「ジョン・ナッシュ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
73行目: 73行目:
{{Reflist}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* シルヴィア・ナサー 『ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡』 塩川優訳、新潮社、2002年 ISBN 4105415018。
*シルヴィア・ナサー 『ビューティフル・マインド――天才数学者の絶望と奇跡』塩川優訳、新潮社、2002年 ISBN 4105415018。
*ハロルド・クーン、シルヴィア・ナサー『ナッシュは何を見たか――純粋数学とゲーム理論』、落合卓四郎・松島斉共訳、シュプリンガー・フェアラーク東京、2005年
*[http://mathsoc.jp/publication/tushin/1101/nakayama.pdf#search='%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%B3' 書評『ナッシュは何を見たか』]


==関連項目==
==関連項目==

2012年12月23日 (日) 06:36時点における版

ジョン・ナッシュ
生誕 (1928-06-13) 1928年6月13日(95歳)
ウェストヴァージニア州, ブルーフィールド
居住 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
研究分野 数学, 経済学, ゲーム理論
研究機関 マサチューセッツ工科大学
プリンストン大学
出身校 プリンストン大学
カーネギー工科大学 (現在のカーネギーメロン大学)
博士課程
指導教員
アルバート・タッカー
主な業績 ナッシュ均衡
ナッシュ埋め込み定理
代数幾何学
偏微分方程式
主な受賞歴 ノーベル経済学賞 (1994年)
ジョン・フォン・ノイマン理論賞 (1978年)
配偶者  Alicia Lopez-Harrison de Lardé (m. 1957年–1963年; 2001年–現在)
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示
ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニア
ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1994年
受賞部門:ノーベル経済学賞
受賞理由:非協力ゲームの均衡の分析に関する理論の開拓を称えて

ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアJohn Forbes Nash, Jr. 1928年6月13日 - )は、アメリカ人の数学者。専門分野は微分幾何学でありリーマン多様体の研究に関して大きな功績を残している。

1994年ラインハルト・ゼルテンジョン・ハーサニとともにゲーム理論に関して大きな功績を残したとしてノーベル経済学賞を受賞しており、彼の証明したナッシュ均衡の存在が非常に有名であるためゲーム理論がナッシュのライフワークと思われがちだが、ナッシュがゲーム理論の研究をしていたのは博士課程在学中とその後のわずか数年の間だけである。

ハリウッド映画ビューティフル・マインド』は、彼の数学者としての偉業と成功及び後の統合失調症に苦しむ人生を描いた作品であり、このため世間での彼の知名度は高い。

経歴

幼少期~高校卒業

  • 12歳の時、自室で科学実験を行い始める。この頃既に、彼が非常に聡明な頭脳の持ち主であると家族や友人は気付いていたが、その知的聡明さゆえに友人からは拒絶され、また彼自身も友人たちが興じているダンススポーツが、自分の実験や勉強に対して悪影響を及ぼすものであると信じていたようである。
  • 高校は地元のブルーフィールド・カレッジに進学。この頃、E.T. Bellの論文 "Men of Mathematics"(邦題『数学をつくった人びと』ハヤカワ文庫)を読み、後の専門分野となる数学に興味を持つが、電気技術者の父の影響で化学電気工学を専攻する。

大学入学~博士号取得

  • ナッシュは博士課程をプリンストン大学ですごすこととなるが、カーネギー工科大学での指導教官がプリンストン大学へと送った推薦書は「この男は天才である。」と書かれただけの一行の文章であったという。

研究者としての成功

  • 博士論文を基に、後に彼は以下の三つの論文を発表しノーベル賞を受賞している。
    • "Equilibrium Points in N-person Games" (1950年、科学雑誌PNASにて発表)
    • "The Bargaining Problem" (1950年4月、経済学雑誌Econometricaにて発表)
    • "Two-person Cooperative Games" (1953年1月、経済学雑誌Econometricaにて発表)
  • しかし、ナッシュ自身が「最もつまらない業績で最高の栄誉を得てしまった」と自嘲気味に発言し[1]ジョン・フォン・ノイマンから「下らない、ただ不動点定理をゲーム理論に当てはめただけだ」と酷評されたように、ゲーム理論に関する研究はナッシュの数学者としての評価を高めることには余り寄与していない。ナッシュに数学者としての名声をもたらしたのは後のリーマン多様体への埋め込み問題に関する仕事であり、以下の重要な論文を発表している。
    • "Real algebraic manifolds"(1952年、数学雑誌Annals of Mathematicsにて発表)
    • "C1-isometric imbeddings"(1954年、数学雑誌Annals of Mathematicsにて発表)
    • "The imbedding problem for Riemannian manifolds"(1956年、数学雑誌Annals of Mathematicsにて発表)
    • "Analyticity of the solutions of implicit function problem with analytic data"(1966年、数学雑誌Annals of Mathematicsにて発表)
  • 1953年、当時の恋人であったエレノア(Eleanor Stier)との間に子供が生まれるが、結婚には至らなかった。
  • 1950年代の中頃にサンタモニカで逮捕されたことが原因でランド研究所でのポストを失った。この事件でのストレスから結婚を考え始め、同時に、統合失調症を罹患した。
  • 1957年2月エルサルバドル出身でMITの学生であったアリシア(Alicia Lopez-Harrison de Lardé)と結婚する。1958年、29歳の若さでMITの終身職員の権利を得る。同年秋、アリシアが身篭る。またこの頃、数学界最大の難問と言われるリーマン予想の証明に専心するが、その困難さが更に彼の精神を蝕む事になったとする見解もある。

闘病生活~快復

  • 1958年、アリシアの妊娠と時期をほぼ同じくして、彼は統合失調症を罹患する。1959年4月~5月にかけて病院で検査を受け、その結果、彼は現在で言うところの統合失調症であると診断される。同年、MIT職員を辞職。ヨーロッパとアメリカを放浪し、1960年、プリンストン大学に復帰する。再び数学を研究する生活に戻るが、治療はその後も続き、1970年まで入退院を繰り返す。1970年頃から少しずつ回復の兆しを見せ始め、1978年にはカルトン.E.レンケとともにジョン・フォン・ノイマン理論賞を受賞。1980年代後半には統合失調症から快復した。
  • 時期は前後するが、彼は1963年にアリシアと離婚。(ちなみにこの離婚の主な原因は、彼の男性愛人との浮気である。)しかし1970年、アリシアは彼を夫としてではなく、同居人のような形で引き取り、彼の闘病生活を支えることを決心。2001年に再婚するまで、彼の闘病生活を支え続けた。
  • 1994年にはゼルデン、ハーサニとともにノーベル経済学賞を受賞。現在もプリンストン大学で数学の研究を続けている。

脚注

  1. ^ "A Brilliant Madness" — a PBS American Experience documentary

参考文献

  • シルヴィア・ナサー 『ビューティフル・マインド――天才数学者の絶望と奇跡』、塩川優訳、新潮社、2002年 ISBN 4105415018
  • ハロルド・クーン、シルヴィア・ナサー『ナッシュは何を見たか――純粋数学とゲーム理論』、落合卓四郎・松島斉共訳、シュプリンガー・フェアラーク東京、2005年
  • 書評『ナッシュは何を見たか』

関連項目

外部リンク