マルクス・トゥッリウス・キケロ

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マルクス・トゥッリウス・キケロ
Marcus Tullius Cicero
(M. Tullius M. f. M. n. Cicero)
マルクス・トゥッリウス・キケロ胸像
誕生 紀元前106年1月3日
アルピヌム
死没 紀元前43年12月7日(満63歳没)
フォルミア
職業 政治家弁護士哲学者
言語 古典ラテン語
国籍 共和政ローマ
市民権 ローマ市民権
代表作 『国家論』『法律』『義務について』他
政務官履歴
クァエストルシキリア紀元前75年
アエディリス・プレブス(紀元前69年
プラエトル紀元前66年
執政官紀元前63年
レガトゥスポンペイウス配下、紀元前57年
アウグル紀元前53年-43年)
プロコンスルキリキア総督、紀元前51年-50年)
プロコンスル(ギリシャイタリア担当、紀元前49年-47年)
レガトゥス(ドラベッラ配下、紀元前44年
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マルクス・トゥッリウス・キケロラテン語: Marcus Tullius Cicero, 紀元前106年1月3日[1] - 紀元前43年12月7日[2])は、共和政ローマ末期の政治家弁護士[3]文筆家哲学者である。名前はキケローとも表記される。カティリーナの陰謀から国家を救うなど活躍し、入ることを熱望していたオプティマテス寄りの論陣を張って、ガイウス・ユリウス・カエサルオクタウィアヌスらを食い止めようと試みたが叶わなかった。

哲学者としてはラテン語ギリシア哲学を紹介し、プラトンの教えに従う懐疑主義的な新アカデメイア学派から出発しつつ、アリストテレスの教えに従う古アカデメイア学派の弁論術、修辞学を評価して自身が最も真実に近いと考える論証や学説を述べ、その著作『義務について』はラテン語の教科書として採用され広まり、ルネサンス期にはペトラルカに称賛され、エラスムスモンテスキューカントなどに多大な影響を与えた。又、アリストテレスのトピックスに関してDe inventione , De oratore, Topicaの三書を著し, 後のボエィウスによるその概念の確立に大きく貢献している(例えばトピックス ―ボエティウスまで参照)。

キケロの名前に由来するイタリア語の「チチェローネ」という言葉は「案内人」を意味するが、ギリシア哲学の西洋世界への案内人として果たした多大な影響をよく物語っている[4]

生涯

出自

キケロは祖先に顕職者を持たない「ノウス・ホモ」としては異例の出世を遂げた。アルピヌムの出身で、トゥッリウス氏族の祖先はアルピヌムの王の一人であるという[5]。アルピヌムは紀元前303年投票権なき市民権を得ており、紀元前188年に完全なローマ市民権を付与された[1]。キケロの生まれた頃には、マリウス氏族グラティディウス氏族、そしてトゥッリウス氏族がこの街で最も有力な氏族となっており[6] 、キケロの父の代からエクィテスの地位を得ていた[7]

キケロの祖父は紀元前115年マルクス・アエミリウス・スカウルスに賞賛されたことがあり、キケロが10才の頃、家族と共にローマへ移り住んだ後、恐らくその伝手もあって、ルキウス・リキニウス・クラッススマルクス・アントニウス・オラトルスカエウォラ・アウグルスカエウォラ・ポンティフェクスといった当代一の雄弁家の従者として学ぶことができた[8]

キケロというコグノーメンは、「ヒヨコマメ(Cicer)」から来ているが、これは彼の祖先の鼻にイボがあったからだという[7]。キケロは、若い頃に友人から「無名の家名(キケロ家)を避けた方がよい」とアドバイスを受けたが、「私自身の手で、キケロ家をスキピオ家やカトゥルス家より有名にしてみせる」と語ったという[9]。キケロは幼い頃から負けず嫌いで、文筆活動や哲学は余興に過ぎず、政治に関わることこそが美徳であり[10]、政治家として名を揚げることこそが本望であった[11]

青年期

17才となったキケロは、紀元前89年の執政官グナエウス・ポンペイウス・ストラボの下で軍務に就き、翌紀元前88年にはルキウス・コルネリウス・スッラの下で従軍した。ポンペイウスの配下であった時、全く兵士に向いていないので陣地で留守番をさせられていたという[12]。軍務を終えるとすぐに弁論の勉強を再開した。この頃、ポプラレスの英雄ガイウス・マリウスと組んでいた護民官プブリウス・スルピキウス・ルフス英語版の弁舌を徹底的に研究したと語っている[13]

