釈宗演

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釈宗演
1860年 - 1919年
Soyen Shaku.jpg
諡号 窟号楞伽窟
生地 若狭国
没地 鎌倉
宗派 臨済宗
寺院 鎌倉円覚寺
洪川宗温福澤諭吉
弟子 植村宗光[1][2]鈴木大拙釈宗活夏目漱石古川尭道千崎如幻

釈 宗演(しゃく そうえん、安政6年12月18日1860年1月10日) - 大正8年(1919年11月1日)は、明治・大正期の臨済宗の僧。若狭国(現・福井県大飯郡高浜村(現在の高浜町)の生まれ。出家前は一瀬常次郎洪嶽楞迦窟不可往

日本人の僧として初めて「」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師として、よく知られている。

生涯[編集]

出生から妙心寺時代[編集]

1860年1月10日(旧暦 安政6年12月18日)、現在の福井県大飯郡高浜町農家に生まれた[3]。一瀬吾右衛門の二男で、幼名は常次郎。幼児から峻烈豪放で、人に下るということを好まなかった[3]

1870年、10歳(数え年で12歳)の時、一瀬家の親戚筋に当たり、福井県出身である京都妙心寺天授院の越渓守謙が越渓の母九十二歳の祝いを終えて京都に帰る際、僧侶になる修行のため常次郎(宗演)が両親から越渓守謙に預けられたのである[4]

そして常次郎は越渓守謙のもとで得度。越渓は丁度天授院に僧堂を開単した頃であった。そして、妙心寺山内に「般若林」という学林もでき、そこに通って漢籍や禅籍の素読などを学んだという。

千葉俊崖 西山禾山 中川大宝 儀山善来[編集]

1873年建仁寺塔頭の両足院の千葉俊崖師に就き学問と修行に励む。ここで後に建仁寺派管長になった竹田黙雷と知り合う。その後黙雷とは知友となる。しかし1875年に俊崖師が遷化して建仁寺山内の「群玉林」での学林生活は終わった。

1876年、師匠の越渓守謙の命令で愛媛県八幡浜大法寺に行き越渓の法嗣弟子西山禾山について修行をするが、僅かな日数で挫折して、その後、越渓守謙の許可を得て滋賀県三井寺の中川大宝律師に就き倶舎論を研究する。この三井寺での勉学中に、当時阪上真浄(後の臨済宗大学初代学長)が住職をしていた、永雲寺(大徳寺派)に1年ほど滞在した。その縁があったこともあり、その後釈宗演が臨済宗大学(後の花園大学)第二代学長となった。

1877年、再び越渓守謙の命を受けて、備前岡山の名刹曹源寺の儀山善来に就き修禅することとなった。[5]。儀山善来は、釈宗演の得度師匠である越渓守謙そしてその後円覚寺で替わって師匠となった今北洪川の二人の師匠でもあった。釈宗演が師事した頃、既に儀山善来は76歳の老境であったが、提唱および参禅の指導を受けたのである。

師の今北洪川 印可証明 福沢諭吉の慶応 セイロン[編集]

1878年、釈宗演は秋に鎌倉円覚寺今北洪川に参じて修業。それから5年して1883年、師匠の今北洪川は遂に弟子の釈宗演に、「若の演禅士、力を参学に用いること久し。既に余の室内の大事を尽くす、乃ち偈を投じて、長時苦屈の情を伸暢す。老僧、祝著に勝えず。其の韻を用いて即ち証明の意を示す」と題した印可証明の偈をおくっている。釈宗演が満23歳の時である。

1884年、釈宗演は鎌倉円覚寺内にある北条時宗公を祀る塔頭寺院、仏日庵の住職となり、神奈川県横浜市永田にある寶林寺で『禅海一瀾』を提唱した。

1885年慶應義塾に入った。慶應へ行くことに師匠の今北洪川は反対したが、鳥尾得庵等の助けもあり、なんとか入学した。ここで福沢諭吉とも緑が出来、親交は長く続くこととなった。

1887年、慶應義塾別科で学んだあと、当時のセイロン(スリランカ)に行って、仏教の原典を学ぼうとした。当時のセイロン行きは文字通りの命がけであった。師の今北洪川はこれにも猛反対したが、山岡鉄舟福沢諭吉等からの助けもあり、セイロン行きを敢行した。渡航に関して、恩師の福沢諭吉からは「汝道に志す、よろしくセイロンに渡航して源流を遡るべく、志や翻すべからず」と勧められ、山岡鉄舟には「和尚の目は鋭過ぎる、もっと馬鹿にならねばいかん」と言われた。そしてセイロンでパーリ語を学び、僧院で修行して帰国した。

