ガーナの独立運動を指揮し、アフリカの独立運動の父といわれる。マルクス主義者。日本語では姓がンクルマと表記される場合もある。エンクルマは語頭で「ン」を発音することができない英語での読み方。

前半生

エンクルマは1909年9月21日イギリス領の植民地ゴールド・コーストの西部海岸にあるンクロフルにて[1]アカン族の鍛冶屋の家に生まれる。1930年に首都アクラのアチモタ・スクールを卒業後[2]ローマ・カトリック神学校に進み、のちアクシムのカトリックの学校で教鞭をとった。幼少より成績優秀だったため、1935年、親族に借金してアメリカ合衆国に渡り、リンカーン大学に入学した。

1935年イタリアエチオピア侵攻を聞いて激怒し、植民地制度の打倒を志す。1942年ペンシルバニア大学大学院にて教育学の修士号を、翌年には哲学の修士号を取得[3]。この間、アメリカやカナダに滞在するアフリカ人留学生の組織化につとめた。このころ、マーカス・ガーベイC・L・R・ジェームズW・E・B・デュボイスの思想に影響を受け、パン・アフリカ主義の立場をとるようになった。1945年5月にはイギリスに渡り、宗主国で優遇されるアフリカ出身のエリートの説得に奔走した。同年、マンチェスターで開かれた第五回パン・アフリカ会議ではのちに盟友となるジョージ・パドモアと共に書記を務めた。この会議にはエンクルマのほか、ケニアジョモ・ケニヤッタマラウイヘイスティングズ・カムズ・バンダナイジェリアオバフェミ・アウォロウォなどアフリカ大陸の独立指導者が多く参加し、これまでの欧米在住の黒人にかわってアフリカ大陸出身者がパンアフリカニズムの中心となるきっかけとなった。また、この時に国際会議事務局が設置され、エンクルマとパドモアが書記に、ケニヤッタが書記補に就任した[4]

独立まで

第二次世界大戦後、エンクルマの故国である英領ゴールドコーストでは自治権要求運動がさかんになった。そんな中、1947年に植民地エリートや伝統首長を中心に連合ゴールドコースト会議が結成されると、結成メンバーの一人でアメリカ時代のエンクルマの同志であった弁護士アコ=アジェイがエンクルマを招請し、同年12月エンクルマは帰国し、連合ゴールドコースト会議の事務局長に就任した。

1948年1月、おりからの物価高騰などにより不満を爆発させた市民が首都アクラでヨーロッパ商品の不買運動を始め、2月には暴動に発展した。この暴動は連合ゴールドコースト会議が起こしたものではなかったが、植民地当局は同党が煽動をおこなったとして、党の首脳部6人(エンクルマ、エマニュエル・オベツェビ=ランプティ、J.B.ダンカ、エドワード・アクフォ=アド、ウィリアム・オフォリ=アタ、エベネゼル・アコ=アジェイ)の6人を逮捕した。しかしこれにより同党の人気はさらに高まった。

これに驚いた宗主国イギリスは調査団をゴールドコーストに派遣し、調査団は自治の拡大とアフリカ人主体の立法評議会の設置を提言した。この提言に対しもともと富裕層中心で穏健だった連合ゴールドコースト会議は賛成したが、エンクルマは即時独立の要求を掲げて党首脳部と対立し、1949年にはエンクルマは脱党して新党である会議人民党を結成し、ストライキなど強硬な政策を打ち出した。会議人民党は下層住民の支持を受け、党勢は急速に拡大。1950年1月には即時自治を求めてデモを行い、デモ隊と警官隊が衝突。この責任を問われ逮捕されるが、調査団の提言を元に制定された1951年憲法のもとでおこなわれた1951年の選挙で会議人民党は第一党となり、獄中から立候補していたエンクルマも当選し、釈放された。エンクルマは政府事務主席の座に就くと、交渉により平和的な方法でのイギリスからの独立に方針を転換した。1954年には新憲法を制定して国内の自治をイギリスに認めさせ、同年新憲法下でおこなわれた選挙においても会議人民党は104議席中72議席を獲得して圧勝。独立はこれによりほぼ規定路線となった。

しかし、中央集権的な政権を目指すエンクルマに対し、旧来の大王国を持ち経済的にもゴールドコーストで最も豊かなアシャンティ地方が反発。暴動が勃発し、英国政府は独立の前に総選挙をおこなって民意を確定することを求めた。1956年に行われた選挙で、ダンカやコフィ・ブシアが率いる旧アシャンティ王国を地盤とする国民解放運動はアシャンティ以外で議席を伸ばせず、会議人民党政権は信任を受けた形となった。同年、国連信託統治領トーゴランドの帰属を確認する住民投票が行われ、北部ではゴールドコーストへの統合、エウェ人の多い南部ではフランストーゴとの統合を求める票が多かったが、全体としてはゴールドコーストとの統合票が過半数となり、国連信託統治領トーゴランドは英領ゴールドコーストへと統合された[5]

