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'''アヴィス王朝'''(Dinastia de Avis、{{IPA-pt|ɐˈviʃ}})は、[[1385年]]から[[1580年]]まで[[ポルトガル王国]]を支配した王朝。早々に締結した[[ウィンザー条約]]を後ろ盾に[[大航海時代]]の黄金期を築いた。
'''アヴィス王朝'''(Dinastia de Avis、{{IPA-pt|ɐˈviʃ}})は、[[ポルトガル]]の[[王朝]]。[[ポルトガル]]最初の王朝である[[ブルゴーニュ王朝]]に次いで、[[1385年]]から[[1580年]]まで[[ポルトガル王国]]を支配した。

創始者である[[ジョアン1世 (ポルトガル王)|ジョアン1世]]から最後の国王である[[エンリケ1世 (ポルトガル王)|エンリケ1世]]に至る200年近くの期間のほとんどはポルトガルの「[[大航海時代]]」と重複する<ref name="sp-jiten">金七「アビス朝」『スペイン・ポルトガルを知る事典』新訂増補版、11頁</ref>。[[エンリケ航海王子]]が実施した[[アフリカ大陸]]への進出、[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]のインド航路開拓によって、[[大西洋]]と[[インド洋]]にまたがる「[[ポルトガル海上帝国]]」が出現した<ref name="sp-jiten"/>。香料交易の衰退とともにポルトガルの国力は低下し、1580年に[[スペイン君主一覧|スペイン王]][[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]が空位となったポルトガル王位に就き、王朝は滅亡を迎える。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 成立の背景 ===
[[ブルゴーニュ王朝]]の[[フェルナンド1世 (ポルトガル王)|フェルナンド1世]]の死後、王女[[ベアトリス (ポルトガル女王)|ベアトリス]]と結婚して王位継承をもくろんだ[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]][[カスティーリャ君主一覧|王]][[フアン1世 (カスティーリャ王)|フアン1世]]が軍勢を率いて侵攻したが、[[ペドロ1世 (ポルトガル王)|ペドロ1世]]の[[非嫡出子|私生児]]で[[アヴィス騎士団]]総長を務めていた[[ジョアン1世 (ポルトガル王)|ジョアン1世]]はこれを撃退した。この功績によりジョアンは[[コルテス (身分制議会)|コルテス]](身分制議会)により[[ポルトガル王国|ポルトガル]][[ポルトガル君主一覧|王]]に推戴され、再度侵攻してきたカスティーリャ軍を[[アルジュバロータの戦い]]で撃退して王位を確立した。[[中世]]ヨーロッパでは私生児が王位に就くことは極めて稀で、[[ポルトガルの歴史]]上、新王朝を創設したと見なされる。加えて、国王がコルテスによって選定されたことは文字通り空前絶後の出来事であった。ジョアン1世の息子の一人[[エンリケ航海王子]]は、ポルトガルの大航海時代の基礎を築いた。
13世紀の[[レコンキスタ]]の達成後、ポルトガル社会は封建領主が支配する北部地域、富を蓄えた自治都市のブルジョアジーが影響力を行使する中部地域、[[騎士修道会]]が支配する南部地域に三分される<ref>バーミンガム『ポルトガルの歴史』、33頁</ref>。[[1348年]]秋に流行した[[ペスト|黒死病]]によってポルトガルの総人口は約3分の2に減少し、[[リスボン]]、[[コインブラ]]などの都市部は深刻な被害を受ける<ref>マルケス『ポルトガル』1、97-98頁</ref><ref name="goda369">合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、369頁</ref>。黒死病は零細農民の都市部への流入と農村部の人口の減少、黒死病を恐れる貴族や地主による教会・修道院への土地の寄進などの現象を引き起こし、固定地代に依存していた貴族層の経済力は低下する<ref name="goda369"/>。他方、一部の都市ブルジョアジーはワイン、オリーブオイルなどの輸出によって利益を得るようになり、ポルトガル王はリスボン商人を初めとする新興資産家を政治基盤に取り込むために頻繁に[[コルテス (身分制議会)|コルテス]](身分制議会)を開催し、相対的に王権が強化されていった<ref name="goda369"/>。

黒死病の流行前からポルトガルと隣国の[[カスティーリャ王国]]の関係は悪化しており、ポルトガル王[[フェルナンド1世 (ポルトガル王)|フェルナンド1世]]はカスティーリャ王国の王位継承権を主張して3度の戦争を実施するが、戦争はポルトガルの敗北に終わる<ref name="goda370">合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、370頁</ref>。戦争の結果ポルトガルの国土は荒廃し、戦後の和約でカスティーリャ王[[フアン1世 (カスティーリャ王)|フアン1世]]とフェルナンドのただ一人の子である[[ベアトリス・デ・ポルトゥガル (カスティーリャ王妃)|ベアトリス]]の結婚が取り決められたため、ポルトガルがカスティーリャに併合される可能性が生じる<ref name="goda370"/>。

[[1383年]]10月にフェルナンド1世が没した後、ベアトリスがポルトガル女王に即位し、大貴族メネゼス家出身の王妃でベアトリスの母であるレオノールが摂政となった。戦争に疲弊し、経済的に困窮する都市の下層民や職人層の反乱がベアトリスの即位前から各地で勃発し、都市下層民と一部の貴族はカスティーリャとの戦争で利益を得たレオノールとその寵臣であるオーレム伯アンデイロを悪政の元凶として敵視していた<ref>合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、370-371頁</ref>。

=== 王朝の創始 ===
[[Image:Batalla de Aljubarrota.jpg|160px|thumb|アルジュバロータの戦い]]
1383年12月にフアン1世はレオノール派を援護するためにポルトガルに侵攻し、[[グアルダ]]を占領した<ref name="goda371">合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、371頁</ref>。ポルトガル王[[ペドロ1世 (ポルトガル王)|ペドロ1世]]、フェルナンド1世に仕えた大法官アルヴァロ・パイスはペドロ1世の庶子で[[アヴィス騎士団]]団長の[[ジョアン1世 (ポルトガル王)|ジョアン]]を説得し、一部のリスボン市民と協力してアンデイロを殺害する。反乱軍はジョアンを「王国の統治者、防衛者」に奉じ、蜂起の知らせが全国に広がると各地で民衆の暴動が発生した<ref name="goda371"/>。[[1384年]]1月にレオノールは[[サンタレン]]まで進軍したフアン1世にポルトガルの統治権を委譲し、ポルトガル国内は親カスティーリャ派の大貴族とアヴィス派の下層民・ブルジョアジー・中層貴族に分裂する<ref name="goda371"/>。

当初アヴィス派は不利な状態に置かれていたが、カスティーリャのリスボン包囲に耐え抜いた後にアヴィス派の巻き返しが始まり、1385年5月にコインブラで開催されたコルテスでジョアンがポルトガル国王に選出される<ref name="goda371"/>。同年8月にジョアン1世はリスボン北方の[[アルジュバロータの戦い]]でフアン1世が率いるカスティーリャ軍を破り、ポルトガルは独立を守り抜いた<ref name="goda371"/>。

カスティーリャ王国と対抗する政策上、ポルトガル王国はブルゴーニュ王朝以来の[[イングランド王国]]との同盟を強化し、イギリスとの同盟が外交の軸となる<ref>合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、372頁</ref><ref name="bir36">バーミンガム『ポルトガルの歴史』、36頁</ref>。[[1386年]]にポルトガルとイングランドの間に[[ウィンザー条約]]が締結され、ジョアン1世はイングランド王[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]の孫娘[[フィリパ・デ・レンカストレ|フィリパ]]と結婚した<ref name="bir36"/>。

=== 西アフリカの探検 ===
{{See also|大航海時代}}
[[Image:Henry the Navigator1.jpg|180px|thumb|エンリケ航海王子]]
[[1411年]]にジョアン1世は王位継承者である長男の[[ドゥアルテ1世 (ポルトガル王)|ドゥアルテ]]を共同統治者とする<ref name="horupu1-115">マルケス『ポルトガル』1、115頁</ref>。。[[1387年]]にカスティーリャ王国と最初の休戦協定が結んだ後、[[1396年]]から[[1397年]]にかけて起きた小競り合いを経て数度休戦協定が結ばれ<ref name="horupu114">マルケス『ポルトガル』1、114頁</ref>、1411年にカスティーリャ王国との間に和約が成立したことで隣国からの脅威が取り払われた<ref name="goda378">合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、378頁</ref>。

ブルゴーニュ王朝末期から続く経済危機、新興貴族の台頭という潜在的な危険に対して、ジョアン1世はヨーロッパへの[[金]]の供給元である[[アフリカ大陸]]への進出という手段で解決を図った<ref name="goda378"/>。当初は[[ナスル朝]]が支配する[[グラナダ]]が攻撃先に挙げられていたたが、カスティーリャの感情を考慮して攻撃先は[[モロッコ]]の港湾都市[[セウタ]]に変更された<ref name="goda378"/><ref name="horupu1-116">マルケス『ポルトガル』1、116頁</ref>。[[1415年]]にポルトガル軍は[[マリーン朝]]が支配するセウタを攻略し、ポルトガルは[[世界の一体化]]に行き着くヨーロッパ諸国の対外拡張政策の先陣を切る
<ref>金七『ポルトガル史』増補版、69頁</ref>。カスティーリャなどの同時期の西欧諸国は内乱の火種を抱えていたが、アヴィス家の下で再編されたポルトガルは団結力を強め、他国に先んじて海外に進出することができたと考えられている<ref>合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、377-378頁</ref>。

しかし、アフリカ大陸の金はセウタを避けて他の地中海沿岸の都市に供給されるようになり、セウタの周辺では依然としてイスラーム勢力による抵抗が続いていた<ref name="kinshichi2003-74">金七『ポルトガル史』増補版、74頁</ref>。セウタの処理を巡ってモロッコでの勢力の拡大を主張する[[エンリケ航海王子|ドン・エンリケ(エンリケ航海王子)]]の派閥とセウタからの撤退を主張する[[ペドロ・デ・ポルトゥガル (コインブラ公)|ドン・ペドロ]]の党派に二分された<ref name="horupu1-116"/><ref name="kinshichi2003-74"/>。以後アヴィス朝のアフリカ政策はモロッコでの勢力の拡大を主張する派閥と西アフリカ沿岸部での貿易の強化と拠点の確立を主張する派閥によって左右されるようになる<ref name="goda378"/>。

ジョアン1世の跡を継いだドゥアルテ1世は[[1437年]]に[[タンジール]]に[[十字軍]]を派遣するが遠征は失敗し、従軍していたアヴィス騎士団長[[フェルナンド聖王子|ドン・フェルナンド]]が捕虜とされ、フェルナンドはモロッコの[[フェズ]]で生涯を終える。西アフリカ方面では、[[1434年]]にポルトガル船が[[ボジャドール岬]]の回航に成功し、アフリカ探索の展望が開かれる<ref name="goda379">合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、379頁</ref>。エンリケと彼の支持者はドゥアルテ1世にモロッコでの新たな軍事行動を行うよう主張したが、彼らの意見は採用されず、[[1438年]]にドゥアルテ1世は没する。

ドゥアルテ1世の死後、弱冠6歳の[[アフォンソ5世 (ポルトガル王)|アフォンソ5世]]が即位し、アフォンソ5世の母[[レオノール・デ・アラゴン (ポルトガル王妃)|レオノール]]が摂政を務めた。ドン・エンリケ、ドン・アフォンソら主戦派から支持を得ていたレオノールに対して、ドン・ペドロ、[[ジョアン・デ・ポルトゥガル (1400-1442)|ドン・ジョアン]]がブルジョアジー、下層民の支持を背景にして反乱を起こした<ref name="horupu1-116"/>。ペドロがアフォンソに[[ブラガンサ公|ブラガンサ公爵]]の称号といくつかの特権を与える事で両派の間に妥協が成立し、ペドロは摂政として王国を統治するが、カスティーリャの干渉によって国情はより混迷する<ref name="horupu1-117">マルケス『ポルトガル』1、117頁</ref>。ペドロが摂政の職を解かれた後、アフォンソ5世は叔父のアフォンソの助言を受け入れ始め、先の内戦で敗れたエンリケ、アフォンソらの主戦派が力を取り戻す<ref name="horupu1-117"/>。追い込まれたペドロは反乱を起こすが、[[1449年]]にリスボン近郊のアルファロベイラで戦死する<ref name="horupu1-117"/>。

ドン・ペドロの摂政時代にペドロとエンリケの主導で西アフリカ探検が盛んに行われ、西アフリカで獲得した金と奴隷はポルトガルに利益をもたらした<ref name="goda379"/>。しかし、[[カナリア諸島]]、西アフリカ沿岸部ではイタリア人やカスティーリャ人も交易活動に参加しており、カスティーリャ王国も西アフリカ沿岸部の征服と貿易に強い関心を示し始めた<ref name="goda379"/>。[[1455年]]、[[1456年]]にアフォンソ5世は[[教皇庁]]からキリスト教の布教を大義名分とする第勅書を獲得し、すでに発見された、もしくは将来発見される非キリスト教地域の征服、貿易の独占権、聖職者の叙任権を認められる<ref name="goda379"/>。ドン・ペドロの死後に西アフリカの探検事業は中断され、カスティーリャの王位により強い関心を持っていたアフォンソ5世は海外政策をドン・エンリケに委任する<ref name="kinshichi2003-76">金七『ポルトガル史』増補版、76頁</ref>。モロッコでの拡張政策から西アフリカでの商業開発に転換していたと思われていたドン・エンリケは再び貴族寄りの政策をとり、モロッコでの征服事業を再開する<ref name="kinshichi2003-76"/>。[[1458年]]に[[アフォンソ5世 (ポルトガル王)|アフォンソ5世]]はモロッコに親征を行い、{{仮リンク|クサール・エス=セギール|en|Ksar es-Seghir|label=アルカセル・セギール}}を征服する。1460年代に実施された2度のモロッコ遠征は失敗に終わり、[[1471年]]に[[タンジェ|タンジール]]の征服に成功するが、カスティーリャとの戦争のためにモロッコの征服事業は延長された<ref>マルケス『ポルトガル』1、173-174頁</ref>。

