清水峠
清水峠 | |
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十五里尾根側から見た清水峠。小屋の奥に見えるのは朝日岳の稜線。 | |
所在地 | 群馬県みなかみ町・新潟県南魚沼市 |
座標 | 北緯36度53分40.0秒 東経138度56分51.0秒 / 北緯36.894444度 東経138.947500度座標: 北緯36度53分40.0秒 東経138度56分51.0秒 / 北緯36.894444度 東経138.947500度 |
標高 | 1,448 m |
山系 | 谷川連峰 |
通過路 |
![]() 関越自動車道(関越トンネル) 上越線(清水トンネル・新清水トンネル) 上越新幹線(大清水トンネル) |
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清水峠(しみずとうげ)は、群馬県みなかみ町と新潟県南魚沼市との境(上越国境)にある峠。中央分水嶺を構成する谷川連峰上にあり、標高は1,448 m。志水峠と書かれることもある[1]。
歴史[編集]
清水峠越えの道は、古くは「直越」(すぐごえ)と呼ばれ、山道の区間は長いものの上野国と越後国とを結ぶ最短ルートであることから、遠回りながら標高が低い西側の三国峠とともに、古来よりよく利用されてきた。この道は上野国水上(現・みなかみ町)から越後国清水(現・南魚沼市)までの距離に因んで「十五里尾根」と呼ばれ、また越後の戦国大名・上杉謙信の軍勢が関東への行軍の際に使用したことから「謙信尾根」とも呼ばれ、現在も新潟県側の登山道に名を残している。しかし江戸時代には三国峠越えの三国街道が整備されたことから、江戸幕府は湯檜曽に口留番所を設置して通行を禁じ、江戸時代を通じた200年以上にわたって清水峠はほとんど利用されない期間が続いた。
明治時代に入り関所・番所が廃止されると、清水峠越えの距離の短さが改めて注目され、熊谷県令・河瀬秀治の計画により、民間からの寄付金を財源として新道が作られた。1874年(明治7年)6月に着工し、同年10月に幅1間の新道が竣工した[1]。この工事は残された資料が乏しく詳細は不明であるが、わずか4カ月で作られた道ということで古道の改良と推測されており、この時点では登山道程度のものであった。1877年(明治10年)7月、清水越往還が県道一等に指定された。
1878年(明治11年)、内務卿の大久保利通が提唱した土木7大プロジェクトに唯一の陸路建設として清水越往還が取り上げられ、日本海側の国際貿易港として重要性を増した新潟港へ至る道として、馬車交通が可能な緩勾配・広幅員の道路に改修することが決定した。1881年(明治14年)7月より工事が行われ、1885年(明治18年)8月に幅3間の新道が完成した[1]。この道路は完成前の明治18年2月24日に内務省告示第6号「國道表」で国道8号「東京より新潟港に達する別路線」の指定を受けている[注 1]。開通1カ月後の1885年(明治18年)9月には、内務卿の山縣有朋、司法卿の山田顕義、皇族の北白川宮能久親王らも招いて実際に馬車で通行し[1]、峠上で盛大な開通式が行われた。
しかし、その翌月の10月には長雨のため各所で土砂崩れが発生し、修復する間もなく降雪期を迎えた。日本有数の豪雪地帯である谷川連峰の酷しい気候にさらされた各所で雪崩が発生し、雪解け後にはすでに馬車の通れる状態ではなくなっていた。そのため長期にわたって通行止にせざるを得ず、数年間は全面開通を目指した修復が試みられた[注 2]ものの、ついには放棄された[1]。特に荒廃の激しかった新潟県側では、国道以前に使われていた十五里尾根も荒廃していたため、1890年(明治23年)に新しい登山道の居坪坂(いつぼざか。井坪坂とも表記)が六日町の商人・佐藤良太郎によって私費で整備され、国道はますます使われなくなっていった。1897年(明治30年)頃には既に通行不可能と見なされていた[1]。
1920年(大正9年)4月1日、旧道路法制定に伴い国道8号は府県道前橋新潟線に降格されたが、このころにはほとんど廃道のようになっていた。1959年(昭和34年)に一般県道六日町水上線へ指定され、そして1970年(昭和45年)に新潟県内の県道と合わせて国道291号に再指定されたものの、峠付近の修復・改良は全く行われないまま現在に至る。
1939年(昭和14年)新潟県の中魚沼郡(現在の十日町市)にて信濃川発電所一期工事が完成。首都圏に向けた送電線が清水峠に敷設された[3]。
現状[編集]
