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'''今村 均'''(いまむら ひとし、[[1886年]][[6月28日]] - [[1968年]][[10月4日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]。[[陸軍士官学校 (日本)|陸士]]19期・[[陸軍大学校|陸大]]27期 |
'''今村 均'''(いまむら ひとし、[[1886年]][[6月28日]] - [[1968年]][[10月4日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]。[[陸軍士官学校 (日本)|陸士]]19期・[[陸軍大学校|陸大]]27期。最終[[軍隊における階級呼称一覧|階級]]は[[陸軍大将]]。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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祖父は戊辰戦争の際に[[仙台藩]][[参謀]]を務め |
1886年6月28日、[[宮城県]][[仙台区]]に父・虎尾と母・きよみの息子として生まれる。祖父は戊辰戦争の際に[[仙台藩]][[参謀]]を務めたが、進駐してきた新政府軍に対して融和的な態度をとったため藩内の強行派から非難をあび財産を家来にほとんど分け与え、新政府からの官職への呼びかけにも応じることなく隠遁した。その後、妻を亡くすと名家から後妻を押しつけられるなどしたため酒におぼれる生活を送った。父の虎尾は先妻との間に生まれた。虎尾は幼少時に漢籍をたたきこまれるなど父から教育を受けた。生活が困窮していたため、裁判所の事務員として働きながら家事の出来ない継母に代わり弟妹達を育てた。そのようななか、虎尾は裁判官試験に2番の成績で合格し[[裁判官]]として任官した。妻のきよみは陸軍将校の娘である。きよみの勧めで均や弟たちは陸軍将校となった。 |
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⚫ | [[新潟県立新発田高等学校|新発田中学]]([[山梨県立甲府第一高等学校|甲府中学校]]から転入)を首席で卒業し、東京で受験勉強していた19歳の春、[[判事]]をしていた父の虎尾を亡くしたため、経済的に当初志望していた[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]、もしくは[[東京商科大学 (旧制)|高等商業学校]]に進学することが厳しくなる。母きよみは[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]を推薦していたため今村本人は「一高進学か陸士入校か」と悩んでいたところ、母の薦める軍隊とはどの様なものかと思い、[[明治神宮外苑競技場|青山の陸軍練兵場]]で催されていた天覧閲兵式を拝観しに行った。その際、練兵場前で見た、観兵式を終えて帰る[[明治天皇]]の姿を見ようと天皇の乗る[[御料車|御料馬車]]に詰め寄る大勢の群衆の姿に何か熱く感激した今村は、自宅に帰るその足で郵便局に寄り、陸軍士官学校を受験する強い意志の旨の電報を母に打ち、郷里の連隊区で試験を受け合格した。この時の学科試験で今村と机が一緒になったのが[[本間雅晴]]であった。これが親友となるきっかけとなり、以降も駐英武官時や戦時に一層本間と親交を深める事となる。 |
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=== 青年期 === |
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⚫ | [[新潟県立新発田高等学校|新発田中学]]([[山梨県立甲府第一高等学校|甲府中学校]]から転入)を首席で卒業し、東京で受験勉強していた19歳の春、[[判事]]をしていた父の虎尾を亡くしたため、経済的に当初志望していた[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]、もしくは[[東京商科大学 (旧制)|高等商業学校]]に進学することが厳しくなる。母きよみは[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]を推薦していたため今村本人は「一高進学か陸士入校か」と悩んでいたところ、母の薦める軍隊とはどの様なものかと思い、[[明治神宮外苑競技場|青山の陸軍練兵場]]で催されていた天覧閲兵式を拝観しに行った。その際、練兵場前で見た、観兵式を終えて帰る[[明治天皇]]の姿を見ようと天皇の乗る[[御料車|御料馬車]]に詰め寄る大勢の群衆の姿に何か熱く感激した今村は、自宅に帰るその足で郵便局に寄り、陸軍士官学校を受験する強い意志の旨の電報を母に打ち、郷里の連隊区で試験を受け合格した |
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1907年5月31日、陸軍士官学校19期を1053名中54番の成績で卒業し、[[見習士官]]となる。12月26日、陸軍歩兵少尉に任官、[[歩兵第4連隊]]附。 |
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⚫ | 9歳まで[[夜尿症]]を患っていた今村は、青年期になっても夜に何度も便所に立つことから来る睡眠不足に苦しんでいた |
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1915年12月11日、[[陸軍大学校]]27期を[[首席]]で卒業。[[恩賜の軍刀]]を賜った。同期生には本間雅晴(3番の成績)や[[東條英機]](11番の成績)がいた。 |
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=== 満州事変 |
=== 満州事変 === |
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[[満州事変]]勃発 |
1931年8月、参謀本部作戦課長に任命。9月、[[満州事変]]が勃発し、今村は独断で軍を動かす[[関東軍]]と朝鮮師団の越境に対して、統帥の紊乱や国民の支持、また世界の世論の反応から反対論を軍事課長の[[永田鉄山]]とともに展開する。この関東軍の暴走は青年将校組織の[[桜会]]とも通じているとの情報を受けつつ、[[クーデター]]未遂となった[[十月事件]]の事態の収拾にあたる。首謀者である[[橋本欣五郎]]等が未遂のまま逮捕されたのは、今村によると、クーデター直前に名も知らぬ貿易商から渡された名刺に書かれたクーデターに関する情報だったという<ref name=":0">{{Cite book|author=今村均|title=今村均回顧録|date=1993.10.25|year=|accessdate=|publisher=芙蓉書房出版|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。 |
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1933年5月31日、満州事変終結。 |
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=== 支那事変 === |
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1937年7月、[[支那事変]]が勃発。8月、[[陸軍歩兵学校]]幹事に任命。1938年1月、陸軍省[[陸軍省#兵務局|兵務局]]長に任命。11月、[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]長に任命。 |
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⚫ | 1940年3月、[[教育総監部]]本部長に任命。[[戦陣訓]]の起案を[[島崎藤村]]などの意見を入れながら担当した。後に、よい話を入れようとし過ぎて長過ぎるものになったことが失敗であったと述懐している。もともと戦時訓は日中戦争での略奪や強姦や一般市民の殺害の多発に危機感をもった[[岩畔豪雄]]の発案のもので、のちに今村が司令官として前線にもどってから、その軍紀紊乱を目の当たりにして、「無辜の住民を愛護し、略奪強姦のごとき、不法な行為を行わないこと」をはっきりと短く書くべきだったと述懐している<ref name=":1">{{Cite book|author=今村均|title=続今村均回顧録|date=1993.10.25|year=|accessdate=|publisher=芙蓉書房出版|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。 |
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=== 太平洋戦争 === |
=== 太平洋戦争 === |
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==== 第十六軍司令官 ==== |