1474年にカスティーリャ王[[エンリケ4世 (カスティーリャ王)|エンリケ4世]]が没した後、カスティーリャの一部の貴族はアフォンソ5世に姪であるカスティーリャ王女[[フアナ・ラ・ベルトラネーハ|フアナ]]との結婚を条件にカスティーリャ王位の継承を提案し、カスティーリャはアフォンソ5世を支持する派閥と[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド]]・[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]]の[[カトリック両王]]を支持する派閥に分かれて争った<ref>マルケス『ポルトガル』1、174頁</ref>。カスティーリャ内部の王位継承戦争と共に、西アフリカ沿岸部におけるポルトガルとカスティーリャの競争は激化するが、[[1479年]]に締結されたアルカソヴァス条約によって西アフリカ沿岸部の領有地域が取り決められた<ref name="goda379"/>。カスティーリャはカナリア諸島と対岸の地域を領有し、ポルトガルはその他の大西洋の島々と[[ヴェルデ岬]]以南の沿岸部を獲得する。アフォンソ5世の王子[[ジョアン2世 (ポルトガル王)|ジョアン]]は[[インド亜大陸|インド]]を西アフリカでの商業的展開の目的地に定め、[[1481年]]にポルトガル王位に就いた後には西アフリカでの探検事業を推進した<ref name="goda381">合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、381頁</ref>。

=== ポルトガル海上帝国の成立 ===
{{See also|ポルトガル海上帝国}}
[[Image:Spain and Portugal.png|190px|thumb|トルデシリャス条約とサラゴーサ条約で引かれた境界線]]
王位に就いたジョアン1世は有力貴族と対立し、1481年に開催したコルテスで領主裁判権と年金の削減などの貴族の特権を抑制する政策を実施した<ref name="horupu1-175">マルケス『ポルトガル』1、175頁</ref>。有力貴族はジョアン2世に対する反乱を企てたが、首謀者であるブラガンサ公[[フェルナンド2世 (ブラガンサ公)|フェルナンド2世]]は斬首され、計画に加担した、あるいは嫌疑をかけられた貴族はポルトガル国外に逃亡する<ref name="horupu1-175"/>。ブラガンサ公に次ぐポルトガルの大貴族でジョアン2世の従弟・義弟でもある[[ヴィゼウ公]][[ディオゴ (ヴィゼウ公)|ディオゴ]]も反乱を企てたが、ジョアン2世はディオゴを刺殺し、ディオゴの計画に参加した貴族は処刑され、あるいは隣国のカスティーリャに逃亡した<ref name="horupu1-175"/>。ジョアン2世が即位してから3年の間に有力貴族の大部分が処刑され、あるいは国外に亡命したため、彼らが所有していた多くの所領が王領地とされた<ref name="horupu1-175"/>。ジョアン2世がブラガンサ公フェルナンド2世を処刑した時に貴族の反国王感情は頂点に達し、公開処刑が行われるたびに国王と貴族の対立は深まっていった<ref name="bir44">バーミンガム『ポルトガルの歴史』、44頁</ref>。

ジョアン2世は西アフリカ探検を推進し、国王の称号に「ギニアの領主」を追加する<ref>金七『ポルトガル史』増補版、82頁</ref>。[[1482年]]にジョアン2世は[[ディオゴ・カン]]、[[バルトロメウ・ディアス]]らを西アフリカ沿岸に派遣してインド航路の開拓を命じた。リスボンを訪れたイタリア人[[クリストファー・コロンブス]]はジョアン2世に西回りでのアジア航路の開拓を提案したが、[[1489年]]にバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南の[[喜望峰]]の就航に成功した報告がもたらされたため、コロンブスの提案は却下される<ref name="goda381"/>。[[スペイン]]の援助を受けて西方への航海に出たコロンブスは[[1492年]]に[[アメリカ大陸]]に到達し、[[1493年]]にスペインは教皇[[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]から[[アゾレス諸島]]の西100リーグの子午線以西で発見された土地の独占権を認められた。ポルトガルは教皇庁の決定に反発し、[[1494年]]6月に締結された[[トルデシリャス条約]]で新たに「発見」される非キリスト教世界の帰属が確認され、ヴェルデ岬諸島の西370リーグ西の西経46度30分の経線([[教皇子午線]])を境界として東の地域はポルトガルに、西の地域はスペインに与えられた<ref>金七『ポルトガル史』増補版、79頁</ref>。[[1500年]]にポルトガル船団によって[[南アメリカ大陸]]の[[ブラジル]]が発見され、植民事業者による開発が進められる<ref>バーミンガム『ポルトガルの歴史』、42-43頁</ref>。

ジョアン2世の治世に宮廷は王権の強化に反対する党派と国王に二分され、[[1495年]]にジョアン2世は没した後、ジョアン2世の義弟[[マヌエル1世 (ポルトガル王)|マヌエル1世]]が貴族側の代表者として即位する<ref name="bir44"/>。マヌエル1世が推進するアジア・アフリカへの進出によって貴族は王権に対立せずとも軍功、官職、財産を獲得する機会に与ることができ、ブラガンサ家などのジョアン2世の治世に失脚した貴族の威信、特権、財産が再興された<ref>マルケス『ポルトガル』1、176-177頁</ref>。マヌエル1世はキリスト教世界で最も豊かな国王と賞賛され、[[1499年]]にマヌエル1世は「エチオピア、アラビア、ペルシア、インドにおける征服、航海、商取引の支配者」の称号を追加する<ref>マルケス『ポルトガル』1、178頁</ref>。

[[1505年]]以後、インド副王[[フランシスコ・デ・アルメイダ]]と総督[[アフォンソ・デ・アルブケルケ]]の指揮下でインド洋沿岸での交易拠点が拡張される<ref name="goda382">合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、382頁</ref>。[[紅海]]を監視下に置くために[[1503年]]に[[ソコトラ島]]にポルトガルの要塞が建設され、[[1515年]]には[[ペルシア湾]]沿岸の商業都市[[ホルムズ]]がポルトガルの支配下に入った。[[1510年]]にポルトガルは胡椒の主生産地である[[マラバール海岸]]の[[パナジ|ゴア]]を征服して[[ポルトガル領インド|インド方面の植民地]]の首府とし、[[1511年]]に東南アジア最大の交易センターである[[マレー半島]]の[[マラッカ]]を占領し、[[マラッカ王国]]を滅ぼした。1505年からポルトガルは北アフリカ沿岸部の都市を征服し、[[アガディール]]近郊のサンタ・クルス・ド・カボ・デ・ゲからアジムール([[ムライ・ブ・サイブ]])、タンジールまでのモロッコ海岸部は事実上ポルトガルの支配下に置かれ、南に進む船舶がイスラム教徒の海賊船に襲撃される危険が取り除かれた<ref>マルケス『ポルトガル』1、178-179頁</ref>。

[[1518年]]に[[シナモン]]の産地である[[セイロン島]]の[[コロンボ]]、[[1522年]]に[[クローブ]]の産地である[[モルッカ諸島]]の[[テルテナ島]]にポルトガルの要塞が建設され、モルッカ諸島の領有権を巡ってスペインとの対立が起きるが、[[1529年]]に締結された[[サラゴーサ条約]]によってスペインは350,000[[ドゥカート]]の受領と[[フィリピン]]の領有と引き換えにモルッカ諸島の領有権を放棄した<ref name="goda383">合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、383頁</ref>。ポルトガルの進出と並行してキリスト教の布教活動も行われ、ゴアなどの重要な拠点には[[司教座]]と神学校([[セミナリオ]]、[[コレジオ]])が置かれ、[[イエズス会]]はポルトガル国王の保護を受けてアジアでの布教活動を行った<ref name="goda383"/>。

=== アルカセル・キビールの敗戦 ===
[[Image:Lagos46 kopie.jpg|160px|thumb|アルカセル・キビールの戦い]]
マヌエル1世の後継者である[[ジョアン3世 (ポルトガル王)|ジョアン3世]]はヨーロッパ方面への関心は薄く、海外進出に熱意を傾けていた<ref name="horupu1-179">マルケス『ポルトガル』1、179頁</ref>。しかし、ポルトガルが占領するモロッコの都市は常にイスラーム勢力の攻撃に晒され、北アフリカでの勢力の拡大は困難な状況となっていた<ref>マルケス『ポルトガル』1、179頁</ref>。ジョアン3世はモロッコ征服の計画を断念して沿岸部の都市からの撤退を決定し、セウタ、タンジール、マザガン([[エルジャディダ]])だけがポルトガルの下に留まる。

ジョアン3世が没した時、彼の9人の嫡子と2人の庶子は全員死没していたため、孫の[[セバスティアン1世 (ポルトガル王)|セバスティアン1世]]が王位に就けられる<ref>安部『波乱万丈のポルトガル史』、135頁</ref>。[[1568年]]まではセバスティアン1世の祖母[[カタリナ・デ・アウストリア]]、大叔父の枢機卿[[エンリケ1世 (ポルトガル王)|ドン・エンリケ]]らが摂政を務めていたが、セバスティアン1世は親政を開始して間もなく祖母の助言を聞き入れなくなり、側近の助言を受けて征服事業に乗り出すようになる<ref name="horupu2-37">マルケス『ポルトガル』2、37頁</ref>。[[1578年]]にセバスティアン1世はモロッコに親征を行うが、[[アルカセル・キビールの戦い]]で[[サアド朝]]の君主[[アブー・マルワン・アブド・アル=マリク1世]]に大敗し、およそ8,000人の貴族と兵士だけでなくセバスティアン1世自身も戦死する<ref name="goda390">合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、390頁</ref>。大敗に終わったセバスティアン1世の遠征には年間の国家収入の半分に達する1,000,000[[クルザード]]以上の軍費が投じられたと言われている<ref name="horupu2-38">マルケス『ポルトガル』2、38頁</ref>。

=== 王朝の断絶、同君連合の成立 ===
セバスティアンの死後、枢機卿ドン・エンリケ([[エンリケ1世 (ポルトガル王)|エンリケ1世]])が王位に就き、モロッコに莫大な身代金を支払って捕虜を取り戻した。ドン・エンリケの即位当時ジョアン3世の子孫は全て没しており<ref name="horupu2-38"/>、マヌエル1世の孫にあたる[[ブラガンサ公]]の妻カタリーナ、[[クラト]]の修道院長[[アントニオ・デ・ポルトゥガル|ドン・アントニオ]]、スペイン王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]らが後継者候補に挙がっていた<ref>合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、390-391頁</ref>。また、カタリーナの姉妹[[マリア・デ・ギマランイス|マリア]]は[[パルマ公]][[アレッサンドロ・ファルネーゼ (パルマ公)|アレッサンドロ・ファルネーゼ]]と結婚し、息子の[[ラヌッチョ1世・ファルネーゼ|ラヌッチョ]]を産んだ跡に没していたが、ラヌッチョは年少であり、アレッサンドロは[[ネーデルラント総督]]としてフェリペ2世に属していた<ref name="horupu2-38"/>。後継者を決めかねたエンリケ1世は[[1579年]]から[[1580年]]の間にコルテスを収集するが、結論は出なかった。1580年1月11日に[[アルメリン]]で開催されたコルテスではリスボン市民の代表者であるフエボ・モンスが外国人の王の即位の反対と独立の維持を訴え、フェリペ2世の働きかけを受けた党派が議会の多数を占めることはできなかった<ref>安部『波乱万丈のポルトガル史』、140頁</ref>。エンリケ1世は[[リスボン大司教]]と4人の貴族で構成される臨時摂政を任命し、1580年1月に後継者を指名しないまま没する<ref name="horupu2-39">マルケス『ポルトガル』2、39頁</ref>。

ポルトガル国民の大部分はドン・アントニオを支持し、彼をスペイン王フェリペ2世に対抗できる唯一の人物と見なしていた<ref name="horupu2-39"/>。だが、経済的に困窮するポルトガルの貴族と聖職者はフェリペ2世に懐柔され、イベリア半島の統一による財政制度の強化を望む大ブルジョアジーはフェリペ2世を支持し、ブラガンサ公もスペインに屈服する<ref name="horupu2-39"/>。1580年6月に[[アルバ公]][[フェルナンド・アルバレス・デ・トレド|フェルナンド]]が指揮するスペイン陸軍とスペイン艦隊がポルトガルに進攻し、アントニオはリスボン、[[サンタレン]]、[[セトゥバル]]などの都市でポルトガル国王への即位を宣言した<ref name="horupu2-39"/>。8月25日にアルカンタラの戦いで勝利を収めたフェルナンドはリスボンに入城し、1580年内に[[アゾレス諸島|アソーレス(アゾレス)諸島]]を除くポルトガルがフェリペ2世の支配下に入る<ref>マルケス『ポルトガル』2、39-40頁</ref>。[[1581年]]4月に[[トマール]]で開催されたコルテスでフェリペ2世はポルトガル王への即位承認され<ref>合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、391頁</ref>、事実上ポルトガルはスペインに併合される<ref name="bir48">バーミンガム『ポルトガルの歴史』、48頁</ref>。

