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試合だけでなく、自分の言葉と思想で自分の存在をファンに訴えかけた選手であった(生前最後に受けた1988年4月における『[[週刊プロレス]]』でのインタビューでは、事前にインタビュアーの斉藤文彦に「今回のインタビューは3週連続で掲載してくれ」と提案するなど、マスコミ向けに常に色々とアイディアを持ちかけていた。そしてこのインタビューは、ブロディの提案通り3週連続で掲載された)。
試合だけでなく、自分の言葉と思想で自分の存在をファンに訴えかけた選手であった(生前最後に受けた1988年4月における『[[週刊プロレス]]』でのインタビューでは、事前にインタビュアーの斉藤文彦に「今回のインタビューは3週連続で掲載してくれ」と提案するなど、マスコミ向けに常に色々とアイディアを持ちかけていた。そしてこのインタビューは、ブロディの提案通り3週連続で掲載された)。

しかしブロディは1981年仙台での対[[ファンクス]]戦で荒れ模様となった試合後半、父親の援護にと無意識にリングに上がった[[ドリー・ファンク・ジュニア]]の息子にフライング・エルボー・ドロップなどの攻撃を本気で与え、ドリーの息子は顔面から大出血、失神状態となり危険な状態にさせた。このプロが素人相手に攻撃を与えた行為は世間から非難された。


ブロディは日本人選手の中で[[ジャンボ鶴田]]を特にライバル視しており、鶴田への競争意識から2度目の来日時(1980年1月)には初来日時よりウェイトを落として臨んだという(2000年春ごろの[[FIGHTING TV サムライ|サムライTV]]での鶴田追悼番組において[[百田光雄]]が証言している)。また、全日本離脱直後に行われた1985年4月掲載の『週刊プロレス』インタビューでは「[[長州力]]は[[しょっぱい]]。鶴田の方が断然優れている」とまで語っている。
ブロディは日本人選手の中で[[ジャンボ鶴田]]を特にライバル視しており、鶴田への競争意識から2度目の来日時(1980年1月)には初来日時よりウェイトを落として臨んだという(2000年春ごろの[[FIGHTING TV サムライ|サムライTV]]での鶴田追悼番組において[[百田光雄]]が証言している)。また、全日本離脱直後に行われた1985年4月掲載の『週刊プロレス』インタビューでは「[[長州力]]は[[しょっぱい]]。鶴田の方が断然優れている」とまで語っている。

2009年10月19日 (月) 13:37時点における版

ブルーザー・ブロディ
プロフィール
リングネーム ブルーザー・ブロディ
キングコング・ブロディ
フランク・ブロディ
フランク・グーディッシュ
本名 フランク・ドナルド・グーディッシュ
ニックネーム 超獣
キングコング
インテリジェント・モンスター
身長 198cm
体重 135kg
誕生日 1946年6月18日
死亡日 (1988-07-17) 1988年7月17日(42歳没)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ミシガン州デトロイト
スポーツ歴 アメリカンフットボール
トレーナー フリッツ・フォン・エリック
ルー・テーズ
デビュー 1972年
引退 1988年(殺人死。本文参照)
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ブルーザー・ブロディBruiser Brody)のリングネームで知られるフランク・ドナルド・グーディッシュ[1]Frank Donald Goodish1946年6月18日 - 1988年7月17日)は、アメリカ合衆国プロレスラーミシガン州デトロイト出身。身長198cm、体重135kg。ニックネームはキング・コング、超獣、プロレス界のイエス・キリスト、インテリジェント・モンスター他。

全日本プロレス新日本プロレスに参戦し日本でも活躍した外国人トップレスラーの一人であり、人気・実力共に高く評価されている。

来歴

ウエスト・テキサス州立大学アメリカンフットボール選手として活躍していた(同期にダスティ・ローデスボビー・ダンカン。後輩チームメートがスタン・ハンセンザ・ファンクスは大学の先輩)。1968年夏、NFL球団「ワシントン・レッドスキンズ」入団するが、膝の故障から3年で引退。その後、朝刊紙「ダラス・モーニング・ニュース」のフットボール・コラムニストとなる(生計を立てるために、酒場の用心棒などもしていたという)。

やがてフリッツ・フォン・エリックにスカウトされ、1972年ヒューストンでプロレスラーとしてデビュー(一説には1973年デビューとも)。デビュー時のリングネームは本名「フランク・グーディッシュ」。エリックの主宰するダラス地区を主戦場に、ルイジアナオクラホマなど深南部エリアにも転戦してキャリアを積む。