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1941年6月、[[第23軍 (日本軍)|第23軍]][[司令官]]に任命。11月、[[第16軍 (日本軍)|第16軍]]司令官に任命。軍司令官赴任時に搭乗機の故障により吹雪の済州島に不時着している<ref name=":0" />。12月、太平洋戦争勃発。 |
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{{main|蘭印作戦}} |
{{main|蘭印作戦}} |
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開戦時は[[オランダ領東インド]]([[インドネシア]])を攻略する[[蘭印作戦]]を指揮。 |
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[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])開戦後、第16軍司令官として[[オランダ領東インド]]([[インドネシア]])を攻略する[[蘭印作戦]]を指揮。陸軍の最精鋭[[空挺部隊]]であり「[[空の神兵]]」と謳われる[[挺進連隊|第1挺進団(挺進部隊)]]や、[[飛行第64戦隊]]・[[飛行第59戦隊]]の[[一式戦闘機|一式戦闘機「隼」]]の活躍もあり、太平洋戦争における日本の最重要戦略目標である[[パレンバン]]の油田地帯を制圧([[パレンバン空挺作戦]])。さらに100隻弱の船団を使用する最大規模の[[上陸作戦]]となった[[蘭印作戦#ジャワ島の戦い|ジャワ上陸作戦]]では、敵軍が日本軍の兵力を見誤っていたこともあり、9日間で約9万3千の[[オランダ軍]]と約5千の[[イギリス軍]]・[[アメリカ軍]]・[[オーストラリア軍]]を[[無条件降伏]]させ、作戦は日本軍の大勝に終わった。ジャワ島攻略の際、同島北西のバンタム湾において上陸を図った日本軍と連合軍の間で海戦が生起、今村以下第16軍司令部の座乗していた輸送船[[龍城丸]]などが被雷沈没したものの、今村は救命胴衣を着けて海上を泳ぎ、まもなく救助された<ref name="senshi">{{Citation| author = 防衛庁防衛研修所戦史室| title = 戦史叢書第3巻「蘭印攻略作戦」| url = http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=003| date = 1967 |
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| publisher = 朝雲出版社| pages = 490-491| ref = harv}}</ref>。 |
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1942年2月、攻略目標の重要油田地帯であるパレンバンの占領に成功。3月、ジャワ上陸に成功。100隻弱の船団を使用する大規模な[[上陸作戦]]となり、敵軍が日本軍の兵力を見誤っていたこともあり、9日間で約9万3千の[[オランダ軍]]と約5千の[[イギリス軍]]・[[アメリカ軍]]・[[オーストラリア軍]]を[[無条件降伏]]させて作戦は成功した。 |
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[[バタビア沖海戦]]の影響で日本は掃海艇や輸送船に被害を出した。これは魚雷の性能、射線などから指揮下の第七戦隊によるものであることは明らかだったが、一般には敵魚雷艇による被害と信じられていた。これは海軍側の謝罪に対し、この被害で救い上げられるまで救命胴衣で約3時間泳ぐことにもなった[[今村均]][[大日本帝国陸軍|陸軍]]中将が快く了承し、事実を公にしなかったためである<ref>戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦 489-490頁</ref> |
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{{main|バタビア沖海戦}} |
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[[File:ShinshuMaru-1938.jpg|thumb|right|250px|今村が第16軍司令官として座乗していた[[陸軍特種船]]「[[神州丸]](神洲丸)」]] |
[[File:ShinshuMaru-1938.jpg|thumb|right|250px|今村が第16軍司令官として座乗していた[[陸軍特種船]]「[[神州丸]](神洲丸)」]] |
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ジャワ島攻略の際には、[[バタビア沖海戦]]が発生し、日本は掃海艇や輸送船に被害を出した。今村の座乗していた輸送船[[龍城丸]]も被雷沈没し、救い上げられるまで救命胴衣で約3時間重油の流出した海で泳ぐことになった。これは魚雷の性能、射線などから指揮下の第七戦隊によるものであることは明らかだったが、一般には敵魚雷艇による被害と信じられていた。これは海軍側の謝罪に対し、今村が快く了承し、事実を公にしなかったためである<ref>戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦 489-490頁</ref>。今村は上陸後の3月1日15時50分および54分に、海軍[[水雷戦隊#第五水雷戦隊|第5水雷戦隊]]・第7戦隊司令官に対しに対し、「二月二十八日夜貴戦隊海戦ノ赫々タル戦果ヲ慶祝シ併セテ当軍主力ノ戦闘ニ対スル献身的【一字不明】協力ヲ深謝ス 第16軍司令官今村均陸軍中将」という謝辞を送っている<ref>第5水雷戦隊司令部「昭和十七年一月一日~昭和十七年三月十九日 第五水雷戦隊戦時日誌」 [[アジア歴史資料センター]]、Ref.C08030119100</ref>。 |
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{{main|神州丸#重巡「最上」の誤射}} |
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しかし、この被害で今村の部隊は、第1次上陸部隊の揚陸後で死者は100名に抑えられたものの、遠距離用無線機や暗号表は海没しジャワ島中中部・東部に上陸した別働隊への直接指揮が5日もの間不能となるなど多大な損害を被った。 |
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** 上陸作戦後、誤射という海軍の大失態が判明し後日司令部揃って謝罪に来た海軍指揮官に対し、今村は快く謝罪を受け入れたうえ同士討ちの事実を隠蔽することを提案したといわれる。事実、帝国陸軍は軍司令官を日本軍の虎の子的存在である特種船「神洲丸」とともに沈められたこの事件を不問に処し、海軍の名誉に傷をつけぬよう「神州丸」以下の沈没は連合軍の駆逐艦や爆撃機の攻撃によるものとし、責任追及も行っていない。 |
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** 以下は上陸後の3月1日15時50分および54分に、海軍に対して今村が送った謝辞である<ref>第5水雷戦隊司令部「昭和十七年一月一日~昭和十七年三月十九日 第五水雷戦隊戦時日誌」 [[アジア歴史資料センター]]、Ref.C08030119100</ref>。 |
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二月二十八日夜貴戦隊海戦ノ赫々タル戦果ヲ慶祝シ併セテ当軍主力ノ戦闘ニ対スル献身的【一字不明】協力ヲ深謝ス |
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|第16軍司令官今村均陸軍中将([[水雷戦隊#第五水雷戦隊|第5水雷戦隊]]・第7戦隊司令官に対し)}} |
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* 今村は上述のジャワ上陸作戦の輸送船撃沈の他、この作戦前の軍司令官赴任時に搭乗機の故障により吹雪の済州島に不時着することになったり、ラバウルへの赴任前にはシンガポールで離陸時に乗機が墜落するなど、何度か死に瀕する事故に遭遇している。<ref name=":0" /> |
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⚫ | 占領後、今村は蘭印地域の管理を行った。今村によるジャワ軍政について、「現在でもインドネシアの歴史教科書にも掲載されて評価を受けている」と一部でまことしやかに言われているが、日本軍政に対する厳しい評価をするインドネシアの歴史教科書には、そのような記述は存在しない。<ref>{{Cite book|author=スロト|title=全訳世界の歴史教科書シリーズ32 インドネシア その人々の歴史|date=1983.4.1|year=|accessdate=|publisher=帝国書院|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref><ref>{{Cite book|author=越田僚|title=アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編|date=1990.4.25|year=|accessdate=|publisher=梨の木舎|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref> |
