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ヒーアマン (駆逐艦)

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DD-532 ヒーアマン
第二次世界大戦中のヒーアマン
基本情報
建造所 ベスレヘム造船
運用者  アメリカ海軍
 アルゼンチン海軍
艦種 駆逐艦
級名 フレッチャー級駆逐艦
艦歴
起工 1942年5月8日
進水 1942年12月5日
就役 1943年7月6日(アメリカ海軍)
1951年9月12日(再就役)
1961年8月14日(アルゼンチン海軍)[1]
退役 1946年6月12日(アメリカ海軍)
1957年12月20日(再退役)
1982年(アルゼンチン海軍)[1]
除籍 1975年9月1日(アメリカ海軍)
1982年(アルゼンチン海軍)[1]
その後 1979年12月18日スクラップとして売却[2]
改名 アルミランテ・ブラウン
(ARA Almirante Brown, D-20)
要目
排水量 2,050トン
全長 376ft 3in(114.7m)
最大幅 39ft 8in(12.1m)
吃水 17ft 9in(5.4m)
機関 蒸気タービン、2軸推進 60,000shp(45MW)
最大速力 36ノット(67km/h)
乗員 士官兵員329名
兵装 竣工時:5インチ単装砲×5基
21インチ五連装魚雷発射管×2基
40mm機関砲×10基
20mm機関砲×7基
爆雷投下軌条×2基
爆雷投射機×6基
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ヒーアマンUSS Heermann, DD-532)は、アメリカ海軍駆逐艦フレッチャー級。艦名は、第一次バーバリ戦争中の1804年に拿捕されたフリゲートフィラデルフィア破壊作戦にボムケッチイントレピッド乗員として参加し、後にアメリカ海軍の医療改善に尽力したルイス・ヒーアマン(Lewis Heermann)軍医助手(Surgeon's Mate)に因む。本艦は2019年現在、「ヒーアマン」の名を持つ唯一の艦である。

ヒーアマンは1944年10月25日に発生したサマール沖海戦に参加したことで知られる[3][1][4]

艦歴

ヒーアマンは1942年12月5日、カリフォルニア州サンフランシスコベスレヘム造船で進水した。進水は命名元の孫であるE・B・ブリッグス(E. B. Briggs)沿岸警備隊予備大尉の妻であるエドワード・B・ブリッグス(Mrs. Edward B. Briggs)夫人の手により行われた。その後1943年7月6日にドワイト・M・アグニュー(Dwight M. Agnew)中佐の指揮の下で就役した[5]。ヒーアマンはベスレヘム造船で建造された7隻目のフレッチャー級駆逐艦であった[4]

ヒーアマンとトラセン英語版 (USS Trathen, DD-530)、ヘイゼルウッド(USS Hazelwood, DD-531) 、ホーエル(USS Hoel, DD-533)、マッコード英語版(USS McCord, DD-534)の5隻は第47駆逐戦隊(Destroyer Squadron 47)の第92駆逐隊(Destroyer Division 92)を構成した[4]

南太平洋

サンディエゴでの慣熟訓練の後、ヒーアマンはギルバート諸島の戦いに参加するため1943年10月21日に第5艦隊に加わった。11月20日、ヒーアマンはハリー・W・ヒル英語版少将の南方攻撃部隊の一員としてタラワ沖に到着した。ヒーアマンは環礁内にいた小型艇1隻を砲撃で沈めた後、2日間にわたって上陸部隊に強力な砲撃支援を行った。作戦後、ヒーアマンは修理と訓練のために真珠湾へ戻り、1944年1月23日に兵員輸送船団の護衛のため戻るまで過ごした。船団はクェゼリン環礁に上陸する予備部隊を運んでいた[4]

クェゼリンの戦いの間、ヒーアマンは2週間にわたって環礁近海の哨戒と地上部隊の航空支援を行う護衛空母の護衛を行った。それから2月にはエニウェトクの戦いに参加、ヒーアマンは上陸部隊を乗せた船団を護衛するとともに、ジャプタン島とメリレン島への上陸支援砲撃を行った[4]