ポントゥスミトリダテス6世によるギリシア侵攻を受け、スッラがインペリウムを得て第一次ミトリダテス戦争を始めると、アテナイから亡命してきたアカデメイアの学長、新アカデメイア派のラリッサのフィロンから徹底的懐疑主義[14]を学ぶ[15]。他にもエピクロス派のパイドロス英語版や、ストア派のディオドトス英語版らの影響を受け[16]、弁論家ポセイドニオスも師の一人として名を挙げている[14]。21才の頃[10]クセノポンの『家政論』をラテン語に翻訳したと語っている[17]。また、この間に弁論に関する理論をまとめた『構想論(De inventione)』を書き上げていた[18]

『構想論』(前91~87年)

キケロのレトリックに関する記述は7編残っているが[19]、『構想論』はその最初の著作でもあり、キケロにとっての初めての著作でもある[20]。キケロはレトリックを5つの部門に分けて考えており、これはその第1部門を取り扱う[21]。キケロは弁論術をまず定義しているが、アリストテレスの影響が強く見受けられる[22]。また弁論の取り扱う題材についても、アリストテレスの定義に従って、限定的な題材とし、それを「儀式弁論」「議会弁論」「法廷弁論」の三種に分類した[23]。そしてレトリックの5つの段階を、「発見(構想)」「配置」「修辞」「暗記」「実演」とし、この著作ではその最初の構想段階を取り扱ったところで中断しており、そのため『構想論』と呼称されている[24]。構想を立てることと題材を発見することは密接に関わっているため、『発見・構想論』とも訳される[19]

この芸術(弁論術)に誰よりも多くの支えと彩りを提供してくれたアリストテレスによれば、
弁論家の義務は、以下の主題に精通することであるという。
感情表現、審議、そして、裁判の3種である。

キケロ『構想論(De inventione)』1.5

弁護士デビュー

紀元前81年、25才で弁護士としての活動を始めたが、彼の師であったルキウス・クラッススは20才、後にライバルとなるクィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルスは19才でデビューしており、あまり早いデビューとは言えなかった[25]。「私は初めて私的な、そして公的な訴訟に関わることにした。それによって何かを得るためでなく、今まで得てきたものを試すために[26]」。

プブリウス・クィンクティウス弁護(前81年)

彼のデビュー戦は原告のプブリウス・クィンクティウス側に立っての占有を巡る民事訴訟[27]であった。被告のセクストゥス・ナエウィウスは、ケンソル(監察官)経験者でもあったルキウス・マルキウス・ピリップスを後ろ盾にし、代理人として雄弁家のホルタルスが立ち、更に事前審理ではスッラの息のかかったプラエトル・ウルバヌス(首都法務官)のグナエウス・コルネリウス・ドラベッラがナエウィウス寄りの仮判決を下していた。しかしキケロはこれらの権威に果敢に立ち向かっていった[28]

この国において最も影響力のある二つのこと、
すなわち、最大の注目と最高の雄弁、この二つが、
今まさに、我々の前に敵として立ちはだかっている。
私は、それらに対して感嘆と恐れを禁じ得ない。
ホルテンシウスの雄弁さが、私をいささか怯ませているのは確かだ。

キケロ『プブリウス・クィンクティウス弁護(Pro P. Quinctio)』1

アメリアのロスキウス弁護(前80年)

この訴訟で名を知られるようになったキケロは、ノビレス(上流階級)から刑事訴訟を依頼された。紀元前81年夏、アメリアの名士で、ローマ社会でも有力なカエキリウス・メテッルス家スキピオ家セルウィリウス氏族とも交友のあった[29]セクストゥス・ロスキウスが殺害された。この容疑者として、翌紀元前80年に同名の息子が訴追され、その弁護に当たったのである[25]