1974年10月、同じくレスラーとなっていたスタン・ハンセンとルイジアナ地区でコンビ結成。テキサス出身のハンセンに合わせ、出身地を同じ南西部のニューメキシコ州アルバカーキとし、リングコスチュームもハンセンのテンガロンハットに対しグーディッシュはソンブレロを被っていた。同年12月にUSタッグ王座を奪取するが、翌1975年7月に陥落しタッグを解消。この時リングネームを「フランク・ブロディ」へ改称。その後、シングルプレイヤーとして多くのローカル・タイトルを獲得した。

1976年7月、「ブルーザー・ブロディ」に改名してニューヨークWWWFへ参戦。同年9月4日10月4日マディソン・スクエア・ガーデンブルーノ・サンマルチノWWWF世界ヘビー級王座に連続挑戦。アンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦して知名度を高め、メインイベンターとしての地位を築く。ちなみに当時のWWWFには、同年4月26日に首折り事件を起こしたスタン・ハンセンも共にサーキットしていた。また、当時は新日本プロレスとWWWFの提携が本格的に開始された頃であり、1977年1月に予定されていたアントニオ猪木MSGにおける対戦相手候補としてハンセンとブロディの名前が挙がったこともある。当時の日本のプロレス専門誌には「一番強い奴とやりたい。サンマルチノの首を折ったハンセンが一番強いかというと、あれは偶発的なものでハンセンの実力じゃないという声もある。どうもブルーザー・ブロディというのが一番骨があるらしい」などという猪木のコメント記事が載っていた[2]。結局、猪木のMSG登場は延期になり、この対戦は幻に終わっている。77年にはWWWFとの提携ルートでハンセンが新日本プロレスに来日しているが、ブロディの新日本登場は実現しなかった。

1977年、ダラス地区に凱旋。同年1月3日にフリッツ・フォン・エリックを破りNWAアメリカン・ヘビー級王座(後のWCWA世界ヘビー級王座)を獲得する。その後、インディアナポリスのWWAに参戦し、1978年9月11日にはディック・ザ・ブルーザーとの「ブルーザー対決」でWWA世界ヘビー級王座を奪取した。

1979年1月、フリッツ・フォン・エリックの斡旋により全日本プロレスに初来日。ジャイアント馬場反則負けした以外、負けなしの好成績で帰国(タッグながら得意のニードロップをフィニッシュに馬場からフォール勝ちという快挙も果たす)。翌年より、常連外国人レスラーとしてシリーズ毎に何度も来日を果たすようになった。1981年10月にはドリー・ファンク・ジュニアからインターナショナル・ヘビー級王座を奪取。以後このベルトを巡ってドリー、ジャンボ鶴田天龍源一郎らと名勝負を繰り広げる。1982年、スタン・ハンセンと、日本にてコンビを再結成。「超獣コンビ」とのネーミングが与えられた。ハンセンとのコンビで年末恒例の世界最強タッグ決定リーグ戦に優勝1回・準優勝2回(準優勝2回はいずれも最終公式戦での反則負け)、また1984年に新設されたPWF世界タッグ王座でも初代王者となった。

1985年3月21日、新日本プロレスへ引き抜かれる形で移籍し、来日。以前新日本がアブドーラ・ザ・ブッチャーを全日本から引き抜き、それに怒った全日本がタイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンを新日本から引き抜いた事も含め、日本の2大団体の関係がさらに険悪となる。アントニオ猪木とは、7度シングルマッチで対決(2勝2敗3分けでピンフォール決着は一度もなし)。同年12月、IWGPタッグリーグ戦ジミー・スヌーカとのタッグで出場するが、仙台での決勝戦出場をボイコットし、突然の帰国。新日本プロレスからは、永久追放処分となる(新日本はスヌーカとはその後に和解)。金銭トラブルではなく、新日本プロレス側の「外国人レスラーに優勝させたくない」、「藤波辰巳&木村健吾に勝たせたかった」、「自らが膨らませた坂口負傷アングルを反故にされた」等というブックに反発したトラブルが原因という説が有力。このように、ブロディはブッカーにとって扱いにくいレスラーであり、そのことが後の死につながる。その後、新日本プロレスと和解しかけるが、自ら来日直前にキャンセルし、再度、新日本プロレスから、永久追放を宣言される。

この間、本国アメリカではダラスを拠点に主要テリトリーを転戦し、ジョージアではブラックジャック・マリガンフロリダではダスティ・ローデステネシーではジェリー・ローラーAWAではサージェント・スローターなど各地のトップスターと対戦。他地区では常にヒールのポジションだったが、古巣であるダラスでは、1980年代からはエリック・ファミリーの助っ人的なベビーフェイスとして活躍した。また、同じテキサスのサンアントニオ地区(SCW)でも善玉となり、トップ・ベビーフェイスのワフー・マクダニエルとタッグを組んだことがある(しかし、プロモーターからの束縛を嫌ってか、特定の地区を長期間サーキットすることはほとんどなかった)。また、1984年よりビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下でスタートしたWWFの全米侵攻への参加も噂され、新日本移籍時の記者会見でも新WWF王者ハルク・ホーガンへの挑戦をアピールしたが[3]、結局は実現しなかった(新日本側は当初、ブロディの新日本登場はWWFからのブッキングであったと発表していたが、もともとブロディにはWWFからのオファーはなく、新日本側がブロディ引き抜きの大義名分として、当時提携関係にあったWWFを隠れ蓑にしたともされている)。