[[1583年]]にはアソーレス諸島もスペインの占領下に入り、フランスに亡命していたアントニオはフランスとイギリスにスペイン領となったポルトガルへの攻撃を依頼した<ref name="horupu40">マルケス『ポルトガル』2、40頁</ref>。[[アルマダの海戦]]でスペイン艦隊に勝利を収めたイギリス艦隊はリスボンを攻撃するが戦果を挙げることはできず、またフェリペ2世はポルトガルに寛大な統治を敷いていたために民衆の放棄も起こらず、[[1595年]]にアントニオが没するとフェリペ2世はポルトガル国王として公認される<ref name="horupu40"/>。[[1640年]]まで[[ハプスブルク家]]出身の人物がポルトガル王とスペイン王を兼任する状態が続き、イベリア半島に同君連合が成立した<ref name="kinshichi2003-118">金七『ポルトガル史』増補版、118頁</ref>。

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ファイル:Philip II of Spain by Antonio Moro.jpg|フェリペ2世
ファイル:Antonio von Crato.jpg|ドン・アントニオ
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[[17世紀]]前半のポルトガルではスペインからの独立を望む民衆の声が強くなり、モロッコで生き延びていたセバスティアン1世がスペインに戻って王位を回復する[[セバスティアニズモ]]の気運が高まる<ref name="goda392">合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、392頁</ref>。1640年12月にポルトガルの貴族は反乱を起こし、彼らに擁立されたブラガンサ公女カタリーナの孫[[ジョアン4世 (ポルトガル王)|ドン・ジョアン]]が王位に就き、[[ブラガンサ王朝]]を創始した。

== 王権の強化 ==
アヴィス王朝の歴代の国王は王権の強化を計り、様々な試みを打ち出した。

ジョアン1世は商人からの援助の取り付けを試み、政治的・経済的に重要な要職に就く人物をポルトガル国内のブルジョアジー、小貴族、職人層の人間の中から抜擢した<ref name="horupu1-115"/>。アヴィス派の蜂起に財政支援という形で協力したリスボンや[[ポルト]]のブルジョアジーには、政府の政策決定に参画する権利が認められる<ref>合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、372-373頁</ref>。同時に新興の土地貴族が勢力を伸ばし、新しい封建領主層の代表者である{{仮リンク|ヌノ・アルヴァレス・ペレイラ|en|Nuno Álvares Pereira}}が隠棲した後、彼の娘婿でジョアン1世の庶子でもある[[アフォンソ1世 (ブラガンサ公)|ドン・アフォンソ]]が義父の財産と政治的地位を相続した<ref name="horupu1-115"/>。ジョアン1世が創設した常備軍によって王権は強化され、彼の存命中に王子ドゥアルテが国政に参画したため、次第に国王とコルテスの間に距離が生じていった<ref>ブールドン『ポルトガル史』、43-44頁</ref>。

ジョアン1世は王朝の功績があった貴族に多くの所領を与えたため、国庫は窮乏に陥っていた<ref name="abe69">安部『波乱万丈のポルトガル史』、69頁</ref>。ジョアン1世の跡を継いだドゥアルテ1世は恩賞として与えた土地・財産の相続人を長男に限定し、それらの資産の売却・分割を認めず、女性・尊属・傍系親族を相続人と認めない不文律を成文法として制定する<ref name="abe69"/>。

ジョアン1世の治世にコルテスは公判かつ複雑な法令の簡略化と統一を要請し、アフォンソ5世の治世に法典が完成した<ref>ブールドン『ポルトガル史』、44頁</ref>。ドン・ペドロの摂政時代の[[1446年]]にアフォンソ法典が発布され、法制による国内の統合が試みられた。ドン・ペドロが没した後のアフォンソ5世の親政時代には貴族が王権の強化に反発し、アフォンソ5世は対外戦争に従軍した代償として多くの王領地を貴族に授与した<ref name="goda385">合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、385頁</ref>。

ジョアン2世から[[ジョアン3世 (ポルトガル王)|ジョアン3世]]にかけての治世に、海外交易によって得た莫大な収益を背景として行われた王権の強化は成功を収める<ref name="goda385"/>。アフォンソ5世の治世まで毎年開催されていたコルテスの頻度はジョアン2世の低下から低下し、課税にあたって国王はコルテスの承認を得る必要がなくなっていた<ref name="goda386"/>。ジョアン2世は大貴族の力を抑え、中小貴族にポルトガル本国や海外拠点の官職を与えて宮廷貴族とし、彼らの後ろ盾となった<ref>合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、385-386頁</ref>。

ジョアン2世の跡を継いだマヌエル1世は貴族に対して寛大な態度をとったアフォンソ5世の方針と容赦の無い弾圧を加えたジョアン2世の方針の折衷案として、王権に敵対する党派に妥協的な姿勢をもって接する<ref>マルケス『ポルトガル』1、176頁</ref>。マヌエル1世の在位中には貴族の伝統的な権利を保護するためにスペイン風の制度を導入し、同時にブルジョワジーの力を抑制した<ref name="bir45">バーミンガム『ポルトガルの歴史』、45頁</ref>。マヌエル1世の即位時に[[キリスト騎士団]]、ジョアン3世の治世に[[サンティアゴ騎士団]]とアヴィス騎士団が王室に吸収されたためにこれまで騎士修道会の勢力下にあったポルトガル南部が王領地に併合され、王領地がポルトガル本土の半分以上を占めるようになった<ref name="goda386"/><ref>金七『ポルトガル史』増補版、101-102頁</ref>。[[1512年]]に発布された新たな法典である『マヌエル法典』には、中央集権化を推進する[[ルネサンス]]時代の特徴が現れている<ref name="horupu1-150">マルケス『ポルトガル』1、150頁</ref>。『マヌエル法典』の公布によって各地の[[コンセーリョ]](自治共同体)は自治権を失い、フォラル(特許状)は国法の遵守と国王への義務を明記する文書に変質し、ポルトガルの官僚絶対主義国家への転換が進んでいく<ref name="kinshichi2003-102">金七『ポルトガル史』増補版、102頁</ref>。

ジョアン3世の時代になると国王の権威はより高められ、これまで神に対して使用されていた「Najestade」の称号が国王に対して使われるようになる<ref name="kinshichi2003-102"/>。ジョアン3世の治世の末期からセバスティアン1世の治世の大部分にポルトガルは安定期を迎え、大規模な変革は起こらなかった<ref name="horupu2-37"/>。セバスティアン1世の摂政のカタリナとドン・エンリケ、親政を開始したセバスティアン1世らの治世に施行された法律の大部分は信仰や教会に関するものだった<ref name="horupu2-37"/>。

== 社会 ==
ポルトガルの首都リスボンは海外交易と行政の中心として急速に発展し、[[イベリア半島]]最大の都市に成長する<ref name="goda386">合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、386頁</ref>。人口はリスボンに集中し、ポルト、コインブラ、[[エヴォラ]]などの地方都市の人口は100,000を超える人口を抱えるリスボンと開きがあり、規模は20,000人以下に収まっていた<ref name="goda386"/><ref>金七『ポルトガル史』増補版、110頁</ref>。また、国勢調査の結果からポルトガル南部は都市内部に世帯が集中し、北部は都市内部よりも周辺域の世帯が多い地域性が判明している<ref>金七『ポルトガル史』増補版、111頁</ref>。

マヌエル1世の治世に中央の行政・裁判機関である宮廷控訴院が設置され、地方の行政・裁判単位は6の州に区画される。16世紀諸島のポルトガルの州は北からエントレ・ドーロ・イ・ミーニョ、トラズ・オズ・モンテス、ベイラ、エストゥレマドゥーラ、エントレ・テージョ・イ・グァディアナ、アルガルヴェに区画されていた<ref>金七『ポルトガル史』増補版、102-103頁</ref>。そのうちポルトガル王国建国後の1143年に征服されたアルガルヴェは王国として扱われていたため、ポルトガル国王は「ポルトガル並びにアルガルヴェの王」と称されていた<ref name="kinshichi2003-103">金七『ポルトガル史』増補版、103頁</ref>。州の長官であるコレジェドールは任地のコンセーリョの行政・裁判・警察に強力な権限を行使し、コレジェドールの下に城代であるアルカイデ・モルとコンセーリョの代表者(オーメン・ボン)から選出される数人のアルカイデ・ペケノが置かれていた<ref name="kinshichi2003-103"/>。オーメン・ボンを選出するコンセーリョ内の選挙、裁判官、市会議員、物価監督官と言ったコンセーリョ内の役職者や自治体で起きた揉め事はコレジェドールの監督下に置かれ、中央から派遣された長官の権力の強化と自治体の独立性の減退をもたらした<ref name="kinshichi2003-103"/>。

王朝の成立の契機となった1383年の内乱において王国の摂政権を争う勢力は都市と農村で支持基盤の強化にいそしみ、結果的に内乱は様々な層の人間が政治に参加する契機となった<ref name="bir34">バーミンガム『ポルトガルの歴史』、34頁</ref>。内乱を経てポルトガルの政治的再編が行われ、旧来の大貴族層に代わって新興の貴族が権力を握った<ref>合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、371-372頁</ref>。14世紀後半のポルトガルを襲った経済危機の中で富豪層とブルジョアジーで構成される中産階級が力をつけ、彼らは下層民や貴族と反目していた<ref name="horupu1-101">マルケス『ポルトガル』1、101頁</ref>。政治権力と名誉を志向する富豪層と異なり、富豪層よりも数の多いブルジョワジーは収入の増加と商機の拡大を望んでいた<ref name="horupu1-101"/>。ポルトガルのアフリカ政策において土地の獲得を望む貴族、商業的影響力の拡大を望むブルジョアジーの利害が対立する<ref>合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、378-379頁</ref>。ドン・ペドロの摂政時代にはペドロを支持する商人と地主層の対立が発生し、権力闘争の結果ペドロは摂政職を解任される<ref>バーミンガム『ポルトガルの歴史』、40-41頁</ref>。16世紀半ばから他の国と同じようにポルトガルでも商人の数が減少し、資本が小数の集団に集まる動きが見られた<ref>マルケス『ポルトガル』2、24頁</ref>。

ポルトガル南部に広がる広大な私有地(ラティフンディオ)では労働力が不足しており、労働力を補うためにモロッコや西アフリカで奴隷狩りが行われ、黒人奴隷の売買は南アメリカの植民地開拓まで続けられた<ref name="bir4142">バーミンガム『ポルトガルの歴史』、41-42頁</ref>。ポルトガルに流入する黒人の数は増加するが、アフリカから連行された奴隷には多くの法的な権利が認められていなかった<ref>バーミンガム『ポルトガルの歴史』、41頁</ref>。16世紀に入るとアフリカで確保した多くの黒人奴隷がブラジルに労働力として送られるようになり、アフリカ・ブラジル間の奴隷貿易は成功を収める<ref>バーミンガム『ポルトガルの歴史』、43頁</ref>。やがて黒人奴隷とポルトガル人の混血が進んでいき、ポルトガルに居住するアフリカ系の黒人は徐々にポルトガル人のマジョリティの中に溶け込んでいく<ref name="bir4142"/>。

[[1492年]]にスペインから追放された[[ユダヤ人]]の多くはポルトガルに流入し、国王マヌエル1世はスペインに配慮してユダヤ人の追放を宣言したものの、彼らは金融・経済・知的専門職・職工としてポルトガル社会の中で重要な役割を担っていたため、ポルトガルに留め置かれた<ref name="goda389">合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、389頁</ref>。レコンキスタを達成したスペインで起きた宗教的寛容の喪失はポルトガルにも及び、1497年にイスラム教徒とユダヤ教徒の礼拝式が法律によって禁止される<ref>バーミンガム『ポルトガルの歴史』、47頁</ref>。同1497年にユダヤ人の強制改宗が行われ、彼らは「[[新キリスト教徒]]」と呼ばれて一般のキリスト教徒と区別された<ref name="goda389"/>。新キリスト教徒はこれまでキリスト教徒のみが占有していた分野に進出したため、民衆は新たな反ユダヤ感情を抱き、1506年にリスボンで2,000人のユダヤ人が虐殺される[[ポグロム]](ユダヤ人への迫害)が発生する<ref name="kinshichi2003-107">金七『ポルトガル史』増補版、107頁</ref>。マヌエル1世は暴動の首謀者に厳罰を与え、新キリスト教徒に対する差別を禁止する<ref name="kinshichi2003-107"/>。

マヌエル1世とジョアン3世は王権の強化のための道具として[[異端審問所]]を設置したが、[[プロテスタント]]とキリスト教徒との急速な同化によって数を減らしていた新キリスト教徒は当時のポルトガルの宗教的統一を妨げる要素とならなかった<ref name="horupu2-21">マルケス『ポルトガル』2、21頁</ref>。このため異端審問所は存在の意義を確かなものにするために、信仰から逸脱した疑いがあるあらゆる行為に弾圧を加え、新キリスト教徒も攻撃の対象とされた<ref name="horupu2-21"/>。異端審問所の迫害を恐れた新キリスト教徒は[[オランダ]]、フランス、[[ドイツ]]、[[北アフリカ]]、[[トルコ]]に亡命し、宗教的に寛容だったオランダの[[アムステルダム]]には新キリスト教徒の居住区が形成された<ref name="kinshichi2003-109">金七『ポルトガル史』増補版、109頁</ref>。アムステルダムの新キリスト教徒は移住後もポルトガルやその植民地であるブラジルとの商取引を続け、オランダ経済の発展に貢献した<ref name="kinshichi2003-109"/>。

