フォルミニーの戦い

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フォルミニーの戦い: Bataille de Formigny: Battle of Formigny)は、1450年4月15日にフランス北部ノルマンディー地方で行われた百年戦争後期の戦闘。イングランド軍が大敗し、ノルマンディーを完全に失い、百年戦争の帰趨を実質的に決定した。この3年後のフランス南西部で行われたカスティヨンの戦いでイングランド側はギュイエンヌを失い、百年戦争は終結した。

フォルミニーの戦い
フォルミニーの戦い
フォルミニーの戦い(Martial d'Auvergne画)
戦争:百年戦争
年月日1450年4月15日
場所ノルマンディーカランタン市近郊
結果:決定的なフランスの勝利
交戦勢力
イングランド王国 フランス王国
ブルターニュ公国
指揮官
トーマス・キリエル リッシュモン大元帥
シャルル1世
戦力
6,000~7,000 4,500(うち騎兵2,000)
損害
戦死3,800~4,000、捕虜1,400 戦死500~600

背景[編集]

フランスはジャンヌ・ダルクによるオルレアンの解放後、パテーの戦いにより、一気に退勢を回復した。不義の子とみなされていた王太子がシャルル7世としてランス大聖堂で正式に即位した宣伝効果は大きく、イギリスと同盟していたブルゴーニュ公国に加え、次弟がフランス大元帥として早くからフランス側に加わっていたブルターニュ公も中立からフランス側に回り、当時王国で最も重要な都市であるパリも回復された。限定的ながらもようやく王の信任を得たフランス大元帥リッシュモン伯アルテュール(後のブルターニュ公)は、それまでの傭兵制から王直属の民兵による常備兵制度に切り替えを図った。それは直接王国内に課税することになるため、特権を侵されるのを嫌った貴族は王と不仲である王太子と結んでプラグリーの反乱を起こしたが、優秀なブルターニュ兵と砲兵を持つリッシュモン大元帥に鎮圧された。

1444年のトゥール条約により、2年間の休戦が認められるとフランス軍の改革は一層進み、ビュロー兄弟による砲兵の改良とそれによる砲兵隊の編成も進んでいた。

一方でイギリスはヘンリー5世が死に幼いヘンリー6世の代となると、戦意は急速に萎み、主戦派と和平派で国がまとまらなくなっていた。それまでの主流派であったグロスター公やヨーク公リチャードは遠ざけられ、和平派であるボーフォート枢機卿、サフォーク伯ウィリアムなどが国政に参加するようになっていた。トゥール条約ではシャルル7世の姪との政略結婚が行われたが、その代償としてメーヌとアンジューをフランスに引き渡した。それに加え汚職や寵臣たちへの贔屓などにより財政危機や秩序の崩を招き、フランスでの戦争での恒常的な敗北によって人気は急落していた。

また、イギリス王室発祥の地であるノルマンディーにおいても、イギリスの占領政策は不人気であり、イギリス兵の恒常的な略奪や残虐行為に住民は強い反英感情を持っていた。


1449年夏、ブルターニュ公爵フランソワ1世は、叔父であるリッシュモン大元帥と共にノルマンディーに侵攻し、ブルターニュへの入り口に当たる要衝サンジャム・ドゥ・ブーヴロンを奪取し、モルタンを抜いた。

7月21日に英仏両国は宣戦布告を行い、フランス軍は攻勢を開始した。フランス軍はブルターニュ兵を主力とするリッシュモン大元帥がシャルル7世及びブルターニュ公と共に直卒してノルマンディー西部へ向かい、デュノワ伯爵の別働隊はルアンへ進撃した。

フランスは軍紀を引き締めており、リッシュモン大元帥がフランス軍を統率してからは略奪行為を嫌っていたために、住民感情が圧倒的にフランス寄りになっていた。そのため、リッシュモンの軍勢はフージェールを囲んだまま主力はコタンタン半島の入り口であるクータンスを住民の助けもあり容易に占領し、9月15日にはサン・ローが無血開城を余儀なくさせた。9月26日にはカランタンが落城し、その周辺地方はことごとくフランスが奪還した。フランス軍はフージェールに取って返し、砲撃により陥落させた。

一方でデュノア伯の別働隊はマントとヴェルヌーユを抜くとコンシュとポン・ドゥ・ラルシュと続けて戦果を挙げ、ルアンを包囲すると、リッシュモン大元帥の主力が合流した。イギリス軍は住民感情の悪化によりルアンの維持が困難であり、軍勢退去の形で降伏した。この余波でノルマンディー地方はシェルブール及びカーン周辺を除き大半をフランスが支配することになった。

戦闘に至る経緯[編集]

イギリス王家及び上流貴族の発祥の地であるノルマンディー地方の喪失は受け入れられがたいものであったため、イギリスは翌1450年にノルマンディー地方最大の港湾都市シェルブールにキリエル指揮下の増援を派遣した。キリエルは目の上のたんこぶともいえる、シェルブールのすぐ南に位置するフランス軍の要衝ヴァローヌを包囲した。

