10cc

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10cc
基本情報
出身地 イングランドの旗 イングランド マンチェスター
ジャンル ロック
ポップス
活動期間 1972年 - 1983年1992年 - 1995年
1999年 - 現在
レーベル UKレコード
フォノグラム(マーキュリー)レコード
公式サイト ユニバーサルミュージック・ジャパンの公式サイト(10cc)
メンバー
グレアム・グールドマンベース、ギター、ボーカル)
ポール・バージェスドラムス
リック・フェンリードギター、ベース、ボーカル)
ミック・ウィルソン(ボーカル、ギター、パーカッション)
マイク・スティーヴンス(キーボード、ギター、ベース、ボーカル)
旧メンバー
エリック・スチュワート
ケヴィン・ゴドレイ
ロル・クレーム
スチュアート・トッシュ
ダンカン・マッケイ
トニー・オマリー
ヴィク・エマーソン

ザ・ビートルズなど

10cc(テンシーシー)はイギリスマンチェスター出身の4人組によって結成されたバンドである。

メンバー[編集]

  • 1972年-1976年・オリジナルメンバー
  • 1976年
    • ケヴィン・ゴドレイとロル・クレームが脱退しゴドレイ&クレーム(ゴドリー&クリーム)を結成。以後、10ccはエリック・スチュワートとグレアム・グールドマンを中心に活動を続ける。
  • 1978年
    • サポートメンバーだったポール・バージェス(ドラム)、リック・フェン(ギター)、スチュアート・トッシュ(ドラム)、ダンカン・マッケイ(キーボード)を正式メンバーとし6人組のバンドとなる。
  • 1981年
    • ダンカン・マッケイの脱退を機にエリック・スチュワートとグレアム・グールドマンのデュオ体制に戻る。
  • 1983年
    • 『都市探検』発表をはさみ2度のツアー後、正式に解散。
  • 1992年
    • 期間限定の再結成を果たし『ミーンホワイル』をリリース。これにはゴドレイ&クレームもゲスト参加した。翌1993年に来日コンサート、全英ツアーを行なう。
  • 1995年
    • エリック・スチュワートとグレアム・グールドマンにより『ミラー・ミラー』を「10cc」名義でリリース。同年来日しコンサートを行なう。
  • 1999年
    • グレアム・グールドマン主導で、ポール・バージェス、リック・フェンらを含むラインナップにより「Graham Gouldman's 10cc」名義でツアー活動を再開。なし崩し的に「10cc」と名乗るようになり現在に至っている。

経歴・概要[編集]

草創期の活動[編集]

デビューは1972年8月。しかしオリジナルメンバー4人はその約10年前から音楽業界で下積み活動を行っていた。

共にイギリス・マンチェスター出身の4人は当時流行し始めたビートバンド・ブームの中、それぞれが演奏活動を始める。エリック・スチュワートはいくつかのバンドを経て、1963年6月にウェイン・フォンタナ&ザ・マインドベンダーズのギタリストとしてレコードデビュー。1964年6月、グレアム・グールドマンは自身のバンドThe Whirlwindsのレコード・デビューに際して、B面曲としてライバル・バンドThe Sabresにいた友人のロル・クレームの曲を採用するが、ヒットせずにバンドは解散。グレアムはThe Sabresからドラマーのケヴィン・ゴドレイを引き抜いて新バンドThe Mockingbirdsを結成、1965年2月に改めてレコードデビュー。デビュー曲としてグレアムは「フォー・ユア・ラブ」を作曲するがレコード会社に拒否され、代わりに“That's How (It's Gonna Stay)”をレコーディングする。「フォー・ユア・ラブ」はその後ヤードバーズがレコード化、全英3位の大ヒットとなる。一方The Mockingbirdsのレコードは不発に終わり、その後レコード会社を移籍しつつ4枚のシングルを発表したもののヒットを生み出せずに解散。