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* 今村は文学少年であり、陸軍士官学校時代から[[聖書]]や『[[歎異抄]]』を愛読していた。部下にもしばしば読むことを薦めていた<ref>『歴史街道』2000年9月増刊号</ref>。 |
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ただし、インドネシア軍政の初期に様々な住民宣撫や独立運動に対する理解などはスカルノや独立運動に関わったインドネシアの兵士などから評価されており、今村離任後の日本軍の様々な悪評とは好対照となっている<ref name=":0" />。 |
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* 小説家の[[司馬遼太郎]]がその著作で[[乃木希典]]を軍事的無能と評したことに対して、今村は読売新聞に「乃木将軍は無能ではない」と題する文章を寄稿している。 |
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* 長男である[[今村和男]]は、[[湯川秀樹]]教授に師事し[[大阪帝国大学]]理学部物理学科を卒業ののち、技術部見習士官制度を経て陸軍航技中尉に任官し帝国陸軍の航空技術将校となっている。 |
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** 航技研時代には陸軍機の防弾装備研究・開発にあたり、[[12.7x99mm NATO弾|12.7mm弾]]に対応する新型防漏タンク(防弾タンク)実用化に貢献、その功績から開発陣には[[陸軍技術有功章]]が[[陸軍大臣]]から授与された<ref>渡辺洋二『未知の剣 陸軍テストパイロットの戦場』 文春文庫、2002年、p.138</ref>。 |
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[[オランダ]]によって流刑とされていたインドネシア独立運動の指導者、[[スカルノ]]と[[ハッタ]]ら政治犯を解放し資金や物資の援助、諮詢会の設立や現地民の[[官吏]]登用等独立を支援する一方で、今村は軍政指導者としてもその能力を発揮し、攻略した[[製油所|石油精製施設]]を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額としたり、オランダ軍から没収した金で各所に学校の建設を行い、日本軍兵士に対し略奪等の不法行為を厳禁として治安の維持に努めるなど現地住民の慰撫に努めた。かつての支配者であった[[オランダ人]]についても、民間人は住宅地に住まわせて外出も自由に認め、[[捕虜]]となった軍人についても高待遇な処置を受けさせるなど寛容な軍政を行った。 |
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戦争が進むにつれて、日本では衣料が不足して配給制となり、日本政府はジャワで生産される白[[木綿]]の大量輸入を申し入れてきたが、今村はこの要求を拒んだ。今村は白木綿を取り上げると現地人の日常生活を圧迫し、死者を白木綿で包んで埋葬するという宗教心まで傷つけると考えたからである。これは政府や軍部などから批判を浴びたが、その実情を調査しに来た政府高官の[[児玉秀雄]]らは「原住民は全く日本人に親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念している」、「治安状況、産業の復旧、軍需物資の調達において、ジャワの成果がずばぬけて良い」などと報告しジャワの軍政を賞賛した。 |
戦争が進むにつれて、日本では衣料が不足して配給制となり、日本政府はジャワで生産される白[[木綿]]の大量輸入を申し入れてきたが、今村はこの要求を拒んだ。今村は白木綿を取り上げると現地人の日常生活を圧迫し、死者を白木綿で包んで埋葬するという宗教心まで傷つけると考えたからである。これは政府や軍部などから批判を浴びたが、その実情を調査しに来た政府高官の[[児玉秀雄]]らは「原住民は全く日本人に親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念している」、「治安状況、産業の復旧、軍需物資の調達において、ジャワの成果がずばぬけて良い」などと報告しジャワの軍政を賞賛した。 |
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また、オランダ統治下で歌うことが禁じられていた独立歌「[[インドネシア・ラヤ]]」が、[[ジャワ島]]で盛んに歌われていることを知った今村は、東京でそのレコードを作らせて住民に配り喜ばれた |
また、オランダ統治下で歌うことが禁じられていた独立歌「[[インドネシア・ラヤ]]」が、[[ジャワ島]]で盛んに歌われていることを知った今村は、東京でそのレコードを作らせて住民に配り喜ばれた。 |
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しかし政府や軍部の一部には、今村の施政を批判する者もおり、[[1942年]]([[昭和]]17年)3月には今村とは親しい仲である[[参謀総長]]・[[杉山元]]が直々に[[バタビア]]に出張し、今村に対し「中央はジャワ攻略戦について満足しており褒めてはいるが、一方でその後の軍政については批判がとにかく多いから注意したまえ」と軽く叱責している |
しかし政府や軍部の一部には、今村の施政を批判する者もおり、[[1942年]]([[昭和]]17年)3月には今村とは親しい仲である[[参謀総長]]・[[杉山元]]が直々に[[バタビア]]に出張し、今村に対し「中央はジャワ攻略戦について満足しており褒めてはいるが、一方でその後の軍政については批判がとにかく多いから注意したまえ」と軽く叱責している。この時杉山から「[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|バターン攻略]]に難航した本間雅晴軍司令官を[[大本営]]は更迭する予定である」と聞かされた際に、今村は杉山に対し「バターン攻略の難航は大本営の認識・指導不足に因るところが多く、兵力不足の状態でバターン占領を急かされてしまった不遇の本間にのみ責任を被せるというのは酷すぎる。」と大本営を鋭く批判し、本間を強くかばい杉山をある程度軟化させた。また、[[陸軍省]][[軍務局]]長の[[武藤章]]、人事局長の[[富永恭次]]も今村に対し、ジャワ島でも[[シンガポール]]同様に強圧的な政策に転換するよう求めたが、今村は陸軍が布告した『占領地統治要綱』から「公正な威徳で民衆を悦服させ」という一節をひいて、要綱を改正する前に自分を免職するよう求め、軍政の方針を変えることに抵抗した。 |
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==== 第八方面軍司令官 ==== |
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今村は「[[八紘一宇]]というのが、同一家族同胞主義であるのに、何か侵略主義のように思われている」と述べており、その語に対する誤解に疑念をいだいている。 |
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[[1942年]](昭和17年)11月20日、[[第8方面軍 (日本軍)|第8方面軍]]司令官として[[ニューブリテン島]]に位置する[[ラバウル]]に着任した。ラバウルへの赴任前にシンガポールで離陸時に乗機が墜落している<ref name=":0" />。 |
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⚫ | 左遷に近いものであり、これは杉山参謀総長の叱責がその遠因でないかという説もある。後任の[[原田熊吉]][[中将]]は今村とは逆に、強圧的な統治を行ったため、ジャワでは抗日ゲリラの動きが活発になった。のち、[[山本五十六]]海軍[[大将]]と会見している。今村と山本は[[佐官]]時代から親交があり、互いに気兼ねなく腹を割って話し合える程の仲であり、双方認め合っていたといわれる。今村着任時の夕食会で「大本営がラバウルの陸海共同作戦を担当する司令官が君(今村)だと聞いた時は、誰だか同じ様なものの何だか安心なような気がした。遠慮や気兼ね無しに話し合えるからな」と陸海軍の側近らの前で話した。そのため山本が戦死した際には泣いて悲しんだという。今村本人もラバウルに着任後、山本が戦死する直前に海軍の[[一式陸上攻撃機]]に搭乗し、前線の陸軍部隊の視察を行なった際、アメリカ軍戦闘機に襲撃されそうになったが難を逃れている。 |
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==== ラバウル防衛隊 ==== |
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[[1943年]](昭和18年)初頭、米軍はガダルカナルと東部ニューギニアから日本軍を駆逐しラバウル作戦の「第一任務」を完了した。米軍はさらにソロモン諸島とニューギニアの双方から前進する「第二任務」の準備に入った。これに対し日本軍はラバウルの防衛線をソロモン諸島のニュージョージアのムンダ岬の航空基地とニューギニアのサラマウアを結ぶ線とした。防衛部隊の海軍側の指揮官は[[草鹿任一]]中将、陸軍側が今村大将であった。 |
