松型駆逐艦
松型(丁型)駆逐艦 | |
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艦級概観 | |
艦種 | 一等駆逐艦 |
艦名 | 草木の名 |
前級 | 島風型駆逐艦 |
次級 | 最終 |
性能諸元 (松型/橘型) | |
排水量 | 基準:1,262/1,350t 公試:1,530/1,580t |
全長 | 100.00m |
全幅 | 9.35m |
吃水 | 3.30/3.40m(平均) |
主缶 | ロ号艦本式缶2基 |
主機 | 艦本式タービン2基2軸 19,000hp |
速力 | 27.8kt |
航続距離 | 18ktで3,500浬 |
燃料 | 重油370t |
乗員 | 211名 |
兵装 | |
椿新造時: (1944年) |
40口径12.7cm連装高角砲 1基 40口径12.7cm単装高角砲 1基 25mm機銃 Ⅱ×4、Ⅰ×12 61cm4連装魚雷発射管 1基4門 (予備魚雷なし) 二式爆雷×36 |
松型駆逐艦(まつがたくちくかん)(書類上の分類は丁型駆逐艦)とは、太平洋戦争中日本海軍が昭和19年より建造した戦時量産型駆逐艦である。神風型駆逐艦(初代)と並ぶ日本海軍最多の建造数(32隻)と最短の建造日数(約5ヶ月)を記録。そして最後に量産化された駆逐艦でもある。
なお、橘以降の艦は、橘型/改松型/改丁型として区別されるが、派生型として本稿にて取り扱う。
概要
日本海軍は、昭和17年のガダルカナル島をめぐる戦いにおいて、輸送作戦(東京急行)への投入や夜戦で多数の駆逐艦を失った。しかし、新鋭艦である「夕雲型」や、当時建造を進めていた「秋月型」では、損耗分を補うほど揃える事ができなかった。そのため、短期間で建造でき、対空・対潜に主眼をおいて、輸送船団の護衛任務や島に駐留する部隊への輸送作戦にも使える艦を建造することとなった。
松型は、その全てが、本来二等駆逐艦(基準排水量1000トン以下)に付けられる樹木の名前が与えられ、その艦名から「雑木林」と揶揄された。
誤解されることが多いが、松型駆逐艦は護衛駆逐艦ではない[1]。若竹型駆逐艦以前、日本は限られた予算の中で充分な量の駆逐艦を揃えるために、最新鋭の技術をもつ高価な一等駆逐艦と堅実で平凡な性能の二等駆逐艦の二本立てのハイ・ロー・ミックスで整備が行われていた。その後、戦略上のニーズにより、大型で航洋性に優れる一等駆逐艦のみが整備され、二等駆逐艦は建造されなくなる。松型は安価で艦隊型駆逐艦として使える最低限の性能をもった、性質的には本来の二等駆逐艦に近い艦であるといえる。
「護衛駆逐艦」に相当する艦種として日本海軍では、海防艦があった。
特徴
機関配置
主機関には、新型機関を開発する手間を省き、鴻型水雷艇のタービンを使用することとなった。通常、日本海軍の艦船の機関配置は、艦首側から見て「ボイラー・タービン・減速機」と言うのが標準的な配置である。しかし本艦は国産化された艦では初めて「シフトエンジン方式」を採用している。これは、右舷側「ボイラー+タービン+減速機」その後ろに左舷側「ボイラー+タービン+減速機」という配置となっており、従来の配置だと、艦のスペースを有効に使える代わりに、どれかにトラブルや被弾すると全てがやられて航行不能になるのに対し、建造の手間はかかるが、右舷側、もしくは左舷側の機関が破壊されても航行でき、艦の生存性が高まることになる(実際に松型では片舷の軸系が生き残り航行不能とならずに済んだ例がある)。この機関配置の方式はアメリカではすでに広く行われつつあり、アメリカ海軍艦艇の強靭さの一因だった。(現代では、軍艦のほとんどがシフトエンジン方式を採用している)
兵装
主砲
