ポルトガルの歴史

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ポルトガルの歴史は現在のポルトガル共和国の領域で展開した歴史である。古代にはローマ帝国の支配をうけ、中世にはゴート人イスラム勢力の支配を受けた。レコンキスタの進行した、12世紀ポルトガル王国が成立し、13世紀にはほぼ現在の領域が確定した。その後、海外へと植民地を獲得して隆盛を極めたのち、ナポレオン戦争王制は動揺した。近代には共和制に移り、さらに独裁政権、無血クーデターによる民主化と激動の歴史を歩んだ。なお、ポルトガルの海外における発展はポルトガル海上帝国に記す。

歴史[編集]

先史時代[編集]

アルメンドレスのクロムレック

イベリア半島には初期から人類が進出し、ポルトガルの南北にかけて旧石器時代前期の遺跡が多く発見されている[1]。旧石器時代から中石器時代のイベリア半島ではアジール文化ソーヴェテール文化カンピニアン文化タルドノワ文化などの文化が生まれ、同時にアフリカからイベリア半島に移住したカプス人と先住民との混血が進んでスペイン人ポルトガル人と共通する特徴を多く持つ人種が誕生した[2]。石器時代のイベリア半島西部では移住生活が営まれ、突出した勢力を持つ部族は存在していなかった[3]ドウロ川の支流であるコア川ポルトガル語版の流域には、牛、馬、山羊などの線画が書かれた旧石器時代後期の巨石が点在する[4]。紀元前5000年代の新石器時代には定住生活が営まれるようになり、磨製石器土器の製造、農耕が始まり、野生動物の家畜化が進められる[4]。新石器時代に建てられたドルメン(巨石墓)、クロムレック(環状列石)は、ポルトガル各地に残されている[4]

北と東の境界線が比較的緩やかだったポルトガルには移住者が自由に出入りすることができ、彼らによって銅細工、青銅器、鉄器の製造といった新しい技術が持ち込まれ、金細工の発達は豪奢な宝飾品の製造を促した[3]鉄器時代地中海沿岸部やアフリカなどの地域から古代ケルト人などの様々な民族がポルトガルに移住し、こうした移住者はポルトガル文化の成長に寄与した[3]紀元前1000年ごろから北方に住んでいたケルト人は陸路を通ってイベリア半島に移住し、ケルト人と先住民のイベロ族の混血が進んだ結果、ケルト・イベロ(セルティベロ、ケルティベリア)族が現れた[4]。古代ケルト人の文化は音楽、ポルトガル北部に残る家族構成と集落の組織などに痕跡をとどめている[3]

ケルト・イベロ族の子孫とされるルシタニア人英語版は狩猟、農業を営み、彼らが居住するミーニョ川以南からグアディアナ川までの地域はルジタニア(ルシタニア)と呼ばれていた[5]紀元前8世紀ごろを求めるフェニキア人がイベリア半島沿岸部に到来し、それに遅れてギリシア人が植民した[4]。現代のポルトガルの領土に含まれるイベリア半島北部での植民活動はほとんど見られなかったが、ポルトガル南部にはフェニキア人とギリシア人の遺跡が多く残り、アルガルヴェには植民都市が建てられた[6]。遠方から訪れた商人たちはポルトガルに造船技術を伝え、彼らが持ち込んだワインはポルトガル産のビールとともに愛飲されていた[3]。フェニキア人の都市国家ティルスがアッシリアの攻撃によって陥落した後、ティルスが北アフリカに建設した植民都市カルタゴが西地中海のフェニキア人の交易拠点を支配し、イベリア半島の植民都市もカルタゴが継承する[7]

ローマ支配[編集]