== 経済 ==
フェルナンド1世の軍事行動、ジョアン1世在位中の戦役などの理由によって、[[1369年]]からポルトガルで急激なインフレーションが発生する<ref name="horupu1-100">マルケス『ポルトガル』1、100頁</ref>。14世紀末にポルトガルの戦争は事実上終結するが、ポルトガル経済は調整段階にあり、[[1409年]]にインフレーションはピークを迎える<ref name="horupu1-100"/>。14世紀末に従来ポルトガルで使用されていた[[デナリウス|ディニェイロ]]通貨に代えてカスティーリャを模倣した[[レアル (通貨)|レアル]]が取って代わり、[[1435年]]から[[1436年]]にかけてのドゥアルテ1世の治世に通貨を安定させることに成功する<ref name="horupu1-100"/>。15世紀初頭に外国の通貨、あるいは現物が取引の決済に使われることがしばしばあり、民衆がポルトガルの通貨を受け入れなかったため、国王は政令によって強制的に自国の通貨の流通を促した<ref>マルケス『ポルトガル』1、100-101頁</ref>。金の流通元であるアフリカへの進出、銀の採掘技術の改良によってポルトガルに流入する金と銀の量は増加し、1489年に通貨改革が実施されてからおよそ50年間ポルトガルの通貨は安定した状態を保っていた<ref>マルケス『ポルトガル』1、150-151頁</ref>。ポルトガル国内で数十の異なる[[度量衡]]が使われている状況は全国的な商取引の障害となっていたが、アヴィス王朝時代に特定の分野で度量衡の数の制限や基準の強制的な統一に成功する<ref name="horupu1-150"/>。アフォンソ5世とジョアン2世はサンタレン、ポルト、リスボンの基準を全国に適用し、マヌエル1世は[[1499年]]に国内で使用される全ての度量衡をリスボンの市参事会で決定された基準に定めた<ref name="horupu1-150"/>。

1450年代から1550年代にかけてポルトガルでは開墾運動が進展し、重要な事例として[[コインブラ大聖堂]]とサンタクルス修道院によるモンデゴ川下流域の開墾事業が上げられている<ref name="horupu1-145">マルケス『ポルトガル』1、145頁</ref>。12世紀から13世紀にかけて開発された土地では[[小麦]]や[[ライ麦]]などの穀物が栽培されていたが、15世紀半ばに開墾された土地では少ない人手で多くの収益が得られる[[ブドウ]]と[[オリーブ]]が優先的に栽培された<ref name="horupu1-145"/>。スペインによってアメリカ大陸からヨーロッパ大陸にもたらされた[[トウモロコシ]]はポルトガル農民に受け入れられていき、伝統的な小麦畑は減少していった<ref>マルケス『ポルトガル』1、146頁</ref>。家畜の放牧移動が農地に与える損害を抑えるために放牧地の数と面積は削減され、農業の発達と耕地の増加は牧畜の衰退をもたらしている<ref>マルケス『ポルトガル』1、147頁</ref>。

官僚、軍隊の維持と宮廷貴族の扶養に多くの出費を要し、王室の財政は常に逼迫した状態に置かれていた<ref name="kinshichi2003-115116">金七『ポルトガル史』増補版、115-116頁</ref>。1500年にマヌエル1世は公債(パドラン・デ・ジュロ)を発行するが、やがて香料貿易で得た全ての利益を利子の支払いに充填しなければならなくなる<ref name="kinshichi2003-115116"/>。

== 海外貿易の展開 ==
{{See also|ポルトガル海上帝国}}
ポルトガルは[[サハラ交易]]のルートを抑えるためにしばしばモロッコに遠征を行ったが成功を収められず、西アフリカの海岸線を経由する別のルートの確立に取り掛かった<ref name="bir40">バーミンガム『ポルトガルの歴史』、40頁</ref>。1460年代からポルトガル人は[[セネガル]]で金の買い付けを開始し、およそ20年後にポルトガル船は[[ギニア湾]]の{{仮リンク|ポルトガル領ゴールド・コースト|en|Portuguese Gold Coast|label=黄金海岸}}に達する。[[1482年]]にギニア湾岸に要塞の役割を兼ね備えたサン・ジョルジュ・ダ・ミナ商館が設置され、商館を拠点として金、奴隷、マラゲタ胡椒、[[象牙]]の貿易が発展する<ref>合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、379,381頁</ref>。これまで陸路で運ばれていた西アフリカの金の一部がサン・ジョルジュ・ダ・ミナに入り、年に500kgの金がポルトガルに流入するようになった<ref name="bir40"/>。ポルトガルの海外交易はリスボン王宮のインド商務院によって統制され、輸入された商品は[[フランドル]]地方に置かれた商館からヨーロッパ各地に出荷された<ref name="goda384">合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、384頁</ref>。

ポルトガルは隣国のスペインよりも早くインド航路を発見し、武力によるイスラーム商人が支配的な地位を有するインド洋の交易ネットワークへの参加を試みた<ref name="goda382"/>。ポルトガルは南アジア原産の香辛料の生産と流通を統制下に置き、ペルシア湾、紅海を経由する既存の海路の遮断のため、インド洋沿岸の軍事・交易上の要所に商館と要塞が建設される<ref name="goda382"/>。ポルトガルによって既存の香辛料の流通路が絶たれた結果、ヨーロッパ側の流通路の末端に位置する[[ヴェネツィア共和国]]は損失を被り、[[フッガー家]]や[[ヴェルザー家]]などの大商人はリスボンに拠点を置いた<ref name="goda383"/><ref>金七『ポルトガル史』増補版、82頁</ref>。しかし、ポルトガル海軍は紅海沿岸の[[アデン]]を陥落させることができず、インド領ポルトガルは港市での交易を現地の商人に薦めて関税を徴収したために西アジアに向かう隊商に香辛料が供給され、紅海を経由する旧来の交易ルートは依然として健在だった<ref name="goda383"/>。16世紀半ばからインド方面香料交易の衰退、ヴェネツィア、トルコ、、スペイン、マラバルに加えて後発の海外進出国であるイギリス、フランス、オランダといった強力なライバルの出現はポルトガルの商業活動に打撃を与え、1549年にフランドルに置かれたポルトガル商館は閉鎖される<ref>金七『ポルトガル史』増補版、113-114頁</ref>。

15世紀に大西洋の島々への植民事業がエンリケ航海王子と騎士修道会によって実施され、植民地で生産された農産物はポルトガル本国に輸送された<ref name="bir37">バーミンガム『ポルトガルの歴史』、37頁</ref>。ポルトガルの植民地のうち、カスティーリャに譲渡されたカナリア諸島ではブドウの栽培とワインの生産、[[マデイラ諸島]]やアゾレス諸島では小麦、[[サントメ島]]ではサトウキビの生産が進められ、[[カーボベルデ]]では奴隷によって栽培された綿花とインディゴを使った繊維業が発達した。金、[[銀]]、香辛料は王室の独占品とされていたが、1550年代以降は王室貿易の一部が大貴族や騎士団に特権として譲渡される。交易の衰退に際した王室は[[1570年]]に香料交易の独占を取りやめ、民間との契約制に切り替える<ref>金七『ポルトガル史』増補版、114頁</ref>。

喜望峰航路を経た王室の香辛料貿易は16世紀半ばから次第に下火となるが、インドやペルシアから入荷した宝石、ダイヤモンドや絹、インドの綿織物、中国の陶磁器などの取扱量は増加し、アジア貿易は17世紀まで高収益を上げていた<ref name="goda385"/>。ポルトガル人の商業活動は東アジア方面でも展開され、[[1543年]]に[[日本]]の[[種子島]]にポルトガル船が漂着し、[[1557年]]に[[マカオ]]をポルトガルの租借地とした後、ポルトガル人は中国の生糸、金と日本の銀を扱う中継貿易で利益を得た<ref name="goda385"/>。アジア方面の香辛料貿易の決済には銀が必要とされていたがヨーロッパからの供給量には限度があり、多量の銀を産出する[[メキシコ]]、[[ペルー]]を領有するスペインはポルトガル人にとって魅力的に映った<ref name="goda390"/>。銀の需要の高まり、貿易航路の拡大といった経済的理由は、1580年に達成されるイベリア半島統一の一因となる<ref name="goda390"/>。

== 文化 ==
[[Image:The Monastery of Jerónimos, Lisbon, Portugal. jeny1.jpg|180px|thumb|ジェロニモス修道院]]
[[Image:Camões, por Fernão Gomes.jpg|180px|thumb|ルイス・デ・カモンイス]]
王朝の創始者であるジョアン1世はアルジュバロータの戦勝を記念してポルトガルで最も美しいと言われる[[バターリャ修道院]]を建立し、リスボン市は神への感謝の証として[[カルメル会|カルメル修道会]]の大聖堂の建築を援助した<ref name="bir34"/>。船具、天球儀など航海に関するモチーフで装飾された建築様式は[[マヌエル様式]]と呼ばれ、ガマの功績を記念してリスボン郊外に建立された[[ジェロニモス修道院]]と[[ベレンの塔]]、[[トマール]]の[[トマールのキリスト教修道院|修道院]]などの建物が挙げられる<ref name="goda387">合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、387頁</ref>。

14世紀後半から15世紀にかけて、ポルトガル語による[[詩]]・[[散文]]に特筆すべき作品はほとんど見られない<ref name="horupu1-103">マルケス『ポルトガル』1、103頁</ref>。一方、このポルトガル文学の衰退期に実用的・教訓的内容を含んだ書物の傑作がいくつか現れており、代表作にジョアン1世が著したと考えられている『狩りの書』、ドゥアルテ1世が著した『馬術伝授の書』『国王の相談役』が挙げられる<ref name="horupu1-103"/>。王朝の創始を正当化する必要性からドゥアルテ1世は史家[[フェルナン・ロペス]]にジョアン1世の治世と事跡についての執筆を命じ、事件と人物の自然な描写を残したロペスは近代的かつ科学的な史家と見なされている<ref name="horupu1-166">マルケス『ポルトガル』1、166頁</ref>。アフォンソ5世とジョアン2世の宮廷では伝統的な形式をとる即興的で軽妙な詩が作られ、その成果はガルシア・デ・レゼンデ(1470年? - 1536年)によって『古歌集成』にまとめられている<ref name="horupu1-166"/>。

経済的繁栄と[[コスモポリタニズム]]を背景として16世紀前半のポルトガルでは多くの若者がヨーロッパの主要な学術の拠点に留学し、彼らの大部分は帰国した後に自国の文化に大きな影響を与えた<ref name="horupu1-163">マルケス『ポルトガル』1、163頁</ref>。イタリア、フランスで起きた[[ルネサンス]]の人文主義運動の影響はポルトガルにも及び、[[ダミアン・デ・ゴイス]]らによって[[ラテン語]]の著作が書かれた<ref name="goda388">合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、388頁</ref>。同時にポルトガル語を尊重する傾向も強まり、『ポルトガル語文法』([[1536年]])を著した[[フェルナン・デ・オリヴェイラ]]、ポルトガル演劇の父と呼ばれる[[ジル・ヴィセンテ]]、ポルトガル史の叙事詩『[[ウズ・ルジアダス]]』([[1572年]])で知られる[[ルイス・デ・カモンイス]]らが活躍した<ref name="goda388"/>。改宗したユダヤ人である「新キリスト教徒」は金融・経済だけでなく自然科学の分野でも活躍し、インドでの経験を活かした『インド香料薬草論』([[1563年]])で独自の薬物学を著した[[ガルシア・デ・オルタ]]、インド領ポルトガル副王[[ジョアン・デ・カストロ]]や現地の航海者の協力を得て航海学・天文学・数学を発展させたペドロ・ヌネスなどの人物が現れる<ref name="goda389"/>。

アジア、アフリカ、アメリカの探索の中で[[ゴメス・エアネス・デ・ズララ]]の『ギネー踏査征服史』、[[トメ・ピレス]]の『東洋諸国史』などの地誌が著され、それらの報告者によって未知の土地の経験知がもたらされた<ref>合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、388-389頁</ref>。絵画の分野では、『[[サン・ヴィセンテの祭壇画]]』の作者とされる[[ヌーノ・ゴンサルヴェス]]が知られている。ルネサンスの影響は中等教育と高等教育にも及び、修道院、大聖堂に付設された学校、[[コレジオ]]、私立学校の教育課程が刷新される<ref name="horupu1-163"/>。これらの学校では[[ヘブライ語]]と[[ギリシア語]]が教授されるようになり、ラテン語の教育は古典ラテン語の正確な文法知識に基づいて行われるようになった<ref name="horupu1-163"/>。一方、[[スコラ学|スコラ哲学]]と中世的価値観に則った[[大学]]の教授と学生は人文主義の潮流に抵抗を示し、自治権への干渉を試みる国家と争った<ref>マルケス『ポルトガル』1、164-165頁</ref>。


[[1521年]]に即位したジョアン3世は当初[[人文主義者]]を保護する姿勢をとっていたが、治世の後半には[[イエズス会]]と反宗教改革の立場をとる保守的なキリスト教徒の意見を受け入れるようになり、教育機関への経済的援助を打ち切って人文主義者に処罰を与えた<ref name="horupu1-179"/>。異端審問所の設立と同時期に出版物への[[検閲]]が本格化し、1540年から検閲の規則がいくつか公布される<ref name="horupu2-3031">マルケス『ポルトガル』2、30-31頁</ref>。検閲制度による「思想税関」は[[プロテスタンティズム]]や新しい思想の流入を未然に阻止し、国内のカトリック信仰の統一の維持に大きな役割を果たした<ref name="kinshichi2003-109"/>。[[1547年]]にイタリア、スペインの先例をモデルにした禁書目録が作成され、異端とされた書物、わいせつでふしだらなことが書かれた書物、魔術書、錬金術書が禁書とされた<ref name="horupu2-3031"/>。ポルトガルの作家の作品の多くが「信仰と良俗に反する」ものと見なされて検閲の対象となり、カモンイス、ヴィセンテらの作品は禁書になり、あるいは一部分が削除された<ref name="horupu2-3031"/>。[[1548年]]に創設されたコインブラ学芸学院はポルトガルの人文主義運動の拠点となっていたが、学院で教授される思想はイエズス会のネオ・スコラ思想の攻撃を受け、教授の一部は異端審問所によって追放される<ref>金七『ポルトガル史』増補版、120頁</ref>。
アヴィス家の嫡流は[[ジョアン2世 (ポルトガル王)|ジョアン2世]]を最後に断絶し、その死後に従弟で王妃[[レオノール・デ・ヴィゼウ]]の弟でもあった[[マヌエル1世 (ポルトガル王)|マヌエル1世]]が王位を継いだ。マヌエル1世の家系を特に'''アヴィス=ベージャ家'''(Avis-Beja)と呼ぶ。このマヌエル1世と[[ジョアン3世 (ポルトガル王)|ジョアン3世]]の時代にポルトガルは[[喜望峰]]経由で[[インド洋]]に進出し、香料貿易を独占、黄金期を迎える。


