釈宗活

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釈宗活
1871年 - 1954年
生地 東京市
宗派 臨済宗
寺院 鎌倉円覚寺
洪川宗温釈宗演
弟子 田中大綱、後藤瑞巌、耕雲庵立田英山、曹溪庵佐々木指月 、一夢庵大峽竹堂、平塚らいてう
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釈 宗活(しゃく そうかつ、1871年1月5日明治3年11月15日) - 1954年昭和29年)7月6日)は、明治・大正・昭和期の臨済宗の僧。出家前の俗名は入澤譲四郎。号は両忘庵輟翁石佛

今北洪川が創始した、僧籍のない一般人に対する禅道指導の組織である両忘会を釈宗演の指示によって再興し、さらに渡米して道場を開いた。宗演の法嗣であったが、居士接得に専念して諸方の住職入山を固辞し、大寺院の住職にならない後半生を過ごして[1]、多くの居士を生み出したことによって知られている。

生涯[編集]

祖父は越後国西野出身で江戸麹町(現・東京都千代田区)に開業していた蘭方医の入澤貞意。宗活も麹町に生まれる。11歳のときに母が死去。12歳のとき父・入澤海民も死去。10代の頃は鎌倉一刀彫の作家であった。

1889年、20歳のときに叔母の紹介で、東京市本郷区湯島麟祥院において鎌倉円覚寺管長の今北洪川に参ずる。洪川の没後、1893年8月に釈宗演のもとで得度した[注釈 1]

1898年に印可を受け[2][注釈 2]、国内の数寺で修行を継続したのち、同年よりビルマセイロンインドを訪れる。2年間海外旅行を続け、1900年に帰国。日暮里駅谷中墓地側の谷中初音町にあった湯屋の2階に居を設け、布教活動を開始した[3][注釈 3]1901年、東京両忘会を設立[注釈 4]

1906年に渡米。サンフランシスコのポスト街に北米両忘会道場を開き、提唱参禅会を実施、1909年までアメリカで禅を広めようとしたが、布教は困難を極めた。同年帰国し、谷中の借家で活動再開[3]。以後、長野県茨城県山形県福島県福岡県等に活動を拡大する。1915年両忘協会のために、会員であった田中大綱が、谷中天王寺町に居士専門の禅道場の建物を寄付した[3][注釈 5]1916年9月、円覚寺管長釈宗演指令特補円覚寺前住職紫衣を受ける。同時に一等教師任一等布教師となる[4]。両忘協会は1925年7月、財団法人両忘協会として認可を受けた。1940年、両忘協会は宗教団体法施行に伴い、宗教団体両忘禅協会となる。1947年、宗活による協会解散宣言。

1954年千葉県八日市場市(現・匝瑳市)にて遷化。83歳[2][5]

著書[編集]

  • 『性海一滴』白鳩社、1901年
  • 『悟道の枝折 兩忘道人講話』秋元洒汀、1905年
  • 『死んで来い』東亜堂、1921年
  • 『悟道の妙味』禪話叢書刊行會、1922年
  • 『臨濟錄講話』光融館、1924年[注釈 6]
  • 『釋宗活全集第1卷 臨濟錄講話』両忘禅協会、1965年
  • 『釋宗活全集第2卷 臨川夜話』両忘禅協会、1980年

書画・彫刻作品目録[編集]

  • 『六道遊戯集』兩忘協會、1944年

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この時点で釈宗演の養子となり法嗣となった。
  2. ^ 1894年から1895年まで円覚寺帰源院で師宗演とともに夏目漱石の参禅の世話をしている。
  3. ^ この建物は兩忘庵と呼ばれた。
  4. ^ もと、明治初期に今北洪川の下に山岡鐵舟らの提案により営まれた居士会。宗演の命による復興。
  5. ^ この建物は兩忘協會の本部道場として1926年から1937年まで機能した。1937年、この建物は、擇木道場に譲渡された。
  6. ^ 1921年から1922年にかけての提唱の佐々木指月による筆記記録。1923年の関東大震災により発行遅延。

出典[編集]

  1. ^ 釋敬俊(編纂)『楞伽窟年次傳』大中寺、1942年、p.220
  2. ^ a b "釈宗活". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2017年5月28日閲覧
  3. ^ a b c 人間禅擇木道場”. 2017年5月31日閲覧。
  4. ^ 菅原洞禪(編)『現代佛教會要覧』修養世界社、1937年、pp.22-23
  5. ^ 臥龍山両忘禅庵”. 2017年6月7日閲覧。

関連項目[編集]