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'''鬨'''(とき)とは、[[中世]]の戦(いくさ、[[戦争]]や衝突)などの勝負事で勝ちを収めたときの勝ち鬨や、戦場で上げる声である。士気を高める目的で多数の人が一緒に叫ぶ声。[[凱歌]](がいか。勝負事に勝ちを収めたときに歌う喜びの[[歌]])とは同義あるいは一部同義とされるほど近いが、勝鬨は歌ではなく、武家作法の一つ。 |
'''鬨'''(とき)とは、[[中世]]の戦(いくさ、[[戦争]]や衝突)などの勝負事で勝ちを収めたときの勝ち鬨や、戦場で上げる声である。士気を高める目的で多数の人が一緒に叫ぶ声。[[凱歌]](がいか。勝負事に勝ちを収めたときに歌う喜びの[[歌]])とは同義あるいは一部同義とされるほど近いが、勝鬨は歌ではなく、武家作法の一つ。 |
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== 日本語の鬨 == |
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*鬨をあわす、鬨をつくる |
*鬨をあわす、鬨をつくる |
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戦の始めに両軍は互いに声を発した<ref>『[[平家物語]]』には、「時(鬨)をつくる事、三ヶ度、(中略)味方にも時の声をぞ あはせたる」とあり、少なくとも[[平安時代]]には用いられ、この、敵の声=鬨に応じて、味方が鬨の声をあげる事を「'''鬨をあわす'''」という。参考・新村出編 『広辞苑』 [[岩波書店]] 第二版1969年 p.1588、一部参考。なお、『[[平治物語]]』にも「(前略)三千余騎にて時(鬨)をどつとつくりければ~」とあり、中世の軍記物語では、鬨は「時」の字を用いた<!-- 同・広辞苑より一部参考 -->。</ref>。[[日本]]<!--例えば中国の場合は違う-->は「えいえい」という[[大将]]の掛け声に呼応して軍勢一同が「あう(オオ)」と声を合わせ、これを三度行なったという。「えいえい」は前進激励の「[[wikt:鋭|鋭]]」、「おう」はそれに応じる「[[wikt:応|応]]」の意であるという。 |
戦の始めに両軍は互いに声を発した<ref>『[[平家物語]]』には、「時(鬨)をつくる事、三ヶ度、(中略)味方にも時の声をぞ あはせたる」とあり、少なくとも[[平安時代]]には用いられ、この、敵の声=鬨に応じて、味方が鬨の声をあげる事を「'''鬨をあわす'''」という。参考・新村出編 『広辞苑』 [[岩波書店]] 第二版1969年 p.1588、一部参考。なお、『[[平治物語]]』にも「(前略)三千余騎にて時(鬨)をどつとつくりければ~」とあり、中世の軍記物語では、鬨は「時」の字を用いた<!-- 同・広辞苑より一部参考 -->。</ref>。[[日本]]<!--例えば中国の場合は違う-->は「えいえい」という[[大将]]の掛け声に呼応して軍勢一同が「あう(オオ)」と声を合わせ、これを三度行なったという。「えいえい」は前進激励の「[[wikt:鋭|鋭]]」、「おう」はそれに応じる「[[wikt:応|応]]」の意であるという。 |
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[[上泉信綱]]伝の『訓閲集』(大江家の兵法書を[[戦国時代 (日本)|戦国風]]に改めた書)巻十「実検」の中の、帰陣祝いの規式の法、の項に、「勝凱をつくることは、[[軍神]]を送り返し、奉る声なり」と記述されており、信仰的な面と繋がっていたことをうかがわせる。なお『訓閲集』の表記では、「えい」も「おう」も異なり、「曳<ref>この表記に関しては、『[[土佐物語]]』にも見られ、「'''曵々'''声と共に(出兵した)」といったくだりが度々記されている。ただ、『訓閲集』のような身分による表記の区別はされておらず、四国では曵の字で統一されている。</ref>(大将が用いるエイ)」「叡(諸卒が用いるエイ)」「王」の字を用いており、また、軍神を勧請する際、「曳叡王(えいえいおう)」と記し、大将が「曳」と発した後に、諸卒が「叡王」とあげるとしており、声に関しては、「初め低く、末高く張り揚げる」と記している(前述の15世紀成立の『鴉鷺物語』と表現に変化がみられる)。 |