[[1555年]]に人文主義運動の中心地であるコインブラ学芸学院はイエズス会によって運営されるようになり、ジョアン3世から厚い保護を受けたイエズス会は上層階級での影響力を強め、ポルトガル国内の教育を一手に担うようになる<ref>金七『ポルトガル史』増補版、109-110,120頁</ref>。[[1559年]]に創設された[[エヴォラ大学]]の運営はイエズス会に委任されており、聖職者が教授を務め、学生の大部分は聖職者の卵だった<ref name="horupu2-37"/>。異端審問所、イエズス会の活動、検閲制度はポルトガルの科学と文化の発展を停滞させ<ref name="horupu2-3031"/><ref>金七『ポルトガル史』増補版、121頁</ref>、思想の締め付けと同時に地下文学が生み出された<ref name="horupu2-3031"/>。
しかし1578年、[[アルカセル・キビールの戦い]]により[[セバスティアン1世 (ポルトガル王)|セバスティアン]]王が後継者もなく[[モロッコ]]で戦死すると、ポルトガルでは再び後継者問題が生じた。ひとまずセバスティアンの大叔父(ジョアン3世の弟)にあたる[[エンリケ1世 (ポルトガル王)|エンリケ]]が王位に就いたが、高齢のため間もなく亡くなり、結局マヌエル1世の娘[[イサベル・デ・ポルトゥガル・イ・アラゴン|イザベル]]の息子である[[スペイン]][[スペイン君主一覧|王]][[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]](在位:1556年 - 1598年)が1580年にポルトガル王位を継承した。以後、[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]]まで3代にわたって[[スペイン・ハプスブルク朝|スペイン・ハプスブルク家]]の王がスペインとポルトガルの王位を兼ねる[[同君連合]]体制が続いたが、[[ポルトガル王政復古戦争]]を経て、1640年に[[ブラガンサ王朝]]の下で独立を回復した。ブラガンサ家はジョアン1世の私生児ブラガンサ公[[アフォンソ1世 (ブラガンサ公)|アフォンソ1世]]の子孫の家系であり、また初代の国王[[ジョアン4世 (ポルトガル王)|ジョアン4世]]の祖母カタリナはマヌエル1世の孫であった。


== 歴代国王==
== 歴代国王==
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*<span style="border:2px solid #000000;background-color:#ff9;padding:2px;"> </span>:[[トラスタマラ家]]の人物
*<span style="border:2px solid #000000;background-color:#ff9;padding:2px;"> </span>:[[トラスタマラ家]]の人物
*<span style="border:2px solid #000000;background-color:#dfd;padding:2px;"> </span>:[[ハプスブルク家]]の人物
*<span style="border:2px solid #000000;background-color:#dfd;padding:2px;"> </span>:[[ハプスブルク家]]の人物

== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* 安部真穏『波乱万丈のポルトガル史』(泰流選書, 泰流社, 1994年7月)
* 金七紀男「アビス朝」『スペイン・ポルトガルを知る事典』新訂増補版収録(平凡社, 2001年10月)
* 金七紀男『ポルトガル史』増補版(彩流社、2003年4月)
* 合田昌史「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』収録(立石博高編、新版世界各国史、山川出版社、2000年6月)
* 合田昌史「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』収録(立石博高編、新版世界各国史、山川出版社、2000年6月)
* デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』(ケンブリッジ版世界各国史, 創土社, 2002年4月)
* アルベール=アラン・ブールドン『ポルトガル史』(福嶋正徳、広田正敏共訳、文庫クセジュ、白水社、1979年5月)
* A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス『ポルトガル』1(金七紀男訳、世界の教科書=歴史、ほるぷ出版、1981年11月)
* A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス『ポルトガル』2(金七紀男訳、世界の教科書=歴史、ほるぷ出版、1981年11月)


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化]]
*[[サン・ヴィセンテの祭壇画]]:アヴィス家の結束のために作られたとも言われ、同王朝の初期君主達が描かれている。
* [[ポルトガルの歴史]]
* [[ポルトガル王国]]
* [[ポルトガル君主一覧]]


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2016年2月21日 (日) 04:09時点における版

アヴィス王朝(Dinastia de Avis、ポルトガル語発音: [ɐˈviʃ])は、ポルトガル王朝ポルトガル最初の王朝であるブルゴーニュ王朝に次いで、1385年から1580年までポルトガル王国を支配した。

創始者であるジョアン1世から最後の国王であるエンリケ1世に至る200年近くの期間のほとんどはポルトガルの「大航海時代」と重複する[1]エンリケ航海王子が実施したアフリカ大陸への進出、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓によって、大西洋インド洋にまたがる「ポルトガル海上帝国」が出現した[1]。香料交易の衰退とともにポルトガルの国力は低下し、1580年にスペイン王フェリペ2世が空位となったポルトガル王位に就き、王朝は滅亡を迎える。

歴史

成立の背景

13世紀のレコンキスタの達成後、ポルトガル社会は封建領主が支配する北部地域、富を蓄えた自治都市のブルジョアジーが影響力を行使する中部地域、騎士修道会が支配する南部地域に三分される[2]1348年秋に流行した黒死病によってポルトガルの総人口は約3分の2に減少し、リスボンコインブラなどの都市部は深刻な被害を受ける[3][4]。黒死病は零細農民の都市部への流入と農村部の人口の減少、黒死病を恐れる貴族や地主による教会・修道院への土地の寄進などの現象を引き起こし、固定地代に依存していた貴族層の経済力は低下する[4]。他方、一部の都市ブルジョアジーはワイン、オリーブオイルなどの輸出によって利益を得るようになり、ポルトガル王はリスボン商人を初めとする新興資産家を政治基盤に取り込むために頻繁にコルテス(身分制議会)を開催し、相対的に王権が強化されていった[4]

黒死病の流行前からポルトガルと隣国のカスティーリャ王国の関係は悪化しており、ポルトガル王フェルナンド1世はカスティーリャ王国の王位継承権を主張して3度の戦争を実施するが、戦争はポルトガルの敗北に終わる[5]。戦争の結果ポルトガルの国土は荒廃し、戦後の和約でカスティーリャ王フアン1世とフェルナンドのただ一人の子であるベアトリスの結婚が取り決められたため、ポルトガルがカスティーリャに併合される可能性が生じる[5]

1383年10月にフェルナンド1世が没した後、ベアトリスがポルトガル女王に即位し、大貴族メネゼス家出身の王妃でベアトリスの母であるレオノールが摂政となった。戦争に疲弊し、経済的に困窮する都市の下層民や職人層の反乱がベアトリスの即位前から各地で勃発し、都市下層民と一部の貴族はカスティーリャとの戦争で利益を得たレオノールとその寵臣であるオーレム伯アンデイロを悪政の元凶として敵視していた[6]

王朝の創始

アルジュバロータの戦い

1383年12月にフアン1世はレオノール派を援護するためにポルトガルに侵攻し、グアルダを占領した[7]。ポルトガル王ペドロ1世、フェルナンド1世に仕えた大法官アルヴァロ・パイスはペドロ1世の庶子でアヴィス騎士団団長のジョアンを説得し、一部のリスボン市民と協力してアンデイロを殺害する。反乱軍はジョアンを「王国の統治者、防衛者」に奉じ、蜂起の知らせが全国に広がると各地で民衆の暴動が発生した[7]1384年1月にレオノールはサンタレンまで進軍したフアン1世にポルトガルの統治権を委譲し、ポルトガル国内は親カスティーリャ派の大貴族とアヴィス派の下層民・ブルジョアジー・中層貴族に分裂する[7]

当初アヴィス派は不利な状態に置かれていたが、カスティーリャのリスボン包囲に耐え抜いた後にアヴィス派の巻き返しが始まり、1385年5月にコインブラで開催されたコルテスでジョアンがポルトガル国王に選出される[7]。同年8月にジョアン1世はリスボン北方のアルジュバロータの戦いでフアン1世が率いるカスティーリャ軍を破り、ポルトガルは独立を守り抜いた[7]

カスティーリャ王国と対抗する政策上、ポルトガル王国はブルゴーニュ王朝以来のイングランド王国との同盟を強化し、イギリスとの同盟が外交の軸となる[8][9]1386年にポルトガルとイングランドの間にウィンザー条約が締結され、ジョアン1世はイングランド王エドワード3世の孫娘フィリパと結婚した[9]

西アフリカの探検

エンリケ航海王子

1411年にジョアン1世は王位継承者である長男のドゥアルテを共同統治者とする[10]。。1387年にカスティーリャ王国と最初の休戦協定が結んだ後、1396年から1397年にかけて起きた小競り合いを経て数度休戦協定が結ばれ[11]、1411年にカスティーリャ王国との間に和約が成立したことで隣国からの脅威が取り払われた[12]

ブルゴーニュ王朝末期から続く経済危機、新興貴族の台頭という潜在的な危険に対して、ジョアン1世はヨーロッパへのの供給元であるアフリカ大陸への進出という手段で解決を図った[12]。当初はナスル朝が支配するグラナダが攻撃先に挙げられていたたが、カスティーリャの感情を考慮して攻撃先はモロッコの港湾都市セウタに変更された[12][13]1415年にポルトガル軍はマリーン朝が支配するセウタを攻略し、ポルトガルは世界の一体化に行き着くヨーロッパ諸国の対外拡張政策の先陣を切る [14]。カスティーリャなどの同時期の西欧諸国は内乱の火種を抱えていたが、アヴィス家の下で再編されたポルトガルは団結力を強め、他国に先んじて海外に進出することができたと考えられている[15]

しかし、アフリカ大陸の金はセウタを避けて他の地中海沿岸の都市に供給されるようになり、セウタの周辺では依然としてイスラーム勢力による抵抗が続いていた[16]。セウタの処理を巡ってモロッコでの勢力の拡大を主張するドン・エンリケ(エンリケ航海王子)の派閥とセウタからの撤退を主張するドン・ペドロの党派に二分された[13][16]。以後アヴィス朝のアフリカ政策はモロッコでの勢力の拡大を主張する派閥と西アフリカ沿岸部での貿易の強化と拠点の確立を主張する派閥によって左右されるようになる[12]

ジョアン1世の跡を継いだドゥアルテ1世は1437年タンジール十字軍を派遣するが遠征は失敗し、従軍していたアヴィス騎士団長ドン・フェルナンドが捕虜とされ、フェルナンドはモロッコのフェズで生涯を終える。西アフリカ方面では、1434年にポルトガル船がボジャドール岬の回航に成功し、アフリカ探索の展望が開かれる[17]。エンリケと彼の支持者はドゥアルテ1世にモロッコでの新たな軍事行動を行うよう主張したが、彼らの意見は採用されず、1438年にドゥアルテ1世は没する。

ドゥアルテ1世の死後、弱冠6歳のアフォンソ5世が即位し、アフォンソ5世の母レオノールが摂政を務めた。ドン・エンリケ、ドン・アフォンソら主戦派から支持を得ていたレオノールに対して、ドン・ペドロ、ドン・ジョアンがブルジョアジー、下層民の支持を背景にして反乱を起こした[13]。ペドロがアフォンソにブラガンサ公爵の称号といくつかの特権を与える事で両派の間に妥協が成立し、ペドロは摂政として王国を統治するが、カスティーリャの干渉によって国情はより混迷する[18]。ペドロが摂政の職を解かれた後、アフォンソ5世は叔父のアフォンソの助言を受け入れ始め、先の内戦で敗れたエンリケ、アフォンソらの主戦派が力を取り戻す[18]。追い込まれたペドロは反乱を起こすが、1449年にリスボン近郊のアルファロベイラで戦死する[18]

ドン・ペドロの摂政時代にペドロとエンリケの主導で西アフリカ探検が盛んに行われ、西アフリカで獲得した金と奴隷はポルトガルに利益をもたらした[17]。しかし、カナリア諸島、西アフリカ沿岸部ではイタリア人やカスティーリャ人も交易活動に参加しており、カスティーリャ王国も西アフリカ沿岸部の征服と貿易に強い関心を示し始めた[17]1455年1456年にアフォンソ5世は教皇庁からキリスト教の布教を大義名分とする第勅書を獲得し、すでに発見された、もしくは将来発見される非キリスト教地域の征服、貿易の独占権、聖職者の叙任権を認められる[17]。ドン・ペドロの死後に西アフリカの探検事業は中断され、カスティーリャの王位により強い関心を持っていたアフォンソ5世は海外政策をドン・エンリケに委任する[19]。モロッコでの拡張政策から西アフリカでの商業開発に転換していたと思われていたドン・エンリケは再び貴族寄りの政策をとり、モロッコでの征服事業を再開する[19]1458年アフォンソ5世はモロッコに親征を行い、アルカセル・セギール英語版を征服する。1460年代に実施された2度のモロッコ遠征は失敗に終わり、1471年タンジールの征服に成功するが、カスティーリャとの戦争のためにモロッコの征服事業は延長された[20]