マジュロへ移動後、ヒーアマンはソロモン諸島フロリダ島のパーヴィス湾へ向かい、1944年3月18日に第3艦隊第39任務部隊(Task Force 39)に加わる。そして翌月、エミラウ島上陸のために兵員・補給物資を輸送する船団の護衛と、ビスマルク諸島ニューハノーバー島周辺の沿岸で物資輸送を行う敵舟艇の掃討に従事した[5]。ヒーアマンはまた6月11日にニューアイルランド島ファンガラワ湾セブアノ語版で燃料集積所の砲撃を、さらに6月26日までの間には第30.4任務集団(Task Group 30.4)のためにマーシャル諸島カロリン諸島アドミラルティ諸島そしてソロモン諸島で海上交通路の対潜哨戒を実施。後者の功績によりヒーアマンは従軍星章英語版1個を受章している[4]

1944年の夏、ヒーアマンは艦隊や船団の護衛で多忙な時を過ごし、ニューヘブリディーズ諸島エスピリトゥサント島ニューカレドニアヌーメアに至るまで各地で活動した。9月6日にヒーアマンはパーヴィス港を発ち、今度はパラオ諸島の戦いに参加するウィリアム・サンプル(William Sample)少将の護衛空母部隊の護衛を行った[4]

フィリピンの戦い

マヌス島で補給の後、ヒーアマンは1944年10月12日にフィリピンの戦いで火力支援を行う支援集団に加わる。レイテ島の戦いで上陸船団を護衛し、次いで海岸への上陸を砲撃支援したヒーアマンはその後、クリフトン・スプレイグ少将の旗艦ファンショー・ベイ (USS Fanshaw Bay, CVE-70)以下護衛空母6隻、駆逐艦2隻、護衛駆逐艦4隻と共に第77.4.3任務群(通称「タフィ3」)を構成した。タフィ3はトーマス・スプレイグ少将の護衛空母部隊である第77.4任務集団(Task Group 77.4)に属する3つの護衛空母部隊の1つであった[5]

サマール沖海戦

1944年10月25日の夜明け、タフィ3の各艦はサマール島沖を北上していた。午前6時45分、見張りが北方に対空砲火が放たれているのを認めた。その3分後、タフィ3には第二艦隊司令長官栗田健男海軍中将率いる第一遊撃部隊(いわゆる栗田艦隊)からの激しい砲撃が降り注いだ。タフィ3の艦艇はレイテ湾へ向かって撤退の望みをつなぐべく、護衛空母は速やかに艦載機を発艦させるとともに駆逐艦は煙幕を展開した[5]

戦闘が始まった時、ヒーアマンは護衛空母らと反対側の比較的安全な位置にいた。ヒーアマンは増速すると、レイテ湾へ向け転回しようとしている護衛空母たちを抜けて戦闘態勢に入った。煙幕と断続的なスコールによって視界が100ヤード以下まで低下したため、護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツ[注 1]や魚雷攻撃を試みようとしているホーエルと衝突の危機に遭遇したが、ヒーアマンはいずれも後進一杯をかけて回避に成功した[4]

緊迫した状況にもかかわらず、ヒーアマンの艦長エーモス・T・ハサウェー中佐は、落ち着いて「われわれが欲しいのは突撃を吹いてくれるラッパ手だよ」と当直士官に冗談を言いつつ突撃を命じた[8]。ヒーアマンは突進を始めると、栗田艦隊からの着色弾の鮮やかなといった染料が周囲の海面を染めた。ヒーアマンも反撃に転じ、重巡洋艦筑摩に5インチ主砲を浴びせるとともに重巡洋艦羽黒に対して魚雷4本を発射した。2本目の魚雷が発射管から出た時、栗田艦隊の4隻の戦艦から砲撃を受けたため、ヒーアマンも彼らを迎撃するために転舵した。ヒーアマンは戦艦金剛に主砲を放ちつつ3本の魚雷を発射した。続いて戦艦榛名へ急速に距離を詰め、4400ヤードの距離から残る魚雷3本全てを発射する。そのうち榛名に魚雷1本が命中したように見えたが、実際は全て回避されていた[4]。一連の雷撃行動の後、ハサウェー艦長は隊内電話でスプレイグ少将に「演習終了」と報告した[8]。ヒーアマンは戦艦大和からの強力な砲撃を受けたため、交戦を中止しておよそ10分間にわたって回避を続けた[4]