[[上泉信綱]]伝の『訓閲集』(大江家の兵法書を[[戦国時代 (日本)|戦国風]]に改めた書)巻十「実検」の中の、帰陣祝いの規式の法、の項に、「勝凱をつくることは、[[軍神]]を送り返し、奉る声なり」と記述されており、信仰的な面と繋がっていたことをうかがわせる。なお『訓閲集』の表記では、「えい」も「おう」も異なり、「曳<ref>この表記に関しては、『[[土佐物語]]』にも見られ、「'''曵々'''声と共に(出兵した)」といったくだりが度々記されている。ただ、『訓閲集』のような身分による表記の区別はされておらず、四国では曵の字で統一されている。</ref>(大将が用いるエイ)」「叡(諸卒が用いるエイ)」「王」の字を用いており、また、軍神を勧請する際、「曳叡王(えいえいおう)」と記し、大将が「曳」と発した後に、諸卒が「叡王」とあげるとしており、声に関しては、「初め低く、末高く張り揚げる」と記している(前述の15世紀成立の『鴉鷺物語』と表現に変化がみられる)。 |
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== 所作 == |
=== 所作 === |
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日本の勝鬨は、本や流派によって多少の差異があるが、大将の乗馬は[[東]]向きにし、[[凱旋]]の酒宴において大将は右手に勝栗([[CF#cf|''cf.'']] [[縁起物#食物]]「搗栗」。[[弓 (武器)|弓]]とする[[流派]]もある)を取り、左手に[[扇子]](軍扇とする流派もある)を開き、あおぎながら発声し、諸軍勢一同が武器を掲げてこれに声を合わせることを「勝鬨」と言った。なお、戦勝後のみならず[[出陣式]]で行うのも勝鬨と言い、出陣の際には「初め弱く終わり強く」、帰陣の際にはその逆にしていたと[[伊勢貞丈]]の『[[軍用記]]』には記されている。[[山鹿流]]の勝鬨を示せば、まず、戦勝の諸隊を前後左右に整置して八行の陣とし、大将は中央の[[床几]]に凭(よ)り、周囲を[[弓矢]]、[[旗]]、[[差物]]で固めたのち、全軍は[[ホラガイ#楽器|法螺貝]]を吹き、[[和太鼓|太鼓]]を鳴らし、「わああ」と数回鬨の声を挙げた。 |
日本の勝鬨は、本や流派によって多少の差異があるが、大将の乗馬は[[東]]向きにし、[[凱旋]]の酒宴において大将は右手に勝栗([[CF#cf|''cf.'']] [[縁起物#食物]]「搗栗」。[[弓 (武器)|弓]]とする[[流派]]もある)を取り、左手に[[扇子]](軍扇とする流派もある)を開き、あおぎながら発声し、諸軍勢一同が武器を掲げてこれに声を合わせることを「勝鬨」と言った。なお、戦勝後のみならず[[出陣式]]で行うのも勝鬨と言い、出陣の際には「初め弱く終わり強く」、帰陣の際にはその逆にしていたと[[伊勢貞丈]]の『[[軍用記]]』には記されている。[[山鹿流]]の勝鬨を示せば、まず、戦勝の諸隊を前後左右に整置して八行の陣とし、大将は中央の[[床几]]に凭(よ)り、周囲を[[弓矢]]、[[旗]]、[[差物]]で固めたのち、全軍は[[ホラガイ#楽器|法螺貝]]を吹き、[[和太鼓|太鼓]]を鳴らし、「わああ」と数回鬨の声を挙げた。 |
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== 備考 == |
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* 勝ち鬨に関する記述として、『[[北条五代記]]』には、[[風魔小太郎]]が部下と共に敵地に侵入し、あちこちで勝ち鬨をあげて敵兵を混乱させる作戦をとったことが記されている(武家作法を心理戦として利用した例)。 |
* 勝ち鬨に関する記述として、『[[北条五代記]]』には、[[風魔小太郎]]が部下と共に敵地に侵入し、あちこちで勝ち鬨をあげて敵兵を混乱させる作戦をとったことが記されている(武家作法を心理戦として利用した例)。 |