その後グレアム自身はソングライターとして次々にヒット曲を生み出し、またピーター・カワップやジョン・ポール・ジョーンズたちとのバンド活動を経て、1968年7月には自作曲のセルフカバーアルバム『ザ・グレアム・グールドマン・シング』を発表している。The Mockingbirds解散後ケヴィンは再びロルとコンビを結成、組み立て絵本などのデザイナーで生計を立てる一方、グレアムのマネージメントで1967年Yellow Bellow Room Boom名義でシングル“Seeing Things Green”を発表している。ウェイン・フォンタナ&ザ・マインドベンダーズは1965年1月の6thシングル「ゲーム・オブ・ラブ」が全英2位/全米1位の大ヒットを記録するが、その後低迷しリーダーでヴォーカルのウェインがソロ・アーティストとして独立する。残ったバンドメンバーはエリックをヴォーカルに据えザ・マインドベンダーズとして再出発を図る。1965年12月に発売された1stシングル「恋はごきげん」は全英2位全米2位の大ヒット、その後“Ashes To Ashes”もヒットするなど順調な活動が続く。1967年にはシドニー・ポワチエ主演の映画『いつも心に太陽を』に曲を提供、バンド自身もゲスト出演している。1967年11月のシングル“Schoolgirl”はグレアムの作曲・プロデュース。このレコーディングでエリックと意気投合したグレアムは、後に脱退したベースの代わりにバンドに正式参加しシングル“Uncle Joe The Ice Cream Man”ではリードヴォーカルをとっている。バンドはこのシングルを最後に解散、エリックはグレアムを誘い、レコーディング・スタジオ"ストロベリースタジオ"の共同出資者となる。グレアムはロルとケヴィンをスタジオミュージシャンとして誘い、やがてエリック、グレアム、ロル、ケヴィンの4人でバンド活動を開始する。

新たな歩み[編集]

1969年9月ヤードバーズのマネージャー、ジョルジオ・ゴメルスキーの設立したレーベル "Marmalade"より、Frabjoy & Runcible Spoon名義でシングル“I'm Beside Myself”をリリース。ケヴィンの「ヘブンリー・ヴォイス」に惚れ込んだゴメルスキーがケヴィンとロルを「第二のサイモン&ガーファンクル」とすることを目指したと言われている。アルバム制作も着手されたがレーベルの経営が悪化したために頓挫。同じ頃グレアムに対して、米国バブルガム・ミュージックの総本山カセネッツ=カッツ・プロダクションから作曲の依頼が届く。渡米したグレアムは作曲契約と同時に彼らの傘下アーティスト用楽曲レコーディングのため3ヶ月間ストロベリー・スタジオを貸し出す契約を結ぶ事に成功する。

その留守中新たに届いた4トラック・レコーダーの試験録音用に3人が冗談で録音した「ネアンデルタール・マン」がたまたまその場にいた旧知のレコード会社社員の耳に入り、1970年6月ホットレッグス名義でリリースされる。このシングルは全世界で200万枚以上を売り上げるヒットを記録するが、その急激なヒットに怖じ気づいた3人は避暑地に逃亡してしまい、結果スターへの道を自ら棒に振ってしまう。アルバム『シンクス:スクール・スティンクス』が発売されたのは9ヶ月後の1971年3月。頓挫した"Frabjoy & Runcible Spoonアルバム"の楽曲を中心に構成されたというそのアルバムは、英米盤でそれぞれ別ミックスを収録するなど意欲的な作品だったが、既に"ネアンデルタール・マン"ブームは終了していて不発に終わる。その後も4人はDoctor Father、Fighter Squadron、Amazon Trust、The New Wave Bandなどとバンド名を変えながらシングルをリリース。その前後スタジオミュージシャンとして、ハーマンズ・ハーミッツ、オハイオ・エキスプレス、ラマセスなど数多くのアーティストのレコーディングを行った。特にニール・セダカとのレコーディングはアルバム2枚(『ソリテアー』『ピース・アンド・ラブ』)に及び、後のセダカ復活の礎として一部で高評価を得ている。

UKレコード時代[編集]

