雨を降らせて殺された竜

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龍腹寺の由来から転送)

雨を降らせて殺された竜(あめをふらせてころされたりゅう)では、主に日本各地の伝承や民話などに登場する、旱魃から人々を救うためにを降らせて殺された[1]について記述する。

なお、本文中で「りゅう」の表記は原則として「」を用いるが、参考文献での表記に従って「龍」を用いた箇所がある。

千葉県[編集]

千葉県印旛沼一帯にも同様の伝承が伝わっている。 印旛沼の竜伝承を参照にされたい。

愛知県[編集]

弘法大師像(大龍寺 (神戸市)。2008年撮影)

愛知県一宮市にある真清田神社には空海(弘法大師)と竜神の伝承が残っている。あるとき弘法大師が雨乞いにあたったがどうしても雨が降らないため、彼は茅草で竜の形を作った。その竜が動いて「竜達が皆、竜王に降雨を禁じられており、逆らえば殺される」と言うので、弘法大師は、竜が雨を降らせて死んだら神として祀ることを約束した。弘法大師が水の種としてにあった少量の水を地面に撒くと、竜は雲を呼んで大雨を降らせた。間もなく、空を覆う暗い雲の中から、バラバラに裂かれた竜の体が落ちてきた。弘法大師は竜の望みに副って、尾張の一宮に行き、真清田神社に竜神として祀ったという[2][3]

奈良県[編集]

奈良県には次のような伝承が残っている。昔、奈良地方がひどい旱魃に見舞われた際、雨乞いの祈祷のために人々が僧の元で法華八講[注釈 1]を修した。講が終わった後、一人の老人が僧に近付き、自分が竜宮に住む小竜であること、竜女成仏の文に感心したので地上の大旱魃を救うべく雨を降らせること、しかし竜王に許可を願い出ぬまま雨を降らせれば自分は竜王の怒りに触れて殺されることを話した。直後に雲が降りてきて老人の姿が消え、間もなく雲に覆われた空から雨が降り出した。喜んでいた人々は、身体を3つに切断された龍のなきがらが空から落ちてきたのを見つけた。人々は身体のそれぞれを3箇所に葬った。葬った場所には竜頭寺、龍腹寺、龍尾寺と呼ばれる寺が建立された。龍腹寺は奈良市北之庄町にあったという[3][5][注釈 2]

大阪府[編集]

行基像(近鉄奈良駅前。2010年撮影)

大阪府にも同様の伝承が残っている。奈良時代、当地を訪れた行基が雨乞いを行うとたちまち雨が降った。その後3つに裂かれた竜のなきがらが見つかった。行基は竹藪に落ちていた竜の尾を納める寺を建て、これを龍尾寺[注釈 3]と名付けた。竜の頭と腹も別々の場所で見つかり、それぞれの場所に龍頭寺・龍腹寺が建立されたという[3][9][10][11][8]。また、『諸国社寺縁起』によれば、旱魃は聖武天皇の時代(724年 - 749年)にあったという。雨乞いも功を奏さず滝の水すら涸れる状況のところに行基が来て、滝のそばで法華八講を行った。それが終わると、空から若い竜が降りて来て、この旱魃は人間の欲の深さを懲らしめるために大竜王が引き起こしたこと、自分は行基の仏恩に報いるべく雨を降らせること、それによって自分は大竜王の罰を受けて殺されるだろうことを話した。間もなく空が雲に覆われて雨が降り出し、田畑は潤って人々は救われた。雨がやんだ頃、空から、あの若い竜のなきがらが三つに裂かれて落ちてきた。人々は竜を弔うため、頭の落ちたところに龍頭寺(龍光寺)を、腹の落ちたところに龍腹寺(龍間寺)を、尾の落ちたところに龍尾寺を建てたという[8]

こんにち、龍頭寺は遺跡すら残らず、龍腹寺はそれがあったとされる場所だけが残り、龍尾寺のみが大阪府四條畷市にある[12]。龍尾寺には、雨を降らせた竜の尻尾とされるミイラ「龍の尾」が保存されており、2000年には約百年ぶりに開帳されて拝観者を集めた。ミイラは後述の絵本『さかれた龍』の出版をきっかけに知られるようになった。長さは約1m、木の株に巻きついた状態であり、昭和初期の生物学的な調査では何らかの海生動物のミイラだと鑑定されたものの、代々の住職が寺の宝として保存し続けてきたという[13]高谷 (1970)によれば、これはおそらくは雨乞いの儀式に用いられていたもので、尾の由来を説明するために伝承が作られた可能性があるという[14]

富山県の大島町絵本館(現・射水市大島絵本館)による全国手づくり絵本コンクールでは、龍尾寺にまつわるこの伝承を主題にした『さかれた龍』が1997年の最優秀賞を受賞している[15][16]

『今昔物語集』ほか[編集]

