コンテンツにスキップ

新日本製鐵八幡硬式野球部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。こんせ (会話 | 投稿記録) による 2023年6月25日 (日) 01:16個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

新日本製鐵八幡硬式野球部
チーム名(通称) 新日鐵八幡、新日本製鐵八幡
加盟団体 日本野球連盟
加盟区分 企業チーム
創部 1926年
廃部 2003年
チーム名の遍歴

  • 八幡製鐵 (1926 - 1969)
  • 新日本製鐵八幡 (1970 - 2003)
本拠地自治体

練習グラウンド 新日鐵大谷球場
都市対抗野球大会
出場回数 37回
最近の出場 1997年
最高成績 優勝(2回)
社会人野球日本選手権大会
出場回数 9回
最近の出場 2002年
最高成績 ベスト8
全日本クラブ野球選手権大会
出場回数 ※出場資格なし

新日本製鐵八幡硬式野球部(しんにほんせいてつやはたこうしきやきゅうぶ)は、福岡県北九州市に本拠地を置き、日本野球連盟に加盟していた社会人野球の企業チームである。

概要

1926年、官営製鉄所であった八幡製鐵所で『八幡製鐵硬式野球部』として創設し、八幡大谷球場をホームグラウンドとした。

1928年都市対抗野球に初出場すると、1934年都市対抗野球では準優勝に輝き、加藤喜作が優秀選手に選ばれた。1937年には都市対抗野球で初優勝を果たし、加藤喜作が監督、鬼塚格三郎が主将、角地孫之助橋戸賞を獲得する。1954年には都市対抗野球で2度目の優勝を果たし、この時も加藤喜作が監督、国方博が主将、エースとして活躍したのが、1947年と1948年の夏の甲子園大会で2連覇を達成した旧制小倉中・小倉高のエース福嶋一雄で、井原数巳が橋戸賞を、石橋英俊が生還打賞を獲得する。

1963年2月10日、市町村合併に伴い本拠地が北九州市となる。

1970年、母体である八幡製鐵富士製鐵と合併し新日本製鐵が発足。これに伴い、チーム名を『新日本製鐵八幡硬式野球部』に改称した。

1974年都市対抗野球では2度目となる準優勝を果たす。この大会では慶應大学で1971年秋からの3連覇の立役者となったエース萩野友康が投打に活躍し久慈賞に輝き、工藤博義が二代目若獅子賞を獲得する。同年には日本選手権に初出場を果たしている。

また、昭和初期には実業団野球の早慶戦と呼ばれた門司鉄道管理局との定期戦、「製門戦」が人気を集めていた[1]

その後も、地区連盟主催大会などで優勝を重ねたが、鉄鋼不況の影響から新日本製鐵がスポーツ支援体制の見直しを進める中で、全ての運動部を対象に単独保有を止める方針を決定[2]。当チームについては、成績不振に加えて地元密着チームの受け皿がないことなどから廃部が発表された[3][4]

2003年都市対抗野球九州2次予選で敗退し、チームは解散した。

沿革

主要大会の出場歴・最高成績

出身プロ野球選手

元プロ野球選手の競技者登録

かつて在籍していた選手

参考文献

  • 『野球部史 ─大正12年~昭和30年─』(八幡製鉄野球部、昭和31年6月15日)
  • 『白球を追って』(日本社会人野球協会九州連盟・毎日新聞西部本社、昭和59年5月)
  • 『都市対抗野球大会60年史』(日本野球連盟・毎日新聞社、平成2年1月)
  • 大羽武『甲子園2連覇 -焼け野原から立ち上がった球児・福嶋一雄-』(朝日クリエ、平成24年7月25日)
  • 大羽武『甲子園2連覇 -夏の甲子園大会12勝0敗、5試合連続45イニング無失点、甲子園の土を最初に持ち帰った球児、平成25年野球殿堂入り・福嶋一雄-』(電子書籍、BookWay、2015年5月5日)

脚注

  1. ^ 47news『全国大会出場ならず 新日鉄八幡、長い歴史に幕』2003年7月7日
  2. ^ 毎日新聞、2002年11月29日付、西部本社版夕刊、P.9
  3. ^ 毎日新聞、2002年11月30日付朝刊、P.30
  4. ^ 2003年から、君津野球部名古屋野球部広域複合企業チームへ転換され、広畑野球部は活動規模が縮小された。

関連項目