1474年にカスティーリャ王エンリケ4世が没した後、カスティーリャの一部の貴族はアフォンソ5世に姪であるカスティーリャ王女フアナとの結婚を条件にカスティーリャ王位の継承を提案し、カスティーリャはアフォンソ5世を支持する派閥とフェルナンドイサベル1世カトリック両王を支持する派閥に分かれて争った[21]。カスティーリャ内部の王位継承戦争と共に、西アフリカ沿岸部におけるポルトガルとカスティーリャの競争は激化するが、1479年に締結されたアルカソヴァス条約によって西アフリカ沿岸部の領有地域が取り決められた[17]。カスティーリャはカナリア諸島と対岸の地域を領有し、ポルトガルはその他の大西洋の島々とヴェルデ岬以南の沿岸部を獲得する。アフォンソ5世の王子ジョアンインドを西アフリカでの商業的展開の目的地に定め、1481年にポルトガル王位に就いた後には西アフリカでの探検事業を推進した[22]

ポルトガル海上帝国の成立

トルデシリャス条約とサラゴーサ条約で引かれた境界線

王位に就いたジョアン1世は有力貴族と対立し、1481年に開催したコルテスで領主裁判権と年金の削減などの貴族の特権を抑制する政策を実施した[23]。有力貴族はジョアン2世に対する反乱を企てたが、首謀者であるブラガンサ公フェルナンド2世は斬首され、計画に加担した、あるいは嫌疑をかけられた貴族はポルトガル国外に逃亡する[23]。ブラガンサ公に次ぐポルトガルの大貴族でジョアン2世の従弟・義弟でもあるヴィゼウ公ディオゴも反乱を企てたが、ジョアン2世はディオゴを刺殺し、ディオゴの計画に参加した貴族は処刑され、あるいは隣国のカスティーリャに逃亡した[23]。ジョアン2世が即位してから3年の間に有力貴族の大部分が処刑され、あるいは国外に亡命したため、彼らが所有していた多くの所領が王領地とされた[23]。ジョアン2世がブラガンサ公フェルナンド2世を処刑した時に貴族の反国王感情は頂点に達し、公開処刑が行われるたびに国王と貴族の対立は深まっていった[24]

ジョアン2世は西アフリカ探検を推進し、国王の称号に「ギニアの領主」を追加する[25]1482年にジョアン2世はディオゴ・カンバルトロメウ・ディアスらを西アフリカ沿岸に派遣してインド航路の開拓を命じた。リスボンを訪れたイタリア人クリストファー・コロンブスはジョアン2世に西回りでのアジア航路の開拓を提案したが、1489年にバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南の喜望峰の就航に成功した報告がもたらされたため、コロンブスの提案は却下される[22]スペインの援助を受けて西方への航海に出たコロンブスは1492年アメリカ大陸に到達し、1493年にスペインは教皇アレクサンデル6世からアゾレス諸島の西100リーグの子午線以西で発見された土地の独占権を認められた。ポルトガルは教皇庁の決定に反発し、1494年6月に締結されたトルデシリャス条約で新たに「発見」される非キリスト教世界の帰属が確認され、ヴェルデ岬諸島の西370リーグ西の西経46度30分の経線(教皇子午線)を境界として東の地域はポルトガルに、西の地域はスペインに与えられた[26]1500年にポルトガル船団によって南アメリカ大陸ブラジルが発見され、植民事業者による開発が進められる[27]

ジョアン2世の治世に宮廷は王権の強化に反対する党派と国王に二分され、1495年にジョアン2世は没した後、ジョアン2世の義弟マヌエル1世が貴族側の代表者として即位する[24]。マヌエル1世が推進するアジア・アフリカへの進出によって貴族は王権に対立せずとも軍功、官職、財産を獲得する機会に与ることができ、ブラガンサ家などのジョアン2世の治世に失脚した貴族の威信、特権、財産が再興された[28]。マヌエル1世はキリスト教世界で最も豊かな国王と賞賛され、1499年にマヌエル1世は「エチオピア、アラビア、ペルシア、インドにおける征服、航海、商取引の支配者」の称号を追加する[29]

1505年以後、インド副王フランシスコ・デ・アルメイダと総督アフォンソ・デ・アルブケルケの指揮下でインド洋沿岸での交易拠点が拡張される[30]紅海を監視下に置くために1503年ソコトラ島にポルトガルの要塞が建設され、1515年にはペルシア湾沿岸の商業都市ホルムズがポルトガルの支配下に入った。1510年にポルトガルは胡椒の主生産地であるマラバール海岸ゴアを征服してインド方面の植民地の首府とし、1511年に東南アジア最大の交易センターであるマレー半島マラッカを占領し、マラッカ王国を滅ぼした。1505年からポルトガルは北アフリカ沿岸部の都市を征服し、アガディール近郊のサンタ・クルス・ド・カボ・デ・ゲからアジムール(ムライ・ブ・サイブ)、タンジールまでのモロッコ海岸部は事実上ポルトガルの支配下に置かれ、南に進む船舶がイスラム教徒の海賊船に襲撃される危険が取り除かれた[31]

1518年シナモンの産地であるセイロン島コロンボ1522年クローブの産地であるモルッカ諸島テルテナ島にポルトガルの要塞が建設され、モルッカ諸島の領有権を巡ってスペインとの対立が起きるが、1529年に締結されたサラゴーサ条約によってスペインは350,000ドゥカートの受領とフィリピンの領有と引き換えにモルッカ諸島の領有権を放棄した[32]。ポルトガルの進出と並行してキリスト教の布教活動も行われ、ゴアなどの重要な拠点には司教座と神学校(セミナリオコレジオ)が置かれ、イエズス会はポルトガル国王の保護を受けてアジアでの布教活動を行った[32]

アルカセル・キビールの敗戦

アルカセル・キビールの戦い

マヌエル1世の後継者であるジョアン3世はヨーロッパ方面への関心は薄く、海外進出に熱意を傾けていた[33]。しかし、ポルトガルが占領するモロッコの都市は常にイスラーム勢力の攻撃に晒され、北アフリカでの勢力の拡大は困難な状況となっていた[34]。ジョアン3世はモロッコ征服の計画を断念して沿岸部の都市からの撤退を決定し、セウタ、タンジール、マザガン(エルジャディダ)だけがポルトガルの下に留まる。

ジョアン3世が没した時、彼の9人の嫡子と2人の庶子は全員死没していたため、孫のセバスティアン1世が王位に就けられる[35]1568年まではセバスティアン1世の祖母カタリナ・デ・アウストリア、大叔父の枢機卿ドン・エンリケらが摂政を務めていたが、セバスティアン1世は親政を開始して間もなく祖母の助言を聞き入れなくなり、側近の助言を受けて征服事業に乗り出すようになる[36]1578年にセバスティアン1世はモロッコに親征を行うが、アルカセル・キビールの戦いサアド朝の君主アブー・マルワン・アブド・アル=マリク1世に大敗し、およそ8,000人の貴族と兵士だけでなくセバスティアン1世自身も戦死する[37]。大敗に終わったセバスティアン1世の遠征には年間の国家収入の半分に達する1,000,000クルザード以上の軍費が投じられたと言われている[38]

王朝の断絶、同君連合の成立

セバスティアンの死後、枢機卿ドン・エンリケ(エンリケ1世)が王位に就き、モロッコに莫大な身代金を支払って捕虜を取り戻した。ドン・エンリケの即位当時ジョアン3世の子孫は全て没しており[38]、マヌエル1世の孫にあたるブラガンサ公の妻カタリーナ、クラトの修道院長ドン・アントニオ、スペイン王フェリペ2世らが後継者候補に挙がっていた[39]。また、カタリーナの姉妹マリアパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼと結婚し、息子のラヌッチョを産んだ跡に没していたが、ラヌッチョは年少であり、アレッサンドロはネーデルラント総督としてフェリペ2世に属していた[38]。後継者を決めかねたエンリケ1世は1579年から1580年の間にコルテスを収集するが、結論は出なかった。1580年1月11日にアルメリンで開催されたコルテスではリスボン市民の代表者であるフエボ・モンスが外国人の王の即位の反対と独立の維持を訴え、フェリペ2世の働きかけを受けた党派が議会の多数を占めることはできなかった[40]。エンリケ1世はリスボン大司教と4人の貴族で構成される臨時摂政を任命し、1580年1月に後継者を指名しないまま没する[41]

ポルトガル国民の大部分はドン・アントニオを支持し、彼をスペイン王フェリペ2世に対抗できる唯一の人物と見なしていた[41]。だが、経済的に困窮するポルトガルの貴族と聖職者はフェリペ2世に懐柔され、イベリア半島の統一による財政制度の強化を望む大ブルジョアジーはフェリペ2世を支持し、ブラガンサ公もスペインに屈服する[41]。1580年6月にアルバ公フェルナンドが指揮するスペイン陸軍とスペイン艦隊がポルトガルに進攻し、アントニオはリスボン、サンタレンセトゥバルなどの都市でポルトガル国王への即位を宣言した[41]。8月25日にアルカンタラの戦いで勝利を収めたフェルナンドはリスボンに入城し、1580年内にアソーレス(アゾレス)諸島を除くポルトガルがフェリペ2世の支配下に入る[42]1581年4月にトマールで開催されたコルテスでフェリペ2世はポルトガル王への即位承認され[43]、事実上ポルトガルはスペインに併合される[44]

1583年にはアソーレス諸島もスペインの占領下に入り、フランスに亡命していたアントニオはフランスとイギリスにスペイン領となったポルトガルへの攻撃を依頼した[45]アルマダの海戦でスペイン艦隊に勝利を収めたイギリス艦隊はリスボンを攻撃するが戦果を挙げることはできず、またフェリペ2世はポルトガルに寛大な統治を敷いていたために民衆の放棄も起こらず、1595年にアントニオが没するとフェリペ2世はポルトガル国王として公認される[45]1640年までハプスブルク家出身の人物がポルトガル王とスペイン王を兼任する状態が続き、イベリア半島に同君連合が成立した[46]

17世紀前半のポルトガルではスペインからの独立を望む民衆の声が強くなり、モロッコで生き延びていたセバスティアン1世がスペインに戻って王位を回復するセバスティアニズモの気運が高まる[47]。1640年12月にポルトガルの貴族は反乱を起こし、彼らに擁立されたブラガンサ公女カタリーナの孫ドン・ジョアンが王位に就き、ブラガンサ王朝を創始した。

王権の強化

アヴィス王朝の歴代の国王は王権の強化を計り、様々な試みを打ち出した。

ジョアン1世は商人からの援助の取り付けを試み、政治的・経済的に重要な要職に就く人物をポルトガル国内のブルジョアジー、小貴族、職人層の人間の中から抜擢した[10]。アヴィス派の蜂起に財政支援という形で協力したリスボンやポルトのブルジョアジーには、政府の政策決定に参画する権利が認められる[48]。同時に新興の土地貴族が勢力を伸ばし、新しい封建領主層の代表者であるヌノ・アルヴァレス・ペレイラ英語版が隠棲した後、彼の娘婿でジョアン1世の庶子でもあるドン・アフォンソが義父の財産と政治的地位を相続した[10]。ジョアン1世が創設した常備軍によって王権は強化され、彼の存命中に王子ドゥアルテが国政に参画したため、次第に国王とコルテスの間に距離が生じていった[49]

ジョアン1世は王朝の功績があった貴族に多くの所領を与えたため、国庫は窮乏に陥っていた[50]。ジョアン1世の跡を継いだドゥアルテ1世は恩賞として与えた土地・財産の相続人を長男に限定し、それらの資産の売却・分割を認めず、女性・尊属・傍系親族を相続人と認めない不文律を成文法として制定する[50]

ジョアン1世の治世にコルテスは公判かつ複雑な法令の簡略化と統一を要請し、アフォンソ5世の治世に法典が完成した[51]。ドン・ペドロの摂政時代の1446年にアフォンソ法典が発布され、法制による国内の統合が試みられた。ドン・ペドロが没した後のアフォンソ5世の親政時代には貴族が王権の強化に反発し、アフォンソ5世は対外戦争に従軍した代償として多くの王領地を貴族に授与した[52]

ジョアン2世からジョアン3世にかけての治世に、海外交易によって得た莫大な収益を背景として行われた王権の強化は成功を収める[52]。アフォンソ5世の治世まで毎年開催されていたコルテスの頻度はジョアン2世の低下から低下し、課税にあたって国王はコルテスの承認を得る必要がなくなっていた[53]。ジョアン2世は大貴族の力を抑え、中小貴族にポルトガル本国や海外拠点の官職を与えて宮廷貴族とし、彼らの後ろ盾となった[54]

ジョアン2世の跡を継いだマヌエル1世は貴族に対して寛大な態度をとったアフォンソ5世の方針と容赦の無い弾圧を加えたジョアン2世の方針の折衷案として、王権に敵対する党派に妥協的な姿勢をもって接する[55]。マヌエル1世の在位中には貴族の伝統的な権利を保護するためにスペイン風の制度を導入し、同時にブルジョワジーの力を抑制した[56]。マヌエル1世の即位時にキリスト騎士団、ジョアン3世の治世にサンティアゴ騎士団とアヴィス騎士団が王室に吸収されたためにこれまで騎士修道会の勢力下にあったポルトガル南部が王領地に併合され、王領地がポルトガル本土の半分以上を占めるようになった[53][57]1512年に発布された新たな法典である『マヌエル法典』には、中央集権化を推進するルネサンス時代の特徴が現れている[58]。『マヌエル法典』の公布によって各地のコンセーリョ(自治共同体)は自治権を失い、フォラル(特許状)は国法の遵守と国王への義務を明記する文書に変質し、ポルトガルの官僚絶対主義国家への転換が進んでいく[59]