初期のローマ時代のイベリア半島の行政区分

ローマとカルタゴの間でポエニ戦争がはじまるとイベリア半島はカルタゴの軍事拠点となった。紀元前201年第二次ポエニ戦争が終結するとカルタゴは海外植民地をすべて喪失し、ローマがイベリア半島の支配権を握った[8]。ローマはすでに属州にしているヒスパニアに続いて、紀元前155年にはイベリア半島奥地への征服戦争であるルシタニア戦争紀元前155年 - 紀元前139年)を展開した。テージョ川とドーロ川の間に住むルシタニア人は族長ヴィリアトゥス英語版の元に集まり、ローマの征服に抵抗する。およそ1世紀にわたってルシタニア人の抵抗は続くが、紀元前19年アウグストゥスが実施したカンタブリア戦争によってドーロ川以北の地域が征服され、イベリア半島は完全にローマの支配下に収まった[9]。アウグストゥスはイベリア半島をバエティカタラコネンシスルシタニアの3つの属州に区画し、後の時代にタラコネンシス西部とルシタニアにまたがった地域にポルトガルが建国される[9]3世紀末にディオクレティアヌスはタラコネンシスを三分割し、新たにカルタギネンシス、ガラエキアが創設された。

ローマの支配下(パックス・ロマーナ)で人種的・文化的に異なるイベリア半島の先住民のローマ化が進展し、共通の言語としてラテン語が使われるようになる[9]。しかし、ローマ文明の影響は都市部に留まり、農村部には定着しなかったと考えられている[10]。やがてポルトガルとスペインのガリシア地方で、俗ラテン語から派生したガリシア・ポルトガル語が話されるようになる[9]

ゲルマン人の進出[編集]

438年から448年にかけてのスエビ王国の拡大

5世紀の初頭には衰退の進んだローマではゲルマン人の反乱が相次ぎ、彼らはローマに侵入してきた。ポルトガル北部に侵入したゲルマン人の一団は、ローマ化したルシタニア人の居住地に隣接した地域で定住生活を開始する[11]。ゲルマン人は通貨制度など様々なローマ人の伝統を取り入れ、5世紀前半にはスエビ族によってブラカラ(ブラガ)を首都とするスエビ王国(ブラガ王国)が建国された[11]411年にイベリア半島北西部に到達したスエビ族はヒスパニア北部のガラエキアを中心に勢力を拡大し、最盛期にはガラエキア、ルシタニア、バエティカ、一部のカルタギネンシスを支配した[12]。スエビ王国は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と同盟関係を結んでいたが、やがて西ゴート族西ゴート王国に併合される。456年にブラカラは西ゴート族に支配され、翌457年にスエビ族の王レキアリウスが西ゴート人によって殺害される。レキアリウスの死後、マルドラ(マスドラ)王によってポルトガル北部にスエビ王国の新王朝が樹立され、およそ100年の間スエビ王国は命脈を保つ[12]576年ごろから西ゴート王国はスエビ王国の攻撃を開始し、585年にスエビ王国は西ゴート王国によって滅ぼされる[12]

7世紀にポルトガルを支配した西ゴート王国の首都はトレドに置かれており、トレドから離れたポルトガルの司法、経済、文化に及ぼした影響は強いものとはいえなかった[11]。ゲルマン人の統治下ではキリスト教の拡大が推進され、ブラガがポルトガル最高位の司教座に定められた[11]。スエビ王国ではアタナシウス派のキリスト教を信仰する先住民ヒスパノロマーノ人が多数派であり、スエビ族はこれまで信仰していたアリウス派からアタナシウス派に改宗して先住民との融和を図る[13]。スエビ族に勝利した西ゴート族もアタナシウス派に改宗し、王権と教会の間に同盟関係が成立する[13]

イスラム支配とレコンキスタ[編集]

7世紀イスラム教のもとに結束したアラブ人が各地へと征服戦争を展開し始めると、彼らの勢力は北アフリカの西部に達した。711年にイスラーム勢力はジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に進出し、西ゴート王国を滅ぼした。715年までに最北部を除くイベリア半島全域はイスラーム勢力の支配下に入るが、アラブ人と征服活動に従軍していたベルベル人の間で内戦が起きる[14]755年にイベリア半島に上陸したウマイヤ家アブド・アッラフマーンは内乱を鎮定し、翌756年にこの地で後ウマイヤ朝を創始した[14]。以後、後ウマイヤ朝などイスラム勢力の支配が長く続くが、キリスト教勢力は山間部などに小王国を建設し、捲土重来を企図していた。1031年に後ウマイヤ朝が断絶した後、イベリア半島にはタイファと呼ばれる小王国が乱立したため、イスラーム勢力は弱体化する[15]

