「大久野島の毒ガス製造」の版間の差分

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|開館 =[[1988年]]
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|所在地郵便番号 = 729-2311
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== 概要 ==
== 概要 ==
この島では1929年(昭和4年)から1944年(昭和19年)<ref name="chugokuk20150423">{{Cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=43312|title=Peace Seeds ~ヒロシマの10代がまく種 第8号「大久野島の光と影」|publisher=中国新聞|date=2015-04-23|accessdate=2016-07-24}}</ref>あるいは1945年(昭和20年)終戦まで、秘密裏に[[大日本帝国陸軍]]によって毒ガスが製造されていた。その歴史を風化させないという地元住民の願いがあり、毒ガス資料館が建設された。
この島では1929年(昭和4年)から1944年(昭和19年){{r|chugoku20150423}}あるいは1945年(昭和20年)終戦まで、秘密裏に[[大日本帝国陸軍]]によって毒ガスが製造されていた。その歴史を風化させないという地元住民の願いがあり、毒ガス資料館が建設された。


建物自体は竹原市および周辺市町の元工員や動員学徒など毒ガス被害者の数団体で結成された「大久野島毒ガス被害者対策連絡協議会<ref name="chugokuk20151015">{{Cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=52328|title=毒ガスの島70年 忘れ得ぬ記憶 <2> 組織の行方 高齢化で存続の道険し|publisher=中国新聞|date=2015-10-15|accessdate=2016-07-24}}</ref>」が建設し、竹原市に寄贈<ref name="chugokuk20130430">{{Cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=9558|title=大久野島毒ガス資料館初代館長 村上さんの遺志継承誓う 竹原で偲ぶ会|publisher=中国新聞|date=2013-04-30|accessdate=2016-07-24}}</ref>。1988年(昭和63年)4月、竹原市所有・連絡協の運営で開館した<ref name="chugokuk20130430" />。初代館長は元工員でのち竹原市役所に勤務した村上初一<ref name="chugokuk20130430" />。2006年から[[指定管理者制度]]を導入、2009年から「[[休暇村]]大久野島」が管理している<ref name="chugokuk20130430" />。近年協議会は高齢化によって維持活動が困難になりつつあるとして、毒ガスに関する各種資料の保存に関して国の介入を呼びかけている<ref>{{Cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=66296|title=毒ガス資料保存 初要望 大久野島連絡協 財務・厚労省を訪問 竹原|publisher=中国新聞|date=2016-11-11|accessdate=2017-08-08}}</ref>
建物自体は竹原市および周辺市町の元工員や動員学徒など毒ガス被害者の数団体で結成された「大久野島毒ガス被害者対策連絡協議会{{r|chugoku20151015}}が建設し、竹原市に寄贈{{r|chugokuk20130430}}。1988年(昭和63年)4月、竹原市所有・連絡協の運営で開館した{{r|chugokuk20130430}}。この経緯は、当時島全体は環境庁(現環境省)が所有する国有地であったこと、国側は建設は許可したものの毒ガスのことを公表することに消極的であったことから{{r|chugokuk20130430}}。初代館長は元工員でのち竹原市役所に勤務した村上初一{{r|chugokuk20130430}}。


2006年から[[指定管理者制度]]を導入、2009年から「[[休暇村]]大久野島」が管理している{{r|chugokuk20130430}}。近年連絡協議会は高齢化によって維持活動が困難になりつつあるとして、毒ガスに関する各種資料の保存に関して国の介入を呼びかけている{{r|chugoku20161111}}。
年間入場者数は、開館当初は5・6万人台、最大は1995年で約6万5千人、そこから90年代後半に減少の一途をたどり、2004年から2008年の間は2万人台、2015年現在はウサギの島として観光客が増大したことに伴い4万人台にまで回復している<ref>{{Cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=52294|title=毒ガスの島70年 忘れ得ぬ記憶 <1> 楽園|publisher=中国新聞|date=2015-10-14|accessdate=2016-07-24}}</ref>。


年間入場者数は、開館当初は5・6万人台、最大は1995年で約6万5千人、そこから90年代後半に減少の一途をたどり、2004年から2008年の間は2万人台、2015年時点ではウサギの島として観光客が増大したことに伴い4万人台にまで回復している{{r|chugoku20151014}}。
なお島全域は[[環境省]]の所管である{{Sfn|環境省|2003|p=197}}<ref name="chugoku20090722">{{cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=17581|title=斉藤環境相インタビュー 要旨|publisher=中国新聞|date=2009-07-22|accessdate=2016-07-24}}</ref>。島内には毒ガスを製造していた頃の建物が遺構として残っているが、ほぼ立ち入り禁止であることに注意が必要である。大久野島神社境内にある殉職碑は2人目の死者がでた1937年に建立されたもの<ref name="kaihou0505" />、毒ガス障害死没者慰霊碑は1983年に建立されたもので、以降毎年協議会の主催で慰霊式が行われている<ref name="chugokuk20150423" /><ref name="chugokuk20151023" />。詳細は休暇村大久野島が公開するパンフレット『{{PDFlink|[http://www.qkamura.or.jp/ohkuno/data/booklet/pdf/57260034_PAMPHLET_PDF_20140409191450.pdf 島内MAPのご案内]}}』を参照。

島内には毒ガスを製造していた頃の建物が遺構として残っているが、ほぼ立ち入り禁止であることに注意が必要である。大久野島神社境内にある殉職碑は2人目の死者がでた1937年に建立されたもの{{r|kaihou0505}}、毒ガス障害死没者慰霊碑は1983年に建立されたもので、以降毎年協議会の主催で慰霊式が行われている{{r|chugoku20150423}}。詳細は休暇村大久野島が公開するパンフレット『{{PDFlink|[http://www.qkamura.or.jp/ohkuno/data/booklet/pdf/57260034_PAMPHLET_PDF_20140409191450.pdf 島内MAPのご案内]}}』を参照。


== 展示内容 ==
== 展示内容 ==
資料は2013年時点で約600点収蔵<ref name="chugokuk20130430" />。展示物は以下のもの。
資料は2013年時点で約600点収蔵{{r|chugokuk20130430}}。展示物は以下のもの。
* 旧日本軍の毒ガス製造に関する資料<ref name="chugokuk20130430" />
* 旧日本軍の毒ガス製造に関する資料{{r|chugokuk20130430}}
* 中国での旧日本軍遺棄弾<ref name="chugokuk20130430" />
* 中国での旧日本軍遺棄弾{{r|chugokuk20130430}}
* [[イラン・イラク戦争]]での遺棄弾<ref name="chugokuk20130430" />
* [[イラン・イラク戦争]]での遺棄弾{{r|chugokuk20130430}}


島にある軍事遺構も含め、戦争における[[大量破壊兵器]]による悲惨さを伝えるという意味では[[広島平和記念資料館]]・[[原爆ドーム]]などと同じである<ref name="chugokuk20150423" />。ただしこちらは加害者としての歴史、つまり中国での使用に関する資料も展示している<ref name="chugokuk20150423" />。また[[イラン]]への医療支援として、イラン・イラク戦争での毒ガス後遺症治療にあたる医師・看護婦をそのノウハウを持つ広島の医療機関が受けいれたこと<ref name="chugokuk20080221">{{Cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=17131|title=イラン毒ガス禍 医療支援 ヒロシマの教訓と大久野島の経験もとに現地医師団の研修受け入れ|publisher=中国新聞|date=2008-02-21|accessdate=2016-07-24}}</ref>が縁で、その関連資料も展示している。
島にある軍事遺構も含め、戦争における[[大量破壊兵器]]による悲惨さを伝えるという意味では[[広島平和記念資料館]]・[[原爆ドーム]]などと同じである{{r|chugoku20150423}}。ただしこちらは加害者としての歴史、つまり中国での使用に関する資料も展示している{{r|chugoku20150423}}。また[[イラン]]への医療支援として、イラン・イラク戦争での毒ガス後遺症治療にあたる医師・看護婦をそのノウハウを持つ広島の医療機関が受けいれたこと{{r|chugokuk20080221}}が縁で、その関連資料も展示している。


== 利用情報 ==
== 利用情報 ==
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== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 背景 ===
=== 背景 ===
[[ファイル:大久野島灯台 - panoramio.jpg|200px|right|thumb|大久野島灯台。陸軍施設群が建てられる前に逓信省によって建てられた。]]
{{Maplink2|zoom=9|frame=yes|plain=yes|frame-align=right|frame-width=300|frame-height=300|type=shape|id=Q385313|title=大久野島}}
{{Maplink2|zoom=9|frame=yes|plain=yes|frame-align=right|frame-width=300|frame-height=300|type=shape|id=Q385313|title=大久野島}}
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{{Location map~|Japan |lat=35.69 |long=140.05|position=top| label=習志野}}
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{{Location map~|Japan |lat=33.84 |long=130.95|position=bottom| label=曽根}}
{{Location map~|Japan|mark = Blue pog.svg |lat=35.33|long=139.34}}
|caption=赤が陸軍における毒ガス編成{{Sfn|環境省|2003|pp=15-16}}。青が海軍の毒ガス製造拠点があった[[相模海軍工廠]]{{Sfn|環境省|2003|p=10}}{{r|QA2}}。
}}
{{See|大久野島#歴史|忠海#歴史|芸予要塞}}
{{See|大久野島#歴史|忠海#歴史|芸予要塞}}
[[廃藩置県]]後、[[豊田郡]]の郡役場は大久野島の北側である忠海に置かれ、そして明治23年(1890年)に呉憲兵分隊が忠海に置かれて以降陸軍の施設が置かれていった<ref name="rekimachi_03">{{cite web|url=http://www.city.takehara.lg.jp/data/open/cnt/3/2464/1/takehara_rekimachi_03.pdf|format=PDF|title=竹原市歴史的風致維持向上計画について 第2章|publisher=竹原市 |accessdate=2016-07-24}}</ref>。つまり現在の竹原市域において[[竹原]]が商業の中心、忠海が政治および軍事の中心と役割が分かれていた<ref name="rekimachi_03" />。この島には国土防衛と当時の兵器性能の問題から陸軍の芸予要塞が築かれた<ref name="jsce202">{{Cite web|publisher=土木学会|url=http://committees.jsce.or.jp/heritage/node/202|title=芸予要塞・小島砲台跡|accessdate=2016-07-24}}</ref>。ただ[[日露戦争]]などで芸予要塞は用いられることはなくのちの防衛再編成と兵器性能の向上より大正13(1924年)廃止となっ<ref name="jsce202" />
近代に入り[[豊田郡]]の郡役場は大久野島の北側である忠海に置かれた{{r|03_1syou}}。明治23年(1890年)忠海に呉憲兵分隊が置かれ、大久野島には明治35年(1902年)国土防衛と当時の兵器性能の問題から陸軍の芸予要塞が築かれ、忠海大正7(1918年)陸軍電信独立大隊も置かれ{{r|03_1syou}}{{r|jsce202}}{{r|QA2}}


つまり、忠海は近代に入り郡の政治の中心となり、陸軍としても重要な位置を占めていた{{r|QA2}}{{r|03_1syou}}。当時の地図では芸予要塞秘匿のため忠海一帯から[[来島海峡]]まで瀬戸内海を縦断するように赤で塗りつぶされていたという{{r|kaihou0501}}。現在一般的な説として、昭和初期に毒ガス製造所があったため当時[[陸地測量部]]が発行した一般向け地図では大久野島一帯は空白地域として扱われた“地図から消された島”と言われている{{r|chugoku20150423}}{{r|hakusuisha}}が、実際にはそれより前から[[検閲]]されていたことになる。一方でこの島の南から東への海域は“三原瀬戸航路”、近代において潮流の影響で来島海峡を航行できない船が通っていた重要な航路であり([[大浜埼灯台#沿革]]参照)、[[大久野島灯台]]を目印に多くの船が航行していた{{r|dengon054}}{{r|jsceheritage}}。灯台付近のみ[[逓信省]]所管{{r|dengon054}}だが、毒ガス製造所が開所するにあたり島のすべてが陸軍用地となったとする資料がある{{r|chugoku20150423}}。また島が軍用地となった際に、灯台付近のみ南側の愛媛県[[大三島]]の行政管理下に委任していたとする資料がある{{r|new_page_16}}。
日本軍の毒ガスは[[第一次世界大戦]]での他国の頻繁な使用を受けて、まず大正3年(1914年)[[陸軍技術本部|陸軍技術審査部]]で研究が始まる{{Refnest|group=注釈|化学兵器の戦争での使用は1925年[[ジュネーヴ議定書 (1925年)|ジュネーブ議定書]]で禁止されていたが、開発保有は合法だった。また当時の日本は署名だけしており、[[批准]]はしていなかった。}}{{Sfn|環境省|2003|p=10}}。その中で陸軍唯一の毒ガス製造所が大久野島にできるわけだが、ここに決まった理由として毒ガスを研究する市民団体などでは以下のとおり結論づけている。
# 大正12年(1923年)[[関東大震災]]を受けて、陸軍は毒ガス関連施設を地方に置きたい考えに至った。そこで、労働力と資材確保がし易く、一方で事故が起きた場合でも被害の拡散が小さいこと、そして中国大陸から近い、ところが選ばれた<ref name="QA2">{{cite web|url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/qa.html#QA2|title=Q&A「大久野島と毒ガス」|publisher=毒ガス島歴史研究所 |accessdate=2016-07-24}}</ref>。
# 大正9年(1920年)第一次世界大戦終結後の[[戦後恐慌]]、大正13年(1924年)芸予要塞が廃止されたことを受けて、[[忠海町]]は不況対策として陸軍施設を積極的に誘致した。その中で[[大崎上島]]出身で当時与党[[立憲政友会]]幹事長を務めた[[望月圭介]]{{Refnest|group=注釈|毒ガスを研究する市民団体では当時の忠海町長[[望月忠吉]]が望月圭介の息子であったため誘致に成功したとしている<ref name="QA2" />が、忠吉は圭介の叔母にあたるチヨの孫、つまり圭介の従甥<ref>{{Cite book|和書|author=望月圭介伝刊行会|publisher=羽田書店|title=望月圭介伝 |url ={{NDLDC|1908669}}|page=24|date =1945|accessdate =2016-08-12}}</ref>にあたる。}}が誘致に尽力した<ref name="QA2" />。


日本軍の毒ガスは[[第一次世界大戦]]での他国の頻繁な使用を受けて、まず大正3年(1914年)[[陸軍技術本部|陸軍技術審査部]]で研究が始まる{{Sfn|環境省|2003|p=10}}。大正14年(1925年)[[ジュネーヴ議定書 (1925年)|ジュネーブ議定書]]で化学兵器の戦争利用は禁止されたが、当時の日本はこれに署名はしたが[[批准]]はしなかった(のち1970年批准{{r|ihl280}})。その中で陸軍唯一の毒ガス製造所が大久野島に設置された理由については、毒ガスを研究する市民団体などで以下のとおり結論づけられている。
=== 編成 ===
# 大正12年(1923年)[[関東大震災]]を受けて、陸軍は毒ガス関連施設を地方に置きたい考えに至った。そこで、労働力と資材確保がし易く、一方で事故が起きた場合でも被害の拡散が小さいこと、そして中国大陸から近い、ところが選ばれた{{r|QA2}}{{r|new_page_32}}。
大久野島には昭和2年(1927年)から工場建設が始まり、昭和4年(1929年)[[陸軍造兵廠]]火工廠忠海兵器製造所、のちの[[東京第二陸軍造兵廠]]忠海兵器製造所が開所し、毒ガス製造を開始する<ref name="chugokuk20150423" />{{Sfn|環境省|2003|p=10}}。
# 大正9年(1920年)第一次世界大戦終結後の[[戦後恐慌]]、大正13年(1924年)芸予要塞が廃止されたことを受けて、[[忠海町]]は不況対策として陸軍施設を積極的に誘致した。その中で[[大崎上島]]出身で[[立憲政友会]]代議士の[[望月圭介]]{{efn2|当時の忠海町長[[望月忠吉]]が望月圭介の息子であったため誘致に成功したとする説{{r|QA2}}{{r|new_page_32}}があるが、忠吉は圭介の叔母にあたるチヨの孫つまり圭介の従甥{{r|NDLDC1908669}}にあたる。また望月が[[白川義則]]陸軍大臣と親しかったため頼んだとする資料{{r|new_page_32}}があるが、大久野島で製造所が着工した昭和2年(1927年){{r|kaihou0501}}{{Sfn|山木戸|1985|p=1399}}に発足した[[田中義一内閣]]で双方とも初めて閣僚入りしている(望月:逓信相、白川:陸軍相)。なお[[田中義一]]は元陸軍で当時政友会総裁、望月は昭和2年時点で政友会総務。}}が誘致に尽力した{{r|QA2}}{{r|kaihou0501}}{{r|new_page_32}}。

大久野島には昭和2年(1927年)から工場建設が始まり、昭和4年(1929年)[[陸軍造兵廠]]火工廠忠海兵器製造所が開所し、毒ガス製造を開始する{{r|chugoku20150423}}{{Sfn|環境省|2003|p=10}}{{r|03_1syou}}。
以下、陸軍の毒ガス研究および生産の編成を記載する。
以下、陸軍の毒ガス研究および生産の編成を記載する。

{|class="wikitable" style="text-align:left;"
{|class="wikitable" style="text-align:left;"
|-
|-
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|充填||'''[[陸軍造兵廠曽根製造所]]'''||昭和12年(1937年)||{{Sfn|環境省|2003|p=10}}
|充填||'''[[陸軍造兵廠曽根製造所]]'''||昭和12年(1937年)||{{Sfn|環境省|2003|p=10}}
|}
|}
なお「陸軍造兵廠忠海製造所」として開所、のち「[[東京第二陸軍造兵廠]]忠海兵器製造所」となり、終戦頃には「臣第2963部隊」と部隊名に変っていたという{{r|kaihou0501}}。
{{Location_map_with_crop
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{{Location map~|Japan |lat=35.69 |long=140.05|position=top| label=習志野}}
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{{Location map~|Japan |lat=33.84 |long=130.95|position=bottom| label=曽根}}
{{Location map~|Japan|mark = Blue pog.svg |lat=35.33|long=139.34}}
|caption=赤が陸軍における毒ガス編成{{Sfn|環境省|2003|pp=15-16}}。青が海軍の毒ガス製造拠点があった[[相模海軍工廠]]{{Sfn|環境省|2003|p=10}}。
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一般的な説明として、[[習志野]]で運用訓練し、大久野島で化学物質が作られ、[[曽根 (北九州市)]]まで輸送しそこで兵器として詰め替えられ、大陸([[日中戦争]])で用いた、としている{{r|chugoku20150423}}{{r|QA2}}{{r|new_page_32}}{{r|dengon023}}。
以下、環境省の取りまとめによる、当時制式化されていた毒ガスを示す。呼称は陸軍は色で、海軍は特薬○○号と番号で区別しており{{Sfn|環境省|2003|p=10}}、ここでは陸軍式で記載する。

{|class="wikitable" style="text-align:left;"
=== 生産 ===
以下、当時制式化されていた毒ガスを示す。呼称は陸軍は色で、海軍は○○号特薬と番号で区別しており{{Sfn|環境省|2003|p=10}}、ここでは陸軍式を用いる。
{|class="wikitable" style="text-align:right;"
|-
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!rowspan="2"|名称!!rowspan="2"|種類!!rowspan="2"|化学物質!!rowspan="2"|外観!!rowspan="2"|臭気!!colspan="2"|推定生産量{{efn2|それぞれ別の資料から。元資料も推定部分が多いことに注意{{Sfn|環境省|2003|p=197}}}}<br />([[トン|t]])!!rowspan="2"|備考
!名称!!種類!!化学物質!!備考
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|-
!最盛期<br />月生産量<br />{{efn2|1937年-1943年の間の月生産量{{Sfn|環境省|2003|p=197}}。}}!!総生産量<br />{{efn2|1931年以降{{Sfn|環境省|2003|p=197}}。}}
!ちや(茶)
||[[血液剤]]||[[シアン化水素|シアン化水素(青酸)]]||最初に製造された毒ガス{{Sfn|環境省|2003|p=10}}<ref name="dengon023">{{cite web|url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon023.html|title=大久野島で製造された毒ガス|publisher=毒ガス島歴史研究所 |accessdate=2016-07-24}}</ref><ref name="gas_inform">{{cite web|url=https://www.env.go.jp/chemi/gas_inform/pamph/1.html|title=毒ガス弾等とは何か ~旧日本軍製造の毒ガス兵器~|publisher=環境省 |accessdate=2016-07-24}}</ref>
|-
|-
!みどり
!ちや<br />
||[[血液剤]]||[[シアン化水素|シアン化水素<br />(青酸)]]||微褐色<br />液体||[[アーモンド]]
||[[催涙剤]]||[[クロロアセトフェノン]]||開所当初から製造{{Sfn|環境省|2003|p=10}}<ref name="dengon023" /><ref name="gas_inform" />
||50||248||{{r|dengon023}}{{r|gas_inform}}{{Sfn|環境省|2003|p=197}}
|-
|-
!きい
!みどり<br />
||[[催涙剤]]||[[クロロアセトフェノン|クロロ<br />アセトフェノン]]||微黄色<br />固体||りんご花
||[[びらん剤]]||[[マスタードガス|マスタード(イペリット)]]<br />[[ルイサイト]]||最も製造されたもの{{Sfn|環境省|2003|p=197}}{{Sfn|環境省|2003|p=10}}<ref name="gas_inform" />。<br />一号がイペリット、二号がルイサイト。
||25||28||C号とも<br />{{Sfn|環境省|2003|p=10}}{{r|dengon023}}{{r|gas_inform}}{{Sfn|環境省|2003|p=197}}{{r|kaihou0507}}
|-
|-
!あか
!rowspan="2"|きい<br />
|rowspan="2"|[[びらん剤]]||[[マスタードガス|マスタード<br />(イペリット)]]||褐色<br />粘液体||[[ケシ]]
||[[嘔吐剤]]||[[ジフェニルシアノアルシン]]||{{Sfn|環境省|2003|p=10}}<ref name="dengon023" /><ref name="gas_inform" />
||200<br />~450||(甲) 915<br />(乙) 921<br />(丙) 969||きい一号、A号とも<br />{{Sfn|環境省|2003|p=197}}{{Sfn|環境省|2003|p=10}}{{r|gas_inform}}{{r|dengon023}}{{r|new_page_16}}
|-
|-
|[[ルイサイト]]||微黄色<br />粘液体||[[テンジクアオイ属|テンジクアオイ]]
!あを(青)
||50||1,268||きい二号、A号とも<br />いわゆる「死の露」<br />{{Sfn|環境省|2003|p=197}}{{Sfn|環境省|2003|p=10}}{{r|gas_inform}}{{r|kaihou0510}}{{r|dengon023}}
||[[窒息剤]]||[[ホスゲン]]||{{Sfn|環境省|2003|p=10}}<ref name="gas_inform" />大久野島では量産されていない<ref name="kaihou0520">{{Cite|和書 |author=服部忠| title =秘録 大久野島の記| publisher =毒ガス島歴史研究所| date =1956| pages =付表| url =http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0520.html}}</ref>。
|-
|-
!しろ
!あか<br />
||[[嘔吐剤]]||[[ジフェニルシアノアルシン|ジフェニル<br />シアノアルシン]]||淡緑色<br />固体||ニンニク<br />+アーモンド
||[[発煙弾|発煙剤]]||[[トリクロロアルシン]]||<ref name="gas_inform" />大久野島では量産されていない<ref name="kaihou0520" />
||50<br />~80||1,757||{{Sfn|環境省|2003|p=10}}{{r|dengon023}}{{r|gas_inform}}{{Sfn|環境省|2003|p=197}}
|-
!あを<br />(青)
||[[窒息剤]]||[[ホスゲン]]|| ||干し草||||
||{{Sfn|環境省|2003|p=10}}{{r|gas_inform}}{{r|kaihou0520}}
|-
!しろ<br />(白)
||[[発煙弾|発煙剤]]||[[トリクロロアルシン|トリクロロ<br />アルシン]]|| ||刺激臭||||
||{{r|gas_inform}}{{r|kaihou0520}}
|}
|}
{{Vertical_images_list
[[ファイル:131744 60KG MUSTARD BOMBS, SOME OF THEM LEAKING MAKING THEM DANGEROUS TO HANDLE.JPG|right|thumb|300px|60kgガス弾。]]
|寄せ=右
[[ファイル:Okunoshima & Kokunoshima 1947.jpg|450px|right|thumb|1947年]]
|幅= 300px
[[ファイル:131771 JAPANESE ARSENAL WORKER, AT DIRECTOR OF ENGINEERING EQUIPMENT, BCOF.JPG|right|thumb|150px|作業員(写真は戦後処理時のもの)]]
| 1=131766 CONTAINERS FILLED WITH MUSTARD GAS.JPG| 2=戦後の毒ガス処理時の様子。茶褐色のドラム缶の周囲に幅3から5cmの黄や赤の線を引き中身を表していた。
| 3=131744 60KG MUSTARD BOMBS, SOME OF THEM LEAKING MAKING THEM DANGEROUS TO HANDLE.JPG| 4=60kg[[無誘導爆弾|投下弾]]。投下弾には、きい{{r|gas_inform}}・あか(ジフェニルシアノアルシン){{r|kaihou0516}}が詰められた。また[[砲弾]]もあり、あか・あを(ホスゲン)・きい(イペリット)が詰められた{{r|kaihou0516}}{{r|kaihou0501}}。
}}
昭和8年(1933年)ごろに大量生産できるようになり{{r|kaihou01-2}}、生産のピークは昭和15年(1940年)・昭和16年(1941年)とされ{{r|chugoku20150423}}{{r|kaihou01-2}}、これ以降は戦争が長引くにつれ海上封鎖により海外から物資が届かなくなったため生産が縮小していった{{r|kaihou022}}。


最初に製造が試みられた毒ガスはフランス式イペリット{{r|kaihou0504}}{{r|dengon074}}。イペリット製法はフランス式とドイツ式があったが、フランス式のほうが製法としては簡単だったが不純物が多く保存の際に定期的にガス抜きをしないとガス爆発したという問題点があった{{r|dengon075}}。同じきい剤(びらん剤)でもイペリットとルイサイトで生産量が異なるのは、ルイサイトの方が毒性が強く製造時の危険が少なかったが、製造コストが高く湿気を含む大気中や保管中の安定性が低く、更に実戦での効果がイペリットより劣っていたため、イペリットに生産の重点が置かれていった{{r|kaihou0510}}{{Sfn|花岡|2007|p=132}}。イペリットの甲乙丙とは、甲がドイツ式・乙がフランス式で、丙はドイツ式イペリットの融点を下げ不凍性を高めた寒冷地用のもの{{r|new_page_16}}{{Sfn|花岡|2007|p=132}}{{Sfn|貝瀬|木下|2009|p=46}}。あか剤(嘔吐剤)は、国の資料ではジフェニルシアノアルシン(DC)と[[ジフェニルクロロアルシン]](DA)の混合{{Sfn|環境省|2003|p=8}}、当時の陸軍技手・軍属工員の資料ではDC単独のもの{{r|dengon023}}{{r|kaihou0520}}として説明している。みどり剤(催涙剤)は、当初製造していた工場が手狭となったため新築移転したがそこでの製造は短期間に終わり、終戦までストック品で需要を満たしていた{{r|kaihou0508}}。嘔吐剤[[アダムサイト]]も製造していたが毒性が低かったため制式採用に至らす、製造を止め工場を他の製造に転用している{{r|dengon071}}{{r|kaihou0512}}。
つまり陸軍では、大久野島で化学物質が作られ、曽根まで貨車輸送<ref>{{Cite|和書 |author=服部忠| title =秘録 大久野島の記| publisher =毒ガス島歴史研究所| date =1956| pages =7.製品の旅| url =http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0511.html}}</ref>しそこで兵器として詰め替えられ、習志野で運用訓練し、大陸([[日中戦争]])で用いたのである。


また毒ガス成分以外も生産されている。
生産量のピークは昭和18年(1943年)[[太平洋戦争]]の時期である{{Sfn|環境省|2003|p=197}}。昭和12年から昭和18年の月生産量は、イペリット200から450トン、ルイサイト50トン、ジフェニルシアノアルシン50から80トン、青酸約50トン、クロロアセトフェノン約25トン、とされている{{Sfn|環境省|2003|p=197}}。昭和6年(1931年)以降の総生産量は環境省が採用している資料{{Refnest|group=注釈|総生産量は現在資料が少なく推定部分が多い{{Sfn|環境省|2003|p=197}}ことに注意。}}によると、きい一号甲915トン、きい一号乙921トン、きい一号丙969トン、きい二号1,268トン、あか一号1,757トン、みどり一号28トン、ちゃ一号248トン、とされている{{Sfn|環境省|2003|p=197}}。
; 青酸燻蒸剤
: この島で最初に作られた物質は毒ガスではなく、青酸を用いた殺虫殺鼠剤[[サイローム]]である{{r|dengon022}}。まずサイローム製造とフランス式イペリット試作から始まり、後にサイローム製造が毒ガスちや剤製造に転用され双方並行して作られていた{{r|dengon022}}{{r|dengon023}}{{r|kaihou0516}}{{r|dengon074}}。陸軍で[[特許]]を取っていたという話もある{{r|kaihou01-2}}。
: 瀬戸内海の島嶼では近代に入ると柑橘栽培が盛んになったことから[[ヤノネカイガラムシ]]退治に、また貨物船の倉庫ではネズミ退治に用いられ、造兵廠の印が入ったサイロームはよく効くとして広く流通しており、製造所は利益を得ていた{{r|kaihou0505}}{{r|dengon022}}。製造所側は、この製造作業で熟練工の離職防止および熟練工養成として、また世間へのイメージアップとして、期待していたという{{r|kaihou0505}}。その反面、取扱を過大に危険視されたことから製造所に使用委託の申し入れが多かったという{{r|kaihou0505}}。
* サイローム - 青酸を[[珪藻土]]に付着させ、缶詰して販売した{{r|dengon022}}。当時は柑橘の木を天幕で覆いその中で青酸ソーダと硫酸を容器で混ぜて青酸ガスを発生させて貝殻虫を退治するポット法が行われていた{{r|kaihou0505}}。それに対してサイロームは缶を開けて内容物を新聞紙などに広げるだけで青酸ガスが発生するため従来のポット法より容易であった{{r|kaihou0505}}。サイローム法とも{{r|i-manabi5303}}。
* カルサイト - 青酸を[[賦形剤]]に付着させ錠剤とし、缶詰して販売した{{r|kaihou0516}}。これは青酸が付着した固形状のものを機械で粉々にしながら天幕の中に送り込み青酸ガスを発生させる{{r|innoshima-o}}というカルチット法{{r|i-manabi5303}}で用いられた。
:
; 筒類
* [[発煙筒]] - 陸軍板橋火薬製造所から業務を引き継いで開所当初から製作されていた。[[第一次上海事変]]を機に本格的に製造が始まり中国戦線での拡大に伴って需要が続き太平洋戦争以降は更に格段に需要が上がったことから、終戦まで製造中止されることなく作られていた{{r|kaihou0504}}{{r|kaihou0515}}。また製造側からすると、他の作業より危険が少ないことから製造所に入ったばかりの工員が作業に慣れるため最初にやる工程として、あるいは毒ガス製造過程で問題が起き一旦作業がストップした際に代わりとして、あるいは毒ガス障害者の休養作業として、発煙筒製造が行われていた{{r|kaihou0513}}{{r|kaihou0504}}{{r|kaihou1011}}。
* あか筒 - くしゃみ筒。あか(ジフェニルシアノアルシン)を軽石に付着させ点火剤・加熱剤と一緒に筒体に入れたもの{{r|kaihou0520}}。ジフェニルシアノアルシンは安定した化合物で、揮発性は大久野島で作られた毒ガスの中で最も低く、加熱しないと毒性は現れなかった{{r|dengon023}}{{r|kaihou0516}}
* みどり筒 - 催涙筒。みどり(クロロアセトフェノン)をセルロイド片に付着させ点火剤と一緒に筒体に入れたもの{{r|kaihou0520}}。あるいは点火剤・小粒薬を入れた筒体に[[臭化ベンジル]]を填実したもの{{r|kaihou0520}}。
; [[ちび弾]]
: 青酸は不安定な液体であるため、当時安定剤として銅を用いていた{{r|kaihou0511}}。これは小さな球形ガラス瓶の中に青酸と銅粉を詰めたもの{{r|dengon023}}{{r|kaihou0511}}。昭和17年(1942年)10月忠海から小樽を経て[[アッツ島]]など北方方面へ、昭和18年(1943年)5月忠海からサイゴン([[ホーチミン市]])へ送ったとする証言が残っている{{r|kaihou0511}}。工員も投げる練習をしたという{{r|dengon023}}。
; 火薬
: 昭和19年(1944年)、不要となった工場を改造し陸軍宇治製造所から火薬製造作業の一部が移された。火薬は砲弾用に用いられた{{r|kaihou0501}}{{r|kaihou0516}}。
; [[風船爆弾]]
: 太平洋戦争末期、動員学徒が風船爆弾の球体部分を作っており、梱包して発送していた{{r|kaihou0501}}{{r|dengon035}}{{r|kaihou0517}}。
; 玉砕兵器
: 太平洋戦争末期、硝那薬包という小型爆破薬が作られていた{{r|kaihou0518}}。


=== 施設 ===
そのほか、[[発煙筒]]や「あか筒」「みどり筒」と呼ばれるあか剤・みどり剤を発射し煙を発生させる筒類も作られていた<ref name="kaihou0520" />。

当時、毒ガス製造所の存在は機密性から秘匿され、[[陸地測量部]]が発行した一般向け地図においても大久野島一帯は空白地域として扱われた<ref>{{Cite web|author=[[今尾恵介]]|date=2009-7-17|url=http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2009/07/17/1000.html|title=第3回 毒ガスは地形図の空白で作られた|publisher=[[白水社]](Internet Archives)|accessdate=2016-07-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120902105344/http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2009/07/17/1000.html|archivedate=2012年9月2日}}</ref>。そして戦中、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍側がこの島の製造所の存在を知っていたかは不明。太平洋戦争末期、[[呉軍港空襲]]と同時作戦で周辺島嶼である[[因島]]([[因島空襲]])や[[契島]]あるいは[[今治市]]([[松山大空襲]])が攻撃されており<ref name="kaihou0517">{{Cite|和書 |author=服部忠| title =秘録 大久野島の記| publisher =毒ガス島歴史研究所| date =1956| pages =13.風船爆弾| url =http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0517.html}}</ref>、この島も空襲される可能性もあった。証言によると、1945年7月の一度だけこの島の上空に偵察機が飛来してきたが、高射砲隊はバレることを恐れて撃たなかったという<ref>{{cite web|url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon039.html|title=北部監視所|publisher=毒ガス島歴史研究所 |accessdate=2016-07-24}}</ref>。