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* 他の例として、大将が三度弓杖(ゆんづえ)で地面を叩き、「えい、えい、えい」と'''三声'''の鬨をあげ、家来が声を合わせ、「応(おー)」と応えるものがある<ref>『歴史読本 特集天皇家の閨閥 明治・大正・昭和の皇室 昭和六十三年三月号』 [[新人物往来社]] p.216</ref>。選挙出陣式の際の「えい、えい(二声)、おー」は誤った用法とされる<ref>同・歴史読本 p.216</ref>。 |
* 他の例として、大将が三度弓杖(ゆんづえ)で地面を叩き、「えい、えい、えい」と'''三声'''の鬨をあげ、家来が声を合わせ、「応(おー)」と応えるものがある<ref>『歴史読本 特集天皇家の閨閥 明治・大正・昭和の皇室 昭和六十三年三月号』 [[新人物往来社]] p.216</ref>。選挙出陣式の際の「えい、えい(二声)、おー」は誤った用法とされる<ref>同・歴史読本 p.216</ref>。 |
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* 中世の軍記物では、「鬨」の表記は一様ではなく(脚注も参照)、『[[平治物語]]』では、「たちける羽音を(平家軍が)'''鯨波'''(ときのこえ)と聞きなして」といった表記例も見られる。 |
* 中世の軍記物では、「鬨」の表記は一様ではなく(脚注も参照)、『[[平治物語]]』では、「たちける羽音を(平家軍が)'''鯨波'''(ときのこえ)と聞きなして」といった表記例も見られる。 |
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* [[イーリアス]]の戦いの場面で、[[ディオメーデース]]は「大音声でバトルクライを叫ぶディオメーデース」と呼ばれている。[[ギリシャ人]]やアッカド人は、その声をまねた[[擬声語]]で「'''[[アララ (神)|アララ]]'''」と叫んでいた<ref>[[Walter Burkert|Burkert, Walter]], 1992. ''The Orientalizing Revolution: Near Eastern Influences on Greek Culture in the Early Archaic Age'', p 39f.</ref>。 |
* [[イーリアス]]の戦いの場面で、[[ディオメーデース]]は「大音声でバトルクライを叫ぶディオメーデース」と呼ばれている。[[ギリシャ人]]やアッカド人は、その声をまねた[[擬声語]]で「'''[[アララ (神)|アララ]]'''」と叫んでいた<ref>[[Walter Burkert|Burkert, Walter]], 1992. ''The Orientalizing Revolution: Near Eastern Influences on Greek Culture in the Early Archaic Age'', p 39f.</ref>。 |
2017年12月31日 (日) 09:47時点における版
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鬨(とき)とは、中世の戦(いくさ、戦争や衝突)などの勝負事で勝ちを収めたときの勝ち鬨や、戦場で上げる声である。士気を高める目的で多数の人が一緒に叫ぶ声。凱歌(がいか。勝負事に勝ちを収めたときに歌う喜びの歌)とは同義あるいは一部同義とされるほど近いが、勝鬨は歌ではなく、武家作法の一つ。
日本語の鬨
- 鬨をあわす、鬨をつくる
戦の始めに両軍は互いに声を発した[1]。日本は「えいえい」という大将の掛け声に呼応して軍勢一同が「あう(オオ)」と声を合わせ、これを三度行なったという。「えいえい」は前進激励の「鋭」、「おう」はそれに応じる「応」の意であるという。
- 勝ち鬨
一例として、『鴉鷺合戦物語』(15世紀末前後)にも作法についての記述があり、戦初めの時に「鬨を三度」出し(これは13世紀成立の『平家物語』『平治物語』も同じ。脚注参照)、戦後の勝ち鬨に関しては、「勝ち時(鬨)は一度、始め強く、終わり細かるべし」と記している。