従来駆逐艦が採用していた主砲は50口径12.7センチ砲であったが、これを40口径12.7センチ高角砲とした。この砲は、巡洋艦以上に搭載されたものであり、秋月型が装備した65口径10センチ高角砲と比べれば劣るが、従来の「対空射撃もできなくはない」程度の能力しか持たない主砲に比べて、防空能力は格段に向上している。松型はこれを、前部に単装砲1基、後部に連装砲1基の計3門搭載する。
魚雷
艦隊決戦における敵主力艦隊への水雷戦参加を想定されておらず、雷装は従来の駆逐艦に比して軽微なものとなっている。初期案では、61センチ魚雷発射管6連装1基又は4連装2基となっていたが、排水量の増大を嫌って4連装1基に設計変更となる。しかし、これでは打撃力不足とされたため、ほぼ同等の重量になる53センチ6連装に変更。さらに、53センチでは一発あたりの威力に問題有りと前線部隊からの進言があり、最終的には九二式四連装発射管1基が搭載されることとなった。
水測装置
松型は、従来の艦と同じ九三式聴音機と九三式探信儀であったが、橘型では、新型の四式聴音機と三式探信儀を搭載することになる。しかし、大戦末期の日本の電子機器の性能にはムラがあり、聴音機はともかく探信儀の方は評価が低かったと言われる。
船体
松型では急速建造を実現するため日本海軍艦艇の特徴である船体の曲線構造を止め、平面構造になった他、鋼材も艦船用の特殊鋼(DS鋼)ではなく、より重いが調達しやすい高張力鋼(HT鋼)や普通鋼板が使用され、第四艦隊事件以降殆ど取り止められていた溶接も多用(技術的には大幅に改良されている)している。橘型では簡略化がさらに徹底され、船体を普通鋼板のみで建造した他、キャンパを廃止、フレアも直線状とした。艦尾も半円上面型のデストロイヤースターンを廃して角形のトランサムスターンを採用した。改丁型では新たにブロック工法も採用し、当時の日本としては最短約5ヶ月というハイスピードでの建造が可能になった。この経験は後に、海防艦をへて現在の日本の造船技術をささえる工法の確立につながった。
なお、本艦で簡易廉価な直線艦首を採用した結果、皮肉にも、水流性能を追求せんと長年日本海軍が採用してきたダブルカーベチャ艦首は、殆ど効果が無かったことが判明した。
艦載艇
日本の駆逐艦は普通内火艇とカッターを搭載するが、本型艦は陸上部隊への物資輸送のため「小発」と呼ばれる一種の上陸用舟艇を2隻搭載した。「航空母艦」を除いて戦闘艦がそのような艇を搭載することはなく、輸送任務も考慮した本艦の特徴的な装備である。
橘型駆逐艦
仮称第5491号艦(八重桜)からは基本計画番号をF55Bと改め(それまではF55)、工事の簡易化を更に進めた。船体については艦尾を角形のトランサム・スターンに変更、キャンパーを廃止、二重底を単底に変更、ビルジキールを平板とするなど、更に簡易化を進めた。また使用材料もHT鋼から普通鋼に変更し溶接を全面的に採用した。
艤装に関しては22号電探は前マスト中段に搭載するように変更された。13号電探は後マストに竣工時から搭載された。また四式水中聴音機を装備、このため艦首の艦底に直径3mの平らな面が設けられた。水中抵抗の増加による速力の低下が心配されたがほとんど影響は無かった。
前述の通りこれらの変更は「八重桜」から実施されたが、工事の都合で「橘」が1番に竣工、「八重桜」は後に工事中止となった。このためF55Bの艦は「橘型」と呼ばれている。または「改松型」「松型改」「改丁型」などとも呼称される。
回天搭載
