旧日本銀行広島支店

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旧日本銀行広島支店
旧日本銀行広島支店 2010.JPG
情報
旧名称 日本銀行広島支店
用途 ギャラリー(暫定)
旧用途 日本銀行の営業所
設計者 長野宇平治・日銀臨時建築部
施工 清水組
建築主 日本銀行
管理運営 広島市
構造形式 鉄骨鉄筋コンクリート構造
敷地面積 1,554m2
延床面積 3,214m2
階数 地上3階地下1階
竣工 1936年8月
所在地 730-0036
広島市中区袋町5番21号
座標 北緯34度23分 東経132度27分
文化財指定 広島市指定重要文化財
指定日 2000年7月25日
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旧日本銀行広島支店(きゅうにっぽんぎんこうひろしましてん)は、広島県広島市中区袋町にある、日本銀行のかつての営業所。

現存する被爆建物の一つであり、広島市指定重要文化財遺構として一般公開されており、芸術文化活動拠点としても利用されている。施設は日銀が所有し、広島市が運営管理している。

概要[編集]

かつて水主町にあった日銀営業所を業務拡大に伴い、1936年(昭和11年)9月にこの地に移転。1992年(平成4年)3月中区基町に移転するまで使用された。

特徴的な渦巻状の柱頭をのせた角柱などギリシャ建築ローマ建築風の古典様式で、広島における昭和初期を代表する建築物の一つ。

日銀支店ということから堅牢に造られていたため、爆心地からわずか380mという近距離であったが被災にも耐えている。広島に現存する被爆建物の中でも抜群に保存状態がよい。

2000年(平成12年)7月、市指定重要文化財に指定、日銀から市へ無償貸与された。国の重要文化財に指定されれば日銀から市に無償譲与されることが決定している。

常時開館しており屋内を見学できる。また広島市民局文化スポーツ部文化振興課に申し込めば入場料の発生しない芸術文化活動会場としても使用できる。

東隣に頼山陽史跡資料館がある。

内部[編集]

いずれも2006年(平成18年)2月現在

1階には、日本銀行時代の案内板が残り(写真A)、受付もそのまま残されている(写真B)。2階には支店長室があり(写真C)、旧支店の建設の記録などが保存されている。また、原爆投下時にガラス片で出来た壁の傷もそのまま残されている(写真D)。3階には2002年(平成14年)より原爆の子の像に捧げられた、折り鶴が展示(写真E)、2006年(平成18年)より2階食堂跡も折り鶴が展示してある[1]。また地階は金庫室になっており当時のまま保存されている(写真F・G)。

略歴[編集]

画像外部リンク
広島県立文書館所有の絵葉書。
日本銀行広島出張所 水主町に置かれた初代の日銀出張所
中区基町にある現在の日銀支店。
  • 1905年(明治38年) - 日本銀行広島出張所を水主町に設置(初代)。
  • 1936年(昭和11年)9月 - 業務の拡大に伴い、袋町に新築移転(2代目、本項で述べる)。
  • 1945年(昭和20年)8月6日 - 原爆被災。倒壊を免れる。
  • 1945年(昭和20年)8月8日 - 業務再開。
  • 1946年(昭和21年)12月 - 営業所の復旧工事完成。
  • 1966年(昭和41年)8月 - 敷地内に職員慰霊碑が造られる。
  • 1970年(昭和45年)3月 - 北側に金庫棟新築。
  • 1992年(平成4年)3月 - 支店を中区基町に移転(3代目)、この旧広島支店は空家となった。
  • 1994年(平成6年)2月 - 「旧日本銀行広島支店」として被爆建物台帳に登録。
  • 1996年(平成8年) - 日銀が市への売却方針を表明。それを受け、市は被爆建物のみ保存する考えを表明。
  • 1997年(平成9年)6月 - 日銀が金庫棟撤去。
  • 1999年(平成11年)9月 - 日銀が旧金庫棟敷地を民間企業に売却。
  • 2000年(平成12年)7月25日 - 市が指定重要有形文化財に指定。
  • 2000年(平成12年)7月31日 - 日銀から市へ無償貸与。同時に国の重要文化財に指定された場合には無償贈与する方針を決定。
  • 2001年(平成13年)3月5日 - 暫定的活用を開始。
  • 2005年(平成17年)8月1日 - 常時開館開始。
  • 2009年(平成21年)4月1日 - 工事のため、一時閉館。
  • 2010年(平成22年)4月1日 - 再開館。

歴史[編集]