1987年10月2日、全日本・新日本の2大プロレス団体間の、レスラーに対する「引き抜き防止協定」が足かせになっていたが、新日本プロレス側の違反から、ブロディはリストからはずされ、全日本プロレスに復帰来日。同年暮れの世界最強タッグ決定リーグ戦では、タッグマッチながらスタン・ハンセンとの最初で最後の初対戦が実現した。

1988年3月にはジャンボ鶴田からインターナショナル・ヘビー級王座を奪回。野獣ギミックの仮面を守り通したブロディがこの時ばかりはファンや関係者と抱き合って歓びを分かち合い、バックステージでは涙を流しながら控え室に戻っていった。

1988年7月16日プエルトリコ・バイヤモン市にあるバイヤモンスタジアムでのWWCの興行中、同団体のボス、カルロス・コロン(現在WWEで活躍しているカリートの実父)とのトラブル発生。カルロスの配下である、レスラー兼ブッカーのホセ・ゴンザレスに、ドレッシングルームにて腹部をナイフで刺される。刺し傷が肝臓に達し、翌7月17日出血多量により死亡。痛み止めのために常用していたアスピリン副作用により、出血が止まらなかったともいわれている。また、興奮剤を服用していたのが裏目に出たともいう。なお、裁判では、現場に居合わせたレスラー仲間たちが揃って証言を拒否し、結局、ホセ・ゴンザレスは無罪判決を得ている。

人物

リング上では超獣ギミックを一貫して守ったブロディだったが、本来は家族思いの穏やかな人柄で「インテリジェント・モンスター」と呼ばれるように独自のレスリング哲学を持っており、インタビューでは彼本来のクレバーさを感じさせる発言が多く見られた(超獣ギミックについてブロディは「プロレスを初めて見る子供やお年寄りに『あのチェーンをブルブル振り回す奴は誰だっけ』という印象を与えるため」という趣旨を語っている)。また、ラフファイトの裏側に隠された緻密な試合運びには定評があり馬場や鶴田も認めていた。「プロレスはチェスのようなもの」と語っていた。

試合だけでなく、自分の言葉と思想で自分の存在をファンに訴えかけた選手であった(生前最後に受けた1988年4月における『週刊プロレス』でのインタビューでは、事前にインタビュアーの斉藤文彦に「今回のインタビューは3週連続で掲載してくれ」と提案するなど、マスコミ向けに常に色々とアイディアを持ちかけていた。そしてこのインタビューは、ブロディの提案通り3週連続で掲載された)。

ブロディは日本人選手の中でジャンボ鶴田を特にライバル視しており、鶴田への競争意識から2度目の来日時(1980年1月)には初来日時よりウェイトを落として臨んだという(2000年春ごろのサムライTVでの鶴田追悼番組において百田光雄が証言している)。また、全日本離脱直後に行われた1985年4月掲載の『週刊プロレス』インタビューでは「長州力しょっぱい。鶴田の方が断然優れている」とまで語っている。

一方で各地のプロモーター、ブッカーとは衝突が絶えず、WWWF時代のゴリラ・モンスーンを始めとして、ディック・ザ・ブルーザーとの大喧嘩など、その最期に至るまでエピソードには事欠かない。WWFには『1984』への参加を表明していたものの実現せず、その後も何度となく契約が噂されたが、ビンス・マクマホンはブロディとビジネスをしようとはしなかった。トラブルが無かったのは、若手時代に世話になったダラス地区のフリッツ・フォン・エリックくらいであった。ハンセンによれば、若手時代に格安のギャラで働かされた(レスラー兼プロモーターだったビル・ワットのことらしい)頃から彼のプロモーター嫌いが始まったといい、馬場のような普通なら信頼に値するはずのプロモーターでもブロディは信じていなかったという(だが、馬場を信頼しなかったのは1985年までのことで、1988年4月の『週刊プロレス』インタビューにおいて、ブロディは「馬場を裏切ったことは本当に失敗だった。馬場に申し訳ないことをした」と悔いていた)。