上泉信綱伝の『訓閲集』(大江家の兵法書を戦国風に改めた書)巻十「実検」の中の、帰陣祝いの規式の法、の項に、「勝凱をつくることは、軍神を送り返し、奉る声なり」と記述されており、信仰的な面と繋がっていたことをうかがわせる。なお『訓閲集』の表記では、「えい」も「おう」も異なり、「曳[2](大将が用いるエイ)」「叡(諸卒が用いるエイ)」「王」の字を用いており、また、軍神を勧請する際、「曳叡王(えいえいおう)」と記し、大将が「曳」と発した後に、諸卒が「叡王」とあげるとしており、声に関しては、「初め低く、末高く張り揚げる」と記している(前述の15世紀成立の『鴉鷺物語』と表現に変化がみられる)。
所作
日本の勝鬨は、本や流派によって多少の差異があるが、大将の乗馬は東向きにし、凱旋の酒宴において大将は右手に勝栗(cf. 縁起物#食物「搗栗」。弓とする流派もある)を取り、左手に扇子(軍扇とする流派もある)を開き、あおぎながら発声し、諸軍勢一同が武器を掲げてこれに声を合わせることを「勝鬨」と言った。なお、戦勝後のみならず出陣式で行うのも勝鬨と言い、出陣の際には「初め弱く終わり強く」、帰陣の際にはその逆にしていたと伊勢貞丈の『軍用記』には記されている。山鹿流の勝鬨を示せば、まず、戦勝の諸隊を前後左右に整置して八行の陣とし、大将は中央の床几に凭(よ)り、周囲を弓矢、旗、差物で固めたのち、全軍は法螺貝を吹き、太鼓を鳴らし、「わああ」と数回鬨の声を挙げた。
備考
- 勝ち鬨に関する記述として、『北条五代記』には、風魔小太郎が部下と共に敵地に侵入し、あちこちで勝ち鬨をあげて敵兵を混乱させる作戦をとったことが記されている(武家作法を心理戦として利用した例)。
- 他の例として、大将が三度弓杖(ゆんづえ)で地面を叩き、「えい、えい、えい」と三声の鬨をあげ、家来が声を合わせ、「応(おー)」と応えるものがある[3]。選挙出陣式の際の「えい、えい(二声)、おー」は誤った用法とされる[4]。
- 中国の三国時代、赤壁の戦いにおいて、諸葛亮が深い霧の夜に藁束を積んだ船20艘を率いて北軍に近づき、一斉に鬨の声を挙げさせる。不意を突かれた北軍は声の方角に向かって弓を乱射し、矢は藁束に次々と刺さり、これにより諸葛亮は10万本の矢を補給することに成功した[5]。この逸話のように古くから鬨は戦法として利用されている。
- 中世の軍記物では、「鬨」の表記は一様ではなく(脚注も参照)、『平治物語』では、「たちける羽音を(平家軍が)鯨波(ときのこえ)と聞きなして」といった表記例も見られる。
日本語以外の鬨
- 古代
- イーリアスの戦いの場面で、ディオメーデースは「大音声でバトルクライを叫ぶディオメーデース」と呼ばれている。ギリシャ人やアッカド人は、その声をまねた擬声語で「アララ」と叫んでいた[6]。
- 古代アテネの兵士は、ペルシア戦争とペロポネソス戦争で、彼らの守護女神アテーナーの加護を得る為、使いであるフクロウの声をまねて「アララ」と叫んでいた[7]。
- タミラカムの兵士は、ヒンドゥー教の軍神スカンダの聖槍ヴェルにあやかり、「Vetrivel, Veeravel」(戦勝者のヴェル、勇者のヴェル)と叫んでいた[8]。
- 中世
- Desperta ferres!:中世のカタルーニャ語で「鉄よ目覚めよ!」の意、レコンキスタ時に活躍した傭兵集団アルモガバルスが使用した。
- デウス・ウルト:ラテン語で「神(それを)欲したまう」の意、十字軍が使用した。
- Montjoie Saint Denis:12世紀以降のフランスで使用された。
- サンティエゴ!(または、¡Santiago y cierra, España!):スペインの守護聖人である聖ヤコブのスペイン語での呼び名。レコンキスタ時のイベリア、スペイン帝国で使用された。
- アッラーフ・アクバル:イスラム教の伝統的な鬨の声
- Nobiscum deus(ラテン語で「神は我らと共に」)、Kýrie eléison!(ギリシャ語で「主よ、哀れみたまえ!」)もしくはStavros Nika(ギリシャ語で「十字は勝利する」、または「征服する」):ビザンツ帝国で使用された、前期はラテン語の前者が使われたが、ギリシャ語が公用語となると後者が使われた[9]。
- ハッカペル:フィンランド人が使用した。
- ウウハー:モンゴル人が使用する。近代ではナーダムの試合などで使用される。
- 近代