イベリア半島のイスラーム化の波はポルトガルにも及び、キリスト教徒ユダヤ教徒は信仰を容認されていたが、大部分のポルトガル人はイスラム教に改宗した[16]。イスラーム勢力下の地域では従来どおりラテン語が常用後の地位を保っていたが、植物、道具、度量衡、馬車、馬具に関する専門用語はアラビア語から借用された[17]。ポルトガルの科学と文化の発展には、イスラーム世界の学者が大きな役割を果たしている[17]インド洋を航行するためのイスラーム世界の造船技術は、ポルトガルに入った後に大西洋の航行に適した形に応用された[17]。レンガ舗装、有蓋煙突、タイル張りの壁と言ったイスラーム建築の特徴がポルトガルの建築に導入され、後の時代にはイスラム風の幾何学模様のタイル壁画に代わって、戦争や日常生活を描いたタイル壁画がキリスト教徒の手によって制作される[17]。農業の分野では水を汲み上げる水車の導入によって灌漑技術が発達し、手動の粉砕機に代わる機械が普及した[17]

10世紀頃からレオン王国アストゥリアス王国などがレコンキスタと呼ばれる「国土回復運動」を展開し始めた。868年にアストゥリアス王アルフォンソ3世はドーロ川河口の都市ポルトゥカーレを征服し、ヴィマラ・ペレス英語版にこの地を与える。1064年にはキリスト教国家とイスラーム勢力の係争の地となっていたコインブラがレオン王国に征服され、レオン王フェルナンド1世モサラベのセズナンドにコインブラの支配を委ねた。 ドーロ川とミーニョ川の間に広がるポルトゥカーレ伯領、ドーロ川とモンデゴ川の間に広がるコインブラ伯領が、後のポルトガル王国の中核になる [18]1096年カスティーリャ=レオン連合王国アルフォンソ6世は、娘婿でブルゴーニュ家の騎士アンリ・ド・ブルゴーニュ(エンリケ・デ・ボルゴーニャ)にポルトゥカーレ伯領とコインブラ伯領を併せて与えた[18]。アンリの領土は北部のガリシア地方では領主制が支配的であったのに対して、南部には広く自治権を認められた都市共同体が組織されており、南北の地域格差はポルトガル独立の一因になる[19]

ポルトガル王国の成立[編集]

ドミンゴス・セケイラによって描かれたオーリッケの戦い

1112年にアンリが没した後、ガリシアの有力貴族ペドロ・フロイラス・デ・トラバはガリシアから分断された旧ポルトゥカーレ伯領を取り戻すため、息子のフェルナンド・ペレスをアンリの妻テレサと結婚させようとした[20]。ガリシアの伸張を危惧するポルトゥカーレの貴族、聖職者はアンリの子アフォンソ・エンリケスを旗頭としてテレサに反乱を起こした[20]。1128年6月24日にギマランイス近郊のサン・マメデの戦い英語版でポルトゥカーレ軍はガリシア軍を破り、テレサはガリシアに逃亡した。新たに伯となったアフォンソはイベリア半島南部でのレコンキスタを進めて領土を広げるため、1131年ごろにギマランイスからコインブラに遷都した[20]

1137年にアフォンソはカスティーリャ=レオン皇帝アルフォンソ7世トゥイ条約を締結し、アルフォンソ7世への臣従と引き換えにポルトガル北部の国境を取り決めた[21]1139年オーリッケの戦いムラービト朝に勝利を収めたアフォンソは南部に勢力を広げ、同時にガリシアに侵入してアルフォンソ7世に王位の承認を要求した。1143年に締結されたサモーラ条約によってアフォンソの臣従を条件として王号が認められ、アフォンソ1世を創始者とするブルゴーニュ(ボルゴーニャ)王朝ポルトガル王国が創始された[21]。アフォンソ1世はサヴォイア伯家フランドル伯家と婚姻関係を結び、ローマ教皇への従属を誓って外交関係を構築した。1147年サンタレンを征服し、パレスチナに向かう途上でポルトに寄港した十字軍兵士の支援を受けてリスボンを征服する。1179年に教皇庁によってポルトガル王位が承認される。1211年ナバス・デ・トロサの戦いでキリスト教勢力はムワッヒド朝に勝利し、レコンキスタは急速に進展する[22]