=== 島内 ===
{{Vertical_images_list
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| 1=131755 APPROACHING SOUTH PIER FROM TADANOUMI.JPG| 2=表桟橋(第一桟橋・下地図白1)の沖、つまり三原瀬戸航路上から北西方向を撮影したもの。ここからは工場らしきものがまったく見えないのがわかる。写真中央の切通を奥に進むと工場が並ぶ三軒屋地区になる。
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| 3=131732 CERAMIC CONTAINERS AT WHAT WAS FORMERLY THE TADANOUMI BRANCH OF THE TOKYO 2ND ARMY ARSENAL.jpg| 4=陶磁器製のタンク。場所によっては化学変化で成分が変わるため金属製が用いられなかった{{r|dengon024}}。
|1=132134 MAIN LOW PRESSURE HEATING LANKERSHAM BOILER PLANT AFTER THE FINAL PHASES OF "OPERATION LEWISITE" WHICH WAS CARRIED OUT UNDER THE DIRECTION OF THE DIRECTOR OF ENGINEERING EQUIPMENT, BCOF.JPG|2=三軒屋工場群。中央がA三工室と呼ばれたルイサイト工場<ref>{{cite web|url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon062.html|title=A三工室の室内、室外環境|publisher=毒ガス島歴史研究所 |accessdate=2016-07-24}}</ref>。
|3=131765 PORTION OF WHAT WAS THE PRUSSIC ACID-GAS PLANT.JPG|4=長浦地区のちゃ一号工室。サイロームも製造していた<ref>{{cite web|url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon074.html|title=茶一号(青酸)工室|publisher=毒ガス島歴史研究所 |accessdate=2016-07-24}}</ref>。
}}
}}
昭和2年(1927年)島内に軍事工場が設けられることとなり、農家の立ち退きおよび一般人の立入禁止処置が取られた{{r|kaihou0501}}。ただ[[昭和金融恐慌]]の最中にあったことから、この工場建設工事は久野島景気とも言われ喜ばれもした{{r|kaihou0501}}。一応の完成は昭和4年(1929年)春のことで、同年4月1日付で陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所が誕生、開所式は同年5月19日に行われた{{r|kaihou0501}}。
この島で最初に作られた化学物質は毒ガスではなく、青酸を用いた殺虫剤「サイローム」である。そしてサイローム製造が毒ガスちや剤に転用されるわけである<ref name="dengon023" />。サイロームはちや剤と平行して作られており、瀬戸内海の島嶼では近代に入ると柑橘栽培が盛んになったことから造兵廠の印が入ったサイロームはよく効くとしてごく一般に流通していた<ref>{{cite web|url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon022.html|title=サイローム─毒ガス製造のはじまり|publisher=毒ガス島歴史研究所 |accessdate=2016-07-24}}</ref><ref name="chugoku20141222">{{cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=39247|title=『潮流』 「松本サリン」の記憶|publisher=中国新聞|date=2014-12-22|accessdate=2016-07-24}}</ref>。


まず島の南西部にあたる三軒屋地区で土地造成と施設建設が進んだ{{r|kaihou0501}}。島の東側は斜面が多く{{r|kaihou0501}}、また三原瀬戸航路側でもある。島の南東側に桟橋・事務所・発電所・倉庫などが建設され、海岸に沿ってそれらを繋ぎ工場敷地まで結ぶ幅4mの道路が整備された{{r|kaihou0501}}。そして昭和7年(1932年)三呉線[[忠海駅]]が開業し曽根まで貨車輸送する体制が確立したことにより施設の再配置として、更に三軒屋地区が手狭になったことと旧型となった施設の更新として、島の西中部にあたる長浦地区に建設されていった{{r|kaihou0501}}{{r|kaihou0508}}{{r|kaihou0511}}。それでも手狭となったため、北側の本州(本土)側の忠海にも関連施設が建てられている{{r|kaihou0501}}。中には新規で建て製造をはじめたものの短期間で止めた施設もある{{r|kaihou0508}}。また製造工場群はほぼ西側一帯に配置された反面、東側発電所周辺は毒ガスの気配すら感じなかったという{{r|dengon034}}。かつては島内で松茸が採取できたが、昭和10年(1935年)ごろから取れなくなったという{{r|kaihou0509}}。
島内で作業に従事したのは、ピーク時で約2,000人、のべ人数で6,500人と言われている<ref name="chugokuk20150423" /><ref name="dengon044">{{cite web|url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon044.html|title=炊事場・営造場・消防詰所|publisher=毒ガス島歴史研究所 |accessdate=2016-07-24}}</ref>。[[軍属]]には近隣で雇用されたものや、開所時期は[[昭和恐慌]]が起こっていたことから危険手当も出る給料に釣られ工場を建設していた日雇い労働者がそのまま島に残ったものもいる<ref name="kaihou0505">{{Cite|和書 |author=服部忠| title =秘録 大久野島の記| publisher =毒ガス島歴史研究所| date =1956| pages =4.最初の犠牲者| url =http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0505.htm}}</ref>。最初に作業中死亡したのは[[松村組]]から転職した人物であった<ref name="kaihou0505" />。作業中障害者や死者も出したが、当時の工員の証言によると事故が起こるとその都度安全対策がとられたため、年々障害範囲は少なくなっていったという<ref name="kaihou0519" />。そして戦争が続く中、労働者確保のため[[徴用]]工や[[学徒勤労動員]]・勤労報国隊が用いられた<ref name="hokenbunka201110" />。昭和15年(1940年)には特殊工を養成するため技能者養成所が島に開校している<ref>{{cite web|url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon042.html|title=技能者養成所とは|publisher=毒ガス島歴史研究所 |accessdate=2016-07-24}}</ref>。これら工員の募集には毒ガスとは言わず「化学を応用した皇軍兵器」と説明し、工員となった後は機密保持のため厳しい罰則が科せられたという<ref name="chugokuk20150423" /><ref>{{cite web|url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon025.html|title=技能者養成所卒業式|publisher=毒ガス島歴史研究所 |accessdate=2016-07-24}}</ref>。また因島や向島にあった軍需工場では捕虜を作業員として用いていたが([[旧向島捕虜収容所メモリアルプレート]]参照)、大久野島では捕虜は用いていない。


そして[[軍機保護法]]に基づき、白地に黒文字で「立入禁止」と書かれた立て看板が島の周囲に建てられていった{{r|kaihou0508}}。島全体は植樹され{{r|dengon084}}緑で覆われ{{efn2|かつて瀬戸内海のこの付近は製塩が盛んであり、海水から塩を作る際の熱源として大量の薪が必要だったことから、この周辺の山々はハゲ山が多かった。}}、建物には迷彩が施された{{r|dengon037}}。資材も樹木で隠していた。機密保持のため箝口令が敷かれ[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]が厳しく監視していた{{r|new_page_16}}{{r|kaihou01-2}}。証言によると、大久野島を見るな、あるいは絶対撮影するなと言われ{{r|kaihou06}}、呉線ではこの島付近になると海側の窓を鎧戸で閉められ見えなくしていたという{{r|new_page_16}}。
島内の建物配置などは、{{アジア歴史資料センター|C01004702600|昭和14年「密大日記」第13冊”化学兵器貯蔵設備追加實施に関する件”}}や、市民団体毒ガス島歴史研究所が作成した地図『[http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon001.html 伝言(東京第二陸軍造兵廠忠海製造所)案内図]』を参照。
* 生産拠点は2箇所、南西部の三軒屋工場群と、西中部の長浦地区工場群。まず三軒屋で建設が進み、長浦に工場ができていった<ref name="kaihou0501">{{Cite|和書 |author=服部忠| title =秘録 大久野島の記| publisher =毒ガス島歴史研究所| date =1956| pages =まえがき| url =http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0501.htm}}</ref>。それでも手狭となったため、北側忠海にも陸地工場が造られている<ref name="kaihou0501" />。
* 廃止となった芸予要塞の砲台跡は倉庫として用いられた。
* 写真でも分かる通り、建物には迷彩が施されていた。そして島全体は植樹され緑で覆われ{{Refnest|group=注釈|瀬戸内海のこの付近は製塩が盛んであり、海水から塩を作る際の熱源として大量の薪が用いられていたことから、当時この周辺の山々はハゲ山が多かった。}}<ref>{{cite web|url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon084.html|title=毒物焼却場|publisher=毒ガス島歴史研究所 |accessdate=2016-07-24}}</ref>、樹木で資材を隠していた。
* 表桟橋は南東部にあり、これが現在の第一桟橋である。その北側には技能者養成所があった。
* 東中部、北方向に少し細長く出ているところは芸予要塞を運営していた頃の旧桟橋。旧桟橋の山側には当時島内の電力を賄った火力発電所がある。
* 排水などによって戦前から化学物質が海に放流されていた{{Sfn|環境省|2003|p=197}}。
* 化学変化によって成分が変わらないよう工夫がなされている。例えば、陶磁器製のタンク<ref>{{cite web|url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon023.html|title=A三工室(ルイサイト/ 黄二号)内の陶磁器製タンク|publisher=毒ガス島歴史研究所 |accessdate=2016-07-24}}</ref>が用いられ、加熱には蒸気<ref>{{cite web|url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon032.html|title=蒸気パイプ|publisher=毒ガス島歴史研究所 |accessdate=2016-07-24}}</ref>が用いられた。
* 現在ウサギの島として有名だが、このころから動物実験用に飼われていた<ref name="kaihou0505" />。戦中・戦後には食用にされたという<ref>{{cite web|url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon054.html|title=ウサギやジュウシマツが飼われた動物舎|publisher=毒ガス島歴史研究所 |accessdate=2016-07-24}}</ref><ref>{{cite web|url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon057.html|title=私とウサギ|publisher=毒ガス島歴史研究所 |accessdate=2016-07-24}}</ref>。またガス漏れ対策に小鳥も飼われていた<ref name="kaihou0505" />。
* 表桟橋付近に炊事場(食堂)があった。大盛りご飯15銭、小盛り10銭、かけうどん10銭のほか、[[今川焼き|二重焼]]も売られていた。壁には世界で初めての大規模毒ガス戦があった{{仮リンク|第二次イーペル会戦|en|Second Battle of Ypres}}の大判の絵が飾られていた<ref name="dengon044" />。
* 島の南端[[大久野島灯台]]付近のみ[[逓信省]]所管<ref>{{cite web|url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon054.html|title=陸軍省所轄地と逓信省燈台用地|publisher=毒ガス島歴史研究所 |accessdate=2016-07-24}}</ref>。
* 小久野島には終戦まで何も施設はなかった。


: ''島内の建物配置などは、竹原観光ナビ『[https://www.takeharakankou.jp/pamphlet/6 パンフレットダウンロード(大久野島)]』や、{{アジア歴史資料センター|C01004702600|昭和14年「密大日記」第13冊”化学兵器貯蔵設備追加實施に関する件”}}や、市民団体毒ガス島歴史研究所が作成した地図『[http://web.archive.org/web/20161102102226/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon001.html 伝言(東京第二陸軍造兵廠忠海製造所)案内図]』、市民団体大久野島から平和と環境を考える会が作成した地図『[http://dokugas.server-shared.com/new_page_36.htm 大久野島の遺跡地図]』を参照。以下は主に終戦間際ごろの配置になる。''
太平洋戦争末期、不要となった工場は火薬工場に転用された<ref name="kaihou0501" />。そして連合国軍の[[空襲]]が本格化すると島内の作業を地下化することとなり、男工員のほとんどが防空壕掘りに従事した<ref name="kaihou0517" />。昭和20年(1945年)2月に完了し、物資の疎開および作業の地下移転が行われた<ref name="kaihou0517" />。女子学徒は[[風船爆弾]]の気球部分の製造を担った<ref name="chugokuk20150423" /><ref name="kaihou0517" />。毒ガス製造は昭和19年までで昭和20年にはそれを止め風船爆弾製造作業をしていたとする資料<ref name="chugokuk20150423" />があるが、こういった背景があるためである。
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[[ファイル:Okunoshima & Kokunoshima 1948.jpg|430px|right|thumb|1948年]]
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|mark-coord17 = {{coord2|34|18|19.2|N|132|59|31.7|E}}
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|mark-coord18 = {{coord2|34|18|20.4|N|132|59|32.7|E}}
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|mark-coord19 = {{coord2|34|18|22.7|N|132|59|35.7|E}}
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}}
|}

{{hidden begin
|toggle=right |title={{color box|Yellow}}北部 |titlestyle = background:lightgrey;
}}
* 1. 島の北端には点火試験場があった。発煙筒や発射式のあか筒などをここで試験した{{r|dengon082}}。
* 2. この海岸は唐人傘とも呼ばれ、発煙筒などの試験が行われ、更にルイサイトの原料の一つである塩を作っていた。近代において塩は専売制で基本的には[[竹原]]から購入していた{{r|dengon088}}{{r|new_page_16}}。
* 4. 芸予要塞北部砲台跡(西側)。毒ガスを貯蔵していた{{r|dengon087}}。
* 5. 北部監視所。芸予要塞運営時からあったもので、太平洋戦争末期に高射砲隊が駐屯した{{r|dengon039}}{{r|takeharakankou}}。
* 6. 芸予要塞北部砲台跡(東側)。毒ガスを貯蔵していた。1996年に土壌のヒ素汚染が発覚し、1999年に洗浄処理が行われた、現在入ることができる{{r|dengon087}}{{r|takeharakankou}}。
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132155 BURNING FURNACE USED FOR THE DESTRUCTION OF POISON GAS WITH FURNANCE CHIMNEY STACK TO THE RIGHT, DURING THE FINAL PHASES OF "OPERATION LEWISITE", UNDER THE SUPERVISON OF DIRECTOR OF ENGINEERING EQUIPMENT, BCOF..JPG|3. 毒物焼却場。毒ガス製造で発生した残渣やゴミを焼いていた。毒ガス工場と同等の危険な現場だった。登り道の下端付近にあるのは煙道口で、焼却時には焼却炉と煙道口を風洞で繋いでいた。煙道はそこから右上に伸び、その先に煙突があった。これは[[煙突効果]]を期待して長くしたもの{{r|dengon084}}{{r|dengon085}}{{r|new_page_16}}。
131754 VIEW FROM SOUTH PIER. FROM THE BEACHES DISCERNIBLE IN THE DISTANCE, 9000 DYPHENYLCYNARSINE CONTAINERS WERE COLLECTED AND SHIPPED TO OKUNOSHIMA .JPG|表桟橋
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131759 "C" STORAGE, A REINFORCED CONCRETE CAVERN BUILT INTO THE SIDE OF A HILL AT THE FORMER TOKYO 2ND ARMY ARSENAL.JPG|長浦貯蔵庫。奥に左右3部屋計6部屋あり、それぞれに縦長の100トンタンクが置かれていた。
{{hidden end}}
Site of Sangenya Poison Gas Storehouse near Okunoshima Resort Hotel.jpg|三軒屋貯蔵庫跡

131736 MEASURING TANK FOR MUSTARD GAS AT WHAT WAS FORMERLY THE TADANOUMI BRANCH OF THE TOKYO 2ND ARMY ARSENAL.jpg|イペリットを計量する1.5トンタンク。1トン分を計測した。
{{hidden begin
131732 CERAMIC CONTAINERS AT WHAT WAS FORMERLY THE TADANOUMI BRANCH OF THE TOKYO 2ND ARMY ARSENAL.jpg|陶磁器製のタンク。こういった林の中が資材置き場であった。
|toggle=right |title={{color box|Blue}}長浦地区 |titlestyle = background:lightgrey;
Site of laboratory on Okunoshima Island.jpg|研究室跡
}}
132162 A THIRTY BED HOSPITAL COMPLETE WITH DISPENSARY, OUTPATIENT CLINIC AND EMERGENCY OPERATING WARD WAS MAINTAINED AT THE FORMER TADANOUMI BRANCH.JPG|島内にあった医務室。
* 3. 現在テニスコートが並ぶ一体は、製品倉庫・発煙筒工場・みどり一号工室(クロロアセトフェノン工場)・みどり筒工室などがあった{{r|zu9}}{{r|new_page_16}}。
132140 THE FORMER TADANOUMI BRANCH, WHERE POISON GAS WAS MANUFACTURED, SHOWING A DIESEL GENERATOR SHOWING GRAVITY OIL FEED AND COMPRESSOR AIR STARTING BOTTLES.JPG|発電所内部に6基あったディーゼル発電機の一つ。
* 4. 長浦桟橋があった。ここから曽根へ向けて運ばれていたという{{r|dengon089}}。太平洋戦争末期、空襲の危険性が高まるにつれ、本土側と最短距離になるこの桟橋を通勤用として用いられていた{{r|kaihou0517}}。
Gasfactoryruins.JPG|現在の発電所跡。
* 5. この敷地では、まずアダムサイト、次にあか(ジフェニルシアノアルシン)、最後にきい(イペリット)が生産されていた。最後にできたのがA二工室と呼ばれたドイツ式イペリット製造工場があった。製造所最大の工場だった{{r|dengon071}}{{r|zu9}}{{r|new_page_16}}。
Ruins of Batteries in Ōkunoshima.JPG|現在の大久野島中部砲台跡、毒ガス保管所でもあった。
* 6. 貯蔵タンク台座跡。全部で32個ある{{r|new_page_16}}{{r|takeharakankou}}。
132169 BARRACKS AND STOREHOUSES ON THE MAINLAND THAT WERE FORMERLY USED BY THE FORMER TADANOUMI BRANCH.JPG|島内が手狭となったため造られた忠海補給廠
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131759 "C" STORAGE, A REINFORCED CONCRETE CAVERN BUILT INTO THE SIDE OF A HILL AT THE FORMER TOKYO 2ND ARMY ARSENAL.JPG|1. 長浦貯蔵庫。奥に左右3部屋計6部屋あり、それぞれに縦長の100トンタンクが置かれて、イペリットかルイサイトを貯蔵していた。運営時は入り口前に盛土が築かれ海側から目隠ししていた{{r|dengon089}}{{r|new_page_16}}。
131765 PORTION OF WHAT WAS THE PRUSSIC ACID-GAS PLANT.JPG|2. 茶一号工室と呼ばれた青酸製造工場。元々茶工室は三軒家地区にあったが死者を出しその後も中毒者が続出したことから、昭和16年(1941年)この地に新築移転した{{r|dengon074}}{{r|new_page_16}}。
Ruins of Batteries in Ōkunoshima.JPG|7. 芸予要塞中部砲台跡。毒ガス貯蔵庫として用いられていた{{r|dengon075}}。
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{{hidden end}}

{{hidden begin
|toggle=right |title={{color box|Red}}三軒家地区 |titlestyle = background:lightgrey;
}}
<gallery widths="200px" heights="200px">
Site of Sangenya Poison Gas Storehouse near Okunoshima Resort Hotel.jpg|1. イペリット貯蔵庫。中には内部を鉛でコーティングした鉄製のタンクが置かれていた。この目の前にA四工室(フランス式イペリット工場)があった{{r|dengon067}}{{r|new_page_16}}{{r|takeharakankou}}。
132131 MUSTARD GAS PLANT AFTER THE FINAL PHASES OF "OPERATION LEWISITE" WHICH WAS CARRIED OUT UNDER THE DIRECTION OF THE DIRECTOR OF ENGINEERING EQUIPMENT, BCOF.JPG|2. 手前2つが赤筒工室{{r|dengon061}}{{r|zu7}}。その上が会食室で左側が事務所棟{{r|zu7}}。奥の建物がA四工室と呼ばれたフランス式イペリット製造工場{{r|zu7}}。
132132 LEWISITE PLANT AFTER THE FINAL PHASES OF "OPERATION LEWISITE" WHICH WAS CARRIED OUT UNDER THE DIRECTION OF THE DIRECTOR OF ENGINEERING EQUIPMENT, BCOF.JPG|3. A三工室と呼ばれたルイサイト製造工場{{r|dengon062}}。
132134 MAIN LOW PRESSURE HEATING LANKERSHAM BOILER PLANT AFTER THE FINAL PHASES OF "OPERATION LEWISITE" WHICH WAS CARRIED OUT UNDER THE DIRECTION OF THE DIRECTOR OF ENGINEERING EQUIPMENT, BCOF.JPG|4. 写真中央がA三工室で、その左がきい二号(ルイサイト)接触剤室{{r|zu7}}。中央下は倉庫、その左上は風呂場{{r|zu7}}。
View of Okunoshima Resort Hotel.jpg|4. ほぼ同じ位置の現状。休暇村大久野島。
132133 LEWISITE PLANT WITH WAREHOUSES IN FOREGROUND AFTER THE FINAL PHASES OF OPERATION LEWISITE WHICH WAS CARRIED OUT UNDER THE DIRECTION OF THE DIRECTOR OF ENGINEERING EQUIPMENT, BCOF.JPG|5. 中央下とその左上2つの合計3つが赤一工室と呼ばれたジフェニルシアノアルシン製造工場{{r|zu7}}。向こう側煙突があるのが鍛冶工場{{r|zu7}}。戦争末期に赤一工室は火薬工場に転用され、戦後は[[帝人]]が2ヶ月間農薬工場に用いていた{{r|kaihou022}}
Site of laboratory on Okunoshima Island.jpg|6. 左棟が薬品庫、右棟が研究室{{r|zu7}}。陸軍造兵廠化学部全体の研究が行われていた。ただし太平洋戦争時に連合国側が毒ガス使用の意図がないとの通達から研究所は閉鎖状態になった{{r|kaihou0515}}{{r|dengon069}}。
132135 VESICANT LABORATORY BUILDINGS, WHERE ORIGINAL RESEARCH WAS CARRIED OUT BY JAPANESE CHEMISTS.JPG|7. 左下が現在も残る貯水池。その右上が現在も残る研究所。
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183行目: 335行目:
| caption2 =2018年4月
| caption2 =2018年4月
}}{{-}}
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{{hidden begin
|toggle=right |title={{color box|Green}}発電所周辺 |titlestyle = background:lightgrey;
}}
* 1. 芸予要塞火薬庫跡。筒類製造に用いる火薬が貯蔵されていた。「MAG1」と書かれているがこれはこれは[[朝鮮戦争]]時にこの島を接収していたアメリカ軍が弾薬庫として用いていたころの名残{{r|dengon038}}{{r|takeharakankou}}。
* 2. 海水タンク跡。地下水が豊富でないため海水が様々なところで用いられた{{r|new_page_16}}{{r|takeharakankou}}。
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132138 THE FORMER TADANOUMI BRANCH, TOKYO 2ND ARMY ARSENAL, WHERE POISON GAS WAS MANUFACTURED, SHOWING THE POWER HOUSE, HOUSING A COMBINATION OF DIESEL AND HYDRO-ELECTRIC.JPG|3. 西側からの発電所。手前のタンクは発電所に用いる重油用{{r|new_page_16}}。
Site of warehouse of Okunoshima Thermal Power Station.jpg|4. エンジン用冷却水を調整していた海水ポンプ室跡。迷彩の跡が残っているという{{r|dengon037}}。
Site of Okunoshima Thermal Power Station 4.jpg|5 発電所跡。1929年(昭和4年)運転開始した。終戦間際、風船爆弾の満球試験も行われた{{r|dengon034}}{{r|new_page_16}}。
132140 THE FORMER TADANOUMI BRANCH, WHERE POISON GAS WAS MANUFACTURED, SHOWING A DIESEL GENERATOR SHOWING GRAVITY OIL FEED AND COMPRESSOR AIR STARTING BOTTLES.JPG|5. 内部にあったディーゼルエンジン。戦後一番最初に接収されたという{{r|dengon034}}。
Tunnel in front of site of Okunoshima Thermal Power Station.jpg|6. 海側から発電所を隠すため土が盛られトンネルが作られた(島の東側が三原瀬戸航路になる)。側面に「MAG2」と書かれているが、これは朝鮮戦争時アメリカ軍が用いていたころの名残{{r|dengon033}}{{r|new_page_16}}。
Former pier of Okunoshima Island.jpg|7. 旧桟橋。芸予要塞運営時に整備された。製造所初期は主に使われていたものの、こちら側は三原瀬戸航路側になるため秘密厳守のためほぼ使われなくなった{{r|dengon031}}{{r|new_page_16}}{{r|takeharakankou}}。
View near Pier No.2 of Okunoshima Island.jpg|8. 現在の第二桟橋前の広場に製品倉庫群があった{{r|dengon0391}}{{r|new_page_16}}。
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{{hidden begin
|toggle=right |title={{color box|Black}}南西側 |titlestyle = background:lightgrey;
}}
* 1. 芸予要塞南部砲台跡。製品倉庫として用いられていた{{r|dengon043}}。
* 3. 南部監視所。太平洋戦争末期に高射砲隊が駐屯した。
* 4. 現在ごみ処理センターがある地はかつて芸予要塞南部砲台があった。のち撤去され技能者養成所が建てられた。ここで3年間専門的な知識を勉強した。戦後[[竹原市立忠海東小学校]]の教室として移築したという{{r|zu4}}{{r|dengon041}}{{r|new_page_16}}。
* 5. キャンプ場管理管理棟から階段を登り奥に進む途中に深さ1mほどの大きめの窪みあるいは溝があるが、これは空襲時の従業員用退避壕として掘られたもの。この規模の穴が島中にある{{r|new_page_16}}。
* 6. 掲揚台跡{{r|new_page_16}}。
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Okunoshima Campsite 20180429.jpg|2. 現在キャンプ場がある場所は材料倉庫が並んでいた{{r|dengon0391}}{{r|new_page_16}}。
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{{multiple image
| footer =表桟橋(第一桟橋)から西側。
| align = left
| width1 = 350
| image1 = 131770 STOREHOUSES AT THE ARSENAL INSTALLATIONS, MOTOR TRANSPORT SECTION.JPG
| caption1 = 手前斜めが軍隊舎。左手前は車庫で、その左に見切れているのが炊事場{{r|zu4}}。左白い屋根が消防詰所{{r|zu4}}。その向こう側が製品倉庫群{{r|zu4}}。
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| image2 = View near Pier No.1 of Okunoshima Island.jpg
| caption2 =ほぼ同じ位置の現在。
}}{{-}}
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{{hidden begin
|toggle=right |title={{color box|white}}事務所周辺 |titlestyle = background:lightgrey;
}}
* 2. 現在のキャンプ場管理棟の裏手あたりに炊事場(食堂)があった。大盛りご飯15銭、小盛り10銭、かけうどん10銭のほか、[[今川焼き|二重焼]]も売られていた。壁には世界で初めての大規模毒ガス戦があった{{仮リンク|第二次イーペル会戦|en|Second Battle of Ypres}}の大判の絵が飾られていた{{r|dengon044}}。
* 3. 幹部用防空壕。他の防空壕より強固に造られている。軍属が入る場合、敬礼しなければならなかったという。その目の前に製図所があった{{r|dengon047}}{{r|new_page_16}}。
* 6. 自動交換器室跡(通信壕跡)。電話の自動交換器が置かれていた防空壕で中は6畳程度。外は迷彩が施され色の入ったコンクリートが用いられ頑丈に作られている{{r|new_page_16}}{{r|takeharakankou}}。
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131754 VIEW FROM SOUTH PIER. FROM THE BEACHES DISCERNIBLE IN THE DISTANCE, 9000 DYPHENYLCYNARSINE CONTAINERS WERE COLLECTED AND SHIPPED TO OKUNOSHIMA .JPG|1. 表桟橋(第一桟橋)。この桟橋を渡ったところに守衛詰所がありそこで入退島の際に検査され、問題があったときに本土側忠海にあった憲兵事務所で取り調べられた{{r|dengon045}}{{r|new_page_16}}。
Pier No.1 of Okunoshima Island.jpg|1. 現在の第一桟橋。
Okunoshima Poison Gas Museum 20180429-1.jpg|4. 現在毒ガス資料館がある位置には更衣室・洗濯場があった{{r|zu4}}。
ビジターセンター前 - panoramio.jpg|5. 現在ビジターセンターがある位置に事務所・所長室があった{{r|zu4}}。
View near Okunoshima Poison Gas Museum.jpg|第1桟橋から三軒家地区への道は人工的に切り開いたもの{{r|new_page_16}}。
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{{hidden begin
|toggle=right |title={{color box|purple}}南部 |titlestyle = background:lightgrey;
}}
* 2. 実験やガス漏れ監視に用いるウサギやジュウシマツが飼われていた動物舎があった。医務室の裏手に自転車が配置され、それで各現場にジュウシマツを配っていた{{r|dengon056}}。
* 4. 陸軍省所轄地石碑。この南側の[[大久野島灯台]]付近は[[逓信省]](現国土交通省外局海上保安庁)所管であり、この石碑は陸軍敷地との境界石にあたる{{r|dengon054}}。
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Okunojima jinja Shrine.jpg|1. 大久野島神社。古くから久野明神(あるいは久野鳥神社)として鎮座し、製造所整備に際に島の守護神として新たに祀られ、1937年(昭和12年)修復して現在に至る{{r|dengon055}}。
132162 A THIRTY BED HOSPITAL COMPLETE WITH DISPENSARY, OUTPATIENT CLINIC AND EMERGENCY OPERATING WARD WAS MAINTAINED AT THE FORMER TADANOUMI BRANCH.JPG|3. 医務室。軍属のものは島外の医者にかかる事自体が禁止されていた{{r|dengon041}}。元々は各工場地域に診療所として点在していたものを1つに集約した。外科・内科・歯科・耳鼻科のほか、入院室・事務所で構成されていた。現在ゆかりのものとして唯一消火栓が復元されている{{r|dengon058}}{{r|new_page_16}}。
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{{hidden end}}

{{File clip | Tadanoumi Area 1947.jpg | width = 400 | 3 | 23 | 38 | 7 | w = 3142 | h =2534 | 1947年忠海周辺。中央が忠海駅で、周辺に忠海分廠と呼ばれた発煙筒を作る陸地工場・工員宿舎・官舎・陸地診療所・講堂などが建てられた{{r|kaihou0501}}{{r|kaihou0513}}。引込線が引かれ、ここから曽根まで貨車輸送した。海から伸びるのは江戸時代初期に整備された舟入堀。左端が忠海高女、現[[広島県立忠海高等学校|県立忠海高]]。|align=left}}
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132169 BARRACKS AND STOREHOUSES ON THE MAINLAND THAT WERE FORMERLY USED BY THE FORMER TADANOUMI BRANCH.JPG|本土側忠海に造られた関連施設群。左写真の右端。
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{{OSM Location map
|coord = {{coord2|34|15|00|N|132|57|00|E}}
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|label1 =|label-pos1 = top|mark-size1 = 11|label-size1 = 0<!--大久野島-->
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}}

拡大途中のことになる昭和8年(1933年)には[[秩父宮雍仁親王]]が、昭和9年(1934年)には[[高松宮宣仁親王]]が視察のため来島している{{r|kaihou0508}}。太平洋戦争中忠海には、[[松竹歌劇団]]星光子一座、斎藤隆夫が指揮する日本合唱団、[[山田耕筰]]の楽団、[[守田勘彌 (14代目)|守田勘彌]]・[[水谷八重子 (初代)|水谷八重子]]一座と、慰問団が訪れている{{r|kaihou0513}}{{r|kaihou0503}}。

そして戦中、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍側がこの島の製造所の存在を知っていたかは不明。戦争末期この島には高射砲隊が常駐することになり、昭和20年(1945年)7月の一度だけ上空に偵察機が飛来してきたが、高射砲隊はバレることを恐れて撃たなかったという{{r|dengon039}}。

周辺では、呉市([[呉軍港空襲]])、周辺島嶼である[[因島]]([[因島空襲]])や[[契島]]、あるいは今治市([[松山大空襲]])や福山市([[福山大空襲]])が攻撃されており{{r|kaihou0517}}、当時の工員は空襲の恐怖を感じながら作業していたという{{r|kaihou0501}}{{r|new_page_42}}。契島が機銃掃射された日、この島に本土からの通勤船が到着したちょうどそのときに空襲警報が鳴り、円滑に島からの退避行動が取られたという{{r|kaihou0517}}。松山市(あるいは今治)の空襲で発生した火が、大三島の山を真紅に染め、それが大久野島から見えたという{{r|kaihou0517}}。

=== 人員 ===
陸軍出身の歴代所長{{r|kaihou0501}}は以下の通り。
{{Col-float}}
*初代 : [[大島駿]]
*2代 : 生田重勝
*3代 : 信氏良吉
*4代 : 服部誠吾
{{col-float-break}}
*5代 : 中橋桂次郎
*6代 : 阿部三雄
*7代 : 山中峰次
{{col-float-end}}

所長と陸軍技手数十人程度から始まり、施設拡張・製造方式再検討を続け拡大していった{{r|kaihou0501}}。初期は[[昭和恐慌]]の最中にあった。[[軍属]](工員)には近隣で雇用されたもの、初期には日給の6割が危険手当加給という給料体制に釣られ製造所を建設していた日雇い労働者の中にはそのまま島に残ったものもいる{{r|kaihou0505}}{{r|kaihou0512}}。彼らは毒ガス製造どころか工業的製造で仕事に就いたことのないものたちであったことから、1ヶ月に渡り基礎教育が仕込まれている{{r|kaihou0505}}。昭和8年(1933年)入所した工員によると、その年に入所したのは24人でほぼ製造所内に縁故者のある者だった{{r|new_page_42}}。

陸軍の工場であるため工員も階級制であった{{r|new_page_16}}。勤務時間は1日8時間から10時間{{r|kaihou081}}{{Sfn|佐藤|内海|梶川|池田|1967|p=1776}}、中毒予防として例えばイペリット製造現場では1時間働いて2時間別室で休憩{{Sfn|佐藤|内海|梶川|池田|1967|p=1776}}、という体制だった。基本的に工員は実績を重ねるごとに基本給昇給、それに危険手当が別途ついて、残業手当・深夜手当{{r|kaihou022}}・年末賞与{{r|new_page_42}}、など様々な賞与があった{{r|new_page_16}}。危険手当の付与は現場職長の裁量に一任され、現場によって6割/4割/2割加給・加給なし、となった{{r|new_page_42}}{{r|kaihou022}}。ただ賞与が出た際には給料から天引の形で[[日本国債|国債]](戦時国債)を買わされたという{{r|kaihou022}}。一方で機密保持のため憲兵によって厳しく監視され、口外や物品の持ち出しは厳しく罰せられた{{r|new_page_16}}{{r|kaihou01-2}}。自主退職はほぼ却下され、受傷して働けなくなって退職許可(解雇命令)が下された{{r|kaihou022}}{{r|new_page_16}}{{r|kaihou01-2}}。友和会という工員の労働団体が結成されたが昭和10年(1935年)軍から解散命令が下された{{r|new_page_42}}。元陸軍技手の証言によると、平時には毎年春秋の2回慰安会が行われており、諸経費が支給され額は旅費と清酒1合付きの弁当で尽きる程度であったそうで、太平洋戦争が続く中で自然消滅したという{{r|kaihou0514}}。太平洋戦争末期、工員にも[[召集]]が来ていたが、19歳になってもここで働いていれば1年間の入隊延期ができたという{{r|dengon026}}。

[[ファイル:131771 JAPANESE ARSENAL WORKER, AT DIRECTOR OF ENGINEERING EQUIPMENT, BCOF.JPG|right|thumb|150px|作業員(写真は戦後処理時のもの)。]]
[[ファイル:131736 MEASURING TANK FOR MUSTARD GAS AT WHAT WAS FORMERLY THE TADANOUMI BRANCH OF THE TOKYO 2ND ARMY ARSENAL.jpg|right|thumb|250px|イペリット用1トン計測タンク(写真は戦後処理時のもの)。]]
季節・気象条件によっては原料の塩酸や硫酸からガスが発生しむせたという{{r|dengon068}}{{r|dengon081}}。製造施設からヒ素化合物が排水管を通って海に流れていた{{Sfn|環境省|2003|p=198}}。生産拡大に伴い、相当数の中毒患者が発生した{{r|kaihou0515}}。どの作業でも身体に害を及ぼさないものはなく{{r|kaihou022}}、ほとんどの工員にとって毒ガスによる受傷は2度や3度どころではなかった{{r|kaihou01-2}}。ゴムの防毒着に長靴・ゴム手袋・防毒面で防護していたが、ズボンと長靴の間・上着と手袋の間とつなぎ目から毒ガスが入り込み汗で湿気やすい脇の下や股間を受傷していた{{r|new_page_42}}。A二工室(ドイツ式イペリット工場)での夜間作業{{efn2|A二工室は製造所内最大の工場で、室内で充満するイペリットガスを排風機で排出していたが十分ではなかった{{r|new_page_42}}。これに夜間だと湿気が籠もるため、受傷しやすくなった{{r|kaihou0516}}。}}、フランス式イペリット真空蒸溜{{efn2|フランス式イペリットは不純物が多いため再蒸留して純度を高めた{{r|new_page_16}}。}}、焼却場での残渣焼却、が中毒症状が重患になる三毒と言われていたという{{r|kaihou0516}}。当時陸軍技手の中で「大久野島で毒物製造に関係しておれば一度は肺炎の洗礼を受けるであろう」と言われており、研究員の確保に苦労していたという{{r|kaihou0515}}。末期に入った勤労奉仕の女学生の証言によると、黒く焼けた鉄の色をした顔、目の縁が黒くなった顔、ガラガラ声、の工員を見たという{{r|kaihou1011}}。