- Rebel yell:南北戦争で南軍が使用した。
- Jai Mahakali, Ayo Gorkhali!:「勝利の女神マハカリ、グルカは来ている。」の意、グルカ兵が使用する。
- ウラー:「万歳」を意味するロシア語で第二次世界大戦の赤軍が使用し、現在でもロシア陸軍などで使用されている。
- ウーラー:アメリカ海兵隊が使用している。語源は諸説あり、明確ではない。
- エレフセリア・イ・タナトス:ギリシャ語で「自由さもなくば死」の意、ギリシャ独立戦争で使用された。
- サヴォイア:第一次世界大戦時のイタリアで使用された。
- 万歳:第二次世界大戦で日本兵が使用した。詳細は「バンザイ突撃」参照
- マブハイ:「万歳」または「生きのびる」を意味するタガログ語。フィリピン独立革命で使用された。
- ムルデカ:「独立」を意味するインドネシア語、インドネシア独立戦争で使用された。
- 戦の踊り(en:War dance)
- その他(未整理)
- スポーツオノマトペ:運動するときに使用する掛け声「よっこいせ、どっこいしょ」他。運動のコツ・タイミングを表す言葉、あるいはモチベーションやリラクセーションをコントロールする言葉として研究されている[12]。
脚注
- ^ 『平家物語』には、「時(鬨)をつくる事、三ヶ度、(中略)味方にも時の声をぞ あはせたる」とあり、少なくとも平安時代には用いられ、この、敵の声=鬨に応じて、味方が鬨の声をあげる事を「鬨をあわす」という。参考・新村出編 『広辞苑』 岩波書店 第二版1969年 p.1588、一部参考。なお、『平治物語』にも「(前略)三千余騎にて時(鬨)をどつとつくりければ~」とあり、中世の軍記物語では、鬨は「時」の字を用いた。
- ^ この表記に関しては、『土佐物語』にも見られ、「曵々声と共に(出兵した)」といったくだりが度々記されている。ただ、『訓閲集』のような身分による表記の区別はされておらず、四国では曵の字で統一されている。
- ^ 『歴史読本 特集天皇家の閨閥 明治・大正・昭和の皇室 昭和六十三年三月号』 新人物往来社 p.216
- ^ 同・歴史読本 p.216
- ^ 『三国志演義』では諸葛亮の奇策とするが、正史の『呉書』「魏略」引用では、3世紀初めの212年に孫権が指揮したと記される。
- ^ Burkert, Walter, 1992. The Orientalizing Revolution: Near Eastern Influences on Greek Culture in the Early Archaic Age, p 39f.
- ^ Per Hesiod, Penguin Edition of Works and Days
- ^ Kalki R. Krishnamurthy's Ponniyin Selvan: The first floods,Macmillan India Limited, 01.01.2000, p. 300
- ^ The Oxford Encyclopedia of Medieval Warfare and Military Technology: Vol. 1 p.161
- ^ Private and Royal Life in the Ottoman Palace
- ^ Feldgeschrei. In: Heinrich August Pierer, Julius Löbe (Hrsg.): Universal-Lexikon der Gegenwart und Vergangenheit. 4. Auflage. Band 6, Altenburg 1858, S. 170 (online bei zeno.org).
- ^ 育学科第107回「運動・スポーツとオノマトペ」(2013.12)(帝京科学大学)
関連事項
勝鬨の碑と勝鬨の渡し、および、勝鬨橋
- 日露戦争における旅順陥落(1905年[明治38年]1月。cf. 旅順攻囲戦)の直後に、勝鬨の意を籠めて大日本帝国海軍発祥の地である築地に祝勝記念碑として建立されたのが「勝鬨の碑(かちどきのひ)」であり、併せて設置された渡し船が「勝鬨の渡し(かちどきのわたし)」である。さらに1929年(昭和4年)、勝鬨の渡しに代わって架けられた橋にも名は引き継がれ、「勝鬨橋(かちどきばし)」と呼ばれて現在に到る。