1945年(昭和20年)4月になり、海軍の作戦は特攻作戦へと切り替わっていった。これを受け第31戦隊に所属していた松型駆逐艦は同じく第31戦隊所属の秋月型駆逐艦の他、軽巡洋艦「北上」、駆逐艦「波風」などと共に5月20日付けで海上挺身部隊を編成した。松型駆逐艦は艦尾に特攻兵器である回天を1基搭載し、連合国軍の本土上陸作戦に際しては接近した上陸部隊に対し回天で攻撃を行い、次いで魚雷による夜戦を行う計画だった。第41駆逐隊所属の「竹」「槇」「桐」「榧」「蔦」「椎」と第52駆逐隊所属の「杉」「樫」「楓」「楡」「梨」「萩」の各艦は6月以降に呉海軍工廠で工事が行われたようである,[2]。この頃の正確な工事記録が残っておらず、どの艦にいつ工事が行われたか判っていない。戦後撮影された写真を見ると10隻前後に工事が行われている。これらのうち「梨」は1954年(昭和29年)に浮揚作業が行われたが、その写真に回天用の架台が写っている。また『艦艇引渡し調書』には「椎」「榧」に回天搭載設備の記録が残っている[3]。重油燃料が逼迫していたので訓練回数は多くなかった。また7月以降は戦力温存のために「竹」「榧」「槇」「桐」「蔦」の各艦は山口県屋代島に擬装、隠蔽して繋留された。それから1ヶ月余りで終戦となったため、他の艦も含め実戦での使用はなかった。
活躍
1944年(昭和19年)4月28日、1番艦である「松」が竣工、以降松型駆逐艦は順次竣工していった。訓練の済んだ艦から輸送作戦に投入され、8月8日には「松」が失われた。10月のレイテ沖海戦では松型駆逐艦は「桑」、「槇」、「桐」、「杉」の4隻が小沢治三郎中将が率いる空母部隊の護衛として参加した。25日の空襲で「槇」が被弾して小破、「桑」も至近弾で損傷した。なお、「桐」、「杉」の2隻は前日に本隊からはぐれ、燃料不足となり台湾に後退している。その際空襲により「桐」が至近弾で損傷している。
レイテ沖海戦で敗北した日本軍であったがその後もレイテ島に対して増援部隊を送り続けた。この輸送作戦を多号作戦と呼び、松型駆逐艦も第5次作戦から参加した。第5次作戦には「竹」が参加。11月24日輸送艦3隻とマニラを出撃するが、途中空襲により輸送艦2隻が撃沈され、残り1隻の輸送艦と「竹」も損傷したためマニラに引き返している。
第7次作戦にでは「桑」、「竹」が参加した。2隻は輸送艦3隻を護衛して11月30日マニラを出撃した。レイテ島オルモック湾に無事到着して揚陸作業中に「桑」、「竹」は米駆逐艦3隻と戦闘になった。この戦闘で「桑」は撃沈されたが「竹」は雷撃で米駆逐艦「クーパー」を撃沈した。この時も丁型の機関配置が「竹」を行動不能から救った。
第8次作戦には「梅」、「桃」、「杉」が参加した。3隻は駆潜艇2隻と共に船団を護衛して12月5日マニラを出撃した。7日、レイテ東北西部のサンイシドロで揚陸中に空襲を受け「梅」、「杉」は損傷した。なお、「桃」は12月14日マニラ湾で空襲を受けて損傷、台湾へ後退中15日米潜水艦に雷撃され撃沈されている。
第9次作戦では「桐」が駆逐艦2隻、駆潜艇2隻と共に参加した。5隻は12月9日船団を護衛してマニラを出撃、途中空襲により輸送船2隻が被弾航行不能となった。部隊を率いていた沢村成二大佐は部隊を2つにわけ、「桐」は駆逐艦「夕月」、輸送艦2隻とオルモック湾へ向かった。揚陸中2隻の駆逐艦は攻撃してきた米駆逐艦と交戦した。帰投中「桐」は空襲で至近弾を受け損傷した。またこの空襲で「夕月」は航行不能となり「桐」の砲撃により処分された。日本軍は第10次作戦も計画していたがアメリカ軍のミンドロ島侵攻により中止となった。
12月9日「槇」が輸送作戦で空母「隼鷹」を護衛中に被雷損傷した。12月15日アメリカ軍はミンドロ島サンホセ(San Jose)付近に上陸した。日本軍は上陸部隊の撃破を目指して艦隊を出撃させた。この作戦は礼号作戦と呼ばれ参加部隊は重巡洋艦「足柄」、軽巡洋艦「大淀」などであった。松型駆逐艦も「榧」、「杉」、「樫」の3隻が参加した。部隊は12月24日カムラン湾を出撃、途中で駆逐艦「清霜」を失うが作戦は成功した。
1945年1月4日サンジャックから「生田川丸」を護衛してきた「檜」、「樅」はマニラに入港、翌5日2隻はマニラ沖で空襲を受けて「樅」は沈没、「檜」も航行不能となった。応急修理後マニラに戻ることができた「檜」であったが7日再度マニラを出港後米駆逐艦4隻の攻撃により撃沈された。1月31日にはフィリピンの搭乗員救出のため出撃した駆逐艦「汐風」、「梅」、「楓」が台湾南方で空襲を受けて3隻とも損傷。「梅」は航行不能となり「汐風」の砲撃で処分され残る2隻は高雄へ引き返した。