製造所稼動時、死亡3件{{r|kaihou022}}(島構内だけで2件{{r|kaihou0505}})あったことが公には分かっている。ただし軍属(工員)ではなく軍直属の技手や、医務解雇などで被毒して退職した後での工員、など公になっていない死者はいる{{r|kaihou022}}{{r|kaihou01-2}}。
# 昭和8年(1933年)サイローム製造過程でゴム管から青酸を缶に注入する作業中に誤ってその飛沫を大量に浴び、そこがガスマスク先の吸収缶近くであったため中和剤を通り抜けて一気に体内に入り、数時間後絶命した。製造所初の犠牲者であり、日本人として初めて毒ガスによって死亡した人物となった{{r|kaihou0505}}{{r|new_page_42}}。
# フランス式イペリットが量産体制に入り昼夜兼業で長時間製造された。その際にイペリットを原因とする障害者が激増した。その障害を抱えた一人が、トラック[[荷役]]中に踏み板で足を滑らせて頭から一塩化硫黄を浴び、死亡した{{r|kaihou0505}}。
# 曽根へ毒物を運搬する際に馬車も用いられていた。ある時、馬が尻尾にジフェニルシアノアルシンを付けたままその尻尾でハエを払ったことで、近くで作業中の人物が全身に浴びて数カ月後死亡した{{r|new_page_16}}。
昭和12年(1937年)大久野島神社に殉職碑が建立されている{{r|kaihou0505}}。最も危険な毒物になるルイサイト{{r|new_page_16}}では人命に関わる事故は発生しなかった{{r|kaihou0510}}。発煙筒製造現場では数十人が全治まで3ヶ月から半年を要した火災事故が発生している{{r|kaihou0513}}。元陸軍技手の証言によると、こうした事故が起こると「同じ失敗を再度繰り返すナ」とその都度安全対策がとられたため、年々障害範囲は少なくなっていったという{{r|kaihou0519}}。ただしそれは外傷に対してのみで、内傷特に呼吸器系に関しては想定していなかった{{r|kaihou0519}}。一般工員はそもそも製造していた物自体の知識が不足していたこともあり、危険手当加増目当てで自ら進んで危険な現場に志願したものもいた{{r|kaihou022}}。また当時は就業不良=悪という考えがあり「身体に異常があればすぐに診療所に行って治療を受けるよう」と厳しく指導され医務室へ行っただけで少々の傷害でも休業処置がとられていた{{r|new_page_42}}{{r|new_page_16}}。それに対して工員側は、使命感から、あるいは生活がかかっているため、あるいは憲兵が徹底的に調査するため、休業や入院を嫌がって少々の傷害でも作業に従事していた{{r|new_page_42}}。受傷箇所によっては気軽に申告できない女性工員にとってはさらなる苦痛を味わったという{{r|new_page_42}}。働けなくなって退職したとしても、軍から召集令状が来ていた{{r|kaihou022}}{{r|new_page_42}}。

昭和12年(1938年)頃から大量生産要員として多数の新入工員を入れたが、未経験者に対して指導工員の絶対数が少ないため、早い段階から受傷し昭和15年(1940年)末ごろから若年工員に離職者が出始めた{{r|new_page_42}}。[[国家総動員法]]に基づき昭和15年には旧制高等小学校卒業者を対象とした技能者養成所が島に開校している{{r|dengon042}}。戦争が続く中で、工員(軍属)にも応召者が出ていた{{r|new_page_42}}。そして労働者確保のため[[徴用]]工や[[学徒勤労動員]]・勤労報国隊が用いられた{{r|kaihou0501}}{{r|chugoku20150423}}。これらの募集には毒ガスとは言わず「化学を応用した皇軍兵器」と説明した{{r|dengon025}}。徴用工は2年間だけだがほぼ危険な現場に行かされたという{{r|kaihou022}}。

製造所末期には完全に軍隊化していた{{r|kaihou0517}}。硝酸・硫酸・塩酸などが主成分が海上封鎖により海外から入ってこなくなったため、製造自体は縮小していった{{r|kaihou022}}。そして筒類製造に主力が注がれた{{r|kaihou0501}}。新しい防護用具も不足し、交換しないまま古い防護用具を着続けたため、受傷者は増加していた{{r|new_page_42}}。不要となっていたあか一号工室や遊休工場は火薬工場に転用された{{r|kaihou0501}}{{r|kaihou022}}。忠海製造所での製造自体が縮小していたため、技術を持った工員は荒尾・板橋・宇治・岩鼻・坂市と他の陸軍の火薬製造所増設工事へ応援出張した{{r|kaihou022}}。

[[ファイル:View of site of South Lighthouse on Okunoshima Island 2.jpg|250px|right|thumb|防空壕跡(上地図赤4の南側)。長いものでは100mほどあり、中でつながっているという{{r|takeharakankou}}。]]
[[日本本土空襲]]が本格化すると島内の作業を地下化することとなり、工員のほとんどが防弾壁の構築と防空壕掘りに従事した{{r|kaihou0501}}{{r|kaihou0517}}。昭和20年(1945年)2月に完了し、物資の疎開および作業の地下移転が行われた{{r|kaihou0517}}。勤労奉仕の女学生・中学生は[[風船爆弾]]の気球部分の製造を担った{{r|chugoku20150423}}{{r|kaihou0517}}{{r|dengon053}}。毒ガス製造は昭和19年までで昭和20年にはそれを止め風船爆弾製造作業をしていたとする資料があるが{{r|chugoku20150423}}、こういった背景にある。彼女たちはその他にも、草取り、焼却場へのごみ運び、発煙筒をつくる作業など様々であったという{{r|kaihou1011}}。疎開作業にも従事しており、制服にハチマキ・麦わら帽子姿で作業服は着ずゴム手袋だけで毒ガス製品を触っており、後遺症を抱えてしまうことになる{{r|dengon0391}}{{r|dengon053}}{{r|kaihou1011}}。

[[広島市への原子爆弾投下]]の際には、ここから軍医以下12人からなる救護班を編成し8月7日広島入りし[[広島赤十字・原爆病院|日赤病院]]([[福屋八丁堀本店|福屋]]とも)で救護にあたった{{r|kaihou0517}}{{r|a-bomdbd}}(入市被爆したことになる)。この12人の中には勤労奉仕の女学生もいた{{r|chugoku20020708}}。

結局島内で作業に従事したのは、ピーク時で約3,000人{{r|kaihou01-2}}とも約5,000人{{r|dengon027}}、のべ人数で約6,500人{{r|chugoku20150423}}とも約6,700人{{r|kaihou01-2}}と言われている。

以下参考例として、昭和8年つまり開所4年目に入所しのち化学工となった人物の沿革を示す。体が蝕まれるため6年以上働いたものはほとんどいなかったという{{r|kaihou022}}。なお例に出した化学工の人物は終戦までに3度退職願を出したがすべて却下されている{{r|new_page_42}}。ちなみに化学工は現場がよく変わり、毒ガス製造に直接関わったことから日給が最も高かった{{r|dengon064}}。
{{hidden begin
|toggle=right |title=昭和8年入所化学工 |titlestyle = background:lightgrey;text-align:center;
}}
* 昭和8年度
** 4月 : 入所。誓約書に捺印「入所後は上司の命令に服従し勤務に精励、製造所内の模様は絶対に他言しません」と誓わされる。日給1円10銭。各自に白い作業着が支給され、まず普通兵器(発煙筒)の検缶作業から始める。次いで[[テルミット法|テルミット]]充填、発煙剤充填、導火索の加工などの発煙筒製造作業{{r|new_page_42}}。
** 5月 : 甲みどり筒の仕上げおよび填実作業{{r|new_page_42}}。
** 8月 : 演習用筒類(現示筒、甲・乙・丙みどり筒および代用あか筒等)の填実作業の習得{{r|new_page_42}}。
** 10月 : 毒ガスの実態を教育認識させるための見本(毒煙筒、試臭器)の填実作業{{r|new_page_42}}。
** 11月 : A三工室(ルイサイト工場)竣工にあたり同工室所属{{r|new_page_42}}。
** 12月 : 昇給、日給1円12銭{{r|new_page_42}}。
** 1月 : 発煙筒製造作業{{r|new_page_42}}。
** 2月 : A一工室(イペリット工場)での試運転に1週間従事、その後1ヶ月余り休業作業として発煙筒製造作業{{r|new_page_42}}。
** 3月 : A一工室できい一号乙の真空蒸留試験に参加、容器洗い作業中に初受傷し自宅休業。曰く「一番先に目と咽喉を浸され一時眼が開かなくなり声も出なくなり一日後には上半身に小さい水泡がいっぱい出来て身体は茶褐色となり入浴も出来ず、すれると皮膚がむげるので静かにして寝て居るより外なく一週間位い経た後に皮がぽりぽりむげ出して来ると追い追いと楽になって来ました。」{{r|new_page_42}}
* 昭和9年度
** 4月 : 普通工に昇格。日給1円26銭{{r|new_page_42}}。
** 4月29日 : 昭和六年乃至九年事変(満洲事変・第一次上海事変)における勤労に対し金15円賜う{{r|new_page_42}}。
** 5月 : A四工室(イペリット工場)全装置完成、試運転から製造に。不慣れなことと暑さで傷害者が続出し一時中止し秋から再開することになった{{r|new_page_42}}。
** 6月 : 昇給、日給1円29銭{{r|new_page_42}}。
** 9月 : きい二号大量生産命令によりA三工室製造準備。10月から1ヶ月間作業。全従業員の2/3以上が傷害患者となった{{r|new_page_42}}。
** 12月 : A四工室の手入れ{{r|new_page_42}}。
** 1月 : 配置換え。それまでは工員がいなかったため1つの工場に全員集まって作業していたが、このときから専属化が始まった。あか一号製造班長、A三付属工室アセチレンガス製造班長、A四工室塩素導入(応援)班長を命じられる{{r|new_page_42}}。
* 昭和10年度
** あか一号製造班長としてあか及びあか筒製造作業、あか弾・きい弾製造作業の応援班長として勤務した{{r|new_page_42}}。
** 6月 : 昇給、日給1円37銭{{r|new_page_42}}。
** 12月 : 昇給、日給1円41銭{{r|new_page_42}}。
** 1月 : きい二号製造が始まり付属アセチレンガス製造工室で後任班長を育成、以降あか製造の方に専任した{{r|new_page_42}}。
* 昭和11年度
** 6月 ; 昇給、日給1円45銭{{r|new_page_42}}。
** 10月 : きい一号大量生産命令により、A四工室塩素導入(応援)班長として兼務{{r|new_page_42}}。
* 昭和12年度
** 4月 : あか一号製造専属職長を命じられる。昼夜2班体制であか大量生産に着手{{r|new_page_42}}。
** 7月 : 支那事変(日中戦争)勃発に伴い製造所拡大化が始まる。その時点で毒ガス兵器は備蓄もあり対応できたが、普通兵器(発煙筒)は大量生産しなければ対応できなかった。一時的に発煙筒製造職長を命じられる{{r|new_page_42}}。
* 昭和13年度
** 4月 : 出張命令。技手1人工員3人で陸軍岩鼻火薬工場へ10日間、薬包製造要領修得。帰ってからは薬包製造指導教育に従事し、翌年3月まで続いた{{r|new_page_42}}。
** 7月 : 発煙筒大量生産命令により、一時的に発煙筒製造職長を命じられる{{r|new_page_42}}。
* 昭和14年度
** 4月 : 工員副長事務取扱を命じられる。工員詰所に入り全工員の勤務割事務を担当した{{r|new_page_42}}。
** 9月 : 第二次世界大戦勃発。
* 昭和15年度
** 4月 : 工員副長を命じられる。現場替願が通り、A二工室(イペリット工場)職長を命じられ、終戦まで{{r|new_page_42}}。
** 4月29日 : 支那事変に於ける功に依り金60円賜う{{r|new_page_42}}。
* 昭和16年度
** 4月 : 進級制度改革により、化学工に昇格を命じられる{{r|new_page_42}}。
** 12月 : 太平洋戦争勃発。
* 昭和19年度
** 5月 : 激務により急性肺炎を発症し自宅で倒れる。自宅近くにいた嘱託医が救命処置を行い、大久野島の医務室まで船で運ばれ1ヶ月間入院し復帰{{r|new_page_42}}。
** 9月 : 功労賞的な意味合いで特別賞与61円30銭{{r|new_page_42}}。
** この年は12月分給与280円・年末賞与358円・特別賞与で工場工員としては最高額給与だった{{r|new_page_42}}。
{{hidden end}}
同様に参考として技能者養成所の概要を示す。
{{hidden begin
|toggle=right |title=技能者養成所概要 |titlestyle = background:lightgrey;text-align:center;
}}
: 入所時、「今日から20年間は、自分の理由で辞めるようなことはしません」「軍規保護法を絶対に守ります」「大久野島でおきる一切のことは家庭に帰っても話しません」などの内容が書かれた誓約書を書く{{r|kaihou022}}{{r|kaihou01-2}}。
: 就学期間は昭和15年度1期生が3年制、昭和16年度2期生が2年制、昭和17年度以降から終戦まで1年制{{r|dengon042}}。給料が出た{{r|kaihou01-2}}(金額不明)。
: 幹部工員を養成する見習工員科と一般工員を養成する養成工員科があり、当初は全員養成工として入所し1学期あるいは2年目頭に行われた試験の成績で分かれる形であった{{r|dengon042}}{{r|kaihou022}}。更に見習工は技能試験・適正検査により、化学科・電気科・機械科の専攻に分かれた{{r|kaihou022}}{{r|dengon042}}。基本的に養成工は午前教育・午後実習、見習工は午前・午後ともに教育であった{{r|dengon042}}{{r|kaihou022}}。養成工のほうが早くから仕事に慣れることになるが、給料は見習工のほうが良かった{{r|kaihou022}}。(ちなみに卒業後現場に配属された時点で、見習工出身者は職長待遇で日給2円、養成工出身者は伍長待遇で日給1円80銭{{r|kaihou022}}。)
: 本土側忠海分廠に宿舎があったが徴用工が用いていたため通いであった{{r|kaihou022}}。
: 以下、昭和16年5月の時間割{{r|dengon042}}を示す。
::{|class="wikitable" style="font-size:smaller;text-align:center;"
|-
|rowspan="3"colspan="2" |日付<br />曜日||colspan="6"|養成工員科(一般養成)||colspan="6"|見習工員科(幹部養成)||rowspan="34"|
表の略字は以下の通り。
* 前段 : 8時から10時
* 後段 : 10時から12時
* 地歴 : 国史または地理
* 精 : 精神教育
* 法規 : 陸軍諸法規
* 教練 : [[学校教練]]
* 救急 : 救急学
* 兵器 : 兵器学
* 製化 : 製造化学
* 材料 : 材料学
* 電気 : 電気工学
* 機械 : 機械工学
* 分析 : 分析化学
* 化兵 : 化学兵器学
* 専工 : 専門工作
* 工管 : 工場管理
|-
|colspan="3"|1年||colspan="3"|2年||colspan="3"|1年||colspan="3"|2年
|-
|午前<br />前段||午前<br />後段||午後||午前<br />前段||午前<br />後段||午後||午前<br />前段||午前<br />後段||午後||午前<br />前段||午前<br />後段||午後
|-
|1||木||代数||教練||||兵器||分析||||英語||分析||||材料||法規||
|-
|2||金||地歴||||||国語||電気||||国語||兵器||||英語||兵器||教練
|-
|3||土||物理||||||地歴||力学||||地歴||製化||機械||専工||工管||
|-
|4||日||colspan="12"|休み
|-
|5||月||化・精||||||精・材||分析||体操||精・代||分析||体操||精・歴||||体操
|-
|6||火||英語||地歴||救急||代数||機械||救急||兵器||製化||救急||兵器||||
|-
|7||水||物理||教練||||幾何||国語||||材料||国語||力学||英語||||
|-
|8||木||化学||||||||||||英語||武道||||材料||武道||
|-
|9||金||地歴||||||製化||化兵||図学||幾何||化兵||||英語||化兵||図学
|-
|10||土||法規||||||地歴||武道||||地歴||製化||||専工||||
|-
|11||日||colspan="12"|休み
|-
|12||月||化・精||||||精・材||||||代・精||機械||||精・歴||||
|-
|13||火||英語||||||製化||分析||力学||兵器||分析||||兵器||||
|-
|14||水||物理||教練||||材料||||||幾何||電気||力学||英語||||
|-
|15||木||化学||||||電気||化兵||図学||英語||化兵||||材料||化兵||図学
|-
|16||金||地歴||||||国語||||分析||国語||製化||分析||英語||||
|-
|17||土||代数||武道||||||||||幾何||材料||||分析||||
|-
|18||日||colspan="12"|休み
|-
|19||月||colspan="12"|大久野島神社祭(製造所創立記念日)
|-
|20||火||法規||||||兵器||化兵||教練||材料||化兵||教練||分析||化兵||教練
|-
|21||水||||||||幾何||武道||||代数||電気||||英語||国史||
|-
|22||木||化学||教練||||機械||||||英語||力学||武道||製化||||武道
|-
|23||金||代数||||||地歴||図学||分析||地歴||図学||分析||英語||||
|-
|24||土||物理||||||電気||化兵||||製化||化兵||機械||材料||化兵||
|-
|25||日||colspan="12"|休み
|-
|26||月||化・精||教練||||精神||||||精・電||製化||||精・法||||
|-
|27||火||代数||||||力学||分析||||幾何||分析||||製化||||
|-
|28||水||地歴||||||電気||||||材料||兵器||力学||英語||兵器||
|-
|29||木||武道||||||材料||||||英語||機・電||||分析||||
|-
|30||金||代数||||||幾何||||体操||製化||電気||体操||英語||||体操
|-
|31||土||化学||||||電気||化兵||教練||材料||化兵||教練||工管||化兵||教練
|}
: 前段と後段の間に5分休憩、昼休憩1時間、午後は3時まで。空欄は実習時間。その後精神教育をした後に5時退所となる{{r|dengon042}}。なお日曜休みは1期生・2期生のみで、昭和17年度入所3期生からは休みはなくなる{{r|dengon042}}。
:教官は、普通教科の英語・代数・幾何は近くの旧制中学校教諭、他は忠海製造所の所員が務めた{{r|dengon042}}。
:この中で「化学兵器人道論」が徹底的に叩き込まれた。曰く「人道上許されるべき通常兵器」「なぜ化学兵器が人道兵器かと言えば、化学兵器は人を殺すために造るのではない。広範囲に渡って、一時的に中毒を起させるんだ。中毒を起させることによって、戦闘能力を低下させるんだ。その人たちは、後には回復してくる。回復するまでに捕虜にすればよい。捕虜として回復してきたら、我が戦力として使うこともできる。敵だからといって、殺す必要はない。そして、戦闘も早く終わる。戦争を早く打ち切りたい。ところが、大砲とか機関銃は、命中するとたいてい流血の惨事がおきる。まあほとんどは死ぬだろう。かつての世界大戦のときには、こうした銃器戦闘での戦死の数と、化学兵器での戦死者の数は、何10パーセントと何パーセントの違いなんだ。」{{r|kaihou01-2}}{{r|kaihou022}}。
:教練では、ちび弾の運用や、装面訓練では実際に催涙ガスを発生させガスマスクを着けて行っていたという{{r|dengon088}}。
:養成所ではすべての現場で実習が行われた{{r|dengon042}}{{r|kaihou022}}。この時期の工員は専属化し自分の現場以外知らなかったため、養成所出身者のほうが各現場のことを知っていたという{{r|kaihou022}}。
{{hidden end}}


=== 戦後処理 ===
=== 戦後処理 ===
:''国外、特に中国での毒ガス廃棄問題に関しては[[遺棄化学兵器問題]]を参照。ここでは日本国内、特に大久野島を中心とした廃棄について記す。''
:''国外、特に中国での毒ガス廃棄問題に関しては[[遺棄化学兵器問題]]を参照。ここでは日本国内、特に大久野島を中心とした廃棄について記す。''

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終戦時全国に毒ガスが配備されていたが、その理由については環境省が取りまとめた資料では以下のとおり。
終戦時全国に毒ガスが配備されていたが、その理由については環境省が取りまとめた資料では以下のとおり。
# 研究・訓練および実験などのため配備。陸軍では科学研究所や演習場、陸軍学校などへ配備された{{Sfn|環境省|2003|p=10}}。海軍では、海軍亀ヶ首射撃場([[倉橋島]])で毒ガス弾の実験が行われたという証言がある{{Sfn|環境省|2003|p=11}}。
* 研究・訓練び実験等 - 陸軍では科学研究所や演習場、陸軍学校などへ配備された{{Sfn|環境省|2003|p=10}}。
# 昭和19年(1944年)1月29日[[大本営]]陸軍部はアメリカが毒ガスを使用する可能性が高いとして「毒ガス戦準備計画」を立案した。これにより忠海と[[小樽市|小樽]]の2つが集積拠点に選ばれ毒ガス弾が配備された{{Sfn|環境省|2003|p=11}}。
* 毒ガス戦準備計画 - 昭和19年(1944年)1月29日[[大本営]]陸軍部はアメリカが毒ガスを使用する可能性が高いとして「毒ガス戦準備計画」を立案した。これにより忠海と[[小樽市|小樽]]の2つが集積拠点に選ばれ毒ガス弾が配備された{{Sfn|環境省|2003|p=11}}。
# 疎開...空襲を避けるため安全な拠点に移されたもの。陸軍は、八本松や大嶺などに運ばれている{{Sfn|環境省|2003|p=11}}。海軍では、各地の航空廠{{Refnest|group=注釈|この付近では[[第11海軍航空廠]]。}}に運ばれた{{Sfn|環境省|2003|p=11}}。
* 疎開 - 空襲を避けるため安全な拠点に移されたもの。陸軍は、八本松(広島)や大嶺(山口)に集中的に運んでいる{{Sfn|環境省|2003|p=11}}。
つまり大久野島には毒ガスの化学物質だけでなく兵器も保管されていたことになる。また、この南側の[[大三島]]には大久野島から運び込まれた毒ガスが貯蔵され<ref>{{cite web|url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon053.html|title=大三島の海岸での毒ガス貯蔵|publisher=毒ガス島歴史研究所 |accessdate=2016-07-24}}</ref>、西側の[[阿波島]]には出張所が置かれ毒ガス弾を貯蔵していた{{Sfn|環境省|2003|p=15}}。以下、2003年時点での環境省が公表する資料おけるそ3島の終戦時の保管量{{Sfn|環境省|2003|p=15}}を示す
つまり大久野島には毒ガス製造によって備蓄品があっただけでなく、意図的に集積されていたことになる。また、この南側の[[大三島]]には大戦末期に大久野島から疎開された毒ガスが貯蔵され、西側の[[阿波島]]には出張所が置かれ毒ガス弾を貯蔵していた{{Sfn|環境省|2003|p=15}}。大三疎開を担当したのが勤労奉仕の女学生あった{{r|dengon053}}。
<gallery widths="200px" heights="200px">
131734 BULK STORAGE TANKS AT WHAT WAS FORMERLY THE TADANOUMI BRANCH OF THE TOKYO 2ND ARMY ARSENAL.jpg|野ざらしの貯蔵タンク(場所不明)。イペリット34トン分が入る。
132137 CHEMICAL STORAGE AREA.JPG|イペリットやジフェニルシアノアルシンなどを保管していた製品倉庫群。現在の第二桟橋背後の広場付近にあたる{{r|dengon0391}}。勤労奉仕の女学生たちは手前にあるようなドラム缶をゴム手袋のみで運搬していた
</gallery>

以下その3島における、環境省が公表する終戦時での保管量と、米軍調査による昭和21年(1946年)1月時点での集計を示す。これは環境省の方は資料から専門家からの助言・検討を踏まえて2004年に最終稿として公表したもの、米軍資料の方はそののち2014年に発見されたものになる。

{{hidden begin
|toggle=right |title=環境省資料 |titlestyle = background:lightgrey;text-align:center;
}}
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;text-align: right;"
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;text-align: right;"
|+終戦時の3島における保管量([[トン|t]])
|-
|-
!!!イペリット!!ルイサイト!!青酸!!ジフェニル<br />シアノアルシン!!クロロ<br />アセトフェノン!!兵器類!!備考
!!!イペリット!!ルイサイト!!青酸!!ジフェニル<br />シアノアルシン!!クロロ<br />アセトフェノン!!兵器類!!備考
|-
|-
!大久野島
!大久野島
||1,451 [[トン]]||824 トン||13.2 トン||958.1 トン||7 トン||-||大三島分も含む
||1,451||824||13.2||958.1||7{{0}}||-||大三島分も含む{{Sfn|環境省|2003|p=15}}
|-
|-
!大三島
!大三島
||-||-||-||(595 トン)||(7 トン)||-||
||-||-||-||(595){{0}}||(7)||-||{{Sfn|環境省|2003|p=15}}
|-
|-
!阿波島
!阿波島
||-||-||-||-||-||ちび弾 数量不明<br />各種あか筒89,504本||
|colspan="5"| - ||ちび弾 数量不明<br />各種あか筒 89,504本||{{Sfn|環境省|2003|p=15}}
|}
|}
{{hidden end}}


{{hidden begin
{{Vertical_images_list
|toggle=right |title=米軍資料 |titlestyle = background:lightgrey;text-align:center;
|寄せ=
|幅= 200px
|枠幅=
|1=131756 A NOTICE IN ENGLISH AND JAPANESE READING OUT OF BOUNDS TO ALL RANKS, POISON GAS.JPG
|2=BCOF作業中の看板。"D.E.E."とはDISPOSAL ENEMY EQUIPMENT(敵兵器処理)。署名はR.A.スピニー空軍中佐。
|3=131757 THESE TWO OFFICERS DIRECTED OPERATION LEWISITE WHEREBY APPROXIMATELY 22000 TONS OF POISON GAS WILL BE DESTROYED BY BEING SUNK AT SEA, BY BURIAL OR BY BURNING.JPG
|4=右が統括指揮した[[第1騎兵師団 (アメリカ軍)|第1騎兵師団]]化学兵器部隊のW. E. ウィリアムソン陸軍少佐。左がDEEのJ. P. レドモンド空軍少佐。
}}
}}
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;text-align: right;"
終戦直後の毒ガス処理は下記の3者が行っている。処理方法は大きく分けて3種類、埋設/海中投棄/焼却、である{{Sfn|環境省|2003|p=17}}。ほとんどが島内およびその周辺海域で行われた。一部には[[楠瀬常猪]]広島県知事などからの投棄中止要望により、県が引き取ったものも存在する<ref name="chugoku20140610">{{cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=31791|title=米の毒ガス処理 文書確認 敗戦直後の竹原・大久野島 広島大 石田助教 「化学物質 近海投棄か」|publisher=中国新聞|date=2014-06-05|accessdate=2016-07-24}}</ref>。
|+昭和21年(1946年)1月時点の集計([[トン|t]])
# 旧日本軍による隠蔽工作。
|-
# [[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)の日本進駐後、まず{{仮リンク|第41歩兵師団 (アメリカ軍)|en|41st Infantry Division (United States)|label=アメリカ陸軍第41歩兵師団}}が処理<ref name="chugoku20140610" />。
!!!イペリット!!ルイサイト!!青酸!!ジフェニル<br />シアノアルシン!!クロロ<br />アセトフェノン!!兵器類!!備考
# 進駐軍再編を受けて中四国地方を管轄した[[イギリス連邦占領軍]](BCOF)が引き継ぎ<ref name="chugoku20140610" />。
|-
!rowspan="2"|大久野島
||1,200<br />(甲)430<br />(乙)150<br />(丙)620||910||15||1,035||7|| ||{{r|oshietegensan9602}}
|-
|colspan="6" style="text-align: left;"|
* 通常兵器
** 94式水上発煙筒 14,485個
** 94式大発煙筒 3,364個
** Striker Head for Smoke Candle 3,400個
* 原料・薬品類
** 青酸ソーダ 391 t
** ヨウ化カリウム 0.357 t
** チオジグリコール 113 t
** アルコール 4,410 [[ガロン|gal]] = 16.7 k[[リットル|l]]
** ヘキサクロロフィン 60 t
** ベンゼン 3 t
** 酸化亜鉛 10 t
** 粉末状亜鉛 8 t
** セルロイド 140 t
** 亜ヒ酸 106 t
** 塩酸 28 t
** 硝酸 22 t
** トルエン 47 t
** 硫酸 154 t
** アセトン 4 t
** ナフタレン 15 t
** 青酸用シリンダー(空) 6,300個
** ルイサイト用ドラム缶(空) 200個
** イペリット用ドラム缶(空) 1,850個
** 炭酸カルシウム 50 t
** プロピレングリコール 3t
** 二硫化炭素 0.5 t
** ピロ硫化ナトリウム 12 t
** 水酸化ナトリウム 32 t
** ジフェニルアルシン 57 t
||{{r|oshietegensan9602}}
|-
!大三島
||-||-||-||595{{0}}||7||-||{{r|oshietegensan9602}}(詳細不明)
|-
!阿波島
|colspan="5"| - ||
* 99式あか筒 2,919個
* 1式大あか筒 33,166個
* 98式中あか筒 420個
* 100式中あか筒 46,640個
* 98式小あか筒 44,650個
* 100式発射あか筒 3,529,994個
||{{r|oshietegensan9602}}
|-
!rowspan="2"|忠海
|colspan="5"| - ||
* 89式催涙筒 141,630個
* 89式催涙棒 141,072個
* 99式大あか筒 8,339個
* 98式小あか筒 29,953個
* 100式小あか筒 45,814個
* 100式中あか筒 17,460個
* 98式中あか筒 7,210個
* 1式大あか筒 798個
* 擬似イペリット 191,906gal = 726kl
||{{r|oshietegensan9602}}
|-
|colspan="6" style="text-align: left;"|
* 通常兵器
** 94式大発煙筒 6,735個
** 94式水上発煙筒 35,949個
** 94式小発煙筒 207,210個
** 94式代用発煙筒 245,220個
** 97式信号用発煙筒 9,156個
** 97式発煙筒 11,020個
** 99式発射発煙筒 542,389個
** 93式特殊発煙筒 1,670個
** 94式水上発煙筒用ゴム製浮袋 55,000個
||{{r|oshietegensan9602}}
|}
{{hidden end}}


終戦直後の毒ガス処理は下記の3者が行っている。処理方法は大きく分けて3つ、埋設・海中投棄・焼却、である{{Sfn|環境省|2003|p=17}}。ほとんどが島内およびその周辺海域で行われた。
まず旧日本軍による投棄が始まる。証言によると、戦後すぐ周辺海域にボンベ類を投棄したという{{Sfn|環境省|2003|p=192}}。また証言によると、工員たちは命令により島にあった毒ガス製造機械の解体に入り周辺海域に投棄したものの、1週間後には中止命令が出たという{{Sfn|環境省|2003|p=192}}<ref>{{cite web|url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon026.html|title=戦後処理─敗戦の日から、九月一一日までの間にあったこと|publisher=毒ガス島歴史研究所 |accessdate=2016-07-24}}</ref>。


;1. 旧日本軍による隠蔽工作
次に昭和20年(1945年)10月あるいは11月、第41師団は化学処理部隊135人を大久野島に派遣、[[チオジグリコール]]113トン{{Refnest|group=注釈|イペリットの原料である<ref name="chugoku20140610" />。}}や[[シアン化ナトリウム]](青酸ソーダ)など7種とその発射筒を焼却・周辺海域に投棄した{{Sfn|環境省|2003|p=192}}<ref name="chugoku20140610" />。一方でイペリットやルイサイトは、他所の海域への海中投棄が考えられていたがこの時点で瀬戸内海のすべての機雷除去が終わっていなかったため処理は見送られている<ref name="chugoku20140610" />。彼らの作業は昭和21年(1946年)2月まで続いた{{Sfn|環境省|2003|p=192}}。
{{OSM Location map
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}}
軍による投棄が行われていたと言われている。


元工員・村上初一(毒ガス資料館初代館長)によると、昭和20年(1945年)8月15日工員はいつもと変わらず出勤しそこで[[玉音放送]]を聞くことになる{{r|dengon026}}。翌16日も通常勤務するよう指示されたが、ボイコットする工員もいて集まらなかった{{r|dengon026}}。そして解体(隠蔽工作)を指示されることになる{{r|kaihou01-2}}{{r|dengon026}}。旧陸軍側は工員に対して「我々はここで毒ガスをつくっていた。(その時初めて陸軍側は毒ガスという言葉を使ったという)。これは国際上の問題になる。日本は戦争に負けたんだから、どこの国が日本に進駐してくるかわからない。が、こういうことはないとは思うけど、その毒ガス製造について、拘束されるんじゃないといううわさがある。」「危険手当10割つける。」と言ったという{{r|dengon026}}{{r|kaihou01-2}}。村上は進駐軍に拘束される恐怖に畏れたという{{r|kaihou01-2}}。それから1週間後に上から命令が来て、それから工員の証明になるようなものは全て焼いて捨てたという{{r|dengon026}}。機械工だった村上は同年8月18日からちゃ一号工室の新しいサイローム装置を解体し近くの海域に投棄したが、作業が始まって1週間後一切の作業は中止になった{{r|dengon026}}{{Sfn|環境省|2003|p=192}}。その後島に行っていたが何もせずにいて、同年9月11日付でほとんどの工員は解雇となったという{{r|dengon026}}{{r|kaihou01-2}}。進駐軍が来るまで代表者は残っていたという{{r|kaihou01-2}}。
昭和21年5月からBCOFが引き継ぐ<ref name="kaihou1132">{{Cite|和書 |author=帝國人絹忠海作業所| title =大久野島 毒瓦斯製造施設處理ノ記録| publisher =毒ガス島歴史研究所|| pages =| url =http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou11/kaihou1132.html}}</ref>。指揮はアメリカ軍ウィリアムソン少佐、実際の任務はBCOFのDEEセクションが担当し、これに日本民間人が参加した。特に帝国人絹([[帝人]])が入ったのは、この島にあった海水から塩を作る機器{{Refnest|group=注釈|塩はルイサイトの原料の一つ<ref>{{cite web|url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon088.html|title=塩・松根油・海蛍・軍事教練|publisher=毒ガス島歴史研究所 |accessdate=2016-07-24}}</ref>。}}を帝人工場に転用する契約をしていたためであり、[[三原市]]にあった帝人三原工場から人材が派遣され、毒ガス処理の最前線に回った<ref name="kaihou1132" />。まず、忠海兵器補給廠・大三島・阿波島・米光([[周南市]])・切串([[呉市]])・川上([[東広島市]]八本松)・内海([[福山市]])
など、旧日本陸海軍が保管していた周辺にある毒ガスを大久野島に集め、それから処理を始めた{{Sfn|環境省|2003|pp=206-207}}。なおウィリアムソンは任務中ルイサイトに被災したことにより離れたが、イペリット破棄の際にDEEだけでは手に負えないとして回復後再度任務についている<ref name="kaihou1132" />。ほぼ大久野島周辺で行われたが、中には[[高知県]]土佐沖[[太平洋]]まで運ばれ海中投棄されたものもある<ref name="chugoku20140610" />。[[電動機]]などの貴重な機器は賠償として進駐軍が持ち帰っている<ref name="kaihou1132" />。そして最終的には島全体に[[次亜塩素酸カルシウム]](さらし粉)が撒かれ、全作業は昭和22年(1947年)5月末あるいは6月に完了した<ref name="kaihou1132" /><ref name="kaihou0518">{{Cite|和書 |author=服部忠| title =秘録 大久野島の記| publisher =毒ガス島歴史研究所| date =1956| pages =14.毒物処理| url =http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0518.html}}</ref>。


またこれとは別に松島から神殿島の海域にイペリットやルイサイトを投棄した、ボンベを近海に投棄した、という証言もある{{Sfn|環境省|2003|p=192}}{{r|dengon052}}。
以下、2003年時点での環境省が公表する資料における大久野島と阿波島の毒ガス処理状況{{Sfn|環境省|2003|pp=19-20}}を示す。これには旧日本軍とBCOFの処理作業が書かれ第41師団の処理作業は含まれていない。