1972年、4人はスタジオミュージシャンとしての活動で自分たちの才能と時間が浪費されすぎていると考え、真剣に自分たちのバンドに力を入れることを誓い合う。エリックの10年来の友人だった人気歌手ジョナサン・キングが自分のレコード会社UKレコードを設立したことを聞いた4人は新たに作曲した「ドナ」を持参して契約にこぎ着ける。キングは夢で見た"世界最高のバンド名"の"10cc"を彼らに与え、1972年8月4日にシングル「ドナ」を発売する。この曲はフランク・ザッパのドゥーワップの影響を受け、ビートルズの「オー!ダーリン」に似た曲調のシングルだった。これが全英2位の大ヒットとなり[1]、以降バンドの活動は10cc名義が中心となっていく(74年以降は10ccに固定)。1973年3月に発売された3枚目のシングル「ラバー・ブレッツ」で全英1位を獲得[1]、同年7月に発売された1stアルバム『10cc』も全英36位のヒットとなった。このアルバムはロルのファルセット・ヴォイス中心のコミカルな楽曲が多く、ある種コミックバンド的な評価を得るが、同時にその演奏技術の高さも評価されていた。1974年5月には2ndアルバム『シート・ミュージック』をリリース。全英9位のほか全米でも81位にランクインする。エリックがリードヴォーカルのシングル「ウォール・ストリート・シャッフル」を始め、コミカルさが後退、代わりに良質なポップミュージックが前面に現れたアルバムとなった。バンドはアルバムのヒットを受けて初の全米ツアーを行う。

バンドとしての絶頂期[編集]

1975年、米国での更なる成功を狙うためにフォノグラム(マーキュリー)レコードに移籍する。同年3月に3rdアルバム『オリジナル・サウンドトラック』をリリースし、全英4位・全米15位の大ヒットを記録する。シングルカットされた「アイム・ノット・イン・ラブ」は全英1位・全米2位を記録、現在でもバンドの代表曲として知られている。同年冬に2ヶ月間行われた全米ツアーも成功を収め、バンドとして絶頂期を迎える。1976年1月に4thアルバム『びっくり電話』をリリース。このアルバムも全英5位・全米47位を記録するが、各楽曲においてメンバー間の音楽性の違いが明確に表れていた。当時のレコーディングでは、誰が作曲してもメンバー間の賛意がない限りレコーディングに入らないというルールを課していたこともあって、お互いの音楽性の違いが人間関係をも消耗させる原因になっていた。またバンドとしてツアー活動も重要視するエリック、グレアム組とスタジオ制作に集中したいケヴィン、ロル組で意見の対立が激化、レコード制作は4人で行うが、ツアーはエリックとグレアムだけで行うという暫定合意がなされる。ケヴィン、ロル組は、自分たちがマンチェスター工科大学の協力で開発したギター・アタッチメント"ギズモ"のデモンストレーション・アルバムに取りかかる。同時に10ccの5thアルバムのためのレコーディングがスタートするが、エリック、グレアム組が用意したラブ・ソング「恋人たちのこと」を拒絶したケヴィンがロルを連れて脱退してしまう。同年10月末に公表された二人の脱退理由は"ギズモの開発とデモアルバムのレコーディングのため"となっていた。ケヴィンとロルはその後"ゴドレイ&クレーム"としてレコードをリリースする一方、1980年からはプロモーションビデオの監督業をスタート、高い評価を受ける。

エリックとグレアムはその後も10ccとして活動を続け、ドラムに以前からツアーでのサポート・ドラマーだったポール・バージェスをゲストに迎え、5thアルバム『愛ゆえに』を完成させる。1977年4月にリリースされた同アルバムは全英3位全米31位を記録、先行シングルの「愛ゆえに」も全英6位全米5位の大ヒットとなり、分裂で生じた悪評を完全に払拭する。その勢いを得て二人はツアーを開始、ポールに加えリック・フェン(ギター)、スチュアート・トッシュ(ドラムス)、トニー・オマーリー(キーボード)の4人をサポートメンバーとして加入させている。英国・豪州・初公演の日本を回った後、同年12月には英国のライブを収録した6thアルバム『イン・コンサート』をリリース、全英14位を記録する。ツアーの後トニーに代わりダンカン・マッケイを加えたサポートメンバー4人を正式にバンドメンバーとすることを決め、10ccは6人組のバンドとなる。この時、4人編成から6人編成になった事から、「10ccが15ccになった」とも揶揄されていた。 1978年9月にリリースした7thアルバム『ブラッディ・ツーリスト』は全英3位・全米69位を記録し、続けて始まった英国・北米ツアーも成功を収めた。レゲエのリズムを取り入れたシングル「ドレッドロック・ホリデイ」は全英1位[1]・全米44位[2]を記録するが、これが彼らにとって最後のヒット曲となった。