[[1943年]](昭和18年)初頭、米軍はガダルカナルと東部ニューギニアから日本軍を駆逐しラバウル作戦の「第一任務」を完了した。米軍はさらにソロモン諸島とニューギニアの双方から前進する「第二任務」の準備に入った。これに対し日本軍はラバウルの防衛線をソロモン諸島のニュージョージアのムンダ岬の航空基地とニューギニアのサラマウアを結ぶ線とした。防衛部隊の海軍側の指揮官は[[草鹿任一]]中将、陸軍側が今村大将であった。 |
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日本海軍のラバウル航空隊の活動は、日本軍の航空兵力を米海軍に実際以上に過大評価させ、西進する米軍補給路への大きな脅威と米軍は判断した。しかも、ラバウルは今村により要塞化が進んでいた。今村は[[ガダルカナル島の戦い]]の戦訓から、米海軍の補給路の封鎖を想定し、補給の途絶に対し島内に大量の田畑を作るよう指導を行い食料の自給自足体制を整えることにし、今村自身も自ら率先して畑を耕したという |
日本海軍のラバウル航空隊の活動は、日本軍の航空兵力を米海軍に実際以上に過大評価させ、西進する米軍補給路への大きな脅威と米軍は判断した。しかも、ラバウルは今村により要塞化が進んでいた。今村は[[ガダルカナル島の戦い]]の戦訓から、米海軍の補給路の封鎖を想定し、補給の途絶に対し島内に大量の田畑を作るよう指導を行い食料の自給自足体制を整えることにし、今村自身も自ら率先して畑を耕したという。早々から自給自足を提唱していた今村ら陸軍に対し、海軍は当初は冷淡な対応であったが、戦局悪化に伴い作物の栽培に関して陸軍に教えを請う事になる。 |
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またアメリカ軍の空爆と上陸に備えるため強固な地下[[要塞]]を構築し、病院、[[兵器]]や[[弾薬]]を生産する[[工廠]]も構築したのである。このような状態を知った米軍は、攻略することで多大な損害が予想される上、日本軍の補給路も一本化されることによりむしろ強化されるなどから、ラバウルの占領を回避し、打撃により無力化するに留めるとの決定をした。 |
またアメリカ軍の空爆と上陸に備えるため強固な地下[[要塞]]を構築し、病院、[[兵器]]や[[弾薬]]を生産する[[工廠]]も構築したのである。このような状態を知った米軍は、攻略することで多大な損害が予想される上、日本軍の補給路も一本化されることによりむしろ強化されるなどから、ラバウルの占領を回避し、打撃により無力化するに留めるとの決定をした。 |
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ラバウル無力化のために、米海軍はソロモン諸島を占領後、ビスマルク諸島の日本軍航空兵力、主にラバウルに猛爆を加えた |
ラバウル無力化のために、米海軍はソロモン諸島を占領後、ビスマルク諸島の日本軍航空兵力、主にラバウルに猛爆を加えた。第8方面軍経理部部員だった主計大尉によれば、敵機の数は1944年1月2979機、2月2732機。さらに[[1944年]](昭和19年)2月中旬、日本艦隊の根拠地トラック島を空襲した結果、日本海軍の古賀連合艦隊司令長官はラバウルの海軍機を撤退させたため、ラバウルの米軍への積極的な脅威はほぼなくなった。しかし米軍はラバウル封鎖を完成させるために活動した。先ずラバウルの東方のグリーン島を占領し航空基地を設営しビスマルク諸島全体で戦闘機の活動を可能にし、次に陸軍の[[ダグラス・マッカーサー]]将軍はアドミラルティ諸島の東端のロス・ネグロス島を占領し航空基地を確保した。さらに海軍がカヴィェン北西のエミウラ島を占領して、ラバウルの無力化は完成した。 |
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これらの為に米軍が失った兵力は300名程度であった。<ref>C.Wニミッツ著『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社 p196</ref>。 |
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こうして、ラバウル守備隊は孤立化したが既に現地自活可能な体制が完成しており、かつ物資も備蓄していたために、今村以下の第8方面軍は草鹿中将以下の[[南東方面艦隊]]と共に[[日本の降伏|終戦]]までラバウルを確保した。 |
こうして、ラバウル守備隊は孤立化したが既に現地自活可能な体制が完成しており、かつ物資も備蓄していたために、今村以下の第8方面軍は草鹿中将以下の[[南東方面艦隊]]と共に[[日本の降伏|終戦]]までラバウルを確保した。 |
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=== 戦後 === |
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[[1968年]](昭和43年)10月4日、死去。享年82。墓は仙台市の[[輪王寺 (仙台市)|輪王寺]]にある。 |
[[1968年]](昭和43年)10月4日、死去。享年82。墓は仙台市の[[輪王寺 (仙台市)|輪王寺]]にある。 |
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⚫ | [[指揮官]]としての[[戦術]]面では、実戦を指揮したのが[[支那事変]]、ジャワ攻略戦とそれに付随する戦闘のみであり、ラバウルでは殆ど戦闘が行われずアメリカ軍と本格的に戦火を交える事はなかった。しかし第5師団長として指揮を執った[[南寧作戦]]では、[[近衛師団]]と[[第18師団 (日本軍)|第18師団]]の援軍が到着するまでの数十日間、[[蒋介石]]直系の精鋭部隊を含む数十倍の戦力を有した中国[[国民革命軍|国民党軍]]の大攻勢を、物資不足と炎熱下の劣悪な環境ながら防ぎきる事に成功し、蘭印作戦では極めて短期でインドネシアを攻略している。今村の軍人としての能力、特に軍政面や占領地住民・部下将兵に対しての人道的な対応については後世の評価はほぼ一致している。蘭印無条件降伏を報じる[[1942年]](昭和17年)3月10日([[陸軍記念日]])付の[[読売新聞]]記事では、写真付きで蘭印方面陸軍最高指揮官たる今村の略歴も紹介されており、「今村将軍は仙台の士族で陸大を首席で卒業した秀才、だがその才気と不屈の闘志を温容に包む近代的武将である」、「教養に富み部下を愛する謙虚な風格ある将軍である」「人情将軍今村中将」と評されている。 |
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⚫ | [[戦略]]面では、ラバウルでの[[持久戦]]が示すとおり、先を読んで対策を行う能力に優れていた人物であったことは確かで、終戦まで将兵の命を守ったことから、日本軍の優れた指揮官としての評価は高い。部下に非常に慕われる人柄であったため、統率に関してはしっかり取れていた。今村は部下を愛し、現地住民を愛したと言われそれに対して部下、現地住民は絶大な親しみを寄せていたといわれる。今村が戦後連合軍に囚われた際、スカルノを指導者とするインドネシア独立軍による救出作戦の計画があり(今村本人が謝絶)、現地住民の多くは裁判で今村を擁護した。また今村は部下の裁判に率先して弁護に赴いては「戦時中の全ての責任は自分にある。部下には責任は全く無い」旨の証言を繰り返して部下を擁護し、それにより刑が減軽されたり無罪になった部下も多かった。 |
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⚫ | 9歳まで[[夜尿症]]を患っていた今村は、青年期になっても夜に何度も便所に立つことから来る睡眠不足に苦しんでいた。夜尿の傾向はその後も続き、それに伴う睡眠不足に生涯悩まされることになる。そのため講義中の居眠りを度々してしまい、そのたび教官に怒鳴られていた。[[軍医]]や同期生に相談したり、睡魔が襲ってきた時に小刃で自分を軽く突くなど対策したものの一向に治らず、野外[[演習]]中に農家から貰った唐辛子を講義中にこっそり噛む事で何とか眠気覚ましにした。これに気付いた理解ある教官達は、それ以降今村に対しては居眠りを注意しなくなった。陸軍大学校卒業後、しばらくして今村自身が当時の岩尾教官に会い、事を尋ねてみると「(教官の集まりにおいて)あそこまで居眠りをしてしまっているものの、成績はすこぶる良く本人も寝たくて寝たいわけではなさそうだ、もしかしたら何か病気持ちなのだろう。という結論に達して特に叱る事はしなくなった」と事の真相を教えられ、今村は教官達に感謝したという。[[陸軍大学校]]でも居眠りを繰り返したが、士官学校時代の話は陸大の教官にも伝わっていたらしくそれほど厳しい説教を受けることもなかった。 |
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今村は読書家で、文学少年であった陸軍士官学校時代から[[聖書]]や『[[歎異抄]]』を愛読していた。部下にもしばしば読むことを薦めていた<ref>『歴史街道』2000年9月増刊号</ref>。今村は「[[八紘一宇]]というのが、同一家族同胞主義であるのに、何か侵略主義のように思われている」と述べており、その語に対する誤解に疑念をいだいている。小説家の[[司馬遼太郎]]がその著作で[[乃木希典]]を軍事的無能と評したことに対して、今村は読売新聞に「乃木将軍は無能ではない」と題する文章を寄稿している。 |
