曙ブレーキ工業

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曙ブレーキ工業株式会社
Akebono Brake Industry Company, Limited
Akebono Brake company logo.svg
Akebono Brake Industry Head Office.JPG
曙ブレーキ工業本社
種類 株式会社
市場情報
略称 akebono・アケボノ
ブレーキ(銘柄略称[1]
本社所在地 日本の旗 日本
348-8508
埼玉県羽生市東五丁目4番71号
本店所在地 103-8534
グローバル本社
東京都中央区日本橋小網町19番5号
設立 1936年1月25日
業種 輸送用機器
法人番号 8010001034724
事業内容 自動車部品製造
代表者 代表取締役社長 信元久隆
資本金 199億39百万円
売上高 単体80,454百万円、連結266,099百万円
(2017年3月期)
営業利益 連結4,223百万円
(2017年3月期)
純利益 連結354百万円
(2017年3月期)
純資産 単体24,537百万円、連結29,380百万円
(2017年3月期)
総資産 単体140,156百万円、連結201,790百万円
(2017年3月31日現在)
従業員数 連結9,457名(2017年3月31日現在)
決算期 3月31日
主要株主 トヨタ自動車株式会社
ボッシュグループ
日産自動車株式会社 他
外部リンク http://www.akebono-brake.com/
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マクラーレン・メルセデスのF1マシン(MP4-22)のブレーキ

曙ブレーキ工業株式会社(あけぼのブレーキこうぎょう、Akebono Brake Industry Company, Limited)は、日本自動車部品メーカーである。

概要[編集]

1929年創業。主に自動車用ブレーキを中心に生産し、トヨタ日産や米GMを中心に各完成車メーカーへの供給を行っている。ブレーキパッドの日本と米国市場のシェアは4割に達する。

2005年に筆頭株主であった米国自動車部品メーカー・デルファイが供給先のGMの経営不振などのあおりを受けて保有株を全てトヨタ自動車に売却し[2]、現在はトヨタが筆頭株主となっている。またドイツの同業大手のロバート・ボッシュとも提携している。

自動車用のみならず、新幹線ブレーキライニングおよびキャリパーなど鉄道車両向けのブレーキも生産している。新幹線の非常用ブレーキは1964年開業以来、提供し続けており、非常に高いシェアを持つ。

akebono」ブランドでモータースポーツへの部品供給も行っており、ホンダが製造するダウンヒルマウンテンバイクRN01」にも同社製の専用ディスクブレーキが搭載されていた(2013年現在市販はされていない)。また、2006年日本GPからF1マクラーレンへもブレーキシステム(キャリパーとマスターシリンダー)を供給している[3]

かつてはtvkの『新車情報』『新車ファイル クルマのツボ』のスポンサーを長年務めていたが、現在は撤退している。

2014年現在の代表取締役社長である信元久隆(のぶもとひさたか、4代目社長信元安貞の実子[4])は同社の5代目の社長で、元宝塚で女優の麻実れいの夫である。

元横綱・曙の取組に限って大相撲の懸賞金を設定していた[要出典]

沿革[編集]

  • 1929年昭和4年) - 曙石綿工業所創設、ウーブンライニング、クラッチフェーシングの製造開始。
  • 1936年(昭和11年) - 曙石綿工業株式会社に改組。
  • 1960年(昭和35年) - 曙ブレーキ工業株式会社に社名変更。
  • 1961年(昭和36年) - 株式を東京証券取引所市場第2部に上場。
  • 1983年(昭和58年) - 株式を東京証券取引所市場第1部に指定。
  • 2019年 (平成31年) - 事業再生実務家協会に事業再生ADRを申請。即日受理された[5][6]

創業者[編集]

創業者の納三治(おさめ・さんじ)は1873年に岡山県裳掛村(現・瀬戸内市)で生まれ、同志社大学卒業後、米国のコーネル大学に学び、帰国後、英国保険組合ロイズの代理店業や横浜のサミュエル商会で紡績機のセールスエンジニアとして働いた[4]。1917年より高田町 (東京府)雑司ヶ谷で毛布や帽子用の毛糸製造工場「曙工場」を経営[7]。「曙」は郷里の港から対岸の小豆島を望む夜明けの美しさから採ったという[8]。自動車の国内普及につれ補修品用部品の需要が高まりつつあったことから、1929年、東京府北豊島郡高田南町(現・東京都豊島区高田)に個人営業の「曙石綿工業所」を創業し、耐熱繊維などを多重織りしたブレーキ摩擦材の生産を始めた[8]満州事変以降軍用の需要が増え、1936年に株式会社に改組[4]。社章には、事業に対する信念「天の時、地の利、人の和」による発展を願い、母校同志社大の校章「三稜」と同じものを許可を得て採用した[4]。戦時体制下軍需用ブレーキの製造が激増したため、大規模工場を建設するなど事業拡大したが、1941年に統制外ルートからの落綿などの購入が国家総動員法違反に該当するとして逮捕され、執行猶予付きの有罪判決を受け、1942年に又木周夫(日本内燃機元社長)に社長の座を譲った[4]。1924年に下落合に建てた邸宅は巨大な西洋館で(1945年焼失)、隣人に佐伯祐三吉田博らがいた。

脚注[編集]

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外部リンク[編集]