土湯温泉

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Hot springs 001.svg土湯温泉
Tsuchiyu Onsen 100808.jpg
土湯温泉の遠景
温泉情報
所在地 福島県福島市
交通 鉄道 : 東北新幹線福島駅より福島交通バスで約45分
車:東北自動車道 福島西インターチェンジより車で15分
泉質 硫黄泉炭酸水素塩泉単純温泉
宿泊施設数 19
外部リンク 土湯温泉観光協会
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土湯温泉(つちゆおんせん)は、福島県福島市(旧国陸奥国明治以降は岩代国)土湯温泉町にある温泉

アクセス[編集]

泉質[編集]

温泉街[編集]

温泉街にある足湯(月の湯ぶじぇ)

荒川沿いに19軒の大小の旅館ホテルが並ぶ。昔からの歴史ある温泉街で、古くから湯治場として知られている。最近は、近代的施設(旅館・ホテル)も建てられ、近在のみならず仙台や関東圏からの利用者も多い。JR福島駅・東北自動車道からのアクセスも良い立地である。春は、温泉街近郊の仁田沼周辺には、ミズバショウカタクリの花が咲く。

町内には足湯が4箇所存在する。全て無料で利用できる。

共同浴場は2軒存在する。中の湯・こけし湯(サンスカイつちゆ)

土湯は鳴子温泉遠刈田温泉温湯温泉などとともにこけしで有名な温泉地でもあり、土産物としても売られている。土湯見聞録館 こけしの展示館などが存在する。

歴史[編集]

開湯伝説では、オオムナチノミコト(大穴貴命)が荒川のほとりで地面を鉾で突いて発見したとされる。鉾で突いたことから「突き湯」となり、それが転じで「土湯」となったという。

また、用明2年に聖徳太子の使者、秦河勝がこの地で湯治を行ったという伝説も残る。

吾妻鏡にも土湯の記載がある。

直江兼続 兼続は、1615年(元和元年)には、土湯に九山禅師の隠居寺となる興徳寺を建立しています。九山禅師が興徳寺に隠居してからも、米沢藩主は、禅師の健康を気遣ったという。九山禅師は1636年(寛永13年)ここ土湯の興徳寺で没します。九山禅師のお墓が、土湯小学校西側の高台に奉られています。 渡辺治右衛門 江戸後期の和算家。通称治右衛門。陸奥国信夫郡(福島県)土湯生まれ。19歳のとき、須永通屋に学び、会田安明と土湯で会い、31歳まで江戸で安明に師事。1797年(寛政9年)二本松藩に召し出され、1819年(文政2年)20石、1829年(文政12年)65石を給せられ、二本松で最上流和算を盛んにした。多数の著述があるが、『算法身之加減』は復刻されている。

江戸時代の文化・文政の頃、土湯は俳諧の地としても知られ、多くの俳人が輩出されました。 この俳人たちの集まりは「土湯連」と呼ばれ、多くの歌が詠まれました。 その土湯連の一人「鳩麿」によって読まれた俳諧集が「温泉八景」です。 一、鬼面山の暮雲    久方の雲井はるかに     見降れば      鬼面山のゆきの夕ぐれ 二、荒川の夕照    湯返りにまい坂こして     見かへれば      夕日にかかる荒川のなみ 三、烏川の晴嵐    照り渡る     日もななめして烏川      浪にたちそう橋はしらかな 四、太子堂晩鐘    吹きさそふ風にともなふ     鐘の音も      みあらか清くひびくかしこさ 五、松ヶ窪の夜雨    名にしおふ信夫の山の     松ヶ窪      やみ夜さやけき雨のおとかな 六、熊野山の秋月    さやかなる熊野の山の     はし紅葉      赤らむ頃の秋の夜の月 七、男沼の落雁    なみたつる男沼の岸に     かけとめて      声もさやかに落つる雁かね 八、女沼の帰帆    女沼こそ水も澄むらめ     舵とりて      浪間に返るかづの釣船


保科正之(徳川三代将軍・家光の弟)が、会津藩を治世していた1662年(寛文3年)、会津から土湯峠を越えて福島に至る会津街道を開いた。その宿場町として土湯は栄えたという。 戊辰戦争の時には、会津藩を朝敵として攻める官軍と、会津軍が対峙する最前線となった歴史もある。 戊辰戦争と土湯の関係旧街道と山神社(祭神 大山祇命・木花咲耶媛) 土湯から会津へ通じる街道は、この山神社の前を通って、ほぼ現在の送電線の下に沿って野地温泉を経て土湯峠に抜ける重要な路線であった。土湯のいでゆで休息をとった旅人や運送業者は、この太子堂や1773年(安政2年)建立の山神社に詣で、道中の安全を祈った。急坂な道を5キロ程登ると陣場という地にいたるが、そこに山神社奥宮の石祠がある。ちょうどここは土湯峠との中間地点にあたる。この旧道は、115号開通後は寂れて迷いやすくなり、現在は廃道になってしまった。 戊辰戦争で、会津軍はこの道を撤退するのだが、その時に、情け容赦なく火を放つ。 1868年(慶応4年)8月2日、戊辰戦争の折りに、会津軍はこの村を撤退するときに、西軍の拠点になることを恐れて、土湯の全村に火を放ったのだが、この道を撤退していったに違いない。 村には73軒の家があったが、71軒が焼け落ちたという。

1999年4月20日高湯温泉とともに国民保養温泉地に指定。

荒川大橋傍の足湯「かじかの湯」は2005年7月9日にオープンした。

2011年の東日本大震災以降、最も廃業が目立った温泉地としても報道され、16件あった旅館は11件にまで減少した。主な要因として、原発事故後の風評被害が挙げられるものの、県内他の温泉地はそこまで廃業が相次ぐほどには至っていない。これは震災直後、土湯が被災者や避難者を受け容れたことと、その後の反動が大きな要因である。被災者、避難者を受け容れていた8月までは、結果的にツアーバスなど観光目的の立ち寄りや受け容れによる宿泊施設等の稼働率確保ができていた。しかし、8月を目処に避難者、被災者が他所に移ったため、稼働率が3割未満に急落し、人件費など過剰となった運営費用が旅館経営を圧迫したためである。

その結果、半年で5件の旅館が廃業、休業に追い込まれ、温泉地は存亡の危機に立たされた。そのため、地熱発電所を誘致する計画なども立てられている。一方、2013年は『八重の桜』の効果もあり、会津地方を中心とした福島県各地に観光客が戻る気配も見られ、1件の旅館が再生に漕ぎ着けている。その他、2件の廃業旅館も、復興労働者用の保養施設や市民の共同浴場などを設ける計画が立てられるなど、新たな兆しも見られている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]