1979年1月に起きたエリックの交通事故によって、二度目の来日公演を含むワールドツアーはキャンセルされる。エリック復帰までの間、グレアムはメンバーたちと一緒に映画『サンバーン』の主題歌やアニメ"Animalympics"のサントラをレコーディングして過ごす。半年後復帰したエリックは手始めにフランス映画『ガールズ/恋の初体験』のサウンドトラックのレコーディングを行う。1980年3月8thアルバム『ルック!ヒア!!』をリリース。エリック、グレアム以外のメンバーが作曲した曲も組み込んだ意欲作だったが全英35位・全米180位に留まった。本アルバムの米国盤はジャケットデザインが異なっている。同年4月バンドは欧州ツアーを行う。

バンド解散へ[編集]

1981年ダンカン・マッケイの脱退を機にエリックとグレアムは10ccを再びデュオ形式に戻し、他にサッド・カフェのヴィク・エマースンやレニー・クルックス、マーク・ジョーダン、サイモン・フィリップスらがレコーディングに参加した。同年11月にリリースした9thアルバム『ミステリー・ホテル』はAOR路線に磨きがかかったが、時代的なニーズとは合わずにチャート的には全く振るわずに終わった。1982年2月結成10周年記念ツアーを英国で行う。同年3月、プロデュース・作曲に米国のソングライター、アンドリュー・ゴールドが参加したシングル「ザ・パワー・オブ・ラブ」をリリース。前年米国ではリリースされなかった『ミステリー・ホテル』は、この「ザ・パワー・オブ・ラブ」を始めアンドリュー・ゴールドが参加した3曲と別の1曲が差し替えられてようやく米国でリリースされた。同年8月にはエリックの2ndソロアルバム"Frooty Rooties"がリリースされる。1983年春の全英ツアーを経て、9月に10thアルバム『都市探検』をリリース。リック・フェンやスチュアート・トッシュのほかスティーヴ・ガッド(ドラム)やメル・コリンズ(サックス)らをサポートメンバーに迎えている。今作もAOR路線を踏襲したためか全英70位と不調に終わる、シングルカットされた「君に夢中」のプロモビデオの監督にゴドレイ&クレーム(ゴドリー&クリーム)を起用したことが話題となった。リリース直後に始まった全英ツアーも不調に終わったことから、二人は10年に及ぶバンド活動を停止する。

10cc解散後、エリックは旧友のポール・マッカートニーのレコーディングに参加。1986年の『プレス・トゥ・プレイ』ではアルバムの半数以上の曲で共同作曲も手がけている。1984年、グレアムはアンドリュー・ゴールドとWorld In Actionという名のユニットを結成。すぐにCommon Knowledgeと改名し計2枚のシングルをリリースする。その後1985年にレコード会社を移籍した際にワックスと改名、翌1986年6月には1stアルバム『マグネチック・ヘブン』をリリースする。同年3月にリリースされた先行シングル「ライト・ビトウィーン・ジ・アイズ」は全英60位全米43位のヒットを記録。ワックスは続けて1987年9月に2ndアルバム『アメリカン・イングリッシュ』を、1989年9月には3rdアルバム『100,000フレッシュ・ノーツ』をリリースしている。その後も断続的に活動を続け1990年代後半にも新曲を含んだベスト盤『ザ・ワックス・ファイル』(1997年)やCommon Knowledge.com(1998年)などをリリースしている。

1987年8月にリリースされた10ccとゴドレイ&クレームの合同ベスト盤『チェンジング・フェイセズ(ベスト・オブ・10cc/ゴドレイ&クレーム)』がプラチナ・アルバムとなったことから、レコード会社のポリドールがオリジナル・メンバーに対して再結成を打診、結果エリックとグレアムによる10cc再結成アルバム『ミーンホワイル』が1992年5月にリリースされる。このアルバムにはケヴィンとロルもゲスト参加している。収録曲の「スターズ・ディドゥント・ショウ」ではケヴィンがリードヴォーカルを担当した。二人のゲスト参加は、アルバム制作契約が残っているにもかかわらず1988年にコンビを解消した事で発生したペナルティ回避のためと言われている。セールスは日本以外では芳しくなかった。1993年に16年ぶりの日本ツアーの後全英ツアーを行う。日本ツアーの模様は1993年7月にライブアルバム『アライヴ』としてリリースされた。