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⚫ | 今村均の長男である[[今村和男]]は、[[湯川秀樹]]教授に師事し[[大阪帝国大学]]理学部物理学科を卒業ののち、技術部見習士官制度を経て陸軍航技中尉に任官し帝国陸軍の航空技術将校となっている。和男は1941年6月に[[陸軍航空技術研究所]]第2部(機体・プロペラの研究)へ配属され、1943年半ばには[[陸軍航空審査部]]飛行機部へ転属し、最終階級は陸軍技術少佐。戦後は[[鉄道技術研究所]]技師を経て[[防衛庁]]技官、[[防衛大学校]]教官などを歴任した<ref>[http://www.ningengakkai.or.jp/about/profile_imamura.html 社団法人日本人間学界代表理事(2016年11月1日閲覧)]</ref>。航技研時代には陸軍機の防弾装備研究・開発にあたり、[[12.7x99mm NATO弾|12.7mm弾]]に対応する新型防漏タンク(防弾タンク)実用化に貢献、その功績から開発陣には[[陸軍技術有功章]]が[[陸軍大臣]]から授与された<ref>渡辺洋二『未知の剣 陸軍テストパイロットの戦場』 文春文庫、2002年、p.138</ref>。 |
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== 年譜 == |
== 年譜 == |
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**11月 - 陸軍省軍務局課員。 |
**11月 - 陸軍省軍務局課員。 |
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*[[1930年]](昭和5年)8月 - 陸軍歩兵[[大佐]]に進級。陸軍省軍務局徴募課長。 |
*[[1930年]](昭和5年)8月 - 陸軍歩兵[[大佐]]に進級。陸軍省軍務局徴募課長。 |
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*[[1931年]](昭和6年)8月 - 参謀本部作戦課長 |
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*[[1932年]](昭和7年)4月 - [[歩兵第57連隊]]長。 |
*[[1932年]](昭和7年)4月 - [[歩兵第57連隊]]長。 |
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*[[1933年]](昭和8年)8月 - [[陸軍習志野学校]]幹事。 |
*[[1933年]](昭和8年)8月 - [[陸軍習志野学校]]幹事。 |
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*[[1955年]](昭和30年)9月24日 - [[防衛省|防衛庁]]顧問に就任。 |
*[[1955年]](昭和30年)9月24日 - [[防衛省|防衛庁]]顧問に就任。 |
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*1968年(昭和43年)10月4日 - 死去。{{没年齢|1886|6|28|1968|10|4}}。 |
*1968年(昭和43年)10月4日 - 死去。{{没年齢|1886|6|28|1968|10|4}}。 |
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⚫ | [[指揮官]]としての[[戦術]]面では、実戦を指揮したのが[[支那事変]]、ジャワ攻略戦とそれに付随する戦闘のみであり、ラバウルでは殆ど戦闘が行われずアメリカ軍と本格的に戦火を交える事はなかった。しかし第5師団長として指揮を執った[[南寧作戦]]では、[[近衛師団]]と[[第18師団 (日本軍)|第18師団]]の援軍が到着するまでの数十日間、[[蒋介石]]直系の精鋭部隊を含む数十倍の戦力を有した中国[[国民革命軍|国民党軍]]の大攻勢を、物資不足と炎熱下の劣悪な環境ながら防ぎきる事に成功し、蘭印作戦では極めて短期でインドネシアを攻略している。今村の軍人としての能力、特に軍政面や占領地住民・部下将兵に対しての人道的な対応については後世の評価はほぼ一致している。蘭印無条件降伏を報じる[[1942年]](昭和17年)3月10日([[陸軍記念日]])付の[[読売新聞]]記事では、写真付きで蘭印方面陸軍最高指揮官たる今村の略歴も紹介されており、「今村将軍は仙台の士族で陸大を首席で卒業した秀才、だがその才気と不屈の闘志を温容に包む近代的武将である」、「教養に富み部下を愛する謙虚な風格ある将軍である」「人情将軍今村中将」と評されている。 |
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⚫ | [[戦略]]面では、ラバウルでの[[持久戦]]が示すとおり、先を読んで対策を行う能力に優れていた人物であったことは確かで、終戦まで将兵の命を守ったことから、日本軍の優れた指揮官としての評価は高い。部下に非常に慕われる人柄であったため、統率に関してはしっかり取れていた。今村は部下を愛し、現地住民を愛したと言われそれに対して部下、現地住民は絶大な親しみを寄せていたといわれる |
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<!--特に彼が戦後とった行動は、現代社会における有事の上司の行動と比較され、「素晴らしい上司とは、かくあるべき」とされることが多い。これと比較して今村将軍の評価の際は同じ日本陸軍の[[牟田口廉也]]中将が引き合いに出されることが往々にしてある。--> |
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== 著書 == |
== 著書 == |
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*『今村均回顧録』(正・続、芙蓉書房出版、新版1993年) |
*『今村均回顧録』(正・続、芙蓉書房出版、新版1993年) |
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**新版『幽囚回顧録』産経新聞出版、2010年/中公文庫、2019年 |
**新版『幽囚回顧録』産経新聞出版、2010年/中公文庫、2019年 |
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*:入獄中に書き始め、出獄し4年後に完成させ |
*:入獄中に書き始め、出獄し4年後に完成させた。 |
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== 今村均に関連する書籍 == |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* {{Citation|和書|title=今村均回顧録|year=1993|last=今村|first=均|authorlink=|series=|edition=|publisher=[[芙蓉書房出版]]|isbn=}} |
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* {{Citation|和書|title=歴代陸軍大将全覧 昭和編/太平洋戦争期|year=2013|last=半藤|first=一利 他|authorlink=半藤一利|series=|edition=[[Amazon Kindle]]|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=}} |
* {{Citation|和書|title=歴代陸軍大将全覧 昭和編/太平洋戦争期|year=2013|last=半藤|first=一利 他|authorlink=半藤一利|series=|edition=[[Amazon Kindle]]|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=}} |
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== 関連文献 == |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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*[[草鹿任一]] - 今村と共にラバウルを守備した海軍側の指揮官。 |
*[[草鹿任一]] - 今村と共にラバウルを守備した海軍側の指揮官。 |
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*[[安達二十三]] - 今村([[第8方面軍 (日本軍)|第8方面軍]]司令官)の麾下の[[第18軍 (日本軍)|第18軍]]司令官として東部ニューギニアで戦い([[ニューギニアの戦い]])、戦後に部下将兵の後を追って[[自殺|自決]]。 |
