オプティマテス

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オプティマテス: optimates)は、共和政ローマ末期の政治一派を指すとされてきた呼び方。キケロが『セスティウス弁護』の中で「ポプラレス(民衆派)」と共に使用し、旧来これに従い共和政末期には国論が二分されたかのように扱われてきた[1]。日本語では閥族派元老院派と呼ばれる。

概要[編集]

この国では、政治に関わり大きなことを成し遂げたいと考えている人々には2つの種類(genera)がある。
一方は「ポプラレス」、もう一方は「オプティマテス」とされ、本人たちもそう目されるよう志向する。
民衆の人気を取るための言動をとる者たちが「ポプラレス」であり、
最高の市民に受け入れられる政策を志向する者たちが「オプティマテス」とされる。

キケロ『セスティウス弁護』96[注釈 1]

このキケロの文章によって、長年にわたり共和政末期にはあたかも二大政党制の如く、「オプティマテス」と「ポプラレス」の対立があったと思われてきたが、近年ではこのような近代的な「政党」はローマには存在しなかったというのが、研究者の共通認識となっている。代わりに、各個人が属する党派(factio)の論理が重視される。しかしながら、共和政ローマを専門としない研究家や歴史家によって、この呼び方がいまだに利用されている[2]

この「オプティマテス」と「ポプラレス」の対立という図式は、テオドール・モムゼンらによって支持されてきたが、現在ではこのような継続性をもった政党は存在せず、おのおののノビレス(新貴族)が属する複数ある党派同士の激しい権力争いが行われていたと考えられてきており、以前はノビレスをオプティマテスと見なすことも行われていたが、オプティマテスもポプラレスも主要な人間はノビレスであったことが指摘されており、現在では否定的である[3]

共和政ローマの選挙においては、第1クラシス(階級)の投票でほぼその選挙結果が決まるとさえ考えられていたケントゥリア民会においても、一般市民の動向が影響していたとする研究もあり、元老院に議席を持つノビレスと言えど、市民の支持を無視することは出来なかったと考えられ、民衆の支持を得ようとするものがポプラレスであるとは言い切れない。また当時の市民集会(コンティオ)で民衆の支持を得ようと派手な演出を伴う演説を行うものはいたが、それをすなわちポプラレスとすることも出来ない。そして、従来オプティマテスと目されてきたマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシスが、紀元前62年に食糧供給の適用範囲を拡大したような例もあり、改革派をそのままポプラレスとすることも出来ないのである[4]

キケロの時代には、民衆の支持を得るためのパフォーマンス政治家が増えており、護民官らが徒党を率いて騒乱を起こすなど、問題が発生していた。そこでそのような者たちと区別するため、良識的な普通のローマ市民というような意味合いで、オプティマテスとラベリングし、法廷弁論で使用したのではないかという説がある[5]

共和国の責任者の目的とは何だろうか。彼らが常に見つめ、そこを目指すべきものだ。
それは、全ての分別があり、善良な人々(bonis)にとって、優れて望ましいもの、
すなわち、義務を果たすことによって得られる安寧である。
これを求める人々こそ最も優れた人々であり、
これを実現できる人間が最高の指導者(optimates)であり国家の守護者なのだ。

キケロ『セスティウス弁護』98

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 参考文献には96節とあるが、英訳、ラテン語版共に該当箇所は違う内容

出典[編集]

  1. ^ 鷲田, p.75.
  2. ^ 鷲田, pp.75-76.
  3. ^ 鷲田, pp.77-78.
  4. ^ 鷲田, pp.78-80.
  5. ^ 鷲田, pp.81-82.

参考文献[編集]

  • 鷲田睦朗『「民衆派」と「閥族派」は滅ぼさねばならない:ローマ共和政後期における政治状況の理解に向けて』大阪大学西洋史学会、2020年。