飯島喜美

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飯島 喜美(いいじま きみ、1911年12月17日 - 1935年12月18日)は、日本社会運動家

千葉県匝瑳郡太田村(現旭市)で提灯職人の家の13人兄弟の長女として生まれた[1][2]尋常小学校卒業後、2年間女中奉公[1]1927年女工として東京モスリン紡織亀戸工場に就職した[1]。やがて共産主義の研究会に参加するようになり、1928年の同工場の賃上げ争議では500人の女工たちの副責任者を務め勝利に貢献した[2]1929年四・一六事件亀戸警察署に検束されたが、日本共産青年同盟に加盟、同年5月日本共産党に入党[2]1930年モスクワに渡り、赤色労働組合インターナショナル(プロフィンルテン)第5回大会に日本女性として初めて参加し演説、のち東方勤労者共産大学(クートヴェ)に入学した[1]1931年10月帰国、党中央婦人部員を務め地下活動に投じた[1]1933年5月に検挙、投獄され、のち栃木刑務所で獄死した。享年24[2]。殿田みさお、玉子の別名で活動した[1]

評伝に、山岸一章「紡績労働者の飯島喜美 コンパクトに『闘争・死』の文字」(『不屈の青春―ある共産党員の記録』新日本出版社、1969年、所収)、鹿野政直「飯島喜美 革命運動史上の光芒」(『鹿野政直思想史論集 第6巻』岩波書店、2008年、所収)などがある。

脚注[編集]