東から西方向を撮影。写真中心からやや左上の白色の3階建ての建物が当銀行。
西から東方向を撮影。左上部分に袋町国民学校、その向こうに山陽記念館、その向こうに当銀行が見える。
被爆後の広島市中心部の写真。
1946年春三村明が撮影した米軍映画撮影隊による物理的被害状況映像。
北側から(2005年)
南側から(2008年)
2009年までの旧日銀支店外観。当時は入り口北側に仮設スロープを設置していた。

原爆被災[編集]

1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下により被爆。建物は爆心地から約380mに位置していた[2]

被害状況

門扉・窓枠・ガラス戸などはすべて吹き飛ばされた。中央部の吹き抜けのガラス屋根も大破したが、建物自体はその堅牢性から天井は落ちず倒壊を免れた。ちなみに、東隣の山陽記念館(現頼山陽史跡資料館)はこの建物が盾となったため全壊を免れている。

1階と2階はよろい戸を閉じていたため地下金庫室とともに内部損傷は免れたが、3階は窓を開けていたため全焼[2]。2階の一部にも発生したが消火された。

一方、行員のほぼ全員が店内や出勤途上や自宅等で被爆した。なかには負傷者の看護や再開した銀行での勤務にあたるうち、放射能の影響で亡くなったものもいる。店内にいた行員はほとんど1・2階で作業していたが、大蔵省広島財務局が間借りしていた3階では、勤務中だった16名の局員の大半が死亡した。他にも用務員などに犠牲があった。

結果、支店業務についていた職員37人、入隊中の職員5人、財務局員12人が被爆により亡くなった[3]

復旧・業務再開

被爆当日は食堂などが負傷者の収容所となる一方で、6日夜半から7日にかけ軍隊や近郊の警防団の手伝いもあり片付けを終え、日銀岡山支店の応援もあり8日には業務を再開した[2][3]

また、被災して営業が不可能となった市内金融機関のために、窓口を12区分し仮営業所を設置し支払い業務を開始[3]、復旧に伴い仮営業所は順次除かれ1946年(昭和21年)春には全撤去された。 翌1946年(昭和21年)12月に支店の復旧工事が完成した。

1966年(昭和41年)8月、敷地内に職員慰霊碑が造られた。1992年(平成4年)3月の移転と共にその慰霊碑も基町の方へ移設している。

市へ移管[編集]

1996年(平成8年)、日銀が市への売却方針を表明。それを受け、市は「跡地利用構想検討委員会」を立ち上げ日銀と交渉に入る。この中で市は、旧日本銀行広島支店をまず無償貸与してもらいその後に無償譲与してもらう二段階プランと、譲与に対し広島平和記念都市建設法の適用を受けるプランを提示した。日銀は、時価売却が原則と主張してきたが、建設省が平和記念都市建設法の適用について肯定的な見解を示したこともあり、文化財指定を条件に市の提案を受け入れた。

なおこれに関連して1997年(平成9年)には建物を取り壊し再開発する計画を広島商工会議所が建てた[4]が頓挫している。

2000年(平成12年)7月25日、広島市が重要文化財に指定。同月31日、平和記念都市建設法に基づき使用貸借契約(無償貸与)を締結[3]。日銀は、無償貸与期間中は市が維持管理費を全額負担し固定資産税都市計画税免除、同時に国の重要文化財に指定された場合には無償贈与する方針を正式決定した。

その後、市は同年12月から2001年(平成13年)1月まで市民や各種市民団体等からのアイデアや意見を集め、同年2月学識経験者を中心に「旧日本銀行広島支店保存活用方策検討委員会」を設置。浅利慶太安藤忠雄ら著名文化人の提言および委員会からの報告書を受け、市は「建物全体を市民主体の芸術・文化活動発表の場として活用する」ことを決定した。[5]

2001年(平成13年)3月5日、文化財としての公開も兼ねて暫定的活用を開始。2005年(平成17年)8月1日、60年目の節目を迎えるにあたり、常時開館を開始した。常時開館に合わせて、表に木製の仮設スロープの設置を行った。その後、建物の保存および国重文指定を目指し展示方法を変更するため改修工事が決定、2009年(平成21年)4月から一時閉館した。閉館期間中に、表の仮設スロープの撤去、裏に恒久的なスロープの設置及びエレベーター1基の交換などのバリアフリー化、耐震・防火工事などを行い、2010年(平成22年)4月再開館した。[6]

交通[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

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外部リンク[編集]