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2015年5月3日 (日) 15:02時点における版

増健亘志
基礎情報
四股名 増健 亘志
本名 柳川 信行
愛称 ノブ
生年月日 (1974-01-22) 1974年1月22日(50歳)
出身 高知県高知市
身長 178.5cm
体重 190.5kg
BMI 59.78(標準値は22)
所属部屋 三保ヶ関部屋
得意技 左四つ、寄り
成績
現在の番付 引退
最高位 西十両6枚目
生涯戦歴 358勝367敗24休(91場所)
データ
初土俵 1996年1月場所
引退 2011年1月場所
趣味 漫画読み
備考
第73代学生横綱
2011年1月26日現在

増健 亘志(ますつよし のぶゆき、1974年1月22日 - )は、高知県高知市出身で三保ヶ関部屋所属の元大相撲力士。本名は柳川信行[1]。最高位は西十両6枚目(2003年9月場所)。得意手は左四つ、寄り。身長178.5cm、体重190.5kg、愛称は本名から「ノブ」、趣味はマンガ読み、好物は焼肉、水瓶座血液型B型、干支は寅年。

来歴

相撲小学校4年から始め、それまでは野球をやっていた。高知市立南海中学校3年の時に中学生横綱となり、地元高知工業高校から相撲の名門日本大学へ進学。1995年、4年時に学生横綱のタイトルを獲得し、1996年1月場所幕下付出(60枚目格)で初土俵。同期に同じく幕下付出の海鵬栃乃洋燁司ら。

入門時の周囲の期待は大きかったが、下半身の故障や受け身になりやすい取り口、更には糖尿病の持病もあり、2004年5月場所以降は幕下での低迷が続いた。さらに現役晩年は体重の増加に伴い下半身の脆さが目立つようになり、幕下中位以下に低迷した。年齢を考慮すると、関取復帰は極めて困難な状況であった。皇司の引退に伴い、2009年5月場所より日本大学出身者では海鵬と並び現役最古参となり、海鵬が引退した2010年7月場所8日目から引退までは現役最年長かつ最古参の力士となっていた。2009年頃からは相手を腹の上に乗せて吊るといった相撲も見られた。

「増健」(ますつよし)の四股名は、「が悪いので怪我をしないように」と師匠の三保ヶ関親方が命名した。[2]2004年1月場所を最後に幕下に低迷してからは、元の「柳川」に戻そうと考え、周囲も望んでいたため、亡くなった父の喪が明けたのを機に、2005年11月場所に改名した。この時、日本大学相撲部の後輩で普段より親交の深い(後述)濱錦も四股名を本名(高濱)に戻した(2009年7月場所より再び濱錦へ)。

2011年1月場所をもって引退。取組後「幕内に上がれなかったのは残念だけど、やり切った感はある」とコメントを残した。同年2月12日、両国国技館内で断髪式が行われた。大関把瑠都や部屋の後援会関係者ら60名がはさみを入れ、三保ケ関親方が止めばさみを入れた[3]。おりからの大相撲八百長問題の影響で角界が各種行事を自粛している最中の開催のため、師匠の歌の披露などのイベントは行われなかった。3月1日から東京都内の会社に勤務した。元十両・玉光国の証言によると、その後2012年1月一杯で東京を去り、故郷の高知県へ帰郷したとのことである。[4]同年9月16日、南海少年相撲クラブ出身者が主催した相撲大会「武田杯」が若宮八幡宮参道脇の土俵で開催された際に消息が明らかとなっており、OBとして柳川自身も取組に参加した。[5]