*[[安達二十三]] - 今村([[第8方面軍 (日本軍)|第8方面軍]]司令官)の麾下の[[第18軍 (日本軍)|第18軍]]司令官として東部ニューギニアで戦い([[ニューギニアの戦い]])、戦後に部下将兵の後を追って[[自殺|自決]]。 |
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*[[本間雅晴]] - [[陸軍士官学校 (日本)|陸士]](19期)の同期 |
*[[本間雅晴]] - [[陸軍士官学校 (日本)|陸士]](19期)の同期。 |
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*[[山中峯太郎]] - 陸士(19期)の同期、中尉の時に陸軍を去り、[[作家]]となった。 |
*[[山中峯太郎]] - 陸士(19期)の同期、中尉の時に陸軍を去り、[[作家]]となった。 |
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*[[ミュージカル南十字星]] |
*[[ミュージカル南十字星]] |
2020年7月10日 (金) 12:35時点における版
今村 均 | |
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生誕 |
1886年6月28日 日本 宮城県 仙台区 |
死没 | 1968年10月6日(82歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1907 - 1945 |
最終階級 | 陸軍大将 |
除隊後 | 防衛庁顧問 |
今村 均(いまむら ひとし、1886年6月28日 - 1968年10月4日)は、日本の陸軍軍人。陸士19期・陸大27期。最終階級は陸軍大将。
経歴
1886年6月28日、宮城県仙台区に父・虎尾と母・きよみの息子として生まれる。祖父は戊辰戦争の際に仙台藩参謀を務めたが、進駐してきた新政府軍に対して融和的な態度をとったため藩内の強行派から非難をあび財産を家来にほとんど分け与え、新政府からの官職への呼びかけにも応じることなく隠遁した。その後、妻を亡くすと名家から後妻を押しつけられるなどしたため酒におぼれる生活を送った。父の虎尾は先妻との間に生まれた。虎尾は幼少時に漢籍をたたきこまれるなど父から教育を受けた。生活が困窮していたため、裁判所の事務員として働きながら家事の出来ない継母に代わり弟妹達を育てた。そのようななか、虎尾は裁判官試験に2番の成績で合格し裁判官として任官した。妻のきよみは陸軍将校の娘である。きよみの勧めで均や弟たちは陸軍将校となった。
新発田中学(甲府中学校から転入)を首席で卒業し、東京で受験勉強していた19歳の春、判事をしていた父の虎尾を亡くしたため、経済的に当初志望していた第一高等学校、もしくは高等商業学校に進学することが厳しくなる。母きよみは陸軍士官学校を推薦していたため今村本人は「一高進学か陸士入校か」と悩んでいたところ、母の薦める軍隊とはどの様なものかと思い、青山の陸軍練兵場で催されていた天覧閲兵式を拝観しに行った。その際、練兵場前で見た、観兵式を終えて帰る明治天皇の姿を見ようと天皇の乗る御料馬車に詰め寄る大勢の群衆の姿に何か熱く感激した今村は、自宅に帰るその足で郵便局に寄り、陸軍士官学校を受験する強い意志の旨の電報を母に打ち、郷里の連隊区で試験を受け合格した。この時の学科試験で今村と机が一緒になったのが本間雅晴であった。これが親友となるきっかけとなり、以降も駐英武官時や戦時に一層本間と親交を深める事となる。
1907年5月31日、陸軍士官学校19期を1053名中54番の成績で卒業し、見習士官となる。12月26日、陸軍歩兵少尉に任官、歩兵第4連隊附。
1915年12月11日、陸軍大学校27期を首席で卒業。恩賜の軍刀を賜った。同期生には本間雅晴(3番の成績)や東條英機(11番の成績)がいた。
満州事変
1931年8月、参謀本部作戦課長に任命。9月、満州事変が勃発し、今村は独断で軍を動かす関東軍と朝鮮師団の越境に対して、統帥の紊乱や国民の支持、また世界の世論の反応から反対論を軍事課長の永田鉄山とともに展開する。この関東軍の暴走は青年将校組織の桜会とも通じているとの情報を受けつつ、クーデター未遂となった十月事件の事態の収拾にあたる。首謀者である橋本欣五郎等が未遂のまま逮捕されたのは、今村によると、クーデター直前に名も知らぬ貿易商から渡された名刺に書かれたクーデターに関する情報だったという[1]。
満州事変勃発後、今村は朝日新聞新聞編集局長緒方竹虎から求められて4時間にわたって面談し、その席で参謀本部の関東軍への統制不足を認めつつ、現地在留邦人の悲惨な状況をみて石原、板垣の行動をやむを得ないとし、満州事変への世論による支持の必要性を訴えたという。また、それまで満州事変不支持の立場にああり不買運動もみられた朝日新聞はそれ以降コロっと変わったという。[2]。
中央の統帥に従わない関東軍との折衝のために渡満するものの、板垣征四郎高級参謀や石原莞爾参謀に酒席の場に呼び出されたあげくに馬鹿にした態度をとられ激怒して、その場を退席する一幕があった。今村はこうした関東軍の中央の統制に反した行動を厳罰に処すべきだったと後に振り返り、それに反して軍統帥に従わなかったものが後に栄転していくことが後の陸軍の下克上の風習を作り出したと指摘している[1]
1932年4月、歩兵第57連隊長に任命。1936年3月、関東軍参謀副長・兼駐満州国大使館附武官に任命。関東軍が独断で進める内蒙古工作を中央からストップをかけるべく、当時の参謀本部作戦部長だった石原莞爾がやってきた。このとき関東軍参謀の武藤章が、石原を嘲笑して「あなたのされた行動を見習い、その通りに内蒙古で実行しているものです」と言った場に今村も同席していた[1]。
1933年5月31日、満州事変終結。
支那事変
1937年7月、支那事変が勃発。8月、陸軍歩兵学校幹事に任命。1938年1月、陸軍省兵務局長に任命。11月、第5師団長に任命。
1940年3月、教育総監部本部長に任命。戦陣訓の起案を島崎藤村などの意見を入れながら担当した。後に、よい話を入れようとし過ぎて長過ぎるものになったことが失敗であったと述懐している。もともと戦時訓は日中戦争での略奪や強姦や一般市民の殺害の多発に危機感をもった岩畔豪雄の発案のもので、のちに今村が司令官として前線にもどってから、その軍紀紊乱を目の当たりにして、「無辜の住民を愛護し、略奪強姦のごとき、不法な行為を行わないこと」をはっきりと短く書くべきだったと述懐している[3]。
太平洋戦争
第十六軍司令官
1941年6月、第23軍司令官に任命。11月、第16軍司令官に任命。軍司令官赴任時に搭乗機の故障により吹雪の済州島に不時着している[1]。12月、太平洋戦争勃発。
開戦時はオランダ領東インド(インドネシア)を攻略する蘭印作戦を指揮。
1942年2月、攻略目標の重要油田地帯であるパレンバンの占領に成功。3月、ジャワ上陸に成功。100隻弱の船団を使用する大規模な上陸作戦となり、敵軍が日本軍の兵力を見誤っていたこともあり、9日間で約9万3千のオランダ軍と約5千のイギリス軍・アメリカ軍・オーストラリア軍を無条件降伏させて作戦は成功した。
ジャワ島攻略の際には、バタビア沖海戦が発生し、日本は掃海艇や輸送船に被害を出した。今村の座乗していた輸送船龍城丸も被雷沈没し、救い上げられるまで救命胴衣で約3時間重油の流出した海で泳ぐことになった。これは魚雷の性能、射線などから指揮下の第七戦隊によるものであることは明らかだったが、一般には敵魚雷艇による被害と信じられていた。これは海軍側の謝罪に対し、今村が快く了承し、事実を公にしなかったためである[4]。今村は上陸後の3月1日15時50分および54分に、海軍第5水雷戦隊・第7戦隊司令官に対しに対し、「二月二十八日夜貴戦隊海戦ノ赫々タル戦果ヲ慶祝シ併セテ当軍主力ノ戦闘ニ対スル献身的【一字不明】協力ヲ深謝ス 第16軍司令官今村均陸軍中将」という謝辞を送っている[5]。 しかし、この被害で今村の部隊は、第1次上陸部隊の揚陸後で死者は100名に抑えられたものの、遠距離用無線機や暗号表は海没しジャワ島中中部・東部に上陸した別働隊への直接指揮が5日もの間不能となるなど多大な損害を被った。
占領後、今村は蘭印地域の管理を行った。今村によるジャワ軍政について、「現在でもインドネシアの歴史教科書にも掲載されて評価を受けている」と一部でまことしやかに言われているが、日本軍政に対する厳しい評価をするインドネシアの歴史教科書には、そのような記述は存在しない。[6][7] ただし、インドネシア軍政の初期に様々な住民宣撫や独立運動に対する理解などはスカルノや独立運動に関わったインドネシアの兵士などから評価されており、今村離任後の日本軍の様々な悪評とは好対照となっている[1]。
オランダによって流刑とされていたインドネシア独立運動の指導者、スカルノとハッタら政治犯を解放し資金や物資の援助、諮詢会の設立や現地民の官吏登用等独立を支援する一方で、今村は軍政指導者としてもその能力を発揮し、攻略した石油精製施設を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額としたり、オランダ軍から没収した金で各所に学校の建設を行い、日本軍兵士に対し略奪等の不法行為を厳禁として治安の維持に努めるなど現地住民の慰撫に努めた。かつての支配者であったオランダ人についても、民間人は住宅地に住まわせて外出も自由に認め、捕虜となった軍人についても高待遇な処置を受けさせるなど寛容な軍政を行った。