{| class="wikitable" style="font-size:smaller;text-align: right;"
以下、環境省資料による、旧日本軍廃棄量を示す。
{{hidden begin
|toggle=right |title=環境省資料による旧日本軍廃棄 |titlestyle = background:lightgrey;text-align:center;
}}
: {| class="wikitable" style="font-size:smaller;text-align: right;"
|-
|-
!!!イペリット!!ルイサイト!!青酸!!ジフェニル<br />シアノ<br />アルシン!!クロロ<br />アセト<br />フェノン!!砲・爆弾!!!!廃棄時期!!廃棄方法
!!!イペリット!!ルイサイト!!青酸!!ジフェニル<br />シアノ<br />アルシン!!クロロ<br />アセト<br />フェノン!!砲・爆弾!!!!廃棄時期!!廃棄方法
|-
|-
!rowspan="7"|大久野島
!大久野島
|colspan="5"|ボンベ類、数量不明||-||||終戦時||旧日本軍により<br />大久野島周辺海域に投棄
|colspan="5"|ボンベ類、数量不明||-||||終戦時||大久野島周辺海域に投棄{{Sfn|環境省|2003|p=19}}
|-
|-
!rowspan="2"|阿波島
||-||-||ちび弾<br />数量不明||-||-||-||||rowspan="2"|1945年8月<br />または同年10月||島内焼却{{Sfn|環境省|2003|p=20}}
|-
||-||-||-||-||-||あか筒4個入り<br />木箱×50~60箱||||島内退避壕に埋設{{Sfn|環境省|2003|p=20}}
|}
{{hidden end}}

; 2. [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]日本進駐後{{仮リンク|第41歩兵師団 (アメリカ軍)|en|41st Infantry Division (United States)|label=アメリカ陸軍第41歩兵師団}}が処理
{{OSM Location map
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}}
GHQが日本に進駐、広島には第41師団が駐屯した{{r|chugoku20140605}}。昭和20年11月初め、第41師団司令部化学班が現地調査し、大久野島周辺の旧陸軍貯蔵に加えて川上{{efn2|東広島市八本松には川上に第11海軍航空廠の補給廠(現[[川上弾薬庫]])と、八本松町東4丁目に陸軍兵器補給廠八本松分廠(現在民間工場)があり、双方ともに毒ガスを貯蔵していた{{Sfn|環境省|2003|p=206}}。資料では海軍の川上はあるが陸軍の八本松の記載がない。}}・切串・日之浦の旧海軍貯蔵分を発見した{{r|chugoku20140605}}{{r|oshietegensan9602}}。

それを受けて第58化学戦総合中隊(化学処理部隊135名とも{{Sfn|環境省|2003|p=192}})を現地に派遣し、処理作業が始まった{{r|oshietegensan9602}}。ただこの時点では発煙筒や[[前駆体|前駆物質]]を主に処理し、イペリットやルイサイトなど危険な物質は処理されなかった{{r|chugoku20140605}}{{r|oshietegensan9602}}。これはその時点で瀬戸内海の[[機雷]]掃海が進んでいなかったため、海洋投棄ができなかったと推察されている{{r|chugoku20140605}}。化学物質の中には広島県側の投棄中止要望により県に引き渡されたものもある{{r|chugoku20140605}}。一方で旧海軍貯蔵分のいくつかは海洋投棄が行われている{{r|chugoku20140605}}{{r|oshietegensan9602}}。

同年12月31日付で第41師団は動員解除となり、第58化学戦総合中隊も翌昭和21年(1946年)1月に撤退した{{r|oshietegensan9602}}。あるいは2月までとも{{Sfn|環境省|2003|p=192}}。昭和21年5月時点で、大久野島にあった青酸はすべて県に転用され殺虫剤として用いたとする資料もある{{Sfn|環境省|2003|p=198}}

以下大久野島関連のみで、第41師団司令部化学班が12月26日付でまとめた廃棄量と、第58化学戦総合中隊が11月12日から24日にかけて行った廃棄量を示す。整合性がとれないものがある{{r|oshietegensan9602}}がそのまま記載する。
{{hidden begin
|toggle=right |title=第41師団司令部化学班資料 |titlestyle = background:lightgrey;text-align:center;
}}
: {| class="wikitable" style="font-size:smaller;text-align: right;"
!!!イペリット!!ルイサイト!!青酸!!ジフェニル<br />シアノ<br />アルシン!!クロロ<br />アセト<br />フェノン!!砲・爆弾!!!!廃棄時期!!廃棄方法
|-
!rowspan="5"|大久野島
||-||-||15 t||-||-||||||不明||引渡{{r|oshietegensan9602}}
|-
|colspan="6"|
* ベンゼン 3 t
* アルコール 4,410gal
* ヨウ化カリウム 0.357 t
* 亜ヒ酸 106 t
* 塩酸 28 t
* 硝酸 22 t
* トルエン 47 t
* 硫酸 154 t
* アセトン 4 t
* ナフタレン 15 t
* 炭酸カルシウム 38 t
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* ピロ硫化ナトリウム 12 t
||||不明||引渡{{r|oshietegensan9602}}
|-
|colspan="6"|
* シアン化ナトリウム 391 t
* 酸化亜鉛 10 t
* 粉末状亜鉛 8 t
||||不明||廃棄・引渡{{r|oshietegensan9602}}
|-
|colspan="6"|
* チオジグリコール 113 t
* ヘキサクロロフィン 60 t
* セルロイド 140 t
||||不明||廃棄{{r|oshietegensan9602}}
|-
|colspan="6"|
* 94式水上発煙筒 14,485個
* 94式大発煙筒 3,364個
* Striker Head for Smoke Candle 3,400個
||||不明||廃棄{{r|oshietegensan9602}}
|-
!忠海
|colspan="6"|
* 94式大発煙筒 6,735個
* 94式水上発煙筒 35,949個
* 94式水上発煙筒用ゴム製浮袋 55,000個
* 94式小発煙筒 207,210個
* 94式代用発煙筒 245,220個
* 97式信号用発煙筒 9,156個
* 97式発煙筒 11,020個
* 99式発射発煙筒 542,389個
* 擬似イペリット 191,906 gal
||||不明||廃棄{{r|oshietegensan9602}}
|}
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{{hidden begin
|toggle=right |title=第58化学戦総合中隊処理 |titlestyle = background:lightgrey;text-align:center;
}}
: {| class="wikitable" style="font-size:smaller;text-align: right;"
|+廃棄量([[トン|t]])
!!!イペリット!!ルイサイト!!青酸!!ジフェニル<br />シアノ<br />アルシン!!クロロ<br />アセト<br />フェノン!!砲・爆弾!!!!廃棄時期!!廃棄方法
|-
!rowspan="2"|大久野島
|colspan="6"|
* シアン化ナトリウム 33.4 t
* 六塩化エタン 60 t
* 粉末状亜鉛 7.5 t
* 塩化亜鉛 10 t
* チオジグリコール 84 t
||||1945年11月||廃棄{{r|oshietegensan9602}}
|-
|colspan="6"|
* 94式水上発煙筒(1箱3個入) 14,485個
* 94式大発煙筒(1箱1個入) 3,634個
* 発射発煙筒(大型発煙筒用と推定) 3,400個
* 水上発煙筒用ゴム製浮袋 55,000個
||||1945年11月||廃棄{{r|oshietegensan9602}}
|-
!忠海
|colspan="6"|
* 94式大発煙筒(1箱1個入) 3,506個
* 94式水上発煙筒(1箱3個入) 8,817個
* 三式手榴弾(1箱30個入) 11,790個
* 発煙筒(形式不明) 232,456缶
||||1945年11月||廃棄{{r|oshietegensan9602}}
|}
{{hidden end}}

; 3. 進駐軍再編を受けて中四国地方を管轄した[[イギリス連邦占領軍]](BCOF)が引き継ぎ
昭和21年5月からBCOFが引き継ぐ{{r|kaihou01-2}}。作戦名は“Operation Lewisite”、指揮はアメリカ軍から派遣されたウィリアムソン少佐、任務はBCOFのDISPOSAL ENEMY EQUIPMENT Section(DEE、兵器処理分隊)が担当し、これに日本人約300人{{Sfn|西本|1983|p=249}}が参加した。特に帝国人絹([[帝人]])は、戦後インフレの中で新円を欲していた([[新円切替]])ことと、進駐軍から大久野島にある製塩機器を中心とする設備移転契約を結ぶことに成功したため、戦後処理に参加した{{r|kaihou1132}}{{r|kaihou0518}}。帝人三原製造所が工員を出し、その下請け、忠海周辺での現地募集から参加したものもいる{{r|kaihou06}}{{r|kaihou1021}}。また山中峰次 元陸軍忠海製造所所長など旧関係者も参加している{{r|kaihou1131}}{{r|kaihou0518}}。

機器のいくつかは戦後賠償として進駐軍が持ち帰っている{{r|kaihou1132}}。なお日本政府からの支援はなかった{{r|kaihou1132}}。

<gallery widths="200px" heights="200px">
131756 A NOTICE IN ENGLISH AND JAPANESE READING OUT OF BOUNDS TO ALL RANKS, POISON GAS.JPG|BCOF作業中の看板。
132165 AT THE FORMER TADANOUMI BRANCH, DURING "OPERATION LEWISITE" (TO DESTROY POISONOUS GAS) UNDER THE SUPERVISION OF THE DIRECTOR OF ENGINEERING EQUIPMENT, BCOF..JPG|左から{{efn2|名前・肩書はオーストラリア戦争記念館が公開する写真の説明と帝人資料{{r|kaihou1131}}から。}}<br />米田豊 帝人忠海作業所所長<br />W. E. ウィリアムソン [[第1騎兵師団 (アメリカ軍)|第1騎兵師団]]{{仮リンク|アメリカ陸軍化学隊|en|Chemical Corps|label=化学戦支援部隊}}少佐<br />山中峰次 帝人忠海作業所所長附(旧陸軍忠海製造所第7代所長)
132595 WING COMMANDER D. R. MACLEOD (RAAF) OFFICER-IN-CHARGE, DISPOSAL ENEMY EQUIPMENT SECTION, BCOF, AND STAFF SERGEANT S. WILSON, AMMUNITION EXAMINER.JPG|左から2番目の人物がD. R. マクラウド[[オーストラリア空軍|RAAF]]少佐。ウィリアムソンがルイサイト被毒により現場を離れた際に、代わって一時現場指揮官となり、任務中に中佐に昇格している{{r|kaihou1132}}。
</gallery>

当初は3年を予定していたが工期繰り上げ要請{{r|kaihou1132}}によりほぼ1年で終わっている{{r|kaihou0518}}。作業は昭和21年5月8日から同年11月30日までの第一次作業、同年11月21日から昭和22年(1947年)5月27日までの第二次作業に分かれた{{r|kaihou1131}}。ピーク時は3交代制で島に泊まり込んでの作業となった{{r|kaihou1021}}。
;:第一次作業
{{OSM Location map
|coord = {{coord2|34|15|00|N|132|53|00|E}}
|zoom = 9
|float = right
|width = 400
|height = 250
|nolabels=1
| scalemark = 10
| caption = 山口県の米光は詳細場所が不明であるため省略。
|mark-coord1 = {{coord2|34|18|32.8|N|132|59|36.5|E}}
|label1 =|label-pos1 = top|label-size1 = 10|mark-size1 = 11<!--大久野島-->
|mark-coord2 = {{coord2|34|19|06.0|N|132|56|38.1|E}}
|label2 =|label-pos2 =top|label-size2 = 10|mark-size2 = 8<!--阿波島-->
|mark-coord3 = {{coord2|34|17|10.5|N|133|00|26.4|E}}
|label3 =|label-pos3 =top|label-size3 = 10|mark-size3 = 8<!--大三島-->
|mark-coord4 = {{coord2|34|20|19.6|N|132|59|29.8|E}}
|label4 =|label-pos4 =top|label-size4 = 10|mark-size4 = 8<!--忠海-->

|mark-coord5 = {{coord2|34|16|50.4|N|132|29|21.0|E}}
|label5 =切串|mark5=Blue pog.svg|label-pos5 =right|label-size5 = 10|mark-size5 = 8
|mark-coord6 = {{coord2|34|15|30.6|N|132|45|51.2|E}}
|label6 =日之浦|mark6=Blue pog.svg|label-pos6 =top|label-size6 = 10|mark-size6 = 8
|mark-coord7 = {{coord2|34|27|20.2|N|132|40|58.8|E}}
|label7 =川上|mark7=Blue pog.svg|label-pos7 =bottom|label-size7 = 10|mark-size7 = 8
|mark-coord8 = {{coord2|34|20|25.2|N|133|16|03.0|E}}
|label8 =内海|mark8=Red pog.svg|label-pos8 =bottom|label-size8 = 10|mark-size8 = 8
}}
:1, 忠海兵器補給廠・大三島・阿波島・米光・切串・川上・内海など、旧陸海軍が保管していた毒ガス弾を大久野島に集める{{r|kaihou1131}}{{Sfn|環境省|2003|pp=202}}。
:2. そこから毒ガスを抜き取り、主にきい剤ときい弾(イペリットとルイサイト)を船に積み込んで高知県沖で海洋投棄する{{r|kaihou1131}}{{Sfn|環境省|2003|p=197}}。
:3. あか筒(ジフェニルシアノアルシン)は島内防空壕で埋没処理する{{r|kaihou1131}}{{r|kaihou0518}}。
:4. 発煙筒は島内あるいは近隣海上で焼却処理{{r|kaihou0518}}。

<gallery widths="200px" heights="200px">
131748 DECOMMISSIONED LANDING SHIPS, TANK (LST) 814 (LEFT) AND LST 128.JPG|長浦貯蔵庫の北側の広場前に停泊する[[戦車揚陸艦]]{{仮リンク|LST-814 (戦車揚陸艦)|en|USS LST-814|label=LST-814}}とLST-128。島についたときに中にはトラックが入っていたが帝人三原が持ち帰った{{r|kaihou06}}。船尾の居住区には缶詰があり、当時の作業員は[[憲兵|MP]]の目を盗んで持ち帰っていたという{{r|kaihou1021}}。
131739 JAPANESE LABOURERS ASSEMBLING VACUUM TRANSFER PIPELINE OR SEA-PIPELINE SUPPORTED BY PRIMITIVE BUT EFFECTIVE SCAFFOLDING.jpg|LST-128へ毒液を送るパイプラインの足場を作る日本人作業員。毒物を積むため船の設備・部品を帝人の工員が撤去しそれも持ち帰った{{r|kaihou06}}。
131750 DECOMMISSIONED LANDING SHIP, TANK (LST) 814 LOADED WITH GAS BEING TOWED THROUGH THE BUNGO STRAITS ON ITS LAST VOYAGE, ON ITS WAY TO BEING SCUTTLED..JPG|タグボートに引かれるLST。LST-128・LST-814はこのまま土佐沖まで行き、遠距離から爆沈され自沈処理された{{r|kaihou0518}}{{r|kaihou0518}}。
132149 UNLOADING FROM A MOTOR TRUCK AT SOUTH PIER, THESE 60 KG MUSTARD GAS BOMBS WILL BE TRANSFERRED TO THE SHIP SHINTONMARU.JPG|第一桟橋から民間の4千トン級貨物船「新屯丸」に積まれる投下弾。第2便として海洋投棄された{{r|kaihou0518}}。
132147 FORMER TADANOUMI BRANCH, ARE BEING STOWED BY JAPANESE WORKEN IN THE HOLD OF THE SHIP SHINTONMARU.JPG|海中投棄のため、新屯丸に積まれるドラム缶。
132143 WOODEN LIGHTERS ALONGSIDE THE SHIP SHINTONMARU.JPG|木造の回船とともに出航する新屯丸。山中など旧陸軍関係者も乗っており、航海途中で防毒訓練・説明をしたという{{r|kaihou0518}}。米軍の潜水艦も並走していた{{r|kaihou0518}}。こちらは船自体の自沈処理でなく毒ガス容器のみを海洋投棄している{{r|kaihou0518}}。
131767 CANISTERS INSIDE THESE BOXES ARE FILLED WITH THE DEADLY GAS, DYPHENYLCYNARSINE.JPG|防空壕に埋設されるあか箱(くしゃみ剤)。
132161 MAJOR W. E. WILLIAMSON, CHEMICAL EXPERT, UNITED STATES ARMY, AT A CAVE DURING THE BLEACH SLURRY FLOODING OPERATION.JPG|防空壕をコンクリートで密閉し、海水と[[次亜塩素酸カルシウム]](さらし粉)を注入し[[加水分解]]により腐敗変敗させる処理がとられた{{r|dengon049}}{{r|kaihou0518}}。ウィリアムソンによる記録用の作業風景。
131772 JAPANESE WORKMEN AT DIRECTOR OF ENGINEERING EQUIPMENT, BCOF.JPG|北部海岸に毒液を燃焼させる焼却炉が新たに構築された{{r|kaihou1022}}。
132156 AIR COMPRESSOR STATION FOR PRESSURISING FEED TO BURNING FURNACE DURING THE FINAL PHASES OF "OPERATION LEWISITE", UNDER THE SUPERVISON OF DIRECTOR OF ENGINEERING EQUIPMENT, BCOF.JPG|焼却炉にあったコンプレッサー。毒液に重油を混合し圧縮空気で霧状に吹いて燃焼された{{r|kaihou1022}}。
</gallery>
;:第二次作業
{{OSM Location map
|coord = {{coord2|34|18|32|N|132|59|30|E}}
|zoom = 12
|float = right
|width = 400
|height = 250
|nolabels=1
| scalemark = 180
| caption = 元陸軍技手によると、大久野島南西端を基点として北西から南西に向かう約4kmの海域に海洋投棄したという{{Sfn|環境省|2003|p=200}}。
|mark-coord1 = {{coord2|34|18|32.8|N|132|59|36.5|E}}
|label1 =大久野島|label-pos1 = top|label-size1 = 10|mark-size1 = 0
|mark-coord2 = {{coord2|34|19|06.0|N|132|56|38.1|E}}
|label2 =阿波島|label-pos2 =top|label-size2 = 10|mark-size2 = 0
|mark-coord3 = {{coord2|34|17|10.5|N|133|00|26.4|E}}
|label3 =大三島|label-pos3 =top|label-size3 = 10|mark-size3 = 0
|mark-coord4 = {{coord2|34|20|19.6|N|132|59|29.8|E}}
|label4 =忠海|label-pos4 =top|label-size4 = 10|mark-size4 = 0
|mark-coord5 = {{coord2|34|17|47.2|N|132|58|27.3|E}}
|label5 =松島|label-pos5 =top|label-size5 = 10|mark-size5 = 0
|mark-coord6 = {{coord2|34|16|37.7|N|132|57|46.2|E}}
|label6 =神殿島|label-pos6 =top|label-size6 = 10|mark-size6 = 0
}}
:1. イペリットおよびルイサイト工場あるいは貯蔵庫の天井や窓を開け、建物内に蒸気を吹き込み、屋内に残存する毒ガスを大気中に放出する{{r|kaihou1131}}。濃度が濃くなる排気には次亜塩素酸カルシウム(さらし粉)と[[水酸化ナトリウム]](苛性ソーダ)溶液を通過させる{{r|kaihou1132}}。
:2. 建物内を火炎放射器で焼却{{r|kaihou1131}}。コンクリート地下貯蔵庫は爆破解体後焼却し埋没{{r|kaihou1132}}。
:3. 製造装置の解体・除毒後、島周辺の水深15m以上のところで海洋投棄{{r|kaihou1131}}{{Sfn|環境省|2003|p=197}}。
:4. 工場地域全体を焼却および次亜塩素酸カルシウム(さらし粉)を散布{{r|kaihou1131}}。

<gallery widths="200px" heights="200px">
132153 TRANSFERRING HEAVY OIL FROM A TANK IN A MOTOR TRUCK TO A HOT OIL HEATING SYSTEM, DURING THE FINAL PHASES OF "OPERATION LEWISITE", UNDER THE SUPERVISON OF DIRECTOR OF ENGINEERING EQUIPMENT, BCOF.JPG|長浦貯蔵庫前。トラックに積んであるのが焼却用の重油。
132594 A JAPANESE WORKMAN WEARING A GAS-MASK DIRECTS JETS FROM A MOBILE FLAME-THROWER TOWARDS THE PILE OF GASOLINE-SOAKED DEBRIS INSIDE THE BUILDING AND WITHIN A MATTER OF SECONDS THE INTERIOR OF THE BUILDING WAS A RAGING INFERNO.JPG|建物内に空箱を積み込んで重油を散布し火炎放射器によって建物ごと焼却した{{r|kaihou0518}}。
132591 JAPANESE WORKMEN WEARING GAS-MASKS DIRECTED JETS FROM A MOBILE FLAME-THROWER AND WITHIN A MATTER OF SECONDS THE INTERIOR OF THE BUILDING WAS A RAGING INFERNO.JPG|作業員は日本人でガスマスクをつけている。延焼を防ぐ処置も取られていた{{r|kaihou0518}}。この後に建物を水洗し、米軍用毒ガス検知器で検査され、検査が通るまで水洗いが繰り返された{{r|kaihou0518}}。
132598 MACHINERY AND FITTINGS FROM THE MUSTARD GAS PLANT.JPG|焼却処理された後に解体され海中投棄される前の機器。鉛や銀は回収され、銀は大阪造幣局へ送られた{{r|kaihou1132}}。解体作業中に時勢から盗難事件も起きたという{{r|kaihou0518}}。
</gallery>

旧陸軍製造所と同じように小鳥で毒ガス漏れの管理をしており、ガス漏れが酷いと作業は中止となる事が度々あった{{r|kaihou1021}}。疲れを取るためか大釜に砂糖湯が用意されていた{{r|kaihou06}}{{r|kaihou1022}}。島には(工業用)アルコールがあり水で薄めて飲んでいたという{{r|kaihou1021}}。

戦前の陸軍製造所時代の工員は、毒ガスという単語は使われなかったが影響は動物実験や熟練工の受傷経験などで教えられていた一方で、戦後処理の日本人作業員は、扱っているものは毒ガスであることは知っていたが影響がどの程度のものか理解していなかった{{r|kaihou06}}{{r|kaihou1022}}。防毒服・作業服はBCOFから支給されていたがあくまで近いところで作業する者が用いていただけで、支給されないものもいた{{r|kaihou06}}。普通の服装で素手で作業を行っていたり、中には暑いからと裸で作業するものもいた{{r|kaihou06}}。そのため戦後処理の日本人作業員も被毒している。

昭和21年7月29日、積込作業中のLST-814は台風でアンカーチェーンが切れて陸から離れた{{Sfn|環境省|2003|p=200}}{{r|kaihou06}}{{r|kaihou1021}}。この時点で90%の積込が完了していたとされ{{r|kaihou1021}}、LST-814がそのまま沖に漂流していれば意図しない大事故が発生する可能性があった{{r|kaihou06}}。この時に岸に繋ぐ作業をした人物によると、29日朝から日本語が話せないウィリアムソンは銃を手に持ち「ハバハバハバ」と打つマネをして他の作業員を現場に入らせないようにしていたという{{r|kaihou06}}。その人物は毒物が流出していた海の中をパンツ一丁で飛び込み、アンカーチェーンに細いロープをくくりつけたという{{r|kaihou06}}。それを100人ぐらいで綱引きの要領で陸まで引張り着岸させた{{r|kaihou06}}。この作業で船から流出し海の中や空中に漂う毒ガスに約90人が被毒した{{Sfn|環境省|2003|p=200}}{{r|kaihou06}}。この作業で被毒したもの、あるいは別の作業で被毒したもののうち、1人がのちに死亡している{{Sfn|環境省|2003|p=40}}{{Sfn|環境省|2003|p=200}}。

以下、米軍資料における未処理とされているつまりBCOFが引き継いだと考えられる物量と、2003年時点での環境省が公表する資料における廃棄量と、帝人資料による賠償機械明細を示す。環境省資料にはオーストラリア軍(BCOF)資料を元に作成されている。
{{hidden begin
|toggle=right |title=米軍資料 |titlestyle = background:lightgrey;text-align:center;
}}
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;text-align: right;"
|+昭和21年(1946年)1月時点の集計([[トン|t]])
|-
!!!イペリット!!ルイサイト!!青酸!!ジフェニル<br />シアノアルシン!!クロロ<br />アセトフェノン!!兵器類!!備考
|-
!rowspan="2"|大久野島
||1,200<br />(甲)430<br />(乙)150<br />(丙)620||910||15||1,035||7|| ||{{r|oshietegensan9602}}
|-
|colspan="6" style="text-align: left;"|
* 青酸用シリンダー(空) 6,300個
* ルイサイト用ドラム缶(空) 200個
* イペリット用ドラム缶(空) 1,850個
* 炭酸カルシウム 12 t
* プロピレングリコール 3t
* 水酸化ナトリウム 32 t
* ジフェニルアルシン 57 t
||{{r|oshietegensan9602}}
|-
!大三島
||-||-||-||595{{0}}||7||-||{{r|oshietegensan9602}}(詳細不明)
|-
!阿波島
|colspan="5"| - ||
* 99式あか筒 2,919個
* 1式大あか筒 33,166個
* 98式中あか筒 420個
* 100式中あか筒 46,640個
* 98式小あか筒 44,650個
* 100式発射あか筒 3,529,994個
||{{r|oshietegensan9602}}
|-
!rowspan="2"|忠海
|colspan="5"| - ||
* 89式催涙筒 141,630個
* 89式催涙棒 141,072個
* 99式大あか筒 8,339個
* 98式小あか筒 29,953個
* 100式小あか筒 45,814個
* 100式中あか筒 17,460個
* 98式中あか筒 7,210個
* 1式大あか筒 798個
||{{r|oshietegensan9602}}
|-
|colspan="6" style="text-align: left;"|
* 93式特殊発煙筒 1,670個
||{{r|oshietegensan9602}}
|}
{{hidden end}}
{{hidden begin
|toggle=right |title=環境省資料によるBCOF破棄 |titlestyle = background:lightgrey;text-align:center;
}}
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;text-align: right;"
!!!イペリット!!ルイサイト!!青酸!!ジフェニル<br />シアノ<br />アルシン!!クロロ<br />アセト<br />フェノン!!砲・爆弾!!!!廃棄時期!!廃棄方法
|-
!rowspan="6"|大久野島
||-||-||-||-||-||
||-||-||-||-||-||
くしゃみ剤
くしゃみ剤
273行目: 1,113行目:
* 小 44,650個
* 小 44,650個
* 発射筒 421,980個
* 発射筒 421,980個
||||1946年5月<br />-同年9月18日||BCOFにより<br />島内防空壕に埋設<br />海水・[[次亜塩素酸カルシウム|さらし粉]]注入
||||1946年5月<br />-同年9月18日||島内防空壕に埋設<br />海水・[[次亜塩素酸カルシウム|さらし粉]]注入{{Sfn|環境省|2003|p=20}}
|-
|-
|colspan="4"|56[[トン]](内訳不明)||
|colspan="4"|56 t(内訳不明)||
* 催涙棒 2,820箱
* 催涙棒 2,820箱
* 催涙筒 1,989箱
* 催涙筒 1,989箱
||-||||不明||BCOFにより<br />島内焼却
||-||||不明||島内焼却{{Sfn|環境省|2003|p=20}}
|-
|-
||-||-||-||1,390トン||-||-||||1946年9月<br />-1947年5月||BCOFにより<br />島内埋設
||-||-||-||1,390 t||-||-||||1946年9月<br />-1947年5月||島内埋設{{Sfn|環境省|2003|p=20}}
|-
|-
||19トン||40トン||10トン||-||-||-||||rowspan="2"|1946年11月<br />-1947年5月||BCOFにより<br />除毒・焼却後<br />大久野島周辺海域に投棄
||19 t||40 t||10 t||-||-||-||||rowspan="2"|1946年11月<br />-1947年5月||除毒・焼却後<br />大久野島周辺海投棄{{Sfn|環境省|2003|p=20}}
|-
|-
||-||-||-||-||10トン||-||||BCOFにより<br />海中投棄(場所不明)
||-||-||-||-||10 t||-||||海中投棄(場所不明){{Sfn|環境省|2003|p=20}}
|-
|-
|colspan="2"|
|colspan="2"|
* 毒液 1,854トン
* 毒液 1,854 t
* 毒液缶 930トン<br />/ 7,447缶
* 毒液缶 930 t / 7,447缶
||-||990トン<br />/ 9,901缶||催涙剤 7トン<br />/ 131缶||
||-||990 t / 9,901缶||催涙剤 7 t/ 131缶||
* 60kgガス弾<br />13,272個
* 60kgガス弾 13,272個
* 10kgガス弾<br />3,036個
* 10kgガス弾 3,036個
||||不明||BCOFにより<br />土佐沖に海中投棄
||||1946年7月<br />-同年10月||土佐沖に海中投棄{{Sfn|環境省|2003|p=20}}{{Sfn|環境省|2003|p=192}}{{r|kaihou0518}}
|-
|-
!rowspan="3"|阿波島
!阿波島
||-||-||ちび弾<br />数量不明||-||-||-||||rowspan="2"|19458月<br />同年10月||旧日本軍により<br />島内焼却
||-||-||-||-||-||あか筒<br /> 20個×20箇所ぐらい||||19461月<br />または同年2月||島内砂浜に埋設{{Sfn|環境省|2003|p=20}}
|-
||-||-||-||-||-||あか筒<br />4個入り×50から60箱||||旧日本軍により<br />島内退避壕に埋設
|-
||-||-||-||-||-||あか筒<br /> 20個×20箇所ぐらい||||不明||BCOFにより<br />島内砂浜に埋設
|}
|}
{{hidden end}}
<gallery widths="200px" heights="200px">

131767 CANISTERS INSIDE THESE BOXES ARE FILLED WITH THE DEADLY GAS, DYPHENYLCYNARSINE.JPG|防空壕に埋設されるあか箱(くしゃみ剤)。
{{hidden begin
132161 MAJOR W. E. WILLIAMSON, CHEMICAL EXPERT, UNITED STATES ARMY, AT A CAVE DURING THE BLEACH SLURRY FLOODING OPERATION.JPG|防空壕をコンクリートで密閉し、海水と[[次亜塩素酸カルシウム|さらし粉]]を注入し腐食を促進し無毒化させる処理がとられた<ref>{{cite web|url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon049.html|title=埋設処理|publisher=毒ガス島歴史研究所 |accessdate=2016-07-24}}</ref>。ウィリアムソン少佐による記録用の作業風景。
|toggle=right |title=帝人資料による賠償機械 |titlestyle = background:lightgrey;text-align:center;
131739 JAPANESE LABOURERS ASSEMBLING VACUUM TRANSFER PIPELINE OR SEA-PIPELINE SUPPORTED BY PRIMITIVE BUT EFFECTIVE SCAFFOLDING.jpg|[[戦車揚陸艦]]LST-128へ毒液を送るパイプラインの足場を作る日本人作業員。左の{{仮リンク|LST-814 (戦車揚陸艦)|en|USS LST-814|label=LST-814}}とともに2隻とも毒物が積まれた状態で土佐沖で自沈処理された<ref name="kaihou0518" />。
}}
131748 DECOMMISSIONED LANDING SHIPS, TANK (LST) 814 (LEFT) AND LST 128.JPG|毒液を満載し出港するLST-814(左)とLST-128。この後、LST-814は作業途中で台風により座礁、約90人が毒液を浴びうち1人が死亡している{{Sfn|環境省|2003|pp=40-41}}。
{{Col-float}}
132149 UNLOADING FROM A MOTOR TRUCK AT SOUTH PIER, THESE 60 KG MUSTARD GAS BOMBS WILL BE TRANSFERRED TO THE SHIP SHINTONMARU.JPG|民間の4千トン級貨物船である新屯丸に積まれる60kg弾。第2便として土佐沖で自沈処理される<ref name="kaihou0518" />。
計 387台{{r|kaihou1132}}
132147 FORMER TADANOUMI BRANCH, ARE BEING STOWED BY JAPANESE WORKEN IN THE HOLD OF THE SHIP SHINTONMARU.JPG|海中投棄のため、新屯丸に積まれるドラム缶。
* ボール盤 4
132591 JAPANESE WORKMEN WEARING GAS-MASKS DIRECTED JETS FROM A MOBILE FLAME-THROWER AND WITHIN A MATTER OF SECONDS THE INTERIOR OF THE BUILDING WAS A RAGING INFERNO.JPG|火炎放射器によって建物ごと焼却した。作業員は日本人でガスマスクをつけている。
* 卓上ボール盤 1
132594 A JAPANESE WORKMAN WEARING A GAS-MASK DIRECTS JETS FROM A MOBILE FLAME-THROWER TOWARDS THE PILE OF GASOLINE-SOAKED DEBRIS INSIDE THE BUILDING AND WITHIN A MATTER OF SECONDS THE INTERIOR OF THE BUILDING WAS A RAGING INFERNO.JPG
* 旋盤 7
132598 MACHINERY AND FITTINGS FROM THE MUSTARD GAS PLANT.JPG|焼却処理された後に解体され海中投棄される前の機器。鉛や銀は回収され、銀は大阪造幣局へ送られた<ref name="kaihou1132" />。
* フライス盤 2
</gallery>
* 型削盤 3
* 心立盤 1
* 圧力計検査器 1
* 変電装置 2
* 電動機 111
* 減速機 12
* 微粉機 1
* 混和機 8
* 製氷装置 1
* 圧縮機 10
* 圧空ポンプ 2
* 水圧ポンプ 1
* 送風機 1
* 排風機 5
* 缶締機 7
* 稱潰機 10
* 油分離機 3
* 遠心分離機 2
* 蒸気風温機 1
* 電気浄油機 1
* 電気乾燥機 4
* 分光器 1
{{col-float-break}}
* 渦巻きポンプ 8
* 真空ポンプ 8
* 電気高温機 1
* 電気容量分析器 1
* 油ガス発生器 1
* 電気温度調整器 1
* 変圧器 25
* 静電畜電器 6
* 配電函 21
* 油入函開閉器 90
* (不明)電動ポンプ 1
* ホイスト 3
* 削岩機 1
* 温度計計算機 2
* 蒸溜器 1
* ネジ立盤 1
* 発電機 4
* 橋秤機 1
* フレス 1
* タッピングマシン 1
* 電気炉 1
* (不明)1
* タービンポンプ 1
* 起重機 1
* 電気熔接機 2
* 水圧フレス 1
{{col-float-end}}
{{hidden end}}


=== 残存 ===
=== 残存 ===
:''国外、特に中国での毒ガス被災問題に関しては[[遺棄化学兵器問題]]を、日本国内での問題は[[化学兵器#化学兵器の廃棄処理]]を参照。ここでは特に大久野島を中心とした状況について記す。''
:''国外、特に中国での毒ガス被災問題に関しては[[遺棄化学兵器問題]]を、日本国内での問題は[[化学兵器#化学兵器の廃棄処理]]を参照。ここでは特に大久野島を中心とした状況について記す。''


上記の通り、戦後処理のかなりの数が島内の防空壕や周辺への海中投棄されたことから、現在でも兵器の残骸など発見が続いている。1997年以降、危険物質が確認された場合は[[化学兵器禁止条約]]に基いて処理されている。以下、環境省資料記載分を中心とした戦後大久野島周辺で被災あるいは発見状況を示す。
[[ファイル:Takehara-Seto - panoramio.jpg|250px|right|thumb|北側忠海からみた大久野島(左)。海底送水管は右の鉄塔付近から島に向けて約2.4キロメートルを布設する計画が立てられた。2009年その調査の段階で金属反応が367箇所(普通のゴミも含む)あった。なお1969年海自掃海の対象外区域であった<ref>{{Cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=1076|title=毒ガス弾?放置 海底367ヵ所で金属反応|publisher=中国新聞|date=2009-05-14|accessdate=2016-07-24}}</ref>。]]
{{hidden begin
上記の通り、戦後処理のかなりの数が島内の防空壕や周辺への海中投棄されたことから、現在でも兵器の残骸など発見が続いている。1970年代初頭まで海中から引き上げた漁師が被災しており、中には死者もだしている<ref name="chugoku20140610" />。
|toggle=right |title=毒ガス弾等の発見・被災・掃海等の処理状況 |titlestyle = background:lightgrey;