4月の戦艦「大和」以下の沖縄への出撃の際には「榧」、「槇」が駆逐艦「花月」と共に途中まで同行した。
その後は出撃する機会もなく本土周辺で行動していた松型駆逐艦だが機雷や空襲により被害が続出した。5月25日「櫻」が下関沖で触雷、7月11日紀淡海峡近くで再度触雷沈没した。6月5日には「椎」が豊後水道で触雷。6月26日には「榎」が小浜灯台付近で触雷、大破着底した。また6月30日には「楢」が下関沖で触雷した。
「楡」は6月22日瀬戸内海で空襲により中破した。7月14日には「橘」が函館港内で空襲により被爆沈没。「柳」も津軽海峡で被爆、大破した。さらに24日「樺」、「萩」、「椿」は瀬戸内海で空襲により損傷。28日には「梨」が被弾沈没した。
終戦後
終戦時には18隻が航行可能状態で残存していた。それらは戦後復員輸送に使われ、その後各国に戦時賠償艦として引き渡された。中国やソ連は引き渡された艦を自国の海軍に編入して使用した。また、未成艦の一部は防波堤として使われた。
沈没した橘型の一隻「梨」は、引き上げられた後、海上自衛隊の護衛艦「わかば」として再就役した。日本海軍の駆逐艦で、海上自衛隊に使用されたのは本艦のみである。名称を変更したのは平仮名では「なし」=「無し」と誤解を与えるため。
同型艦
括弧内は建造所。舞鶴=舞鶴海軍工廠、横須賀=横須賀海軍工廠、藤永田=藤永田造船所、川崎神戸=川崎重工業神戸工場(艦船工場)。
- 松型
- 松(まつ):1944年4月28日竣工(舞鶴)。同年8月4日父島沖で沈没。
- 竹(たけ):1944年6月16日竣工(横須賀)。終戦時残存。賠償艦としてイギリスへ。
- 梅(うめ):1944年6月28日竣工(藤永田)。1945年1月31日台湾南方で沈没。
- 桃(もも):1944年6月10日竣工(舞鶴)。同年12月15日リンガエン湾西方で沈没。
- 桑(くわ):1944年7月25日竣工(藤永田)。同年12月3日オルモック湾で沈没。
- 桐(きり):1944年8月14日竣工(横須賀)。終戦時残存。賠償艦としてソ連へ。
- 杉(すぎ):1944年8月25日竣工(藤永田)。終戦時残存。賠償艦として中国へ。
- 槇(まき):1944年8月10日竣工(舞鶴)。終戦時残存。賠償艦としてイギリスへ。
- 樅(もみ):1944年9月3日竣工(横須賀)。1945年1月5日マニラ沖で沈没。
- 樫(かし):1944年9月30日竣工(藤永田)。終戦時残存。賠償艦としてアメリカへ。
- 榧(かや):1944年9月30日竣工(舞鶴)。終戦時残存。賠償艦としてソ連へ。
- 楢(なら):1944年11月26日竣工(藤永田)。終戦時艦尾損傷。
- 櫻(さくら):1944年11月25日竣工(横須賀)。1945年7月11日和泉灘で沈没。
- 柳(やなぎ):1945年1月18日竣工(藤永田)。終戦時大破。
- 椿(つばき):1944年11月30日竣工(舞鶴)。終戦時中破。
- 檜(ひのき):1944年9月30日竣工(横須賀)。1945年1月7日マニラ沖で沈没。
- 楓(かえで):1944年10月30日竣工(横須賀)。終戦時残存。賠償艦として中国へ。
- 欅(けやき):1944年12月15日竣工(横須賀)。終戦時残存。賠償艦としてアメリカへ。
- 橘型
- 橘(たちばな):1945年1月20日竣工(横須賀)。同年7月14日函館港内で沈没。
- 柿(かき):1945年3月5日竣工(横須賀)。終戦時残存。賠償艦としてアメリカへ。
- 樺(かば):1945年5月29日竣工(藤永田)。終戦時残存。賠償艦としてアメリカへ。
- 蔦(つた):1945年2月8日竣工(横須賀)。終戦時残存。賠償艦として中国へ。
- 萩(はぎ):1945年3月1日竣工(横須賀)。終戦時残存。賠償艦としてイギリスへ。