親殺し(parricidium)は当時としては極刑に処される大罪であり、元老院議員から選出された審判人[注釈 1]の心証はすこぶる悪い。そこでキケロは真犯人を作り出す作戦に出た。被害者は600万セステルティウスもの資産を所有していたが、それに目を付けた敵対的な親族が、当時終身独裁官であったスッラの側近で解放奴隷のクリュソゴヌスに知らせ、クリュソゴヌスが被害者をプロスクリプティオの名簿に入れることでその資産を安価に手に入れて親族に分け与え、更に父親を殺されてローマへ逃れた若きロスキウスに、父殺しの罪を着せた[31]のだと決めつけ、幾度もこれはスッラとは無関係に行われたと強調しつつ[18]攻撃した[32]

キケロが、雄弁家や指導者が身につけるべき教養、高い道徳性、良い人間性といった意味でギリシア語から作り出し好んで使った「フマニタス(humanitas)」が初めて出てくるのは、この弁護においてである[33]

さて、これはあくまで注意喚起のためであって、中傷とは受け取らないで欲しいのだが、
訴追人は生まれの不幸から、父親の子供に対する愛情を知ることが出来なかったのではあるが、
それでも、自然に備わった人間性を少なからず持ち合わせており(ut humanitatis non parum haberes)、
その上に努力して、学識をも身につけた訳だ。

キケロ『アメリアのロスキウス弁護(Pro Roscio Amerino)』45-46

キケロは、近年行われたプロスクリプティオによる粛清の嵐[注釈 2]を審判人に思い起こさせ、それが多くの人々からフマニタスをも奪ってしまったと訴えた。そして、この裁判で無罪判決を出すことは、人間性を思い起こさせ、ひいては国家をも救うことになると主張した[34]。被告のロスキウスは真面目な青年で、ローマ社会の名士が後ろについていた。それに対して訴追側は、その驕りからそもそも弁護の引き受け手はいないと考え、雑な法廷戦略をとっており、キケロはこの裁判で無罪を勝ち取った[35]。更に彼は、衆人環視の中行われた裁判によってローマの上流階級の信頼をも勝ち取ったのである[36]

東方遊学(前79~77年)

キケロは紀元前79年、資産家の娘テレンティアと結婚し[37]、スッラによって市民権を剥奪されたと訴えられていたアッレティウムの女性の弁護で勝利するなど、しばらく弁護士として活動したが、体を壊してしまい、2年間休養を取った[38]。弟クィントゥスティトゥス・ポンポニウス・アッティクスらと共にギリシアに留学し、アテナイでピロンの弟子アスカロンのアンティオコスに学んだ[39]。また、ロドス小アシアも周り、エピクロス派ツィロンにも学んだ。なお、ポンポニウスは後にアテナイに移住し、キケロと幾度も書簡を交わす(『アッティクス宛書簡』)終生の友である[40]。アンティオコスはラリッサのフィロンらの懐疑主義を批判していたが、キケロはあまり同意できなかったようである[41]

紀元前78年にスッラは死去したが、キケロは遊学を続けた。この頃テレンティアとの間に娘トゥッリアが生まれている。プルタルコスはテレンティアを我の強い女性と描写しており、結婚は金のためであったというが、キケロは良き家庭人ではあったようである[42]

クルスス・ホノルム

『カティリナ(右端)を追及するキケロ(左側手前)』、"Cicerone denuncia Catilina"、イタリア人画家チェーザレ・マッカリ英語版による1888年の作

紀元前77年、キケロは再びローマへ戻ると弁護活動を再開した。しかし、上流階級を敵に回さないよう、訴追側には回らず弁護に終始した[43]紀元前76年には、喜劇役者クィントゥス・ロスキウス英語版の民事訴訟で弁護している(『喜劇俳優クィントゥス・ロスキウス弁論 (pro Q. Roscio Comoedo)』)。

クァエストル(前75年)

30才になると、紀元前75年クァエストル(財務官)[44]に選出され、クルスス・ホノルムを登り始めた。彼のプロウィンキア(職能範囲)はシキリア属州リリュバエウム(現マルサーラ)で、シキリア担当プロプラエトル(元法務官)、セクストゥス・ペドゥカエウス[44]の下で働いた。この時彼はシュラクサエを訪れ、打ち捨てられていたアルキメデスの墓を発見している[45]

ウェッレス弾劾裁判(前70年)

紀元前70年、シキリア総督ガイウス・ウェッレスラテン語版イタリア語版英語版による強要恐喝罪(de repetundis)を告発した。このときの弁論を加筆修正したものは、『ウェッレス弾劾演説英語版』としてまとめられ、現在では、その当時の属州政治の内実を知るための貴重な資料となっている[46]

