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榊原千代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
榊原 千代
さかきばら ちよ
『衆議院要覧 昭和22年12月現在』より
生年月日 1898年7月15日
出生地 日本の旗 日本 静岡県三島市
没年月日 (1987-04-28) 1987年4月28日(88歳没)
出身校 フェリス和英女学校、青山女学院
前職 雑誌記者
所属政党 日本社会党
配偶者 榊原巌
子女 榊原陽

日本の旗 司法政務次官、法務政務次官
内閣 片山内閣
天皇 昭和天皇

選挙区 旧福島県第1区
当選回数 2回
在任期間 1946年 - 1949年
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榊原 千代(さかきばら ちよ、1898年明治31年〉7月15日[1][2][3]1987年昭和62年〉4月28日[2][3])は、日本雑誌記者教育者政治家衆議院議員(2期)[4]、女性初の代議士の一人[2][5][6]。旧姓は間野[2][3][7]

経歴

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現在の静岡県三島市に生まれる[1][2]

1917年大正6年)、フェリス和英女学校を卒業[4][6]1919年(大正8年)、青山女学院英文専門科本科卒業[4]。同年、雑誌「婦人の友」の記者となる[2]自由学園教授などを経て、1927年(昭和2年)に経済学者の榊原巌と結婚[2][3]。結婚後、夫とともにドイツイギリスに留学する。マルブルグ大学(ドイツ)、セリオーク大学(イギリス)等で聴講する[4]

帰国後、夫・巌が福島経済専門学校(現福島大学経済経営学類)教授に就任したことにより福島県に移り、福島高等女学校で教鞭を執る。

第二次世界大戦後初の選挙となった1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に日本社会党から立候補して福島1区で当選する[2][6]。同選挙が男女普通選挙制度を採用した初の選挙であったため、女性代議士第1号の一人となった[2][5][6]

1948年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙でも再選し[4]片山内閣で女性初の司法政務次官に就任した[2][3][5][6]1949年第24回衆議院議員総選挙で落選。

1951年(昭和26年)、国立大学管理法制定委員になる[2]。同年からフェリス女学院理事長、青山学院理事を務めた[2]。そのほか、国際基督教大学の創立委員および同大学評議員[4]聖光学院院長を歴任[2][7]。東京家庭裁判所調停委員も務めた[4]1980年(昭和55年)にキリスト教功労者を受賞[8]

1987年(昭和62年)4月28日死去[2][3][4][5][6]

脚注

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  1. ^ a b 岩尾 1999, p. 168.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 日本女性人名辞典 1998, p. 477.
  3. ^ a b c d e f 講談社 2001, p. 830.
  4. ^ a b c d e f g h 衆議院議員名鑑 1990, p. 292.
  5. ^ a b c d 人物レファレンス事典2013a 2013, p. 1251.
  6. ^ a b c d e f 政治家人名事典 2003, p. 292.
  7. ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus
  8. ^ 日本キリスト教文化協会 顕彰者一覧※2022年10月22日閲覧

参考文献

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  • 衆議院、参議院 編『衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局〈議会制度百年史〉、1990年。 
  • 岩尾光代『新しき明日の来るを信ず : はじめての女性代議士たち』日本放送出版協会、1999年。ISBN 4140804394 
  • 上田正昭・西澤潤一・平山郁夫・三浦朱門/監修 編『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108003 
  • 日外アソシエーツ株式会社 編『人物レファレンス事典 昭和〈戦後〉・平成編2〈2003-2013〉あ-す』(新訂増補)日外アソシエーツ、2013年。ISBN 9784816924392 
  • 日外アソシエーツ株式会社 編『政治家人名事典 : 明治-昭和』(新訂)日外アソシエーツ、2003年。ISBN 4816918051 
  • 芳賀登・一番ヶ瀬康子・中嶌邦・祖田浩一/監修 編『日本女性人名辞典』(普及版)日本図書センター、1998年。ISBN 4820578812