円覚寺派管長 万国宗教会議[編集]

1889年、帰国後に永田寶林寺道場に於いて、初めて師家として、修禅者を指導する[5]

1892年、1月16日師匠の今北洪川の遷化に伴い、釈宗演は塔頭仏日庵住職を辞して、円覚寺に住し、円覚寺派の公選により、満32歳の若さで円覚寺派管長並びに円覚寺派専門道場師家に就任する。

1893年シカゴ万国博覧会の一環として開催された万国宗教会議に出席することとなった。福沢諭吉の賛助も得て、無事に資金も調達して8月に横浜を発ち、十数日の船旅でアメリカはバンクーバーに上陸した。会議は、9月11日から17日間行なわれた。釈宗演は、二回にわたり演説し、第一回の演説は、「仏教の要旨並びに因果法」と題して、仏陀の教えの基本は因果の法であると説いた。この釈宗演の演説を聞いた有名な仏教学者ポール・ケーラス(アメリカの哲学者で仏教研究家)が深く感銘を受けたことが縁となり、釈宗演が帰国した後に、ケーラスは「英語に堪能な者を派遣して欲しい」と依頼したので、宗演は修行していた居士の鈴木大拙を渡米させ、鈴木大拙はその後、ポール・ケーラスの下で翻訳等の仕事を手伝うこととなった。

1902年、シカゴ万国宗教会議において通訳を務めた野村洋三の紹介によって、サンフランシスコの家具商ラッセル夫人と、その友人、ドレッセル夫人等の一行が円覚寺を訪ね、山内の正伝庵に滞在しながら宗演に参禅することとなった。外国人が来日してのこれが初めての参禅と言われ、帰国するまでの間、一行は熱心に参禅したという。翌年の1903年には、建長寺派全派の要請により管長を兼務することとなる。さらに1904年には、日露戦争が勃発し、建長寺派管長の資格を以て、第一師団司令部に従属して満州に従軍布教をなす。

東慶寺そしてルーズベルトとの会見 各国歴訪[編集]

1905年、円覚寺派管長職と建長寺派管長職を共に辞して、鎌倉の円覚寺派の東慶寺の住職となる。この時、円覚寺派の管長に就任したのは、宗演の円覚寺修行時代の兄弟子である宮路宗海(相国寺 荻野独園の法嗣)であった。宗演は、以前来日して宗演に参禅していたラッセル夫人の勧めもあって6月に、通訳として鈴木大拙、侍者として千崎如幻を伴い再び渡米することとなった。サンフランシスコのラッセル邸に約9ケ月滞在し、禅の指導をすることとなった。

その後、ワシントンに行きルーズベルト大統領と会見して、鈴木大拙の通訳を介して世界平和について語り合ったと言われる。そしてアメリカからの帰りには足を延ばし、ヨーロッパ、アジアを歴訪し、更にインドに立ち寄って、翌年の1906年8月に帰国した。その年の11月には、徳富蘇峰野田大塊、早川雪堂らによって「碧巌会」が結成され多くの名士が毎月、釈宗演の碧巌録提唱に聞き入った。

二度目の円覚寺管長から 遷化まで[編集]

1911年朝鮮を約一ケ月巡錫、翌年には満洲を巡錫、更に1913年には台湾を巡錫した。そして翌年の1914年、臨済宗大学(後の花園大学)第二代学長に就任。学長職は、1917年に辞職するまで務めた。

1916年、円覚寺派管長に再び選ばれた。この時は法嗣弟子の古川堯道を僧堂師家に任じて自らは管長職のみとした。またその年の10月には、『碧巌録』を講了したので碧巌会を閉じた。この年の12月9日には、弟子である文豪の夏目漱石の葬儀の導師を引き受けた。戒名も宗演が授与している。そして1917年には中国を約三ケ月に亘って巡錫した。

1919年肺炎のため遷化。世寿六十一。[6]。61歳[7][8][9][10]

釈宗演の法嗣[編集]

  • 古川堯道(堯道慧訓) 第6・8代円覚寺派管長
  • 棲梧寶嶽(寶嶽慈興) 第9代円覚寺派管長
  • 太田晦厳(晦厳常正) 第7代円覚寺派管長、第8代大徳寺派管長
  • 間宮英宗(英宗義雄) 第2代方広寺派管長
  • 釈大眉(大眉敬俊) 第4代国泰寺派管長
  • 釈宗活(輟翁宗活) 弟子に後藤瑞巌がいる
  • 円山慧勘(太嶺慧勘)
  • 大亀宋達