ウェッレスは紀元前74年のプラエトル・ウルバヌスで[47]、翌紀元前73年から71年までの3年間、プロプラエトルとしてシキリアを担当していた[44]。属州を担当したプロマギストラトゥス(元政務官)による搾取は当時よく見られたことではあるが、ウェッレスのそれは度を超えており、1年目は自身の蓄財のため、2年目は裁判で弁護士に払うため、3年目は審判人買収のため、と揶揄されたほどであった。そのため、シキリアの代表者が、元担当クァエストルであったキケロに代理人を頼んだのである[48]。ウェッレスの統治した3年間で、シキリアのレオンティニではその搾取に耐えかねて、耕作者が84人から32人にまで減っている[49]

こうしたローマ人による搾取に対しては、紀元前149年護民官ルキウス・カルプルニウス・ピソ・フルギが、恐喝された金銭の返却請求法(Lex Calpurnia de repetundis)を成立させており、そのためのプラエトルが主宰する常設査問所(quaestio)が設置されていた。これはその当時はローマ市民権を持ったものだけが請求できたのだが、紀元前122年の護民官、ガイウス・センプロニウス・グラックスによって、外国人が直接訴えることができるように改変され、紀元前81年コルネリウス法(Lex Cornelia de repetundis)でもその権利は残された。返還請求はまず民事として行われ、そこで被告が罪を認めた場合は直ちに損害賠償額の算定(litium aestimatio)に移るが、否定した場合には公訴事実を争うことになる。紀元前70年の1月、キケロはプラエトルのマニウス・アキリウス・グラブリオに訴訟を申請し、4000万セステルティウスを恐喝したとして査問所に被告の名が登録(nominis receptio)された[50]

この裁判で、キケロは、当時名声を博していたホルタルスを相手に勝利した。

キケロは、一躍名声を上げ、紀元前69年アエディリス(按察官)、紀元前66年プラエトル(法務官)を経験した後、紀元前63年執政官に就任した。執政官在任中に起きたルキウス・セルギウス・カティリナ一派による国家転覆未遂事件において、マルクス・ポルキウス・カトらの助力を得て、首謀者を死刑とする英断を下し、元老院から「祖国の父」(pater patriae) の称号を得る。

追放と政治的苦境

しかし、カティリナ一派を死刑にするというこの決断は、「ローマ市民は、市民による裁判を受けなければ、死刑に処されることはない」というローマの法に反したものであったため、越権行為であるという批判がなされた。その結果、紀元前58年護民官に就任したプブリウス・クロディウス・プルケルの訴追によって、キケロは、ローマからの逃亡を余儀なくされる。

翌年、キケロ召還決議が可決したため、キケロは、ローマに凱旋帰国する。その後、グナエウス・ポンペイウスガイウス・ユリウス・カエサルマルクス・リキニウス・クラッススによる第一回三頭政治に反対した。一方で「クロディウスがパトリキ出身でありながら護民官に就任したことは違法であり、クロディウスが護民官時期に行った施策は無効である」旨を表明したところ、カトはこれに激しく反発したため、カトとの仲が冷却化した。

紀元前51年から49年までの間、政情不安に陥っている小アジアキリキア総督を拝命し、同地で内乱の処理に当たった。紀元前49年から始まったカエサル派とポンペイウスらの元老院派による内戦では、当初中立を保ったが、カエサルがヒスパニアで苦境に陥っていたことから、ポンペイウス側に身を投じた。元老院派は、日和見的なキケロの対応を白眼視して、重要な任務を与えなかった。そのため、キケロは、愛想のない顔で歩き回っては、元老院派陣営の空気を冷やすような冗談を提供した。

紀元前48年8月、元老院派がファルサルスの戦いで敗北すると、キケロは、マルクス・テレンティウス・ウァロらと共に元老院派を離脱した。その際、無責任で身勝手な対応に終始したため、カトの制止がなければ、キケロは、小ポンペイウスに殺害されるところであった。後にカエサルにより許されたが、以降は政治から離れて学問に専念し、アッティクスの協力も得て、数々の著作を世に送り出した。紀元前46年4月にウティカでカトが自害したため、キケロは、カトの生き様を誉め讃えた『カト』を発刊した。同時期にカエサルも『反カト』を発刊したが、共に現存していない。