アフォンソ1世の死後、王権の強化を推進する国王とそれに反発する貴族・聖職者の間に対立が起きる[23]1245年サンシュ2世がローマ教皇によって廃位された後、新たに王位に就いたアフォンソ3世はポルトガルの秩序の回復に努めた。1249年にアフォンソ3世はアルガルヴェ東部のファロシルヴェスをイスラーム勢力から奪回し、ポルトガル内のレコンキスタを完了させる[23]1254年にはこれまで貴族と聖職者のみが参加していたコルテス(身分制議会)に平民の代表の参加が認められた。翌1255年、コインブラに代わってリスボンがポルトガル王国の首都機能を持ち始める[23]

ポルトガル王国の盛衰[編集]

レコンキスタ完了後、ポルトガルでは商業や学芸が盛んとなった。リスボン北海地中海を結ぶ交易拠点として栄えた。1290年には、ディニス1世によってコインブラ大学が設立された。

レコンキスタの進展に伴ってドーロ川以北で話されていたガリシア・ポルトガル語がテージョ川以南のルシタニア・ムデハル語と融合し、ガリシア・ポルトガル語から分化したポルトガル語が成立する[24]。ディニス1世による公文書のラテン語からポルトガルへの転換、南フランスで活躍していたトルバドゥール(吟遊詩人)の活動は、ポルトガル語の確立に大きな役割を果たした[24]

14世紀ペストの流行はポルトガルに危機をもたらした。1385年にブルゴーニュ家が断絶すると、ジョアン1世アヴィス王朝を開いた。ジョアン1世は交易に力をいれ、子のエンリケ航海王子北アフリカセウタを占拠させた。エンリケ航海王子はアフリカ航路の開拓に力を入れ、バルトロメウ・ディアスによる喜望峰到達を実現させた。ジョアン2世の時代にはヴァスコ・ダ・ガマによってインド航路が開かれ、カブラルブラジルに到達した。その後香料諸島日本へも進出し、ポルトガルは東方貿易で大いに繁栄した。1559年には、イエズス会によってエヴォラ大学英語版が創設された。イエズス会の影響の下、エヴォラ対抗改革の中心となり、ここで教育を受けた多くの宣教師たちが布教のために世界へ渡って行った。

1600年のヨーロッパ

15世紀後半から王室はカスティーリャ、スペインとの結びつきを強め、血縁関係をより緊密なものにしていた[25]。スペイン文化の影響は宮廷内にとどまらず上流階級に波及し、イベリア半島に存在する国家が統一される可能性が高まっていった[25]。マヌエル1世の治世には、イタリアの都市国家やイギリスなど他国の海外交易に参入する状況下で、貴族たちは王家間の婚姻関係を軸にイベリア半島を統一する方法を模索していた[26]メキシコペルーに銀山を抱え、メキシコ・フィリピン中国を結ぶ航路を開拓したスペインは、交易路の拡大を望むポルトガルの商人にとって魅力的な市場になっていた[27]。ポルトガルとカスティーリャ及びスペインは相互に文化的影響を与え合い、ポルトガル語とスペイン語両方の言語で作品を残した作家が多くいた[28]

セバスティアン1世は未婚のまま没したため、彼の大叔父である枢機卿ドン・エンリケが王位に就くが、ドン・エンリケにも嗣子はいなかった[29]。1580年1月にエンリケ1世は後継者を決定しないまま没し、マヌエル1世の孫たちが王位継承権を主張した。大部分の貴族、知識人、官僚、商人の支持を集めるスペイン王フェリペ2世と、民衆からの人気が高いクラトの修道院長ドン・アントニオが争い、フェリペ2世が派遣したスペイン軍は各地で勝利を収めた。1581年4月にトマールで開催されたコルテスでフェリペ2世はポルトガル国王として承認され、イベリア半島にスペイン王がポルトガル王を兼ねる同君連合が成立した[30]