- 菫(すみれ):1945年3月26日竣工(横須賀)。終戦時残存。賠償艦としてイギリスへ。
- 楠(くすのき):1945年4月28日竣工(横須賀)。終戦時残存。賠償艦としてイギリスへ。
- 初櫻(はつざくら):1945年5月28日竣工(横須賀)。終戦時残存。賠償艦としてソ連へ。
- 楡(にれ):1945年1月31日竣工(舞鶴)。終戦時中破。
- 梨(なし):1945年3月15日竣工(川崎神戸)。同年7月28日山口県柳井沖で沈没。戦後、浮揚修復され護衛艦わかばとして再就役。
- 椎(しい):1945年3月13日竣工(舞鶴)。終戦時残存。賠償艦としてソ連へ。
- 榎(えのき):1945年3月31日竣工(舞鶴)。同年6月26日小浜灯台沖で大破擱座。
- 雄竹(おだけ):1945年5月15日竣工(舞鶴)。終戦時残存。賠償艦としてアメリカへ。
- 初梅(はつうめ):1945年6月18日竣工(舞鶴)。終戦時残存。賠償艦として中国へ。
- 未成艦
- 八重櫻(やえざくら):1945年3月17日進水(横須賀)。6月23日工事中止。
- 矢竹(やだけ):1945年1月2日起工(横須賀)。4月17日工事中止。
- 葛(くず):1945年3月20日起工(横須賀)。4月17日工事中止。
- 桂(かつら):1945年6月23日進水(藤永田)。同日工事中止。
- 若櫻(わかざくら):1945年1月15日起工(藤永田)。5月11日工事中止。
- 梓(あずさ):1944年12月29日起工(横須賀)。1945年4月17日工事中止。
- 栃(とち):1945年5月28日進水(舞鶴)。5月18日工事中止。(船台を空けるために進水する)
- 菱(ひし):1945年2月10日起工(舞鶴)。4月17日工事中止。
- 榊(さかき):1944年12月29日起工(横須賀)。1945年4月17日工事中止。
- 建造とりやめ
- 早梅(はやうめ)
- 飛梅(とびうめ)
- 藤(ふじ)
- 山桜(やまざくら)
- 葦(あし)
- 篠竹(しのだけ)
- 蓬(よもぎ)
- 葵(あおい)
- 白梅(しらうめ)
- 菊(きく)
- 柏(かしわ)
- 黄菊(きぎく)
- 初菊(はつぎく)
- 茜(あかね)
- 白菊(しらぎく)
- 千草(ちぐさ)
- 若草(わかくさ)
- 夏草(なつくさ)
- 秋草(あきくさ)
- 薄(すすき)
- 野菊(のぎく)
- 4821号艦
- 4822号艦
- 4823号艦
- 4824号艦
- 4825号艦
- 4826号艦
- 4827号艦
- 4828号艦
- 4829号艦
- 4830号艦
- 4831号艦
- 4832号艦
脚注
- ^ 福井、2009、P180「松型は戦時急造艦とはいいながら、やはり艦隊駆逐艦だから魚雷発射管も備えていた。」
- ^ 中川寛之「第三十一戦隊と丁型駆逐艦部隊全史」『松型駆逐艦』p157。
- ^ 遠藤昭「丁型、改丁型メモランダム」『松型駆逐艦』p107。
参考文献
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。 ISBN 4-7698-0386-9
- 福井静夫『日本駆逐艦物語』(新装版)光人社、2009年
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第11巻 駆逐艦Ⅱ』光人社、1990年。 ISBN 4-7698-0461-X
- 「歴史群像」編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.43 松型駆逐艦』学習研究社、2003年。 ISBN 4-05-603251-3
- 「歴史群像」編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.62 帝国の艦船』学習研究社、2008年。 ISBN 4-05-605008-0