ジョアン3世の時代になると国王の権威はより高められ、これまで神に対して使用されていた「Najestade」の称号が国王に対して使われるようになる[59]。ジョアン3世の治世の末期からセバスティアン1世の治世の大部分にポルトガルは安定期を迎え、大規模な変革は起こらなかった[36]。セバスティアン1世の摂政のカタリナとドン・エンリケ、親政を開始したセバスティアン1世らの治世に施行された法律の大部分は信仰や教会に関するものだった[36]

社会

ポルトガルの首都リスボンは海外交易と行政の中心として急速に発展し、イベリア半島最大の都市に成長する[53]。人口はリスボンに集中し、ポルト、コインブラ、エヴォラなどの地方都市の人口は100,000を超える人口を抱えるリスボンと開きがあり、規模は20,000人以下に収まっていた[53][60]。また、国勢調査の結果からポルトガル南部は都市内部に世帯が集中し、北部は都市内部よりも周辺域の世帯が多い地域性が判明している[61]

マヌエル1世の治世に中央の行政・裁判機関である宮廷控訴院が設置され、地方の行政・裁判単位は6の州に区画される。16世紀諸島のポルトガルの州は北からエントレ・ドーロ・イ・ミーニョ、トラズ・オズ・モンテス、ベイラ、エストゥレマドゥーラ、エントレ・テージョ・イ・グァディアナ、アルガルヴェに区画されていた[62]。そのうちポルトガル王国建国後の1143年に征服されたアルガルヴェは王国として扱われていたため、ポルトガル国王は「ポルトガル並びにアルガルヴェの王」と称されていた[63]。州の長官であるコレジェドールは任地のコンセーリョの行政・裁判・警察に強力な権限を行使し、コレジェドールの下に城代であるアルカイデ・モルとコンセーリョの代表者(オーメン・ボン)から選出される数人のアルカイデ・ペケノが置かれていた[63]。オーメン・ボンを選出するコンセーリョ内の選挙、裁判官、市会議員、物価監督官と言ったコンセーリョ内の役職者や自治体で起きた揉め事はコレジェドールの監督下に置かれ、中央から派遣された長官の権力の強化と自治体の独立性の減退をもたらした[63]

王朝の成立の契機となった1383年の内乱において王国の摂政権を争う勢力は都市と農村で支持基盤の強化にいそしみ、結果的に内乱は様々な層の人間が政治に参加する契機となった[64]。内乱を経てポルトガルの政治的再編が行われ、旧来の大貴族層に代わって新興の貴族が権力を握った[65]。14世紀後半のポルトガルを襲った経済危機の中で富豪層とブルジョアジーで構成される中産階級が力をつけ、彼らは下層民や貴族と反目していた[66]。政治権力と名誉を志向する富豪層と異なり、富豪層よりも数の多いブルジョワジーは収入の増加と商機の拡大を望んでいた[66]。ポルトガルのアフリカ政策において土地の獲得を望む貴族、商業的影響力の拡大を望むブルジョアジーの利害が対立する[67]。ドン・ペドロの摂政時代にはペドロを支持する商人と地主層の対立が発生し、権力闘争の結果ペドロは摂政職を解任される[68]。16世紀半ばから他の国と同じようにポルトガルでも商人の数が減少し、資本が小数の集団に集まる動きが見られた[69]

ポルトガル南部に広がる広大な私有地(ラティフンディオ)では労働力が不足しており、労働力を補うためにモロッコや西アフリカで奴隷狩りが行われ、黒人奴隷の売買は南アメリカの植民地開拓まで続けられた[70]。ポルトガルに流入する黒人の数は増加するが、アフリカから連行された奴隷には多くの法的な権利が認められていなかった[71]。16世紀に入るとアフリカで確保した多くの黒人奴隷がブラジルに労働力として送られるようになり、アフリカ・ブラジル間の奴隷貿易は成功を収める[72]。やがて黒人奴隷とポルトガル人の混血が進んでいき、ポルトガルに居住するアフリカ系の黒人は徐々にポルトガル人のマジョリティの中に溶け込んでいく[70]

1492年にスペインから追放されたユダヤ人の多くはポルトガルに流入し、国王マヌエル1世はスペインに配慮してユダヤ人の追放を宣言したものの、彼らは金融・経済・知的専門職・職工としてポルトガル社会の中で重要な役割を担っていたため、ポルトガルに留め置かれた[73]。レコンキスタを達成したスペインで起きた宗教的寛容の喪失はポルトガルにも及び、1497年にイスラム教徒とユダヤ教徒の礼拝式が法律によって禁止される[74]。同1497年にユダヤ人の強制改宗が行われ、彼らは「新キリスト教徒」と呼ばれて一般のキリスト教徒と区別された[73]。新キリスト教徒はこれまでキリスト教徒のみが占有していた分野に進出したため、民衆は新たな反ユダヤ感情を抱き、1506年にリスボンで2,000人のユダヤ人が虐殺されるポグロム(ユダヤ人への迫害)が発生する[75]。マヌエル1世は暴動の首謀者に厳罰を与え、新キリスト教徒に対する差別を禁止する[75]

マヌエル1世とジョアン3世は王権の強化のための道具として異端審問所を設置したが、プロテスタントとキリスト教徒との急速な同化によって数を減らしていた新キリスト教徒は当時のポルトガルの宗教的統一を妨げる要素とならなかった[76]。このため異端審問所は存在の意義を確かなものにするために、信仰から逸脱した疑いがあるあらゆる行為に弾圧を加え、新キリスト教徒も攻撃の対象とされた[76]。異端審問所の迫害を恐れた新キリスト教徒はオランダ、フランス、ドイツ北アフリカトルコに亡命し、宗教的に寛容だったオランダのアムステルダムには新キリスト教徒の居住区が形成された[77]。アムステルダムの新キリスト教徒は移住後もポルトガルやその植民地であるブラジルとの商取引を続け、オランダ経済の発展に貢献した[77]

経済

フェルナンド1世の軍事行動、ジョアン1世在位中の戦役などの理由によって、1369年からポルトガルで急激なインフレーションが発生する[78]。14世紀末にポルトガルの戦争は事実上終結するが、ポルトガル経済は調整段階にあり、1409年にインフレーションはピークを迎える[78]。14世紀末に従来ポルトガルで使用されていたディニェイロ通貨に代えてカスティーリャを模倣したレアルが取って代わり、1435年から1436年にかけてのドゥアルテ1世の治世に通貨を安定させることに成功する[78]。15世紀初頭に外国の通貨、あるいは現物が取引の決済に使われることがしばしばあり、民衆がポルトガルの通貨を受け入れなかったため、国王は政令によって強制的に自国の通貨の流通を促した[79]。金の流通元であるアフリカへの進出、銀の採掘技術の改良によってポルトガルに流入する金と銀の量は増加し、1489年に通貨改革が実施されてからおよそ50年間ポルトガルの通貨は安定した状態を保っていた[80]。ポルトガル国内で数十の異なる度量衡が使われている状況は全国的な商取引の障害となっていたが、アヴィス王朝時代に特定の分野で度量衡の数の制限や基準の強制的な統一に成功する[58]。アフォンソ5世とジョアン2世はサンタレン、ポルト、リスボンの基準を全国に適用し、マヌエル1世は1499年に国内で使用される全ての度量衡をリスボンの市参事会で決定された基準に定めた[58]

1450年代から1550年代にかけてポルトガルでは開墾運動が進展し、重要な事例としてコインブラ大聖堂とサンタクルス修道院によるモンデゴ川下流域の開墾事業が上げられている[81]。12世紀から13世紀にかけて開発された土地では小麦ライ麦などの穀物が栽培されていたが、15世紀半ばに開墾された土地では少ない人手で多くの収益が得られるブドウオリーブが優先的に栽培された[81]。スペインによってアメリカ大陸からヨーロッパ大陸にもたらされたトウモロコシはポルトガル農民に受け入れられていき、伝統的な小麦畑は減少していった[82]。家畜の放牧移動が農地に与える損害を抑えるために放牧地の数と面積は削減され、農業の発達と耕地の増加は牧畜の衰退をもたらしている[83]

官僚、軍隊の維持と宮廷貴族の扶養に多くの出費を要し、王室の財政は常に逼迫した状態に置かれていた[84]。1500年にマヌエル1世は公債(パドラン・デ・ジュロ)を発行するが、やがて香料貿易で得た全ての利益を利子の支払いに充填しなければならなくなる[84]

海外貿易の展開

ポルトガルはサハラ交易のルートを抑えるためにしばしばモロッコに遠征を行ったが成功を収められず、西アフリカの海岸線を経由する別のルートの確立に取り掛かった[85]。1460年代からポルトガル人はセネガルで金の買い付けを開始し、およそ20年後にポルトガル船はギニア湾黄金海岸英語版に達する。1482年にギニア湾岸に要塞の役割を兼ね備えたサン・ジョルジュ・ダ・ミナ商館が設置され、商館を拠点として金、奴隷、マラゲタ胡椒、象牙の貿易が発展する[86]。これまで陸路で運ばれていた西アフリカの金の一部がサン・ジョルジュ・ダ・ミナに入り、年に500kgの金がポルトガルに流入するようになった[85]。ポルトガルの海外交易はリスボン王宮のインド商務院によって統制され、輸入された商品はフランドル地方に置かれた商館からヨーロッパ各地に出荷された[87]

ポルトガルは隣国のスペインよりも早くインド航路を発見し、武力によるイスラーム商人が支配的な地位を有するインド洋の交易ネットワークへの参加を試みた[30]。ポルトガルは南アジア原産の香辛料の生産と流通を統制下に置き、ペルシア湾、紅海を経由する既存の海路の遮断のため、インド洋沿岸の軍事・交易上の要所に商館と要塞が建設される[30]。ポルトガルによって既存の香辛料の流通路が絶たれた結果、ヨーロッパ側の流通路の末端に位置するヴェネツィア共和国は損失を被り、フッガー家ヴェルザー家などの大商人はリスボンに拠点を置いた[32][88]。しかし、ポルトガル海軍は紅海沿岸のアデンを陥落させることができず、インド領ポルトガルは港市での交易を現地の商人に薦めて関税を徴収したために西アジアに向かう隊商に香辛料が供給され、紅海を経由する旧来の交易ルートは依然として健在だった[32]。16世紀半ばからインド方面香料交易の衰退、ヴェネツィア、トルコ、、スペイン、マラバルに加えて後発の海外進出国であるイギリス、フランス、オランダといった強力なライバルの出現はポルトガルの商業活動に打撃を与え、1549年にフランドルに置かれたポルトガル商館は閉鎖される[89]

15世紀に大西洋の島々への植民事業がエンリケ航海王子と騎士修道会によって実施され、植民地で生産された農産物はポルトガル本国に輸送された[90]。ポルトガルの植民地のうち、カスティーリャに譲渡されたカナリア諸島ではブドウの栽培とワインの生産、マデイラ諸島やアゾレス諸島では小麦、サントメ島ではサトウキビの生産が進められ、カーボベルデでは奴隷によって栽培された綿花とインディゴを使った繊維業が発達した。金、、香辛料は王室の独占品とされていたが、1550年代以降は王室貿易の一部が大貴族や騎士団に特権として譲渡される。交易の衰退に際した王室は1570年に香料交易の独占を取りやめ、民間との契約制に切り替える[91]

喜望峰航路を経た王室の香辛料貿易は16世紀半ばから次第に下火となるが、インドやペルシアから入荷した宝石、ダイヤモンドや絹、インドの綿織物、中国の陶磁器などの取扱量は増加し、アジア貿易は17世紀まで高収益を上げていた[52]。ポルトガル人の商業活動は東アジア方面でも展開され、1543年日本種子島にポルトガル船が漂着し、1557年マカオをポルトガルの租借地とした後、ポルトガル人は中国の生糸、金と日本の銀を扱う中継貿易で利益を得た[52]。アジア方面の香辛料貿易の決済には銀が必要とされていたがヨーロッパからの供給量には限度があり、多量の銀を産出するメキシコペルーを領有するスペインはポルトガル人にとって魅力的に映った[37]。銀の需要の高まり、貿易航路の拡大といった経済的理由は、1580年に達成されるイベリア半島統一の一因となる[37]

文化

ジェロニモス修道院
ルイス・デ・カモンイス

王朝の創始者であるジョアン1世はアルジュバロータの戦勝を記念してポルトガルで最も美しいと言われるバターリャ修道院を建立し、リスボン市は神への感謝の証としてカルメル修道会の大聖堂の建築を援助した[64]。船具、天球儀など航海に関するモチーフで装飾された建築様式はマヌエル様式と呼ばれ、ガマの功績を記念してリスボン郊外に建立されたジェロニモス修道院ベレンの塔トマール修道院などの建物が挙げられる[92]

14世紀後半から15世紀にかけて、ポルトガル語による散文に特筆すべき作品はほとんど見られない[93]。一方、このポルトガル文学の衰退期に実用的・教訓的内容を含んだ書物の傑作がいくつか現れており、代表作にジョアン1世が著したと考えられている『狩りの書』、ドゥアルテ1世が著した『馬術伝授の書』『国王の相談役』が挙げられる[93]。王朝の創始を正当化する必要性からドゥアルテ1世は史家フェルナン・ロペスにジョアン1世の治世と事跡についての執筆を命じ、事件と人物の自然な描写を残したロペスは近代的かつ科学的な史家と見なされている[94]。アフォンソ5世とジョアン2世の宮廷では伝統的な形式をとる即興的で軽妙な詩が作られ、その成果はガルシア・デ・レゼンデ(1470年? - 1536年)によって『古歌集成』にまとめられている[94]