}}
1969年11月13日から同年12月18日にかけて、海上自衛隊により周辺海域の掃海が行われたがこの時は発見されなかった{{Sfn|環境省|2003|p=21}}。1997年以降、危険物質が確認された場合は[[化学兵器禁止条約]]に基いて処理されている。

近年で特に問題となったのが、1995年3月から1996年5月の環境省による大規模調査で、環境基準を大きく超える[[ヒ素]]による土壌汚染が確認されたことである{{Sfn|環境省|2003|p=41}}{{Sfn|環境省|2003|p=201}}。毒ガスを研究する市民団体はその原因として、防空壕に埋設処理された[[嘔吐剤|くしゃみ剤]]あか筒の化学物質である[[ジフェニルシアノアルシン|ジフェニルシアノアルシン(ジフェニル青化ヒ素)]]が腐食により土壌に流出したもの、あるいは機器の焼却処理の際にヒ素が飛散したものと推定している<ref name="QA2" />。1997年環境省報告書によると土壌から浸透し井戸などに流れた量としては人体に影響を及ぼさないほどの微量であり<ref>{{cite web|url=http://www.env.go.jp/press/press.php?serial=2315|title=大久野島土壌等汚染処理対策(中間報告)について|publisher=環境省|date=1997-12-20|accessdate=2016-08-06}}</ref>、発見された土壌自体も同年11月までに対策工事が完了している{{Sfn|環境省|2003|p=201}}。2009年報道によると、これを受けて行われた県による周辺海域の海中汚染モニタリングではヒ素は検出されておらず海洋生物の異常報告もなかったという<ref name="chugoku20090722" />。

ただしこのことを受けて2004年からいくつかの井戸を完全に閉鎖し、現在宿泊施設である「休暇村大久野島」が利用する水は島外から船で運ばれている<ref name="chugoku20090722" />。そのため環境省は島に上水を送る海底送水管布設を計画したが、2009年その布設地点周辺での調査で海中投棄された兵器が発見されたことにより、見通しがつかないとして事業中止に追い込まれた<ref name="chugoku20090807" /><ref>{{cite web|url=http://www.city.takehara.lg.jp/data/open/cnt/3/2987/1/2103r-0528.pdf|format=PDF|title=平成21年第3回竹原市議会臨時会会議録
|publisher=竹原市議会|date=2009-05-28|accessdate=2016-07-24}}</ref>。

以下、戦後大久野島周辺で被災あるいは発見状況{{Sfn|環境省|2003|pp=40-41}}を示す。
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;"
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
|-
!日時!!状況!!種類!!
!日時!!状況!!種類!!
|-
|1946年秋<br />から1947年||被災||
* イペリット
* 箱に入ったもの<br />(中身未確認)
||
* LST-814による土佐沖での廃棄作業中、台風により座礁。
* 約90人が毒液を浴び、1人が後に死亡。
|-
|-
|1951年4月||被災||不明||
|1951年4月||被災||不明||
* タコ漁の際に海底にあったとみられる毒物に被災。
* タコ漁の際に海底にあったとみられる毒物に被災{{Sfn|環境省|2003|p=40}}
|-
|-
|1955年7月||被災||イペリットらしいもの||
|1955年7月||被災||イペリットらしいもの||
* 島内の池にあった防毒衣などの除去作業中に作業員2人が毒ガス障害。
* 島内の池にあった防毒衣などの除去作業中に作業員2人が毒ガス障害。
* うち1人は後遺症で1956年1月死去。
* うち1人は後遺症で1956年1月死去{{Sfn|環境省|2003|p=40}}
|-
|-
|1955年頃||処理||不明||
|1955年頃||処理||不明||
* 島内で臭気黄土を発見。
* 島内で臭気黄土を発見。
* コンクリート槽へ埋設。
* コンクリート槽へ埋設{{Sfn|環境省|2003|p=40}}
|-
|-
|1955年頃||発見||不明||
|1955年頃||発見||不明||
* 大久野島・小久野島・松島で囲まれた海域で漁師が正体不明のドラム缶を引き上げる。
* 大久野島・小久野島・松島で囲まれた海域で漁師が正体不明のドラム缶を引き上げる。
* 中身を確認せす再投棄。
* 中身を確認せす再投棄{{Sfn|環境省|2003|p=40}}
|-
|-
|1958年5月29日||被災||
|1958年5月29日||被災||
358行目: 1,231行目:
||
||
* 漁師が網にかかったボンベを廃品回収業者に転売、解体作業中に被災。
* 漁師が網にかかったボンベを廃品回収業者に転売、解体作業中に被災。
* 死者1人・中傷9人・軽傷18人。ボンベは民間会社が処理。
* 死者1人・中傷9人・軽傷18人。ボンベは民間会社が処理{{Sfn|環境省|2003|p=40}}
|-
|-
|1961年6月13日<br />から同月15日||発見||
|1961年6月13日<br />から同月15日||発見||
くしゃみ剤
赤筒(くしゃみ剤
* 2.5tトラック×5・6台分
* 2.5tトラック×5・6台分(推定)
||
||
* 国民休暇村になるにあたり県が自衛隊に調査を依頼、防空壕内で発見
* 国民休暇村になるにあたり県が自衛隊に調査を依頼、防空壕内で発見
* 処理方法は不明
* 処理方法は不明{{Sfn|環境省|2003|p=40}}。
|-
|-
|1961年||被災||
|1961年||被災||
371行目: 1,244行目:
||
||
* 新聞報道によると、国民休暇村工事請負業者が工事中に被災
* 新聞報道によると、国民休暇村工事請負業者が工事中に被災
* それ以上の詳細は不明
* それ以上の詳細は不明{{Sfn|環境省|2003|p=40}}。
|-
|-
|1964年7月31日||発見||
|1964年7月31日||発見||
378行目: 1,251行目:
||
||
* 漁船が海中から毒ガスボンベを引き上げ
* 漁船が海中から毒ガスボンベを引き上げ
* 竹原市に陸揚げ
* 竹原市に陸揚げ{{Sfn|環境省|2003|p=40}}。
|-
|-
|1964年8月1日||発見||
|1964年8月1日||発見||
385行目: 1,258行目:
||
||
* 民間人が購入した古鉄の中に毒ガスボンベがあった
* 民間人が購入した古鉄の中に毒ガスボンベがあった
* 陸自が回収、海自が引き継ぎ海中投棄
* 陸自第13師団武器大隊が回収、海自が引き継ぎ海中投棄{{Sfn|環境省|2003|p=40}}。
|-
|-
|1964年8月26日||発見||
|1964年8月26日||発見||
392行目: 1,265行目:
||
||
* 詳細不明
* 詳細不明
* 海自が引き継ぎ海中投棄
* 海自が引き継ぎ海中投棄{{Sfn|環境省|2003|p=40}}。
|-
|-
|1968年5月11日||被災||
|1968年5月11日||被災||
毒物ボンベ
毒物ボンベ
* 1本
* 1本
||1人負傷
||1人負傷{{Sfn|環境省|2003|p=40}}。
|-
|-
|1969年8月26日||発見||
|1969年8月26日||発見||
404行目: 1,277行目:
||
||
* 島内で発見
* 島内で発見
* コンクリート密封の後、海中投棄
* コンクリート密封の後、海中投棄{{Sfn|環境省|2003|p=40}}。
|-
|1969年11月13日<br />から12月18日||掃海||
* 発見なし
||
*海上自衛隊の掃海艇3隻による2回に分けての捜索{{Sfn|環境省|2003|p=40}}。
|-
|-
|1970年1月12日<br />から同月16日||発見||
|1970年1月12日<br />から同月16日||発見||
410行目: 1,288行目:
* 650本
* 650本
||
||
* 島内防空壕で発見
* 島内防空壕で発見{{Sfn|環境省|2003|p=40}}。
|-
|-
|1970年1月13日<br />から同月15日||発見||
|1970年1月13日<br />から同月15日||発見||
419行目: 1,297行目:
||
||
* 厚生省・防衛庁が追跡調査を行い防空壕内で発見
* 厚生省・防衛庁が追跡調査を行い防空壕内で発見
* 上記の物も含め、同年3月いっぱいまで防空壕の閉鎖処理
* 上記の物も含め、同年3月いっぱいまで防空壕の閉鎖処理{{Sfn|環境省|2003|p=40}}。
|-
|-
|1970年511日||被災||
|1970年222日||被災||
毒ガスボンベ
毒ガスボンベ
* 1個
* 1個
||
||
* 小型底曳網にかかったボンベで漁師がノドに炎症。
* 小型底曳網にかかったボンベで漁師がノドに炎症。
* コンクリート詰め後、海中投棄。
* コンクリート詰め後、海中投棄{{Sfn|環境省|2003|p=40}}
|-
|-
|1970年12月22日||被災||
|1970年12月22日||被災||
433行目: 1,311行目:
||
||
* 小型底曳網にかかったボンベで乗務員4人が負傷。
* 小型底曳網にかかったボンベで乗務員4人が負傷。
* 自衛隊がコンクリート詰め後、太平洋で海中投棄。
* 自衛隊がコンクリート詰め後、太平洋で海中投棄{{Sfn|環境省|2003|p=40}}
|-
|-
|1971年2月8日||発見||
|1971年2月8日||発見||
440行目: 1,318行目:
||
||
* 漁師が酸素ボンベ状のものを引き上げる。
* 漁師が酸素ボンベ状のものを引き上げる。
* 竹原市役所が調査、危険性はないとして市役所が保管
* 竹原市役所が調査、危険性はないとして市役所が保管{{Sfn|環境省|2003|p=40}}。
|-
|-
|1971年2月8日||被災||
|1971年2月8日||被災||
447行目: 1,325行目:
||
||
* 小型底曳網にかかったボンベがガス漏れを起こし漁師が軽い中毒症状。
* 小型底曳網にかかったボンベがガス漏れを起こし漁師が軽い中毒症状。
* 運搬中にガスがすべて放散したため、海中投棄。
* 運搬中にガスがすべて放散したため、海中投棄{{Sfn|環境省|2003|p=40}}
|-
|-
|1972年4月18日||被災||
|1972年4月18日||被災||
454行目: 1,332行目:
||
||
* 護岸工事中に作業員が発見。ドラム缶から流出した液体によりかぶれる。
* 護岸工事中に作業員が発見。ドラム缶から流出した液体によりかぶれる。
* 診断および成分検査の結果毒ガスとは断定されず。
* 診断および成分検査の結果毒ガスとは断定されず{{Sfn|環境省|2003|p=40}}
|-
|-
|1977年10月||発見||
|1995年3月<br />から1996年5月
* 空のちび弾容器
||
* 竹原市忠海町の人物が空のちび弾容器を所有。
* 自衛隊が処理、1978年2月海洋投棄{{Sfn|環境省|2003|p=213}}。
|-
|-
|1995年3月<br />から1996年7月
||調査||
||調査||
土壌汚染
土壌汚染
||
||
* 環境省による土壌および地下水調査で最大で環境基準値2200倍のヒ素を検出
* 環境省による土壌および地下水調査で最大で環境基準値2200倍のヒ素を検出
* 1998年から撤去開始、1999年完了
* 1998年から撤去開始、1999年完了{{Sfn|環境省|2003|p=41}}。
|-
|-
|1997年||発見||
|1997年||発見||
468行目: 1,353行目:
||
||
* 市民が島の北部海岸にてあか筒の残骸1本を発見。
* 市民が島の北部海岸にてあか筒の残骸1本を発見。
* 環境省・県・市の詳細調査で34本発見
* 環境省・県・市の詳細調査で34本発見{{Sfn|環境省|2003|p=41}}。
|-
|-
|1997年9月||発見||不明||
|1997年9月||発見||不明||
* 新聞報道によると、金属製の筒1本が発見された
* 新聞報道によると、金属製の筒1本が発見された
* それ以上の詳細は不明
* それ以上の詳細は不明{{Sfn|環境省|2003|p=41}}。
|-
|-
|1999年3月26日||発見||
|1999年3月26日||発見||
479行目: 1,364行目:
||
||
* 島内整備工事中に防空壕内から発見
* 島内整備工事中に防空壕内から発見
* 化学兵器禁止条約に基いて無害化処理
* 化学兵器禁止条約に基いて無害化処理{{Sfn|環境省|2003|p=41}}。
|-
|-
|1999年10月23日||発見||
|1999年10月23日||発見||
485行目: 1,370行目:
* 3本
* 3本
||
||
* 市民が島内で発見
* 市民が島内で発見{{Sfn|環境省|2003|p=41}}。
|-
|-
|2009年1月19日||発見||
|2009年1月19日<ref name="chugoku20090807">{{cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=1631|title=毒ガス兵器?引き揚げ 大久野島沖 23点を分析へ 発見から7ヵ月|publisher=中国新聞|date=2009-08-17|accessdate=2016-07-24}}</ref>||発見||
* 発煙筒 21本
あか筒
* 23
* あか筒 2
||
||
* 環境省による大久野島海底送水管敷設事業の際に北側海域で発見
* 環境省による大久野島海底送水管敷設事業の際に北側海域で発見{{r|env12298}}{{r|chugoku20090807}}
|}
|}
{{hidden end}}

上記のうち、死者が発生した件の詳細を示す。
* 1955年(昭和30年)7月、作業員2人が大久野島の池に沈められた防毒衣などを引上げ作業中に毒ガス障害を起こし、うち1人が後遺症で翌昭和31年1月に死亡{{Sfn|環境省|2003|p=200}}。
* 1958年(昭和33年)5月24日、周辺海域で漁民が青酸ボンベ2本を引上げ、それを廃品回収業者が買い取り1本を解体したところ青酸ガスが発生し死者1人・中傷9人・軽症18人の被害が出た{{Sfn|環境省|2003|p=193}}。

上記の通り、大久野島に国民休暇村が開業する際に調査、あるいは海上自衛隊による周辺海域で掃海が行われている。なお大久野島の東側は1960年代から1990年代にかけて大規模な海砂利採取が行われてきた地点{{r|proce1989.49.1356}}であるが、その際に起きた事例は環境省資料にはない。

{{multiple image
| align = right
| footer =
| image1 =132160 JAPANESE LABOURERS DURING THE BLEACH SLURRY FLOODING OPERATION.JPG
| width1 = 230
| caption1 =戦後BCOFによるあか箱(ジフェニルシアノアルシン)処理の様子。防空壕の中に入れ海水と次亜塩素酸カルシウム(さらし粉)を注入し加水分解により無毒化させる処置がとられた。
| image2 =Omishima Island and Rock near Okunoshima Campsite.jpg
| width2 = 200
| caption2 =第二桟橋南側にある岩。左写真の現場はここであると推察されている{{r|dengon049}}。現在中がどのような状態かは不明。当時よりもコンクリートで覆われていることから対策済であることはわかる。
}}
近年で特に問題となったのが、1995年3月から1996年5月の環境省による大規模調査で、環境基準を大きく超える[[ヒ素]]による汚染が確認されたことである{{Sfn|環境省|2003|p=41}}{{Sfn|環境省|2003|p=201}}。当時生産されていた毒ガスの中でヒ素化合物は、ルイサイト(きい2号)、ジフェニルシアノアルシン(あか)、トリクロロアルシン(しろ)、アダムサイト、になる{{Sfn|花岡|2007|p=132}}{{Sfn|貝瀬|木下|2009|p=46}}。環境省資料では何が原因でヒ素汚染したかは明記していない。市民団体では、戦後直後旧日本軍が隠蔽工作した際の残骸が海底で埋没し土壌汚染した、あるいは戦後進駐軍による処理で機器の焼却処理の際にヒ素が飛散した、戦後BCOFによる処理で防空壕に埋設処理されたあか筒が腐食により流出した{{efn2|2003年[[神栖市]]でヒ素中毒が発生した際、当初は毒ガス兵器あか筒が原因と考えられていたが、現在では産業廃棄物の不法投棄による汚染の可能性が高いとされている{{Sfn|貝瀬|木下|2009|p=49}}。}}ものと推定している{{r|QA2}}。以下は1997年時点で環境省が公表する調査資料を元に記載する。
* 土壌
** 環境基準を超えたヒ素汚染が確認されたのは、北部海岸周辺、北部砲台跡地、西側テニスコート周辺、運動場西護岸側、国民休暇村前広場、元理材置場、南側キャンプ場付近、東・南の護岸付近及び東側周遊道路沿いの一部。うち北部砲台跡地、運動場西護岸側、元理材置場、は大幅に上回っていた{{Sfn|環境省|1997|p=}}。
** 1999年11月まで土壌汚染対策工事が行われ{{Sfn|環境省|2003|p=201}}、現在は立ち入りできる。ただし元理財置場および北部海岸周辺、いわゆる北端の唐人傘周辺は金網フェンスで覆われ立入禁止処置がとられている。
[[ファイル:Takehara-Seto - panoramio.jpg|250px|right|thumb|北側忠海からみた大久野島(左)。海底送水管は右の鉄塔付近から島に向けて約2.4キロメートルを布設する計画が立てられた。2009年その調査の段階で金属反応が367箇所(普通のゴミも含む)あった。なお1969年海自掃海の対象外区域であった{{r|chugoku20090514}}。]]
* 水質
** 水質環境基準・地下水環境基準を超えたヒ素汚染が確認されたのは、島内11カ所の井戸水・8カ所の表流水・湧き水のうち4カ所の井戸。基準を超えた4ヶ所の井戸は、観測時点で全く使用おらず放棄していた状況だった。うち北部砲台跡地内井戸、島南側井戸、は大幅に上回っていた。北部は土壌から流出したと考えられ、南側には井戸内に投棄されたとみられる腐食したあか筒が見つかっておりそれが汚染原因と考えられている{{Sfn|環境省|1997|p=}}。
** 休暇村大久野島では2004年から井戸水の使用を中止し、飲料用水などは給水船で島外から運んでいる{{r|chugoku20090722}}。
* その他
** 土壌からの巻き上げによって砒素が飛散した可能性はない{{Sfn|環境省|1997|p=}}。
** 周辺海域および海洋生物の汚染はみとめられなかった{{Sfn|環境省|1997|p=}}。

こうした状況下で安定して上水を島外から運び入れるため環境省により「大久野島海底送水管敷設事業」が計画されたが、2009年その敷設工事前の調査段階で空のあか筒・発煙筒とされる23本を海底から発見、見通しがつかないとして事業中止に追い込まれた{{r|chugoku20090722}}{{r|ct2103r-0528}}。

=== 障害 ===
:''国外、特に中国での毒ガス被災問題に関しては[[遺棄化学兵器問題]]を参照。ここでは日本国内、特に大久野島を中心とした状況について記す。''

毒ガスの製造工場に従事、あるいは戦後の毒ガス処理に従事したものは障害を負うことになる。その障害者数は、少なくとも約6,800人とされる{{r|kaihou081}}{{r|hokenbunka201110}}。

; 症例
この障害者特有の、ある意味で[[職業病]]とも言える疾患は、[[呼吸器疾患]]である{{r|kaihou081}}。これは毒ガスの飛沫による[[大気汚染]]が主因と断定されている{{r|kaihou081}}{{r|jjrm.32.1076}}。特に顕著なのが慢性[[気管支炎]]{{Sfn|西本|1983|p=249}}{{r|hokenbunka201110}}。その中でも1988年時点の慢性気管支炎患者のうち78.5%が膿状痰を喀出している{{r|hokenbunka201110}}。

:''1952年(昭和27年)から調査を開始し、職種によって、グループA:ぴらん剤(イペリット・ルイサイト)の製造に直接従事した人、グループB:工務・焼却・修理・検査・守衛とぴらん剤製造の近くで作業していた人、グループC:ぴらん剤以外の毒ガス製造に従事した人と医務・事務と毒ガス製造自体に関わっていない人、と3つに分類されている。以下その分類で記載する。''

以下1973年の論文より職種・勤務期間別の慢性気管支炎発症人数{{r|kaihou081}}を示す。
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;text-align:right;"
|+慢性気管支炎発症数(人)
!colspan="2"| !!colspan="2"|勤務期間!!1ヶ月<br />以下!!6ヶ月<br />以下!!1~2年!!3~5年!!6~10年!!11年以上
|-
!rowspan="2"|A
!rowspan="7"|{{縦書き|イペリット・ルイサイト関連}}
!rowspan="2"|製造
!男
|0||14||93||112||57||17
|-
!女
|0||2||11||3||6||-
|-
|colspan="8"|
|-
!rowspan="4"|B
!rowspan="2"|工務・焼却
!男
|0||8||44||74||26||5
|-
!女
|0||1||1||3||-||-
|-
!rowspan="2"|検査・守衛
!男
||2||5||18||19||-||17
|-
!女
||1||2||3||1||8||0
|-
|colspan="9"|
|-
!rowspan="4"|C
!rowspan="2" colspan="2"|その他の<br />ガス製造
!男
||4||12||49||18||5||1
|-
!女
||1||12||42||17||8||0
|-
!rowspan="2" colspan="2"|医務<br />事務
!男
||4||3||18||15||3||2
|-
!女
||0||1||6||6||2||0
|-
|colspan="8"|
|-
!rowspan="2" colspan="3"|計
!男
||10||42||222||238||91||42
|-
!女
||2||18||63||30||24||0
|}

{| class="wikitable" style="font-size:smaller;text-align:right;"
|+ 上記の集計(人・%)
|-
!colspan="2"| !!1ヶ月<br />以下!!6ヶ月<br />以下!!1~2年!!3~5年!!6~10年!!11年以上!!!!計
|-
!rowspan="2"|A
!男
|0({{0}}0.0)||14({{0}}1.8)||93(11.9)||112(14.3)||57({{0}}7.3)||17({{0}}2.2)||||293(37.5)
|-
!女
|0({{0}}0.0)||2({{0}}0.3)||11({{0}}1.4)||3({{0}}0.4)||6({{0}}0.8)||0({{0}}0.0)||||22({{0}}2.8)
|-
!rowspan="2"|B
!男
||2({{0}}0.3)||13({{0}}1.7)||62({{0}}7.9)||93(11.9)||26({{0}}3.3)||22({{0}}2.8)||||218(27.9)
|-
!女
||1({{0}}0.1)||3({{0}}0.4)||4({{0}}0.5)||4({{0}}0.5)||8({{0}}1.0)||0({{0}}0.0)||||20({{0}}2.6)
|-
!rowspan="2"|C
!男
||8({{0}}1.0)||15({{0}}1.9)||67({{0}}8.6)||33({{0}}4.2)||8({{0}}1.0)||3({{0}}0.4)||||134(17.1)
|-
!女
||1({{0}}1.0)||13({{0}}1.7)||48({{0}}6.1)||23({{0}}2.9)||10({{0}}1.3)||0({{0}}0.0)||||95(12.1)
|-
|colspan="10"|
|-
!rowspan="2"|小計
!男
||10({{0}}1.3)||42({{0}}5.4)||222(28.4)||238(30.4)||91(11.6)||42({{0}}5.4)||||645(82.5)
|-
!女
||2({{0}}0.3)||18({{0}}2.3)||63({{0}}8.1)||30({{0}}3.8)||24({{0}}3.1)||0({{0}}0.0)||||137(17.5)
|-
|colspan="10"|
|-
!colspan="2"|合計
||12({{0}}1.5)||60({{0}}7.7)||285(36.4)||268(34.3)||115(14.7)||42({{0}}5.4)||||782(100.0)
|}
イペリット・ルイサイトの現場に近い人ほど慢性気管支炎の発病率が高くなっている{{r|kaihou081}}。また医務・事務など工場地帯にいなかった人でも発病している{{r|kaihou081}}。なお体が蝕まれるため6年以上働いたものはほとんどいなかったとする証言がある{{r|kaihou022}}。

調査当初は[[肺癌]]を含む呼吸器系の癌の発見が多く、肺癌の[[標準化死亡比]]は数倍の高値であった{{Sfn|西本|1983|p=249}}{{Sfn|山木戸|1985|p=1399}}{{Sfn|河野|粟屋|2002|p=1660}}。のちに[[肝癌]]を含む消化器系の癌、[[ボーエン病]]を含む[[皮膚がん]]が発見されている{{Sfn|山木戸|1985|p=1399}}。調査開始時点で生存していた1,632人のうち1981年末までに557人が死亡したが、その死因で分類したもの{{Sfn|西本|1983|p=250}}が以下のものになる。
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;text-align:right;"
|+ 主要死因(人・%)
|-
!!!呼吸器系!!消化器系!!心・血管系!!その他!!!!計!!!!うち悪性腫瘍<br />によるもの
|-
!A
||103(18.5)||71(12.7)||29({{0}}5.2)||39({{0}}7.0)||||232(41.7)||||116
|-
!B
||70(12.6)||56(10.1)||39({{0}}7.0)||50({{0}}9.0)||||212(38.1)||||146
|-
!C
||25({{0}}4.5)||31({{0}}5.6)||26({{0}}4.7)||32({{0}}5.7)||||113(20.3)||||24
|-
!計
|207(37.2)||158(28.4)||94(16.9)||121(21.7)||||557(100.0)||||271
|}
グループA・Bともに呼吸器系疾患による死亡が最も多い{{Sfn|西本|1983|p=250}}。グループCでは他の疾患による死亡が多い{{Sfn|西本|1983|p=250}}。またグループA・Bの呼吸器系の癌による死亡は、当時の一般日本人統計に基づいて算出された期待数に比べて4~5倍の高確率で発生している{{Sfn|西本|1983|p=250}}。一方で消化器系の癌ではあまり差がない{{Sfn|西本|1983|p=250}}。

また調査の結果毒ガス障害者の二世への影響は極めて少ないと推論されている{{r|jjrm.32.1076}}。なお大久野島で勤労奉仕した女学生の中には被爆後の広島に入り救護活動していた、つまり入市被爆した[[被爆者]]もいる{{r|chugoku20020708}}。その一人の2002年インタビュー記事では、被爆に関することは書かれているが毒ガスのことは書かれていない{{r|chugoku20020708}}。


;補償
=== 被災 ===
:''国外、特に中国での毒ガス被災問題に関しては[[遺棄化学兵器問題]]を参照。ここでは日本国内、特に大久野島を中心とした被災について記す。''
{| class="wikitable" style="float:right;font-size:smaller;text-align:right;"
{| class="wikitable" style="float:right;font-size:smaller;text-align:right;"
|+ 1952年の診断名(人・%){{r|kaihou081}}
|+ 1952年までに下された診断名(人)<ref name="kaihou081">{{cite web|author=[[行武正刀]]|url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou08/kaihou081.html|title=「化学兵器の傷害作用」人類は生き残れるか|publisher=毒ガス島歴史研究所 |accessdate=2016-07-24}}</ref>
|-
|-
!rowspan="10"|[[呼吸器疾患|呼吸器<br />疾患]]
!rowspan="10"|[[呼吸器疾患|呼吸器<br />疾患]]
|[[気管支炎]]||108
|[[気管支炎]]||108
|rowspan="10"|93.5%
|rowspan="10"|93.5
|-
|-
|[[結核#肺結核|肺結核]]||23
|[[結核#肺結核|肺結核]]||23
522行目: 1,569行目:
|-
|-
!colspan="2"|[[消化器学|消化器疾患]]
!colspan="2"|[[消化器学|消化器疾患]]
||3||1.8%
||3||1.8
|-
|-
!colspan="2"|[[循環器学|循環器疾患]]
!colspan="2"|[[循環器学|循環器疾患]]
||2||1.2%
||2||1.2
|-
|-
!colspan="2"|[[食道癌]]
!colspan="2"|[[食道癌]]
||1||0.6%
||1||0.6
|-
|-
!colspan="2"|[[肝臓癌]]
!colspan="2"|[[肝臓癌]]
||1||0.6%
||1||0.6
|-
|-
!colspan="2"|その他
!colspan="2"|その他
||4||-
||4||-
|}
|}
[[ファイル:Tadanoumi Branch of Kure Kyosai Hospital 20180429.jpg|250px|right|thumb|現在の[[呉共済病院|呉共済病院忠海分院]]。昭和17年(1942年)陸軍造兵廠忠海製造所従業員・家族診療所として発足した<ref name="tdu-hp">{{cite web|url=http://www.k3.dion.ne.jp/~tdu-hp/index.html|title=病院概要 |publisher=呉共済病院忠海分院 |accessdate=2016-07-24}}</ref>。]]
[[ファイル:Tadanoumi Branch of Kure Kyosai Hospital 20180429.jpg|250px|right|thumb|現在の[[呉共済病院|呉共済病院忠海分院]]。昭和17年(1942年)陸軍造兵廠忠海製造所従業員・家族診療所として発足した{{r|kure-kyosai}}。]]
毒ガスの製造工場に従事、あるいは戦後の毒ガス処理に従事したものは障害を負うことになる。その障害者数は約6,800人と推定されている<ref name="hokenbunka201110">{{Cite web|author=服部登|publisher=広島大学大学院医歯薬学総合研究科分子内科学|url=http://home.hiroshima-u.ac.jp/naika2/pdf/hokenbunka201110.pdf|format=PDF|title=大久野島毒ガス傷害研究会の活動|date=2011-10|accessdate=2016-07-24}}</ref>。


以下戦後の社会保障の歴史を示す。
この障害者特有の疾病は、[[びらん剤]]きい剤の化学物質である[[マスタードガス|イペリット(マスタード)]]と[[ルイサイト]]を原因とする[[呼吸器疾患]]である<ref name="kaihou081" />。これは、当時島内でこの化学物質が空中に大気汚染として漂っており長期間吸ったことで発症したと断定されている<ref name="kaihou081" /><ref name="chugokuk20151016">{{Cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=52394|title=毒ガスの島70年 忘れ得ぬ記憶 <3> 医療現場の模索|publisher=中国新聞|date=2015-10-16|accessdate=2016-07-24}}</ref>。特に顕著なのが、膿状の痰を喀出する慢性[[気管支炎]]<ref name="hokenbunka201110" />。そして[[疫学]]的研究から、イペリット製造に従事したものは[[肺癌]]発症が早期化することがわかっている<ref name="hokenbunka201110" />。毒ガス製作所開所時から関わっていた元工員は、当時イペリットとの接触による外部疾患対策は各自自主的な完全防御を行っていたが<ref>{{Cite|和書 |author=服部忠| title =秘録 大久野島の記| publisher =毒ガス島歴史研究所| date =1956| pages =12.独式イペリットとあか筒| url =http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0516.html}}</ref>、内部疾患は想定しておらず対策を施さなかったためこれら後遺症が残ったと考えている<ref name="kaihou0519">{{Cite|和書 |author=服部忠| title =秘録 大久野島の記| publisher =毒ガス島歴史研究所| date =1956| pages =むすび| url =http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0519.html}}</ref>。一方で[[被爆者]]と大きく異なる点は障害者二世への影響は極めて少ないことで、広島大学の調査で明らかとなった<ref>{{Cite web|url=http://www.geocities.co.jp/WallStreet/3521/okunojima/yukitake.htm|author=行武正刀|title=大久野島での毒ガス被害者の治療にあたって|publisher=「隠されたヒロシマ」の部屋入口|accessdate=2017-08-08}}</ref>。なお大久野島で勤労奉仕していたものの中には、被爆直後の広島に医療活動で入り入市被爆、戦後の移民政策でブラジルに移民した人物もおり<ref name="chugoku20020708">{{Cite web|publisher=中国新聞|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/abom/02abom/zaigai/1southamerica/020708.html|title=見かけ元気 「渡日」順番は後回し 優しい母国 切に望む|date=2002-07-08|accessdate=2018-11-08}}</ref>、つまり二重の被害・毒ガス被災(の可能性がある)人物が海外にもいることになる。
* 1952年(昭和27年、終戦から7年後、毒ガス処理から5年後。大久野島自体は朝鮮戦争に伴い米軍が1956年まで接収{{r|dengon033}}。この年の4月に[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]発行および[[プレスコード]]失効。)
** [[広島医科大学|広島県立医学大学]][[和田直 (医学者)|和田直]]内科(現 広大大学院医歯薬学総合研究科分子内科学)に、元工員の30歳男性が呼吸困難を訴えて入院、約1ヶ月後に死亡。診断により気管分岐部に発生した[[扁平上皮癌]]と診断{{Sfn|西本|1983|p=249}}{{Sfn|河野|粟屋|2002|p=1660}}。
** これを受けて7月8日から8月2日にかけて計5回、県立医大内科・病理および竹原保健所の3者協力のもと、元工員男性205人女性5人計210人の健康診断を行う{{Sfn|西本|1983|p=249}}{{r|hokenbunka201110}}。右上表はその時の診断結果。更に死亡診断書が集められ、その中の数名から喉頭癌や肺癌など呼吸器系の癌が推定された{{Sfn|西本|1983|p=249}}{{Sfn|河野|粟屋|2002|p=1660}}。
** この直後、30歳の肺癌症例{{efn2|当時日本での年間肺癌発症例は500~600例程度{{r|hokenbunka201110}}。}}を診断した{{r|hokenbunka201110}}。
* 1953年(昭和28年) : これを基に「大久野島の所謂毒ガス工場工員間に見られた後遺症の検索第1報臨床的観察」として論文公表{{r|hokenbunka201110}}。
* 1954年(昭和29年) : 国は「ガス障害者のための特別設置要綱」を制定し認定医療制度を開始、国家公務員共済組合連合会忠海病院(現 呉共済病院忠海分院)が元工員のための医療機関に指定される{{Sfn|西本|1983|p=249}}{{r|hokenbunka201110}}。
* 1961年(昭和36年) : 広大医学部第2内科教室(旧 和田内科教室)は、広大病理学教室・広大皮膚科学教室・広大健康管理センター・忠海病院などの協力によって「大久野島毒ガス障害研究会」を設立{{r|hokenbunka201110}}。竹原保健所を拠点にボランティア活動として開始した{{r|hokenbunka201110}}。これと並行して旧従業員名簿を作成し始める{{Sfn|西本|1983|p=249}}{{r|hokenbunka201110}}。
* 1962年(昭和37年) : 広大から[[行武正刀]]が忠海病院に赴任{{r|chugokuk20080221}}
* 1965年(昭和40年) : 国は、旧令共済組合に所属していた旧軍人・軍属に対してのみ死亡者への公傷一時金給付を開始した{{r|hokenbunka201110}}。
* 1966年(昭和41年) : 県は、毒ガス工場従事に関する全県下アンケート調査を実施し名簿作成{{r|hokenbunka201110}}。
* 1969年(昭和44年) : 県は、名簿を基に独自に援護施策を開始した{{r|ph18332}}。
* 1970年(昭和45年) : [[国家公務員共済組合連合会]]は、旧令共済組合に所属していた旧軍人・軍属に対してのみ健康管理手帳を交付し健康手当や医療費給付を開始した{{r|hokenbunka201110}}。
* 1973年(昭和48年) : 県は、重傷者に対して手当を給付した{{r|hokenbunka201110}}。
* 1974年(昭和49年) : 国は、「毒ガス障害者に対する救済措置要綱」を制定、今まで除外されていた一般人の毒ガス障害者に対して[[厚生省]]を通じて健康管理手帳を交付し各種手当給付を開始した{{r|hokenbunka201110}}。これにより障害者全員が社会保障対象となった{{r|hokenbunka201110}}。


現在[[被爆者]]に準じた措置が取られ{{Sfn|西本|1983|p=249}}、旧令共済組合に所属していた旧軍人・軍属は[[財務省]]がそれ以外が[[厚生労働省]]が担当し、これに県が受託される形で厚労省分は事業全般・財務省分は健康診断のみ(事業全体は国家公務員共済組合連合会が担当)を行っている{{r|ph18332}}{{r|ph14268}}。認定を受けると、年1回無料で一般および精密検査が受けられ健康管理手帳、医療費の自己負担分が免除となる医療手帳、が交付され、症状により手当が支給される{{r|chugoku20151015}}{{r|ph18332}}。これとは別に県独自の施策事業がある{{r|ph14268}}。健康管理手帳所有者数は、総数が6,113人(厚労省3,334人・財務省2,779人){{r|ph18332}}。初年度である1974年度が2,965人{{r|hokenbunka201110}}、2010年度は2,753人平均年齢84歳{{r|chugoku20151015}}、2015年度は2,073人平均88歳{{r|chugoku20151015}}。
現在の毒ガス障害者への健康診断や後遺症の研究は[[広島大学]]を中心とする組織「大久野島毒ガス傷害研究会」、指定医療機関としては[[呉共済病院|呉共済病院忠海分院]]などになる。以下戦後の社会保障の歴史を示す。