そして、1957年にゴールドコーストはトーゴランドと共にイギリスより独立、国号を西アフリカ最初の大王国であったガーナ王国にちなんでガーナと名づけ、エンクルマは初代ガーナ共和国首相に就任した。

独立後

外交

エンクルマは政権の座に就くと、何よりもまずパン・アフリカ主義のもとアフリカ諸国の独立支援と国家間の連帯に力を入れた。同志であるパドモアをガーナへと招聘し、1958年アフリカ各地の指導者を首都アクラに集め、パドモアと共に全アフリカ人民会議を開催し、パトリス・ルムンバらに大きな影響を与えた。またアフリカを統一国家とするアフリカ合衆国の構想も謳われた。しかし、1960年1月チュニジアで開かれた第二回会議では、独立要求こそ謳われたが、アフリカ統一に関する議論はほとんど行なわれなかった。1961年コンゴ動乱では、アフリカ統一と社会主義を基本とし、パトリス・ルムンバを支援するガーナやギニアマリといったカサブランカ・グループと、緩やかな統合と欧米との友好を基本とする、リベリアコートジボワールナイジェリアといったモンロビア・グループが対立したが、エチオピアハイレ・セラシエ1世の介入で和解、1963年にはアジスアベバで折衝案を盛り込んだアフリカ統一機構(OAU)が設立された[6]。政治的統一は排除されたが、アフリカ諸国の相互援助は謳われた。1961年にはW・E・B・デュボイスをガーナに招き、エンサイクロペディア・アフリカーナの編纂を依頼した[7]。エンクルマは植民地支配を受ける地域や独立間もない国家への支援を積極的に行ったが、これは内政の停滞を招き、結果的にゴールドコースト時代、アフリカで最も先進的だったガーナの財政を傾ける原因の一つとなった。

内政

内政においては中央集権を進め、各地の伝統首長や地方勢力と対立した。地方勢力や伝統首長層を制肘するため、1957年に独立するとすぐに差別廃止法が制定され、人種、出身、宗教を基盤とする政党は結成を禁止された[8]。これは、エンクルマの与党である会議人民党が全国的な組織を持つのに対し、主要野党である国民解放運動は旧アシャンティ王国を基盤とし、トーゴランド会議が旧トーゴランド国連信託統治領のエウェ人を、北部人民党が北部の首長層を、ムスリム協会党がイスラム教徒を基盤としたため、与党にとって有利な法律であった。また、伝統首長に就任するには会議人民党の承認が必要になり、さらに伝統首長のポストはこの時代に大増設され、会議人民党に従順なもののみが就任を許された。これによりかつてゴールドコースト政界の主導権を握っていた伝統首長層の政治力は大幅に削減された。さらにカカオの栽培との産出によって国内で最も富み、王国の歴史があって独立心が強く、反エンクルマの傾向の強い有力州アシャンティ州については、アシャンティ人に従属していた州北部のブロン人とアハホ人を説得し、1958年にブロング=アハフォ州として独立させることで州の力を削いだ[9]

これに対し、野党は団結して統一党を結成し、ダンカとブシアを指導者としてエンクルマに対抗したが、エンクルマは1958年に予防拘禁法を国会で通過させた。これは裁判無しでの投獄を可能とするもので、これによって統一党の主導者層は軒並み逮捕され、のちにダンカは獄死、ブシアはイギリスへの亡命を余儀なくされた。これによって対抗者を権力で抑圧し、エンクルマ政権は独裁化の道を歩み始める。[1960年]7月には共和制を採用し、エンクルマは初代大統領に就任した。こののちも独裁化は止まらず、1962年の8月と9月にはエンクルマの暗殺未遂が起こっている。これによって不安を感じたエンクルマは、軍とは別個の組織として大統領警護隊を組織したが、これは第2の軍の成立に不満を持った正規軍との間に不和を生じさせる原因となった[10]。さらにエンクルマは個人崇拝を強制するようになり、また暗殺を恐れて会議などでは必ず壁を背にして座るようになった[11]。1964年1月にはついに野党を禁止し、ガーナは一党独裁制国家となった。

経済

エンクルマ政権の経済政策は、巨大プロジェクトの推進や機械化された大規模集団農場の設立、政府系企業の設立などを中心とした国家主導型の開発政策をとった。ヴォルタ川に巨大なアコソンボダムを建設し、その電力によってテマに建設されたアルミニウム精錬工場などのコンビナートを稼動させ外貨を得るという計画は、1962年1月に着工し、1966年に建設及び稼動には成功したものの予想を下回る成果しか得られなかったが、この計画はエンクルマ政権のプロジェクトの中で最も成功した部類に入る。工業化を目指して設立された政府系企業は機能せず、会議人民党に近い人々が利権を貪る場となった。これは、ガーナには自立した独立小農は多かったものの、企業家層および技術者が絶対的に不足しており、工業化を推進する条件が整っていなかったことによる。集団農場政策も失敗に終わった。カカオはもともと小規模農家でも充分に採算が取れる作物であり、集団化させる必然性に乏しい。そのうえ国営農場は非常に非効率であり、機械化に要した費用も経済の重荷となった。