ハプスブルク家の統治[編集]

フェリペ2世は甥のアルベルト・デ・アウストリアをポルトガル総督に任命し、評議会との合議制を敷いてポルトガルを統治した。フェリペ2世はポルトガルで寛大な統治を実施し、ポルトガルの自治が尊重されただけでなくポルトガル人はスペイン国内でも優遇を受けた[31]。ポルトガルは宮廷の維持費の負担から解放され、スペインとの間にもうけられた国境税関の廃止、新大陸のスペイン領への進出によって商人は大きな恩恵を受ける。この結果ポルトガル経済は回復し、植民の地経営状態も良化する[31]。スペインの首都をリスボンに遷都する計画が立てられ、リスボンとトレドを結ぶテージョ川の運河の建設が始められたが、利権の喪失を恐れるセビリアの反対によって計画は頓挫した[31]1588年に実施されたスペイン艦隊のイギリス遠征にはポルトガル艦船も加わっていたが、同年夏のアルマダの海戦でスペイン艦隊はイギリス艦隊に敗北し、ポルトガルの海運も痛手を受けた[32]

1598年サントメ島プリンシペ島の攻撃を皮切りに海外のポルトガルの支配領域であるアジア、西アフリカ、ブラジルでポルトガルとオランダの抗争が起こり、戦争は1663年のインドのマラバールの陥落まで続いた[32]。オランダの進出によってアジアにおけるポルトガル人の勢力は大きく減退するが、オランダは西アフリカ、ブラジルから退却せざるを得なかった[33]

フェリペ3世の時代から次第にポルトガルの自治は遵守されなくなり、総督、評議会の人員にスペイン人が任命されるようになり、1611年には「借款」という名目の増税が実施される[34]。1610年代から新大陸から輸出される銀の量が減少しただけでなく、スペインにはオランダ、三十年戦争で対立するフランスとの抗争のために多額の戦費がのしかかっていた[35]フェリペ4世の宰相であるオリバーレス伯爵ガスパール・デ・グスマンはカスティーリャの財政負担を和らげるため、スペイン王国を構成するポルトガルとカタルーニャに与えられていた特権を廃し、カスティーリャを中核とする中央集権化を試みた[35]。スペインの抑圧が強くなるに連れて民衆の間にスペイン支配に対する反感と、生存していたセバスティアン1世がポルトガルを解放する救世主信仰(セバスティアニズモ)が湧き上がる[36]1637年にエヴォラで増税に反発した民衆は反乱を起こし、暴動の影響はアレンテージョとアルガルヴェにも及んだ[37]。また、民衆だけでなく貴族層もカスティーリャ中心の政策とコルテスの決議を経ない増税に対して不満を抱いていた[38]

1640年6月にカタルーニャの住民が暴動を起こしてスペインから派遣された副王を殺害し、カタルーニャ自治行政府はフランスと協定を結んでカスティーリャからの反撃に備えた。ポルトガルに生まれつつあった反カスティーリャ運動を事前に阻止するため、オリバーレス伯はポルトガルの貴族にカタルーニャ遠征への従軍を命じた[38]1640年12月に40人の貴族と知識人がリスボンの王宮を襲撃し、副王マルガリーダを逮捕した。国王に推戴されたブラガンサ公ドン・ジョアンはジョアン4世として即位し、ブラガンサ王朝を創始した。ジョアン4世の治世はスペインとの戦争に備えた軍事力の増強、軍費の捻出に費やされた[39]

ポルトガルの近代[編集]

カルロス1世の暗殺
革命の翌年にイギリスに亡命したマヌエル2世

18世紀末から19世紀初頭における、フランス革命及びナポレオン戦争と続くヨーロッパの混乱はポルトガルにも波及した。ナポレオン1世大陸封鎖令に従わないポルトガルにフランス軍を侵攻させ、その結果ポルトガル王室はブラジルリオデジャネイロ遷都した。フランス軍はポルトガル占領に成功したが、イギリスの介入と民族主義の高まりによって内戦が勃発し「半島戦争」が展開された[40]

