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2008年4月29日 (火) 13:57時点における版

歯舞群島のランドサット画像
左から順に水晶島秋勇留島勇留島志発島多楽島志発島の南は春苅島
A.歯舞群島(歯舞諸島)、B.色丹島、C.国後島、D.択捉島
1.色丹村、2.泊村、3.留夜別村、4.留別村、5.紗那村、6.蘂取村

歯舞群島(はぼまいぐんとう)は、北海道の東端、納沙布岬の沖に点在する島々のことである。歯舞諸島とも表記される。第二次世界大戦前は水晶諸島珸瑤瑁諸島、あるいは色丹島まで含めて色丹列島と呼んでいたこともあった。地質構造的には色丹島とともに根室半島の延長が部分的に陥没したものとされ、地形や植生なども根室半島に似ている。台地状の平坦な島々が多い。

いわゆる北方領土のひとつであり、水晶島秋勇留島勇留島志発島多楽島春苅島及び貝殻島をはじめとする小さな島からなる。中央に位置する志発島が最も大きい。なお、諸島であるが北方四島のうちの1島として扱われる。歯舞は四島全体の2%の面積を占める。ロシア名・ハボマイ諸島(Острова Хабомай)。

当該地域の領有権に関する詳細は千島列島及び北方領土問題の項目を、現状に関してはサハリン州の項目を参照のこと。

国土地理院は、以前歯舞「諸島」と表記していたが、根室市から「北方領土返還要求運動の現場[1]や教育現場で、歯舞群島や歯舞諸島が使われ混乱が生じている」と歯舞群島への地名変更の要望が国土地理院に寄せられたため、国土地理院と海上保安庁海洋情報部で構成する「地名等の統一に関する連絡協議会」において、決定地名の歯舞諸島(はぼまいしょとう)を歯舞群島(はぼまいぐんとう)へ変更した。[2]

歴史

日本統治時代

18世紀末に江戸幕府蝦夷地調査隊によって比較的に正確な地図が描かれ、岩礁も含む島名が明示されてから、日本国内で存在が広く知られるようになった。当時の記録によれば、歯舞群島は無人島であった。文化4年(1807年)に幕府が東蝦夷地を直轄地としてから色丹島とともに出稼によるコンブの採取が始まった。定住が始まったのは明治10年(1877年)以後で、函館の広業商会が昆布採取のために貸出した資金で生産者・漁師などが居住した。その後も島内の産業は昆布や海苔ホタテ貝の採取を中心とし、タラなどの沖合漁業も行っていた。また勇留島志発島多楽島では約200頭ずつを飼育していたという。明治時代は対岸の珸瑤瑁(ごようまい)村に属していたため、珸瑤瑁諸島と呼ばれていた。大正4年(1915年)、珸瑤瑁村は歯舞村と合併し、歯舞村となった。このため珸瑤瑁諸島は歯舞群島と呼ばれるようになったが、戦後になっても珸瑤瑁諸島と呼ばれることも有った。第二次世界大戦が終わった時の総人口は約4,500名で、漁業人口は95%であった。

ロシアによる占領・実効支配

1945年9月2日太平洋戦争が終結し一般命令第一号が発令された。この命令により、千島の日本軍はソ連極東軍に降伏することが定められると、ソ連軍が進攻して、占領下に入った。翌年1月29日GHQの指令第677号により歯舞群島を含む日本の行政権が停止されると、ソ連は自国に編入。以来、ソビエト連邦・ロシア連邦の実効支配下にある。戦前は対岸の花咲郡歯舞村に属していたが現在の日本領有権を主張しており、昭和34年(1959年)に歯舞村が根室市と合併したため、現在は根室市に属している。しかし、平成20年(2008年)の時点において日本の施政権は全く及んでいない。

参考文献

  • 日本歴史地名大系(オンライン版)小学館 -『日本歴史地名大系』(平凡社、1979年 - 2002年) を基にしたデータベース
  1. ^ 北方領土問題等の解決の促進のための特別措置に関する法律など法律では「群島」が用いられてきた。
  2. ^ 歯舞諸島の名称を歯舞群島へ変更 国土地理院プレスリリース 2008年3月21日 14時発表

関連項目

2005年3月28日 納沙布岬・平和の塔展望室よりパノラマ撮影。 水晶島志発島貝殻島勇留島秋勇留島を臨む。