戦争が進むにつれて、日本では衣料が不足して配給制となり、日本政府はジャワで生産される白木綿の大量輸入を申し入れてきたが、今村はこの要求を拒んだ。今村は白木綿を取り上げると現地人の日常生活を圧迫し、死者を白木綿で包んで埋葬するという宗教心まで傷つけると考えたからである。これは政府や軍部などから批判を浴びたが、その実情を調査しに来た政府高官の児玉秀雄らは「原住民は全く日本人に親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念している」、「治安状況、産業の復旧、軍需物資の調達において、ジャワの成果がずばぬけて良い」などと報告しジャワの軍政を賞賛した。
また、オランダ統治下で歌うことが禁じられていた独立歌「インドネシア・ラヤ」が、ジャワ島で盛んに歌われていることを知った今村は、東京でそのレコードを作らせて住民に配り喜ばれた。
しかし政府や軍部の一部には、今村の施政を批判する者もおり、1942年(昭和17年)3月には今村とは親しい仲である参謀総長・杉山元が直々にバタビアに出張し、今村に対し「中央はジャワ攻略戦について満足しており褒めてはいるが、一方でその後の軍政については批判がとにかく多いから注意したまえ」と軽く叱責している。この時杉山から「バターン攻略に難航した本間雅晴軍司令官を大本営は更迭する予定である」と聞かされた際に、今村は杉山に対し「バターン攻略の難航は大本営の認識・指導不足に因るところが多く、兵力不足の状態でバターン占領を急かされてしまった不遇の本間にのみ責任を被せるというのは酷すぎる。」と大本営を鋭く批判し、本間を強くかばい杉山をある程度軟化させた。また、陸軍省軍務局長の武藤章、人事局長の富永恭次も今村に対し、ジャワ島でもシンガポール同様に強圧的な政策に転換するよう求めたが、今村は陸軍が布告した『占領地統治要綱』から「公正な威徳で民衆を悦服させ」という一節をひいて、要綱を改正する前に自分を免職するよう求め、軍政の方針を変えることに抵抗した。
第八方面軍司令官
1942年(昭和17年)11月20日、第8方面軍司令官としてニューブリテン島に位置するラバウルに着任した。ラバウルへの赴任前にシンガポールで離陸時に乗機が墜落している[1]。
左遷に近いものであり、これは杉山参謀総長の叱責がその遠因でないかという説もある。後任の原田熊吉中将は今村とは逆に、強圧的な統治を行ったため、ジャワでは抗日ゲリラの動きが活発になった。のち、山本五十六海軍大将と会見している。今村と山本は佐官時代から親交があり、互いに気兼ねなく腹を割って話し合える程の仲であり、双方認め合っていたといわれる。今村着任時の夕食会で「大本営がラバウルの陸海共同作戦を担当する司令官が君(今村)だと聞いた時は、誰だか同じ様なものの何だか安心なような気がした。遠慮や気兼ね無しに話し合えるからな」と陸海軍の側近らの前で話した。そのため山本が戦死した際には泣いて悲しんだという。今村本人もラバウルに着任後、山本が戦死する直前に海軍の一式陸上攻撃機に搭乗し、前線の陸軍部隊の視察を行なった際、アメリカ軍戦闘機に襲撃されそうになったが難を逃れている。
1943年(昭和18年)初頭、米軍はガダルカナルと東部ニューギニアから日本軍を駆逐しラバウル作戦の「第一任務」を完了した。米軍はさらにソロモン諸島とニューギニアの双方から前進する「第二任務」の準備に入った。これに対し日本軍はラバウルの防衛線をソロモン諸島のニュージョージアのムンダ岬の航空基地とニューギニアのサラマウアを結ぶ線とした。防衛部隊の海軍側の指揮官は草鹿任一中将、陸軍側が今村大将であった。
日本海軍のラバウル航空隊の活動は、日本軍の航空兵力を米海軍に実際以上に過大評価させ、西進する米軍補給路への大きな脅威と米軍は判断した。しかも、ラバウルは今村により要塞化が進んでいた。今村はガダルカナル島の戦いの戦訓から、米海軍の補給路の封鎖を想定し、補給の途絶に対し島内に大量の田畑を作るよう指導を行い食料の自給自足体制を整えることにし、今村自身も自ら率先して畑を耕したという。早々から自給自足を提唱していた今村ら陸軍に対し、海軍は当初は冷淡な対応であったが、戦局悪化に伴い作物の栽培に関して陸軍に教えを請う事になる。 またアメリカ軍の空爆と上陸に備えるため強固な地下要塞を構築し、病院、兵器や弾薬を生産する工廠も構築したのである。このような状態を知った米軍は、攻略することで多大な損害が予想される上、日本軍の補給路も一本化されることによりむしろ強化されるなどから、ラバウルの占領を回避し、打撃により無力化するに留めるとの決定をした。
ラバウル無力化のために、米海軍はソロモン諸島を占領後、ビスマルク諸島の日本軍航空兵力、主にラバウルに猛爆を加えた。第8方面軍経理部部員だった主計大尉によれば、敵機の数は1944年1月2979機、2月2732機。さらに1944年(昭和19年)2月中旬、日本艦隊の根拠地トラック島を空襲した結果、日本海軍の古賀連合艦隊司令長官はラバウルの海軍機を撤退させたため、ラバウルの米軍への積極的な脅威はほぼなくなった。しかし米軍はラバウル封鎖を完成させるために活動した。先ずラバウルの東方のグリーン島を占領し航空基地を設営しビスマルク諸島全体で戦闘機の活動を可能にし、次に陸軍のダグラス・マッカーサー将軍はアドミラルティ諸島の東端のロス・ネグロス島を占領し航空基地を確保した。さらに海軍がカヴィェン北西のエミウラ島を占領して、ラバウルの無力化は完成した。 これらの為に米軍が失った兵力は300名程度であった。[8]。 こうして、ラバウル守備隊は孤立化したが既に現地自活可能な体制が完成しており、かつ物資も備蓄していたために、今村以下の第8方面軍は草鹿中将以下の南東方面艦隊と共に終戦までラバウルを確保した。
自衛隊で陸将補となった冨澤暉は、今村から「ラバウルのことが一段落した後、責任を取って自決しようとしたが薬が古くなっていて死ねなかった。」との証言を聞いたと話している[9]。
戦後
1945年(昭和20年)8月15日、日本が降伏し第二次世界大戦は終結。今村は戦争指導者(戦犯)として軍法会議にかけられる。第8方面軍司令官の責任を問われたオーストラリア軍による裁判では、一度は死刑にされかけたが、現地住民などの証言などもあり禁錮10年で判決が確定した。 その後の第16軍司令官時代の責任を問うためのオランダ軍による裁判では、無罪とされた。
その後、今村はオーストラリア軍の禁錮10年の判決により、1949年(昭和24年)に巣鴨拘置所に送られた。だが今村は「(未だに環境の悪い南方で服役をしている元部下たちの事を考えると)自分だけ東京にいることはできない」として、1950年(昭和25年)には自ら多数の日本軍将兵が収容されているマヌス島刑務所への入所を希望した。妻を通してGHQ司令官マッカーサーに直訴したといわれている。その態度にマッカーサーは、「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役する為、マヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。私はすぐに許可するよう命じた」と言ったという。
その後、刑期満了で日本に帰国してからは、東京の自宅の一隅に建てた謹慎小屋に自らを幽閉し、戦争の責任を反省し、軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら回顧録を出版し、その印税はすべて戦死者や戦犯刑死者の遺族の為に用いられた。元部下に対して今村は出来る限りの援助を施し、それは戦時中、死地に赴かせる命令を部下に発せざるを得なかったことに対する贖罪の意識からの行動であったといわれる。その行動につけこんで元部下を騙って無心をする者もいたが、それに対しても今村は騙されていると承知しても敢えて拒みはしなかったという。
国立国会図書館憲政資料室に、今村の肉声を伝える「回想談話録音」が残されている。
1955年(昭和30年)9月24日、防衛庁顧問に就任している[10]。
1968年(昭和43年)10月4日、死去。享年82。墓は仙台市の輪王寺にある。
人物
指揮官としての戦術面では、実戦を指揮したのが支那事変、ジャワ攻略戦とそれに付随する戦闘のみであり、ラバウルでは殆ど戦闘が行われずアメリカ軍と本格的に戦火を交える事はなかった。しかし第5師団長として指揮を執った南寧作戦では、近衛師団と第18師団の援軍が到着するまでの数十日間、蒋介石直系の精鋭部隊を含む数十倍の戦力を有した中国国民党軍の大攻勢を、物資不足と炎熱下の劣悪な環境ながら防ぎきる事に成功し、蘭印作戦では極めて短期でインドネシアを攻略している。今村の軍人としての能力、特に軍政面や占領地住民・部下将兵に対しての人道的な対応については後世の評価はほぼ一致している。蘭印無条件降伏を報じる1942年(昭和17年)3月10日(陸軍記念日)付の読売新聞記事では、写真付きで蘭印方面陸軍最高指揮官たる今村の略歴も紹介されており、「今村将軍は仙台の士族で陸大を首席で卒業した秀才、だがその才気と不屈の闘志を温容に包む近代的武将である」、「教養に富み部下を愛する謙虚な風格ある将軍である」「人情将軍今村中将」と評されている。
戦略面では、ラバウルでの持久戦が示すとおり、先を読んで対策を行う能力に優れていた人物であったことは確かで、終戦まで将兵の命を守ったことから、日本軍の優れた指揮官としての評価は高い。部下に非常に慕われる人柄であったため、統率に関してはしっかり取れていた。今村は部下を愛し、現地住民を愛したと言われそれに対して部下、現地住民は絶大な親しみを寄せていたといわれる。今村が戦後連合軍に囚われた際、スカルノを指導者とするインドネシア独立軍による救出作戦の計画があり(今村本人が謝絶)、現地住民の多くは裁判で今村を擁護した。また今村は部下の裁判に率先して弁護に赴いては「戦時中の全ての責任は自分にある。部下には責任は全く無い」旨の証言を繰り返して部下を擁護し、それにより刑が減軽されたり無罪になった部下も多かった。