* 1952年(昭和27年)
地域・従事職種別で障害者団体が10団体結成された{{r|ph18332}}が、高齢化に伴い2017年現在で8団体に減り諸事務も一本化された{{r|chugoku20171004}}。被爆者と違い、いわゆる二世の団体は存在していない{{r|chugoku20160610}}。
** 広島県立医学大学[[和田直 (医学者)|和田直]]内科教室(現 広大大学院医歯薬学総合研究科分子内科学教室)が7月8日から8月2日にかけて計5回、元工員男性205人・女性5人・計210人の健康診断を行う<ref name="hokenbunka201110" />。右表はそれを元に書かれた論文の中にあるデータ。

** この直後、元工員の30歳男性を和田内科教室が診断、[[肺癌]]が発覚した<ref name="hokenbunka201110" />。当時肺癌発症例は少なかった{{Refnest|group=注釈|当時日本での年間発症例は5、600例程度<ref name="hokenbunka201110" />。}}ことから、毒ガスによるものとして考察した<ref name="hokenbunka201110" />。なお、資料によってはこの肺癌発症者がわかったため元工員たちの健康診断を始めたとするものもある<ref name="kaihou081" />。
大久野島毒ガス傷害研究会による集団健診は、ピークが1988年の3,624人が受けていたが、近年は高齢化の影響で決まった日時での受診自体が難しくなっていた{{r|chugoku20161117}}{{r|chugoku20180709}}。2016年研究会は設立当初から続けていた集団健診を停止し個別診断で対応することとなり、その結果2017年は受診者が増えたという{{r|chugoku20161117}}{{r|chugoku20180709}}。
* 1954年(昭和29年) : 国は、「ガス障害者のための特別設置要綱」を制定し認定医療制度を開始、国家公務員共済組合連合会忠海病院(現 呉共済病院忠海分院)が元工員のための医療機関に指定される<ref name="tdu-hp" /><ref name="hokenbunka201110" />。

* 1961年(昭和36年) : 広大医学部第2内科教室(旧 和田内科教室)は、広大病理学教室・広大皮膚科学教室・広大健康管理センター・忠海病院などの協力によって「大久野島毒ガス障害研究会」を設立<ref name="hokenbunka201110" />。竹原保健所を拠点としてボランティアで活動を開始した<ref name="hokenbunka201110" />。
=== 慰霊・伝承 ===
* 1962年(昭和37年) : 広大から[[行武正刀]]が忠海病院に赴任<ref name="chugokuk20080221" />。
* 1963年(昭和38年) : 大久野島国民休暇村(現 休暇村大久野島)が開場<ref name="chugokuk20150423" />
1963年(昭和38年)大久野島国民休暇村(現休暇村大久野島)が開場{{r|chugoku20150423}}、これ以降島に残っていた旧陸軍毒ガス工場群が壊されていったという{{r|new_page_32}}。1969年島内で毒ガス兵器が発見された際には国会で取り上げられたという{{r|new_page_32}}

* 1965年(昭和40年) : 国は、旧令共済組合に所属していた旧軍人・軍属に対してのみ死亡者への公傷一時金給付を開始した<ref name="hokenbunka201110" />。
1983年[[粟屋憲太郎]]による『支那事変ニ於ケル化学戦例証集』など3種類の重要資料が発見され旧日本軍による化学戦の使用実態が明らかになり、それを全国メディアが報道したことで注目を集めることとなった{{r|id42176}}{{r|dengon027}}。そうした中で、慰霊碑の建設、そして毒ガス製造の実態を知ってもらおうと資料館建設に向けて動き出した{{r|dengon027}}。ただ国側は消極的であった{{r|dengon027}}。これは当時国側は毒ガスのことを隠したかったためと言われている{{r|dengon027}}。
* 1966年(昭和41年) : 県は、毒ガス障害者に対しアンケート調査を実施し名簿作成<ref name="hokenbunka201110" />。

* 1970年(昭和45年) : 国家公務員共済組合連合会は、旧令共済組合に所属していた旧軍人・軍属に対してのみ健康管理手帳を交付し健康手当や医療費給付を開始した<ref name="hokenbunka201110" />。
1985年「大久野島毒ガス障害死没者慰霊碑」が建立、毎年10月に慰霊祭が行われている{{r|ph18332}}。1988年資料館が開館した{{r|dengon027}}。1992年[[化学兵器禁止条約]]が起草されると、中国国内の旧日本軍毒ガス兵器の存在が論点となった{{r|id42176}}。この間の資料館の年間入場者数でみると、開館当初は5・6万人台、1995年で約6万5千人のピークに達している{{r|chugoku20151014}}。また平和学習として資料館館長の村上初一が島内ガイド役をしていた{{r|chugoku20151019}}。ただ1990年代後半になると資料館来館者は減少し続け{{r|chugoku20151014}}、更に村上が辞任した1996年以降は島内ガイドは市民団体が依頼があれば答える形となった{{r|chugoku20151019}}。
* 1973年(昭和48年) : 県は、重傷者に対して手当給付開始<ref name="hokenbunka201110" />。

* 1974年(昭和49年) : 国は、「毒ガス障害者に対する救済措置要綱」を制定、今まで除外されていた一般人の毒ガス障害者に対して[[厚生省]]を通じて健康管理手帳を交付し各種手当給付を開始した<ref name="hokenbunka201110" />。これにより障害者全員が社会保障対象となった<ref name="hokenbunka201110" />。
島を管理する環境省としては、「この島の歴史を語るものとして教育の観点からもできるだけ保存すべきであること」{{Sfn|環境省|1997|p=}}と、保存には前向きな姿勢をとっている。2018年[[平成30年7月豪雨]]で島内の火薬庫跡が土石流で損壊した際、環境省は同年8月16日付報道で「修復するか撤去するかまだ白紙」とコメントを残している{{r|chugoku20180816}}。
健康管理手帳所有者のピークは、1987年度の4,772人<ref name="chugokuk20151015" />。2010年度は2,753人平均年齢84歳、2015年度は2,073人平均88歳、と高齢化が進んでいる<ref name="chugokuk20151015" /><ref name="chugokuk20151023">{{Cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=52648|title=毒ガス死没者に誓う不戦 竹原・大久野島で慰霊式|publisher=中国新聞|date=2015-10-23|accessdate=2016-07-24}}</ref>。2016年大久野島毒ガス傷害研究会は高齢化の影響で指定日時場所での受診が難しくなったとして、設立当初から続けていた集団健診を停止し、今後は個別診断で対応することとなった<ref>{{Cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=66495|title=毒ガス 最後の集団健診 大久野島被害 個別対応に移行 竹原|publisher=中国新聞|date=2016-11-17|accessdate=2017-08-08}}</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
;注釈
=== 注釈 ===
{{notelist2|2}}
<references group="注釈" />


;出典
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
{{Reflist|2
|refs=
<!-- ↓資料館関連資料 分割する場合はこの部分だけ双方とも残してください。↓-->
*<ref name="chugoku20150423">{{Cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=43312|title=Peace Seeds ~ヒロシマの10代がまく種 第8号「大久野島の光と影」|publisher=中国新聞|date=2015-04-23|accessdate=2019-08-06}}</ref>
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*<ref name="chugokuk20130430">{{Cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=9558|title=大久野島毒ガス資料館初代館長 村上さんの遺志継承誓う 竹原で偲ぶ会|publisher=中国新聞|date=2013-04-30|accessdate=2019-08-06}}</ref>
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*<ref name="chugoku20090722">{{cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=17581|title=斎藤環境相インタビュー 要旨|publisher=中国新聞|date=2009-07-22|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="chugokuk20080221">{{Cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=17131|title=イラン毒ガス禍 医療支援 ヒロシマの教訓と大久野島の経験もとに現地医師団の研修受け入れ|publisher=中国新聞|date=2008-02-21|accessdate=2019-08-06}}</ref>


*<ref name="kaihou0505">{{Citation|和書 | author=服部忠 | date=1956 | contribution=4.最初の犠牲者 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0505.html |archivedate=2016-11-04 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20161104012117fw_/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0505.htm| title=秘録 大久野島の記 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
==参考文献==
*<ref name="dengon027">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=毒ガス資料館建設の経緯| url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon027.html|archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040515/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon027.html| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
* {{Cite web||publisher=環境省|url=http://www.env.go.jp/chemi/report/h15-02/|format=PDF|title=昭和48年の「旧軍毒ガス弾等の全国調査」フォローアップ調査報告書|date=2003-11-28|accessdate=2016-07-24|ref = {{sfnRef|環境省|2003}}}}
<!-- ↑資料館関連資料 分割する場合はこの部分だけ双方とも残してください。↑-->
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*<ref name="QA2">{{cite web|url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/qa.html#QA2|title=Q&A「大久野島と毒ガス」|publisher=毒ガス島歴史研究所|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161102051942/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/qa.html|archivedate=2016-11-02 |accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="new_page_32">{{cite web|url=http://dokugas.server-shared.com/new_page_32.htm|title=大久野島の概要|publisher=大久野島から平和と環境を考える会|accessdate=2019-08-06}}</ref>

<!-- 服部忠『秘録 大久野島の記』 製造所開所時から関わっている技手研究者 -->
*<ref name="kaihou0501">{{Citation|和書 | author=服部忠 | date=1956 | contribution=まえがき | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0501.htm|archivedate=2016-11-04 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20161104012118fw_/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0501.htm| title=秘録 大久野島の記 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="kaihou0503">{{Citation|和書 | author=服部忠 | date=1956 | contribution=2.鞆の浦 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0503.html |archivedate=2016-11-04 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20161104012117fw_/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0503.htm | title=秘録 大久野島の記 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="kaihou0504">{{Citation|和書 | author=服部忠 | date=1956 | contribution=3.仏式イペリットの試運転 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0504.html |archivedate=2016-11-04 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20161104012118fw_/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0504.htm | title=秘録 大久野島の記 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="kaihou0507">{{Citation|和書 | author=服部忠 | date=1956 | contribution=(1)塩化アセトフェノン | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0507.html|archivedate=2016-11-04 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20161104012116fw_/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0507.html| title=秘録 大久野島の記 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="kaihou0510">{{Citation|和書 | author=服部忠 | date=1956 | contribution=6.ルイサイトと二・二六事件 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0510.html |archivedate=2016-11-12 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20161104012116fw_/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0510.html | title=秘録 大久野島の記 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="kaihou0511">{{Citation|和書 | author=服部忠 | date=1956 | contribution=7.製品の旅 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0511.html |archivedate=2016-11-04 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20161104012118/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0511.html | title=秘録 大久野島の記 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="kaihou0512">{{Citation|和書 | author=服部忠 | date=1956 | contribution=8.仏式イペリット精製作業 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0512.html |archivedate=2016-11-04 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20161104012115fw_/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0512.html| title=秘録 大久野島の記 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="kaihou0513">{{Citation|和書 | author=服部忠 | date=1956 | contribution=9.発煙筒 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0513.html |archivedate=2016-11-12 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20161104012116fw_/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0513.html | title=秘録 大久野島の記 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="kaihou0508">{{Citation|和書 | author=服部忠 | date=1956 | contribution=(2)秩父宮様のご来島 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0508.html |archivedate=2016-11-04 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20161104012118fw_/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0508.html | title=秘録 大久野島の記 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="kaihou0509">{{Citation|和書 | author=服部忠 | date=1956 | contribution=(3) 鹿 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0509.html |archivedate=2016-11-12 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20161104012115fw_/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0509.html | title=秘録 大久野島の記 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="kaihou0514">{{Citation|和書 | author=服部忠 | date=1956 | contribution=10 戦捷祈願 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0514.html |archivedate=2016-11-12 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20161104012115fw_/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0514.html| title=秘録 大久野島の記 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="kaihou0515">{{Citation|和書 | author=服部忠 | date=1956 | contribution=11 闘病 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0515.html |archivedate=2016-11-12 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20161104012117fw_/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0515.html| title=秘録 大久野島の記 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
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*<ref name="kaihou0518">{{Citation|和書 | author=服部忠 | date=1956 | contribution=14.毒物処理 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0518.html |archivedate=2016-11-12 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20161104012115fw_/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0518.html| title=秘録 大久野島の記 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="kaihou0519">{{Citation|和書 | author=服部忠 | date=1956 | contribution=むすび | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0519.html |archivedate=2016-11-12 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20161104012117fw_/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0519.html | title=秘録 大久野島の記 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="kaihou0520">{{Citation|和書 | author=服部忠 | date=1956 | contribution=付表 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0520.html |archivedate=2016-11-12 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20161104012118/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou05/kaihou0520.html | title=秘録 大久野島の記 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>

<!-- 稲葉菊松『秘録 大久野島の実相』 元工員副長・化学工 -->
*<ref name="new_page_42">{{Citation|和書 | author=稲葉菊松| date=1971 | url=http://dokugas.server-shared.com/new_page_42.htm| title=秘録 大久野島の実相 |publisher=大久野島から平和と環境を考える会|accessdate=2019-08-06}}</ref>

<!-- 大川淳三 養成所一期生 -->
*<ref name="kaihou022">{{Citation|和書 | author=大川淳三 | date=1996 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou02/kaihou022.htm|archivedate=2016-11-12 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20161102102225/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou02/kaihou022.htm| title=大久野島の語りをもう少し続けていきたい |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>

<!-- 村上初一 養成所一期生・資料館初代所長 -->
*<ref name="kaihou01-2">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=1995 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou01/kaihou01-2.html|archivedate=2016-11-02 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20161102102216/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou01/kaihou01-2.html| title=演題 「加害者としての日本ーそして広島」 |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>

<!-- 村上初一『伝言 大久野島1927年~1947年』-->
*<ref name="dengon022">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=サイローム─毒ガス製造のはじまり | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon022.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040515/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon022.html | title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
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*<ref name="dengon024">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=A三工室(ルイサイト/ 黄二号)内の陶磁器製タンク | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon024.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040514/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon024.html|title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon025">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=サイローム─毒ガス製造のはじまり | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon025.html|archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040515/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon025.html| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon026">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=戦後処理─敗戦の日から、九月一一日までの間にあったこと| url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon026.html|archivedate=2016-11-02|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040515/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon026.html| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon031">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=旧桟橋・荷揚げ用桟橋 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon031.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040505/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon031.html| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon033">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=MAG2─朝鮮戦争当時の米軍弾薬庫| url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon033.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040506/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon033.html| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon034">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=火力発電場 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon034.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040505/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon034.html| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
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*<ref name="dengon041">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=技能者養成所 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon041.html|archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040530/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon041.html| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon042">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=技能者養成所とは | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon042.html|archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161102102228/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon042.html| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon043">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=南部砲台跡(製品置場) | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon043.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040531/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon043.html| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon044">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=炊事場・営造場・消防詰所 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon044.html|archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040531/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon044.html| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon045">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=表桟橋| url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon045.html|archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040531/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon045.html| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon047">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=幹部防空壕・製図場・所長室 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon047.html|archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040531/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon047.html| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon049">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=戦後処理| url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon049.html|archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040530/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon049.html| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon052">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=謎の海洋投棄| url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon052.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040510/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon052.html| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon053">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=大三島の海岸での毒ガス貯蔵| url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon053.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040510/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon053.html| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon054">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=陸軍省所轄地と逓信省燈台用地 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon054.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040511/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon054.html | title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon055">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=大久野島神社 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon055.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040511/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon055.html | title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon056">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=ウサギやジュウシマツが飼われた動物舎 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon056.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040511/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon056.html | title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon058">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=医務室 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon058.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040511/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon058.html | title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon061">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=赤筒工室・填実作業 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon061.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040501/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon061.html | title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon062">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=A三工室の室内、室外環境 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon062.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040501/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon062.html | title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon064">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=鋳造所| url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon064.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040502/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon064.html| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon067">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=A四工室用毒物タンク | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon067.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040501/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon067.html | title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon068">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=黄色い塩酸ガス| url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon068.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040502/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon068.html| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
<ref name="dengon069">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=検査工室・研究室・薬品庫 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon069.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040501/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon069.html | title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon071">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=A二(イペリット/ 独黄一号)工室・真空蒸留工室 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon071.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040456/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon071.html | title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon074">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=茶一号(青酸)工室 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon074.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040456/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon074.html| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon075">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=中部砲台跡(製品置場) | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon075.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040456/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon075.html | title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon081">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=北部海岸にちらばる瀬戸物のかけら| url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon081.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040451/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon081.html| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon082">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=発射赤筒などの点火試験場| url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon082.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040451/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon082.html | title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon084">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=毒物焼却場| url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon084.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040451/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon084.html | title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon085">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=焼却炉煙道口| url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon085.html|archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040452/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon085.html | title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon087">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=北部砲台跡(毒物タンク) | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon087.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040452/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon087.html | title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon088">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=塩・松根油・海蛍・軍事教練 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon088.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040451/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon088.html| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="dengon089">{{Citation|和書 | author=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=長浦毒ガス貯蔵庫 | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon089.html |archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040452/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/dengon089.html| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>

*<ref name="kaihou1011">{{Cite web |author1=大森英子|author2=山科幸子| date=2005| url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou10/kaihou1011|archivedate=2016-11-02|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161102102214/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou10/kaihou1011.html| title=証言 「大久野島での勤労奉仕作業」 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>

<!-- 大久野島の地図 -->
*<ref name="zu4">{{Citation|和書 |author1=平山柳次郎|author2=田村譽志那| author3=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=図4 大久野島建造物配置図(技能者養成所・事務所周辺)| url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/zu4.pdf|archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040449/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/zu4.pdf|format=PDF| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="zu7">{{Citation|和書 |author1=平山柳次郎|author2=田村譽志那| author3=村上初一 | date=2000-2001 | contribution=図7 大久野島建造物配置図(三軒家工場群周辺)| url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/zu7.pdf|archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040449/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/zu7.pdf|format=PDF| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="zu9">{{Citation|和書 |author1=平山柳次郎|author2=田村譽志那| author3=村上初一| date=2000-2001| contribution=図9 大久野島建造物配置図(長浦工場群周辺) | url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/zu9.pdf|archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040449/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/dengon/zu9.pdf|format=PDF| title=伝言 大久野島1927年~1947年 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="new_page_16">{{cite web|url=http://dokugas.server-shared.com/new_page_16.htm|title=大久野島の遺跡の概説|publisher=大久野島から平和と環境を考える会 |accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="takeharakankou">{{cite web|url=https://www.takeharakankou.jp/pamphlet/6|title=パンフレットダウンロード(大久野島)|publisher=竹原観光ナビ |accessdate=2019-08-06}}</ref>

<!--青酸燻蒸剤-->
*<ref name="innoshima-o">{{cite web|url=https://innoshima-orange.net/index.php?因島柑橘史|title=因島柑橘史|publisher=因島おかの農園 |accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="i-manabi5303">{{cite web|url=http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/38/view/5303|title=二 栽培技術の進歩②|publisher=愛媛県生涯学習センター |accessdate=2019-08-06}}</ref>

<!-- 米軍第41師団関連 -->
*<ref name="chugoku20140605">{{Cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=31791|title=米の毒ガス処理 文書確認 敗戦直後の竹原・大久野島 広島大 石田助教 「化学物質 近海投棄か」|publisher=中国新聞|date=2014-06-05|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="oshietegensan9602">{{Cite web|url=http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_g/9602/|title=広島での毒ガス処理|publisher=おしえて!ゲンさん!|date=2015-08-08|accessdate=2019-08-06}}</ref>

<!--戦後処理 -->
*<ref name="kaihou1131">{{Citation|和書 |author=帝國人絹忠海作業所| date=| contribution=その1| url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou11/kaihou1131.html|archivedate=2016-11-02|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161102102215/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou11/kaihou1131.html| title=大久野島 毒物製造處理の記録 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="kaihou1132">{{Citation|和書 |author=帝國人絹忠海作業所| date=| contribution=その2| url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou11/kaihou1132.html|archivedate=2016-11-02|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040455/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou11/kaihou1132.html| title=大久野島 毒物製造處理の記録 | periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="kaihou06">{{Citation|和書 |author=末国春夫| date=| contribution=| url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou06.html|archivedate=2016-11-02|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161102102219/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou06.html| title=大久野島戦後処理の証言| periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="kaihou1021">{{Citation|和書 |author=七宝茂| date=| contribution=その1| url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou10/kaihou1021.html|archivedate=2016-11-02|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161102102215/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou10/kaihou1021.html| title=戦後の毒ガス処理作業| periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="kaihou1022">{{Citation|和書 |author=七宝茂| date=| contribution=その2| url=http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou10/kaihou1022.html|archivedate=2016-11-03|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161103040456/http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou10/kaihou1022.html| title=戦後の毒ガス処理作業| periodical= |publisher=毒ガス島歴史研究所|accessdate=2019-08-06}}</ref>

<!-- 2009年赤筒発見 -->
*<ref name="env12298">{{Cite web|publisher=環境省|url=http://www.env.go.jp/press/press.php?serial=12298|title=大久野島沖で発見された発煙筒らしき回収物の第2次分析結果について|date=2010-03-19|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="chugoku20090514">{{Cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=1076|title=毒ガス弾?放置 海底367ヵ所で金属反応|publisher=中国新聞|date=2009-05-14|accessdate=2019-08-06}}</ref>
*<ref name="chugoku20090807">{{cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=1631|title=毒ガス兵器?引き揚げ 大久野島沖 23点を分析へ 発見から7ヵ月|publisher=中国新聞|date=2009-08-17|accessdate=2019-08-06}}</ref>
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<!-- 障害者医療福祉 -->
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<!--中国新聞記事 -->
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*<ref name="chugoku20180816">{{cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=85872|title=火薬庫跡 土石流で損壊 大久野島の毒ガス工場関連遺跡|publisher=中国新聞|date=2018-08-16|accessdate=2019-08-06}}</ref>

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== 関連項目 ==
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* [[日本の博物館の一覧]] 
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* [[広島平和記念資料館]]
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* [[呉市海事歴史科学館]]
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* [[イーペル]]
* [[ジョンストン島]]
* [[土呂久砒素公害]]
* [[土呂久砒素公害]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.city.takehara.lg.jp/machitukuri/dokugasusiryokan.html 大久野島毒ガス資料館]
* [http://www.city.takehara.lg.jp/machitukuri/dokugasusiryokan.html 大久野島毒ガス資料館]


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2019年8月28日 (水) 07:32時点における版

大久野島毒ガス資料館
地図
施設情報
専門分野 化学兵器毒ガス)関連
事業主体 竹原市
管理運営 休暇村大久野島
開館 1988年
所在地 729-2311
広島県竹原市忠海町大久野島5491
位置 北緯34度18分21.4秒 東経132度59分38.8秒 / 北緯34.305944度 東経132.994111度 / 34.305944; 132.994111座標: 北緯34度18分21.4秒 東経132度59分38.8秒 / 北緯34.305944度 東経132.994111度 / 34.305944; 132.994111
外部リンク 竹原市大久野島毒ガス資料館
プロジェクト:GLAM
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陶磁器製毒ガス製造器具展示場

大久野島毒ガス資料館(おおくのしまどくガスしりょうかん)は、広島県竹原市大久野島にある戦争兵器として使われた毒ガスに関する博物館である。

概要

この島では1929年(昭和4年)から1944年(昭和19年)[1]あるいは1945年(昭和20年)終戦まで、秘密裏に大日本帝国陸軍によって毒ガスが製造されていた。その歴史を風化させないという地元住民の願いがあり、毒ガス資料館が建設された。

建物自体は竹原市および周辺市町の元工員や動員学徒など毒ガス被害者の数団体で結成された「大久野島毒ガス被害者対策連絡協議会」[2]が建設し、竹原市に寄贈[3]。1988年(昭和63年)4月、竹原市所有・連絡協の運営で開館した[3]。この経緯は、当時島全体は環境庁(現環境省)が所有する国有地であったこと、国側は建設は許可したものの毒ガスのことを公表することに消極的であったことから[3]。初代館長は元工員でのち竹原市役所に勤務した村上初一[3]

2006年から指定管理者制度を導入、2009年から「休暇村大久野島」が管理している[3]。近年連絡協議会は高齢化によって維持活動が困難になりつつあるとして、毒ガスに関する各種資料の保存に関して国の介入を呼びかけている[4]

年間入場者数は、開館当初は5・6万人台、最大は1995年で約6万5千人、そこから90年代後半に減少の一途をたどり、2004年から2008年の間は2万人台、2015年時点ではウサギの島として観光客が増大したことに伴い4万人台にまで回復している[5]

島内には毒ガスを製造していた頃の建物が遺構として残っているが、ほぼ立ち入り禁止であることに注意が必要である。大久野島神社境内にある殉職碑は2人目の死者がでた1937年に建立されたもの[6]、毒ガス障害死没者慰霊碑は1983年に建立されたもので、以降毎年協議会の主催で慰霊式が行われている[1]。詳細は休暇村大久野島が公開するパンフレット『島内MAPのご案内 (PDF) 』を参照。

展示内容

資料は2013年時点で約600点収蔵[3]。展示物は以下のもの。

島にある軍事遺構も含め、戦争における大量破壊兵器による悲惨さを伝えるという意味では広島平和記念資料館原爆ドームなどと同じである[1]。ただしこちらは加害者としての歴史、つまり中国での使用に関する資料も展示している[1]。またイランへの医療支援として、イラン・イラク戦争での毒ガス後遺症治療にあたる医師・看護婦をそのノウハウを持つ広島の医療機関が受けいれたこと[7]が縁で、その関連資料も展示している。

利用情報

  • 開館時間 : 9:00 - 16:30
  • 休館日 : 年末年始
  • 入館料 : 19歳以上 100円、18歳以下 50円、団体割引あり

交通

大久野島#交通参照

歴史

背景

大久野島灯台。陸軍施設群が建てられる前に逓信省によって建てられた。

地図

大久野島の毒ガス製造の位置(日本内)
習志野
習志野
大久野島
大久野島
曽根
曽根
大久野島の毒ガス製造
赤が陸軍における毒ガス編成[8]。青が海軍の毒ガス製造拠点があった相模海軍工廠[9][10]

近代に入り豊田郡の郡役場は大久野島の北側である忠海に置かれた[11]。明治23年(1890年)忠海に呉憲兵分隊が置かれ、大久野島には明治35年(1902年)国土防衛と当時の兵器性能の問題から陸軍の芸予要塞が築かれ、忠海には大正7年(1918年)陸軍電信独立大隊も置かれた[11][12][10]

つまり、忠海は近代に入り郡の政治の中心となり、陸軍としても重要な位置を占めていた[10][11]。当時の地図では芸予要塞秘匿のため忠海一帯から来島海峡まで瀬戸内海を縦断するように赤で塗りつぶされていたという[13]。現在一般的な説として、昭和初期に毒ガス製造所があったため当時陸地測量部が発行した一般向け地図では大久野島一帯は空白地域として扱われた“地図から消された島”と言われている[1][14]が、実際にはそれより前から検閲されていたことになる。一方でこの島の南から東への海域は“三原瀬戸航路”、近代において潮流の影響で来島海峡を航行できない船が通っていた重要な航路であり(大浜埼灯台#沿革参照)、大久野島灯台を目印に多くの船が航行していた[15][16]。灯台付近のみ逓信省所管[15]だが、毒ガス製造所が開所するにあたり島のすべてが陸軍用地となったとする資料がある[1]。また島が軍用地となった際に、灯台付近のみ南側の愛媛県大三島の行政管理下に委任していたとする資料がある[17]

日本軍の毒ガスは第一次世界大戦での他国の頻繁な使用を受けて、まず大正3年(1914年)陸軍技術審査部で研究が始まる[9]。大正14年(1925年)ジュネーブ議定書で化学兵器の戦争利用は禁止されたが、当時の日本はこれに署名はしたが批准はしなかった(のち1970年批准[18])。その中で陸軍唯一の毒ガス製造所が大久野島に設置された理由については、毒ガスを研究する市民団体などで以下のとおり結論づけられている。

  1. 大正12年(1923年)関東大震災を受けて、陸軍は毒ガス関連施設を地方に置きたい考えに至った。そこで、労働力と資材確保がし易く、一方で事故が起きた場合でも被害の拡散が小さいこと、そして中国大陸から近い、ところが選ばれた[10][19]
  2. 大正9年(1920年)第一次世界大戦終結後の戦後恐慌、大正13年(1924年)芸予要塞が廃止されたことを受けて、忠海町は不況対策として陸軍施設を積極的に誘致した。その中で大崎上島出身で立憲政友会代議士の望月圭介[注 1]が誘致に尽力した[10][13][19]

大久野島には昭和2年(1927年)から工場建設が始まり、昭和4年(1929年)陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所が開所し、毒ガス製造を開始する[1][9][11]。 以下、陸軍の毒ガス研究および生産の編成を記載する。

研究 陸軍科学研究所 大正8年(1919年) [9]
製造 陸軍造兵廠忠海製造所 昭和4年(1929年) [9]
教育訓練 陸軍習志野学校 昭和8年(1933年) [9]
充填 陸軍造兵廠曽根製造所 昭和12年(1937年) [9]

なお「陸軍造兵廠忠海製造所」として開所、のち「東京第二陸軍造兵廠忠海兵器製造所」となり、終戦頃には「臣第2963部隊」と部隊名に変っていたという[13]

一般的な説明として、習志野で運用訓練し、大久野島で化学物質が作られ、曽根 (北九州市)まで輸送しそこで兵器として詰め替えられ、大陸(日中戦争)で用いた、としている[1][10][19][22]

生産

以下、当時制式化されていた毒ガスを示す。呼称は陸軍は色で、海軍は○○号特薬と番号で区別しており[9]、ここでは陸軍式を用いる。

名称 種類 化学物質 外観 臭気 推定生産量[注 2]
(t)
備考
最盛期
月生産量
[注 3]
総生産量
[注 4]
ちや
(茶)
血液剤 シアン化水素
(青酸)
微褐色
液体
アーモンド 50 248 [22][24][23]
みどり
(緑)
催涙剤 クロロ
アセトフェノン
微黄色
固体
りんご花 25 28 C号とも
[9][22][24][23][25]
きい
(黄)
びらん剤 マスタード
(イペリット)
褐色
粘液体
ケシ 200
~450
(甲) 915
(乙) 921
(丙) 969
きい一号、A号とも
[23][9][24][22][17]
ルイサイト 微黄色
粘液体
テンジクアオイ 50 1,268 きい二号、A号とも
いわゆる「死の露」
[23][9][24][26][22]
あか
(赤)
嘔吐剤 ジフェニル
シアノアルシン
淡緑色
固体
ニンニク
+アーモンド
50
~80
1,757 [9][22][24][23]
あを
(青)
窒息剤 ホスゲン 干し草 [9][24][27]
しろ
(白)
発煙剤 トリクロロ
アルシン
刺激臭 [24][27]
戦後の毒ガス処理時の様子。茶褐色のドラム缶の周囲に幅3から5cmの黄や赤の線を引き中身を表していた。
戦後の毒ガス処理時の様子。茶褐色のドラム缶の周囲に幅3から5cmの黄や赤の線を引き中身を表していた。
60kg投下弾。投下弾には、きい[24]・あか(ジフェニルシアノアルシン)[28]が詰められた。また砲弾もあり、あか・あを(ホスゲン)・きい(イペリット)が詰められた[28][13]。
60kg投下弾。投下弾には、きい[24]・あか(ジフェニルシアノアルシン)[28]が詰められた。また砲弾もあり、あか・あを(ホスゲン)・きい(イペリット)が詰められた[28][13]

昭和8年(1933年)ごろに大量生産できるようになり[29]、生産のピークは昭和15年(1940年)・昭和16年(1941年)とされ[1][29]、これ以降は戦争が長引くにつれ海上封鎖により海外から物資が届かなくなったため生産が縮小していった[30]

最初に製造が試みられた毒ガスはフランス式イペリット[31][32]。イペリット製法はフランス式とドイツ式があったが、フランス式のほうが製法としては簡単だったが不純物が多く保存の際に定期的にガス抜きをしないとガス爆発したという問題点があった[33]。同じきい剤(びらん剤)でもイペリットとルイサイトで生産量が異なるのは、ルイサイトの方が毒性が強く製造時の危険が少なかったが、製造コストが高く湿気を含む大気中や保管中の安定性が低く、更に実戦での効果がイペリットより劣っていたため、イペリットに生産の重点が置かれていった[26][34]。イペリットの甲乙丙とは、甲がドイツ式・乙がフランス式で、丙はドイツ式イペリットの融点を下げ不凍性を高めた寒冷地用のもの[17][34][35]。あか剤(嘔吐剤)は、国の資料ではジフェニルシアノアルシン(DC)とジフェニルクロロアルシン(DA)の混合[36]、当時の陸軍技手・軍属工員の資料ではDC単独のもの[22][27]として説明している。みどり剤(催涙剤)は、当初製造していた工場が手狭となったため新築移転したがそこでの製造は短期間に終わり、終戦までストック品で需要を満たしていた[37]。嘔吐剤アダムサイトも製造していたが毒性が低かったため制式採用に至らす、製造を止め工場を他の製造に転用している[38][39]

また毒ガス成分以外も生産されている。

青酸燻蒸剤
この島で最初に作られた物質は毒ガスではなく、青酸を用いた殺虫殺鼠剤サイロームである[40]。まずサイローム製造とフランス式イペリット試作から始まり、後にサイローム製造が毒ガスちや剤製造に転用され双方並行して作られていた[40][22][28][32]。陸軍で特許を取っていたという話もある[29]
瀬戸内海の島嶼では近代に入ると柑橘栽培が盛んになったことからヤノネカイガラムシ退治に、また貨物船の倉庫ではネズミ退治に用いられ、造兵廠の印が入ったサイロームはよく効くとして広く流通しており、製造所は利益を得ていた[6][40]。製造所側は、この製造作業で熟練工の離職防止および熟練工養成として、また世間へのイメージアップとして、期待していたという[6]。その反面、取扱を過大に危険視されたことから製造所に使用委託の申し入れが多かったという[6]
  • サイローム - 青酸を珪藻土に付着させ、缶詰して販売した[40]。当時は柑橘の木を天幕で覆いその中で青酸ソーダと硫酸を容器で混ぜて青酸ガスを発生させて貝殻虫を退治するポット法が行われていた[6]。それに対してサイロームは缶を開けて内容物を新聞紙などに広げるだけで青酸ガスが発生するため従来のポット法より容易であった[6]。サイローム法とも[41]
  • カルサイト - 青酸を賦形剤に付着させ錠剤とし、缶詰して販売した[28]。これは青酸が付着した固形状のものを機械で粉々にしながら天幕の中に送り込み青酸ガスを発生させる[42]というカルチット法[41]で用いられた。
筒類
  • 発煙筒 - 陸軍板橋火薬製造所から業務を引き継いで開所当初から製作されていた。第一次上海事変を機に本格的に製造が始まり中国戦線での拡大に伴って需要が続き太平洋戦争以降は更に格段に需要が上がったことから、終戦まで製造中止されることなく作られていた[31][43]。また製造側からすると、他の作業より危険が少ないことから製造所に入ったばかりの工員が作業に慣れるため最初にやる工程として、あるいは毒ガス製造過程で問題が起き一旦作業がストップした際に代わりとして、あるいは毒ガス障害者の休養作業として、発煙筒製造が行われていた[44][31][45]
  • あか筒 - くしゃみ筒。あか(ジフェニルシアノアルシン)を軽石に付着させ点火剤・加熱剤と一緒に筒体に入れたもの[27]。ジフェニルシアノアルシンは安定した化合物で、揮発性は大久野島で作られた毒ガスの中で最も低く、加熱しないと毒性は現れなかった[22][28]
  • みどり筒 - 催涙筒。みどり(クロロアセトフェノン)をセルロイド片に付着させ点火剤と一緒に筒体に入れたもの[27]。あるいは点火剤・小粒薬を入れた筒体に臭化ベンジルを填実したもの[27]
ちび弾
青酸は不安定な液体であるため、当時安定剤として銅を用いていた[46]。これは小さな球形ガラス瓶の中に青酸と銅粉を詰めたもの[22][46]。昭和17年(1942年)10月忠海から小樽を経てアッツ島など北方方面へ、昭和18年(1943年)5月忠海からサイゴン(ホーチミン市)へ送ったとする証言が残っている[46]。工員も投げる練習をしたという[22]
火薬
昭和19年(1944年)、不要となった工場を改造し陸軍宇治製造所から火薬製造作業の一部が移された。火薬は砲弾用に用いられた[13][28]
風船爆弾
太平洋戦争末期、動員学徒が風船爆弾の球体部分を作っており、梱包して発送していた[13][47][48]
玉砕兵器
太平洋戦争末期、硝那薬包という小型爆破薬が作られていた[49]

