サン・フアン・バウティスタ号

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サン・ファン・バウティスタ号(復元)

サン・ファン・バウティスタ号(San Juan Bautista、“St. John the Baptist”[1])は、江戸時代仙台藩主、伊達政宗が仙台領内で建造したガレオン船。政宗が仙台領内に滞在していたスペイン人提督セバスティアン・ビスカイノに協力させて建造した、約500トン級で最初の日本製西洋型軍船である。

目次

[編集] 概要

慶長19年(1614年)、徳川家康の許可、すなわち“外交権”を得た伊達政宗が、仙台藩士、支倉常長を外交使節に任命し、支倉一行がスペインとの貿易交渉のため太平洋を横断。その際に乗船した巨大帆船がサン・ファン・バウティスタ号である。スペイン風ガレオン船南蛮船)の様式を取っている。伊達政宗が使節を送った目的として、スペインとの軍事同盟、さらにはそれを利用しての倒幕があったとの説もある。[2]

伊達政宗はこの慶長遣欧使節において、その正使にはビスカイノ提督ではなく、政宗と親しいフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを任命した。ルイス・ソテロ、支倉常長、ビスカイノ提督らを乗せたサン・ファン・バウティスタ号は、「日本初の対ヨーロッパ外交交渉」を行う旅に出た。

支倉らが目指したのは、スペイン帝国の中枢を成す、スペイン王国のフェリペ3世ポルトガル王兼任)である。当時スペインはフェリペ3世の父、フェリペ2世の時代に最盛期を終えた段階にあったが、依然としてスペイン帝国は「世界最大の植民地帝国」であった。

支倉常長とルイス・ソテロは、スペインの首都、マドリードの王宮でフェリペ3世と謁見した。しかし、この時期に日本国内では、徳川家康がキリスト教徒の大弾圧を行っていた。この情報がスペイン側に伝わり、支倉一行は窮地に立たされる。支倉一行は劣勢を挽回するために、ローマ教皇との謁見を計画した。

支倉一行はローマで、名誉ある「ローマ入市式」を行うなどの大歓迎を受けた。支倉常長はローマ市民権を与えられ、さらに貴族に叙された。支倉らはローマ教皇、パウロ5世と謁見し、教皇にスペインとの外交交渉の助力を頼んだ。

ローマ教皇の支持を得た支倉一行は再びスペインのマドリードを訪れ、フェリペ3世と外交交渉を行った。しかし、結果的にこの外交交渉は失敗に終わった。

[編集] 造船

大名伊達政宗の命により、慶長18年(1613年)に建造された。建造地は宮城県石巻市雄勝湾(旧、雄勝町)である。

  • 建造日数:45日
  • 造船工:800人、鍛冶:700人、大工:3000人が参加
  • 排水量:500t
  • 全長:55m
  • 最大幅:11m

[編集] 航海

サン・ファン・バウティスタ号は1617年ローマ支倉常長と共に描かれている;Claude Deruet画
ガレオン船の先端に、支倉の旗(オレンジ色の旗に赤い鍵十字)が見える

慶長18年9月15日(1613年10月28日)に当時ノビスパン=新イスパニアと呼ばれていたメキシコアカプルコを目指して、宮城県石巻市月の浦から出航した。これを記念して月の浦港には、海軍元帥東郷平八郎の石碑などが現存する。乗員180名(将軍下の:10名、仙台の侍:12名、日本人商人、水夫、家来:120名、イスパニア人・ポルトガル人:40名。フランシスコ会士ルイス・ソテロとセバスティアン・ビスカイノ便乗)。船は1614年1月25日(慶長18年12月16日)、3ヶ月の航海でアカプルコに到着した。

1年間の停泊の後、仙台地域の鉱山産業の発展の為に約50人の鉱山業・精製業の専門家を日本に送る。支倉はヨーロッパへ行った。

1616年元和2年)9月、ルイス・ソテロの要求で再びアカプルコを目指して出航(船長:横沢将監(しょうげん))。その航海中に約100名の水夫が亡くなった。

ソテロと支倉は日本へ帰る為にメキシコで再会し出航、1618年(元和4年)4月にルソン(今のフィリピン)に到着した。そこでオランダ軍への防衛を固めていたイスパニアへ売却され、イスパニア戦艦としてミンダナオ島方面へ向かったとされるがその後の消息は不明。支倉以下使節団は別の船で元和6年8月24日1620年9月20日)に日本へ到着。

支倉が帰還すると元和元年(1615年)の豊臣家の滅亡、支倉訪欧計画の幕府側の窓口だった徳川家康の死(元和2年・1616年)、慶長18年(1614年)の禁止令を端緒に大々的キリスト教・キリシタン(切支丹)弾圧が始まるなど日本は大々的に変化しており、日本は鎖国社会に向かっていた。

これらの迫害により、進められていたノビスパン・ルソン・欧州諸国との貿易協定も調印されなかった。支倉常長は、帰国の2年後に病死した。その建前上の墓は、宮城県仙台市光明寺にある。 支倉常長の息子の家来がキリシタンであり、それが原因となって支倉家は、一時お家断絶の憂き目を見ている。この事実から、支倉常長はキリスト教の信仰を生涯守り続けた、と言われている。

航海と訪欧の記録は航海日誌を筆頭に全て帰国前に廃棄されており、日本側に支倉使節団とサン・ファン・バウティスタ号の航海に関する公的記録文書は残らなかった。バチカンの教皇庁宝物館には、伊達政宗が「奥州王」の名で送った親書が今も保管されている。

この伊達政宗親書や、支倉常長がローマ、イスパニア、フィリピンなどから持ち帰った品々などが仙台市博物館に保管・展示されており、それらの慶長遣欧使節資料は、歴史資料として日本で初めて国宝に指定された。

[編集] 現在

支倉常長がローマ教皇に謁見したときの絵。サン・ファン・バウティスタ号が左側に描かれている

平成5年(1993年)に再建された。正確な設計図は残っていなかったが、寸法図はあった為に再建出来た。復元されたものは暫く石巻新漁港に仮係留され一般公開された後、宮城県石巻市テーマパーク宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファンパーク)で見ることができる。

一方、渡波から鮎川へ向かう県道沿いの月浦(月の浦)バス停付近には常長像と出帆の地の記念碑、少し離れて展望台があり、にぎわうがそれらは最近の建立であり、昔からの記念碑はそこから下りた月浦港の隅にある。

2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震で発生した津波の被害により、ドック棟展示室が壊滅。復元されたサン・ファン・バウティスタ号も一部破損の被害を受けた。

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 洗礼者ヨハネの意で、元々は「伊達丸」と呼ばれていた
  2. ^ 大泉光一『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』中央公論新社、1999年など。政宗がスペインや大久保長安と結んで倒幕を図っていたという説は明治時代から存在したが(箕作元八「伊達政宗羅馬遣使の目的」『史学界』三の十一、1901年や、阿部秀助「大久保長安と伊達政宗」『史学界』五の一、1903年)、これには批判もある(小林清治『伊達政宗の研究』吉川弘文館、2008年、 239-242頁)。

[編集] 外部リンク

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