ナポレオン戦争後、ポルトガルは独立を回復したが、1822年、ポルトガル王太子ドン・ペドロを皇帝ペドロ1世に擁立してブラジル帝国が独立、ポルトガルは最大の植民地を喪失した。一方本土では自由主義民主主義思想が高まりを見せ、1832年から1834年にはポルトガル内戦が勃発した。

1908年2月1日、リスボンのコメルシオ広場カルロス1世と王太子ルイス・フィリペが過激派の共和主義者によって暗殺される。 一命を取りとめたカルロス1世の次男ドン・マヌエルは父の跡を継いでマヌエル2世として王位に就いた。

国政選挙においてリスボンではポルトガル共和党が勝利するが、全国区では依然として王党派が優位に立っており、平和裏に共和制の政権を樹立することが難しい状況にあった[41]1910年10月3日の夜、リスボンで共和主義者の蜂起が発生し、翌日に海軍の急進的な下士官とカルボナリ党員がテージョ川に停泊していた軍艦を制圧し、王宮に砲撃を加える。マヌエル2世は一族を連れてリスボンから脱出してエリセイラに向かい、イギリス領のジブラルタルに亡命した。10月5日にリスボン市民の熱狂的な歓迎を受けた共和党指導部は共和制の樹立を宣言し、ブラガンサ王朝は滅亡を迎える(1910年10月5日革命[41]。共和党の指導部はリスボン市民によるパリ・コミューン成立の再現を不安視し、革命の主力であった急進派を政権から切り捨て、テオフィロ・ブラガを臨時大統領に選出した[41]

サラザールの独裁[編集]

第一次世界大戦では連合国側につき、戦勝国となった。しかし、その後の労働運動の激化や大恐慌により政治・経済が混迷を極める中、1932年経済学者サラザール首相に就任した。サラザール政権は第二次世界大戦では中立を維持し、巧みに戦争の影響を回避する政策を展開した。しかし戦後は、アフリカ植民地における独立運動の弾圧や、国内においてはエスタド・ノヴォと呼ばれる権威主義的独裁体制のもと、秘密警察検閲などによる国民の政治・言論活動の抑圧を行った。これらの行為は、当然のことながら、隣国スペインフランコ独裁などと並んで、国際社会による批判にさらされることともなった。しかし当時は冷戦下にあり、多くの西側諸国は、イベリア半島の「共産化」を怖れるという消極的理由で、結局はこれらの独裁政権を認めていた[42]

民主化と現在[編集]

1968年のサラザールの引退後、カエターノ政権が成立。独裁体制は維持されようとしていたが、1974年4月25日、「カーネーション革命」と呼ばれる青年将校によるクーデターが勃発。カエタノがデ・スピノラ英語版将軍に政権を委譲。デ・スピノラは秘密警察や検閲を廃止する民主化政策を矢継ぎ早に断行し、「20世紀最長の独裁政権」は終わりを告げた。

1975年以降モザンビークアンゴラなどアフリカの植民地が次々に独立。植民地支配を基盤とした「海上帝国」としてのポルトガルの体制は終わりを迎えようとし、「ヨーロッパへの回帰」が進められた。1986年には欧州共同体に加盟。さらに1987年ソアレスシルバ首相による中道左派政権が誕生し、堅調な経済政策を布いた。この年には中華人民共和国との協議でマカオの返還が決定し、1999年にマカオが中国に返還された。

年表[編集]

前史[編集]

ブルゴーニュ王朝時代[編集]

アヴィス王朝時代[編集]

スペイン・ハプスブルク家同君連合時代[編集]

ブラガンサ王朝時代[編集]

第一共和国時代[編集]

サラザール独裁体制時代[編集]