施設

表桟橋(第一桟橋・下地図白1)の沖、つまり三原瀬戸航路上から北西方向を撮影したもの。ここからは工場らしきものがまったく見えないのがわかる。写真中央の切通を奥に進むと工場が並ぶ三軒屋地区になる。
表桟橋(第一桟橋・下地図白1)の沖、つまり三原瀬戸航路上から北西方向を撮影したもの。ここからは工場らしきものがまったく見えないのがわかる。写真中央の切通を奥に進むと工場が並ぶ三軒屋地区になる。
陶磁器製のタンク。場所によっては化学変化で成分が変わるため金属製が用いられなかった[50]。
陶磁器製のタンク。場所によっては化学変化で成分が変わるため金属製が用いられなかった[50]

昭和2年(1927年)島内に軍事工場が設けられることとなり、農家の立ち退きおよび一般人の立入禁止処置が取られた[13]。ただ昭和金融恐慌の最中にあったことから、この工場建設工事は久野島景気とも言われ喜ばれもした[13]。一応の完成は昭和4年(1929年)春のことで、同年4月1日付で陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所が誕生、開所式は同年5月19日に行われた[13]

まず島の南西部にあたる三軒屋地区で土地造成と施設建設が進んだ[13]。島の東側は斜面が多く[13]、また三原瀬戸航路側でもある。島の南東側に桟橋・事務所・発電所・倉庫などが建設され、海岸に沿ってそれらを繋ぎ工場敷地まで結ぶ幅4mの道路が整備された[13]。そして昭和7年(1932年)三呉線忠海駅が開業し曽根まで貨車輸送する体制が確立したことにより施設の再配置として、更に三軒屋地区が手狭になったことと旧型となった施設の更新として、島の西中部にあたる長浦地区に建設されていった[13][37][46]。それでも手狭となったため、北側の本州(本土)側の忠海にも関連施設が建てられている[13]。中には新規で建て製造をはじめたものの短期間で止めた施設もある[37]。また製造工場群はほぼ西側一帯に配置された反面、東側発電所周辺は毒ガスの気配すら感じなかったという[51]。かつては島内で松茸が採取できたが、昭和10年(1935年)ごろから取れなくなったという[52]

そして軍機保護法に基づき、白地に黒文字で「立入禁止」と書かれた立て看板が島の周囲に建てられていった[37]。島全体は植樹され[53]緑で覆われ[注 5]、建物には迷彩が施された[54]。資材も樹木で隠していた。機密保持のため箝口令が敷かれ憲兵が厳しく監視していた[17][29]。証言によると、大久野島を見るな、あるいは絶対撮影するなと言われ[55]、呉線ではこの島付近になると海側の窓を鎧戸で閉められ見えなくしていたという[17]

島内の建物配置などは、竹原観光ナビ『パンフレットダウンロード(大久野島)』や、「昭和14年「密大日記」第13冊”化学兵器貯蔵設備追加實施に関する件”」 アジア歴史資料センター Ref.C01004702600 や、市民団体毒ガス島歴史研究所が作成した地図『伝言(東京第二陸軍造兵廠忠海製造所)案内図』、市民団体大久野島から平和と環境を考える会が作成した地図『大久野島の遺跡地図』を参照。以下は主に終戦間際ごろの配置になる。
1948年
 北部
  • 1. 島の北端には点火試験場があった。発煙筒や発射式のあか筒などをここで試験した[56]
  • 2. この海岸は唐人傘とも呼ばれ、発煙筒などの試験が行われ、更にルイサイトの原料の一つである塩を作っていた。近代において塩は専売制で基本的には竹原から購入していた[57][17]
  • 4. 芸予要塞北部砲台跡(西側)。毒ガスを貯蔵していた[58]
  • 5. 北部監視所。芸予要塞運営時からあったもので、太平洋戦争末期に高射砲隊が駐屯した[59][60]
  • 6. 芸予要塞北部砲台跡(東側)。毒ガスを貯蔵していた。1996年に土壌のヒ素汚染が発覚し、1999年に洗浄処理が行われた、現在入ることができる[58][60]
 長浦地区
  • 3. 現在テニスコートが並ぶ一体は、製品倉庫・発煙筒工場・みどり一号工室(クロロアセトフェノン工場)・みどり筒工室などがあった[62][17]
  • 4. 長浦桟橋があった。ここから曽根へ向けて運ばれていたという[63]。太平洋戦争末期、空襲の危険性が高まるにつれ、本土側と最短距離になるこの桟橋を通勤用として用いられていた[48]
  • 5. この敷地では、まずアダムサイト、次にあか(ジフェニルシアノアルシン)、最後にきい(イペリット)が生産されていた。最後にできたのがA二工室と呼ばれたドイツ式イペリット製造工場があった。製造所最大の工場だった[38][62][17]
  • 6. 貯蔵タンク台座跡。全部で32個ある[17][60]
 三軒家地区
1946年8月
2018年4月
休暇村大久野島周辺
 発電所周辺
  • 1. 芸予要塞火薬庫跡。筒類製造に用いる火薬が貯蔵されていた。「MAG1」と書かれているがこれはこれは朝鮮戦争時にこの島を接収していたアメリカ軍が弾薬庫として用いていたころの名残[69][60]
  • 2. 海水タンク跡。地下水が豊富でないため海水が様々なところで用いられた[17][60]
 南西側
  • 1. 芸予要塞南部砲台跡。製品倉庫として用いられていた[73]
  • 3. 南部監視所。太平洋戦争末期に高射砲隊が駐屯した。
  • 4. 現在ごみ処理センターがある地はかつて芸予要塞南部砲台があった。のち撤去され技能者養成所が建てられた。ここで3年間専門的な知識を勉強した。戦後竹原市立忠海東小学校の教室として移築したという[74][75][17]
  • 5. キャンプ場管理管理棟から階段を登り奥に進む途中に深さ1mほどの大きめの窪みあるいは溝があるが、これは空襲時の従業員用退避壕として掘られたもの。この規模の穴が島中にある[17]
  • 6. 掲揚台跡[17]
手前斜めが軍隊舎。左手前は車庫で、その左に見切れているのが炊事場[74]。左白い屋根が消防詰所[74]。その向こう側が製品倉庫群[74]
ほぼ同じ位置の現在。
表桟橋(第一桟橋)から西側。
 事務所周辺
  • 2. 現在のキャンプ場管理棟の裏手あたりに炊事場(食堂)があった。大盛りご飯15銭、小盛り10銭、かけうどん10銭のほか、二重焼も売られていた。壁には世界で初めての大規模毒ガス戦があった第二次イーペル会戦の大判の絵が飾られていた[76]
  • 3. 幹部用防空壕。他の防空壕より強固に造られている。軍属が入る場合、敬礼しなければならなかったという。その目の前に製図所があった[77][17]
  • 6. 自動交換器室跡(通信壕跡)。電話の自動交換器が置かれていた防空壕で中は6畳程度。外は迷彩が施され色の入ったコンクリートが用いられ頑丈に作られている[17][60]
 南部
  • 2. 実験やガス漏れ監視に用いるウサギやジュウシマツが飼われていた動物舎があった。医務室の裏手に自転車が配置され、それで各現場にジュウシマツを配っていた[79]
  • 4. 陸軍省所轄地石碑。この南側の大久野島灯台付近は逓信省(現国土交通省外局海上保安庁)所管であり、この石碑は陸軍敷地との境界石にあたる[15]
1947年忠海周辺。中央が忠海駅で、周辺に忠海分廠と呼ばれた発煙筒を作る陸地工場・工員宿舎・官舎・陸地診療所・講堂などが建てられた[13][44]。引込線が引かれ、ここから曽根まで貨車輸送した。海から伸びるのは江戸時代初期に整備された舟入堀。左端が忠海高女、現県立忠海高。
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1947年忠海周辺。中央が忠海駅で、周辺に忠海分廠と呼ばれた発煙筒を作る陸地工場・工員宿舎・官舎・陸地診療所・講堂などが建てられた[13][44]。引込線が引かれ、ここから曽根まで貨車輸送した。海から伸びるのは江戸時代初期に整備された舟入堀。左端が忠海高女、現県立忠海高

拡大途中のことになる昭和8年(1933年)には秩父宮雍仁親王が、昭和9年(1934年)には高松宮宣仁親王が視察のため来島している[37]。太平洋戦争中忠海には、松竹歌劇団星光子一座、斎藤隆夫が指揮する日本合唱団、山田耕筰の楽団、守田勘彌水谷八重子一座と、慰問団が訪れている[44][82]

そして戦中、連合国軍側がこの島の製造所の存在を知っていたかは不明。戦争末期この島には高射砲隊が常駐することになり、昭和20年(1945年)7月の一度だけ上空に偵察機が飛来してきたが、高射砲隊はバレることを恐れて撃たなかったという[59]

周辺では、呉市(呉軍港空襲)、周辺島嶼である因島因島空襲)や契島、あるいは今治市(松山大空襲)や福山市(福山大空襲)が攻撃されており[48]、当時の工員は空襲の恐怖を感じながら作業していたという[13][83]。契島が機銃掃射された日、この島に本土からの通勤船が到着したちょうどそのときに空襲警報が鳴り、円滑に島からの退避行動が取られたという[48]。松山市(あるいは今治)の空襲で発生した火が、大三島の山を真紅に染め、それが大久野島から見えたという[48]

人員

陸軍出身の歴代所長[13]は以下の通り。

  • 初代 : 大島駿
  • 2代 : 生田重勝
  • 3代 : 信氏良吉
  • 4代 : 服部誠吾
  • 5代 : 中橋桂次郎
  • 6代 : 阿部三雄
  • 7代 : 山中峰次

所長と陸軍技手数十人程度から始まり、施設拡張・製造方式再検討を続け拡大していった[13]。初期は昭和恐慌の最中にあった。軍属(工員)には近隣で雇用されたもの、初期には日給の6割が危険手当加給という給料体制に釣られ製造所を建設していた日雇い労働者の中にはそのまま島に残ったものもいる[6][39]。彼らは毒ガス製造どころか工業的製造で仕事に就いたことのないものたちであったことから、1ヶ月に渡り基礎教育が仕込まれている[6]。昭和8年(1933年)入所した工員によると、その年に入所したのは24人でほぼ製造所内に縁故者のある者だった[83]

陸軍の工場であるため工員も階級制であった[17]。勤務時間は1日8時間から10時間[84][85]、中毒予防として例えばイペリット製造現場では1時間働いて2時間別室で休憩[85]、という体制だった。基本的に工員は実績を重ねるごとに基本給昇給、それに危険手当が別途ついて、残業手当・深夜手当[30]・年末賞与[83]、など様々な賞与があった[17]。危険手当の付与は現場職長の裁量に一任され、現場によって6割/4割/2割加給・加給なし、となった[83][30]。ただ賞与が出た際には給料から天引の形で国債(戦時国債)を買わされたという[30]。一方で機密保持のため憲兵によって厳しく監視され、口外や物品の持ち出しは厳しく罰せられた[17][29]。自主退職はほぼ却下され、受傷して働けなくなって退職許可(解雇命令)が下された[30][17][29]。友和会という工員の労働団体が結成されたが昭和10年(1935年)軍から解散命令が下された[83]。元陸軍技手の証言によると、平時には毎年春秋の2回慰安会が行われており、諸経費が支給され額は旅費と清酒1合付きの弁当で尽きる程度であったそうで、太平洋戦争が続く中で自然消滅したという[86]。太平洋戦争末期、工員にも召集が来ていたが、19歳になってもここで働いていれば1年間の入隊延期ができたという[87]

作業員(写真は戦後処理時のもの)。
イペリット用1トン計測タンク(写真は戦後処理時のもの)。

季節・気象条件によっては原料の塩酸や硫酸からガスが発生しむせたという[88][89]。製造施設からヒ素化合物が排水管を通って海に流れていた[90]。生産拡大に伴い、相当数の中毒患者が発生した[43]。どの作業でも身体に害を及ぼさないものはなく[30]、ほとんどの工員にとって毒ガスによる受傷は2度や3度どころではなかった[29]。ゴムの防毒着に長靴・ゴム手袋・防毒面で防護していたが、ズボンと長靴の間・上着と手袋の間とつなぎ目から毒ガスが入り込み汗で湿気やすい脇の下や股間を受傷していた[83]。A二工室(ドイツ式イペリット工場)での夜間作業[注 6]、フランス式イペリット真空蒸溜[注 7]、焼却場での残渣焼却、が中毒症状が重患になる三毒と言われていたという[28]。当時陸軍技手の中で「大久野島で毒物製造に関係しておれば一度は肺炎の洗礼を受けるであろう」と言われており、研究員の確保に苦労していたという[43]。末期に入った勤労奉仕の女学生の証言によると、黒く焼けた鉄の色をした顔、目の縁が黒くなった顔、ガラガラ声、の工員を見たという[45]

製造所稼動時、死亡3件[30](島構内だけで2件[6])あったことが公には分かっている。ただし軍属(工員)ではなく軍直属の技手や、医務解雇などで被毒して退職した後での工員、など公になっていない死者はいる[30][29]

  1. 昭和8年(1933年)サイローム製造過程でゴム管から青酸を缶に注入する作業中に誤ってその飛沫を大量に浴び、そこがガスマスク先の吸収缶近くであったため中和剤を通り抜けて一気に体内に入り、数時間後絶命した。製造所初の犠牲者であり、日本人として初めて毒ガスによって死亡した人物となった[6][83]
  2. フランス式イペリットが量産体制に入り昼夜兼業で長時間製造された。その際にイペリットを原因とする障害者が激増した。その障害を抱えた一人が、トラック荷役中に踏み板で足を滑らせて頭から一塩化硫黄を浴び、死亡した[6]
  3. 曽根へ毒物を運搬する際に馬車も用いられていた。ある時、馬が尻尾にジフェニルシアノアルシンを付けたままその尻尾でハエを払ったことで、近くで作業中の人物が全身に浴びて数カ月後死亡した[17]

昭和12年(1937年)大久野島神社に殉職碑が建立されている[6]。最も危険な毒物になるルイサイト[17]では人命に関わる事故は発生しなかった[26]。発煙筒製造現場では数十人が全治まで3ヶ月から半年を要した火災事故が発生している[44]。元陸軍技手の証言によると、こうした事故が起こると「同じ失敗を再度繰り返すナ」とその都度安全対策がとられたため、年々障害範囲は少なくなっていったという[91]。ただしそれは外傷に対してのみで、内傷特に呼吸器系に関しては想定していなかった[91]。一般工員はそもそも製造していた物自体の知識が不足していたこともあり、危険手当加増目当てで自ら進んで危険な現場に志願したものもいた[30]。また当時は就業不良=悪という考えがあり「身体に異常があればすぐに診療所に行って治療を受けるよう」と厳しく指導され医務室へ行っただけで少々の傷害でも休業処置がとられていた[83][17]。それに対して工員側は、使命感から、あるいは生活がかかっているため、あるいは憲兵が徹底的に調査するため、休業や入院を嫌がって少々の傷害でも作業に従事していた[83]。受傷箇所によっては気軽に申告できない女性工員にとってはさらなる苦痛を味わったという[83]。働けなくなって退職したとしても、軍から召集令状が来ていた[30][83]

昭和12年(1938年)頃から大量生産要員として多数の新入工員を入れたが、未経験者に対して指導工員の絶対数が少ないため、早い段階から受傷し昭和15年(1940年)末ごろから若年工員に離職者が出始めた[83]国家総動員法に基づき昭和15年には旧制高等小学校卒業者を対象とした技能者養成所が島に開校している[92]。戦争が続く中で、工員(軍属)にも応召者が出ていた[83]。そして労働者確保のため徴用工や学徒勤労動員・勤労報国隊が用いられた[13][1]。これらの募集には毒ガスとは言わず「化学を応用した皇軍兵器」と説明した[93]。徴用工は2年間だけだがほぼ危険な現場に行かされたという[30]

製造所末期には完全に軍隊化していた[48]。硝酸・硫酸・塩酸などが主成分が海上封鎖により海外から入ってこなくなったため、製造自体は縮小していった[30]。そして筒類製造に主力が注がれた[13]。新しい防護用具も不足し、交換しないまま古い防護用具を着続けたため、受傷者は増加していた[83]。不要となっていたあか一号工室や遊休工場は火薬工場に転用された[13][30]。忠海製造所での製造自体が縮小していたため、技術を持った工員は荒尾・板橋・宇治・岩鼻・坂市と他の陸軍の火薬製造所増設工事へ応援出張した[30]

防空壕跡(上地図赤4の南側)。長いものでは100mほどあり、中でつながっているという[60]

日本本土空襲が本格化すると島内の作業を地下化することとなり、工員のほとんどが防弾壁の構築と防空壕掘りに従事した[13][48]。昭和20年(1945年)2月に完了し、物資の疎開および作業の地下移転が行われた[48]。勤労奉仕の女学生・中学生は風船爆弾の気球部分の製造を担った[1][48][94]。毒ガス製造は昭和19年までで昭和20年にはそれを止め風船爆弾製造作業をしていたとする資料があるが[1]、こういった背景にある。彼女たちはその他にも、草取り、焼却場へのごみ運び、発煙筒をつくる作業など様々であったという[45]。疎開作業にも従事しており、制服にハチマキ・麦わら帽子姿で作業服は着ずゴム手袋だけで毒ガス製品を触っており、後遺症を抱えてしまうことになる[72][94][45]

広島市への原子爆弾投下の際には、ここから軍医以下12人からなる救護班を編成し8月7日広島入りし日赤病院福屋とも)で救護にあたった[48][95](入市被爆したことになる)。この12人の中には勤労奉仕の女学生もいた[96]

結局島内で作業に従事したのは、ピーク時で約3,000人[29]とも約5,000人[97]、のべ人数で約6,500人[1]とも約6,700人[29]と言われている。

以下参考例として、昭和8年つまり開所4年目に入所しのち化学工となった人物の沿革を示す。体が蝕まれるため6年以上働いたものはほとんどいなかったという[30]。なお例に出した化学工の人物は終戦までに3度退職願を出したがすべて却下されている[83]。ちなみに化学工は現場がよく変わり、毒ガス製造に直接関わったことから日給が最も高かった[98]

昭和8年入所化学工
  • 昭和8年度
    • 4月 : 入所。誓約書に捺印「入所後は上司の命令に服従し勤務に精励、製造所内の模様は絶対に他言しません」と誓わされる。日給1円10銭。各自に白い作業着が支給され、まず普通兵器(発煙筒)の検缶作業から始める。次いでテルミット充填、発煙剤充填、導火索の加工などの発煙筒製造作業[83]
    • 5月 : 甲みどり筒の仕上げおよび填実作業[83]
    • 8月 : 演習用筒類(現示筒、甲・乙・丙みどり筒および代用あか筒等)の填実作業の習得[83]
    • 10月 : 毒ガスの実態を教育認識させるための見本(毒煙筒、試臭器)の填実作業[83]
    • 11月 : A三工室(ルイサイト工場)竣工にあたり同工室所属[83]
    • 12月 : 昇給、日給1円12銭[83]
    • 1月 : 発煙筒製造作業[83]
    • 2月 : A一工室(イペリット工場)での試運転に1週間従事、その後1ヶ月余り休業作業として発煙筒製造作業[83]
    • 3月 : A一工室できい一号乙の真空蒸留試験に参加、容器洗い作業中に初受傷し自宅休業。曰く「一番先に目と咽喉を浸され一時眼が開かなくなり声も出なくなり一日後には上半身に小さい水泡がいっぱい出来て身体は茶褐色となり入浴も出来ず、すれると皮膚がむげるので静かにして寝て居るより外なく一週間位い経た後に皮がぽりぽりむげ出して来ると追い追いと楽になって来ました。」[83]
  • 昭和9年度
    • 4月 : 普通工に昇格。日給1円26銭[83]
    • 4月29日 : 昭和六年乃至九年事変(満洲事変・第一次上海事変)における勤労に対し金15円賜う[83]
    • 5月 : A四工室(イペリット工場)全装置完成、試運転から製造に。不慣れなことと暑さで傷害者が続出し一時中止し秋から再開することになった[83]
    • 6月 : 昇給、日給1円29銭[83]
    • 9月 : きい二号大量生産命令によりA三工室製造準備。10月から1ヶ月間作業。全従業員の2/3以上が傷害患者となった[83]
    • 12月 : A四工室の手入れ[83]
    • 1月 : 配置換え。それまでは工員がいなかったため1つの工場に全員集まって作業していたが、このときから専属化が始まった。あか一号製造班長、A三付属工室アセチレンガス製造班長、A四工室塩素導入(応援)班長を命じられる[83]
  • 昭和10年度
    • あか一号製造班長としてあか及びあか筒製造作業、あか弾・きい弾製造作業の応援班長として勤務した[83]
    • 6月 : 昇給、日給1円37銭[83]
    • 12月 : 昇給、日給1円41銭[83]
    • 1月 : きい二号製造が始まり付属アセチレンガス製造工室で後任班長を育成、以降あか製造の方に専任した[83]
  • 昭和11年度
    • 6月 ; 昇給、日給1円45銭[83]
    • 10月 : きい一号大量生産命令により、A四工室塩素導入(応援)班長として兼務[83]
  • 昭和12年度
    • 4月 : あか一号製造専属職長を命じられる。昼夜2班体制であか大量生産に着手[83]
    • 7月 : 支那事変(日中戦争)勃発に伴い製造所拡大化が始まる。その時点で毒ガス兵器は備蓄もあり対応できたが、普通兵器(発煙筒)は大量生産しなければ対応できなかった。一時的に発煙筒製造職長を命じられる[83]
  • 昭和13年度
    • 4月 : 出張命令。技手1人工員3人で陸軍岩鼻火薬工場へ10日間、薬包製造要領修得。帰ってからは薬包製造指導教育に従事し、翌年3月まで続いた[83]
    • 7月 : 発煙筒大量生産命令により、一時的に発煙筒製造職長を命じられる[83]
  • 昭和14年度
    • 4月 : 工員副長事務取扱を命じられる。工員詰所に入り全工員の勤務割事務を担当した[83]
    • 9月 : 第二次世界大戦勃発。
  • 昭和15年度
    • 4月 : 工員副長を命じられる。現場替願が通り、A二工室(イペリット工場)職長を命じられ、終戦まで[83]
    • 4月29日 : 支那事変に於ける功に依り金60円賜う[83]
  • 昭和16年度
    • 4月 : 進級制度改革により、化学工に昇格を命じられる[83]
    • 12月 : 太平洋戦争勃発。
  • 昭和19年度
    • 5月 : 激務により急性肺炎を発症し自宅で倒れる。自宅近くにいた嘱託医が救命処置を行い、大久野島の医務室まで船で運ばれ1ヶ月間入院し復帰[83]
    • 9月 : 功労賞的な意味合いで特別賞与61円30銭[83]
    • この年は12月分給与280円・年末賞与358円・特別賞与で工場工員としては最高額給与だった[83]

同様に参考として技能者養成所の概要を示す。

技能者養成所概要
入所時、「今日から20年間は、自分の理由で辞めるようなことはしません」「軍規保護法を絶対に守ります」「大久野島でおきる一切のことは家庭に帰っても話しません」などの内容が書かれた誓約書を書く[30][29]
就学期間は昭和15年度1期生が3年制、昭和16年度2期生が2年制、昭和17年度以降から終戦まで1年制[92]。給料が出た[29](金額不明)。
幹部工員を養成する見習工員科と一般工員を養成する養成工員科があり、当初は全員養成工として入所し1学期あるいは2年目頭に行われた試験の成績で分かれる形であった[92][30]。更に見習工は技能試験・適正検査により、化学科・電気科・機械科の専攻に分かれた[30][92]。基本的に養成工は午前教育・午後実習、見習工は午前・午後ともに教育であった[92][30]。養成工のほうが早くから仕事に慣れることになるが、給料は見習工のほうが良かった[30]。(ちなみに卒業後現場に配属された時点で、見習工出身者は職長待遇で日給2円、養成工出身者は伍長待遇で日給1円80銭[30]。)
本土側忠海分廠に宿舎があったが徴用工が用いていたため通いであった[30]
以下、昭和16年5月の時間割[92]を示す。
日付
曜日
養成工員科(一般養成) 見習工員科(幹部養成)

表の略字は以下の通り。

  • 前段 : 8時から10時
  • 後段 : 10時から12時
  • 地歴 : 国史または地理
  • 精 : 精神教育
  • 法規 : 陸軍諸法規
  • 教練 : 学校教練
  • 救急 : 救急学
  • 兵器 : 兵器学
  • 製化 : 製造化学
  • 材料 : 材料学
  • 電気 : 電気工学
  • 機械 : 機械工学
  • 分析 : 分析化学
  • 化兵 : 化学兵器学
  • 専工 : 専門工作
  • 工管 : 工場管理
1年 2年 1年 2年
午前
前段
午前
後段
午後 午前
前段
午前
後段
午後 午前
前段
午前
後段
午後 午前
前段
午前
後段
午後
1 代数 教練 兵器 分析 英語 分析 材料 法規
2 地歴 国語 電気 国語 兵器 英語 兵器 教練
3 物理 地歴 力学 地歴 製化 機械 専工 工管
4 休み
5 化・精 精・材 分析 体操 精・代 分析 体操 精・歴 体操
6 英語 地歴 救急 代数 機械 救急 兵器 製化 救急 兵器
7 物理 教練 幾何 国語 材料 国語 力学 英語
8 化学 英語 武道 材料 武道
9 地歴 製化 化兵 図学 幾何 化兵 英語 化兵 図学
10 法規 地歴 武道 地歴 製化 専工
11 休み
12 化・精 精・材 代・精 機械 精・歴
13 英語 製化 分析 力学 兵器 分析 兵器
14 物理 教練 材料 幾何 電気 力学 英語
15 化学 電気 化兵 図学 英語 化兵 材料 化兵 図学
16 地歴 国語 分析 国語 製化 分析 英語
17 代数 武道 幾何 材料 分析
18 休み
19 大久野島神社祭(製造所創立記念日)
20 法規 兵器 化兵 教練 材料 化兵 教練 分析 化兵 教練
21 幾何 武道 代数 電気 英語 国史
22 化学 教練 機械 英語 力学 武道 製化 武道
23 代数 地歴 図学 分析 地歴 図学 分析 英語
24 物理 電気 化兵 製化 化兵 機械 材料 化兵
25 休み
26 化・精 教練 精神 精・電 製化 精・法
27 代数 力学 分析 幾何 分析 製化
28 地歴 電気 材料 兵器 力学 英語 兵器
29 武道 材料 英語 機・電 分析
30 代数 幾何 体操 製化 電気 体操 英語 体操
31 化学 電気 化兵 教練 材料 化兵 教練 工管 化兵 教練
前段と後段の間に5分休憩、昼休憩1時間、午後は3時まで。空欄は実習時間。その後精神教育をした後に5時退所となる[92]。なお日曜休みは1期生・2期生のみで、昭和17年度入所3期生からは休みはなくなる[92]
教官は、普通教科の英語・代数・幾何は近くの旧制中学校教諭、他は忠海製造所の所員が務めた[92]
この中で「化学兵器人道論」が徹底的に叩き込まれた。曰く「人道上許されるべき通常兵器」「なぜ化学兵器が人道兵器かと言えば、化学兵器は人を殺すために造るのではない。広範囲に渡って、一時的に中毒を起させるんだ。中毒を起させることによって、戦闘能力を低下させるんだ。その人たちは、後には回復してくる。回復するまでに捕虜にすればよい。捕虜として回復してきたら、我が戦力として使うこともできる。敵だからといって、殺す必要はない。そして、戦闘も早く終わる。戦争を早く打ち切りたい。ところが、大砲とか機関銃は、命中するとたいてい流血の惨事がおきる。まあほとんどは死ぬだろう。かつての世界大戦のときには、こうした銃器戦闘での戦死の数と、化学兵器での戦死者の数は、何10パーセントと何パーセントの違いなんだ。」[29][30]
教練では、ちび弾の運用や、装面訓練では実際に催涙ガスを発生させガスマスクを着けて行っていたという[57]
養成所ではすべての現場で実習が行われた[92][30]。この時期の工員は専属化し自分の現場以外知らなかったため、養成所出身者のほうが各現場のことを知っていたという[30]

戦後処理

国外、特に中国での毒ガス廃棄問題に関しては遺棄化学兵器問題を参照。ここでは日本国内、特に大久野島を中心とした廃棄について記す。
大久野島の毒ガス製造の位置
大久野島の毒ガス製造
大久野島の毒ガス製造
大久野島の毒ガス製造
大久野島の毒ガス製造
大久野島の毒ガス製造
大久野島の毒ガス製造
大久野島の毒ガス製造
大久野島の毒ガス製造
大久野島の毒ガス製造
大久野島の毒ガス製造
大久野島
大久野島
大久野島の毒ガス製造
大久野島の毒ガス製造
八本松
八本松
大嶺
大嶺
曽根
曽根
大久野島の毒ガス製造
中国地方以西における終戦時の主な生産・保管場所[8]。赤が陸軍、青が海軍。

終戦時全国に毒ガスが配備されていたが、その理由については環境省が取りまとめた資料では以下のとおり。

  • 研究・訓練及び実験等 - 陸軍では科学研究所や演習場、陸軍学校などへ配備された[9]
  • 毒ガス戦準備計画 - 昭和19年(1944年)1月29日大本営陸軍部はアメリカが毒ガスを使用する可能性が高いとして「毒ガス戦準備計画」を立案した。これにより忠海と小樽の2つが集積拠点に選ばれ毒ガス弾が配備された[99]
  • 疎開 - 空襲を避けるため安全な拠点に移されたもの。陸軍は、八本松(広島)や大嶺(山口)に集中的に運んでいる[99]

つまり大久野島には毒ガス製造によって備蓄品があっただけでなく、意図的に集積されていたことになる。また、この南側の大三島には大戦末期に大久野島から疎開された毒ガスが貯蔵され、西側の阿波島には出張所が置かれ毒ガス弾を貯蔵していた[100]。特にこの大三島への疎開を担当したのが勤労奉仕の女学生であった[94]

以下その3島における、環境省が公表する終戦時での保管量と、米軍調査による昭和21年(1946年)1月時点での集計を示す。これは環境省の方は資料から専門家からの助言・検討を踏まえて2004年に最終稿として公表したもの、米軍資料の方はそののち2014年に発見されたものになる。

環境省資料
終戦時の3島における保管量(t)
イペリット ルイサイト 青酸 ジフェニル
シアノアルシン
クロロ
アセトフェノン
兵器類 備考
大久野島 1,451 824 13.2 958.1 70 - 大三島分も含む[100]
大三島 - - - (595)0 (7) - [100]
阿波島 - ちび弾 数量不明
各種あか筒 89,504本
[100]
米軍資料
昭和21年(1946年)1月時点の集計(t)
イペリット ルイサイト 青酸 ジフェニル
シアノアルシン
クロロ
アセトフェノン
兵器類 備考
大久野島 1,200
(甲)430
(乙)150
(丙)620
910 15 1,035 7 [101]
  • 通常兵器
    • 94式水上発煙筒 14,485個
    • 94式大発煙筒 3,364個
    • Striker Head for Smoke Candle 3,400個
  • 原料・薬品類
    • 青酸ソーダ 391 t
    • ヨウ化カリウム 0.357 t
    • チオジグリコール 113 t
    • アルコール 4,410 gal = 16.7 kl
    • ヘキサクロロフィン 60 t
    • ベンゼン 3 t
    • 酸化亜鉛 10 t
    • 粉末状亜鉛 8 t
    • セルロイド 140 t
    • 亜ヒ酸 106 t
    • 塩酸 28 t
    • 硝酸 22 t
    • トルエン 47 t
    • 硫酸 154 t
    • アセトン 4 t
    • ナフタレン 15 t
    • 青酸用シリンダー(空) 6,300個
    • ルイサイト用ドラム缶(空) 200個
    • イペリット用ドラム缶(空) 1,850個
    • 炭酸カルシウム 50 t
    • プロピレングリコール 3t
    • 二硫化炭素 0.5 t
    • ピロ硫化ナトリウム 12 t
    • 水酸化ナトリウム 32 t
    • ジフェニルアルシン 57 t
[101]
大三島 - - - 5950 7 - [101](詳細不明)
阿波島 -
  • 99式あか筒 2,919個
  • 1式大あか筒 33,166個
  • 98式中あか筒 420個
  • 100式中あか筒 46,640個
  • 98式小あか筒 44,650個
  • 100式発射あか筒 3,529,994個
[101]
忠海 -
  • 89式催涙筒 141,630個
  • 89式催涙棒 141,072個
  • 99式大あか筒 8,339個
  • 98式小あか筒 29,953個
  • 100式小あか筒 45,814個
  • 100式中あか筒 17,460個
  • 98式中あか筒 7,210個
  • 1式大あか筒 798個
  • 擬似イペリット 191,906gal = 726kl
[101]
  • 通常兵器
    • 94式大発煙筒 6,735個
    • 94式水上発煙筒 35,949個
    • 94式小発煙筒 207,210個
    • 94式代用発煙筒 245,220個
    • 97式信号用発煙筒 9,156個
    • 97式発煙筒 11,020個
    • 99式発射発煙筒 542,389個
    • 93式特殊発煙筒 1,670個
    • 94式水上発煙筒用ゴム製浮袋 55,000個
[101]

終戦直後の毒ガス処理は下記の3者が行っている。処理方法は大きく分けて3つ、埋設・海中投棄・焼却、である[102]。ほとんどが島内およびその周辺海域で行われた。

1. 旧日本軍による隠蔽工作

軍による投棄が行われていたと言われている。

元工員・村上初一(毒ガス資料館初代館長)によると、昭和20年(1945年)8月15日工員はいつもと変わらず出勤しそこで玉音放送を聞くことになる[87]。翌16日も通常勤務するよう指示されたが、ボイコットする工員もいて集まらなかった[87]。そして解体(隠蔽工作)を指示されることになる[29][87]。旧陸軍側は工員に対して「我々はここで毒ガスをつくっていた。(その時初めて陸軍側は毒ガスという言葉を使ったという)。これは国際上の問題になる。日本は戦争に負けたんだから、どこの国が日本に進駐してくるかわからない。が、こういうことはないとは思うけど、その毒ガス製造について、拘束されるんじゃないといううわさがある。」「危険手当10割つける。」と言ったという[87][29]。村上は進駐軍に拘束される恐怖に畏れたという[29]。それから1週間後に上から命令が来て、それから工員の証明になるようなものは全て焼いて捨てたという[87]。機械工だった村上は同年8月18日からちゃ一号工室の新しいサイローム装置を解体し近くの海域に投棄したが、作業が始まって1週間後一切の作業は中止になった[87][103]。その後島に行っていたが何もせずにいて、同年9月11日付でほとんどの工員は解雇となったという[87][29]。進駐軍が来るまで代表者は残っていたという[29]

またこれとは別に松島から神殿島の海域にイペリットやルイサイトを投棄した、ボンベを近海に投棄した、という証言もある[103][104]

