ハリー・サルツマン

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ハリー・サルツマンHarry Saltzman1915年10月27日 - 1994年9月28日[1])はカナダ出身の映画プロデューサー。007シリーズの製作で知られる。

来歴[編集]

カナダニューブランズウィック州に生まれる[1]

アルバート・R・ブロッコリと共同でイーオン・プロダクションズを設立し、イアン・フレミングのスパイ小説、007シリーズを映画化。同シリーズは現在では当たり前のように製作されているスパイ映画の草分け的な存在になった。ブロッコリ、テレンス・ヤングショーン・コネリーケン・アダムモーリス・ビンダーらと共に007シリーズの黎明期における大功労者として名を残す。サルツマンは数々の名案を生み出し、周囲から「ショーマン(SHOWMAN)」と呼ばれた。しかし、『女王陛下の007』がそれまでの諸作より低調な興行収入に終わり、ブロッコリといつしか亀裂が生じてしまう。そしてサイドビジネスの不調から1975年、『007 黄金銃を持つ男』を最後に007シリーズの映画化権の持分を、ユナイテッド・アーティスツに売却し、シリーズの製作から身を引き、ファンに衝撃を与えた。その後も007シリーズの出演者とは交流があった。その後は以前ほど目立った活動が出来ず、事業が失敗して多額の借金を背負うことになってしまう。製作を降りた『007 私を愛したスパイ』の撮影期間中の失意の時に、妻・ジャッキーが癌で亡くなり、以後は遺族によると意気消沈して抜け殻のようになってしまい、自身も体調を崩してしまったという。1981年、ハイアム・トポルの提案によりブロッコリは『007 ユア・アイズ・オンリー』のプレミア試写会にサルツマンは家族と招待された。そこでブロッコリとサルツマンは抱擁を交わし、一同からは拍手が起きた。2人が対立したのは仕事面であり、互いに悪感情はなかった。カビーはボンド映画で素晴らしい仕事をしているとサルツマンは述べている。シリーズの製作復帰も打診されたがサルツマンが断っている。その後は意欲を取り戻し、『ニジンスキー』製作後、映画劇場運営会社を立ち上げ、世界各国の映画に出資し、映画界に貢献した。カンヌ映画祭グランプリ候補となった『ジプシーのとき』もその一つ。大好きだったという演劇にも関わった。

晩年はフランスヴェルサイユ近郊に住んでいたが、1994年、ヌイイ=シュル=セーヌのアメリカン・ホスピタルで心臓発作のため死去した[1]。78歳没。

製作映画作品[編集]

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外部リンク[編集]