参禅した主な居士の弟子[編集]

著書[編集]

  • 西南の佛敎 博文堂、1889
  • 錫崘島志 弘教書院、1890
  • 萬國宗敎大會一覧 鴻盟社、1893
  • 蒼龍窟年譜 東京築地活版製造所、1894
  • 提唱十牛圖 経世書院、1896
  • 佛祖三経講義 貝葉書院、1897
  • 寶鏡三昧講義 光融館、1897
  • 金剛經講義 光融館、1900
  • 禪海一瀾講義 経世書院、1901
  • 禪海一瀾講義 正覺會、1902
  • 四料簡講話 鴻盟社、1903
  • 降魔日史 金港堂書籍、1904
  • Sermons of a buddhist abbot THE OPEN COURT PUBLISHING COMPANY、1906
  • 歐米雲水記 金港堂書籍、1907
  • 信心銘講話 鴻盟社、1907
  • 閑葛藤 民友社、1907
  • 評釋静坐のすすめ 光融館、1908
  • 筌蹄録 弘道館、1909
  • 一字不説 光融館、1909
  • 勇猛精進 堀場金次郎、1910
  • 佛教家庭講話 光融館、1912
  • 坐禪和讃講話 光融館、1912
  • 修養の枝折 南満洲鐵道庶務課、1913
  • 金剛般若波羅密多経 光融館、1914
  • 拈華微笑 丙午出版社、1915
  • 維摩經提唱 第1~第3輯 至道庵出版、1915
  • 碧巌録講話 上巻 光融館、1915
  • 世の外 光融館、1916
  • 金剛經蛇足 圓覺寺、1916
  • 宗演禪話 榮文舘書房、1916
  • 碧巌録講話 下巻 光融館、1916
  • 臨機應變 文昌堂・明文堂、1917
  • 箇中の樂地 東亞堂書房、1917
  • 禪海一瀾講話 光融館、1918
  • 觀音經講話 光融館、1918
  • 燕雲楚水 楞伽道人手記 東慶寺、1918
  • 校訂臨済録 森江書店、1918
  • 無門關講義 光融館、1919
  • 叩けよ開かれん 小西書店、1919
  • 和顔愛語 博文館、1919
  • 快人快馬 日新閣、1919
  • 楞伽漫録 巻1-5 楞伽會、1920
  • 心の眼を開け 富文堂書店、1920
  • 靜裡聽來 日本圖書出版、1920
  • 最後の一喝 帝國出版協會、1920
  • 十牛図講図 光融館、1920
  • 楞伽窟歌集 東京堂、1921
  • 解脱の生活 敎文社、1921。※竹田黙雷、菅原時保と共著
  • 無説集 東慶寺、1925
  • 菜根譚講話 京文社書店、1926
  • 求めよ與へられん 中央出版社、1927
  • 禪の眞髄(生死解脱心眼開發)中央出版社、1928
  • 『釈宗演全集』10巻 平凡社、1929–1930
  • 禪の解剖(肉と血と皮) 中央出版社、1931
  • 以心傳心教外別傳 達磨の足跡 中央出版社、1931
  • まあ座れ 京文社書店、1932
  • 人生明るい世渡り 成光館書店、1933
  • 禪に生きよ 京文社書店、1935
  • 水雲行 佐藤禪忠、1935
  • 禪的處世道 京文社書房、1938
  • 禪話死生一如 大東出版社、1939
  • 百萬人の禪 潮文閣、1940
  • 達磨 文學書房、1941
  • 肚を造れ 潮文閣、1941
  • 禪 文學書房、1941
  • 西遊日記 東慶寺、1941
  • 一日一話 菜根譚講話 文一出版 1960/麗沢大学出版会 2008。篠田英雄
  • 菜根譚講話 鴻盟社 1978
  • 禅海一瀾講話 岩波文庫、2018.10。解説:横田南嶺、校注後記:小川隆
  • 観音経講話 春秋社 2018.11
  • 禅に学ぶ明るい人生 国書刊行会 2019。「人生明るい世渡り」の改題

書翰集[編集]

  • 宗演禪師書翰集 長尾大學編著 二松堂、1931

伝記[編集]