経済的繁栄とコスモポリタニズムを背景として16世紀前半のポルトガルでは多くの若者がヨーロッパの主要な学術の拠点に留学し、彼らの大部分は帰国した後に自国の文化に大きな影響を与えた[95]。イタリア、フランスで起きたルネサンスの人文主義運動の影響はポルトガルにも及び、ダミアン・デ・ゴイスらによってラテン語の著作が書かれた[96]。同時にポルトガル語を尊重する傾向も強まり、『ポルトガル語文法』(1536年)を著したフェルナン・デ・オリヴェイラ、ポルトガル演劇の父と呼ばれるジル・ヴィセンテ、ポルトガル史の叙事詩『ウズ・ルジアダス』(1572年)で知られるルイス・デ・カモンイスらが活躍した[96]。改宗したユダヤ人である「新キリスト教徒」は金融・経済だけでなく自然科学の分野でも活躍し、インドでの経験を活かした『インド香料薬草論』(1563年)で独自の薬物学を著したガルシア・デ・オルタ、インド領ポルトガル副王ジョアン・デ・カストロや現地の航海者の協力を得て航海学・天文学・数学を発展させたペドロ・ヌネスなどの人物が現れる[73]

アジア、アフリカ、アメリカの探索の中でゴメス・エアネス・デ・ズララの『ギネー踏査征服史』、トメ・ピレスの『東洋諸国史』などの地誌が著され、それらの報告者によって未知の土地の経験知がもたらされた[97]。絵画の分野では、『サン・ヴィセンテの祭壇画』の作者とされるヌーノ・ゴンサルヴェスが知られている。ルネサンスの影響は中等教育と高等教育にも及び、修道院、大聖堂に付設された学校、コレジオ、私立学校の教育課程が刷新される[95]。これらの学校ではヘブライ語ギリシア語が教授されるようになり、ラテン語の教育は古典ラテン語の正確な文法知識に基づいて行われるようになった[95]。一方、スコラ哲学と中世的価値観に則った大学の教授と学生は人文主義の潮流に抵抗を示し、自治権への干渉を試みる国家と争った[98]

1521年に即位したジョアン3世は当初人文主義者を保護する姿勢をとっていたが、治世の後半にはイエズス会と反宗教改革の立場をとる保守的なキリスト教徒の意見を受け入れるようになり、教育機関への経済的援助を打ち切って人文主義者に処罰を与えた[33]。異端審問所の設立と同時期に出版物への検閲が本格化し、1540年から検閲の規則がいくつか公布される[99]。検閲制度による「思想税関」はプロテスタンティズムや新しい思想の流入を未然に阻止し、国内のカトリック信仰の統一の維持に大きな役割を果たした[77]1547年にイタリア、スペインの先例をモデルにした禁書目録が作成され、異端とされた書物、わいせつでふしだらなことが書かれた書物、魔術書、錬金術書が禁書とされた[99]。ポルトガルの作家の作品の多くが「信仰と良俗に反する」ものと見なされて検閲の対象となり、カモンイス、ヴィセンテらの作品は禁書になり、あるいは一部分が削除された[99]1548年に創設されたコインブラ学芸学院はポルトガルの人文主義運動の拠点となっていたが、学院で教授される思想はイエズス会のネオ・スコラ思想の攻撃を受け、教授の一部は異端審問所によって追放される[100]

1555年に人文主義運動の中心地であるコインブラ学芸学院はイエズス会によって運営されるようになり、ジョアン3世から厚い保護を受けたイエズス会は上層階級での影響力を強め、ポルトガル国内の教育を一手に担うようになる[101]1559年に創設されたエヴォラ大学の運営はイエズス会に委任されており、聖職者が教授を務め、学生の大部分は聖職者の卵だった[36]。異端審問所、イエズス会の活動、検閲制度はポルトガルの科学と文化の発展を停滞させ[99][102]、思想の締め付けと同時に地下文学が生み出された[99]

歴代国王

アヴィス家
アヴィス=ベージャ家

系図

コンスタンサ・マヌエル
 
ペドロ1世
ポルトガル王
 
テレサ・ロレンソ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フェルナンド1世
ポルトガル王
 
フィリパ・デ・レンカストレ
 
ジョアン1世
ポルトガル王
 
イネス・ペレス・エステヴェス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ベアトリス
(ポルトガル女王)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アフォンソ1世
ブラガンサ公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
レオノール・デ・アラゴン
 
ドゥアルテ1世
ポルトガル王
 
ベドロ
コインブラ公
 
 
エンリケ航海王子
 
フェルナンド聖王子
 
 
ジョアン
 
イザベル・デ・バルセロス
 
 
 
 
 
フェルナンド1世
ブラガンサ公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アフォンソ5世
ポルトガル王
 
イザベル・デ・コインブラ
 
ペドロ5世
(アラゴン王)
 
フリードリヒ3世
神聖ローマ皇帝
 
レオノール
 
フェルナンド
ヴィゼウ公
 
ベアトリス
 
イザベル
 
フアン2世
カスティーリャ王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジョアン2世
ポルトガル王
 
レオノール・デ・ヴィゼウ
 
マクシミリアン1世
神聖ローマ皇帝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フェルナンド2世
アラゴン王
 
イサベル1世
カスティーリャ女王
 
イザベル・デ・ヴィゼウ
 
フェルナンド2世
ブラガンサ公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジョルジェ
コインブラ公
 
アフォンソ
 
 
フィリップ美公
 
フアナ
カスティーリャ女王
 
 
イザベル・デ・アラゴン
 
マヌエル1世
ポルトガル王
 
マリア・デ・アラゴン
 
 
 
 
 
ジャイメ1世
ブラガンサ公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
レオノール・デ・アウストリア
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カタリナ・デ・アウストリア
 
ジョアン3世
ポルトガル王
 
イザベル
 
カルロス1世
スペイン王
神聖ローマ皇帝
 
ベアトリス
 
カルロ3世
サヴォイア公
 
エンリケ1世
ポルトガル王
 
ルイス
ベージャ公
 
ドゥアルテ
ギマランイス公
 
イザベル・デ・ブラガンサ
 
テオドジオ1世
ブラガンサ公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジョアン・マヌエル
 
ジョアナ・デ・アウストリア
 
マリア・マヌエラ
 
フェリペ2世
スペイン王
ポルトガル王
 
マルゲリータ・ダウストリア
 
オッターヴィオ
パルマ公
 
エマヌエーレ・フィリベルト
サヴォイア公
 
アントニオ1世
(ポルトガル王)
 
 
 
 
 
 
カタリナ・デ・ギマランイス
 
ジョアン1世
ブラガンサ公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
セバスティアン1世
ポルトガル王
 
 
 
 
 
 
 
フェリペ3世
スペイン王
ポルトガル王
 
 
 
アレッサンドロ
パルマ公
 
マリア・デ・ギマランイス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
テオドジオ2世
ブラガンサ公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フェリペ4世
スペイン王
ポルトガル王
 
 
 
 
 
ラヌッチョ1世
パルマ公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジョアン4世
ポルトガル王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ブラガンサ王朝
 
凡例

脚注

  1. ^ a b 金七「アビス朝」『スペイン・ポルトガルを知る事典』新訂増補版、11頁
  2. ^ バーミンガム『ポルトガルの歴史』、33頁
  3. ^ マルケス『ポルトガル』1、97-98頁
  4. ^ a b c 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、369頁
  5. ^ a b 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、370頁
  6. ^ 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、370-371頁
  7. ^ a b c d e 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、371頁
  8. ^ 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、372頁
  9. ^ a b バーミンガム『ポルトガルの歴史』、36頁
  10. ^ a b c マルケス『ポルトガル』1、115頁
  11. ^ マルケス『ポルトガル』1、114頁
  12. ^ a b c d 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、378頁
  13. ^ a b c マルケス『ポルトガル』1、116頁
  14. ^ 金七『ポルトガル史』増補版、69頁
  15. ^ 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、377-378頁
  16. ^ a b 金七『ポルトガル史』増補版、74頁
  17. ^ a b c d e 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、379頁
  18. ^ a b c マルケス『ポルトガル』1、117頁
  19. ^ a b 金七『ポルトガル史』増補版、76頁
  20. ^ マルケス『ポルトガル』1、173-174頁
  21. ^ マルケス『ポルトガル』1、174頁
  22. ^ a b 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、381頁
  23. ^ a b c d マルケス『ポルトガル』1、175頁
  24. ^ a b バーミンガム『ポルトガルの歴史』、44頁
  25. ^ 金七『ポルトガル史』増補版、82頁
  26. ^ 金七『ポルトガル史』増補版、79頁
  27. ^ バーミンガム『ポルトガルの歴史』、42-43頁
  28. ^ マルケス『ポルトガル』1、176-177頁
  29. ^ マルケス『ポルトガル』1、178頁
  30. ^ a b c 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、382頁
  31. ^ マルケス『ポルトガル』1、178-179頁
  32. ^ a b c d 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、383頁
  33. ^ a b マルケス『ポルトガル』1、179頁
  34. ^ マルケス『ポルトガル』1、179頁
  35. ^ 安部『波乱万丈のポルトガル史』、135頁
  36. ^ a b c d マルケス『ポルトガル』2、37頁
  37. ^ a b c 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、390頁
  38. ^ a b c マルケス『ポルトガル』2、38頁
  39. ^ 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、390-391頁
  40. ^ 安部『波乱万丈のポルトガル史』、140頁
  41. ^ a b c d マルケス『ポルトガル』2、39頁
  42. ^ マルケス『ポルトガル』2、39-40頁
  43. ^ 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、391頁
  44. ^ バーミンガム『ポルトガルの歴史』、48頁
  45. ^ a b マルケス『ポルトガル』2、40頁
  46. ^ 金七『ポルトガル史』増補版、118頁
  47. ^ 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、392頁
  48. ^ 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、372-373頁
  49. ^ ブールドン『ポルトガル史』、43-44頁
  50. ^ a b 安部『波乱万丈のポルトガル史』、69頁
  51. ^ ブールドン『ポルトガル史』、44頁
  52. ^ a b c d 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、385頁
  53. ^ a b c d 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、386頁
  54. ^ 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、385-386頁
  55. ^ マルケス『ポルトガル』1、176頁
  56. ^ バーミンガム『ポルトガルの歴史』、45頁
  57. ^ 金七『ポルトガル史』増補版、101-102頁
  58. ^ a b c マルケス『ポルトガル』1、150頁
  59. ^ a b 金七『ポルトガル史』増補版、102頁
  60. ^ 金七『ポルトガル史』増補版、110頁
  61. ^ 金七『ポルトガル史』増補版、111頁
  62. ^ 金七『ポルトガル史』増補版、102-103頁
  63. ^ a b c 金七『ポルトガル史』増補版、103頁
  64. ^ a b バーミンガム『ポルトガルの歴史』、34頁
  65. ^ 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、371-372頁
  66. ^ a b マルケス『ポルトガル』1、101頁
  67. ^ 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、378-379頁
  68. ^ バーミンガム『ポルトガルの歴史』、40-41頁
  69. ^ マルケス『ポルトガル』2、24頁
  70. ^ a b バーミンガム『ポルトガルの歴史』、41-42頁
  71. ^ バーミンガム『ポルトガルの歴史』、41頁
  72. ^ バーミンガム『ポルトガルの歴史』、43頁
  73. ^ a b c 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、389頁
  74. ^ バーミンガム『ポルトガルの歴史』、47頁
  75. ^ a b 金七『ポルトガル史』増補版、107頁
  76. ^ a b マルケス『ポルトガル』2、21頁
  77. ^ a b c 金七『ポルトガル史』増補版、109頁
  78. ^ a b c マルケス『ポルトガル』1、100頁
  79. ^ マルケス『ポルトガル』1、100-101頁
  80. ^ マルケス『ポルトガル』1、150-151頁
  81. ^ a b マルケス『ポルトガル』1、145頁
  82. ^ マルケス『ポルトガル』1、146頁
  83. ^ マルケス『ポルトガル』1、147頁
  84. ^ a b 金七『ポルトガル史』増補版、115-116頁
  85. ^ a b バーミンガム『ポルトガルの歴史』、40頁
  86. ^ 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、379,381頁
  87. ^ 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、384頁
  88. ^ 金七『ポルトガル史』増補版、82頁
  89. ^ 金七『ポルトガル史』増補版、113-114頁
  90. ^ バーミンガム『ポルトガルの歴史』、37頁
  91. ^ 金七『ポルトガル史』増補版、114頁
  92. ^ 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、387頁
  93. ^ a b マルケス『ポルトガル』1、103頁
  94. ^ a b マルケス『ポルトガル』1、166頁
  95. ^ a b c マルケス『ポルトガル』1、163頁
  96. ^ a b 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、388頁
  97. ^ 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、388-389頁
  98. ^ マルケス『ポルトガル』1、164-165頁
  99. ^ a b c d e マルケス『ポルトガル』2、30-31頁
  100. ^ 金七『ポルトガル史』増補版、120頁
  101. ^ 金七『ポルトガル史』増補版、109-110,120頁
  102. ^ 金七『ポルトガル史』増補版、121頁

参考文献

  • 安部真穏『波乱万丈のポルトガル史』(泰流選書, 泰流社, 1994年7月)
  • 金七紀男「アビス朝」『スペイン・ポルトガルを知る事典』新訂増補版収録(平凡社, 2001年10月)
  • 金七紀男『ポルトガル史』増補版(彩流社、2003年4月)
  • 合田昌史「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』収録(立石博高編、新版世界各国史、山川出版社、2000年6月)
  • 合田昌史「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』収録(立石博高編、新版世界各国史、山川出版社、2000年6月)
  • デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』(ケンブリッジ版世界各国史, 創土社, 2002年4月)
  • アルベール=アラン・ブールドン『ポルトガル史』(福嶋正徳、広田正敏共訳、文庫クセジュ、白水社、1979年5月)
  • A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス『ポルトガル』1(金七紀男訳、世界の教科書=歴史、ほるぷ出版、1981年11月)
  • A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス『ポルトガル』2(金七紀男訳、世界の教科書=歴史、ほるぷ出版、1981年11月)

関連項目