また、海外遠征時代にブロディとサーキットを共にした武藤敬司は「滅多に他人を褒めなかったが、アドバイスは的確で色々と教えてもらった」と当時のことを語っている。初めて会話した際にいきなり「お前の試合はしょっぱい」と言われたとのこと。

なお、ブロディはアメリカ遠征中の日本人レスラー・米良明久に「ダラスでヒールのできる日本人を捜している」とダラス転戦を助言、米良はダラスでヒールレスラー「ザ・グレート・カブキ」に変身し、大活躍することとなった。結果として、ザ・グレート・カブキ(及びザ・グレート・ムタ)誕生のきっかけにブロディが絡んでいることになる。

アントニオ猪木が一番扱いに困ったレスラーがブロディであったと語っている。ブロディは試合直前にギャラアップを求めることがあり、アップしないなら試合に出ないと理不尽な要求を猪木に叩きつけていた。猪木は出られないのは困るからとそれをいつも仕方なく承諾していた。のちに猪木はブロディについて「自分の物差ししかない男」と回想している。それを物語ってか、新日本プロレス参戦時は日本人選手にシングルはおろか、タッグ戦でもピンフォール負けを許さなかった。逆に全日本プロレス参戦時はジャイアント馬場とジャンボ鶴田にのみシングル戦でピンフォール負けを喫している(馬場には2回、鶴田には1回)。

ブロディは毛皮を巻いたレスリングシューズを使用していた。一見、超獣ギミックを演出するための手法と思われるが、馬場によると、足首に傷があり、それを保護するためだったという。また、ブロディは逞しい上半身や太腿に比べて膝下が細いため、それを隠すためとも言われている。

得意技

キングコング・キック
助走をつけてのビッグ・ブーツ。別名「ブロディ・キック」。
キングコング・ニー・ドロップ
右腕を高く突き上げて予告した後に助走をつけてのニー・ドロップ。ポスト最上段からのダイビング・ニー・ドロップは切り札としてよほどの相手にしか出さなかった。ちなみに、当時ブロディの試合を実況していた倉持隆夫アナが「今度からキングコング・ニー・ドロップと名づけましょうか」と解説の竹内宏介に振ったところ「そうですね! 角度、破壊力などまったく他のレスラーとは違いますからね!」と即同調。あっさり決まった。
ギロチン・ドロップ
助走をつけての高角度のギロチン・ドロップ。その高さは古舘伊知郎に「無重力状態」とたとえられた。同時代のアメリカでハルク・ホーガンが同じ技をフィニッシュにしていたが、スピード・高さともブロディが完全に上回っていた。時としてポスト最上段からのダイビング・ギロチン・ドロップも使うことがあった。
ジャイアントスイング
猪木戦をはじめとして、比較的軽量のレスラーに使用していた。
フライング・ボディ・アタック
ロープに振られた際のカウンター技として使用していた。
ワンハンド・ボディスラム(ゴリラスラム)
右腕一本で豪快に投げ飛ばすブロディ独特のボディスラム。自身の怪力をアピールするために開発したとされており、馬場や鶴田のような巨漢が相手でも工夫して右腕一本で投げているように見せていた。また、猪木はこの技に関して「怪我をして力が入らなくなっていた時期でも右腕一本で投げていた。あれは彼のプライドなんだろうね」と語っている。
ブレーンバスター(ブレーンバスター・スラム)
独特のフォームのブレーンバスター。ビル・ゴールドバーグの「ジャックハマー」のヒントとなった技。
パイルドライバー
相手が逆さになった状態で四方に見せつけるように十分タメを作ってからジャンプし、頭頂部をマットに叩き付ける。見た目にも説得力十分な大技だったが、何らかの工夫をしていたのか技が決まった際の音が非常に大きかった。

天龍源一郎とのインターナショナルヘビー級タイトルマッチで逆さ押さえ込みでフォール勝ちしたことがある。また、巨体でありながら抜群の跳躍力をもって放たれるドロップキックも隠れた得意技の一つである。自らも「俺の体格で、これほど動けて飛べる大きな男はいない」と豪語していた。ルー・テーズのコーチを受けたこともあるのでレスリングにも定評があった。

獲得タイトル

全日本プロレス

テーマ曲

関連項目

外部リンク

脚注

  1. ^ 日本では、会場売りパンフレットや漫画『プロレススーパースター列伝』などに「本名:フランク・ゴーディッシュ」と記載されていた。
  2. ^ 日本スポーツ出版社『別冊ゴング』1976年12月号 本文巻頭記事「闘魂A猪木が来春1月MSG殴り込み!」P98
  3. ^ 会見においてブロディは、当時のホーガンのチャレンジャー達を「パイパーオーンドーフでは小さい。オートンでは細すぎる。スタッド? ただの木偶の坊じゃないか」などと揶揄していた。