この時、フランス軍を統率すべきリッシュモン大元帥はブルターニュにあり、兄の子供であるブルターニュ公と、弟のジルの処遇を巡って一時的に不和となっていた。ジルはイギリス王の幼馴染であり、親英派であった。そのため、フランス側についた甥のブルターニュ公と兄のリッシュモンを非難し、反仏的な行動を行い逮捕されていた。処刑しようとするブルターニュ公とそれを止めようとする大元帥の不一致により、リッシュモン大元帥は手勢を除くブルターニュ兵を動員できなかった。リッシュモン大元帥はブルターニュ公と和解してブルターニュ兵の動員を待つべきという周囲の声を聞かず、出兵したが、ヴァローヌは抜かれてしまった。

フランス王シャルル7世は直ちに3,000のフランス兵をリッシュモン大元帥の婿である若きクレールモン伯指揮の下に送らせた。リッシュモンは合流行動を最優先にすべく指令した。

戦闘の経過[編集]

イギリス軍はヴァローヌを抜くと、カーンへ向かった。それに対しマキと呼ばれる反英住民組織が妨害活動を行い、クレールモン伯もそれを支援しようとしたが、イギリス軍は撃退した。しかしクレールモンはイギリス軍がカーンとサン・ローとの中間地点にあるフォルミニー村で停止していることを突き止め、リッシュモン大元帥の軍との合流を待たずに4月15日に戦端を開いた。イギリス軍は急襲を予期しており、4月14日から急造ながらも野戦築城を施し、待ち受けていた。しかしながら、イギリス軍は近くにいる常勝リッシュモン大元帥の軍を警戒するために側面と後方に多くの兵を割かざるを得なかった。指揮官のキリエルは2つの橋を厳重に守り、騎兵突撃に備えた。

3倍の敵に対するクレールモン伯の攻撃は撃退された上に逆襲にあい、2門の大砲も奪われてしまった。また、イギリス軍のサマセット公の増援軍が近づいているという情報が両軍に入り、フランス軍は恐慌状態となり、イギリス軍の士気が上がった。しかしながら戦場の南から、イギリス軍の左翼に現れたのはクレールモン伯の攻撃意図を知らされたリッシュモン大元帥のフランス軍であった。4月15日に攻撃の意図を知ったリッシュモン大元帥は現地に急行し、直ちにクレールモン伯の軍勢を掌握した。その後、兵力において劣勢ながら、縦に伸びたイギリス軍の中核に対し騎兵突撃を敢行した。また、ブレゼに別働隊を受け持たせ右翼軍とし、カーン方面への退路を遮断させるべく攻勢を取らせ、崩壊し圧力を受けている左翼には増援を送り支えた。それを受けてクレールモン伯は左翼を持ちこたえた。そのため、カーンへの退路を絶たれたイギリス軍は半包囲状態となり、中央部での圧力を支えきれずに崩壊した。北のバイユー方面への敗退するイギリス軍にノルマンディーで被支配民としての苦杯を嘗め尽くしたフランス農民が襲いかかり、多くが虐殺された。イギリス軍司令官キリエルは乱戦の中で戦死した。クレールモン伯はリッシュモン大元帥により騎士叙勲を受けた。

数に劣るフランス軍が野戦でイギリス軍に勝利したのは初めてであり、2世紀以上続く陸戦におけるフランス優位を決定付けた戦いでもあった。フランスの軍制改革が実った形となった。また大砲が野戦に使われた嚆矢ともいえるが、有効に活用されたとは言えず、砲兵隊が重要な位置を占めるのは3年後のカスティヨンの戦いまで待たなければならない。

戦闘の影響[編集]

イギリスの野戦軍が一掃されたノルマンディーではフランス側の攻勢が続き、ブルターニュ公とリッシュモン大元帥はアヴェランジュを、デュノワ伯はバイユーを包囲陥落させ、王直卒のフランス軍はその後カーンを陥落させた。これらの攻囲戦闘でも砲兵隊が有意義に使用された。

翌年には百年戦争中期の名将デュ・ゲクランも陥落できなかった港湾都市シェルブールが囲まれ、砲兵隊により陥落した。これによってノルマンディー方面からイギリス軍勢力が一掃され、百年戦争におけるフランス勝利の帰趨が明確となった。

その後、フランス王国はボルドーを中心とする、長くイギリス王の固有領土であったアキテーヌ公領を攻略するが、ブルターニュ人でもあるフランス大元帥リッシュモン伯アルチュールにこれ以上の功績を挙げさせないため、大元帥をノルマンディーの後処理に当たらせた。アキテーヌにおいてはカスティヨンの戦いでイギリス軍は大陸における領土をほぼ全て失った。

外部リンク[編集]