1995年3月エイベックス(カッティング・エッジ)から再結成第二弾アルバム『ミラー・ミラー』をリリース。新録された「アイム・ノット・イン・ラブ」のほかは、エリックとグレアムがそれぞれ別々にレコーディングした楽曲を交互に配列した構成となっている(ただし日本盤と英国盤と米国盤はそれぞれ楽曲収録数が異なる)。アルバムリリースに合わせて英国、日本、オランダでライブを行うが、それを最後に再びバンド活動を停止する。

2000年10月にグレアムの2ndソロアルバム『And Another Thing』がリリースされた。2002年、グレアムは10cc結成30周年を記念して元10ccのリック・フェンとポール・バージェス、それにマイク・スティーヴンスとミック・ウィルソンを加えたメンバーでツアーを行った[3]。2003年4月にはエリックの3rdソロアルバム『Do Not Bend』がリリースされた。2004年には英国アイヴァー・ノヴェロ賞を受賞。公の場で久々にエリック、ロル、グレアムが一緒に姿を見せた。2005年7月にはグレアムが"10cc - Graham Gouldman and friends"名義で日本公演を行った。また2006年7月からは30年ぶりにケヴィンと共作した6曲をネット上でダウンロード販売している。エリックは2009年1月に4thアルバム『Viva La Difference』を発表した。

2011年4月6日にウェールズのスワンジー・グランド・シアターにてコンサートを開催し、その模様を収録した映像が同年7月2日にイギリスでテレビ放送された。2012年にはグレアム、リック・フェン、ポール・バージェス、マイク・スティーヴンス、ミック・ウィルソンの5人により10ccの40周年ツアーが行われた[4]

名前の由来[編集]

「10cc」というバンド名の由来について、男性が一回に出す精液の量×4人分がだいたい「10cc」という事でつけられたと言われる都市伝説があるが、これは正しくはない。実際は、バンドの所属レコード会社の社長、ジョナサン・キングが看板に「世界で最も偉大なバンド、10cc」と書いてある夢を見て[5]、「これは神のお告げかもしれない。」と考え名付けた。

有名な楽曲[編集]

アイム・ノット・イン・ラヴ
1970年代の彼らを代表する曲。日本のCMでもたびたび使用される。1991年ウィル・トゥ・パワーがカヴァーし、こちらもヒットしている。もともとは「架空の映画のサウンドトラック」というコンセプトでリリースされた『オリジナル・サウンドトラック』中の1曲。アメリカのFMDJ達がこの曲を流したことに気を良くしたレコード会社がすぐにシングルカットをメンバーに要求したが、「ライヴであの楽曲のクオリティーを表現出来ない」として最後までメンバーはシングルカットに難色を示していた。この曲はビルボード・週間シングルチャートで3週連続第2位(1975年7月26日付~8月9日付)。1位を阻んだのはヴァン・マッコイ&ソウル・シティ・シンフォニーの「ザ・ハッスル」、次いでイーグルスの「呪われた夜」、最後に、当時4年ぶりの全米No.1獲得となったビー・ジーズの「ジャイヴ・トーキン」であった。なお全英ではNo.1になっている。バックに流れる幻想的なコーラスはグレアム、ケヴィン、ロルの3人の声をテープ編集により624人分(3人×13音階×16トラック)に増幅して作成された(エリックはミキシングを担当)。またこの曲にはギズモは使用されていない。
電話を切らないで
4人時代にリリースされた最後のアルバム『びっくり電話』の中の1曲。曲の最後は電話を切られたように突然終わる。この曲はドラムのゴドリーがボーカルを務める。
愛ゆえに
ゴドレイとクレームが抜けた後「これじゃ10ccじゃなくて5ccだ」などと揶揄されたが、残ったエリックとグレアムはメンバー補充でグループを建て直し、2人の共作による「愛ゆえに」をリリース。この曲は1977年に全米第5位を記録している。

ディスコグラフィー[編集]

オリジナル・アルバム[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

外部リンク[編集]