第三共和国時代[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ マルケス『ポルトガル』1、17頁
  2. ^ マルケス『ポルトガル』1、18頁
  3. ^ a b c d e バーミンガム『ポルトガルの歴史』、21-23頁
  4. ^ a b c d e 金七『図説 ポルトガルの歴史』、10頁
  5. ^ 安部『波乱万丈のポルトガル史』、17頁
  6. ^ マルケス『ポルトガル』1、19頁
  7. ^ 玉置「アルタミーラからローマ帝国まで」『スペイン・ポルトガル史』、33頁
  8. ^ 玉置「アルタミーラからローマ帝国まで」『スペイン・ポルトガル史』、34頁
  9. ^ a b c d 金七『図説 ポルトガルの歴史』、11-12頁
  10. ^ 玉置「アルタミーラからローマ帝国まで」『スペイン・ポルトガル史』、40頁
  11. ^ a b c d バーミンガム『ポルトガルの歴史』、27-28頁
  12. ^ a b c マルケス『ポルトガル』1、31-32頁
  13. ^ a b 金七『図説 ポルトガルの歴史』、13頁
  14. ^ a b 金七『図説 ポルトガルの歴史』、14頁
  15. ^ 金七『図説 ポルトガルの歴史』、15頁
  16. ^ バーミンガム『ポルトガルの歴史』、27頁
  17. ^ a b c d e バーミンガム『ポルトガルの歴史』、28頁
  18. ^ a b 金七『ポルトガル史』増補版、44頁
  19. ^ 関「キリスト教諸国家の確立」『スペイン・ポルトガル史』、97頁
  20. ^ a b c 金七『図説 ポルトガルの歴史』、19頁
  21. ^ a b 関「キリスト教諸国家の確立」『スペイン・ポルトガル史』、98頁
  22. ^ 金七『図説 ポルトガルの歴史』、21-22頁
  23. ^ a b c 金七『図説 ポルトガルの歴史』、22頁
  24. ^ a b 金七『図説 ポルトガルの歴史』、28-29頁
  25. ^ a b 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、390頁
  26. ^ バーミンガム『ポルトガルの歴史』、48頁
  27. ^ マルケス『ポルトガル』2、35頁
  28. ^ マルケス『ポルトガル』2、36頁
  29. ^ 金七『ポルトガル史』増補版、117頁
  30. ^ 金七『ポルトガル史』増補版、118頁
  31. ^ a b c 金七『ポルトガル史』増補版、124頁
  32. ^ a b 金七『ポルトガル史』増補版、125頁
  33. ^ 金七『ポルトガル史』増補版、126頁
  34. ^ 金七『ポルトガル史』増補版、126-127頁
  35. ^ a b 金七『ポルトガル史』増補版、127頁
  36. ^ 金七『ポルトガル史』増補版、127-128頁
  37. ^ 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、393頁
  38. ^ a b 金七『ポルトガル史』増補版、128頁
  39. ^ 金七『ポルトガル史』増補版、129頁
  40. ^ 「南欧史」pp.369-371
  41. ^ a b c 金七『図説 ポルトガルの歴史』、97頁
  42. ^ 「南欧史」pp.380-383

参考文献[編集]

  • 安部真穏『波乱万丈のポルトガル史』(泰流選書, 泰流社, 1994年7月)
  • 金七紀男『ポルトガル史』増補版(彩流社、2003年4月)
  • 金七紀男『図説 ポルトガルの歴史』(ふくろうの本, 河出書房新社, 2011年5月)
  • 合田昌史「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』収録(立石博高編、新版世界各国史、山川出版社、2000年6月)
  • 関哲行「キリスト教諸国家の確立」『スペイン・ポルトガル史』収録(立石博高編、新版世界各国史、山川出版社、2000年6月)
  • 玉置さよ子「アルタミーラからローマ帝国まで」『スペイン・ポルトガル史』収録(立石博高編、新版世界各国史、山川出版社、2000年6月)
  • デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』(ケンブリッジ版世界各国史, 創土社, 2002年4月)
  • A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス『ポルトガル』1(金七紀男訳、世界の教科書=歴史、ほるぷ出版、1981年11月)
  • A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス『ポルトガル』2(金七紀男訳、世界の教科書=歴史、ほるぷ出版、1981年11月)
  • 井上幸治編 『南欧史』 山川出版社1977年
  • エドゥアルド・ガレアーノ/大久保光夫訳 『収奪された大地──ラテンアメリカ五百年新評論1986年9月

関連項目[編集]