漫画家の水木しげるは、兵役でラバウルに居た際に視察に来た今村から言葉をかけられたことがある。その時の印象について水木は「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と評している[11]。
9歳まで夜尿症を患っていた今村は、青年期になっても夜に何度も便所に立つことから来る睡眠不足に苦しんでいた。夜尿の傾向はその後も続き、それに伴う睡眠不足に生涯悩まされることになる。そのため講義中の居眠りを度々してしまい、そのたび教官に怒鳴られていた。軍医や同期生に相談したり、睡魔が襲ってきた時に小刃で自分を軽く突くなど対策したものの一向に治らず、野外演習中に農家から貰った唐辛子を講義中にこっそり噛む事で何とか眠気覚ましにした。これに気付いた理解ある教官達は、それ以降今村に対しては居眠りを注意しなくなった。陸軍大学校卒業後、しばらくして今村自身が当時の岩尾教官に会い、事を尋ねてみると「(教官の集まりにおいて)あそこまで居眠りをしてしまっているものの、成績はすこぶる良く本人も寝たくて寝たいわけではなさそうだ、もしかしたら何か病気持ちなのだろう。という結論に達して特に叱る事はしなくなった」と事の真相を教えられ、今村は教官達に感謝したという。陸軍大学校でも居眠りを繰り返したが、士官学校時代の話は陸大の教官にも伝わっていたらしくそれほど厳しい説教を受けることもなかった。
今村は読書家で、文学少年であった陸軍士官学校時代から聖書や『歎異抄』を愛読していた。部下にもしばしば読むことを薦めていた[12]。今村は「八紘一宇というのが、同一家族同胞主義であるのに、何か侵略主義のように思われている」と述べており、その語に対する誤解に疑念をいだいている。小説家の司馬遼太郎がその著作で乃木希典を軍事的無能と評したことに対して、今村は読売新聞に「乃木将軍は無能ではない」と題する文章を寄稿している。 国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)が、産経新聞・フジテレビの意向で本拠地を明治神宮野球場に隣接する第2球場に移転しようとした際、日本学生野球協会が反対の意向を表明、国会でも問題となり、更には右翼団体までもが動くという状況の中、反対派に担ぎ出されたという[13]。
今村均の長男である今村和男は、湯川秀樹教授に師事し大阪帝国大学理学部物理学科を卒業ののち、技術部見習士官制度を経て陸軍航技中尉に任官し帝国陸軍の航空技術将校となっている。和男は1941年6月に陸軍航空技術研究所第2部(機体・プロペラの研究)へ配属され、1943年半ばには陸軍航空審査部飛行機部へ転属し、最終階級は陸軍技術少佐。戦後は鉄道技術研究所技師を経て防衛庁技官、防衛大学校教官などを歴任した[14]。航技研時代には陸軍機の防弾装備研究・開発にあたり、12.7mm弾に対応する新型防漏タンク(防弾タンク)実用化に貢献、その功績から開発陣には陸軍技術有功章が陸軍大臣から授与された[15]。
年譜
- 1886年(明治19年)6月28日 - 宮城県仙台区で生まれる。
- 1905年(明治38年)7月 - 士官候補生。
- 1907年(明治40年)5月31日 - 陸軍士官学校卒業(19期)、見習士官。
- 1910年(明治43年)11月 - 陸軍歩兵中尉に進級。
- 1915年(大正4年)12月11日 - 陸軍大学校卒業(27期首席)。
- 1916年(大正5年)8月 - 陸軍省軍務局附(歩兵課)。
- 1917年(大正6年)5月 - 陸軍歩兵大尉に進級。陸軍省軍務局課員。
- 1918年(大正7年)4月 - イギリス大使館附武官補佐官。
- 1921年(大正10年)8月 - 参謀本部部員。
- 1922年(大正11年)8月 - 陸軍歩兵少佐に進級。
- 1923年(大正12年)4月 - 上原勇作元帥附副官(兼任)。
- 1926年(大正15年)8月 - 陸軍歩兵中佐に進級。歩兵第74連隊附。
- 1927年(昭和2年)4月 - インド駐箚武官。
- 11月 - 陸軍省軍務局課員。
- 1930年(昭和5年)8月 - 陸軍歩兵大佐に進級。陸軍省軍務局徴募課長。
- 1931年(昭和6年)8月 - 参謀本部作戦課長
- 1932年(昭和7年)4月 - 歩兵第57連隊長。
- 1933年(昭和8年)8月 - 陸軍習志野学校幹事。
- 1935年(昭和10年)3月 - 陸軍少将に進級。歩兵第40旅団長。
- 1936年(昭和11年)3月 - 関東軍参謀副長・兼 駐満州国大使館附武官。
- 1937年(昭和12年)8月 - 陸軍歩兵学校幹事。
- 1938年(昭和13年)1月 - 陸軍省兵務局長。
- 1940年(昭和15年)3月 - 教育総監部本部長。
- 1941年(昭和16年)6月 - 第23軍司令官に親補される。
- 11月 - 第16軍司令官に親補される。
- 1942年(昭和17年)11月 - 第8方面軍司令官に親補される。
- 1943年(昭和18年)5月1日 - 陸軍大将に親任される。
- 1946年(昭和21年)4月 - ラバウル戦犯者収容所に入所。
- 1947年(昭和22年)5月 - オーストラリア軍による軍事裁判判決(禁錮10年)。ジャワ島移送。
- 1949年(昭和24年)12月 - オランダ、インド軍による軍事裁判判決(無罪)。
- 1950年(昭和25年)1月 - インドネシアから帰国。
- 1953年(昭和28年)8月 - マヌス島刑務所閉鎖に伴い巣鴨拘置所に移る。
- 1954年(昭和29年)11月 - 刑期を終え巣鴨拘置所を出所。
- 1955年(昭和30年)9月24日 - 防衛庁顧問に就任。
- 1968年(昭和43年)10月4日 - 死去。82歳没。
著書
- 『今村均回顧録』(正・続、芙蓉書房出版、新版1993年)
- 新版『幽囚回顧録』産経新聞出版、2010年/中公文庫、2019年
- 入獄中に書き始め、出獄し4年後に完成させた。
脚注
- ^ a b c d e f 今村均 (1993.10.25). 今村均回顧録. 芙蓉書房出版
- ^ 「NHKスペシャル 日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第3回 “熱狂”はこうして作られた」(2011年NHK)における今村本人の肉声)
- ^ 今村均 (1993.10.25). 続今村均回顧録. 芙蓉書房出版
- ^ 戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦 489-490頁
- ^ 第5水雷戦隊司令部「昭和十七年一月一日~昭和十七年三月十九日 第五水雷戦隊戦時日誌」 アジア歴史資料センター、Ref.C08030119100
- ^ スロト (1983.4.1). 全訳世界の歴史教科書シリーズ32 インドネシア その人々の歴史. 帝国書院
- ^ 越田僚 (1990.4.25). アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編. 梨の木舎
- ^ C.Wニミッツ著『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社 p196
- ^ 『文藝春秋』2014年12月号「巻頭随筆」
- ^ 朝日新聞 昭和30年(1955年) 9月24日
- ^ 水木しげる「カランコロン漂泊記」小学館文庫
- ^ 『歴史街道』2000年9月増刊号
- ^ 『ヤクルトスワローズ球団史』徳永喜男・元同球団代表
- ^ 社団法人日本人間学界代表理事(2016年11月1日閲覧)
- ^ 渡辺洋二『未知の剣 陸軍テストパイロットの戦場』 文春文庫、2002年、p.138
参考文献
- 今村均『今村均回顧録』芙蓉書房出版、1993年。
- 半藤一利 他『歴代陸軍大将全覧 昭和編/太平洋戦争期』(Amazon Kindle)中央公論新社、2013年。
関連文献
- 土門周平『陸軍大将・今村均』 PHP研究所
- 角田房子『責任 ラバウルの将軍 今村均』(新版・ちくま文庫)ISBN 4-480-42151-3
- 秋永芳郎『陸軍大将今村均―人間愛をもって統率した将軍の生涯』 光人社、のち同文庫
- 日下公人『組織に負けぬ人生。 不敗の名将・今村均大将に学ぶ』 PHP研究所/祥伝社新書
- 葉治英哉『今村均 信義を貫いた不敗の名将』 PHP研究所、のち同文庫
- 山岡荘八『小説 太平洋戦争』(講談社文庫・山岡荘八歴史文庫)
関連項目
- 草鹿任一 - 今村と共にラバウルを守備した海軍側の指揮官。
- 安達二十三 - 今村(第8方面軍司令官)の麾下の第18軍司令官として東部ニューギニアで戦い(ニューギニアの戦い)、戦後に部下将兵の後を追って自決。
- 本間雅晴 - 陸士(19期)の同期。
- 山中峯太郎 - 陸士(19期)の同期、中尉の時に陸軍を去り、作家となった。
- ミュージカル南十字星
- 日本のいちばん長い夏
外部リンク
軍職 | ||
---|---|---|
先代 安藤利吉 |
第5師団長 第11代:1938年11月9日 - 1940年3月9日 |
次代 中村明人 |
先代 - |
第23軍司令官 初代:1941年6月28日 - 同11月6日 |
次代 酒井隆 |
先代 - |
第16軍司令官 初代:1941年11月6日 - 1942年11月9日 |
次代 原田熊吉 |