キケロは、他の元老院議員たちとは違い、独裁者に変貌していくカエサルや共和政ローマの崩壊を目の当たりにして、不安を覚えていた。このことは、『アッティクス宛書簡集』などから読み取ることができる。

アントニウスとの対決と暗殺

フルウィア (マルクス・アントニウスの妻)が処刑されたキケロの頭で遊ぶ様を描いた『フルウィアとキケロの頭』(パーヴェル・スヴェドムスキー画)

紀元前44年3月15日、カエサルが暗殺された。そのとき、キケロは、その事件に直接には関らなかったものの、暗殺者たちを支持しており、その数日後にブルトゥスなどの暗殺者との会談を行っている。カエサル暗殺後にカエサルの後継者に座ろうとするマルクス・アントニウスに対抗するため、当時平民だったオクタウィアヌスを政界に召喚し、彼の人気を後ろ盾に『フィリッピカ』と題する数次にわたるアントニウス弾劾演説を行う。

しかし、アントニウスとオクタウィアヌスの間に第二回三頭政治が成立したことにより、キケロは、失脚してしまう。キケロを亡き者にしたいというアントニウスの要求にオクタウィアヌスが屈するというかたちで、プロスクリプティオの名簿にキケロを公示した。そのため、ブルトゥスらが勢力を持っていたマケドニア属州へと向かったものの、紀元前43年12月7日、アントニウスの放った刺客により暗殺された。このとき、キケロの首だけでなく右手も切取られて、フォルム・ロマヌムに晒されることとなった。

紀元前30年、アントニウスは、アクティウムの海戦に敗れて自死した。このとき、キケロの息子マルクス(小キケロ)は、ローマの執政官であったが、アントニウスの一切の名誉を取り消し、アントニウス家の者は今後「マルクス」の名を使うことを禁ずることを可決した。

キケロの政治構想

1560年発刊の『義務について』

キケロは、カエサルと並ぶラテン語散文の名手であり、その完成者といわれる。彼の著作は多岐にわたり、演説や書簡でも知られている。彼の文学者としての評価および政治思想家としての評価は定まっており、今日でも注目を浴び続けている。しかし、政治家としてはいくつかの欠点があり、その政治行動と業績については評価が分かれる。

キケロは、カエサルとは異なり、共和政の範囲内でローマ社会の改革を企てており、『国家論』『法律』『義務について』の中で、第一人者(プリンケプス)の指導により元老院と平民との融和を図った。更に、ローマ法についてもギリシア哲学を基にして、今までの事例中心だったローマ法を体系的に再編成するなどの作業を通じ、共和政の中身を改革することを政治課題としていた。しかし、それが皮肉にもアウグストゥスによる元首政の構想に引き継がれることとなった。

キケロには、多くの弁論や演説が現存する。その中でも、反乱謀議のかどでカティリナを弾劾した元老院演説『カティリナ弾劾演説』は有名である。その他『国家論』『法律』『友情について』『老年について』『神々の本性について』『予言について』などがある。また、家族・友人に送った書簡も数多い。その思想は、当時ローマで主流だったストア哲学にローマの伝統的価値観を取り込んだ折衷的なものとして知られる。たとえば、『義務について』では、ストアの義務論を、賢人にのみ可能な善の実践としての義務と一般人にも可能な日常好ましいことの実践としての義務 (officium) の履行に換骨奪胎している。

後世の評価

プルタルコス対比列伝ではデモステネスと対比されており、キケロ自身もアントニウス弾劾の演説にデモステネスのピリッポス2世を弾劾したものと同じ『フィリッピカ(ピリッピカ)』と名付けた。

その後のキケロの思想を巡る歴史は、そのままヨーロッパの思想史を説明することにもなるほど、後世のヨーロッパに影響を与えた。聖ペテルスブルグ大学教授ツィーリンスキーによると、キリスト教中世期、ルネサンス期、啓蒙主義期の三つの時期に分けられる[51]

キリスト教中世期

キケロは、専ら道徳哲学者として評価された。アウグスティヌスは、「キリスト教父としてのキケロー」の一面を持つとされる[52]