ヒーアマンは護衛空母群の右舷側4分の1マイルの位置へ急ぎ、再び煙幕を展開して護衛空母を隠すと、日本の重巡洋艦4隻との戦闘を再開した。筑摩と再び対峙したヒーアマンは複数の8インチ主砲弾を被弾した。これによってヒーアマンは大きな損傷を受け、艦前部に浸水が発生し沈下、主砲塔1基が破壊された[5]。艦橋や上部構造物は、命中した着色弾の赤い染料と戦死者の血で赤く染まっていた[9]。なおもヒーアマンは残った主砲で砲撃を続け、発射された5インチ砲弾は空襲による爆撃や雷撃とあわせて筑摩の沈没に貢献したものと思われた[5]

筑摩が離れた後、重巡洋艦利根が代わってヒーアマンに砲撃を始めた。ヒーアマンは主砲で反撃しつつ再度煙幕を展開するために移動した。やがて、フェリックス・B・スタンプ少将のタフィ2(第77.4.2任務群)の艦載機の介入や栗田艦隊の反転によってヒーアマンは(そして残存していたタフィ3の各艦も)生き長らえることができた。ホーエルとジョンストン(USS Johnston, DD-557)は撃沈されたため、ヒーアマンはタフィ3の3隻の駆逐艦で唯一生還した艦となった[5]

日本近海

ヒーアマンはコッソル水道へ後退して応急修理を行った後、メア・アイランド海軍造船所1945年1月15日までオーバーホールを行った。修理が完了したヒーアマンは再び西太平洋へ向かい、日本本土を空襲する空母機動部隊の護衛に加わった[4]

1945年2月に硫黄島の戦いに参加したヒーアマンは対潜哨戒とレーダーピケット任務に従事する。3月20日、ヒーアマンは小型船1隻を撃沈し、その乗員7名を救助した。7日後には南大東島への夜間砲撃に加わっている[4]

沖縄の戦いでは、ヒーアマンは上陸部隊に航空支援を行う空母の護衛を行い、複数の空襲に対して対空砲火を行った。4月18日、ヒーアマンとマッコード、空母バターン(USS Bataan, CVL-29)、駆逐艦マーツ英語版(USS Mertz, DD-691)、ウールマン英語版(USS Uhlmann, DD-687)、コレット英語版(USS Collett, DD-730)は共同で伊号第五十六潜水艦を撃沈したとされる[4][5]。ただしこの戦果には異説もある[注 2]

6月後半にレイテ湾に後退して補給を行った後、7月1日以降ヒーアマンは5週間余りにわたって第3艦隊の高速空母機動部隊を護衛した。機動部隊はほぼ連日にわたって空襲任務を継続した。8月15日の終戦を迎えた時、ヒーアマンは東京の南東200マイルの海上でレーダーピケット任務に従事していたが、1機の特攻機が雲の塊から飛び出してヒーアマンに突っ込んできた。ヒーアマンはその特攻機を撃墜し、これは第二次世界大戦で最後の海上戦闘の一つとなった。日本の降伏にかかわる手続きが行われている間、ヒーアマンが護衛する空母は航空援護や航空救難任務を行った。ヒーアマンは9月16日に東京湾に入り、本国に向けて出港する10月7日まで占領軍を支援した[5]

戦後

レーニエ3世グレース・ケリーの結婚にあわせてモナコに入港するヒーアマン。1956年撮影。

ヒーアマンは1946年6月12日にサンディエゴで退役し、予備役に留められた。1951年9月12日に再就役したヒーアマンは、バージニア岬英語版南方での活動とカリブ海での冬の巡航を通じての対潜哨戒や艦隊課題割当の後、1952年1月4日にロードアイランド州ニューポートへ母港を転じる。1953年6月から7月にかけてイギリスプリマスを訪問したのに続き、12月からヒーアマンは世界一周航海を行うことになった。ヒーアマンはサンディエゴ、ハワイ横須賀沖縄韓国硫黄島香港シンガポールを訪問したほか、スエズ運河を経由して帰る途上でポートサイドナポリヴィルフランシュバルセロナにも寄港している[5]

ヒーアマンは1956年2月に再びニューポートを出港すると、地中海東部で第6艦隊の演習に参加する。4月19日から24日にはモナコ大公レーニエ3世グレース・ケリーの婚礼を祝賀するため、ヒーアマンは40名の儀仗兵を派遣した。5月に本国へ帰還するが、11月にはイタリア海軍との対潜演習やモナコ再訪のために地中海に戻った。1957年2月の帰国後は本国に留め置かれ、砲術練習艦や海軍兵学校生徒の練習艦として用いられた後、ヒーアマンは12月20日に退役しボストンで大西洋予備役艦隊(Atlantic Reserve Fleet)に編入された[5]