以下、環境省資料による、旧日本軍廃棄量を示す。

環境省資料による旧日本軍廃棄
イペリット ルイサイト 青酸 ジフェニル
シアノ
アルシン
クロロ
アセト
フェノン
砲・爆弾 廃棄時期 廃棄方法
大久野島 ボンベ類、数量不明 - 終戦時 大久野島周辺海域に投棄[105]
阿波島 - - ちび弾
数量不明
- - - 1945年8月
または同年10月
島内焼却[106]
- - - - - あか筒4個入り
木箱×50~60箱
島内退避壕に埋設[106]
2. GHQ日本進駐後アメリカ陸軍第41歩兵師団英語版が処理

GHQが日本に進駐、広島には第41師団が駐屯した[107]。昭和20年11月初め、第41師団司令部化学班が現地調査し、大久野島周辺の旧陸軍貯蔵に加えて川上[注 8]・切串・日之浦の旧海軍貯蔵分を発見した[107][101]

それを受けて第58化学戦総合中隊(化学処理部隊135名とも[103])を現地に派遣し、処理作業が始まった[101]。ただこの時点では発煙筒や前駆物質を主に処理し、イペリットやルイサイトなど危険な物質は処理されなかった[107][101]。これはその時点で瀬戸内海の機雷掃海が進んでいなかったため、海洋投棄ができなかったと推察されている[107]。化学物質の中には広島県側の投棄中止要望により県に引き渡されたものもある[107]。一方で旧海軍貯蔵分のいくつかは海洋投棄が行われている[107][101]

同年12月31日付で第41師団は動員解除となり、第58化学戦総合中隊も翌昭和21年(1946年)1月に撤退した[101]。あるいは2月までとも[103]。昭和21年5月時点で、大久野島にあった青酸はすべて県に転用され殺虫剤として用いたとする資料もある[90]

以下大久野島関連のみで、第41師団司令部化学班が12月26日付でまとめた廃棄量と、第58化学戦総合中隊が11月12日から24日にかけて行った廃棄量を示す。整合性がとれないものがある[101]がそのまま記載する。

第41師団司令部化学班資料
イペリット ルイサイト 青酸 ジフェニル
シアノ
アルシン
クロロ
アセト
フェノン
砲・爆弾 廃棄時期 廃棄方法
大久野島 - - 15 t - - 不明 引渡[101]
  • ベンゼン 3 t
  • アルコール 4,410gal
  • ヨウ化カリウム 0.357 t
  • 亜ヒ酸 106 t
  • 塩酸 28 t
  • 硝酸 22 t
  • トルエン 47 t
  • 硫酸 154 t
  • アセトン 4 t
  • ナフタレン 15 t
  • 炭酸カルシウム 38 t
  • 二硫化炭素 0.5 t
  • ピロ硫化ナトリウム 12 t
不明 引渡[101]
  • シアン化ナトリウム 391 t
  • 酸化亜鉛 10 t
  • 粉末状亜鉛 8 t
不明 廃棄・引渡[101]
  • チオジグリコール 113 t
  • ヘキサクロロフィン 60 t
  • セルロイド 140 t
不明 廃棄[101]
  • 94式水上発煙筒 14,485個
  • 94式大発煙筒 3,364個
  • Striker Head for Smoke Candle 3,400個
不明 廃棄[101]
忠海
  • 94式大発煙筒 6,735個
  • 94式水上発煙筒 35,949個
  • 94式水上発煙筒用ゴム製浮袋 55,000個
  • 94式小発煙筒 207,210個
  • 94式代用発煙筒 245,220個
  • 97式信号用発煙筒 9,156個
  • 97式発煙筒 11,020個
  • 99式発射発煙筒 542,389個
  • 擬似イペリット 191,906 gal
不明 廃棄[101]
第58化学戦総合中隊処理
廃棄量(t)
イペリット ルイサイト 青酸 ジフェニル
シアノ
アルシン
クロロ
アセト
フェノン
砲・爆弾 廃棄時期 廃棄方法
大久野島
  • シアン化ナトリウム 33.4 t
  • 六塩化エタン 60 t
  • 粉末状亜鉛 7.5 t
  • 塩化亜鉛 10 t
  • チオジグリコール 84 t
1945年11月 廃棄[101]
  • 94式水上発煙筒(1箱3個入) 14,485個
  • 94式大発煙筒(1箱1個入) 3,634個
  • 発射発煙筒(大型発煙筒用と推定) 3,400個
  • 水上発煙筒用ゴム製浮袋 55,000個
1945年11月 廃棄[101]
忠海
  • 94式大発煙筒(1箱1個入) 3,506個
  • 94式水上発煙筒(1箱3個入) 8,817個
  • 三式手榴弾(1箱30個入) 11,790個
  • 発煙筒(形式不明) 232,456缶
1945年11月 廃棄[101]
3. 進駐軍再編を受けて中四国地方を管轄したイギリス連邦占領軍(BCOF)が引き継ぎ

昭和21年5月からBCOFが引き継ぐ[29]。作戦名は“Operation Lewisite”、指揮はアメリカ軍から派遣されたウィリアムソン少佐、任務はBCOFのDISPOSAL ENEMY EQUIPMENT Section(DEE、兵器処理分隊)が担当し、これに日本人約300人[109]が参加した。特に帝国人絹(帝人)は、戦後インフレの中で新円を欲していた(新円切替)ことと、進駐軍から大久野島にある製塩機器を中心とする設備移転契約を結ぶことに成功したため、戦後処理に参加した[110][49]。帝人三原製造所が工員を出し、その下請け、忠海周辺での現地募集から参加したものもいる[55][111]。また山中峰次 元陸軍忠海製造所所長など旧関係者も参加している[112][49]

機器のいくつかは戦後賠償として進駐軍が持ち帰っている[110]。なお日本政府からの支援はなかった[110]

当初は3年を予定していたが工期繰り上げ要請[110]によりほぼ1年で終わっている[49]。作業は昭和21年5月8日から同年11月30日までの第一次作業、同年11月21日から昭和22年(1947年)5月27日までの第二次作業に分かれた[112]。ピーク時は3交代制で島に泊まり込んでの作業となった[111]

第一次作業
山口県の米光は詳細場所が不明であるため省略。
1, 忠海兵器補給廠・大三島・阿波島・米光・切串・川上・内海など、旧陸海軍が保管していた毒ガス弾を大久野島に集める[112][113]
2. そこから毒ガスを抜き取り、主にきい剤ときい弾(イペリットとルイサイト)を船に積み込んで高知県沖で海洋投棄する[112][23]
3. あか筒(ジフェニルシアノアルシン)は島内防空壕で埋没処理する[112][49]
4. 発煙筒は島内あるいは近隣海上で焼却処理[49]
第二次作業
元陸軍技手によると、大久野島南西端を基点として北西から南西に向かう約4kmの海域に海洋投棄したという[116]
1. イペリットおよびルイサイト工場あるいは貯蔵庫の天井や窓を開け、建物内に蒸気を吹き込み、屋内に残存する毒ガスを大気中に放出する[112]。濃度が濃くなる排気には次亜塩素酸カルシウム(さらし粉)と水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)溶液を通過させる[110]
2. 建物内を火炎放射器で焼却[112]。コンクリート地下貯蔵庫は爆破解体後焼却し埋没[110]
3. 製造装置の解体・除毒後、島周辺の水深15m以上のところで海洋投棄[112][23]
4. 工場地域全体を焼却および次亜塩素酸カルシウム(さらし粉)を散布[112]

旧陸軍製造所と同じように小鳥で毒ガス漏れの管理をしており、ガス漏れが酷いと作業は中止となる事が度々あった[111]。疲れを取るためか大釜に砂糖湯が用意されていた[55][115]。島には(工業用)アルコールがあり水で薄めて飲んでいたという[111]

戦前の陸軍製造所時代の工員は、毒ガスという単語は使われなかったが影響は動物実験や熟練工の受傷経験などで教えられていた一方で、戦後処理の日本人作業員は、扱っているものは毒ガスであることは知っていたが影響がどの程度のものか理解していなかった[55][115]。防毒服・作業服はBCOFから支給されていたがあくまで近いところで作業する者が用いていただけで、支給されないものもいた[55]。普通の服装で素手で作業を行っていたり、中には暑いからと裸で作業するものもいた[55]。そのため戦後処理の日本人作業員も被毒している。

昭和21年7月29日、積込作業中のLST-814は台風でアンカーチェーンが切れて陸から離れた[116][55][111]。この時点で90%の積込が完了していたとされ[111]、LST-814がそのまま沖に漂流していれば意図しない大事故が発生する可能性があった[55]。この時に岸に繋ぐ作業をした人物によると、29日朝から日本語が話せないウィリアムソンは銃を手に持ち「ハバハバハバ」と打つマネをして他の作業員を現場に入らせないようにしていたという[55]。その人物は毒物が流出していた海の中をパンツ一丁で飛び込み、アンカーチェーンに細いロープをくくりつけたという[55]。それを100人ぐらいで綱引きの要領で陸まで引張り着岸させた[55]。この作業で船から流出し海の中や空中に漂う毒ガスに約90人が被毒した[116][55]。この作業で被毒したもの、あるいは別の作業で被毒したもののうち、1人がのちに死亡している[117][116]

以下、米軍資料における未処理とされているつまりBCOFが引き継いだと考えられる物量と、2003年時点での環境省が公表する資料における廃棄量と、帝人資料による賠償機械明細を示す。環境省資料にはオーストラリア軍(BCOF)資料を元に作成されている。

米軍資料
昭和21年(1946年)1月時点の集計(t)
イペリット ルイサイト 青酸 ジフェニル
シアノアルシン
クロロ
アセトフェノン
兵器類 備考
大久野島 1,200
(甲)430
(乙)150
(丙)620
910 15 1,035 7 [101]
  • 青酸用シリンダー(空) 6,300個
  • ルイサイト用ドラム缶(空) 200個
  • イペリット用ドラム缶(空) 1,850個
  • 炭酸カルシウム 12 t
  • プロピレングリコール 3t
  • 水酸化ナトリウム 32 t
  • ジフェニルアルシン 57 t
[101]
大三島 - - - 5950 7 - [101](詳細不明)
阿波島 -
  • 99式あか筒 2,919個
  • 1式大あか筒 33,166個
  • 98式中あか筒 420個
  • 100式中あか筒 46,640個
  • 98式小あか筒 44,650個
  • 100式発射あか筒 3,529,994個
[101]
忠海 -
  • 89式催涙筒 141,630個
  • 89式催涙棒 141,072個
  • 99式大あか筒 8,339個
  • 98式小あか筒 29,953個
  • 100式小あか筒 45,814個
  • 100式中あか筒 17,460個
  • 98式中あか筒 7,210個
  • 1式大あか筒 798個
[101]
  • 93式特殊発煙筒 1,670個
[101]
環境省資料によるBCOF破棄
イペリット ルイサイト 青酸 ジフェニル
シアノ
アルシン
クロロ
アセト
フェノン
砲・爆弾 廃棄時期 廃棄方法
大久野島 - - - - -

くしゃみ剤

  • 大 65,933個
  • 中 123,990個
  • 小 44,650個
  • 発射筒 421,980個
1946年5月
-同年9月18日
島内防空壕に埋設
海水・さらし粉注入[106]
56 t(内訳不明)
  • 催涙棒 2,820箱
  • 催涙筒 1,989箱
- 不明 島内焼却[106]
- - - 1,390 t - - 1946年9月
-1947年5月
島内埋設[106]
19 t 40 t 10 t - - - 1946年11月
-1947年5月
除毒・焼却後
大久野島周辺海中投棄[106]
- - - - 10 t - 海中投棄(場所不明)[106]
  • 毒液 1,854 t
  • 毒液缶 930 t / 7,447缶
- 990 t / 9,901缶 催涙剤 7 t/ 131缶
  • 60kgガス弾 13,272個
  • 10kgガス弾 3,036個
1946年7月
-同年10月
土佐沖に海中投棄[106][103][49]
阿波島 - - - - - あか筒
20個×20箇所ぐらい
1946年1月
または同年2月
島内砂浜に埋設[106]
帝人資料による賠償機械

計 387台[110]

  • ボール盤 4
  • 卓上ボール盤 1
  • 旋盤 7
  • フライス盤 2
  • 型削盤 3
  • 心立盤 1
  • 圧力計検査器 1
  • 変電装置 2
  • 電動機 111
  • 減速機 12
  • 微粉機 1
  • 混和機 8
  • 製氷装置 1
  • 圧縮機 10
  • 圧空ポンプ 2
  • 水圧ポンプ 1
  • 送風機 1
  • 排風機 5
  • 缶締機 7
  • 稱潰機 10
  • 油分離機 3
  • 遠心分離機 2
  • 蒸気風温機 1
  • 電気浄油機 1
  • 電気乾燥機 4
  • 分光器 1
  • 渦巻きポンプ 8
  • 真空ポンプ 8
  • 電気高温機 1
  • 電気容量分析器 1
  • 油ガス発生器 1
  • 電気温度調整器 1
  • 変圧器 25
  • 静電畜電器 6
  • 配電函 21
  • 油入函開閉器 90
  • (不明)電動ポンプ 1
  • ホイスト 3
  • 削岩機 1
  • 温度計計算機 2
  • 蒸溜器 1
  • ネジ立盤 1
  • 発電機 4
  • 橋秤機 1
  • フレス 1
  • タッピングマシン 1
  • 電気炉 1
  • (不明)1
  • タービンポンプ 1
  • 起重機 1
  • 電気熔接機 2
  • 水圧フレス 1

残存

国外、特に中国での毒ガス被災問題に関しては遺棄化学兵器問題を、日本国内での問題は化学兵器#化学兵器の廃棄処理を参照。ここでは特に大久野島を中心とした状況について記す。

上記の通り、戦後処理のかなりの数が島内の防空壕や周辺への海中投棄されたことから、現在でも兵器の残骸など発見が続いている。1997年以降、危険物質が確認された場合は化学兵器禁止条約に基いて処理されている。以下、環境省資料記載分を中心とした戦後大久野島周辺で被災あるいは発見状況を示す。

毒ガス弾等の発見・被災・掃海等の処理状況
日時 状況 種類
1951年4月 被災 不明
  • タコ漁の際に海底にあったとみられる毒物に被災[117]
1955年7月 被災 イペリットらしいもの
  • 島内の池にあった防毒衣などの除去作業中に作業員2人が毒ガス障害。
  • うち1人は後遺症で1956年1月死去[117]
1955年頃 処理 不明
  • 島内で臭気黄土を発見。
  • コンクリート槽へ埋設[117]
1955年頃 発見 不明
  • 大久野島・小久野島・松島で囲まれた海域で漁師が正体不明のドラム缶を引き上げる。
  • 中身を確認せす再投棄[117]
1958年5月29日 被災

青酸ガスボンベ

  • 約20kg×1本
  • 漁師が網にかかったボンベを廃品回収業者に転売、解体作業中に被災。
  • 死者1人・中傷9人・軽傷18人。ボンベは民間会社が処理[117]
1961年6月13日
から同月15日
発見

赤筒(くしゃみ剤)

  • 2.5tトラック×5・6台分(推定)
  • 国民休暇村になるにあたり県が自衛隊に調査を依頼、防空壕内で発見
  • 処理方法は不明[117]
1961年 被災

イペリットと推定

  • 新聞報道によると、国民休暇村工事請負業者が工事中に被災
  • それ以上の詳細は不明[117]
1964年7月31日 発見

茶1号(青酸ボンベ)

  • 1個
  • 漁船が海中から毒ガスボンベを引き上げ
  • 竹原市に陸揚げ[117]
1964年8月1日 発見

毒ガス入りボンベ

  • 1本
  • 民間人が購入した古鉄の中に毒ガスボンベがあった
  • 陸自第13師団武器大隊が回収、海自が引き継ぎ海中投棄[117]
1964年8月26日 発見

毒ガス入りボンベ

  • 1本
  • 詳細不明
  • 海自が引き継ぎ海中投棄[117]
1968年5月11日 被災

毒物ボンベ

  • 1本
1人負傷[117]
1969年8月26日 発見
  • あか筒 3本
  • 発射筒 1本
  • 島内で発見
  • コンクリート密封の後、海中投棄[117]
1969年11月13日
から12月18日
掃海
  • 発見なし
  • 海上自衛隊の掃海艇3隻による2回に分けての捜索[117]
1970年1月12日
から同月16日
発見

あか筒

  • 650本
  • 島内防空壕で発見[117]
1970年1月13日
から同月15日
発見

あか筒

  • 大 22本
  • 中 約600本
  • 発射筒 1,000本
  • 厚生省・防衛庁が追跡調査を行い防空壕内で発見
  • 上記の物も含め、同年3月いっぱいまで防空壕の閉鎖処理[117]
1970年2月22日 被災

毒ガスボンベ

  • 1個
  • 小型底曳網にかかったボンベで漁師がノドに炎症。
  • コンクリート詰め後、海中投棄[117]
1970年12月22日 被災

青酸ガスボンベ

  • 1本
  • 小型底曳網にかかったボンベで乗務員4人が負傷。
  • 自衛隊がコンクリート詰め後、太平洋で海中投棄[117]
1971年2月8日 発見

ボンベ

  • 1本
  • 漁師が酸素ボンベ状のものを引き上げる。
  • 竹原市役所が調査、危険性はないとして市役所が保管[117]
1971年2月8日 被災

毒ガスボンベ

  • 1本
  • 小型底曳網にかかったボンベがガス漏れを起こし漁師が軽い中毒症状。
  • 運搬中にガスがすべて放散したため、海中投棄[117]
1972年4月18日 被災
  • ドラム缶 2個
  • コンクリート槽 1個
  • 護岸工事中に作業員が発見。ドラム缶から流出した液体によりかぶれる。
  • 診断および成分検査の結果毒ガスとは断定されず[117]
1977年10月 発見
  • 空のちび弾容器
  • 竹原市忠海町の人物が空のちび弾容器を所有。
  • 自衛隊が処理、1978年2月海洋投棄[118]
1995年3月
から1996年7月
調査

土壌汚染

  • 環境省による土壌および地下水調査で最大で環境基準値2200倍のヒ素を検出
  • 1998年から撤去開始、1999年完了[119]
1997年 発見

あか筒の残骸

  • 35本
  • 市民が島の北部海岸にてあか筒の残骸1本を発見。
  • 環境省・県・市の詳細調査で34本発見[119]
1997年9月 発見 不明
  • 新聞報道によると、金属製の筒1本が発見された
  • それ以上の詳細は不明[119]
1999年3月26日 発見

大あか筒

  • 9本
  • 島内整備工事中に防空壕内から発見
  • 化学兵器禁止条約に基いて無害化処理[119]
1999年10月23日 発見

97式中あか筒

  • 3本
  • 市民が島内で発見[119]
2009年1月19日 発見
  • 発煙筒 21本
  • あか筒 2本
  • 環境省による大久野島海底送水管敷設事業の際に北側海域で発見[120][121]

上記のうち、死者が発生した件の詳細を示す。

  • 1955年(昭和30年)7月、作業員2人が大久野島の池に沈められた防毒衣などを引上げ作業中に毒ガス障害を起こし、うち1人が後遺症で翌昭和31年1月に死亡[116]
  • 1958年(昭和33年)5月24日、周辺海域で漁民が青酸ボンベ2本を引上げ、それを廃品回収業者が買い取り1本を解体したところ青酸ガスが発生し死者1人・中傷9人・軽症18人の被害が出た[122]

上記の通り、大久野島に国民休暇村が開業する際に調査、あるいは海上自衛隊による周辺海域で掃海が行われている。なお大久野島の東側は1960年代から1990年代にかけて大規模な海砂利採取が行われてきた地点[123]であるが、その際に起きた事例は環境省資料にはない。

戦後BCOFによるあか箱(ジフェニルシアノアルシン)処理の様子。防空壕の中に入れ海水と次亜塩素酸カルシウム(さらし粉)を注入し加水分解により無毒化させる処置がとられた。
第二桟橋南側にある岩。左写真の現場はここであると推察されている[114]。現在中がどのような状態かは不明。当時よりもコンクリートで覆われていることから対策済であることはわかる。

近年で特に問題となったのが、1995年3月から1996年5月の環境省による大規模調査で、環境基準を大きく超えるヒ素による汚染が確認されたことである[119][124]。当時生産されていた毒ガスの中でヒ素化合物は、ルイサイト(きい2号)、ジフェニルシアノアルシン(あか)、トリクロロアルシン(しろ)、アダムサイト、になる[34][35]。環境省資料では何が原因でヒ素汚染したかは明記していない。市民団体では、戦後直後旧日本軍が隠蔽工作した際の残骸が海底で埋没し土壌汚染した、あるいは戦後進駐軍による処理で機器の焼却処理の際にヒ素が飛散した、戦後BCOFによる処理で防空壕に埋設処理されたあか筒が腐食により流出した[注 10]ものと推定している[10]。以下は1997年時点で環境省が公表する調査資料を元に記載する。

  • 土壌
    • 環境基準を超えたヒ素汚染が確認されたのは、北部海岸周辺、北部砲台跡地、西側テニスコート周辺、運動場西護岸側、国民休暇村前広場、元理材置場、南側キャンプ場付近、東・南の護岸付近及び東側周遊道路沿いの一部。うち北部砲台跡地、運動場西護岸側、元理材置場、は大幅に上回っていた[126]
    • 1999年11月まで土壌汚染対策工事が行われ[124]、現在は立ち入りできる。ただし元理財置場および北部海岸周辺、いわゆる北端の唐人傘周辺は金網フェンスで覆われ立入禁止処置がとられている。
北側忠海からみた大久野島(左)。海底送水管は右の鉄塔付近から島に向けて約2.4キロメートルを布設する計画が立てられた。2009年その調査の段階で金属反応が367箇所(普通のゴミも含む)あった。なお1969年海自掃海の対象外区域であった[127]
  • 水質
    • 水質環境基準・地下水環境基準を超えたヒ素汚染が確認されたのは、島内11カ所の井戸水・8カ所の表流水・湧き水のうち4カ所の井戸。基準を超えた4ヶ所の井戸は、観測時点で全く使用おらず放棄していた状況だった。うち北部砲台跡地内井戸、島南側井戸、は大幅に上回っていた。北部は土壌から流出したと考えられ、南側には井戸内に投棄されたとみられる腐食したあか筒が見つかっておりそれが汚染原因と考えられている[126]
    • 休暇村大久野島では2004年から井戸水の使用を中止し、飲料用水などは給水船で島外から運んでいる[128]
  • その他
    • 土壌からの巻き上げによって砒素が飛散した可能性はない[126]
    • 周辺海域および海洋生物の汚染はみとめられなかった[126]

こうした状況下で安定して上水を島外から運び入れるため環境省により「大久野島海底送水管敷設事業」が計画されたが、2009年その敷設工事前の調査段階で空のあか筒・発煙筒とされる23本を海底から発見、見通しがつかないとして事業中止に追い込まれた[128][129]

障害

国外、特に中国での毒ガス被災問題に関しては遺棄化学兵器問題を参照。ここでは日本国内、特に大久野島を中心とした状況について記す。

毒ガスの製造工場に従事、あるいは戦後の毒ガス処理に従事したものは障害を負うことになる。その障害者数は、少なくとも約6,800人とされる[84][130]

症例

この障害者特有の、ある意味で職業病とも言える疾患は、呼吸器疾患である[84]。これは毒ガスの飛沫による大気汚染が主因と断定されている[84][131]。特に顕著なのが慢性気管支炎[109][130]。その中でも1988年時点の慢性気管支炎患者のうち78.5%が膿状痰を喀出している[130]

1952年(昭和27年)から調査を開始し、職種によって、グループA:ぴらん剤(イペリット・ルイサイト)の製造に直接従事した人、グループB:工務・焼却・修理・検査・守衛とぴらん剤製造の近くで作業していた人、グループC:ぴらん剤以外の毒ガス製造に従事した人と医務・事務と毒ガス製造自体に関わっていない人、と3つに分類されている。以下その分類で記載する。

以下1973年の論文より職種・勤務期間別の慢性気管支炎発症人数[84]を示す。

慢性気管支炎発症数(人)
勤務期間 1ヶ月
以下
6ヶ月
以下
1~2年 3~5年 6~10年 11年以上
A イペリット・ルイサイト関連 製造 0 14 93 112 57 17
0 2 11 3 6 -
B 工務・焼却 0 8 44 74 26 5
0 1 1 3 - -
検査・守衛 2 5 18 19 - 17
1 2 3 1 8 0
C その他の
ガス製造
4 12 49 18 5 1
1 12 42 17 8 0
医務
事務
4 3 18 15 3 2
0 1 6 6 2 0
10 42 222 238 91 42
2 18 63 30 24 0
上記の集計(人・%)
1ヶ月
以下
6ヶ月
以下
1~2年 3~5年 6~10年 11年以上
A 0(00.0) 14(01.8) 93(11.9) 112(14.3) 57(07.3) 17(02.2) 293(37.5)
0(00.0) 2(00.3) 11(01.4) 3(00.4) 6(00.8) 0(00.0) 22(02.8)
B 2(00.3) 13(01.7) 62(07.9) 93(11.9) 26(03.3) 22(02.8) 218(27.9)
1(00.1) 3(00.4) 4(00.5) 4(00.5) 8(01.0) 0(00.0) 20(02.6)
C 8(01.0) 15(01.9) 67(08.6) 33(04.2) 8(01.0) 3(00.4) 134(17.1)
1(01.0) 13(01.7) 48(06.1) 23(02.9) 10(01.3) 0(00.0) 95(12.1)
小計 10(01.3) 42(05.4) 222(28.4) 238(30.4) 91(11.6) 42(05.4) 645(82.5)
2(00.3) 18(02.3) 63(08.1) 30(03.8) 24(03.1) 0(00.0) 137(17.5)
合計 12(01.5) 60(07.7) 285(36.4) 268(34.3) 115(14.7) 42(05.4) 782(100.0)

イペリット・ルイサイトの現場に近い人ほど慢性気管支炎の発病率が高くなっている[84]。また医務・事務など工場地帯にいなかった人でも発病している[84]。なお体が蝕まれるため6年以上働いたものはほとんどいなかったとする証言がある[30]

調査当初は肺癌を含む呼吸器系の癌の発見が多く、肺癌の標準化死亡比は数倍の高値であった[109][21][132]。のちに肝癌を含む消化器系の癌、ボーエン病を含む皮膚がんが発見されている[21]。調査開始時点で生存していた1,632人のうち1981年末までに557人が死亡したが、その死因で分類したもの[133]が以下のものになる。

主要死因(人・%)
呼吸器系 消化器系 心・血管系 その他 うち悪性腫瘍
によるもの
A 103(18.5) 71(12.7) 29(05.2) 39(07.0) 232(41.7) 116
B 70(12.6) 56(10.1) 39(07.0) 50(09.0) 212(38.1) 146
C 25(04.5) 31(05.6) 26(04.7) 32(05.7) 113(20.3) 24
207(37.2) 158(28.4) 94(16.9) 121(21.7) 557(100.0) 271

グループA・Bともに呼吸器系疾患による死亡が最も多い[133]。グループCでは他の疾患による死亡が多い[133]。またグループA・Bの呼吸器系の癌による死亡は、当時の一般日本人統計に基づいて算出された期待数に比べて4~5倍の高確率で発生している[133]。一方で消化器系の癌ではあまり差がない[133]

また調査の結果毒ガス障害者の二世への影響は極めて少ないと推論されている[131]。なお大久野島で勤労奉仕した女学生の中には被爆後の広島に入り救護活動していた、つまり入市被爆した被爆者もいる[96]。その一人の2002年インタビュー記事では、被爆に関することは書かれているが毒ガスのことは書かれていない[96]

補償
1952年の診断名(人・%)[84]
呼吸器
疾患
気管支炎 108 93.5
肺結核 23
肺炎 15
肺膜炎 6
肺壊疽 2
喘息 1
肺疾患 2
気管支拡張症 1
扁桃腺炎 1
喉頭炎 1
消化器疾患 3 1.8
循環器疾患 2 1.2
食道癌 1 0.6
肝臓癌 1 0.6
その他 4 -
現在の呉共済病院忠海分院。昭和17年(1942年)陸軍造兵廠忠海製造所従業員・家族診療所として発足した[134]

以下戦後の社会保障の歴史を示す。

  • 1952年(昭和27年、終戦から7年後、毒ガス処理から5年後。大久野島自体は朝鮮戦争に伴い米軍が1956年まで接収[70]。この年の4月にサンフランシスコ講和条約発行およびプレスコード失効。)
    • 広島県立医学大学和田直内科(現 広大大学院医歯薬学総合研究科分子内科学)に、元工員の30歳男性が呼吸困難を訴えて入院、約1ヶ月後に死亡。診断により気管分岐部に発生した扁平上皮癌と診断[109][132]
    • これを受けて7月8日から8月2日にかけて計5回、県立医大内科・病理および竹原保健所の3者協力のもと、元工員男性205人女性5人計210人の健康診断を行う[109][130]。右上表はその時の診断結果。更に死亡診断書が集められ、その中の数名から喉頭癌や肺癌など呼吸器系の癌が推定された[109][132]
    • この直後、30歳の肺癌症例[注 11]を診断した[130]
  • 1953年(昭和28年) : これを基に「大久野島の所謂毒ガス工場工員間に見られた後遺症の検索第1報臨床的観察」として論文公表[130]
  • 1954年(昭和29年) : 国は「ガス障害者のための特別設置要綱」を制定し認定医療制度を開始、国家公務員共済組合連合会忠海病院(現 呉共済病院忠海分院)が元工員のための医療機関に指定される[109][130]
  • 1961年(昭和36年) : 広大医学部第2内科教室(旧 和田内科教室)は、広大病理学教室・広大皮膚科学教室・広大健康管理センター・忠海病院などの協力によって「大久野島毒ガス障害研究会」を設立[130]。竹原保健所を拠点にボランティア活動として開始した[130]。これと並行して旧従業員名簿を作成し始める[109][130]
  • 1962年(昭和37年) : 広大から行武正刀が忠海病院に赴任[7]
  • 1965年(昭和40年) : 国は、旧令共済組合に所属していた旧軍人・軍属に対してのみ死亡者への公傷一時金給付を開始した[130]
  • 1966年(昭和41年) : 県は、毒ガス工場従事に関する全県下アンケート調査を実施し名簿作成[130]
  • 1969年(昭和44年) : 県は、名簿を基に独自に援護施策を開始した[135]
  • 1970年(昭和45年) : 国家公務員共済組合連合会は、旧令共済組合に所属していた旧軍人・軍属に対してのみ健康管理手帳を交付し健康手当や医療費給付を開始した[130]
  • 1973年(昭和48年) : 県は、重傷者に対して手当を給付した[130]
  • 1974年(昭和49年) : 国は、「毒ガス障害者に対する救済措置要綱」を制定、今まで除外されていた一般人の毒ガス障害者に対して厚生省を通じて健康管理手帳を交付し各種手当給付を開始した[130]。これにより障害者全員が社会保障対象となった[130]

現在被爆者に準じた措置が取られ[109]、旧令共済組合に所属していた旧軍人・軍属は財務省がそれ以外が厚生労働省が担当し、これに県が受託される形で厚労省分は事業全般・財務省分は健康診断のみ(事業全体は国家公務員共済組合連合会が担当)を行っている[135][136]。認定を受けると、年1回無料で一般および精密検査が受けられ健康管理手帳、医療費の自己負担分が免除となる医療手帳、が交付され、症状により手当が支給される[2][135]。これとは別に県独自の施策事業がある[136]。健康管理手帳所有者数は、総数が6,113人(厚労省3,334人・財務省2,779人)[135]。初年度である1974年度が2,965人[130]、2010年度は2,753人平均年齢84歳[2]、2015年度は2,073人平均88歳[2]

地域・従事職種別で障害者団体が10団体結成された[135]が、高齢化に伴い2017年現在で8団体に減り諸事務も一本化された[137]。被爆者と違い、いわゆる二世の団体は存在していない[138]

大久野島毒ガス傷害研究会による集団健診は、ピークが1988年の3,624人が受けていたが、近年は高齢化の影響で決まった日時での受診自体が難しくなっていた[139][140]。2016年研究会は設立当初から続けていた集団健診を停止し個別診断で対応することとなり、その結果2017年は受診者が増えたという[139][140]

慰霊・伝承

1963年(昭和38年)、大久野島国民休暇村(現休暇村大久野島)が開場[1]、これ以降島に残っていた旧陸軍毒ガス工場群が壊されていったという[19]。1969年島内で毒ガス兵器が発見された際には国会で取り上げられたという[19]

1983年粟屋憲太郎による『支那事変ニ於ケル化学戦例証集』など3種類の重要資料が発見され旧日本軍による化学戦の使用実態が明らかになり、それを全国メディアが報道したことで注目を集めることとなった[141][97]。そうした中で、慰霊碑の建設、そして毒ガス製造の実態を知ってもらおうと資料館建設に向けて動き出した[97]。ただ国側は消極的であった[97]。これは当時国側は毒ガスのことを隠したかったためと言われている[97]

1985年「大久野島毒ガス障害死没者慰霊碑」が建立、毎年10月に慰霊祭が行われている[135]。1988年資料館が開館した[97]。1992年化学兵器禁止条約が起草されると、中国国内の旧日本軍毒ガス兵器の存在が論点となった[141]。この間の資料館の年間入場者数でみると、開館当初は5・6万人台、1995年で約6万5千人のピークに達している[5]。また平和学習として資料館館長の村上初一が島内ガイド役をしていた[142]。ただ1990年代後半になると資料館来館者は減少し続け[5]、更に村上が辞任した1996年以降は島内ガイドは市民団体が依頼があれば答える形となった[142]

島を管理する環境省としては、「この島の歴史を語るものとして教育の観点からもできるだけ保存すべきであること」[126]と、保存には前向きな姿勢をとっている。2018年平成30年7月豪雨で島内の火薬庫跡が土石流で損壊した際、環境省は同年8月16日付報道で「修復するか撤去するかまだ白紙」とコメントを残している[143]

脚注

注釈

  1. ^ 当時の忠海町長望月忠吉が望月圭介の息子であったため誘致に成功したとする説[10][19]があるが、忠吉は圭介の叔母にあたるチヨの孫つまり圭介の従甥[20]にあたる。また望月が白川義則陸軍大臣と親しかったため頼んだとする資料[19]があるが、大久野島で製造所が着工した昭和2年(1927年)[13][21]に発足した田中義一内閣で双方とも初めて閣僚入りしている(望月:逓信相、白川:陸軍相)。なお田中義一は元陸軍で当時政友会総裁、望月は昭和2年時点で政友会総務。
  2. ^ それぞれ別の資料から。元資料も推定部分が多いことに注意[23]
  3. ^ 1937年-1943年の間の月生産量[23]
  4. ^ 1931年以降[23]
  5. ^ かつて瀬戸内海のこの付近は製塩が盛んであり、海水から塩を作る際の熱源として大量の薪が必要だったことから、この周辺の山々はハゲ山が多かった。
  6. ^ A二工室は製造所内最大の工場で、室内で充満するイペリットガスを排風機で排出していたが十分ではなかった[83]。これに夜間だと湿気が籠もるため、受傷しやすくなった[28]
  7. ^ フランス式イペリットは不純物が多いため再蒸留して純度を高めた[17]
  8. ^ 東広島市八本松には川上に第11海軍航空廠の補給廠(現川上弾薬庫)と、八本松町東4丁目に陸軍兵器補給廠八本松分廠(現在民間工場)があり、双方ともに毒ガスを貯蔵していた[108]。資料では海軍の川上はあるが陸軍の八本松の記載がない。
  9. ^ 名前・肩書はオーストラリア戦争記念館が公開する写真の説明と帝人資料[112]から。
  10. ^ 2003年神栖市でヒ素中毒が発生した際、当初は毒ガス兵器あか筒が原因と考えられていたが、現在では産業廃棄物の不法投棄による汚染の可能性が高いとされている[125]
  11. ^ 当時日本での年間肺癌発症例は500~600例程度[130]

出典

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関連項目

外部リンク