奈良県や大阪府などに残るこれらの伝承は、『今昔物語集』(1120年代以降)巻第13にある「竜聞法花読誦依持者語降雨死語第三十三」の物語に似ているとの指摘がある[3][17]。この物語によれば、昔、奈良の龍苑寺に、日々熱心に『法華経』を唱える僧がいた。竜が人間の姿で毎日のように訪れてはこれを聞いていた。じきに僧と竜は親友となり、このことは世間にも知られていた。ある年に国中が旱魃に見舞われると、天皇が僧を呼び、寺に来る竜に雨を降らせるようにと命じた。事情を知った竜は、大梵天王をはじめとする諸仏が国難を防ごうとして旱魃を起こしていること、もし自分が雨を降らせれば殺されること、自分が『法華経』によって前世の罪から救われたことを話し、雨を降らせることを承諾した。竜の言葉通り、3日間にわたって雨が降り、地上は潤い、天皇も人々も喜んだ。僧は、竜の最後の望みに従って、峰の池の中にバラバラにされた竜のなきがらを見つけて埋葬し、その場所に龍海寺を建てた。また、竜が気に入っていた3箇所の場所にも龍心寺、龍天寺、龍王寺を建てた。僧は寺で『法華経』を唱えて竜を弔う日々を送ったという[1][3][18][19]。この物語の出典は『本朝法華験記』(『大日本国法華験記』とも。1040年-1044年頃)中巻第67の「竜海寺の沙門某」で[20][21]、舞台が大和国平群郡の竜海寺、竜の遺体を埋めた場所に建てた伽藍に付与された名称も竜海寺、竜が気に入っていた4箇所に建てたのが竜門寺、竜天寺、竜王寺ほか1寺というふうに寺の名称に違いがあり、竜の遺体の状態の説明もないが、話はほぼ同じ内容である[22]。『東大寺要録』巻四・諸院章第四にも同様の話があり、法蔵僧都による『最勝王経』の講を聴いた竜が雨を降らせる。雨に血が混じっているのを見た法蔵僧都は、天候は天神地祇が支配しているにもかかわらず雨を降らせたために竜が殺されたことを悟って泣く。寺を建立する話はないが、竜が自身の死後に必ず弔うように頼んでいる[17][23][14]ことから、高谷 (1970)は元々の話には寺の建立のエピソードがあっただろうと推定している[14]。これらの物語では、竜は仏法を信仰し功徳を得られたことから報恩のために自らの命を捧げている[17]

竜が雨を降らせて殺される物語は、他にも、『元亨釈書』四・法蔵[20][24][25]、『雑談集』九・冥衆ノ仏法ヲ崇事[20][26]などがある。1305年嘉元3年)頃に無住によって書かれた『雑談集』では、竜のなきがらを納める寺の名は龍頭寺、龍腹寺、龍尾寺とされているがその所在地は定かでない旨も記されている。五十嵐 (2012) は、『雑談集』での3寺の名称は、四条畷市の龍尾寺の「河州讃良郡瀧村起雲山龍尾寺略縁起」における3寺の名称と同じであるという[12]

解説[編集]

これらの伝説や昔話はいずれも雨乞いと竜神を関連づけ、かつ、雨乞いの霊験あらたかな僧の業績や寺院の縁起にも言及している。これは、仏教の教えを広めるにあたり民衆が受け入れやすいよう、以前から各地で語り継がれてきた竜神の伝承に絡めて説明したためだと考えられている[14]

「雨を降らせて(人を助けたが自分が)殺された竜」の物語の類型中国にもみられており、比較研究が待たれているとの意見もある[27]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 法華八講は、『法華経』全8巻を講義する法会で、法会1回ごとに1巻を取り上げる。中国で始まったとされており、日本では786年(延暦15年)に奈良の石淵寺で4日間にわたって行われたのが最初だと言われている[4]
  2. ^ この伝承とは別に、人々に悪さをする竜を退治して体を裂き、それぞれの部位を寺に納める伝承が残っている。たとえば、奈良県五條市の伝承では、行者が呪術で悪竜の体を3つに裂き、その後龍頭寺、龍胴寺、龍尾寺の3寺を建てられた[3][6]。これら3寺は後に草谷寺(北山町)に統合されたという[6]。奈良市柴屋町の伝承では、柴屋の池に住む人食い竜を武士が退治した。バラバラになった死骸は1箇所にまとめて埋葬し、龍象寺(宝寿山龍象資聖禅寺)を建立したという。また、この武士の正体は春日明神であったという[3][7]高谷 (1970) によれば、奈良県のこの3つの話は同じ伝承から分かれたものと推定されるという[3]
  3. ^ 四條畷市の龍尾寺は、建立時は真言宗であったが江戸時代初期に曹洞宗となっている[8]

出典[編集]