  • 宗演禪師の面目 長尾宗軾著 隆文館、1920年
  • 宗演禪師と其周圍 長尾宗軾著 雄山閣、1923年
  • 楞伽窟年次傳 釋敬俊編纂 大中寺、1942年
  • 釈宗演伝-禅とZENを伝えた明治の高僧 井上禅定著 禅文化研究所、2000年
  • 新訳・釈宗演 『西遊日記』大法輪閣、2001年。井上禅定監修、正木晃現代語訳、山田智信解説
  • 音読でこころにしみる菜根譚―釈宗演『菜根譚講話』 齋藤孝イーストプレス2010年 ISBN 4781604323
  • 『釈宗演と明治 ZEN初めて海を渡る』中島美千代著 ぷねうま舎発行 2018年5月
  • 『ZEN 釈宗演』漫画 高島正嗣著 日経BP発行 2018年5月

脚注[編集]

  1. ^ (1875-1905)俗名植村貞造。新潟県古志郡(のちの栃尾市)出身。長岡学校第一高等学校、東京帝国大学文科哲学科卒。下谷の廣德寺で勝峰大徹の臨済録提唱に接し、横浜永田村寶林寺に圓通和尚を訪ね、1901年1月鎌倉の宗演の下で得度し、修行中であったが、腸チフス罹患後静養中に日露戦争勃発。1904年11月に歩兵少尉として出征し、さらに中尉となって満州軍総司令部附きとなり、奉天会戦後の満州義軍に参加。軍副総統兼機動隊統領となるが、1905年8月30日、満州通化附近の熱水河子における激戦の中で重傷を負い露軍の捕虜となる。軍営中十日余りの間絶食し、死去。宗演は悲報を1906年1月サンフランシスコで聞くこととなった。同年3月叙勲六等授單光旭日章。遺稿集として、禪劍遺稿 釈敬俊編発行、1908年がある。
  2. ^ 官報1906年5月29日、真修養と新活動 加藤玄智著 廣文堂書店、1915年 pp.452-461、宗演禪師と其周圍 長尾宗軾著 雄山閣、1923年 pp.135-138、楞伽窟年次傳 釋敬俊編纂 大中寺、1942年 p.72・p.80、花田仲之助先生の生涯 花田仲之助先生伝記刊行会、1958年 pp.80-86
  3. ^ a b 『世界の偉人力の修養』pp.184-188(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年10月16日閲覧。
  4. ^ 『私は宗演の自伝「衣のほころび」を思い出した。 この出家というて、実は何の目的なぞあった訳じゃない。・・途中略・・兄が両親に迫って私を越渓老漢の弟子にしてもらうことにした。老漢は快く受けられて豪傑ものになる積りなら許すと言われた。私は何の深い考えもなかったけれども、高僧になれば天子様でも法の御弟子にすることが出来るということを平常兄から聞いていたので、それで出家の決心が出来た。いわば児童の好奇心じゃ。・・途中略・・皆の人が、「早く修業して大寺を持て」というた。唯兄は、「高僧になれ」といった。両親の贐言は、「達者で暮らせ」の片言であった。』 以上引用『釈宗演と明治』中島美千代著 ぷねうま舎発行 2018年5月 12-13p
  5. ^ a b 長尾宗軾『宗演禪師の面目』「師が經歴の一斑」
  6. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)p.14
  7. ^ 楞伽窟年次傳 釋敬俊編纂 大中寺、1942年 巻頭「楞伽窟年譜」pp.1-8
  8. ^ 『明治の禅匠』禅文化研究所編発行 「宗演禅師の生涯」井上禅定著 2009年 pp.297-319
  9. ^ 『明治の禅匠』禅文化研究所編発行 「楞伽窟老師の思い出」朝比奈宗源著 2009年 pp.273-296
  10. ^ 『禅文化 250号』禅文化研究所編発行 「釈宗演老師を思う」横田南嶺著 2018年 pp.10-23

釈宗演の参考動画[編集]

参考文献[編集]

  • 樋口紋太『世界の偉人力の修養』岡本増進堂、1919年。
  • 丸山信編『人物書誌大系 30 福沢諭吉門下』日外アソシエーツ、1995年3月、ISBN 4816912843

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

先代:
今北洪川
臨済宗円覚寺派管長
1892-1905
次代:
宮路宗海
先代:
廣田天眞
臨済宗円覚寺派管長
1916-1918
次代:
古川尭道
先代:
霄貫道
臨済宗建長寺派管長
1903-1905
次代:
菅原時保