一方、独立前のゴールドコースト経済を支えていた独立小農に対しては、ほとんど支援を与えず、逆に彼らの犠牲の元で経済成長を進める方針を採った。この方針を可能にしたのが、1947年に設立されたカカオ・マーケティング・ボードである。この機構はゴールドコーストで生産されたカカオをすべて買い取り輸出するために設けられたものであり、本来はそれによってカカオの価格変動を抑え安定した収入をカカオ農家にもたらすためのものであった。しかし、エンクルマは政権の座に就くとこのカカオ買取価格を低く抑え、差額を国家の収入として積極的に活用し始めた[12]。このことは、ガーナ経済の最大の強みであった意欲ある独立小農の意欲を大幅に減退させた。集団農場の失敗と独立小農の失望によりカカオの生産高は減少し、それとともにガーナ経済も衰退していった。外貨準備は1957年に2億イギリス・ポンドあり、負債は2000万ポンドに過ぎなかったが、1965年には外貨準備は0に、負債は4億イギリス・ポンドに達した[13]。この経済混乱はエンクルマ失脚後にも尾を引き、1960年から1979年までのガーナ経済の年平均経済成長率は-0.8%となり、独立直後と比べて大幅に経済が縮小した。[14]

失脚

1966年2月24日北京ハノイへ外遊中にエマヌエル・コトカ大佐とアクワシ・アフリファ少佐による軍隊クーデターが起こり、エンクルマは失脚し、政治的に近かったセク・トゥーレ率いるギニアへの亡命を余儀なくされた。ギニアでは賓客として遇され、回顧録の執筆や薔薇の栽培などをして過ごした。そして亡命から6年後の1972年4月27日、療養のため訪れたルーマニアブカレストにより病死した。[15]遺体は出生地であるンクロフルに埋葬するためガーナへと送り返され、当時の国家元首であるイグナティウス・アチャンポンほか2万人が葬儀に参列した。[16]

著作

  • 『わが祖国への自伝』
  • 『アフリカ解放の道』
  • 『自由のための自由』

関連項目

脚注

  1. ^ Yaw Owusu, Robert (2005). Kwame Nkrumah's Liberation Thought: A Paradigm for Religious Advocacy in Contemporary Ghana. pp. 97 
  2. ^ E. Jessup, John. An Encyclopedic Dictionary of Conflict and Conflict Resolution, 1945-1996. pp. 533 
  3. ^ 高根務『ガーナ 混乱と希望の国』p.86, アジア経済研究所、2003年11月7日 ISBN 978-4258051045
  4. ^ 「週刊朝日百科 世界の地理102 ガーナ・トーゴ・ベナン・ブルキナファソ」 昭和60年10月6日発行 朝日新聞社 P11-39
  5. ^ 中村弘光 『アフリカ現代史IV』 山川出版社〈世界現代史16〉、東京、1982年12月。pp.134-141
  6. ^ 中村弘光 『アフリカ現代史IV』 山川出版社〈世界現代史16〉、東京、1982年12月。p186
  7. ^ 服部伸六「アフリカ歴史人物風土記」(社会思想社、1993年11月30日初版第1刷) ISBN 9784390115155 p61
  8. ^ 田辺 裕、島田 周平、柴田 匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』、朝倉書店  p91 ISBN 4254166621
  9. ^ 高根務『ガーナ 混乱と希望の国』p96, アジア経済研究所、2003年11月7日 ISBN 978-4258051045
  10. ^ 片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年 ISBN 4-7947-0523-9 pp236-237
  11. ^ 服部伸六「アフリカ歴史人物風土記」(社会思想社、1993年11月30日初版第1刷) ISBN 9784390115155 pp60-61
  12. ^ 高根務『ガーナ 混乱と希望の国』pp.97-100, アジア経済研究所、2003年11月7日 ISBN 978-4258051045
  13. ^ 中村弘光 『アフリカ現代史IV』 山川出版社〈世界現代史16〉、東京、1982年12月。p205
  14. ^ 中村弘光 『アフリカ現代史IV』 山川出版社〈世界現代史16〉、東京、1982年12月。p176
  15. ^ 高根務『ガーナ 混乱と希望の国』p104, アジア経済研究所、2003年11月7日 ISBN 978-4258051045
  16. ^ 中村弘光 『アフリカ現代史IV』 山川出版社〈世界現代史16〉、東京、1982年12月。p208


外部リンク

公職
先代
(新設)
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先代
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ガーナ共和国首相より改編
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先代
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Kojo Botsio(en)
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