アルゼンチン海軍

1961年8月14日、ヒーアマンは軍事援助計画(Military Assistance Program)の下でアルゼンチン政府に供与され、アルゼンチン海軍アルミランテ・ブラウンARA Almirante Brown, D-20)となった。アルミランテ・ブラウンは艦長ホルヘ・ロドリゲス(Jorge Rodríguez)中佐の指揮の下で就役し、さらにコンスタンティノ・アルゲジェス(Constantino Arguelles)大佐の指揮の下で第2駆逐隊(II División de Destructores)旗艦となった[2]

「アルミランテ・ブラウン」時代のヒーアマン。

アルミランテ・ブラウンは現役期間中に国内の演習だけでなく、UNITAS英語版をはじめとする外国軍との共同演習にも積極的に参加した。1965年7月にはイタリア海軍のヘリコプター巡洋艦カイオ・ドゥイリオと南大西洋で対潜・対空演習を実施したほか、翌月には遠洋練習航海で訪問した海上自衛隊護衛艦あきづき(DD-161)、てるづき(DD-162)、むらさめ(DD-107)、ゆうだち(DD-108)とともに「サヨナラ作戦」(Operativo Sayonara)の名で親善対潜訓練を行った[2]

1975年11月18日にプエルト・ベルグラノ海軍基地スペイン語版へ到着した航海が、アルミランテ・ブラウンにとって最後の航海となった。アルミランテ・ブラウンことヒーアマンは1979年12月18日にサンタ・ローザ冶金(Establecimientos Metalúrgicos Santa Rosa)にスクラップとして売却され[2]、1982年に解体された[5]

栄典

ヒーアマンは生涯で9個の従軍星章とフィリピン共和国殊勲部隊章英語版[5]を受章し、ヒーアマンを含む第77.4.3任務群はサマール島沖における勇敢な戦いから殊勲部隊章英語版を受章した[1]

注釈

  1. ^ この時衝突しかけたのはジョンストン(USS Johnston, DD-557)であったとする資料も存在する[6][7]
  2. ^ 伊号第五十六潜水艦は、日本側の資料では護衛駆逐艦ハドソン英語版(USS Hudson, DD-475)によって撃沈されたとしている[10]。また異説として沈んだのは伊号第四十四潜水艦だったともされている[11]ほかThe Official Chronology of the U.S. Navy in World War IIでは沈められたのは呂号第四十一潜水艦としている。ヒーアマンらが伊号第五十六潜水艦を撃沈したという見解では、ハドソンが沈めた潜水艦は呂号第四十九潜水艦であったとみなす[12]

脚注

  1. ^ a b c d e USS HEERMANN (DD-532)”. www.navsource.org. 6 February 2019閲覧。
  2. ^ a b c d DESTRUCTOR "BROWN" 1961 D-20”. Historia y Arqueologia Marítima. 6 February 2019閲覧。
  3. ^ ボールドウィン 1972, p. 181-182.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m USS Heermann (DD-532)”. destroyerhistory.org. 6 February 2019閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m Heermann (DD-532)”. Naval History and Heritage Command. 6 February 2019閲覧。
  6. ^ 福田幸弘 『連合艦隊 ― サイパン・レイテ海戦記』 時事通信社、1981年7月(原著1983年)ISBN 978-4788781160, p291
  7. ^ Kevin McDonald 『Tin Can Sailors Save The Day ! 』 Paloma Books、2015年 ISBN 978-1-55571-786-5, p55
  8. ^ a b ボールドウィン 1972, p. 182.
  9. ^ ボールドウィン 1972, p. 183.
  10. ^ 小灘利春、片岡紀明『特攻回天戦 回天特攻隊隊長の回想』海人社、2006年、ISBN 4-7698-1320-1 ,p202、p204、p205
  11. ^ 多々良隊 伊号第四十四潜水艦の戦闘”. 海軍大尉 小灘利春. 7 February 2019閲覧。
  12. ^ http://www.combinedfleet.com/RO-49 IJN Submarine RO-49”. combinedfleet.com. 6 February 2019閲覧。

参考文献

  • ハンソン・ウェイトマン・ボールドウィン 著 著、実松譲 訳『「海戦・海難」 七つの海の真実の物語』フジ出版社、1972年6月。 

関連項目

外部リンク