エピソード

  • 武蔵川部屋の元大関出島(1場所遅れで初土俵)とは学生時代のライバル。
  • 十両時代は紫の締め込みを使用し、さがりが異様に短かった。化粧廻しには、土佐犬が綱を締めている姿が描かれていた。
  • 全盛時は体重が170キロ台前半で、部屋の大先輩である横綱北の湖とほぼ同じ体型であった。
  • 立ち合いは仕切り線の極めて近くから立つ。
  • 普段は眼鏡を掛けている。
  • 2003年7月場所4日目(2003年7月15日)、北桜
2001年から追加された新しい勝負結果のひとつ、つきひざ[1]で敗れた(十両以上でつきひざが適用されたのはこの時が初めて)。
  • 2004年1月場所
前の11月場所は東十両9枚目で6勝9敗と負け越したが、翌1月場所は関取定員増の恩恵を受け、名目上は同じ地位に据え置かれた(実質は1枚番付を下げている)。この例のように、十両での番付運はよかった。
  • 2004年1月場所12日目(2004年1月22日)、濱錦戦
日大の後輩である濱錦に叩き込みで勝った取組が無気力相撲であったとして、日本相撲協会九重審判部副部長と伊勢ノ海監察委員長から、濱錦とともに厳重注意を受けた。
(なお、この取組があった日は、増健の30歳の誕生日であった。)
幕下で琴冠佑と対戦し、熱戦の末土俵際で琴冠佑を寄り倒したかに思われ、軍配は柳川に上がった。しかし、物言いが付いて協議の結果、「柳川の足が先に土俵を割っていた」として、行司差し違えで、勇み足で敗れた。柳川が勇み足で敗れたのは1997年1月場所9日目の福薗戦以来3度目。複数種の非技で敗れた経験を持つ力士は珍しい。
  • 2006年7月場所後、三保ヶ関部屋の部屋付き親方であり、師匠から後継指名を受けていたため独立の可能性は低いと見られていた尾上幕内把瑠都らを連れて尾上部屋を興したため、2006年9月場所では久々の部屋頭復帰を果たした。
  • 2007年11月場所
東幕下19枚目で、自己ワーストとなる一番相撲からの6連敗を喫する。7番相撲で朝道龍との全敗対決を制し、かろうじて7戦全敗は免れたものの、著しい力の衰えを感じさせた。
  • 2008年11月場所10日目(2008年11月18日)、星風
2勝2敗同士の5番相撲で対戦し、下手投げで星風に敗れたが、この際NHKテレビ放送にて「星風が2勝3敗としています、柳川は1勝4敗の今場所負け越しです」と誤報され、訂正されることなく放送が終了した(正しくは星風が3勝2敗、柳川が2勝3敗である)。ちなみに、その後柳川は7番相撲で実際に負け越した。
  • 2009年3月場所
1996年5月場所以来、約13年ぶりの幕下50枚目台という低い地位(東幕下54枚目)に置かれ、負け越せば自身初となる三段目陥落の危機であったが、5勝2敗の幕下優勝次点という好成績を挙げ、未だ幕下の地位を守るだけの力が残っていることを証明した。
  • 2009年5月場所
1番相撲から5連勝。6番相撲では同体取り直しの末、惜しくも新鋭の舛ノ山に敗れたが、前場所の5番相撲から通算で8連勝を達成し、35歳にして従来の自己記録であった7連勝(1997年11月場所3番相撲~1998年1月場所2番相撲、2000年7月場所4番相撲~9月場所3番相撲)を更新した。
  • 1996年1月場所に幕下60枚目格付け出しで初土俵を踏んで以来、引退まで丸15年間以上、幕下~十両の地位を保っていた(三段目以下および幕内在位経験が無い)。この記録は、強すぎずかつ弱すぎず、中途半端な実力を維持できないと達成しえないものである。通算在位91場所は昭和33年以降の未入幕幕下付出力士の最多記録。また通算勝率は常に5割前後をキープしていた。2009年11月場所で最高位が十両以下の幕下付出力士として初めて力士褒賞金が幕内力士の最低支給標準額である60円に到達した。

その他

主な成績

通算成績

  • 通算成績:358勝367敗24休(91場所)
  • 十両成績:83勝127敗(14場所)
  • 十両優勝次点:1回
  • 十両昇進回数:5回(1年6場所制導入以降では史上8位タイ)
  • 幕下優勝同点:1回
  • 幕下優勝次点:10回