  1. ^ a b 仲倉 1989, pp. 361-363.
  2. ^ 愛知県教育会編 1937, pp. 297-298.
  3. ^ a b c d e f g h 高谷 1970, p. 13.
  4. ^ 法華八講(ほっけはっこう)”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンク. 2016年12月11日閲覧。
  5. ^ 横山 1998, pp. 25-26.(日本【奈良】 1 龍腹寺の由来 奈良市北之庄町)
  6. ^ a b 山崎しげ子 (2006年8月号). “龍の寺” (PDF). 県政だより奈良. 奈良県. p. 3. 2016年12月11日閲覧。
  7. ^ 横山 1998, p. 26.(日本【奈良】 2 龍象寺の龍伝説 奈良市柴屋町)
  8. ^ a b c 【四條畷】龍の語り継がれる所。(龍光寺・龍間寺跡・龍尾寺)~龍伝説を残して唯一お寺として存続されている龍尾寺~”. 号外ネット 大東・四條畷. 本気メディア (2015年3月28日). 2016年10月5日閲覧。 “龍王は...身は三分されて天空より落下した。...尾の所に龍尾寺を建て...当市の龍尾寺となって、...観音山に真言宗として建立され、滝尾寺を称し、鎌倉時代に起山寺龍尾寺へ名称は定着、江戸初期に現在地へ転じた時、禅宗の曹洞宗へ改まった。(四条畷市史第四巻より抜粋)
  9. ^ 岩瀬 1984, p. 114(29 行基)。同ページによれば、出典は井上正雄 『大阪府全志』(1922年)
  10. ^ 名所・旧跡「龍尾寺」”. 四條畷市. 2016年10月5日閲覧。
  11. ^ 沿線各線紹介 四條畷「権現の滝/四條畷市」”. 学研都市線で行こう. 片町線複線化促進期成同盟会. 2016年10月5日閲覧。
  12. ^ a b 五十嵐行男「龍の来た道 - 龍角寺、龍腹寺、龍尾寺説話の成立について」『房総の郷土史』第40巻、千葉県郷土史研究連絡協議会、2012年5月、pp. 25-26、ISSN 09126791 (参照ページ:p. 26)
  13. ^ “干ばつの村に雨降らせた伝説 龍の尾が100年ぶり開帳 大阪・四条畷の龍尾寺”. 読売新聞 大阪朝刊: p. 33. (2000年11月22日). "「龍尾寺」で二十三日、...龍の伝説に基づく寺宝の〈龍の尾〉が約百年ぶりに開帳される。...三年前に、この伝説が絵本「さかれた龍」として出版されたのを機に、〈龍の尾〉が話題になり、...開帳することにした。〈龍の尾〉は、長さ約一メートル。木の株に巻きつき、...昭和初期に当時の住職が動物学者に調べてもらったところ、「正体不明の海生動物のミイラ」と鑑定されたという。代々の住職が寺の宝として大切にしており..." 
  14. ^ a b c d 高谷 1970, p. 14.
  15. ^ “全国手づくり絵本コンクール 最優秀賞は大阪の主婦、東口恵子さんの作品/北陸”. 毎日新聞: p. 地方版/福井. (1997年12月17日) 
  16. ^ “あふれる「子供の世界」 手作り絵本コンクール入賞作決まる/富山”. 朝日新聞: p. 東京地方版/富山. (1997年12月6日) 
  17. ^ a b c 横山 1998, p. 35.(日本【奈良】 解説)
  18. ^ 今昔物語集 巻第13 竜聞法花読誦依持者語降雨死語第三十三
  19. ^ 笹間 2006, p. 131.(今昔物語の龍「雨を降らせて死んだ龍」)
  20. ^ a b c 今昔物語集 巻第13 竜聞法花読誦依持者語降雨死語第三十三(p. 253、注釈)
  21. ^ 高谷 1970, pp. 13-14.
  22. ^ 竜海寺の沙門某
  23. ^ 三条実房、観厳. “東大寺要録 巻四 諸院章第四”. 水野忠央 『丹鶴叢書 辛亥帙』(中屋徳兵衛ら、1851年刊行). 佛教大学図書館デジタルコレクション. p. 四之十四. 2016年12月11日閲覧。 “必訪後世"”(コマ番号16)
  24. ^ 師錬元亨釈書』 30巻 [2]、下村生蔵、1605年。doi:10.11501/2544560NDLJP:2544560/48https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001124565-00 
  25. ^ 師錬元亨釈書』 30巻 [3]、大菴呑碩・写、1558年。doi:10.11501/2545136NDLJP:2545136/49https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000051129-00 
  26. ^ 一円(無住)「冥衆仏法ヲ崇ル事」『説教至要雑談集』 第5巻、大高文進・校、永田文昌堂、1882年4月。全国書誌番号:40048584NDLJP:822997/11 
  27. ^ 丸山顕徳 著「伝説五十四選 11 行基」、野村純一 編『昔話・伝説必携』学灯社、1992年5月、72頁。ISBN 978-4-312-00532-8 

参考文献[編集]

関連文献[編集]

  • 『大和の伝説』 高田十郎・編、奈良県童話連盟・修、大和史蹟研究会、1959年11月、増補版。全国書誌番号:60003601NCID BN04786923。(奈良県の竜伝承の出典)
  • 東口恵子 絵・文 『さかれた龍』 大島町絵本文化振興財団、1998年。全国書誌番号:99070825

関連項目[編集]

外部リンク[編集]