ルネサンス期

14世紀イタリア人文主義、とりわけフランチェスコ・ペトラルカが賞揚して以来その文体はラテン文学の規範とされ、14世紀イタリアルネサンスは『アッティクス宛書簡集』に見られる作品と作者の内面のズレを発見したペトラルカを以て開始された。この時期のキケロはその人間性によって知られ、ペラトルカ、ダンテ、ボカッチオのルネサンス三大詩人を貫くルネサンス文芸の特質は全てキケロに負うとされる[53]15世紀には、キケロの文体はラテン語文体の典範とされ、キケロの文体だけを模倣する人文学者はキケロ主義者と呼ばれた。キケロ主義者と、キケロ以外にもラテン語の範を求めることを許す学者との間で再三論争が発生した。エラスムスは1528年『キケロ主義者』を出版し、痛烈にキケロ主義を批判したが、その後のヨーロッパではキケロ主義が勝利を収め、西欧の近代知識人に大きな影響を与えた[54]

啓蒙主義期

キケロは、フランス啓蒙主義、更にはフランス革命に至るまで、西欧における知識人たちにおける必読文献とされ、ニッコロ・マキャヴェッリフーゴー・グローティウスシャルル・ド・モンテスキューヴォルテールの思想にも大きな影響を与え、キケロを以て共和主義民主主義の象徴とする動きが連綿と続いた。

衰退期

キケロに対する関心は、19世紀以降低下をはじめ、「大革命」のシンボルとしてキケロを重視していたフランスに対抗する形で、特に多くの領邦国家に分かれプロイセンを中心に王政を基礎とした統一国家の成立を目指していた当時のドイツにおいてニーブールヘーゲル等により共和制の守護者たるキケロは批判され、キケロと対立したカエサルの19世紀後半の熱烈な支持者であったモムゼンによってその批判は頂点を迎える。イギリス、フランスに遅れて発展し始めたドイツにおいて、絶対的かつ本質的なギリシア文化に対して、キケロが体現するローマ文化はその亜流に過ぎず、評価に値しないものとされ、このような傾向について、エライザ・メアリアン・バトラーは、『ドイツにおけるギリシアの暴虐』(1933)において示唆したため、ナチスの禁書目録に指定された[55]

現在

モムゼンの影響は20世紀にまでも及び、この影響からキケロを救い出そうとしたのは古典学者のハインツであり、20世紀半ばから、イギリス、フランス、アメリカ、ポーランド等でキケロに関する研究は地道に進められるようになり、20世紀におけるキケロの最大の評価者は、ハンナ・アーレントホセ・オルテガ・イ・ガセットであるとされる[56]

日本

日本では林達夫がキケロを必読書として推奨していた位で[57]、日本語訳は、近年まで岩波文庫などで数冊訳されたほどで本格的な研究書は存在しなかった。1997年に岩波書店で『全集』出版が予告されていたが[58]1999年に『選集』に変更し刊行、改訂版が岩波文庫で数冊刊行されたのみである。近年、日本人による研究書が刊行されるに至った。

『アルキメデスの墓を発見したキケロと行政官』、"Cicero and the magistrates discovering the tomb of Archimedes."、アメリカ人画家ベンジャミン・ウエストによる1797年の作

著作

Opera omnia, 1566
  • 弁論家について』(De oratore)(紀元前55年)全3巻
  • 国家論』(De re publica)(紀元前54年紀元前51年)全6巻の3分の1が現存。
  • 法律』(De legibus)(紀元前52年紀元前51年
  • ストア派のパラドックス』(Paradoxa Stoicorum)(紀元前46年
  • 慰め』(Consolatio)(紀元前45年
  • ホルテンシウス』(Hortensius)(同上)散逸
  • カトゥルス』(Catulus)(同上)散逸
  • 善と悪の究極について』(De finibus bonorum et malorum)(同上)全5巻 - Lorem ipsumの原典。
  • アカデミカ』(Academici libri)(同上)全2巻うち第1巻の4分の1及び第2巻が現存。
  • トゥスクルム荘対談集』(Tusculanae disputationes)(同上)全5巻
  • 神々の本性について』(De natura deorum)(同上)全3巻
  • 予言について』(De divinatione)(紀元前44年)全2巻
  • 大カトー・老年について』(Cato major de senecutute)(同上)
  • ラエリウス・友情について』(Laelius de amicitia)(同上)
  • 義務について[注釈 3](De officiis)(同上)全3巻
  • 宿命について』(De fato)(同上)未完
  • 栄光について』(De gloria)(同上)散逸