場所別成績

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  
増健 亘志
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1996年
(平成8年)
幕下付出60枚目
5–2 
西幕下37枚目
2–5 
西幕下55枚目
4–3 
西幕下45枚目
5–2 
東幕下27枚目
5–2 
東幕下14枚目
3–4 
1997年
(平成9年)
西幕下21枚目
3–4 
東幕下31枚目
6–1[7] 
東幕下13枚目
4–3 
東幕下7枚目
4–3 
東幕下6枚目
4–3 
東幕下5枚目
5–2 
1998年
(平成10年)
西幕下筆頭
4–3 
東十両13枚目
9–6 
西十両8枚目
4–11 
東幕下3枚目
2–5 
西幕下15枚目
4–3 
東幕下12枚目
4–3 
1999年
(平成11年)
東幕下7枚目
4–3 
西幕下4枚目
5–2 
西十両13枚目
3–12 
東幕下7枚目
3–4 
東幕下12枚目
0–5–2 
東幕下47枚目
0–0–7[8] 
2000年
(平成12年)
東幕下47枚目
5–2 
西幕下29枚目
5–2 
東幕下17枚目
4–3 
西幕下11枚目
6–1 
西幕下2枚目
4–3 
東十両12枚目
5–10 
2001年
(平成13年)
西幕下4枚目
5–2 
東十両13枚目
8–7 
西十両9枚目
8–7 
東十両7枚目
5–10 
西十両12枚目
7–8 
東十両13枚目
5–10 
2002年
(平成14年)
西幕下5枚目
2–5 
西幕下16枚目
4–3 
東幕下13枚目
5–2 
西幕下5枚目
1–3–3 
西幕下23枚目
0–0–7[8] 
西幕下23枚目
5–2 
2003年
(平成15年)
西幕下12枚目
5–2 
東幕下4枚目
4–3 
西幕下筆頭
4–3 
西十両12枚目
10–5 
西十両6枚目
5–10 
東十両9枚目
6–9 
2004年
(平成16年)
東十両9枚目
5–10 
西十両13枚目
3–12 
東幕下6枚目
1–5–1 
東幕下22枚目
6–1 
東幕下8枚目
1–6 
西幕下26枚目
4–3 
2005年
(平成17年)
西幕下21枚目
5–2 
東幕下14枚目
5–2 
東幕下7枚目
3–4 
東幕下11枚目
2–5 
東幕下23枚目
5–2 
東幕下14枚目
5–2 
2006年
(平成18年)
西幕下6枚目
2–5 
東幕下16枚目
1–2–4 
東幕下39枚目
4–3 
東幕下30枚目
6–1 
東幕下11枚目
2–5 
東幕下25枚目
3–4 
2007年
(平成19年)
西幕下32枚目
5–2 
東幕下20枚目
4–3 
東幕下16枚目
5–2 
西幕下7枚目
3–4 
西幕下10枚目
2–5 
東幕下19枚目
1–6 
2008年
(平成20年)
東幕下42枚目
4–3 
西幕下32枚目
4–3 
東幕下25枚目
2–5 
西幕下40枚目
5–2 
西幕下27枚目
4–3 
東幕下19枚目
3–4 
2009年
(平成21年)
西幕下28枚目
1–6 
東幕下54枚目
5–2 
西幕下34枚目
6–1 
西幕下12枚目
2–5 
西幕下24枚目
3–4 
東幕下31枚目
5–2 
2010年
(平成22年)
西幕下21枚目
1–6 
西幕下44枚目
6–1 
東幕下17枚目
2–5 
東幕下32枚目
5–2 
東幕下16枚目
3–4 
東幕下20枚目
2–5 
2011年
(平成23年)
西幕下31枚目
引退
2–5–0
xxxxx
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)


改名歴

  • 柳川 信行(やながわ のぶゆき)1996年1月場所-1996年7月場所
  • 増健 亘志(ますつよし -)1996年9月場所-2005年9月場所
  • 柳川 信行(やながわ -)2005年11月場所-2011年1月場所

脚注

  1. ^ 雑誌「NHK大相撲中継」の「全相撲人名鑑」では、1999年は「柳川」、2004年は「栁川」となっている。番付上は一貫して「柳川」と表記されている。
  2. ^ 同じような思いを込められ先々代九重から「末永く現役を続けられるように」、転じて永遠(千代)に(力士として)不死(富士)であれと願いを反映された四股名を与えられた力士がおり、その力士こそが千代の富士である。千代の富士は最終的に優勝31回、幕内53連勝、通算1045勝などの大記録を数々達成した。
  3. ^ 元十両の柳川が断髪式「やり切った」/大相撲SANSPO.COM サンケイスポーツ 2011年2月18日閲覧
  4. ^ 相撲人飲み会の話 元玉光国(玉ノ国)の毎日楽しくGOーGOーブログ(2012年1月14日に焼肉「魁道」において相撲人同士で打ち上げを行っていた際の様子) 2012-01-15 10:38:46
  5. ^ 長浜に相撲熱取り戻せ 高知ニュース 2012年09月17日08時23分
  6. ^ soKKuri?「増健亘志」と「柳川信行」
  7. ^ 幕下優勝同点
  8. ^ a b 公傷制度適用

関連項目

外部リンク