国道291号のうち清水峠前後の約27 kmは自動車通行不能区間に指定されている[4]。車道として再開通させようという動きもない。
群馬県側では崩落などが複数の箇所で発生しているものの、一部迂回路・短絡路を利用して清水峠まで徒歩で通行可能であり、道路としての機能は曲がりなりにも維持されている。ただし馬車通行を可能にするため勾配を緩和させる経路を取った結果、国道は著しく遠回りになっており、「新道」と呼ばれる急勾配ながら短距離の登山道が別にあるため、国道の利用者は皆無ではないが少ない。
新潟県側には、国道の他に前述の2本の登山道(十五里尾根、居坪坂)がある。新潟県側でも国道は著しく遠回りになっており、馬車交通が不能となった後は急坂ではあるが距離の短い登山道が専ら利用された結果、居坪坂によってバイパスされた区間である約12 kmが廃道状態になっている。清水側の居坪坂新道分岐から約3.4 kmのうち一部区間は、JR東日本の送電線巡視路として活用されているものの、それ以外は森林化や複数箇所の崩壊により、道路形状や経路すら判然としないほどの状態になっており、途中1か所あったトンネルやいくつかの橋梁も全て埋没・流失している。そのため、法令上はれっきとした国道でありながらも、この区間の踏破は非常に困難であり、ロッククライミングといった高度な技術・経験のない者が立ち入ると遭難事故の危険性が極めて高い[5][注 3]。
2007年(平成19年)、平沼義之がロッククライミング経験者と共に現地調査した際には、13時間かけても廃道状態区間12 kmを踏破できず、清水側から8.9 km地点で進行不能な地形に遭遇し、撤退している[6]。調査の結果、地図表記の年代による揺らぎやミスが明らかになったほか、測量標が発見できなかった[7]。なおその後、清水峠側からスタートして前回の撤退地点までの踏破を行っている。
交通[編集]
鉄道や高速道路は、やはり距離の短さを重視したため清水越往還に近いルートを選び、長大トンネルで通過している。清水峠を越える道路は南魚沼市清水の集落に抜けるが、鉄道や高速道路は山1つ西の湯沢に抜けるようになっている[注 4]。トンネルの名称に「清水」と入っているものもあるが、清水峠の直下ではなく南西に少し離れた谷川岳の近傍を通る。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c d e f 豊田英義、1931、「清水隧道と清水峠」、『地学雑誌』43巻9号、東京地学協会、ISSN 1884-0884、doi:10.5026/jgeography.43.536、NAID 130000985573 pp. 536-538
- ^ ギュスターヴ・グダロー 著、井上裕子 訳『仏蘭西人の駆けある記―横浜から上信越へ』まほろば書房、1987年、210頁。ISBN 978-4943974048。 原著 GOUDAREAU, Gustave (1889). Excursions au Japon. Paris
- ^ 信濃川発電所の一期工事終わる『東京日日新聞』(昭和14年12月3日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p564 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 佐藤健太郎 2014, p. 113.
- ^ “(みちのものがたり)酷道291号/新潟県、群馬県 雪と密林に埋もれた国家事業”. 『朝日新聞』朝刊別刷り. (2017年6月24日)
- ^ 道路レポート 国道291号清水峠 (新潟側) 最終回
- ^ 道路レポート 国道291号清水峠 (新潟側) 第3回
参考文献[編集]
- 佐藤健太郎『ふしぎな国道』講談社〈講談社現代新書〉、2014年。ISBN 978-4-06-288282-8。
- 平沼義之・永冨謙『廃道本』 実業之日本社、2008年 ISBN 978-4-408-03004-3
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 清水峠(1,448m) :: えちご南魚沼いいとこ自慢 - 南魚沼市観光協会
- 道路レポート 国道291号 清水峠 新潟側、その2、隧道探索編 - 平沼義之による廃道状態区間の実地踏査レポート。
- 五万分一地形圖 (スタンフォード大学ライブラリ)- 大正元年測量・昭和6年要部修正測量及同修正縮図(参謀本部)
- NJ-54-35-3 越後湯澤 https://purl.stanford.edu/ht255fy4816