日本語訳

  • キケロー選集』 岩波書店(全16巻)、1999-2002年
    • 第1巻 - 法廷・政治弁論I : ロスキウス・アメリーヌス弁護 他
    • 第2巻 - 法廷・政治弁論II : ムーレーナ弁護 他
    • 第3巻 - 法廷・政治弁論III : カティリーナ弾劾、ピリッピカ(アントーニウス弾劾)
    • 第4巻 - 法廷・政治弁論IV : ウェッレース弾劾I
    • 第5巻 - 法廷・政治弁論V : ウェッレース弾劾II
    • 第6巻 - 修辞学I : 発想論ほか
    • 第7巻 - 修辞学II : 弁論家について
    • 第8巻 - 哲学I : 国家について、法律について
    • 第9巻 - 哲学II : 大カトー・老年について、ラエリウス・友情について、義務について
    • 第10巻 - 哲学III : 善と悪の究極について
    • 第11巻 - 哲学IV : 神々の本性について、運命について
    • 第12巻 - 哲学V : トゥスクルム荘対談集
    • 第13巻 - 書簡I : アッティクス宛書簡集I
    • 第14巻 - 書簡II : アッティクス宛書簡集II
    • 第15巻 - 書簡III : 縁者・友人宛書簡集1
    • 第16巻 - 書簡IV : 縁者・友人宛書簡集2
「選集」の文庫版
  • 『キケロー弁論集』 小川正廣・谷栄一郎・山沢孝至訳、岩波文庫、2005年
  • 『弁論家について』 大西英文訳、岩波文庫(上下)、2005年
  • 『キケロー書簡集』 高橋宏幸編、岩波文庫、2006年[注釈 4]
  • 『老年について』 中務哲郎訳、岩波文庫、2004年[注釈 5]
  • 『友情について』 中務哲郎訳、岩波文庫、2004年[注釈 6]
その他
  • 『義務について』泉井久之助訳、岩波文庫、1961年

脚注

注釈

  1. ^ 現在の陪審制に近い。当時はコルネリウス法によって全員元老院議員で構成され、双方の弁論を聞いた後に秘密投票を行い多数決で判決を出す[30]
  2. ^ 紀元前80年代にスッラとマリウス、ルキウス・コルネリウス・キンナらによって引き起こされた反対派の粛清
  3. ^ 泉井久之助訳が岩波文庫(度々復刊)
  4. ^ 複数の訳者による選集
  5. ^ 旧版は『老境について』吉田正通訳
  6. ^ 旧版は呉茂一・水谷九郎訳

出典

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  58. ^ グリマル、1994、p.177。訳者解説

参考文献

研究書

  • 高田邦彦『ウェッレース弾劾演説の信憑性に関する考察』日本西洋古典学会、1967年。 
  • 角田幸彦『キケロー伝の試み キケローとその時代』 北樹出版、2006年
    • 『キケローにおける哲学と政治 ローマ精神史の中点』 北樹出版、2006年
    • 『体系的哲学者 キケローの世界 ローマ哲学の真の創設』 文化書房博文社、2008年
  • 平野敏彦『キケロ『発見・構想論』におけるレトリックの構想 <論説>』広島大学法学会、2004年。 
  • 高畑時子『キケローのフーマーニタース(Humanitas)』京都府立医科大学、2004年。 
  • 柴田光蔵『キケロー(Cicero)の「アメリアのロースキウス弁護論(Pro Roscio Amerino)」』京都大学、2013年。 
  • T. R. S. Broughton (1952). The Magistrates of the Roman Republic Vol.2. American Philological Association 
  • J. E. Atkinson (‎1992). CICERO AND THE TRIAL OF VERRES. University of Cape Town 

関連項目

公職
先代
ルキウス・ユリウス・カエサル
ガイウス・マルキウス・フィグルス
執政官
同僚:ガイウス・アントニウス・ヒュブリダ
紀元前63年
次代
デキムス・ユニウス・シラヌス
ルキウス・リキニウス・ムレナ

外部リンク